スポーツ禁止令
競技スポーツが禁止されてから何年が経つだろう。今にして思えば、スポーツなどというものに世界中の人々がなぜあれほどまでに振り回されていたのか、不思議でならない。今はスポーツに熱中する人など皆無だし、それを懐かしがる人もいない。
そもそも、スポーツという行為に疑問を投げかけたのは、精神医学界だった。ほとんどのスポーツは賭博の対象になる。そしてそれから人々は徐々に抜け出せなくなる。ギャンブル依存症患者のできあがりである。ギャンブル依存症の治療のため、世界中で巨額な医療費がかかっている。それだけではない。彼らの多くが失業者となり、それだけ社会での働き手が減り、経済効果にもマイナスだ。ここはひとつ、社会に於けるスポーツの存在そのものを見直すべきなのではないか。
そして研究が始まった。すると様々なスポーツの問題点が浮かび上がってきたのだ。
競技スポーツとは、対戦相手を打ち負かすことを目的とする。子どもの頃からそればかりに囚われていると、他人への思いやりや親切心を欠く人間になってしまう。また、負けた側は当然不快な思いをする。それを繰り返すと、成功体験が乏しいまま大人になってしまい、自尊心を欠くことになってしまう。さらに、競技スポーツの世界では、相手の裏をかいたり、フェイントといった行為が当たり前のように行われている。しかしよくよく考えてみれば、それらの行為は他人を騙すこととなんら変わりない。他人を騙すことなど、世間ではとても褒められた行為ではないだろう。
やがて勝つためには手段を選ばない、という者が現れてくる。それは、征服欲や金銭欲を満たすためであり、非常に自己中心的な考え方だ。その究極がドーピングだろう。ここまできたら、スポーツ選手本人がある種の依存症に罹っているととらえていい。
このような研究結果から導き出された結論は、前代未聞なものだった。
世界精神医学界(WPA)は、人類の健康を守るために競技スポーツの全面禁止を訴えたのである。
真っ先に反対したのはスポーツビジネスにたずさわる人たちだった。スポーツは殺伐としたこの社会の清涼剤であり、不満の捌け口であり、なにより最大級の娯楽である。社会に多いに貢献している、と言うのである。
だが、WPAはそれらの主張をもあっけなく覆した。世間が殺伐としていることにスポーツは一役買っている。なにしろスポーツ自体が争いごとなのだから。また、確かに娯楽的側面があることは否定しないが、これほど健康に害を及ぼす娯楽は他に存在しない。そもそも、娯楽は他にいくらでもあるではないか。
さらにWPAはこうも言った。スポーツビジネスが肥大化することで、富の不均衡、格差社会が助長されている。これはより良い社会とは正反対の動きである。
やがて、世界保険機構や各国の健康促進団体、教育機関などもWPAに賛同するようになっていった。そしてスポーツ禁止の働きかけは世界中に広がり、それが当たり前のような風潮になっていった。
スポーツビジネス界は、かつてのタバコ産業と同じように、反論する場すら奪われ、衰退していった(個人の意見など誰も初めから聞く耳を持たなかった)。やがて各国でスポーツ禁止令が施行されるようになり、プロ・スポーツはもちろん、競技スポーツそのものがこの世から消え去った。今では人々は競技スポーツの害悪をよく理解しており、争いごとなど不快な体験をする機会も極端に減り、皆、静穏で落ち着いた生活を送っている。身体を鍛えたり気分転換をするときは、ジムに通ったり、ランニングを行ったりして、競技スポーツなどには見向きもしない。そして時は流れた。
ある家庭で、ひとりの幼い子どもが、納屋から古いゲームを見つけてきて祖父に見せた。
「おじいちゃん、これ、なあに?」
それを見た祖父は、顔をこわばらせて言った。
「あ、サッカー・ゲームではないか。まだこんな物があったのか。それは汚らわしい物だ。触ってはいかん。すぐに捨てなさい」
だが、子どもはそれを捨てずに、祖父や両親の目を盗んで自室に持ち込んだ。遊び方は簡単だったので、すぐに覚えた。
「なんて面白いんだろう。これのどこが汚らわしいのかな。そうだ、明日これを隣のヒロちゃんに見せてやろう。ふたりで遊んだらもっと面白いぞ。あ、それよりも広場でみんなと一緒にボールを使ってやったらどうだろう。すごく楽しそうだ……」
どの時代でも、良き物を手に入れるのは難しく、悪しき物には簡単に触れることができる。だが、なにが本当に悪しき物なのか、誰にも判断を下すことなどできないのだ。




