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いつか君と...  作者: Saihig
6/7

#6

翌朝は約束通りルガリオは才機を向かいにきて他の兵士が待っている所に連れて行った。

「取りあえずは私の側にいればいい。あっちに着いたら次の指示を出す」

才機を引き連れてルガリオは外で待っている兵士達に向かって激励演説を始めた。

「嘘は使わない。今日は恐らく、とてつもなく辛い戦いになる。相手は異能者だ。その中には特に破壊的な能力を持つ者もいよう。数多くの兵は無事に帰ってこられないだろう。だがそれでも我々は民を守る為にそのテロリストの集団を根絶やしにしなければならない。このまま放って置けばいずれは私達の平和な日々は脅かされる。そうならないようにあなた達勇敢な者に共に戦った欲しい。しかし、悪い便りばかり伝えにきた訳ではない。実は今日の作戦で頼もしい助っ人が加わる。私の隣にいるこの男は強力な能力を持つ異能者。彼は我が軍の先兵となって多くの敵を打ち破ってくれるだろう」

兵士の中から疑問を抱く声ははっきりと聞こえる。

「そのことに不満を持つ者もいるかもしれないが、彼の忠義を私が保証する。諸君達も負けないように力を全て発揮して下さい。今からリベリオンの本拠を打って出る。覚悟はいいか?!」

「おおおお!!」

「ならば総員配置につき、私に続け!」

ルガリオの命令を速やかに実行して兵士達はそれぞれ行くべき場所に移動した。

「いいのか、俺が異能者だって皆にばらして?」と才機が聞いた。

「勘違いするな。確かに私は異能者が気に入らない。人が出来るはずない、いいえ、出来てはいけない事をする危険な存在だから。人間への冒涜で、社会の秩序を乱す。そう思っている兵士も少なからずいるだろう。だが、今日リベリオンを討つのは異能者だからじゃない。危ない連中だからだ。兵士達もそれが分かっているはず。それに今日の戦いで異能者がこっち側にもいる事は彼らにとって心強い」

「俺を盾に出来るから?」

「ずばり言ってそうですね。言っておかないと敵だと勘違いされて後ろから打たれたのではせっかくの盾が台無しだ」

暫くするとメトハインからは歩兵、騎馬隊、そして装甲車何台が次々と繰り出した。先頭を切って進んでいる装甲車の後部に才機とルガリオと六人の兵が乗っている。才機は特に睨まれているような感じはしなかった。才機の事を気にするよりも皆が自分の緊張感と戦っているようだ。特に言葉にする事はないので全員車のエンジンの音だけを聞いてリベリオンのアジトへ赴いた。


一方そのリベリオンのアジトでは、ディンは薪を持っている男に近付いてきた。海が二週間前に見た、新入りを慣れさせるのが役目らしい人だ。

「どうした、困ってそうな顔をして」とディンが言った。

「いやぁ、二週間ぐらい前に新しくきた人がいたんだけど、飯を食べに行けって言ったきり見かけてない。仕事も割り当てていないし、どっかでぐたぐた過ごしているのかな」

「まぁ、何があったか俺達には分からん。まだショックを受けているかもしれない。気持ちの整理が出来たら出てくるだろう」

後ろからラエルの声が聞こえてきた。

「そうだな。自分の毛深い顔をずっと気にして一ヶ月も引きこもった奴もいたよね」

「うるせぇ!」とディンが言い返した。

「ほれ、今日は四羽も捕まえたぞ」とラエルは結び付けた四羽のウサギを男に渡した。

「ご苦労」と男が言った。

「じゃ、それよろしくな」とラエルが去って行った。

「あの野郎···た〜まにはいい仕事するからいい気になって」とディンがぶつぶつ言った。

「ディンもよくやってるよ。気にすんな」

急にディンの頭がぐいっと上がった。

「ん?どうした?」

ディンの頭の中でシェリの声が聞こえた。

《大変だよ!帝国軍が動き出した!恐らくその行き先は今皆がいる所!繰り返す!帝国軍は今そこに向かっている可能性が高い!》

「これ、頼むね。デイミエンの所に行かないと」とディンは薪をその男に押し付けて走って行った。

「え、何だよ、おい!」と男は四羽のウサギと薪を落とさないように頑張ってた。

ディンはその入り組んだトンネルを躊躇なく駆け抜けた。通り過ぎた人達はちょっと彼を目で追うぐらいで、迫ってくる危機について全く知らない。デイミインのいる所に着いたらラエルとアイシスもそこにいた。

「デイミエン!やばいぞ!」とディンが走ってきた。

「分かってる。俺達も聞いた。本当に帝国軍がこっちに向かっているなら最低でも六時間はかかる」とデイミエンが言った。

「どうするんだ?!まだ準備が出来てないんだろう?」

「慌てるな。初めからここが嗅ぎ付けられる恐れはあった。予定より早いかもしれないけど、ここで返り討ちにすれば帝国の軍事力が著しく低下する。そうなればやすやすとメトハインに乗り込む事が出来る。入り口の近くのトンネルにいる人を全員もっと奥の方へ避難させるようにジェイガルに指示した。山の最も奥の部分に辿り着くのにあの鍾乳石が一杯ある凄く広いエリアを通らないといけない。でもそのエリアに行くトンネルは狭くて一度に流れ込める人数は多くて二人。そこで帝国軍を迎え撃つ。攻撃に向いている異能者を集めてそのエリアに待機させて。最も有利に戦える場所だ。敵がいくら攻めて来ても必ずそこで食い止めるんだ」

そこにいる他の三人はデイミエンの指示を遂行しに行ったがアイシスは呼び止められた。

「アイシス、お前は俺と一緒にいて」

「デイミエンは行かないんですか?あなたがいたら皆の力を増幅出来る」とアイシスが聞いた。

「都を占領するのに確かに俺の能力は不可欠。だが、あんな小さなトンネルから出て来る兵士をここにいる全ての異能者で対応すれば俺が出るまでもない。俺達は違う行動に出る」

「違う行動?」

「戦いが始まったら俺達はそこの穴から外に出てお前の力を使って山を下る。そうしたら帝国軍の背後に回って攻撃する。俺が一緒にいればお前は大人数の兵でも軽々と掃討出来る。あいつらが何が起きているか気付く前に終わらせる」


帝国軍がその山に着くと人の気配は全くなかった。こんな何もない所がリベリオンのアジトだととても思えない。装甲車から兵達が出て戦闘隊形に入った。ルガリオは彼らに向かって宣言する。

「これからリベリオンのアジトに突入する。見つけた者を全てすべからく連行すべし。だが、何より自分の命を最優先する。抵抗する者がいた場合、射殺許可が出ています。今朝紹介したこの人は先に敵の領域に入り、我々はその後に続く。それでは、作戦開始。では、よろしくお願いします」と最後の方を才機に向かって言った。

でも才機はもうルガリオが作戦開始と言った時点で既に山の入り口に向かっていた。

「何か防具とかあげなくても大丈夫ですか?」と隣の兵が聞いた。

「ふん。あれは要らないよ」とルガリオが目を細めて向かっていく才機の後ろ姿見ていた。

山の入り口の手前で才機は止まってポケットから小さなボトルを出し、中身を一気に飲み込んだ。

「あれでも戦いの前は緊張するみたいだね」とルハリオが嘲笑った。

才機が山に入って間もなく躊躇った。いきなり道が三つに別れていた。才機は左、真ん中、右、順番に見た。後続の兵士達が追い付くところだったので、才機は左の道に行ってみた。三十秒でそれが何もない行き止まりだと分かった。才機はバツが悪そうに百八十度方向転換して無言で真後ろにいた兵士を見た。

「こ、後退!」とその兵士が命令を出した。

その命令は兵士の列の後ろの方へどんどん遠のきながら何度も叫ばれ、そのうち実際に後退し始めると才機は最初の分かれ道に戻れた。兵士達は他の通路には行かず、そこで待機していた。どうやら、もしどこかに地雷でもあったら、それを才機に踏ませるのが決定されているらしい。今度は右の方に行った。人がいた形跡はなく、本当にここで合ってるかと才機は疑問を感じ始めた。合っているとしても帝国軍がここに来る事を察知して逃げたのでは?突き当たりででかい釜とか食器とか調理に使えるような道具が沢山あった。少なくとも一時は人がいたらしい。一通り見回して戻ろうと思ったら何か丸い物に踏んで危うく転んだ。下を見ると踏んだのは薪。その直ぐ近くにウサギが四羽結び付けていた。二回も外れて戻ると兵士達は相変わらず待っていた。後は真ん中の道のみ。それを辿ると···また分かれ道。才機はいらいらしてきた。兵士達に斥候してくるから一旦そこで待つように言って凄く早いペースであっちこっち歩いて目は必死に何かを探している。そしてある所に出た途端に急に攻撃を受けた。何がなんだか分からなかった。いきなり飛んでくる物が多過ぎって前が見えないぐらい。


デイミエンとアイシスの所に誰かが走ったきた。

「始まった!始まったぞ!」

「よし、ご苦労。他の皆と避難して。アイシス、行くぞ」とデイミエンが言った。

二人は山に穴が空いている所へ行ってデイミエンはアイシスの肩に手を置いた。それからアイシスはしゃがんで氷を生み出した。その氷はジグザグに山を下った。氷の階段を作った。

「でこぼこにしたけど、一応氷ですから、滑らないように気をつけて下さい」とアイシスが忠告した。

デイミエンは足を氷の上に置いて前後に滑らせてみた。

「ここ、結構高いですし、滑り台的なものに出来ないかな。ガードレールありきで」

「え?あぁ、そうですね。少し時間かかりますが作り直します」

「頼む」


幸いに才機の変身は瞬間的なので無事だった。兵士が先に入っていたら即死だったんだろう。でもこうも攻撃を受けていると誰が何処から何で攻撃しているか分からない。騒音を聞き付けてきた兵士達も後ろで才機に対する猛攻撃を見て動揺している。敵にこんな罠を仕掛けられては突破しようがなさそう。しかも助っ人で来た人も何もせずにやられる始末になるみたいだ。攻撃が緩み始めたら今度は全身が石ぽくなっている人が上から才機の頭上に落ちてきて堅そうな拳を才機の頭骨に振り下ろした。才機に膝をつかせるほどの衝撃だった。それから次々に打撃が才機の背中に降り掛かる。最初の一撃にびっくりして、引けを取ったが才機にとっては頭を戸口にぶつけるようなものだった。今背中に受けている連打もそれほど効いていない。他の攻撃が止まったこの隙に目の前の相手を掴んでいの一番に見つけたもう一人の敵に投げつけた。それから直ぐに索敵に入った。そのエリアにいる異能者はまた一斉攻撃を始めたが、才機は既に次のターゲットを見つけて、そっちにまっしぐらに突進した。その人にぶつけて気絶させた。まだ止まらない。才機は何人の敵から攻撃を浴びながら手当り次第にその数を一人一人減らす。そしてようやく、敵の攻撃が止まって誰も視界に入ってこないと思ったら、かん高い音に耳鳴りがした。才機の体から力が一気に抜けた。振り向くと直ぐ後ろに男が才機に向かってひたすらに叫んでいた。才機が思わず四つん這いになって耳を両手で塞いだ。だが、そうしても頭が張り裂けそうな感じは一切好転しなかった。意識がなくなるような気がした。才機には聞こえなかったが、その時銃声が鳴った。耳から血が滴り落ち初めて意識が飛びそうだった時に、才機を苦しめていた音がぱたりと停止し、隣の男が倒れた。それに気付いて才機は逆の方向を見るとラスティがこっちに銃を向けていた。銃口から立ち昇る煙が程なく消えた。

「よし、作戦続行!各自展開し、この山を一掃せよ!」とルガリオは指示を出した。

ラスティも含めて兵士達はばらばらになって色んなトンネルに入って行った。彼がトンネルに消えてゆく前に才機と数秒だけ見つめ合っていた。それは何とも言えない表情だった。「俺を騙してたな」でも「異能者は皆が皆悪い訳じゃないかも」でも考えているかもしれない。才機は未だに痛みから解放されていなくて、正直どっちでもいいと思っていた。その耳鳴りが治まったら、立ち直って周りを見た。倒れていた異能者の中でジェイガルも見覚えのある人もいなかった。どれも情報を聞き出せるような状態ではないので才機は適当にトンネルに入って進んだ。闇雲に歩いていて誰にも会わなかったが、間も無く悲鳴があっちこっちから響いてきた。始まったようだ。もう少し進むと才機が誰かを見つけた。その人は才機を見て逃げたような気がした。そのまま前進して突き当たりで曲がるとその人を追い掛けようと思ったがもういなかた。その人はいなかったけど、違う人がトンネルの末端で横切って角の向こうへ消えた。才機は自分の目を疑った。確か···今見たのは···海だった。恐らく見間違いだと自分に言い聞かせたけど、才機は走ってその人を追い掛けた。どこかで曲がる度にその人の姿を危うく見失っちゃうが、松明の光でほのかに照らされるその横顔を見れば見るほどそれは海だと確信出来た。

「海?!海だよね?!待って!」

そして後四回ぐらい角を曲がると本当に見失った。才機が辿り着いた所は足場の少ない場所だった。壁に沿って進まないと暗くて深そうな小峡谷に落ちそうだ。海を最後に見た時はこっちに来た。でも才機が見回すと誰もいない。その時、いきなり後ろから何がぶつかってきて小峡谷に落ちた。

「やった!やったぞ!」と腕だけが非常識なぐらい大きい男が大いに喜んだ。

「なんて単純の奴だ。これであの女の幻に引っ掛かったのは二回目だ」

もう一人の男が後ろから歩み寄ってそう言った。

腕のでかい男の方は声のした方に向き直った。

「そんなにつらく当たったら可哀相だろう。声まで真似出来ない事を除いて、お前が作る幻覚は本物と区別がつかないから」

「あとは帝国軍を何とかしないと」

普通の体格の男は踵を返して元来た通路の暗闇を見透かそうとしていた。よって、後ろで小峡谷からガラスみたいな手が現れるのに気付かなかった。その手は腕の大きい男の足首を掴んだ。男はそれが誰の手なのか振り返って確かめられる前に大きな叫び声を出して崩れ落ちた。男の足首は真っ赤で見るに痛々しく握り潰されていた。もう一人の男は何事かと振り返ると目に入ったのは地面の上に足首を抱えて蠢いている仲間とその傍らに先ほど小峡谷から這い上がった才機だった。男は後ずさりして背中が後ろの壁にぶつかった。才機は彼の頭を挟んで両手を力強く壁に当てた。その際に才機の手は二センチ程あの石の壁にめり込んだ。

「ここへ来る時はリベリオンの一員を見つけ次第ちょっと痛めつけてやろうと思ったが、さっきの話を聞いて俺は今機嫌がいい」と才機は言うがそれほど良さそうな機嫌ではない。

「俺に機嫌のいいままでい続けて欲しいならその話をもっと詳しく聞かせろ」


デイミエンとアイシスは既に山を降りて、麓の入り口から入った。奥へ進むと膠着状態に陥っている軍隊がいると期待していたが誰一人いなかった。デイミエンの顔に少し不快感が出ていた。狭いトンネルを通って広いエリアに出たらあっちこっちリベリオンの一員が伸されていた。

「どういう事、これは?」とデイミエンは左から右へゆっくり見回した。

「そこ!動くな!皇帝陛下の名においてあなた達を拘束する!」と槍で武装している兵士が違うトンネルから走ってきた。

デイミエンはそれを無視して違う方向に歩き出した。

「止まれ!止まらないと」

兵士が言い終わる前に氷の刃が彼の喉を切り裂いた。兵士は自分の致命傷から流れる血を見て程なく息絶えた。

「これからどうしますか?」とアイシスはデイミエンに追い付いた。

「どうもうこも、見ろよこの部屋。俺達の戦力は何分の一に激減された。こうなったらまだ動ける同志を探しながら帝国軍の兵を一人でも多く倒して、違う場所でまた戦力を蓄える」

「こんな状況でもまだ諦めないんですね」

「諦められるものか。お前もそうだろう、アイシス」

そこでアイシスは追想する。過去の記憶を。


**約一年半前、アイシスはとある町の酒場で勤めていた。かれこれ五年間そこで働いてかなり板についていた。それぞれの手になみなみと注がれたビールジョッキを三つ持ちながら酔っ払いを支える椅子だらけのフロアを掻い潜るのはお手の物。たまに飛んでくる言い寄りを、相手の気を悪くしないように無下に拒否せず華麗にいなす。大抵の客はそれで済むのだが、時折しつこいのが湧いてくる。

空になったビールジョッキをカウンターに戻しに行くアイシスは尻に手が添えるのを感じる。

「ギーさん、何でも言ってるけどここはそういう店じゃないの。手はそのジョッキから外さないでもらえると助かります」

「つれないこと言うなよ、アイシスちゃん。長い付き合いじゃないすか、俺達は」とギーが悪びれることなく赤い酔い顔で甘える。

《こっちとしては長過ぎるんだよ》

「ね、アイシスちゃん、君まだ独身だろう?いい男見つけなくていいのか?」

「あいにく私には寄って来ないんですよ、いい男」

アイシスは最後の言葉を強調した。

「なぁ、この間競馬で遂に当たちまってよ、今度の週末、俺がおしゃれなレストランにでも連れててあげようか。嬉しいだろう?」とギーがまた手を出したがアイシスにかわされた。

「ごめん、予定が入っていて行けそうにないです。仕事に戻るのでギーさんは気をつけて帰って下さいね」

《今直ぐ帰ってくださいね》

声に出した言葉と頭に浮かんだ言葉はそんなに変わらなかったのにその口調は正反対。出来ることなら今ジョッキに注いているビールで口直ししたい。遠回りになってもギーが座っているテーブルを避けて他のお客さんに注文を届ける。それでも彼の視線を感じることはある。殆どの男から見ればアイシスはセクシーの部類に入るだろうから男の視線には慣れているが、ギーの視線はどうも他より不愉快に思える。

どうにか疲れる一日の終わりをまた迎えて店を出る。シフトが終わるのは夜だから外は暗い。でも治安がいい街だし、徒歩十五分で家に帰れる。家路について五分経った頃、後ろから誰かの気配を感じた気がした。振り向くと誰もいない。気のせいか。そうでなくてもこの時間でも人が出歩くのは別に可笑しくはない。現に自分もそうしている。あまり気に掛けず再び帰り道を辿る。しかし、数分後にまた誰かの気配を感じる。何だか後を付けられている気がしてならない。振り返らず歩調だけを速める。幸い家はもうすぐだ。家に着くと速やかに入ってドアの鍵を掛ける。窓から外の様子を見るが特に変わった様子はない。一人暮らしのこういう時だけは心細い。取りあえずは蝋燭ランタンに火を灯して寝室に持って行く。夕食は仕事場で済ませるから家に帰ると大抵は次の日に備えて寝るだけだ。アイシスは簡素な白いネグリジェに着替えてから蝋燭の火を吹き消してベッドの毛布にくるまった。今日の嫌なことを全部忘れようと目を閉じて眠りの誘いを持った。


翌日。シフトは残すところ一時間だけど珍しくギーは来ていない。アイシスにとっては願ってもないことで余計なストレスが溜まらずに済む。明日からは週末だし、これで三日連続であの人の顔は見なくてよくなった。週末と言えばアイシスが決まって家事をこなす時だ。土曜日に起きて家の中の埃を人通り払うと次は洗濯物。今日は洗濯日和で直ぐに乾きそうだ。先ずは仕事で使っているディアンドルを集めて外に用意した木製洗濯桶で洗う。服はそんなに沢山持っていないので普段着としても使っているけど。それが終わったら次はベッドのシーツと枕カバー。洗濯桶の前にしゃがんでシーツをゴシゴシ洗う。満足がいって物干し棒に掛けようとした時だった。

「お、アイシスちゃんじゃねか!」

その声を聞くと本能的に歯を食いしばる。そして振り返ると恐れたことを確認出来た。

「な、なんでここが···」

「いや〜、たまたまここを通っていてね、中々美人がいるなと思ったらよく見たらアイシスちゃんだった」と屈んで低い柵に両腕を乗せていたギーが微笑んでいた。

「でもー、今日は予定が入ってるって言わなかったっけ?」

「見ての通り忙しいでしょう?」

「そんなのいつも出来るじゃん。こんないい天気の日だ。どこかに出かけなきゃ損だぜ?」

「こういう日だからこそ色んな掃除と洗濯を済ませたいのよ。悪いけど他を当たって下さい」

「何だよ、アイシスちゃんは俺が嫌いか?」

《聞く必要ある、それ?》

「仕事とプライベートを混同したくないの。他に用がないならそろそろ家事に戻りたいんだけど」

ギーの笑みは一瞬消えたけど、また直ぐに作り直した。

「わかった、わかった。今日は俺の負けだ。あんまり強引なのもあれだしね。じゃ、また店で」

ギーは手を振りながら帰って行った。視界からいなくなるとアイシスは吐息を漏らした。シーツをもう一度掛けようとしたが、手で持っていた部分はいつの間にかガチガチに凍っていて半分に畳まれた形で固定されていた。氷を溶かせる為にシーツを洗濯桶に戻し、余分な水を絞り出してから物干し棒に掛けた。


翌週、仕事に行くといつものようにギーがそこにいた。そのしつこさは相変わらずで、高じたわけでも和らいだわけでもない。いつも通りだ。取りあえずはまた家に現れなければそれぐらいは我慢出来る。仕事場のみならず休みの日にまでこの人を相手にしないといけないなんてたまったものではない。金曜日は寝る前にギーが次の日に来ないよう祈ったが、神が願いを聞き入れたのか偶然なのか、翌日は雨が降った。但し、これでは洗濯物が出来ない。明日が晴れば明日出来るけど、今日は家の中を軽く掃除して刺繍と読書に興じる。その本の圧巻なるところに進むと閉じることが出来ず、極め付けはベッドで読みながら取っておいたナッチシナモンクッキーを食べる。ついつい徹夜で読破した。お陰で目が覚めたらもう昼過ぎだった。今日はお天道様は機嫌が良く、昨日やり損なった洗濯物を片付けそうだ。そうとなれば、早速服を集めて園庭の芝生へ持って行く。洗濯板にドレスを擦り合わせて泡が増殖して行く。

「アイシスちゃん、こんにちは〜」

その声は背筋に寒気を走らせた。首だけ回して振り向くと、またギーが柵の反対側にいる。その顔を見ると明らかに飲んでいた。

「もうこんな時間から飲んでいますか。爛れた生活は健康に良くないですよ」

決してギーの健康を気にしているわけではないが、アイシスの口調からすればそれは普通に分かることだ。

「だって〜、幾ら待ってもアイシスちゃん出てこないから」

「···うちを見張っていたのか」とアイシスがもう一度首だけ動かして振り向くとその目に映る嫌悪感が剥き出しになっていた。

ギーは自分の失言に気付いて少し慌てて取り繕おうとする。

「あ、いや、その···今朝ここを通ったらいないなって気付いてよ。挨拶しよと思ったが、まだ寝てるかなって思って一杯飲みに行った。休日だし」

アイシスは洗濯物に再び取り掛かった。適当でいいからさっさと終わらせて速く家の中にも戻ることにした。

「頑張ってるな〜。いい嫁になるよ、アイシスちゃんは。こんな小さな家で一人で暮らして寂しくないのか?」

アイシスは答えなかった。

「やっぱ大変だろう、女一人で。家に男がいると色々と便利だぜ?」

だがアイシスは反応せず素早く残り一着に手を付けて水に突っ込む。もう石鹸すら使っていない。

「どれ、手伝ってあげよう」とギーが小さな門扉を開いて庭に入った。

ギーは後ろからアイシスに近づき、屈んでその左肩に自分の手を乗せた。ギーの手を感じるとアイシンはビクッとした。ギーが門扉を開けて近づいてくるのを聞こえたから驚いたわけではない。ただその感触があまりも不快だったので体が勝手に拒否反応を示した。一方ではギーはひっくり返るほど驚き、その唖然とした表情は中々顔から消えない。なぜなら肩を触られたらアイシスの体は他にも勝手な反応をして、手を浸けていた水が一瞬で凍った。

ギーはぽかんと空いている口から言葉を発するのに少し苦労していたが、間も無く声を見つけた。

「お、お前がやったのか?」

アイシスはまるで象のようで身動き一つしなかった。

「異能者だったのか?」

ギーは尻もちをついたままゆっくり後退し、少し距離を取ると脇目も振らずに逃げた。アイソスは洗濯物を放置して家の中に逃げ込んで食卓に座る。椅子で少し屈んで両手で自分を抱きしめた。ばれた。とうとうばれた。どうしよう。ギーは誰かに言うの?少し酔っていたし、彼の見違いだと言って誤魔化せるの?そう思うとアイシスは外へ走って証拠となる洗濯桶を回収して家の中に持ち込んだ。洗いかけのドレスの半分が氷に取り込まれて抜け出せない。氷を直ぐに溶かす方法を必死に考えようするが、何も思い付かないとクローゼットに隠した。それから椅子に戻って膝の上に手を組んだ。そうやって一時間ぐらい待ったけど、特に何も起こらなかった。もしかしてギーは誰にも言わなかった?こっちに気があるから黙ってくれるのか?窓の外を見るといつもの変わり映えしない風景しか見られず、ちょうど窓の前を通り掛かった男と目が合って帽子を軽く持ち上げられまでされた。だがアイシスは一向にも安心しない。椅子に戻ってさっきと同じ姿勢で静かに待つ。

夕方が迫り、明日は仕事に行きたくないと考え始める。アイシスはおどおどして家のドアを開けて外の様子を見る。近所に同じ店で働く子がいて、調子が悪いので今週は出られないかもしれないと店長に伝えるように頼みに行った。確かに顔色が悪いわねと言われて笑えなかった。


翌日。昨夜はよく寝れず目にクマが少し出来ていた。一日中外に出ないで家でひっそり過ごした。やけに長く感じた一日だったが、何事も無くその日の残り僅かの時間を時計の秒針が数えるのを見届けた。

朝十時ぐらいに起きてアイシスが思った。自分がどうなるのかずっと気が気じゃなかったが、もしかして杞憂だったのか。ギーが酔っていたから酔っ払いの戯言だと鼻であしらわれた?それとも本人は酒が見せた幻覚だと思い込んだのか?どうなったのか分からないが、今日は仕事に行っていいのかな。そう思うと一昨日干した服がそのまま吹きさらしになっていることに気付く。外に出て洗濯物を物干し棒から降ろして取り入れる。すっかり乾いたその服を寝室に持って行ってクローゼットにしまい終えると、クローゼットに隠しておいた洗濯桶に目が行く。氷はもう完全に水に戻っていて、抜け出せなかった服がそれに浸かっている。その服を外に干すべくアイシスは洗濯桶ごと台所に持って行ったが、台所に足を踏み入れるなり洗濯桶を落として水が床と自分の足にバシャと飛び散る。ドジって落としたのではない。台所の椅子にギーが座っていた。その後ろには閉めたはずのドアが少し開いている。

「な、なんで勝手に入ってるのよ?」

落ち着いた声で堂々と言おうとしたがやはり恐怖の音が混じっている。

「あ、ごめんね。勝手に上がらせてもらって驚かせたね。昨日、アイシスちゃんが店に来なかったから心配でね。様子を見に来たんだ」

ギーは微笑んでいたが、決して暖かい笑みではない。それよりもっと邪悪な印象が伝わる。今は珍しくしらふのようだ。

「この通りなんともないよ。今日は仕事に行くつもりだから出て行ってくれる?準備がしたいので」とアイシスがタオルを取ってこぼした水を拭き始めた。

「そうか?俺を避けているんじゃないかと思った。この間あんな事があったし」

「なんの事かしら」とアイシスが空惚けて水を拭き続けた。

「おいおい、俺達の仲じゃないすか。嘘つかなくていいんだぞ?その水···あの時の水だろう。服がまだ入ったままだし」

アイシスはピタッと動きを止めた。どうやらあの出来事をちゃんと把握しているようだ。

「心配しなくていいよ。誰にも言っていない。言うつもりもない。アイシスの秘密はちゃんと守るよ」

言葉こそ優しいが、どうもアイシスを安心させる効果は全くない。

「だからさ、俺達はもっと仲良くなった方がいいと思う。お互いの事をもっとよく知れば俺は色々と相談になれるだろう?」とギーが椅子から上がってアイシスの方に行く。

アイシスの隣にしゃがんで近くで囁く。

「秘密がばれたらアイシスちゃんがどんな目に遭うか想像したくもない。俺達がもっと親密な関係になればお前を守ってあげられる」とギーはアイススの肩に腕を回した。

「あの、本当に仕事に行く準備しないといけないので」

ギーはアイシスの体を回して自分に向き合わせた。アイシスは抵抗したけど、ギーの手から逃れられない。結局ギーに押し倒された。それぞれの手首がギーの手で押さえつけられている。

「や、やめなさい。やめて!放して!」

「俺が秘密を守ってやってんだぞ!もう少し協力的になってもいいんじゃない?」とギーが膝をアイシスの太ももの間にねじ込んで少し広げた。

アイシスは抜け出そうと必死にあがいたが、男の体重に押し潰されて為す術がない。ギーの左手はアイシスが着ているディアンドルの肩の部分を求めて掴んだ。引き降ろそうとしたがアイシスは自由になった右手で何とか阻止する。

「おい、大人しくしろ!秘密がばれてもいいのか?!」とギーが一気に力を入れてディアンドルの肩の部分を外そうとし、その拍子で服が破れてアイシスの肩が完全に露わになった。

「きゃあああああ!!」

右手を宙に上げて開く。その中に鋭い氷の刃が三秒で生成されていく。それを掴んでギーの肩に突っ込んだ。氷の刃はギーの肩を普通のナイフみたいに簡単に貫いて深く差し込まれる。

「がああああああ!!」

ギーは大声で叫んでアイシスの上からどいて尻もちをついた。血を流す左肩から突き出ている氷の刃を苦痛に満ちた目で見ながら震える右手をその冷たい凶器に伸ばすものの、実際に触れるのを憚れる。アイシスは立ち上がってもう一本の氷の刃を出現させ、それをギーに向けた。

「出て行け!今すぐ出て行け!」

「ば、化け物が!」とギーが言い捨てて、刃が肩に刺さったまま家から飛び出した。

乱れ髪に視界を一部遮られ、アイスムは荒い息遣いでギーが出て行ったドアをじっと見る。力んだ体から力が抜き始めると氷の刃はゆっくりと手から滑り落ちる。アイシスはドスンと椅子に座る。両手をだらんと垂らして目は我ここにあらずという感じだ。もう終わった。こうなったら人生は狂うしかない。何分そこで座って何もないテーブルを見つめたか分からない。その内床がまだ濡れていることに気付き、何となく水を拭き取る作業を再開した。ちょうど終わる頃にざわめきが聞こえてくる。外に人が集めているようだ。

「そこにいるのは分かっている!出てこい異能者!出ないなら引きずり出すまでだ!」

知らない声だ。アイシスはドアを開けると前庭に三人の男がいる。その内の一人はギーで、肩に包帯が巻かれている。柵の外に二十人ぐらいの群衆が出来ていた。

「お前だな、この人を襲ったのは!お前みたいな危険な異能者にこの町での居場所はない!出てもらうぞ!」

先ほどの声はこの人のようだ。

「違う!襲われたのは私の方だ!自分の身を守っていただけだ!」

「嘘だ!俺がこの女の秘密を知ったから俺の口を封じようとしたんだ!」

ギーに指差されているアイシスの格好を見れば彼女の言い分に真実がある可能性を否めないはずだが、耳を傾ける者はそこにはいない。

「言い逃れは無駄だ!抵抗するならもっと痛い目に遭うぞ!」とギーの隣にいる最初の男が言った。

今度は群衆の方から野次が飛んできた。

「お前見たいなのが要らない!」

「私の息子も異能者に大怪我させたわ!」

「出て行け!」

「死亡者が出る前に追い出せ!」

前庭にいた三人目の男は家畜でも捕まるように投げ縄でアイシスを捕らえた。アイシスは首を縄に締め付けられ、男が引っ張ると玄関から引きずり出された。

「や、やめて!私は何も悪くない!」

「さっさと来い!」と男がまた縄を引っ張ってアイシスを無理矢理歩かせる。

群衆は二つに分かれてアイシスを誘導する男に道を開けたが二人を囲んでその後をみっちり付ける。しまいには騒ぎに引き付けられて子供まで集まって来て外側から覗き込める人だかりの隙間を探している。男が首に巻いた縄を引っ張る度に首が締め付けられ、息が出来ない。体力を奪われるアイシスは転んで道で横たわっている。

「立たんか!」と男が縄を容赦なく引っ張る。

アイシスはそれ以上耐えられず、手に氷の刃を生成して縄を切った。それから立ち上がってっ狂乱状態で周りの空気を無差別に切り掛かり始めた。

「近付くな!私に近付くな!」

叫ぶアイスガが激しく回るとまだ首に巻いている縄の紐は宙を切る。周りの人が全員数歩引く。

「危ない!離れて!」

「異能者が暴れている!誰か!」

他より度胸のある男が角材を持ってアイシンの背後に忍び寄り、彼女の頭の上に振り下ろした。アイシスは崩れて地面に落ち、頭の天辺から流れる血が横顔をすっと伝った。だが意識を奪うには及ばず、アイシスは氷の刃で上の方へ薙ぎ払って男の手を切った。男は痛みで呻いて角材を落とした。

「大人しくさせろ!」と今度は石が飛んできた。

それに倣って他にも石を投げる者が出てきた。その中にこの間アイシスが店長に自分は休むように伝えるようお願いした子もいた気がする。アイシスは腕で自分の頭を守っていると、群衆をかき分けてアイシスの方に歩いて行く者が現れた。

「おい、危ないぞ!あまり近づくな!」

男はその忠告を無視しアイシスの方へ歩み続ける。

「来るな!殺してやる!全員殺してやる!」

自分の前にしゃがんだ男を目掛けてアイシスは氷の刃を突き刺した。だが男はその手を左手で掴み、刃の先端は喉元のすぐ前に止まった。男はアイシスしか聞き取れない声で喋べり出した。

「素晴らしい力の持ち主ですね。こんな素晴らしいことが出来るってだけでこのクズみたいな連中にここで殺されてもいいのか?君の力はまだこんなものじゃない。君なら彼奴らを止められる。君の本当の気持ちをさらけ出してその想いを能力で表明しろ。俺が力を貸すから」と男がもう片手をアイシスの肩に乗せた。

この時はアイシスがまだ知らなかったが、目の前にいる男は自分が仕える異能者の集団のリーダーになる男だ。

アイシスは体の中に感じたことのない感覚が湧き上がるのに気付いた。その抑えられない気持ちでアイシスはハッと息を呑んで頭が後ろの方へ跳ね上がった。アイシスの上空に細い氷の塊がゆっくりと形成され出していく。塊が伸びると先細りし、最終的に見れば危険性が直ぐに伝わる研ぎ澄まされた刃となった。氷の刃がそうやって一個ずつ増えていく。今までは離れたところに氷を出したことはなかった。その事象を見ているアイシスは本当に自分の意思でやっているかどうか今一よく分からなかった。男に触られた時に中から込み上げて来た感覚が勝手にそうさせているのか。それとも···。そう考えている内に氷の刃の出現がどんどん速くなって、その数は刹那に凡そ六十本に達し、膨大な数故に水蒸気が氷に凝華して固まる音が大きく響いた。その音で混乱気味なアイシスは我に返って、空に浮いている凶器の多さを把握した。把握して···これから起こり得る展開について考えた。あの氷の刃を生んだのは自分の意思かどうかともかくとして、止めることは出来たのだろうか。そもそも、止めようと思ったのか。

周りの人は恐怖の目でその光景を見ていた。誰か早くあの魔女を始末しろだの、怒声を聞きながらアイシスもずっと上を見ていたが、今はもうその鋭く光る刃を見ていない。アイシスの目は他に何かを見ているようだげど、それが何なのかは彼女しか知らない。その両目から涙が流れ出る。そして涙が顎を伝って零れ落ちるとその周囲に反響するけたたましくて悲痛な泣き声を上げた。まるでそれを合図に氷の刃が一斉に雨のように群衆の方へ降り掛かった。群衆が散り散りに逃げ出す中、多くの悲鳴が上げられ、そして多くの血も流された。辺りが静かになった頃、アイシスの周りに先まで自分を囲んでいた群衆の半分が倒れていた。体は複数の氷の刃に貫かれ、その殆どが死んでいて、二人か三人は唸り声を出している。残り半分はどこかへ逃げ延びて姿がない。アイシスは依然として上の方を見ている。

「俺と来い。その力は俺達みたいな人の為に使おう」とデイミエンが言ってその場を立ち去る。

アイシスは一回だけ回りを見た。亡骸の海の中にはやけに小さな腕も混ざっていたかもしれないが、アイシスは立ち上がってデイミエンが死体の間を歩くその道を辿る。足元には喉に氷の刃が刺さったギーの体が横たわっていたが、アイシスは気付かない。彼女が見ているのはデイミエンの背中、たったそれのみ。**


「確かに、そうですね。諦められません」とアイシスが苦々しい口調でデイミエンの質問に答えた。

「なら、行くぞ」

アイシスは迷わずにその背中を追った。


才機はさっきの男が親切に教えてくれた指示に従って海が監禁されているはずの場所に向かった。道が別れると毎回右に行けばいいらしい。四回ぐらい右折したら才機は何か見えない力でいきなり空中に押し上げられた。手足を激しく揺り動かしたが下りられない。

「あ!あなたは!」と左から声が聞いた。

そっちに向くと長い間見ていない顔が見えた。交差しているトンネルで一人の少年が壁に手を当てて立っていた。メトハインで才機が庇った少年だ。

「私を覚えていますか?前にメトハインで助けてもらいました」

「あ、ああ、覚えってる」

少年は才機を下ろして駆け付けた。

「なんであんたはここにいる?」と才機が聞いた。

「リベリオンに入ったんです。しかし、あなたもレベリオンの一員だとは知らなかった。あの時は既に入っていましたか?」

「いや···リベリオンの一員じゃない」

「え?じゃなんでここ···」

少年は後ろへ下がった。

「まさか···帝国軍の側に付いてないよね」

才機は何も言わずに少年をただ見ていた。

「否定しないんだ」と少年はいきなりまた才機を空中に浮かせた。

「なんでだ?!なんであっち側に付いてる?!」

「色んな事情があってこうなったんだ。あんたこそなんでこんな連中と一緒につるんでんだ?実家に帰ったんじゃなかった?」と才機が天井に押し付けて何とか足を地面に戻そうとしていた。

「帰ったのさ。でもそこにもいられなかった。メトハインでの出来事を目撃した人の中には私が生まれ育った街の人間もいて、私と顔見知りだった。そのせいで私が異能者だって噂が広がり始めた。それからは毎日のように色んな嫌がらせを耐えなければならなかった。私だけではなく、両親まで脅された。そんな所に住めるはずないだろう!ここだけなんだ、私を受け入れる場所は。ここにいればいつかは私を自分の故郷すらから追い出した奴に目に物見せてやれる!」

才機はため息をついた。

「お互い色々あったみたいだな。俺の話は勘弁してあげる。でもこの先に進めないといけない。通してくれる?あんたと戦いたくない」

「それは出来ない。ここは誰も通すなってジェイガリに任せられた。俺の力はここで認められてるんだ」

《やっぱりいるんだ、ジェイガル》

「じゃ、どうする?ずっと俺をここに浮かせるのか?」

「いや。いずれは私が疲れるからそれは無理。恩義のある人に悪いけどその前に大人しくしてもらう」と少年が才機を勢いよく壁にぶつけさせた。

才機はまだ意識があったようでまた壁にぶつけさせた。意識がなくなるまでそれを繰り返すつもりらしい。才機の方は特にダメージを受けていないが、このままだとずっと身動きが取れない。そこで天井にぶつけられたら手で天井の一部をはぎ取った。作戦はその石の塊を気絶させる程度まで少年に投げつける事。しかし、自分もあっちこっち投げつけられていて狙いが定まらない。でも相手は直ぐにやめる気はなさそうだし、神頼みして少年を目掛けて石を投げ飛ばした。少年は才機からの攻撃を全く予想していなかった為、反応出来なかった。でも石は五十センチほど少年を外した。

「危ない、危ない。壁にぶつけるのをやめにしよう。どの道全然効いてないみたい。この山にはいくつか外に出る穴が空いている。あれを使って山から放り出すしかない見たい。あなたなら命に危険はなさそうだし」

少年は才機を水平に浮かせてから引き摺ってどこかへ連れて行く。そして才機に背中を向けている間、才機はもう一つの手で隠し持っていた瓦礫を持ち上げた。投球するように構えてよく狙った。瓦礫が少年の後頭部に当たった瞬間、才機は急に落下した。立ち直ると才機はうつ伏せになっている少年に近付いた。瓦礫が当たった所を調べたら血は出ていたが少年はまだ生きていた。力の手加減をうまく出来たみたい。六回右に曲がれば海がいる場所に辿り着くという話だったので後少しで会えるはず。その六回目の右折をした直後、才機は大きな半球形の形をした物を見つけた。その中に人がいた。部屋に入るとそれは紛れもなく海だと分かる。寝ているようで才機には気付いていない。才機は今複雑な気分だ。物凄い安心感と憤怒が同時に込み上げる。本当に海と才再会出来るなんて夢みたい。思わず涙が一滴頰を伝った。だが一方では海のその姿は無残だった。彼女は今完全に疲労しているように横たわっていた。寝ているというより失神したような感じだった。服も体も凄く汚れていて、髪の毛がそれ以上なれないぐらいぼさぼさになっていた。心なしか少し痩せていたようだった。海に歩み寄りながら才機は彼女をこんな風にした奴らをぶん殴ってやりたくて仕方がなかった。その時、後ろから声を聞いて才機の足が止まった。

「なるほど、君だったとは。派手に暴れ出してくれたようだね。うちの可愛い若者に容赦なし」

才機の目は左の方を見たけど振り向かなかった。その必要はなかった。今の声は紛うことなきジェイガルの声だった。

「しっかしここまで追ってくるとはね。何?復讐しに来た?それともこの女が生きていると知ったのか?」

ジェイガルは才機のそばを通り過ぎて海の方に歩いて行った。才機は答えなかった。ジェイガルは才機に背を向けたまま海を見た。才機は後ろから攻撃しないと信じているか、そもそも脅威と思っていないのどっちかだ。

「だんまりか。まぁ、いい。あ、起こしてしまったようだ」

海はゆっくり目を開けた。ジェイガルの後ろに才機が立っているのを見て、夢か錯覚ではないかと思った。それでも才機を呼ぼうとしたが声が殆ど出なかった。

「さっき、俺達のリーダーの治療をやってもらったんでまだ回復してないようだ。凄いんですよ、この女の力。君だけ独り占めするなんて利己的だね」

「その為に海を拉致したのか?」と才機が聞いた。

「ずばり言ってそうですね。そしてまだまだ働いてもらわないといけないんだ。今俺達のリーダーから直々に命令を受けてきた。この女を連れ出して新しい場所に移転するようにね。だからまだ君に返す訳にはいかない。でも安心して。こんなに助けてもらっているんだ。もう殺すだなんて言わないよ。むしろ、この子に免じてここは君を見逃してもいいくらいだ。今回だけはね。ここまで来た君の気持ちは分からんでもないが、次に無断で俺達の家に邪魔したら、この間与えられた任務を全うする」と最後の方はジェイガルが大真面目に言った。

「直ぐにだ」

「はい?」

「今直ぐに海を返せ」

才機は沸き上がる怒りを辛うじて押えていたようだ。その顔が影に覆われて表情までは見受けられない。才機の声を聞いて海は少し我に返って頭を上げた。

「あのさ、悪い事は言わない。意地張ってないで引け。いずれはこの子を解放するだろう。君はそれを待てばいいんだから。彼女だって君が死ぬのを見たくないだろうよ」

「海は今直ぐに返してもらう」

ジェイガルは吐息をついて海に話し掛けた。

「聞いただろう?私は彼にチャンスをやったんだから恨むなよ」

ジェイガルは二つの短剣を抜いた。

「この前の事は忘れた訳ではあるまい。君は私に傷付ける事が出来ない。逆に私は幾つかかすり傷を負わせるだけで勝つ。今度は救助してくれる仲間はいないぞ。それでもやる気?」

才機はジェイガルに向かって歩いた。

「あっそ」とジェイガルは才機に突進した。

才機を横を通り過ぎざまに腕に傷を負わせた。才機は足を止めて攻撃をしようともしなかった。

「おい、おい、本当にやる気あるの?もう戦意を失ったのか?」

才機は動かず黙っていた。ジェイガルはその背中を見てヘルメットの中で片方の眉を上げた。

「何もしないならこっちから行くよ」とジェイガルはまた才機に襲い掛かった。

いくら才機の傷を増やしても本人は動かない。でもジェイガルは一応警戒していた。可能な限り距離を置いて浅い傷しか与えなかった。

《一体何を考えている、こいつ?全然掛かってくる気を見せない。まぁ、いい。こんなに隙だらけなら止めを刺すか》

ジェイガルは後ろから接近して力一杯短剣を尖った部分から才機の左肩に突っ込んだ。刃が一センチほど才機のガラスみたいな肌に埋まった。血が刀身を流れてジェイガルの小手に移った。

「終わりだな。これぐらい深けりゃ毒は確実に体を回る」

言って、ジェイガルは油断して刺したばかりの腕に捕まった。才機は今ジェイガルの首をしっかり掴んでいる。短剣がまだ肩に刺しているまま、才機は人形でも扱っているみたいにジェイガルを部屋の真ん中にある半球形の所まで引き摺って、その半球形に彼を激しく叩き付けた。半球形は既に壁に付けられているのでびくともしなかったが、その音で中にいる海がぎょっとした。ジェイガルは才機の手を退かそうとしたが無駄だった。力の差は大き過ぎる。

「勘違いするな。俺はお前とやり合うつまりは毛頭ない。俺は海を取り戻す。そしてそれを邪魔する者を即刻排除するだけだ」

才機の右手は拳になり、後ろへ引いた。そして一直線にジェイガルのバイザーにパンチを一発見舞いした。すさまじい音が山の中で響いた。今の音で海の目がすっかり覚めた。夢じゃなくて、本当に才機が来てくれた。海の顔に笑顔が浮かび始めたが、完成までには至らなかった。才機の顔を見ると全く無表情だった。そんな顔をしながら何度もジェイガルのバイザーを力の限り殴っていた、普段虫を殺すのに躊躇う才機が。何となくその何の感情を見出せない顔は怒った顔よりも怖かった。

「無駄な事を。ちなみにそうやって無駄に動くのを勧めないよ。毒がその分早く体を回るだけだ」とジェイガルは余裕を持って言った。

才機はただくり返し殴り続けた。

「おい、いつまでこれを続ける気?言って置くけど鼓膜がちょっと痛いだけだよ」

もう殴られる度にその威力で半球形の後ろの壁に入ったひびが少しずつ広がっていた。実際にジェイガルに危害を加えていないとは言え、才機があんなに平然な顔で抵抗出来ない相手をそうやって叩きのめしている姿は海を怖がらせていた。海は半球形の後ろへ下がって耳を塞いだ。うるさくて耳がそんなに痛かった訳ではない。ただ、才機が情け容赦なくジェイガルの顔を殴る度に、その音が背筋をぞっとさせた。

「そろそろ疲れない?っていうかよく未だに立っていられる。もう毒でいつ倒れても可笑しくない」

「倒れない。この山に入る前に解毒剤を飲んでおいた」

「なっ?!毒が施されてないのにリゼナフィムの解毒剤飲んだら毒みたいなもんだよ?」

「ああ。正直具合がちょっと悪くなってきてたんだ。今の毒のお陰で中和され始めたのかな」

そう言って才機はまたジェイガルを殴り始めた。今までと違う音が混じっていた。ジェイガリのバイザーにも小さなひびが入ったからだ。

「え?」とジェイガルは耳を疑った。

それから才機がジェイガルのバイザーを殴る度にひびが広くなるのが聞こえた。

「あ、ありえない···嘘だろう?!」とジェイガルが焦ってまた才機の手から逃れようとした。

ひびはジェイガルのヘルメットを全面的に覆うようになった。才機は拳を上げ、渾身の力を入れた。それから極まりなく強力な打撃がジェイガルのバイザーを粉々に砕き、ジェイガルの素顔をさらした。ジェイガルは目をつぶってバイザーの破片を顔から振り落とした。目を開けると才機は最後の一撃を加える体勢になっていた。ブロコニウムを粉砕した拳の前ではジェイガルの頭蓋なんてひとたまりもない。

「そう軽々しく買うもんじゃない、人の恨みは。他人の大事なものに手を出す前によく考える事だ。二度と出来ないようにする」

「ま、待って!」

しかし才機は貸す耳がなかった。彼の拳は無防備なジェイガルの頭に向かって飛んだ。

「やめてーー!」

叫んだのは海だった。

才機の拳はジェイガルの鼻に触れていた。鼻が潰される直前で止まった。いや、実際には潰れいてはいたが、まだ不快感を感じる程度だった。

「もう、やめて!人殺しにはならないで!こんな才機は見たくない!見たくない!彼を放っておいて帰ろう?早く帰りたい」

海は耳を覆い、目をつぶりながら地面に向かって嘆願した。

そう言われながら才機ずっとジェイガルをガン見していた。彼の顔は汗ばんでいて歯を食いしばっていた。やがて才機は拳を降ろした。

「海が入っているこれがまだ壊れていないって事はあれだろう?ブロコニウムで出来ている。もっと柔らかい物に変えろ」

ジェイガルは小手を外して半球形に手を当てた。

見た目は変わらなかったが半球形がジェイガルの重さで容易に凹んだから柔らかくなったみたい。ジェイガルを壁の方へ投げ捨てて才機は海の独房に手を当てた。

「その独善的な態度、へどが出るなぁ」とジェイガルが言った。

手をドームに添えたまま才機の瞳だけがジェイガルの方へ向かって何も返事しなかった。

「人の大事なものは常に奪われている。お前の場合は単に大事なものから引き離されただけ。取り返せるだけましだ。どうあがいたって絶対に取り返せない大事なもののあった人がわんさといるよ!!」とジェイガルが怒鳴って手のひらに爪が食い込むほど拳を強く握った。彼の双眸と声にあらわに出ている憤慨からすれば彼もそのわんさといる人の一人なのだろう。

才機はジェイガルの前へ歩いてしゃがんだ。そして拳を固めて、ジェイガルの顔面に突き付けた。

「な、なんだよ」とジェイガルが言い終えてから才機は人差し指で彼のでこをピシッとはじいた。

人を気絶させるには十分だ。

「聞きたくない」

才機は気を失ったジェイガルをそのままにしてまた半求刑に注意を向けた。

元々伸縮性のある物で出来ているみたいで、才機は破るのをやめ、持ち上げて放り投げた。それが地面に落ちる間もないうちに海は才機に抱き付いてきた。石像を抱き締めているみたいで手触りはそれほど気持ち良くないが離れたくなかった。でも海は目を開けると、才機の肩に刺さっている短剣が目に入った。

「あ、肩が···」と海は一旦離れた。

才機は今まで忘れた短剣をしかめ面で引っこ抜き、傷口から血が流れ出た。今の才機は傷が固定していて、肩に開けた小さな穴が閉じない。ゆっくりけど傷が出血し続けた。

「どうしよう、これじゃ何かで結び付けても殆ど無意味だ」と海が言った。

「まぁ、大した怪我じゃない。もしかしたら、こうすれば···」と才機は生身の体に戻った。

そうしたら傷口を閉じてからまた体を固めた。

「まだ痛いけど、これで血が止まったみたい。それにこんな場所だし、しばらくは体をこのままにしておこう。それよりもお前をここから連れ出して早く帰ろう」と才機が海と肩を組んで二人はその場を後にした。

「さっきはごめん。どうかしていた、俺」と才機は謝った。

「ううん。ありがとう、来てくれて。才機は私が死んだと思っているって聞いた」

「思ってたよ。恥ずかしいが、ここに来る当初の目的はあいつの言う通りだった。復讐」

「恥ずかしくないよ。ずっと閉じ込められた私は大変だったけど、才機も結構大変だっただろう?もし私が才機は死んだと思ってたら、多分正気でいられない」

「でもありがとう、止めてくれて。彼をそのまま殺したらいつかは後悔してたかもしれない」

歩いているうちに急に才機がバランスを崩して、横から壁にぶつかった。肩を組んでいた海も道連れになってびっくりした。

「どうした?大丈夫?」と海が聞いた。

「ちょっと力が抜いただけ。薬剤師には注意されたんだけど、やっぱりあの解毒剤を飲んだ副作用か。何ともない時に飲む物じゃないな」

「さっきの毒で中和されたと言わなかった?」

「まぁ、ね。でもそううまくはいかない。ちょっと楽になったと思ったがまだ安心は出来ないらしい」

「私の方が才機を支えるべきかな。と言っても私もまだ完全に体力を取り戻してないし、普段のあんたでも十分重い」

「じゃ、お互い支え合うという事で。今まで通りに」

そうして二人は次々とトンネルを通り抜けた。

「あれっ、ここを通ったっけ?この方向で合ってる?」と才機は海に聞いた。

「私は出口に連れ行かれたのは一回だけだからよく分からない」

「参ったなぁ。一秒でも早くこんな所を出たいっていうのに。こっちに行ってみるか」

そのうち向こう側で外に通じる出口のある部屋を見つけた。

「お、やった。外だ」と才機が言った。

二人はそこを目指したが外に踏み出す直前に止まった。外は外だけど、いつのまにか地上が数百メートル下になっていた。

「そう言えば、さっきこの山にはいくつか外に通じる穴があるって聞いた。これがその一つね」

「何これ?見て。ここからずっと下まで氷の道みたいなのが出来ている。もう大分溶けているけど」

その時、後ろから声が聞こえた。

「俺は毎日見ているよ、その代わり映えしない風景」

海は前よりも強く才機にくっ付いた。才機が振り向いたら人が二人いた。男と女。海のよく知っている二人だけど、才機が会うのは初めてだ。

「俺達、ちょっと迷ったんだけど、出口はどこにあるか教えてくれないか?」と才機が聞いてみた。

「出口はどこにあるか教えてくれないかって?ハハ!これは傑作だ!こんな状況で俺が笑えると思わなかった。海よ。俺は誰だか教えてやれ」と男が言った。

才機は海の顔を伺った。でもその顔は自分の足元にしか向かなかった。

「彼は···リベリオンのリーダー」

「名前はデイミエンだ。お前は誰だか言わなくても見当がつく。そして俺が思っている通りなら、ここがこんなに簡単に侵略されたのも得心がいく。才機···だな?」

「ああ。リベリオンのトップに出会えて光栄だ···そして有り難い」と最後の方は悪意が混じったような口調になっていた。

「お前はどうやってここまだ辿り着いたかは分からない。でもあえて問わない。ここで会ったのは好都合だ。今日という今日は俺達の邪魔をする最後の日だ。アイシス、お前の力を極限まで引き出すから彼を消せ」とデイミエンはアイシスの肩に手を置いた。

才機は周りの空気が急に冷たくなったと思ったら、アイシスの前方につららが生じた。先端の凄く鋭そうなつらら。それがどんどん大きくなった。才機は海を自分の後ろに引きつけた。

「それはやめて欲しいね」とアイシスが言った。

「何が?」と才機は聞いた。

「彼女を守りたい気持ちは分かるけど、今はあんたの後ろが一番危ないのよ?これがあんたを完全に貫いたら彼女まで死んでしまう。安心して。あの子はまだ必要だからあんたしか狙わない」

「そうかよ」と才機はアイシスを直視しながら彼女が言った事の妥当性を計った。

すると、才機はダッシュでアイシスの左へ走った。

「才機!」と海が呼び掛けた。

一発目をどうにか外せたら二発目が来る前に反撃出来ると踏んだ。

「あまい!」とアイシスはつららを才機へ発射した。

直撃。

強い衝撃で才機は壁へ飛ばされた。つららはの先端は才機に当たった瞬間に粉々になった。突き刺さる事はなかった。才機は面食らわされたが、それ以上何ともなかったみたい。

「ほー。確かに頑丈ですね」とデイミエンは才機が立ち上がるのを見た。

「さて。出口を教えてもらうのは取り消しだ。その代わりに、海に何を治させたか教えて」

「はい?」

「だから、海に何を治させたか言え」

「右腕と左足だけど?」

「分かった。今、元に戻す」

才機はデイミエンを目掛けて突進した。

「下がっていろ」とデイミエンがアイシスを左手で後方へ押し戻し、自分から走ってくる才機の方へ歩いて行った。

そして回し蹴りを繰り出した。

デイミエンの蹴りは才機の横顔に正確に当たって、才機はそれを全く予期しなかった分、滑稽に見えるくらいいとも容易く張り倒された。

今の蹴りは痛かった。でもその痛みよりも、実際に痛かった事自体が地面に横たわっている才機を戸惑わせた。

「解せない顔してるね。どうした?もう終わりか?」とデイミエンが才機を嘲った。

才機は立ち上がってデイミエンを注視した。見た目は怪力の持ち主という感じではないが、事実上、才機を蹴って倒した。相当な力を有しているはずだ。しかし攻撃力があってもそれと同等の防御力を兼ね備えているとは限らない。今度、才機はもっと慎重にデイミエンに近付いた。二人はお互いの出方を見ていた。才機は構えてデイミエンの周りを回っていたに対して、デイミエンは余裕そうで構えず才機を視界から完全に出さないようにしていただけ。そこで才機は最もデイミエンの視界に入っていない時を計らって仕掛けた。だがデイミエンはひょいとかがみ、才機のパンチをかわした。それから華麗に才機の背後に出て才機の首筋にチョップを入れた。才機は四つん這いになった。

「まだ気付かないのか?言って置くけど俺は別にべらぼうな腕力を持っちゃいないさ。これは普通の人間の力。まぁ、一般人よりちょっと強いだろうけど、でかい岩とか持ち上げられないよ?」

「才機、腕が!」と海の心配そうな声が響いた。

才機が腕を見るとジェイガルに与えられた傷が出血していた。知らないうちに変形を解けたらしい。才機は傷を閉じてまた体を固めた。いや、固めようとした。でも何回やっても変化なし。まさかと思って、才機は振り返ってデイミエンを見た。

「やっと気付いたみたいだね。お前が俺に突進した時からずっとその姿だった。海からは私の事何も聞かなったのか?いやぁ、待て。海には言わなかったかも。俺は周りの異能者の能力に影響を与えて普段発揮出来ない力を引き出す事が出来る。先のアイシスのようにね。あれほどの力は普段の彼女一人なら出せない。でもその逆も可能だ。異能者の能力を完全に無効化する事も出来る。笑えるだろう?俺は異能者でありながら、異能者の天敵でもある。だけど誰かさんと違って異能者の味方だから異能者の為にこの力を使う」

才機はまた立ち上がった。

「でも才機には触っていなかった。どうやって···」と海が当惑していた。

「だから、俺の周りにいればいい。範囲はそれほど広くないが直接触る必要はない。あぁ。君やアイシスに実際に手を触れているのは単にその方が楽だからよ。こればかりは説明出来ない。他人が持っていない筋肉の力の入れ方を教えようとするようなもんだ」

デイミエンは再び才機の方に向いた。

「俺の武器と言えばこの生身の体だけだ。十年間近くひたすらに鍛え上げてきたこの肉体と技。普通の喧嘩なら自分の腕に自信がある。まだ本調子に戻っていないが、大分良くなった。海の治療を受け続ければ完全に復活出来る」

「治療されたいなら医者に頼め。海は俺が連れて帰る」

「しかし皮肉だよな」とデイミエンは才機の言った事を聞き流した。

「あの時、この能力があると分かっていれば妹は近衛兵に殺さずに済んだんだろう。自分も異能者だったなんて思いもよらなかった。まさか俺のせいで妹が···。いや、断じて俺のせいではない。そんな卑屈な考えをするものか。帝国が悪いんだ!」

「今、本心が出たと思っていいのか?」と才機が聞いた。

「何の事?」

「異能者の味方とか英雄的な事を言って、本当はその妹の仇を討つのが本音なんじゃないのか?」

「ふん。知った風な口を。挑発のつもり?」

「いや、別に。ただお前がやって来たことがその為なら本当に不条理だなと思って。妹が兵士に殺されたから異能者がいない街に嫌がらせをする?どこかの研究員の七歳もなっていない息子を誘拐する?俺と海を殺そうとする?妹の事は本当に気の毒だけど俺は関係ない。海は関係ない。お前が罰そうとしている人は関係ない!」

「関係ないだと?!彼らは俺達への不当な仕打ちに目を閉じ、助けようともせず、俺達を憎んで、いない方がいいと思っている!十分関係ある!関係なかったのはシルヴィアだった!あの子はアリを踏む事すら出来なかった凄く優しい子だった。異能者狩り事件が起きたあの日、俺達はただ夕食の材料を買いに行っていただけなんだ。妹が異能者だってことを薄々気付いていたけど、他人なら知る由もないような能力だ。肌の色がほんの僅かに変えるだけだ。それも極ゆっくりにだ。気付いたとしても少し日焼けしたとしか思わない。それでもあの日にあんな法律が施行されるって知ってたら外には出さなかっただろう。どの肉を買って帰るか選んでいる時に三人の兵士が逃げていた少年を捕らえた。十六歳にもなっていないであろう少年だ。どうやってかは分からないけど彼は兵士の一人に傷を負わせて抜け出した。少年は止まらないと撃つという兵士の忠告を無視して俺達の方へ逃げてきた。そして俺達の横を通り過ぎる寸前に弾丸が彼の後頭部に埋め込まれた。もう少し近かったら妹はあの少年の血を浴びるところだった。俺達はその死体を恐怖の目で見詰めていると兵士がまた叫ぶんだ。『そこの女も異能者。動くな』と。見れば私と手を繋いでいる妹の肌は虹を構成する色んな色に次から次へと変色していた。妹は自分が異能者だって知っていたかどうかは分からないけど、あの時の現象は初めてのはずだった。動揺した俺があの子の能力を思わず増幅させたのだろう。兵士にどやされ、体に訳わからない異変が発生し、同じ境遇で自分と同い年の男が目の前で射殺され、そりゃ逃げ出したくなるよ。妹は俺の手を放して逃げると俺も追いかけようと手を伸ばしたが、直ぐに妹の背中にも穴が開いた。血塗れになった妹を拾って周りの人から必死に助けを求めたが誰一人応じない。皆目を逸らして見て見ぬ振りをしていた。そんな最期、不条理ではないと言うのか?!妹の体を引き渡さなかった俺なんて公務執行妨害で逮捕されたよ!」

「妹の事は気の毒だって既に言ったはず。でも結局はそっちへ持って行くんだね」

デイミエンは大きく息を吸って平静を取り戻した。

「確かに妹を失った事が引き金になったかもしれない。殺されなきゃ今頃一緒にメトハインで暮らしいたかもしれない。だがそうだとしても、それで俺が今やっている事は少しでも正当でなくなる事はない。異能者が社会に認められるのに必要な事だ。もし今、妹と一緒に暮らしていたとしても俺達はきっと今の俺みたいな人が現れるのを待ち焦がれていた」

「そうやって自分の考えを他の皆に勝手に押し付ける。お前と意見が合わない人は幾らでもいる。異能者を含めてね。妹だってお前が言うほど優しい人だったらこんな事を望んでいないはずだ」

「俺の妹はもういない!向こうがあっちの考えを押し付けたからだ!向こうがこの戦いを始めたんだから俺が終わらせてやる!俺のやり方で!」

「だからお前の戦争に巻き込むなと言ってんだよ!海を!俺を!手段を選ばないんならやっていることは同じだろうが!」

デイミエンは溜め息をついた。

「話して分かり合えるならこんな事にはなっていないだろう。ここはもう近衛兵がうじゃうじゃいやがる。海は見つけたし、お前とゆっくり議論する暇はない。さっさとお前を始末してここから離れるんだ」と今度はデイミエンが仕掛けてきた。

才機はもう能力に頼れない。自力で切り抜けるしかない。そう思ったらパンチを繰り出してきたデイミエンの手首とシャーツを掴み、そのまま一本背負いを決めてデイミエンを投げ倒した。デイミエンは反応が早くてぎりぎりで片手を使って受け身でダメージを軽減した。転がって逃げるとデイミエンは体勢を立て直した。

「ただの能力にすがるちんぴらじゃなかったようだな。なら全力を持って相手をしよう」

デイミエンは攻撃を続行した。今度は容赦なくパンチとキックの連鎖で才機を圧倒させる。才機はガードしか出来ないのにガードし切っていない。デイミエンの攻撃の半分がうまく才機に当たっている。柔道だけを使った戦いなら才機は対抗出来たかもしれない。でもデイミエンは有りと有らゆる技で攻めてくる。ある時は空手じみた、ある時は拳法じみた、またある時はムイタイじみた攻撃で襲い掛かる。流石は九年越しの武道家。しかもこれでも本調子ではないという。その九年間の内、最後の二年は一体どんな執念で訓練したのだろう。才機の体力はどんどん減っていて遂に倒れた。デイミエンは無防備な才機に止めをさすつもりのようだ。そのデイミエンの周りに柔らかな風が出てきた。風が急に強くなって、デイミエンの髪と服を掻き乱した。彼は海の方を見ると彼女の手はデイミエンに向けていた。デイミエンの海を見る目は細くなった。すると突如現れた風は同じように忽然と消えた。

「そこで大人しくしていて下さい。もうすぐ終わるから」とデイミエンが海に言った。

どうやら自分の能力の範囲を広げて海も含めるようにした。知らないうちにアイシスは海の後ろに回って海を拘束した。右腕を捩じられて背中の後ろに持って行かれ、更に首をしっかりアイシスの腕で絞められた。完全に身動きが取れなくなった。才機は四つん這いになって、側に立って自分を見下ろしているデイミエンを見た。素手でデイミエンに敵わないのが嫌というほど分かった。ここで負けて、再会出来たばかりなのに海をまた失うと思うと悔しくてたまらない。デイミエンが皆に与えている苦しみをデイミエンに味わわせてやりたい。才機一心にそう思った。

「まだそんな反抗的な目が出来るのか?いい加減受け入れろ。お前の負けだ」とデイミエンは絡み付けた両手を持ち上げて才機の背中に振り下ろした。

《ちっくしょうー!》

と思ったら、後ろから攻撃を受けたデイミエンの方が才機の上に倒れた。

「誰だ?!」とデイミエンはさっと後ろを向いた。

誰もいない。デイミエンとアイシスが入ってきたトンネルしかない。デイミエンは立ち上がって左から右へ見回した。

「近衛兵か?!出て来い!」

アイシスははてな顔でデイミエンを見ていた。デイミエンが背中を才機に向けている今がチャンス。この隙を狙って才機は立ち上がり、後ろからデイミエンを攻撃した。でも才機の動きは全部デイミエンの耳に届いていて、やっぱりよけてアッパーカットで反撃した。ただ、デイミエンの拳が才機の頭を後ろに逸らした瞬間、倒れたのはデイミエンだった。才機は何もなかったかのようにデイミエンを困惑した表情で見下ろしている。デイミエンの方は物を言えないほど驚いていて、何度も瞬きして才機をガン見していた。気のせいか、才機の目が微妙に光っているような気がした。

「アイシス!そっちの能力を使えるようにするからこいつに氷の刃を当てろ。でも急所を外せ」

才機が後ろを見るとアイシスは海を地面に投げ捨てて氷の刃を才機の足に投げつけた。刃は才機の脹脛を裂き、切り傷から血が滴り落ちた。それなのに痛そうに脹脛を握ったのはアイシスだった。才機は顔を歪めることすらしなかった。

「何なんだこれは?お前にこんな力はなかったはずだ!」とデイミエンが叫んだ。

「俺も初めて知った」と才機は自分の手を不思議そうに見た。

「今、この戦いで進化したというのか?!ありえない!そうだとしても俺は異能者の力を無効化する。お前は何も出来ないはずだ!」

「よく分からないけど俺に対する攻撃は全部攻撃者に跳ね返るみたいだから、お前のその異能者を影響する力もそうなんじゃない?」

「そんなばかな!俺は認めない。異能者の能力は何であろうと俺はそれを封印する!」デイミエンは立ち上がって才機に歩み寄った。才機より少し背のあるデイミエンは才機の数センチ前に止まり、数秒間お互い挑戦的な目で睨み合った末、デイミエンは才機の目を真っ直ぐ見ているまま手を才機の肩に乗せてからその胃に膝頭を思い切りめり込んだ。手を才機の肩に乗せたのは恐らくその能力を抑えようとしていたのだろうけど、結果デイミエンは自分の腹を抱えながら三歩後ずさりした後、尻もちをついた。

「デイミエン!私が彼の心臓を貫いて一気に息の根を止める!」

「ダメだ!どうなるか分からない。彼が死んだとしてもそのショックでお前まで死にかねない」

「これが天の配剤ってやつかな。形勢逆転みたいだ」と才機はデイミエンの胸ぐらを掴んで持ち上げた。

「そっちの勝利が後一歩のところで悪いがこの勝負は勝たせてもらう」

才機は拳を上げてデイミエンの如何にも悔しそうな顔に突っ込んだ。すると才機はデイミエンを放して尻もちをついた。才機は自分の頬に手を当てて、デイミエンが初めてそうなった時と同じ顔をしていた。二人は地面に座っていて、信じられないという表情をはっきり顔に出しながらお互いを見ていた。

「は···ははは!何だあのふざけた能力は?!関わる事を拒んで高みの見物を決め込むお前には似つかわしい能力だ」とデイミエンは声に怒りと苛立ちを込めて才機に問ったが、最後の方はただあざ笑っていた。

「何が形勢逆転だ?俺はまだ負けてない。攻撃は出来なくても取り押さえる事は出来る。でもそれはお前とて同じだ。俺はみすみすお前が海を連れ去るのを許さない。そしてお前も同じ気持ちのはずだ。ふっ、勝たせてもらう?ステイルメイトだ、これは」

その時、剣も刀身がデイミエンの肩の上に置かれた。

「いや、チェックメイトだ」とその剣の持ち主が言った。

後ろからやってきたのはルガリオ隊長と数名の部下。

「久しぶりです、リベリオンのリーダーさん」

「デイミエン!」とアイシスは空中に氷の刃を生成した。

「大人しくしてもらおうか?お前のリーダーがここで散って欲しくなければ。ま、この人を始末する口実を与えてくれるというのなら全然構わないんですけど」とルガリオは剣の刃をデイミエンの喉笛に当てた。

アイシスは怒りで爆発しそうだったが、仕舞いには浮いていた氷の刃は害を及ばずに地面に落ちた。兵士達がアイシスを囲んで拘束し、デイミエンも両手を縛り付けられた。ルガリオはその部屋を見回し、才機、それから海を見た。

「なるほど。そういう事ね。何で急に我々を肩入れしたいなんて言い出すかと思ったんだが」

ルガリオは兵士達に向けて告げた。

「これでリベリオンの首謀者も確保出来て任務終了。捕らえた異能者の護送の準備が出来次第、首都に帰還せよ」

ルガリオを含めて兵士達はデイミエンとアイシスを連行して撤退した。それを見た才機と海は自分が迷子だって思い出したら慌てて後を付けた。だが才機が走り出して間もなく、また直ぐに倒れた。四つん這いになって自分の胃と足を握った。

「どうした?大丈夫?」と海が聞いた。

「大丈夫、じゃないかも」

才機はそれまで攻撃者にはじき返していた痛みを感じ始めた。

「やばっ、置いて行かれちゃう。手を貸し手くれる?」と才機が頼んだ。

海は才機の腕を自分の肩の上に載せて引き上げた。才機は殆ど力が尽きていたみたいで、かなり重かった。でも何とかそうやって兵士達の足音を頼りに出口まで辿り着いた。そして久しぶりに空の下に出ると海は思いがけない歓迎を受けた。入り口の下に沢山の兵が集まていて、盛大な声援で二人を称えているようだ。どっちかという才機を称えていたけど。

「よくやってくれた!」

「あの反乱者どもを見事打ち噛ましてやった!」

そういった賞賛が次々に述べられた。混乱した海は下の兵士達を見回し、それで状況が掴めなかったら、次は周りを見て事情が分かるような何かを探した。見たのは兵士達が意気消沈した人達を集めて何台の装甲車に詰め込んでいる様子だった。喚き声が海の注意を引いた。元凶の方を見ると見覚えのある人だと分かった。装甲車に続く行列の中に、初めてここに来た時に会ったあの三人母子家庭がいた。息子は母親のそばにいるけど、その妹が見当らない。

「娘が!娘が!」と母親が半狂乱に叫んで手を山の方へ伸ばしていた。

「えい!早く入らんか!」と母親を押さえていた兵士は手荒く装甲車に入れ込んでから続いて泣いている息子を持ち上げて一緒に入れた。

海がここでずっと目の当たりにした惨めさや苦難は走馬灯のように駆け巡った。兵士達の声援が何となく頭痛を起こすようになってきて海は耳を塞ごうとした。

「どうかした?」と才機が聞いた。

「もう、やめて」と海が小さな声で言った。

「ん?何を?」

「やまて、やめて、やめて」と海の声がだんだんと大きくなった。

才機は心配そうな目で海を見た。

「もう、やめてよ!!」と遂に海は下方の兵士達を黙らせるような大声で叫んだ。

才機だってびっくりして危うく足を崩しそうになった。

「何よ、皆して?!何がそんなに嬉しい?!何もかも失った無防備な人達を苦しめるのがそんなに楽しい?!訳分かんない!あんた達がそうだから皆はあいつの歪んだ理想像に縋り付くんだよ?!」

今度は賞賛の代わりに野次が飛んできた。

「誰だ、あの女?」

「見た事ないよ」

「リベリオンの捕虜か何か?」

「偉そうに言って誰だ、あんた?」

「異能者のシンパは引っ込んでろ!」

海はちょっと不気味にくすくす笑い始めた。

「異能者のシンパ?あんた達は立派な異能者だそのものだ!」と海が言い切った。

「はー?何だよこの女?頭可笑しくない?」

兵士達が笑い出した。

「ずっと考えてた。人のオーラを見るとなんで穏やかなのと活発なのがあるかって。もしかしたらと思ったけど、ここで過ごして確信した。活発してる方は異能者の物だ!」

「おい、何訳わからないこと言ってんだ?」

「あんた達の中に異能者が沢山いると言ってるの!私には分かる。そしてここだけじゃない。メトハインにだって異能者は結構いる!皆はただ隠しているか、その能力が地味過ぎて自分でも気付いてないだけ」

「何だよ、それ?そんなふざけたことあるか!」

「そう、あんた!あんたもそうだ!」と海はその兵士を指差した。

「で、でたらめ言うな!俺が異能者何かじゃねぇ!」

「あんたも!あんたも!そこの二人もだ!」と海が立て続けに兵士を指名した。

指定された兵士達の反応は二つに一つ。怒るか否定するか。

「言い掛かりをつけるのはいい加減にしろ!」

海の後ろから威圧するような声が出てきた。ルガリオ隊長の声。

「お前ら!何こんな所でぐずぐずしているんだ?ここでの任務が完了したんだ。さっさと出発する準備をしろ!」

兵士達は速やかに散らばって自分の持ち場に向かった。

「俺の隊の中で不信感を生み出すような発言を控えてもらおう」とルガリオが海に言った。

次の言葉を才機に向けた。

「衛生兵はあっちだ。その傷の手当てを受けるかどうかは任せる」

それだけ言ってルガリオはその場を離れた。

海はむしゃくしゃしていて泣きたい気分だった。

「おい、気にするな。俺は格好いいと思ってたぜ」

才機は海の肩に乗せていた手で海をより強く手繰り寄せた。海は才機に抱きついて目を才機の肩に埋めた。才機も同じく海を抱き締めてその頭を優しく撫でた。

「ママーーー!」

子供の泣き声で海の頭が跳ね上がった。山の中から女の子の手を引いている兵士が出てきた。先ほどの母親の娘だ。二人が海と才機の側を通りかかったら海は「ママが捜してたよ。直ぐに会える」と言ってあげたかったが、今の彼女には届かないだろう。聞いてくれたとしても実際に会えるかどうかは分からない。その子は同じ言葉をずっと繰り返し、他の皆みたいに装甲車へ連れて行かれた。母親と違う装甲車へ。でもあの子が無事だと知って海は少しだけほっとした。

「捕まった皆、どうなるのかな?」と海が言った。

「さぁ。メトハインに異能者はいちゃいけないから、小物を放り出して幹部の人を処刑でもするのかな」

「まさか全員処刑されるはずないよね?何もしてない子供達もいる。異能者じゃない人だって」

「それほど冷酷だとは思いたくないけどね。さ、俺達もそろそろ帰ろう」

「うん。その傷も手当てしてもらおう」

二人は衛生兵がいる方に向かった。


才機と海が海が捕らえられていた部屋を出てから少し時間が経った後、壁を背にして床に座っていたジェイガルはまだ意識が彷徨っている状態で声が聞こえた。自分の名前を呼ぶ頭の中の声。

「ジェイガル」

「ジェイガル」

「ジェイガル」


**「ジェイガル。ジェイガルってば!」と幾ら呼んでも本人が起きないから女性はその肩を揺さぶる。

「ん、あ、ごめん、プリス」とテーブルの上に自分の腕を枕にして寝ていたジェイガルが目を開けた。

「もー、せっかくジェイガルが皇居の研究施設の研究員に任命されたことを祝っているのに。そりゃ凄い行列で注文するのに大分待たせたけど、さては昨夜また徹夜で本読んでたでしょう」

「はい、読んでました···。でもそれだけじゃない。ここは陽射しが凄く気持ちよくて眠くなくても夢の世界にいざなわれてしまう」

「ふーん。何の夢?」

「本の夢···」

「ジェイガルらしいだね」とプリスがジェイガルに優しく微笑みかける。

「まぁ、別にいいんだけどさ。料理が来るまでは二度寝する?」

「いや、もう大丈夫です。夢より現実世界でプリスと話したい。ここは有名な店だって?」

「うん。友達が皆そう言っていた。ここの料理凄くうまいんだって」

「あの長蛇の列を見れば説得力あるな。普段は食べ物にそれほど興味が湧かないけど、これはちょっと楽しみかも」

「お、あのジェイガルが本以外に興味を示すとは。これは責任重大ね。もしこれで頬っぺたが落ちなかったらジェイガルは一生食べ物に期待を持つことは二度とないかも」

「あり得るね。でも大丈夫。食べ物に興味を持てなくても本以外に興味を持つものは必ず存在する」

「へー、例えば?」

「プリスとか」

プリスが鼻で笑った。

「君がそういうことを言う性格だったっけ?」

「たまにはいいだろう。事実だし」

「そうですか。ありがとう」

その時、周りがざわついてきた。見れば多くの人は空の方に注目している。

「あれ、なんだろう?」とプリスが聞く。

ジェイガルは目に手をかざして陽射しを遮り、雲のない青空を見上げる。遠い空に小さな黒い点があった。目を細めてよく見ると星のような形をしている。爆発?

「まさか···」

「ん?何か分かるの?」

「研究施設で聞いた話。まだ正式に発表されていないが、確か今日はロケットを打ち上げる予定だったはずだ。それで色々事件を行って成功したら医学技術は飛躍的に進展するとかで。でもこの様子じゃ失敗だね。残念」

「そうだったんだ。今度はジェイガルがそのプロジェクトに参加して成功に導かないとね」

「いや、私の専門は科学で宇宙工学はからきし駄目だ」

「そう?宇宙工学の本も読んでいそうけど」

「それは否定出来ないが、だからってそんなに大した素養がある訳じゃない。ロケットに積む化学物質はともかくとして、ロケットそのものの爆発を防ぐ為の方法論に詳しくない」

「あら。じゃ、その問題はその辺の有識者に任せて私達はランチを楽しもう」

プリスがそう言うと同時にウェーターが二人の食事をテーブルの上に置いた。魚料理のようだ。

「これが友達のおすすめメニュー。いい匂い」

「では、食べてみるとしよう」

二人はフォークとナイフでそのカレイ目の身の一部を切り取って口に入れる。

「うん、美味しいこれ。評判に負けていないな」

「悪くないね」

「微妙な反応だねぇ。ジェイガルの中では失敗?」

「いや、そんなことないよ。頬っぺたは落ちてないが、美味しいよ、ちゃんと。来た甲斐があった」

「なら良かった」

食べ終わると店を出て肩を並んで歩く。今日の予定は全てプリスが決めたのでジェイガルは行き先が分からない。数分後に辿り着いたのは公園だった。プリスに誘導されてその奥くへ進むと、特に何もない所でプリスが急に止まってジェイガルの方に向きを変えた。

「ここだ」とプリスがジャジャーンと両手を広げた。

「ここ?」

ジェイガルが周囲を見回したが、本当に草と木とベンチ数台しかない。

「私の好きな本を原作とした劇が最近始まったから本当はそれを見てもらうと思ったけど、ジェイガルは疲れているみたいだし、ご飯を食べた後だから途中で寝てしまいそうだ。よって、予定変更で今からお望みの日なたぼっこにしよう」

「ん?別にいいよ、劇で」

「いいから、いいから」とプリスが手近なベンチに座り、ジェイガルも座ろうと言うように隣を手で二回叩いた。

ジェイガルはそれに従って座ると小さな驚きの唸りを上げた。

「気付いた?ここのベンチは席の後ろの方が深い下向きの湾曲になっていて、背もたれも普通のベンチより後ろに傾いている。このベンチをデザインした人は絶対に座る人間を眠らせたいと思っていた。木陰になっていないし、日なたぼっこに打って付けの場所だ」

「確かに、それには反論できないな」

「ここは図書館に近いからたまに昼休みはここで過ごしてさ、うっかり寝てしまって危うく寝過ごして昼休みから戻るのが遅くなるところだったことがある」

そう言うとプリスはジェイガルの肩に頭をもたせ掛けて目を閉じた。せっかくのデートで二人は昼寝をするらしい。

《ま、私達はこれがお似合いか》とジェイガルがプリスの顔を見る。

ジャンルは違えどプリスはジェイガルに負けない本好きで、二人のデートの大半は家デートでどっちの家であっても軽く夕飯を作って、後はソーファで一枚の毛布を共有して本を読む。会話がそんなになくても隣にいるだけで安心感を味わい、心が確かに満たされる。今日みたいにたまに外に出ていつもと違う経験をするが、それは主にプリスが友達付き合いを円滑に行う為で、自分で楽しむのは二の次な気がする。本ばかり読んでいてはそれ以外の会話があまり成立せず、ジェイガルと違ってプリスの友達は読書家ではないそうだ。思えば二人の出会いも本がもたらしてくれた。この日から遡る二年前。科学技術大学院大学から家まで歩く時間も惜しいんで大抵は本を読みながら家に帰る。だが、そういう風に考えるのジェイガルだけだはなく、ビルを沿って歩いているとその角でぶつけ合ったプリスも同じく本を読みながら歩いていた。二人が衝突すると二人共本を落とし、プリスに至っては持っていたペットボトルも同時に落とした。最悪なことに二人の本は開いた状態で表向きに地面に落ち、その上にペットボトルが落ちて転がりながら中身をドクドクとページの上に流し出す。

「あ、ごめんなさい!前見ていなくて!」とプリスが謝る。

「いいえ、こっちにも非があるので」

「大変!本が!」

「まいったなぁ。こりゃえらいことになったね」

「あの、私についてきてもらえますか?この本を何とかします」とプリスが濡れた二冊とペットボトルを拾い上げた。

「え?ああ、構いませんよ」

プリスがジェイガルを連れて行ったのは近くの図書館だった。二階に上がってある部屋に入った。プリスは本を机の上に置いてジエイガルにそこで待つようにお願いした。戻ってきたプリスは大量のペーパータオルを持参して現れました。

「もしかして、ここのスタッフですか?」

「はい。濡れた本を綺麗に乾かすのは時間との勝負ですから私を真似してご自分の本を乾かして下さい」

「おぉ、分かりました」

「こうやって十、二十ページごとにペーパータオルを挟んでいきます」

ジェイガルは自分の本を取り、プリスに言われた通りにした。

「本全体に染み込むほどの水じゃなかったので、真ん中の部分だけでいいみたいですね。次は平置きにして抑え込んで水分を吸収します」とプリスが両手で本を上から優しく押した。

これもジェイガルが見よう見まねで再現した。

「次はペーパータオルを敷いてその上に本を開いて立てる。ページをなるべく均等に広げるようにしてね」

ジェイガルがそうしている間にプリスはフォルダーを二枚持ってきて一枚をジェイガルに渡した。

「最後はそれを使って扇ぐんです」とプリスが机の椅子を引き、そこに座って扇ぎ始めた。

ジェイガルは隣の机の椅子を持ってきて同じく本に向かってフォルダーを上下に振る。

「詳しいんですね。流石図書館員」

「これくらいは図書館員になる前から知っていたんですけどね。昔から本が大好きでいつも読んでいます。そうなるとこういう事故がたまにあっても仕方ないことです。その本、教科書のようですが、生徒ですか?」

「ええ。私も本が好きで、その甲斐あって学問には多少秀でて今は科学技術大学院大学で勉強しています」

「凄い。私の場合はそういう難しそうな本ではなく、小説などを読む方です」

「そういうのもたまにいいですね」

「一番好きな本はありますか?」

「そうですね。高校の時に読んだ『今、俺と···』が特に印象深かったかな」

「私もそれ読みました!いい話ですよね〜。人間って頑張れば本当にどんな困難でも乗り越える力があると思わせてきます」

「思わせますね。こっちだけの話···少し、泣けました」

「どの辺ですか?待って、私が当ててみます。最終章の前の章でゲリーとジェニーが遂に」

言い終える前にジェイガルは大きく頷いて肯定した。

「やっぱり!あれは感動しましたよね〜。思い出すと胸がキュンとなってきます。私も泣きました、はい」

「あなたの一番好きな本は?」

「ん〜〜、難しいですね。候補はがあり過ぎて一つだけ選ぶのは辛いですが、あえて言うなら···『三つの風が吹いた日』」

「ふむ。それは読んでいないですね」

「絶対オススメですよ。どんな人でも一度は読んだ方がいい。ルヴィアの皆が読んでいたら世の中は絶対によりいいところになるはず」

「へ〜。どんな本ですか?」

「それはですね···いや、どんな些細なことでもネタバレしたくありません。もし読んだら先入観を一切持たずに読んで欲しい」

「ふん〜。顔は『語りたいです』って言ってますけど」

「めちゃくちゃ語りたいです」とプリスが率直に答える。

「気になりますね、その本」

「気が向いたら是非読んでみて下さい。後悔しませんから。でも今は話題を変えましょう。えっと〜。あなたは食べながら読む方、それとも食べながら読まない方?」

「食事しながら読むのはしょっちゅうですね。というか、読まない方が稀ですね。間食しながら読みませんけど。間食はそもそもあまりしませんから。本に集中し過ぎて小腹がすく程度なら気にならないし、食べるのにその集中力を割きたくないです」

「私と逆ですね。食事しながら本は読みませんが、本が汚れちゃうかもしれないからいけないと分かってもおやつを食べながら読書しますね」

そうやって夢中で喋っていたお陰で一時間が経っても本を扇ぐという単調作業が少しも嫌に感じなかった。

「そろそろペーパータオルを取り替えましょう。そうしたら窓を開けておくから本を一晩窓の近くに置きましょう。明日はまた取りに来て下さい」

翌日、ジェイガルは先日より早目に図書館に行った。勿論、昨日図書館に来たのは初めてではなかったが、プリスに見覚えがなかった。今までたまたま会ったことがなかったか、会っているとしてもあまり気に留めなかっただろう。貸し出しデスクにいるおばさんのところに行って、そこで気付いた。あの人の名前を聞いていなかった。おばさんに彼女の特徴を教えて直ぐに分かったみたい。

「ああ、プリシラね。ちょっと待ってください」

《プリシラっていうんだ》

おばさんが戻ってくるとプリシラが間も無く来ると伝える。二分でジェイガルの本を持ってプリシラが早歩きでやってきた。

「はい、本はもう乾いているので、家に着いたら横にして上下を板か何かで挟んでその上に重いものを載せて下さい。そのまま一日放置すれば大丈夫です」とプリシラが本を渡した。

「まだ終わっていなかったんですね。分かりました。えーと、家に帰る前に借りたい本があるんですが、『三つの風が吹いた日』でしたっけ?」

プリシラの顔がパッと一段と明るくなった。

「かしこまりました。少々お待ち下さい」

プリシラが例の本を持ってきて表紙の裏の伝票を取り出した。

「お名前を伺ってもよろしいですか」

「ジェイガルハラウィツです」

プリシラはその名前を伝票に書き留める。

「返却日は今日から一週間になります」

本を渡すとプリシラが言い足した。

「そういえば名前を言いませんでしたね。プリシラと言います」

「プリシラですね。では、自分はこれで」

ジェイガルが手を振って去るとプリシラは振り返して見送る。

三日後にジェイガルは図書館に戻った。貸し出しデスクにちょうどプリシラがいて呼び出す手間が省けた。

「こんにちは」

「あら、こんにちは」

「プリシラの言う通りにしたら本はすっかり元通りになりました。ありがとう」

「良かったです。これでジェイガルも濡れた本の対処がばっちり出来ますね」

「ええ。これ、細やかなお礼ですが、良かったらもらって下さい。ただのチョコレートですが、一口サイズで砂糖菓子でこーティングされているから本は汚れないかと」

「いいんですか。ありがとうございました」とプリシラが満面の笑顔でそのお菓子を受け取った。

「それから、これ」とジェイガルは三日前に借りた本を返却した。

「早い!もう読み終わったんですか?」

「ええ。それで···その···」

ジェイガルは落ち着きなく頭を掻き始めた。

「もし良かったら···この後、食事しながら感想を聞いて頂けないでしょうか」

プリシラは最初驚いたが、視線を下ろすと少し赤面しながら先ほどよりずっと控え目な笑みで「はい」と答えた。


それがジェイガルとプリシラが公園のベンチで一緒に日なたぼっこする事態に至った経緯だ。ジェイガルはベンチにもたれてプリシラ同様目を閉じ、太陽が射す光の温もりとプリシラが発する体温の温もりを噛み締めた。


数週間後にジェイガルは慌てた様子でプリシラの住むアポートにやってきてドアを激しくノックする。

プリシラが対応に出ると少し青ざめたジェイガルの顔がそこにあった。

「どうしたの?何かあった?」

「入っていい?」

「ん?え、ええ、もちろん」

プリシラが脇に退いてくれるとジェイガルが中に入り、プリシラを通り過ぎてからまた彼女に向く。

「プリスは最近どう?何か変わったことはない?」

「特には···」

「この間の爆発したロケットの事件で、特定の人は突然変異が生じる可能性があるって発表があっただろう?」

「うん」

「私···特定の人みたい」

「え?何か変異が起こったの?」とプリスがますます心配顔になった。

ジェイガルは周りを見ると近くにあった鉛筆を人差し指と親指の間に挟んでプリシラの目の前に持ち上げた。するとその鉛筆はまるで靴紐みたいにぐにゃぐにゃになって指の間でぶら下がる。

「どういうこと?」

「何か···触ると分かるんだ、構造が。それだけじゃない。操ることも出来る」

「気分は?」

「気分は···別にいつもと同じ」

「何か変な副作用がなければいいが···医者に診てもらう?」

「こんなの医者はどうにも出来ないよ。でも、さ。直してもらえるとしても、これはこのままにしたいかも」

「なんで?」

「触るだけ物質の構造が分かるんだぞ?化学者にとってこれ以上便利な能力はあるか?研究は一気に進む!」

ジェイガルの顔には歓喜と呼べるような表情はないが、その能力が持つ可能性で興奮はしている。

「危なくないなら···それでもいい···かな」

「危険は特にないと思う。有機物には効果がないみたいだから間違って他人に害を及ぼすことはない」

「ジェイガルがそう言うなら···」

そして研究は確かに進歩した。ジェイガルの新しく得た能力のお陰で色んな発見がどんどん出来て、学界で多大な功労を成した。それを妬ましく感じて快く思わない同僚もいたけど。全てその変な能力のお陰で、本人を優れた化学者として認めていない。だが、化学の深い知識あってこその成果だ。ジェイガルはこの分野に精通しているからこそこの能力を活かすことが出来る。一方、研究で多忙になったせいでプリシラと会う時間がかなり少なくなった。プリシラがそう訴えて、二人が辿り着いた解決策は同棲することだ。場所的にはプリシラのアパートの方が便利だったのでジェイガルはプリシラのアポートに引っ越すことになった。これで夜は毎日一緒に入られて二人はそれまでにない幸せを掴んだ。

数ヶ月後、ジェイガルはいつもより暗い顔で帰ってきた。

「どうしたの?何か浮かない顔だね」

「何かさ、最近異能者への風当たりがかなり強くなってきただろう?」

「うん、そうね。でもそれは危ない異能者に対してでしょう?ジェイガルがそんなに気にする必要はないのでは?」

「どうかな。最近は見境なく異能者を糾弾する団体が現れていて王宮の前で抗議運動を起こしている。ちょっと不安だ。私が異能者だってことは誰かに言った?」

「一応、両親には言ってある」

「それだけなら問題なさそうだけど、今度会ったらあまり言い触らさないように言っておいてくれる?」

「いいけど」

ジェイガルは椅子に座っり、テーブルに両肘を立てて寄り掛かり、組んだ指に口元を持っていった。

「ご飯が用意してあるわ。少し食べる?」

「ん?ああ、そうだな」

「それから、ちょっと知らせがあるんだけど、せっかくこの間ジェイガルにここへ引っ越してもらったのに···また引っ越す必要になりそう」

「え?なんで?」

「その···ここだとちょっと窮屈過ぎるかも、三人には」

「三人?」と最初はジェいガルが当惑した表情を見せたが、その目は直ぐに大きく見開かれる。

「お前、ここんところ具合が悪かったのはそういうことだったのか?」

プリシラは静かに頷く。

ジェイガルは椅子から飛び上がってプリシラを抱き締めた。先程の暗い顔は嘘のように消えていて今は抑えられない笑顔が張り付いてる。

「お前って奴は一体どれだけの幸せを俺にもたらせば気が済むの?」

「いや、今回はあなたが少なからず貢献したと思うよ?」

もう少し家庭に適した間取りのある住まいを探して引っ越すのに三週間が掛かった。それから一週間後、猪者狩り事件が起きた。

その日を皮切りにジェイガルは必要以上に外に出るのをやめた。研究所にいる時間も減らし、或いは行かなかった。そして四日目の夜、ジェイガルが書斎で読んでいた時に玄関でノックする音がした。

「どなたですか」とプリシラがドア越しに尋ねる。

「近衛兵です。ここを開けろ」

「え?近衛兵が何の用?」

「開けろ。命令だ。開けないならドアを押し破る」

プリシラは仕方なくドアを開けるとそこにライフルを背負った三人の兵が立っていた。兵士達は押し掛けて周りを見る。

「ジェイガルハラウィツはここに住んでいるはず。今どこにいる?」

「書斎にいるんですけど、なんなんですかこれは?」

兵士達はプリシラの質問の無視して奥へ進む。机に座っている男性がいる部屋を見つけるとその中に入る。

「あなたがジェイガルハラウィツで間違いないか?」

「なんで近衛兵がここに?」

「質問だけ答えて下さい」

極端に不安な顔をしてプリシラは書斎へのドアに現れた。

「はい、私ですが」

「あなたが異能者であるという報告を受けている。取り調べの為に同行してもらう」

ジェイガルが恐れていたことだ。恐らく研究所の同僚が自分のことを密告した。

「そんな···私は王宮研究施設の研究委員!大きな成果を挙げてきたんだ!」

「皇帝が発した勅令により異能者はこのメトハインから追放されることになった。抵抗すれば実力行使に出ざるを得ない」

「私の研究は始まったばかりだ!まだこれからなんだ!私の今までの努力を台無しにする気か?!家族だってこれから支えないといけない!」

「抵抗する意思があるということで宜しいですね?」と前に出ていた兵士が手を上げると後ろの二人がライフルを構えた。

「待って下さい!」とプリシラが兵士達の横をささっと通り過ぎてジェイガルのところに行き、彼を庇うように兵士に向かって立ちはだかる。

「お願いです!連れて行かないで下さい!その報告はデマです!この人は普通の人間です!」

「複数人からの証言がある。その真偽は我々が取り調べて決める」

「その者達は嘘つきです!この人は決して誰かを傷付けることような真似をしません!どうか!」

「くどい!というか彼を庇う君も怪しい。君も取り調べの為に連行する」と兵士はプリシラの手首を掴んで引っ張った。

「彼女は異能者じゃない!私が行けばいいんだろう?!」

「いや!放して!」とプリシラが兵士の手を外そうとする。

「抵抗するなと言っただろう!」

兵士は警棒を腰から取り外して先端をプリシラの腹部に強くめり込ませる。プリシラは痛々しい唸り声をあげてお腹を抱え込んだ。それを見たジェイガルの中から言いようのない怒りが湧き上がって爆発した。

「やめろ!!」

ジェイガルは兵士の警棒を掴んだ。次の瞬間、掴んだ部分はジェイガルの手の中で溶けて警棒の上部分が床に落ちた。兵士は驚いて尻もちをついた。

「た、助けて!溶かされる!」

「撃て!」と後ろの兵の一人が叫んだ。

「ダメーーー!!」とプリシラがジェイガルに抱きついた。

銃声が二つほぼ同時に響く。そしてジェイガルは腕の中のプリシラがどんどん重くなるのを感じた。

「プリス!!」

プリシラの目はゆっくり閉じ、その体から力が完全に抜かれる。ジェイガルはプリシラを抱えて両膝をついた。手には生暖かい濡れた感触がある。

「プリス!プリス!」

でもプリシラは反応しない。

尻もちをついた兵士は立ち上がり、背中に付いているライフルを両手に取ってプリシラのあだ名を連呼するジェイガルの頭の上に銃床を叩き込んだ。

それからはただの闇。**


闇が晴れてジェイガルは気が付くと鎧が剥がされて拘束されていた。無意識の間に両手を後ろで縛れてどこかのトンネルに運ばれたようだ。やったのは恐らく二メートル離れた所で自分に背を向けて話し合っている三人の兵士だ。

《負けたか。私達はこんな風に終わるのか?惨めだな。ごめんな、プリス》とジェイガルが自嘲気味に微笑む。

ジェイガルはあの夜から半年が経った頃、メトハインに忍び込んでプリシラの墓を探した時のことをふっと思い出した。その墓を思い浮かぶと、遠に知っていたはずのことを自身の目で確認出来た自分が墓の前で佇んで誓ったことも思い出す。消えかけていた決意を新たにした。

《いや···このままでは終わらない。終わらせるものか》

腕をおもむろに体の脇に戻すとジェイガルの手を縛っていた縄は煮過ぎた麺類のようにあっけなく静かに破れる。足音を立てないようにして兵士達の背後に忍び寄り、それぞれの手を二人のヘルメットの側面に置いて二枚のシンバルのを叩き合わるように頭蓋骨をぶつかり合わせた。防御力を失って紙同然となったヘルメットはその衝撃を緩和するのに何の役には立たない。

「貴様!」と叫んだもう一人の兵士は槍でジェイガルに向かって突き刺したが、ジェイガルはそれを脇で捕らえて奪い、石付きで相手のこめかみに強打を見舞って返り討ちにする。槍を投げ捨てるとジェイガルは倒れた兵士の防具を自分の物とし、着け終わったら槍を拾い直してそのまま暗いトンネルへ消えた。


ルガリオは兵士と話をしていた。

「今日の作戦の結果報告を」

「はい。こちらは怪我人を八名出しています。死亡者一人。リベリオンの方では七人死亡。残りは逮捕に成功しました。ただ···」

「ただ?」

「一人、逃げられた可能性はあります。奥の方では鎧を着けていた者がいて、気絶していたので鎧を外して拘束したんですが、行動の自由が奪われたはずなのに目を離した隙にその者が兵士の不意を着いて防具を盗んだそうです。おそらく、隊に紛れ込んで隙を見て逃亡したかと。あるいは、今でも私達の中に···」

「逃げたと思ってもいいでしょう。一人で何かが出来る訳ではあるまい。帰る準備はもう済んでいるのか?」

「はい、今し方」

「なら皆に引き上げるよう伝えてくれ」

「はっ」

才機と海がやってきた。

「来ましたね、二人とも。一緒に帰るんだったらこっちの車に乗れ」とルガリオは隣の装甲車の助手席に入った。

才機と海は他の兵士達と一緒に後ろに入り、討伐隊がリベリオンの元アジトを後にした。


来る時と同様、皆はお装甲車の中で無言で過ごした。海は才機にもたれ掛かって寝てしまった。起きたのは才機が沈黙を破った時だった。

「あれ、ドリックよね?俺達はそこまででいい」

「隊長?」と運転手がルガリオに伺いを立てた。

「ここで降りたければ好きにさせればいい。メトハインまで同行する義理はない」

ドリックに近付いたら車が止まって、才機と海は降りた。ドアを閉めて、他に言葉を交わさずに装甲車が去って行った。

もう随分遅くなっている。六時といったところか。才機と海は手を組んでドリックの道を歩く。他人から見ればデートから帰る途中のカップル。二人が実際どんな日を過ごしたか誰も想像もつかないだろう。遂に二人は宿に着いた。海がいなくなったことを知っている人はリースとメリナぐらいなもんだから、公表する必要はなく、真っ直ぐ自分達の部屋に向かった。そのリースとメリナの部屋に寄ってドアをノックしてみたが返事はなかった。今は誰もいないみたいだ。自分達の部屋に入ってドアが閉まった途端に才機は溜め息をして後ろから海に両腕を回した。そのままドアに背中を合わせて床に滑り落ちた。海は一緒に引きずり込まれ、才機の立てた膝の間に座った。

「この部屋に帰るのがこんなに嬉しくなれるとは思わなかった」と海が言った。

「海がいなかったこの部屋に帰るのが苦痛でしかなかった。もう二度と放さないから」

「ごめんね、本当に」

「謝るな。海が謝る事じゃない」

二人が暗い部屋にただ座り込み、お互いの温もりを感じ合った。そんな時にぐーーと才機の腹が鳴った。

「あら、お腹すいてるのね。何か食べようか?」

「いや、放っておいていい。今はこうしていたいだけ」

「そっか。我慢出来なくなったらいつでも言ってね」

「あ、そうだ。うまかったよ。海のスープ」

「ん?スープ?」

「ほら、海がさらわれたあの日、残しておいただろう?」

「あ、そう言えば作ったわね。完全に忘れてた。本当は皆で食べようと思ったんだけど、まさかあんな事になるなんて。私が帰った事をリースとメリナに知らせなきゃね」

「二人に悪いけど、今日はもう海を独り占めしたい。明日話そう」

「才機がそう言うなら」

暫くしたらコオロギが泣き始め、本格的な夜が迫ってきた。海にとっては久しぶりの音色で心地良い気分で聞いた。

「明日、作りなそうか、スープ?やっぱり才機と食べたい」

返事がなかったから海は才機を見上げた。寝ていた。海は身を落ち着けて同じく目を閉じた。


   •••


コンコン

才機と海が目を覚ましたら朝だった。結局一晩中そこから動かなかった。窓から入ってくる光線は眩しくて起きたばかりの人はとてもじゃないが直視していられない。

コンコン

「才機?もう帰ってきてる?いないかな」とメリナの声がしてきた。

二人が立ち上がってから才機はドアを開けた。

「いたんだ。メトハインでの事は」

才機の後ろから海出てきた。

「え、うそ、ほんとう?」とメリナが口に両手を当てた。

「ただいま」と海が微かに微笑んだ。

まだ自分の目を信じられず、メリナは更なる証拠を求めて海の顔を両手で触ってみた。

「本当なのね?よかった〜〜〜!」とメリナが海を抱き締めた。

「ごめんね、心配かけて」

「帰ってるよ!海が帰ってるよ!」と今に泣きそうな顔をしているのにメリナは興奮した子供みたいに才機の腕を揺さぶった。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!海だ!海がいる!」とメリナは自分の部屋へ走って行った。

「ほら、見ろ!」

間もなくリースはその部屋から頭を突き出して、廊下に出た海の姿が見えた。

「ぶったまげた···本当に見つかりやがった」

リースは部屋から出て、海の目の前で海を頭からつま先まで全体的に凝視した。

「って事は、リベリオンに捕らえられたのか?」

「詳しい話は食べながらでもいい?めちゃくちゃ腹減ってんだ」と才機が言った。

「ん?おぅ。じゃ、先に俺の分も注文しておいてくれ。ちょっくら行ってくら」

「どこ行くの?」と才機が聞いた。

「海の墓標を取り壊すに。あんなのがあったら縁起でもない」

リースは階段を下りる為に角を完全に曲がる前に言い足した。

「海、よく帰ってきた」

「ありがとう」

メリナは後ろから海に抱き付いてきて危うく本人を転倒させた。

「私の分もお願いね。久しぶりにちゃんとした風呂に入りたい」と海がメリナの腕に手を添えて頼んだ。

人前でするような話ではないので結局皆は才機と海の部屋で集まって朝食を食べた。

「そうだったんだ。幻影を見せられたとは。それじゃ、誰だって騙されちゃう」とメリナが言った。

リースは椅子に脚を組み、コーヒーを一口飲んでからマッグをテーブルに置いた。

「しかし、俺が凄く気になるのはリベリオンのボスとの対決。もうダメと思った時に進化したのか、才機の能力?」

「そう···みたい」

「で、その状態だと全ての攻撃が敵に跳ね返られる」

「でも、実際にダメージを受けるのは俺。相手に跳ね返られるのは感覚だけだから精神的なものだと思う。何かの催眠術の一種か何かかな。一時的に相手に私の痛みを感じさせながら相手の痛みを俺に感じさせる。跳ね返るのは痛みとは限らないみたいけど諸刃の剣だ。しかも催眠術が解けたら全てが元通りに戻る。負ったダメージが消える訳じゃない」

「って事はもし致命傷を受けたら、死ぬよぬ?」

「そうだろうね」

「ふーーん。でも面白そう。ちょっとやってみよう」

「え?何を?」

「その痛みの交換のやつ。心配するな。思い切り殴る訳じゃない。なんなら才機が俺を殴ってもいいぞ。色々試してその能力をもっと理解出来るかも」

才機は考える仕草を見せた。

「でもどうすればいいか分からない。あの時は勝手にそうなった」

「能動的にやれないか」

「まぁ、あれから試してないから分からないけど」と才機は目を閉じた。

才機は首をかしげて集中しているようだ。すると才機の肌が見慣れたガラス状になった。

「それ、いつものやつじゃん」とリースは才機の堅い肩をトントンと叩いた。

「あ、悪い」

才機は元に戻ってもう一回集中してみた。

「やっぱり駄目だ。その感覚すら覚えてない」

「あったんだな、特別な感覚」

「いや、言われてみれば特に変わった感じがしなかった。いつの間にかそうなっていただけ」

「じゃ、今出来るかも。ちょっと歯を食いしばってみる」とリースが才機の方へ歩いた。

「え?いや、多分出来てない」

「一回殴ってみないと分からないだろう」

「いや、これ絶対出来てないから。何もしてないんだから」

「お前そんな女々しい奴だったのか。分かった。このフォークがあるからこれで足をちょっとだけ刺してみる」とリースがフォークを取りに椅子に戻った。

「なぁ、この実験やめにしない?」

すると床に座っているメリナは寄ってきたリースのズボンを引っ張った。

「別にいいじゃん、そんなの。リベリオンが壊滅した。これで狙われる心配はもう無くなった。前からあいつらのやり方から気に入らなかったんだよね」

「よく言うよ。そのリベリオンから依頼を受けたのは誰だ?」と海がメリナをからかった。

「あれは単にお金の為だった。仕事だと選り好みは出来ない」

「はい、はい。仕事は、ああ!!」

「な、何を急に?」とメリナがたじろいだ。

「仕事だ!どうしよう?!ずっと無断欠勤だった!才機はオーナーに何か言った?」

「いや、何も」

「まずいよ。怒ってるだろうなぁ。もう首にされたかな。メリナ、何か欠勤した絶好の言い訳思い付かない?」

「なんであたしに振るのよ?堅気の仕事やった事ないし」

「だって嘘つくのうまそうだ」

「失礼わね」

「本当の事だけどね」とリースはまたコーヒーを飲んだ。

「無断欠勤する言い訳ねぇ···」

「もう考えてるし」

「これなんてどう?ものすごーく体調を崩して、ほぼ昏睡状態だったのでずっと寝たきりだったとか?まぁ、それを雇い主に伝える事くらい出来なかった才機は随分無責任に見えるけどね」

「病気かぁ。しかし、どうも定番なんだよねぇ。他には?」と海が聞いた。

「それがいやなら、他に言い訳になりそうな事は···テロ集団に拉致されてずっと監禁されていたとか」

「ごめん。犠牲になってくれ」と海は才機の手を握った。

「仕方ないか。任せておけ」

「じゃ、今日は一緒に謝りに来て。私一人じゃ説得力に欠ける」

「お」とメリナが何か閃いたらしく、右の握り拳で左の手のひらをポンと叩いた。

「病気になった原因はオーナーへの感謝の気持ちとしてメトハインまでプレゼントを買いに行ったけど、帰りに何かに怯えた馬から落下して意識を失ったが中々戻らなかった。で、これからなんか適当にプレゼントを買って壊すの。落ちた時に壊れたって申し訳そうにオーナーに渡す。この場合は病気じゃなくて怪我か」

「おお!それいただき!やっぱメリナは頼りになる〜」

メトハインという言葉が出てきてリースはある疑問が思い浮かんだ。

「なぁ、捕らえた異能者達はメトハインに連れていかれてからどうなった?」

「俺達はメトハインまで行かなかったから分からない。ここで降りさせてもらった。どうして?」と才機が言った。

「あ、いや、気になってただけだ」

メリナは何やら好奇の目をリースに向けた。

「さーて。今日は海の無事帰還を祝おうか?」とリースが提案した。

「いいよ、別に。あ、でも今晩は皆で食べよう。腕によりをかけて美味しい物を作ってあげる」

「それ、逆じゃない?あたし達が海の為に何かやらなきゃ」

「気にしないで。本当はあの日、お昼を作ったからさらわれる前に二人を誘うと思ってた」

「分かった。じゃ、あたし達も何か持ってくるね」

「その前に仕事して腹を空かせなきゃ。どうだ、才機、久しぶりにやるか?」とリースが椅子から立った。

「もうちょっと休ませてくれ。今は一分でも長く海と過ごしたい。それに、今日は海と一緒にオーナーに謝りに行こうと思った」

「じゃ、そろそろ行こう。この上遅刻して行ったらまずい。プレゼントも買わなきゃ···」と海が言った。

「今日はいい日になりそうだ。もう二度とさらわれるんじゃないぞ。海が死んだと信じた才機は半分死んでいるようなもんだったから」とリースは部屋を出た。

才機と海がレストランに着いたら、海を知っているウェートレスが駆け付けてきた。

「海!一体どこに行っていた?辞めたの?」

「いや、そうじゃない。この数週間は、ちょっとね。オーナーは奥にいる?」

「うん」

「怒ってた?」

「んーー。まぁ、面白くないのは確かだけど」

「だよね。話してくる」

ちょうど厨房に入ろうとした時にオーナーが出てきた。

「海!どこに行っていた?連絡もなしで」

「申し訳ありません。とんでもない迷惑をおかけしました。少し前まではずっと寝た切りでした。実は馬から落ちて、落ち方が悪かったみたいです。一週間以上意識がなかったらしいです。その間、てっきり彼が私の事情を知らせておいたと思ったけど、どうやら知らせませんでした」

「海の事で心配過ぎて、看病の事以外、何も頭に入ってなかった。まぁ、自分は定職がないせいか、そういうのにあまり気が回らなかった。すみません」と才機が頭を下げた。

「あのー、いつも料理を教えてくれるお礼にお土産を持って帰りましたが、落ちた際にちょっと壊れちゃって、使い物にならないかもしれないけど」

海は鞄から出来のいい木製のお玉杓子を出してオーナーに渡した。カップの部分の近くに柄が折れていて変な角度になっている。

オーナーはお玉杓子を見てから海を見た。

「正直海がいない事でここの能率が下がるのがはっきり分かった。だから三日前にアルバイトを募集し始めたんだ」

「そう、ですか」と海の声に落胆の色があった。

「しかし、まだ誰も見つけておらん。続く気があるならフロアに出てタニャとクレリスを手伝ってやれ」

「はい、ありがとうございました」と海はお辞儀した。

「私からも礼を言います」と才機が言った。

「このお玉杓子はよく出来ている。ちょっと取り繕えば使えるようになる」とオーナーはがお玉杓子を目の前に持ち上げて精査した。

海は奥へ着替えに行った。

「私からも礼を言います」と才機が言った。

「ま、仕事に影響が出ないようにちゃんと看病してくれたんなら相子にしておこう」


海の仕事が上がる十五分前に才機はまたレストランに来て外で海を待った。

「お疲れ」と才機はレストランから出てきた海を迎えた。

「くたくただよ。張り切り過ぎちゃったかも」と海がちょっと疲れそうな顔で言った。

「あまり無理するなよ。ずっと監禁されながら酷使されたんだ。体は多分まだ本調子じゃないんだ」

「でも、突然いなくなった分をどうにか巻き返さなきゃ」

「ほどほどにな。俺とオーナーの間では海を全快させた事になってる。ま、早く帰って休もう」

「駄目だよ。忘れた?リースとメリナを夕食に招いた。先に買い物しなきゃ」

「あ、そうだった。じゃ、荷物運びは俺に任せて」

二人は商店街に行って必要な材料を揃った。宿に戻ったら海は料理を始め、才機は観察側に回った。海がてきぱきとアサリをパージしたり、魚をさばいたりしている姿を見ると才機は感無量だ。

「段違いだな」

「ん?何が?」と海が薄切りにしたニンジンを鍋に加えた。

「今、海がケインの家で作った物を思い出してさ。あの頃の海とは大違いだなって」

「当然よ。あの時、包丁を握るのは初めてだったんだもん。誰かに教えてもらえばそれほど難しい事じゃない」

海はお玉杓子でだしを掬って味見した。

「うむ。こんな感じかしら。才機はどう思う?」

海はお玉杓子を才機の唇の前に持って行った。

「うん、うまい」

「じゃ、後少しで完成だね」

「やっぱりここにいた」とメリナが宿の小さな台所に入ってきた。

「お帰り。リースもいる?」と海が聞いた。

「うん。二人の部屋に誰もいなかったからここで準備してるかなと思って。ん?おお!何これ?いい臭いだ〜」

「シーフードスープ。もう直ぐ出来上がるよ」

「うまそう〜。あれっ、前に海は料理が出来ないとか言わなかった?」とメリナは才機に聞いた。

「言ったっけ?ま、少し前なら俺が言いそうな事だけど。でも嗅いだ通り、今そんな事はない」

「ふーん。手伝う事はない?」

「じゃあ、この食器を私達の部屋に持っていって準備してくれる?はい、鍵」と海が鍵を渡した。

「あいよ」

海と才機が晩飯を持って部屋に戻った頃には準備が済んでいてリースとメリナはテーブルを囲んで座っていた。

「おお、待ってました」とリースが言った。

才機はスープが入った鍋をテーブルの真ん中に置いた。

「メリナが言った通りいい臭いだ」とリースはその香ばしい匂いに気付いた。

「肝心なのは臭いよりも味の方ですよ。好きなだけ装って」と海が言った。

先に海の言葉に甘えたのはリースだった。彼は海のスープを一口食べてゆっくり味わた。

「才機よ、お前って奴は羨ましいー。こんなうまいもん好きな時に食べられるなんて」

「むっ、美味しい!店張って売り物にしたら儲けるんじゃない?」とメリナが言った。

「その店は既にあるんだよ。私はそこで働いてる」

「好評を博してよかったな」と次は才機が自分の分を装った。

最後に海が席について自分のボールにスープを入れた。

「やっぱ温かいと益々うまいな」と才機が独り言を漏らした。

最終的に鍋には何も残らなかった。残り物を保存する心配はなさそうだ。

「ごちそうさま」と才機が空になったボールの中にスプーンを置いた。

「あら、まだ終わってないよ。私達も何か持ってくるって言っただろう?」とメリナは席から立ち上がって自分の部屋へ行った。

戻ってきたメリナは箱をテーブルに置いた。

「じゃじゃ〜ん!」

メリナは箱を開けて中にあるイチゴケーキを皆に見せた。

「うわぁ〜、美味しそう。デサートもあるんだね」と海が手を合わせた。

最初はメリナの顔に大きな笑顔が浮かんでいたが、首をかしげてケーキを綿密に調べ始めた。

「ん?どうしたの?」と海が聞いた。

メリナは答えず、目を細くしてもっと綿密に調べた。最終的にその訝しげな眼差しをおもむろにリースの方へ向けた。リースはと言えばそっぽを向いてメリナの視線に気付いていないようだ。しかし、一瞬だけちらっと妹の方を見て目が合ってしまうと、ほんの僅かに焦るようにまた何もない空間を見始めた。

「信じられない!」とメリナが叫んだ。

「それはこっちの台詞!何そんなにまじまじとケーキ見てんだよ?!」

「開き直るな!お前をケーキと一瞬でも一人きりにしたあたしが馬鹿だった」

「どうしたの一体?」

なんのことやら全く分からない海が再度問う。

「ほら、見てよここ」

メリナはケーキの縁にある複数の生クリームがくるくると盛り上がった部分の一つを指差した。

「他のと比べて微妙に小さいし、形もちょっと歪だろう?そして周りの生クリームが少し凹んでる。こいつ、この盛り上がった部分の上の方を食べて周りの生クリームで誤魔化そうとした!」

「ちょっと味見しただけじゃん。大騒ぎする事ないって」

弁解するリース。

「と言いつつ、隠すのに偉く手間をかけたな」と才機が指摘した。

「そう!それだよ!メリナが注目してる所が違うって。凄い出来栄えだろう?それ完成したら、もー、自分でも感心したよ」

「なーに言ってんだ、あんた?!誰が感心するか!」

「いや、正直俺は恐れ入りました。大した完成度だ。それを見抜いたメリナの目も凄いけど」

才機は改めてリースによる工作を近くで吟味していた。

「ほら、才機が認めてくれたぞ?」とリースが言った。

メリナは溜め息をしてケーキを切り始めた。

「じゃ、お兄ちゃんが手を付けたこの部分はお兄ちゃんので決まり」

「そう、そうすりゃいいんだ。お前はいつも大げさに反応し過ぎ」

メリナはリースの前に皿を置き、皿の上のケーキはその小さな盛り上がった部分から下のみがきっちり切り取られた一切れとは言い難い幅二センチ強の四角柱だった。

「あの···ちょっと···」


   •••


それからの日々、才機は浮気がばれていつもより気が利く彼氏みたいになっていた。毎日海を仕事場まで同行するわ、上がる時間までに迎えにきてくれるわで、海は一人でいられる時間がほぼ無くなっていた。相手が才機なら本人はそれが別に嫌だとは思っていないが。お陰で才機の方はここのところあまり働いていない。リースから紹介される仕事は四時までに終わりそうになければ全部断っていた。メリナは才機が海を独占し過ぎだと訴えて、海の休みの日を狙って女だけの半日も掛かった買い物に連れて行った事もあった。今日も海と一緒に宿を出かける才機だが、その前にリースに声を掛けられた。

「あ、才機、ちょっと話があるんだけど、帰ってからでいいからここで待ってる」

「おう、分かった」

宿を出ると海が才機に言った。

「私の事ならそんなに心配しなくてもいいよ。リベリオンはもういないし、また狙われる事はないだろう。たまにはリースの仕事を手伝ってあげたら?」

「別にまたさらわれる心配をしていないけど、俺はただ海と一緒にいたいだけさ。それにリベリオンがいなくても他の危険なんていくらでもある。暴れ馬が走ってきたり、逃走中の犯罪者に人質にされたり、窓から何かが落ちてきたりしたら俺がいた方がいいだろう?」

「何それ?ありえないでしょう?結局は心配してんじゃん」

「だって、せっかく取り戻せたんだ。可能性だってゼロじゃないだろう?心配させてくれ」

「ゼロじゃなくてにゼロに等しいよ、そんなの。まぁ、お金は今んところ大丈夫だから別にやれとは言わないけど···」と海が言った瞬間に才機の上に水が打っ掛けられた。

頭上の窓から女の人が二人に呼び掛けた。

「ごめんなさい!ちゃんと見ていなかったわ。花にあげる水だけだから大丈夫よ」

才機は注意深く周りを見た。

「この辺に馬はいないよね?」

「な、ない···と思う」

「店に急ごう」と才機が海の手を引っ張った。


「そういや、この前、異能者とそうでない人は見るだけで区別出来るって言ったね。本当か?」

「うん。その能力はどれほどの物かは分からないけど。単に目を色を変えられる男の子とあのラエルという炎を生み出せる人のオーラは大体同じに見える」

「ふーん。そしてこの街にも紛れ込んでいる異能者は少なくはないっか」

「うん」

「今はどう?結構いるのか?」

「んーー。この辺にはいないみたい。あ、一人いた」

「そうでない人はまだ圧倒的に多いって事ね」

「でもこんなに普通に一緒に暮らしている。その事実を知れば共存出来ると分かるはずなのに、きっと異能者を追い出したくなるだけでしょうね」

店に着いて結局才機の予言は一つしか当たらなかった。無事海を送った後、宿に戻ってリースが言った通り待っていた。

「え?何?雨降ってんの?」

「いや、ちょっとした事故に遭っただけだ」

「そうか。ま、俺が言った話っていうのはお願いだ」

「お願い?」

「そう。急だが明日から俺とメリナはしばらくの間こっちにはいないんだ。いつまでははっきり分からないけど、長くて一週間近く。それで、明後日に予定されている仕事を才機に頼みたいんだが」

「そういう事は任せて。どうすればいい?」

「明後日は十時に市役所に行って、ヴィニーという人にお前が俺の代行だって言えばいい。詳しい事は彼が教えてくれる。そんなに時間は掛からないと思うから四時までに終わるはずだ」

「分かった。しかし、一週間もいないって事はかなりの大仕事だろう?そっちは手伝わなくていいのか?」

「あ、ああ。俺達二人で大丈夫だ。じゃ、明後日の事は頼んだ。悪いな」とリースは席を立って宿を出た。

《久しぶりに一働きするか。どんな仕事だろう。魔物退治?賞金首の捕縛?人質救出?一人で大丈夫かな》


二日後。

「頼んだぞ〜」と頭上の穴から男が才機に呼び掛けた。

「今回ばっかりは俺の能力は全く役に立たないな」

才機の右手にはビニル袋、左手には軍手。

「くさっ!」

才機は今下水道にいる。その仕事とは詰まりかけた排水路の掃除。数々の鉄格子に掛かったゴミや···正体不明な物を取り除く作業だ。口で呼吸しながら才機はビニル袋を少しずつ一杯にした。

《リースはこれがやりたくなくてサボってるだけじゃないだろうな。大体どこに行った?普通、仕事が予定に入ってるなら同じ日に別の仕事を入れないだろう》

そんなにリースを疑っていた訳じゃないが、この状況で愚痴は言いたくなるものだ。いつもプロがどうだとか説いているリースは仕事を放り出すような真似はしないだろう。でもリースが言った通り、そんなに時間は掛からなかった。まだ海を迎えに行く余裕がある。勿論、その前に宿に戻ってシャワーを浴びるけど。

そのまま平穏無事な日は五日経ったが、リースとメリナは帰ってこなかった。六日目には才機が宿で昼を食べていた。海が働いている店で出る物の方が才機の口に合うが、流石に働いている時も才機がいたのでは、海はその顔を見るのを飽きてしまう。それで今日はシーフードスープではなく、チキンサンド。それをかじっている時にリースとメリナが宿に入ってきた。

「お、お帰り。本当に一週間近くいなかったな。大儲けしてきた?」

リースとメリナは才機が座っているテーブルに向かったが、久しぶりに会ったというのに何となく二人の顔がちょっと陰気過ぎるような気がした。

「実は仕事に出たんじゃない」とリースが言った。

「え?あ!まさか本当に下水道掃除が嫌で俺に押し付けただけなのか?」

「下水道?あぁ、そうだ。頼んでおいたな。いや、違うんだ。んー、どっから話せばいい?ただ働きってのはどう思う?」

「え?」

「そこじゃないだろう」とメリナがリースに言ってから才機を見た。

「才機、あんたに力を貸して欲しい」


久しぶりに海は一人で宿に帰ってきた。才機が迎えに来なかったということは恐らくまたリースの仕事を手伝っているという事だから、部屋に入って才機が椅子に座っているのを見たらちょっと驚いた。

「いたんだ。てっきりまた何かの仕事をやっていると思った」

「もうこんな時間か。考え事をしてたらつい時間の事を忘れちゃった」

「ふーん。で、何をそんなに真剣に考えていた?」

「リースとメリナが持ってきた話」

「帰ったんだ」

「うん」

「じゃあ、話って仕事の事?」

「ん、まぁ、ね」

「そんなに悩まないでやればいいのに。言っただろう?私の事は気にしなくていいって。私ばかり稼いでいたら男としてのプライドに傷が付くんじゃない?」と海はからかってみた。

「ギャラは出ないよ」

「え?何?ボランティア?」

「そう考えてもいいかな」

「で、やるの?」

「先に海と相談してから答えるって言った」

「···それって···危険な事をするの?」

「勘がいいな、海は」

「どれぐらい危険?」

「一から十の段階で評価すると、八かな」

「だったらやらなきゃいいじゃん!考えるまでもない」

「でも···やりたいかも。それに、俺がやらなくてもリースとメリナはもうやるって決意した。俺を入れての危険度八。俺抜きだと九や十にもなる」

「なんでリースとメリナがそんな危険な事をやらなきゃいけないの?何の事か詳しく教えて」

「じゃ、まずは、リースとメリナが俺達に黙っていた事がある。二人は異能者に同調する秘密結社の一員だ」

「何それ?リベリオンみたいな集団?」

「いや、そのメンバーの殆どは普通の人間。そしてリベリオンみたいに公然と行動はしない。だから秘密結社。リースとメリナはこの数日メトハインで他のメンバーと密議していたらしい」

「よりによってなんでメトハイン?」

「さぁ。灯台下暗しの原理を応用しているつもりかも。結社の本拠はメトハインにあるそうだ。で、ある情報が手に入ったからその真相を確かめていた」

「ある情報?」

「この間、リベリオンのアジトに仕掛けた襲撃で捕らわれた異能者は非人道的な実験に使われている事。そしてそれが事実だと分かった」

「実験?」

海はリベリオンのアジトで会った子達がモルモットのように扱われているのを想像した。

「彼らは全員あの塔の下の研究施設で幽閉されているそうだ」

「仕事ってまさか皆を脱獄させる事?」

「そのまさかだ」

「無茶だよ!本当に出来るの、そんなの?」

「作戦は練ってあるらしいから不可能って事はなさそうが···少人数で動くから最悪の事態になって失敗しても俺達三人は逃げるくらいは出来るはず」

「はっきり言って私は反対だ」

「やっぱり?」

「当たり前だろう?でも···さっき、やりたいかもって言ったよね?なんでやりたいと思っている?」

「リースとメリナを助けてやりたいのはもちろんの事、気に食わないんだよ、帝国が。勝手に異能者を生み出したのはあっちで、しくじったら事実を隠蔽する。その上異能者になった人を根絶させたがっている。もしかしたらこの実験はその為に行われているかもしれない。異能者を殺害する化学兵器でも作ったら俺達だってやばい。人体実験というのも気に入らないし」

「そこまで考えたんだね。私も実験で使われている人は可哀相だと思って、助けられるんなら助けたいけど···リスクがあまりにも···」

「でも考えてみ。帝国が剣や銃でしかぶつかってこられない。それくらいは俺がいればどうとでもなる。見つかったら捕虜の解放は諦めるしかないけど、脱出するのは十分可能はずだ。全員覆面をすれば正体もばれない」

ベッドの上に座っている海は横になって頭をかきむしった。考え直しているだろうか。才機は飽くまで海に決めさせるつもりだ。海がまだ反対だというのなら彼女の意志に従って側に居続けるまでだ。かなり無茶をしようとしているのは否定出来ない。

「条件がある」と海が言い出した。

「条件?」

「私も一緒に行く」

「え?!なんで?」

「私だけここでずっと心配してるのは嫌だ」

「だからって海まで余計な危険に晒す事はないだろう」

「自分で言ったじゃない。脱出だけは絶対に出来るはず。それにかなり役に立てると思う。見つかったらやばいだろう?私なら回りにどこに誰がいるかは分かる。うっかり警備員とかとばったり鉢合わせするのを防げる」

「···」

「ほら、後、もし逃げることになって誰かが怪我して走れなくなったら私がいれば治してあげられるから足が引っ張れることはない」

「いや、そうなったら治療したお前を担ぐことになるからプラマイゼロだよ」

「んっ。と、とにかく探知において私以上に適している人はいない。才機を入れて危険度が八に下がるなら、私も入れれば六か七には下がるだろう?」

「そう言われると一理はあるが···まじで付いてくる気?」

「大まじ」

今度は才機が頭をかきむしった。

「四人は少人数のうちに入るかどうかはリースに確認する必要があるけど」

「じゃ、私も来るって事でいいんだね?」

才機はどっちかというとここで待っていて欲しい。でもそれを言ったら自分が行くべき論拠が弱まる。

「飽くまで決めるのはリースだ。明日の朝に答えを出すと言ったからその時にリースに聞こう」


   •••


リースは部屋を訪ねてきた才機と海にずばり言った。

「決めるのは俺じゃないよ」

「え?じゃ、誰が?」と才機が聞いた。

「皆さ。あっちに戻ったら四人目を加えても作戦が成立するかどうか皆で決めないと」

「でも確かに海の能力を考慮に入れれば便利よね」とメリナが言った。

「でしょう?」と海が透かさず言った。

「そりゃ、俺も認めるけど、取りあえずは一緒にメトハインに来ればいい。それからどうするかは皆で話そう。それでいいか?」と最後の方はリースが海に向けて聞いた。

「分かった」

「そんじゃ、飯食って早速向かうとするか」

「私は職場に行って休みをとってくる」

残った三人は下へ下りて注文した朝食を食べていた。

「ありがとうな、乗ってくれて。必ず成功させよう、この作戦」とリースが言った。

「この前帝国と協力した事でまだ悪い後味が残っているんだ。口直しとしてはちょうどいい」

「そうか。ま、どの道よろしくな、相棒」

「あ、海が戻ってきた。オーケーから許可をもらった?」とメリナが聞いた。

「それが···もらうまでもなかった。あっちに着いたら、同僚が扉の前で立ち往生していて、二日間休業ご迷惑をかけて申し訳ありませんってメッセージがドアに掛けられた」

「ふーん。急病か何かかな」

「さぁ」

「ま、良かったじゃない?ほら、海のはこっち。飯を済まそう」


朝食を食べた四人は前と同じペアを組んで二頭の馬を用いてメトハインに向かった。メトハインに着いたら才機と海が連れていかれたのは小さな金物屋。

「ま、少し見回るといい」とリースが提案した。

才機と海は特に必要な金属製品がなかったが、取りあえずリースとメリナに習って言われた通りにした。他に二人の客はいたが、店を出た途端にリースは店員に言った。

「俺達は奥の方へ行く」

店員は頷いただけで、無関心の表情は変わらない。四人は奥へ進んだが、金物の在庫しかなかった。そこでリースは目につかない上げ板を引き開けて才機と海についてくるように手で合図した。狭い階段を降りて明かりが見えた。蝋燭の光だ。上に蝋燭が六本載っているテーブルはあって、男二人と女一人がそのテーブルを囲んでいた。左の男は四十代、後二人は五十代かそこらぐらい。真ん中の男はリースに問い掛けた。

「彼ですか、作戦に加えて欲しいというのは?」

「はい。賛同してくれたんで作戦の成功率はかなり上がる思う」

「女の方は?」

「彼女も異能者で、回りの人間の気配を感じる事が出来る。一緒に連れて行けば何かと便利と思っていたが」

「んーーー。本来は二人だけでこの作戦を実行するつもりでした。四人にしていいのかはフリツの意見を聞いて判断しましょう」

「フリツって誰?」と海はメリナに囁いた。

「宮殿の下にある研究施設の科学者」とメリナが答えた。

「そこで異能者が人体実験に使われているという話は彼が持ってきました」と真ん中の男が言った。

「彼もそろそろ来るはず。取りあえず席に着いて。この作戦について逐一説明してあげる」と右の女性が言った。

全員席に着いて真ん中の男はまた喋り出した。

「王宮下の研究施設で何十人の異能者が内密に人体実験に使われている。例え犯罪者であってもこれは断じて許すべき行為ではありません。自ら異能者になると決めた訳でもありませんし、異能者になる事は人間ではなくなる事を意味しません。彼らには人権があります。その人権を踏みにじっている帝国は言語道断。ですから解放せねばなりません。フリツの話によると皆は最下層で捕らわれています。地下四階です。研究施設の構造はこの通り」

男はテーブルの上にあった用紙に指をつけた。

「研究施設の図面だね。肝心の四階は?」と才機が聞いた。

「ありません。この図面を書いてくれたのもフリツ。でも四階まで下りるのに許可が必要。フリツでも立入り禁止です」と左側の男が言った。

真ん中の男は話を続けた。

「でも一階から三階までの図面を見ると共通しているのはそれぞれの階の東と西側の壁にかなり大きいな部屋が二つ隣接されています。主に保管所として利用されているそうです。四階も似たような構造でしたら大勢の人を監禁出来る場所はこの部屋しかありません」

「むしろその部屋であって欲しい。もっと正確に言えば西側の部屋」と女性が言った。

「なぜですか?」と海が聞いた。

「脱出経路がそこにあるから。どの階でも西側の壁の裏にはかなり大きい管が設置されている。歩いて通るのはとても無理が、這って進むには十二分だ。でもそれも十メートルぐらい。そのパイプは近くの下水道に繋がっている。鉄格子は既に取り外されてある。ホリス、あれを出してくれ」と女性が言って、左の男が部屋の隅に行って一巻の用紙を持ってきてテーブルの上に広げた。

女性は説明を続けた。

「これが下水道の構造。あなた達が研究所から入るのはここ。このルートを使って南の方へ向かう」と女の人は指で用紙の上で指を滑らせらた。

「ここまで来くればメトハインの外だ。もう少し進めばこの辺で出られるけど、地上の人の援助が必要だ。なので救出を手伝う為の団体をここで待機させる」

「脱出と言いましたけど、潜入も同じルートでですか?」と海が聞いた。

真ん中の男が答えた。

「それは無理です。西側の壁に穴を開けるにはフリツが用意した爆発物を使います。作戦は真夜中で実行するとは言え、まだ警備員がいます。爆発音を聞いて調べに来るはずです。壁を壊してから皆を解放しては遅いです。全員を集めて、壁が壊れたら直ぐに脱出を開始せねばなりません。捕虜達が西側の部屋じゃなくて東側でしたらなおさらだ。警備室は地下一階にあるからまずはそこに行って監房の鍵を探す必要はあったが、リースの話によると君は鍵がなくても捕虜の監房をこじ開けられると言いました」と最後の方を才機に向けて言った。

「ああ、それは大丈夫だろう」

「ならば凄く助かります。鍵を手に入れるのがこの作戦の一番の難関でした」

「しかし、実際にどうやって潜入するかはまだ聞いていないけど···」

その時、 上げ板が開けられ、もう一人の人物が下りてきた。

「それについては彼が協力してくれます」と真ん中の男が言って今しがた入った人を見た。

「彼がフリツです」と女の人が言った。

「ちょうどいい。どうやって研究施設に潜り込むかはフリツから説明してもらうかね」と真ん中の男が言った。

「その前に確認しておいて方がいいだろう。フリツ、また変更になるが、三人ではなく、四人を連れ込むのは可能?」と女性が尋ねた。

「今度は四人か?一応私の助手として連れて行く訳ですから、四人は流石に怪しくないでしょうか?」

「そこは何とかならないのか?この子は人の気配を感じる事が出来るそうです。一緒に行動してもらえば警備員と遭遇しないで済みそうだ」

「四人···。本当にこれ以上増やすのを勘弁して下さいね?自分の立場も考えないといけないので、あまり目立つのは···。もし捕まったら」

「分かっています。今回のフリツの貢献が大きい。万が一捕まったとしても、あなたの名前は出しません。彼らの独断でやった事にします」真ん中の男が言った。

「いや、前向きに考えましょう。こんな人材が揃っているし、適材適所と言えよう。さて、さっき言いましたけど、あなた達は私の助手を演じてもらいます。私の研究室は地下一階にあるので、夜になるまでそこで身を隠せばいい。今日は他の研究者が来ないはずです。大体九時になったら皆が帰って警備員は部屋のチェックをして戸締まりをします。だから、九時に私が帰ったら皆は物置に隠れていて下さい。四人じゃ厳しいだろうけど、我慢してくれ。中からドアを開けられるから警備員が去ったら地下四階を目指して。そこはどうなっているか分かりません。関係者以外は立入り禁止だから私も四階までは下りた事ないです。自分達で何とかするしかありません」

「後は先ほど私達が話した通りです。質問や異存はありますか?」と真ん中の男が確認した。

才機と海はお互いを見てから才機が答えた。

「ないです」

「では、正午工業地区2—3でまた会おう」とフリツが言った。

「工業地2−3区···」と海の声に不安が聞き取れる。

「大丈夫よ。俺達についてくれば分かる」とリースが言った。

「私は色々と準備があるから先に出ます」とフリツが地下貯蔵庫を出た。

「面目ないが私達がしてあげられるのはこれまでです。後は皆の成功を祈るしか出来ません。大変な役割を全部あなた達に任せて申し訳ありません」と真ん中の男が言った。

「気にすんな。ばっちり決めてみせるから。大船に乗った気でいろ」とリースが言った。

左側の男はまた部屋の隅に行って何かをリースに持ってきた。

「これが爆発物だ。このスイッチとこのスイッチを同時に押せば三十秒から逆算し始める。途中で中止したければこっちのボタン。でもタイマーをリセット出来ないから残り五秒以内に中止したらもう使い物にならないと思っていい。誰かが犠牲になってくれない限りね。こいつが爆破したら範囲十メートルにいない事だ。あと、これ、保護テープ。効果を最大限まで発揮させるんなら壁の中心に張り付けた方がいい」

「分かった。じゃ、行こう皆」

「図面とかも持って行かなくていいの?」と海が聞いた。

「いい。ここに入ってるから」とメリナは自分のこめかみをつついた。

「こう見えても俺の妹は記憶力半端ない」とリースが言った。

「こう見えてもは余計だ」とメリナは異議を唱えた。

「いやぁ、こんなに美人だから誰もそうは思わないって意味だよ」

「どうだか」

「さ、行こうぜ。正午まで二時間もないんだ」

四人は都市の他の住人のように平然と街路を歩き、集合場所を目指した。相変わらず、異能者が迫害されなければ平和そうな都市だ。たまには行商人の呼び込みの対象にもなる。だが、もしメリナのバンダナがひょっこり落ちたらどうなるのだろう。そう考えるといくら楽しそうな所でも誘われたらどうしても手放しでその情緒を賞玩出来ない。工業地区に入ると人気が薄くなった。皮肉な事にこのうるさくて機械ばっかりの場所の方がよっぽど落ち着ける。

「ここが2—3区の中心部だ。ここで待とう」とリースはベンチに座った。

「この組織って二人を除いてあの四人だけ?」と才機が聞いた。

「いや、地下貯蔵庫にいた三人は幹部みたいなもんだ。実際何人か分からないがまだまだいるよ。あの婆さんが言っただろう?街の外に助っ人を送るって」

「今更だけど、これから随分思い切った事をするんだね」と海が言った。

「いいか?降りたきゃ責めたりなんかしないよ。お前もだ、才機」

「いや、俺の気は変わってないが···」と才機は海の顔を伺った。

「私もそうよ」と海が慌てて両手を自分の前で左右に振った。

「ただ、何って言うか、全然緊張していないって言ったら嘘になる。リースとメリナはこういう危ない仕事を何度もやってきたんだね」

「ま、これほど危ない橋を無料で渡るのは流石に初めてけどね」とリースが肩を落とした。

メリナはリースの隣に座った。

「ある意味、今回の危険度は前にやった仕事に比べて低い。なんたって命を落としかねないような仕事を何回かやった事あるからね。才機も海もそうよ。最初はそういう事になるような依頼だと思わなかったかもしれないけど。今回は生き延びるよりも成功する方は困難だ。万が一捕まったとしたら、殺したりはしないだろう。最悪でも終身刑ってところかな」

「それを聞いて気が楽になったとは言えないな」と才機が苦笑いした。

「何を言ってる?お前を閉じ込める牢屋なんてあるの?」とリースが言った。

「脱獄出来ても指名手配書に顔が載ったら人生がめちゃくちゃだ」

「あ、そうだ」とリースはウエストポーチから黒い布みたいなもの出して、他の三人に一枚ずつ投げ渡した?

「これは···覆面ね。これを被せたら銀行の強盗犯にしか見えない」と海が言った。

「そして狙いはこの国の最大の宝物。その民だ」

「ぷっ」とメリナは笑いを抑えた。

「何だよ?今のは格好よかったじゃん」

「いやぁ、お兄ちゃん以外の人が言ったら格好いいかもしれないけど、あんたはそういう柄じゃないだろう」

「やはり狙いはこの国の最大の宝物か。その民だ」と才機が大真面目な顔で真似してみた。

今度は海が笑い出した。特に堪えようとせずに。

「んー、案外格好よくないかも。あるいはこのメンバーの男子に似合わない台詞だ」とメリナが言った。

「あんた達最高本当に、こんな時に笑わせられるなんて」と海が気を落ち着かせた。

「本気で言ったんだけどねぇ···」とリースがベンチの背もたれに両腕をもたせ掛けて青空を見上げた。

その内、十二時になって皆の前にフリツが現れた。

「皆揃ってますね。王宮に行く前に寄る所があるから着いてきて」

フリツが言った寄る所は工業地区にある路地だった。

「奥の段ボール箱の中に作業着が四人分あるからそれに着替えて。普通に服の上に着てもいい」

リースは箱を開けて青い作業着と帽子を皆に配った。作業着は上半身と下半身が一緒になっているタイプで、履いてからチャックを上げるだけ。

「マント外した方がよくない?」とちょっと苦労しているリースを見て才機が提案した。

「駄目だ。この作業着だけじゃライフルが見えちゃう」

少し嵩張っていたが、何とか作業着を着れた。帽子を被って変装完了。

「じゃ、二人掛かりでその二台の機械を運んで」とフリツが指示した。

「これ?ゴミだと思った」とメリナが言った。

「ゴミさ。だが作業員らしく何かやらせた方がいいと思ってね」

「ぐ、重い!せめて中身を取り出せばよかったんじゃない?」

「まぁ、王宮は直ぐそこだから頑張って。さ、行こう」

フリツに先導だれてリースとメリナで一台を、才機と海でもう一台を運んだ。王宮に近付くと何やら正門で騒ぎが起きている。階段を上がるとそこに男の子の手を握っている女の人が門番達と揉めていた。

「まだ娘に会えないの?!」

「だから、皆をどう処分するかまだ検討中だ」

「七歳の女の子よ?!処分も何も母親に返すべきでしょう?!」

「判決が下ったら、きっと返ってくる。こう毎日毎日来ても手続きが早く済むわけじゃない」

「あの子は何も悪くないんだ!皇帝に会わせて下さい!」

「殿下は御多忙です。いちいち文句のある奴にお見えになるはずがなかろう。ほら、後ろ並んでるよ。邪魔だ」

「もう返して!娘を返して下さい!」

門番は腕の甲で必死に訴えている女の人を押して退かした。もう一人はフリツと話した。

「あの連中は?」

「はい、私の研究を手伝っている者です。今、研究室に向かうところ。これが身分証明書です」

お母さんの手を握っている男の子は海をじっと見ていた。やはりリベリオンのアジタにいた三人家族だ。男の子もまた海に見覚えがあるようで、海は頭を垂れて顔を帽子のつばの後ろに隠した。

「はい、通っていいですよ」

五人は中に入って親子のいる所を後にした。ドアが閉まる前に母親の抗議が再会するのを聞こえた。

「こっちです」とフリツが地下への階段に向かった。周りはあっちこっちに兵がいたが特に怪しまれる事なく、フリツの研究室に辿り着いた。

メリナは運んできた機械を遂に降ろすことが出来た。

「腕が死にそうだ。海は疲れない?」

「重い物を持ち上げるの慣れてるから。私も才機も。物じゃなくて、人だけど」

「ああ、あのジュウドウってやつね。あたしも何かの格闘技を学べばよかったなぁ。こういう時に役に立つんだろうね」

だがリースはそうは思っていないみたい。

「いいや。出来れば誰にも会わずにこの任務を果たすのが一番。警備員を伸ばしたところで誰かが侵入した形跡を残すだけだ。爆弾がドカンっとなるまで俺達がここにいるって事を悟られたくない」

フリツは研究室の向こう側に向かった。

「そううまくいくといいがね。取りあえず何かやって忙しそうにしていて下さい。俺は一応いつも通り研究を続けるから」

「王宮に入るの初めてだ。真っ先に見たあの兵の数にびびった」とリースが言った。

「あそこは兵士達の休息所みたいなもんだ。夜になったら殆どいなくなる」とフリツが説明した。

「しかし、入り口でのあの騒ぎは何だったんだろうね」とメリナが言った。

「お母さんだ。ここで小さな女の子にまで実験を行っているかも」と海が嘆かわしい口調で言った。

「え?なんで分かるの?」とメリナが聞いた。

「リベリオンのアジトにいた時に会った三人家族だ。あの二人は異能者じゃないから釈放されたんだろうけど、娘は···」

「くそったれが。ここの連中は人道ってもんの一欠片もないのかよ?壁一つと言わずに研究施設毎ふっ飛ばしたい」とリースが言った。

「それは勘弁してくれ。地下四階はともかく、他の研究者が凄い物を開発している。世の中の為になるようなもの」とフリツが言った。

「そればっかりじゃないだろうけど。大体帝国はけち臭いんだ。聞いた話では幾つかの発明を完成しているのに世界に出さず、独り占めしているとか」

「それは···」

才機と海はクレイグ博士の研究に何か進展があったんだろうか急に気になった。

「ともかく、捕虜達の救出に専念して下さい。それだけでも大した偉業だ」とフリツが言った。

「夜が待ち遠しくなった。あーあ、いらいらする。隅っこで仮眠してるから時間になったら誰か起こしてくれ」とリースがバタリと隅っこで座り込んで目を膝の上に伏せた。


やがて時間が過ぎ去り、九時が回ってきた。フリツは腕時計を確認した。

「九時五分前。そろそろだね。おい、皆、物置に入って置いて」

フリツが言った通り手狭くて、四人がぎりぎり入れた。

「これで私はもう帰るけど、しばらくしたら宿直がやってくるはず」

「その時は誰かがくしゃみしたら承知しないからな」とリースが三人に注意した。

「あんたが言うな」とメリナが言い返した。

「とにかく、宿直が去ったらこの施設に警備員しか残ってないと思っていい。だからそれまでは出るなよ」とフリツが続けた。

「分かった。明日、出社してきたら大騒ぎになっているから覚悟しておいた方がいい」とリースが言った。

フリツはドアを閉めると真っ暗になって、ドアの下の隙間からほんの僅かの明かりが見えるけど、フリツが研究室を出るとそれすらも消える。お互いの顔も見えない状況で四人は黙って待っていた。その内海が囁いた一言がその場の全員に歯を食いしばらせた。

「来た」

研究室のドアが開く音がした。それから入ってくる足音。足音からすると警備員は研究室の中を歩き回っているらしい。近付いてくると懐中電灯の光がドアの下から見える。全員固唾を呑んだ。こういう時は自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。幸い警備員が聞こえるほどではなさそうだ。特に異常が見つからずて去って行った。物置のドアがゆっくり開いて四人はこっそりと出た。廊下の明かりは薄暗くなっていたがまだついている。

「それじゃ、いよいよ作戦開始。メリナ、先頭はお前だ。その次は海。誰か来たら知らせてくれ。後、覆面を忘れるな」とリースは低い声で言った。

メリナはなるべく音を立てないように慎重に研究室のドアを開けて出た。海の次は才機で、しんがりを務めているリースは同じく用心してドアを静かに閉めた。まさに泥棒みたいに四人は抜き足差し足で階段に向かった。そして滞りなく地下二階に下りた。

「何で次の階に行く為の階段を別に作ったか全く分からない。普通なら一気に最下層まで行けるのに、わざわざ二階も三階も通らないといけない」とメリナが愚痴った。

今度は地下二階の横断を試みた。角を曲がる前にメリナは必ず誰かがいないか除いて確かめた。そこまでは順風満帆だったが、急に海はメリナの手を掴んだ。メリナが振り向くと海は何かを探しているように慌てて周りを見回していた。どうしたと聞ける前に、海はメリナを引っ張ってつい先通り過ぎた部屋に連れ込んだ。ドアはなく、入ったら直ぐに入り口の左の壁に背中を合わせて身を隠した。才機とリースは右側で同様に動いた。その部屋は小さくてコヒーでも飲んで休憩する為の給湯室らしい。十秒ぐらいそうやって待っていて、懐中電灯の光が見えてきた。幸いな事に警備員は真面目で休息部屋を利用するつもりはなかった。彼は通りかかってそのまま進んで行った。うまくやり過ごせたようだ。いなくなっても四人は一分くらい待ってからまた動き出した。

「警備員は皆あの携帯電球を持っているみたい。向こうの位置が分かるから助かるがね。もう進んで大丈夫か?」とリースは最後の方を海に聞いた。

「うん。大丈夫みたい」

「階段まで後少しだ」とメリナが部屋を出た。

「よし、行こう」とリースが言った。

階段をまた下りて三階到着。難易度は数字に応じて高くなるなら今度は特に気をつける必要がある。しかし運よく誰にも会わずに四階への階段に辿り着いた。最後の階段を下りて、そこにあったのは見るからに重そうな扉。取ってらしい物は何処にもなく、右側に配電盤があっただけ。

「これ、パスワードが必要みたいだよ?」と配電盤を見ている才機が言った。

「どれどれ」とリースが配電盤の前に寄り付いて入力し始めた。

「い·の·う·し·ゃ·に·し·を」

コンピュータ化した声が返事をしてきた。

*入力終了。異能者に死を*

「すごっ、パスワード知ってたのか?」と才機は感心した。

*パスワードが違っています。二十秒で訂正しなければ警報が鳴ります。入力し直して下さい*

「おい、間違えたよ!早く訂正して!」と才機が声を上げないように気をつけたが慌てて出した。

「いや、分かんないよ!入力してみただけだ」とリースが言った。

「は?!」

「警報が鳴るなんて知るかよ?!」

「フリツからパスワード聞いてなかった?!」

「フリツはここまで来た事ないんだ!この扉の存在すら知らないだろう!」

*十秒で警報が鳴ります。入力し直して下さい*

「どうしよう?!警備員が間違いなくここへわんさと押し掛けるよ!」とメリナが言った。

「っく、目の前にあるっていうのにここまでか?!」とリースがその扉を睨み付けた。

「ちくしょう!」と才機が言って拳を振り上げた。

ガラスの鉄拳が配電盤にどかんと衝突した。そこにいる全員は像のごとき身動き一つもせず、壊れた配電盤に埋め込んである才機の腕をじっと見た。警報が鳴るまでの数秒を心の中で数えながら神に祈った。その間に聞こえるのは電気回路がショートしている音だけ。そうやって十秒ぐらいは立ち、才機はゆっくり腕を引っ込むと配電盤の破片がばらばらと床に落ちる。皆は止めていた息を遂に吐いた。

「早くこっちだ」とリースは階段の後ろに隠れた。

他の三人は後に続いた。さっきの音で誰かが来るかもしれない。だが三分待っても誰も来ない。

「もしかしたら四階には宿直がいないかも。警備が既にこんなに厳重だし」とリースが推測した

「それならいいんだけど、どうするの、これ。流石ににヘアピンじゃどうにもならない」とメリナはその分厚そうな扉に手を置いた。

「配電盤が壊れたんじゃ開かないんじゃ?」と海が言った。

才機はメリナの隣に行って扉に手を付けた。そうしたら誰かと握手するように伸ばした指先を扉の割れ目に合わせた。思いっ切り押すと才機の指は付け根まで扉の間に突っ込まれた。その指をてこ代わりに使って、人一人が通れるだけの隙間が出来るまで扉を押し開けた。

「まじかよ。百人力どころか千人力じゃねぇ?味方でよかったー」とリースが言った。

メリナは首を才機が作った隙間に入れて扉の向こうの様子を見た。

「この階の構造はちょっと違うみたいだ。誰もいないよね、海?」

「うん、近くには」

「じゃ、捕虜達はどっちの方向にいる?」

「よく分からない。こんなに人が大勢いる街のど真ん中だから沢山のオーラを感じる。これじゃ四十メートルぐらい以内じゃないと人が近くにいるかどうか分からない」

「だったらどっちかを選ぶしかないな」と才機が言った。

「東に行こう」とリースが提案した。

「東?捕虜達が西側にいて欲しかったんじゃなかったのか?」

「だからさ。この階に警備員がいない、あるいはこれから来ないって決め付けられない。本当に西側にいて全員を移動させなくていいなら、喜んで先に東側に行って無駄足を踏む」

「なるほど。それって楽観的に考えているか、悲観的に考えているか分からないけど」

「とにかく急ごう。警備員がこっちに来てこの扉を見たら俺達の存在が知られちゃう」

地下四階がよく分からない為、試行錯誤で探し当てながら少しずつ東へ進んだ。それ以上東へ進めなさそうな所まで行ったら、他のの階と同じ保管所であろう部屋へのドアが幾つか並んであた。メリナはドアを開けようとしたが、やっぱり鍵が掛かっている。

「多分ここだ。どう、人はいる?」とメリナが海に聞いた。

海は目を閉じて集中した。

「いや、誰もいないみたい」

「よっし、ラッキー。西側に向かうぞ」とリースが言った。

どやらこの階には本当に宿直がいないようだ。少なくともいたら四十メートルまでは近付いて来ていない。反対側まで行って海は人の気配を探ってみた。

「ここだ!この壁の向こうに人が沢山いる」

「大当たりだ。ドアを頼む」とリースが才機に言った。

才機は取っ手を丸ごともぎ取ってドアを開けた。四人が部屋に入ると真っ暗で殆ど見えない。

「確か、明かりをつける為のスイッチがあるはずだ。どこだ?」とリースはもうちょっと奥の方へ行った。

海はリースが求めていたスイッチをドアの近くで見つけて入れた。そこは保管所と言うよりは刑務所みたいだった。リースの右手に九人の人も詰め込まれている六畳の部屋より少し狭い監房がずらっと並んであった。左手にもあったがその監房は全部空だった。

「おい、夜ぐらい寝させろよ!」と監房から不満な声がした。

「大丈夫だ。俺達はお前らを脱獄させにきた」とリースは覆面を取った。

他の三人も暑苦しい覆面を取ってリースの隣に並んだ。まだ寝ている者もいたが、監房に入った人達から沢山の声が上がった。

「本当か?!」

「確かにこの人達、研究員には見えない」

「やっと出られるのか?」

「あまり騒ぐな。準備が出来る前に感付かれたら何もかもおじゃんだ」とリースが全員に注意した。

「どうやって俺達をここから出すんだ?鍵持ってるのか?」

「あぁ、どんなドアでも開けられる魔法の鍵さ」

「だったら先に一番奥にいる人を助けてやってくれ」と捕虜が左の方へ首で示した。

「誰よりも実験に使われてかなり衰弱している。兵士に抵抗するから乱暴されて枷まで嵌められてる」

「才機、その人を出してやってくれ。俺はこいつを設置しておく」とリースは爆弾を出した。

「分かった」と才機が左へ向かった。

人が入っている監房は全部で八つで、捕虜は約七十二人。海は一つずつ監房を見ていた。何かを探しているようだ。

才機は次々と空の監房を通り過ぎて、奥の方へ走った。

《しかし何でこの人だけをあんな離れた場所に入れるんだ?ただでさえ一番酷い仕打ちを受けてるのに話す相手もいない》

可哀相と思いながら才機は最後の監房まで来た。そしてそこに覗き込むとさっきまであった同情の思いが一挙に消えた。

デイミエンだった。

彼は首を前に垂れていて長椅子に座っていた。手と足に鎖で繋がった枷が嵌まっている。動き回るのに何の不自由もない長さの鎖だが、お得意の格闘術は使えまい。才機に気付いていないか、ただ興味がないか、才機の方へ顔を向かない。

「お前は···」と才機が言った。

遂にデイミエンは顔を上げた。

「なんだ。今度はお前が護送してくれるのか?ここの兵士は臆病過ぎだ。こんなんじゃ、俺に何が出来るって言うんだ。それにしてもどこまで落ちるんだ、お前は?あの普通人に魂まで売ったのか?」

デイミエンは髭が生えていて顔に打ち身もあった。この前会った時の彼の憎悪で満ちていた目が今死んでいた。その貫禄も今となっては見受けられず、見る陰も無し。一瞬彼の事を哀れと思ったが、こいつは海を似たような目に合わせた事を思い出すとその感情は怒りに負けた。

「言って置くけど、皆をここから逃がす為にきた。それもお前が嫌いな普通人が立てた計画なんだ。嫌なら別に残ってもいいけど」

才機は本気で言っていた。デイミエンが意地を張ってプライドを守る為に断ってくればいいと思っていた。

「何だよ、それ。ここで何が起こっているか公表されるはずないだろうが」

「確かにそうだ。だがこの研究施設で働いている人なら知る機会はある。研究員が自分の立場を危うくしてお前達の事を異能者を味方する普通人の組織に密告した。俺達がここまで潜入出来たのも彼のお陰」

「何言ってんだ、お前。そんな組織聞いた事ない」

「何事だ?!」と入り口の方から聞き覚えのない声がした。

リースは壁に貼っていた爆弾を慌ててウエストポーチに戻した。振り返るとそこに研究員の人がいた。

「やばっ!」と才機はデイミエンを放って置いて皆がいる所に行った。

リースはライフルをその研究員に向けた。

「お前、大人しくしてそこの空の監房に入りな。そうすれば痛い目に遭わないから」

「無礼な、このならす者。私は誰だと思っている?」

「知らないし、興味はない。さっさと監房に入れ」

「どうするんだ、この人?」と才機はリースに耳打ちした。

「大人しくしていれば別に何もしないさ。逃げて助けを呼ぶなんて考えるなよ。お前の足より俺の弾の方が速い」

リースがそう言った途端に五人の兵士が急に研究員の前に飛び出てきて銃をリースに向けた。

「あなた達遅過ぎ。なんで私が先に着いているんだ?」と研究員が偉そうに言った。

「申し訳ありません。ウェバー研究所長が言っていた試作品を探し出すのに少し手間取りました」

「そこ、武器を捨てろ」と兵士の一人がリースに命令した。

リースの撃てる精度が幾ら高くても、五人相手に勝つほどの速さで撃つことが出来ない。一人は他の四人と違った、性能が分からない銃を持っているし。少なくとも銃口は銃というよりもトランペットのベルみたいな形になっている。ここは言われた通りにして、才機に任せた方が良さそうだ。リースはライフルを床に置いて後ろに下がった。

「ここまで来て諦めるのはあれだし、あの五人を何とか出来そうか?」とリースが才機に聞いた。

「多分」と才機は海の前に立ってガラスの姿に変身した。

「ほー。やはり異能者がいたか。この階への扉の壊しっぷりを聞いてそうなんじゃないかと思った」とウェバーが言った。

「やっぱあのままにして置くのはまずかったか」とリースが言った。

「それじゃ、頼むよ」とウェバーが兵士に言った。

あの変なライフルを持った兵士が才機を狙って引き金を引いた。何も起こらなかったからリースは不発かと思った。でもメリナも海も才機も頭痛でもあるように一斉にこめかみに手を当てた。

「ほほー。三人もか。これは、これは」とウェバーはちょっと嬉しそうに言った。

「おい、どうした皆?大丈夫?」とリースが聞いた。

「ああ。頭の中で変な感じがしただけで···あれっ?」と才機は自分の変形が解いている事に気付いた。

「びっくるした?顔にそう書いてある。そう、あなた達はしばらくの間能力を使えなくなった」とウェバーが自慢げに言った。

才機はもう一度変形しようとしたがやっぱり出来なかった。海も風を作り出すのを試みたが無駄だった。周りの人の気配も感じられない。

「全員ボディーチェックをして拘束してちょうだい。抵抗しないのは身の為ですよ」とウェバーは最後の方をリース達に言った。

兵士二人がその命令を実行し、他の三人は構えし続けた。まずはリースから調べられた。

「何だこれは?」と兵士がリースのウエストポーチから爆弾を持ち出した。

ボタンが付いている包み物にしか見えないので実際何なのかは分からないはず。

「お弁当だ。勝手に食べるなよ」とリースが言った。

もう一人の兵士はメリナの身体検査を行っていてバンダナを外そうとした。

「ダメ!」とメリナは両手でバンダナを頭の上に固定させようとした。

「手を退け!」と兵士は強く引っ張ってバンダナを取り外した。

「おおお!」とウェバーは有頂天になってメリナの方に走って行った。

「異形者だ!これは貴重な標本が手に入った。思わぬ棚ぼたですね。被検体の中に異形者がいたが、あれはもう使えないしねぇ」

最後の方はデイミエンが入った独房に向かって言ったが、反応がないと見てウェバーはまた直ぐにメリナに注意を向けた。

「てめ、妹に何かしたら絶対ぶっ殺すぞ!」とリースがすごんだ。

でもウェバーは無我夢中でメリナの周りをぐるぐる回わり、隅々まで見ていて聞こえていないらしい。兵士は次に海に注意を向け、肩を掴んで手荒に回したせいで海は体勢を崩して危うく転んだ。

「おい、そんなに乱暴しなくても」と才機がその兵士の腕を掴んだ。

報いとしてもう一人の兵士が才機の後頭部をライフルの台尻で打った。

「才機!」と海が叫んだ。

意識が遠くなった才機は床に崩れた。


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