#3
約一時間後、メトハインに着いた。長い一時間だった。どうも気まずくて、誘拐犯が気が付いて騒ぎ出した時の兵士の「黙れ!」の一言以外、出発から到着まで車の中で言葉は一切交わされなかった。車は市門の近くで速度を落として停止した。
「悪いがここで待っていてくれる?」と班長が言った。
異能者がいてはならないこの都市だから当然といえば当然だ。才機と海は降りて、門番と二人きりにされた。気まずさ続行。暫くしたらもっと小さな車に乗って先ほどの兵士の一人が戻ってきた。
「陛下は是非お二方にお会いしたいと仰るので、報酬は直接お渡しになるそうです」
才機は右の眉を上げた。
「なんで皇帝が私達なんかに会いたがっているの?」と海が聞いた。
「お礼を仰りたいのではないかと。詳しい事は伺っておりません。班長にお二方を連れてくるように命令を受けただけです」
才機は指一本でこめかみを掻いた。
「海はここで待ってて。俺一人で会いに行くから」
「お二方ともを連れてくるとの命令ですので」と兵士がその名を復唱した。
「そうやってまた一人でで背負い込もうとして。付いて行くよ」
「では、乗って下さい」と兵士が指示した。
二人はそのジープの後ろの席に乗って市門をくぐった。
「相変わらず凄い町だね」と海が言った。
「まあ、ね」
「ここだったら仕事にありつけそうだ」
「多分な」
「もののついでにゲンが言ってたモモソースのはちみつパンを食べられるかな?」
「さあ」
「どうしたの?さっきからなんか考え込んでいる見たいけど」
才機の目は前で運転している兵士に行った。
「別に」
海は才機に耳打ちした。
「皇帝は異能者の味方じゃないのは分かるけど、子供を助け出して誘拐犯を捕まえた事を切っ掛けに私達をいきなり投獄したり処刑したりしないだろう。本意が分からないが、お礼と報酬だけ受け取って帰ればいい」
「そうね」
都市の中心であるあの真っ黒の塔に着いたら、兵士がエレベーターまで案内すると言った。塔の扉を開けて三人が入ったら中をまだ見ていなかった海だけがその兵士の数で少しひるんだ。まさか、いきなり待ち伏せして捕らえる気じゃないだろうなと思いつつ海は二人の後に付いてエレベーターに乗った。そのエレベーター自体はそんなに速くはなさそうだが、それにしても随分と長い間乗っていた気がした。何階まで上がったのだろう?途中で空気圧の差の急な変更で耳がちょっとだけ詰まった。エレバーターがようやく止まると、目の前はかなり短い廊下と皆の三倍の高さの扉。見張りをしている近衛兵も二人。案内してくれた兵士が一人で扉を開けたのが何とか凄い力技に見えた。
「どうぞ」とその兵士が手で合図した。
二人はその広い部屋に入って真っ先に気付いたのは部屋の最も奥の部分でそれぞれの玉座に座っている二人の人物。左に男の人、右に女の人。皇帝と女帝。内側でも扉を見張っている近衛兵が更に二人。部屋の右側で侍女が三人エプロンの上に手を持って並んでいた。皇帝の右手の方向に部屋の真ん中で偉そうな人が立っていた。大臣でしょうか。突然、海が変な気持ちになった。なんだか回りが非常に気になっていたが、その人は二人に呼び掛けた。
「お待ちしておりました。陛下はお二方ともと話をなさるそうなので、どうか近付いてくれ」
才機と海はその人が立っている所まで行って、玉座が設置されている段の前に止まった。皇帝は機嫌が良さそうだ。それに比べて女帝は全く無関心のようだ。才機達をろくに見もせずに退屈そうな顔をしている。謁見なんて初めてで、どうすればいいかよく分からなくて、才機は取りあえずお辞儀をした。海も同じようにした。
「救助隊の班長から聞きました。どうやら我が兵があなた方の世話になりました。大儀でありました」
「いいえ、旅の途中でたまたま通りかかったので及ばずながら首を突っ込んでしまいました」と才機が言った。
「大変謙虚な方ですね。救助隊はもう打つ手はなかったそうです。それなのにそなたは単身でさらわれた子供を救出出来ました。大した偉業です」
「わたくしどもにはもったいなきお言葉です」
「そなたは自分の体をどんな攻撃も通じない無敵な鎧に変えて、すさまじい腕力を発揮すると聞きました」
「無敵までとは言えません。あの状態でも実際に怪我を負った事があります」
「まことであるか?なるほど。そして、」
今度は海を見た。
「そこの娘は風を自由自在に操れるのですね?」
「まだ自分の力に不慣れですが」と海が言った。
「実に興味深い。よかったら見せてはくれませんか?老人への余興だと思って賜れ」
「お安いご用です」と海が言って、そよ風を部屋の中に漂わせた。
「ははは、愉快、愉快。暑い日にはさぞかし気持ちいい物でしょう」と皇帝が言って才機に向いた「では、そなたは···そうですね。そこの二頭の虎が戦っている石像があるでしょう?あれは相当な重量です。持ち上げてみなさい」
「陛下!あれは凄く高価な品です!もし傷でも付いたら」と大臣っぽい人が抗議した。
「良いのだ、良いのだ。自分の目で見てみたい。なんなら大臣をジャグルリングしてもらおうか?」
「い、いいえ、それは···」
「なら異存はないな?」
「よろしいですか?」と才機が聞いた。
「どうぞ、どうぞ」と皇帝が手振りで示した。
才機は変形を起こして皇帝が言った像の隣に歩いた。
「ほ〜。なんと神秘な。本当にガラスみたいですね」
近くで見ると本当に立派な像だった。緑がかかった乳白色の翡翠。物凄く手の込んだ一流の細工品。しかもでかい。トラは本物より二倍の大きさ。その口を全開に開いた二頭の猛獣が後足で立って、互いに突っ掛かっている。巨大の像だけあって、支えとなったいる土台も厚くていかにも重そう。こんな重い物を持ち上げるのは初めてだ。正直持ち上がられるかどうかは分からない。もし本当にそれほどの力があってトラの足を掴んで持ち上げた場合、石像の重量で折れそうなんで、才機は像の横に回った。そこで膝を曲げてぎりぎりで両腕を土台の端に巻き付けた。大きな息を吸って才機は立ち上がった。あんなに力んだ割には意外と簡単だった。とは言え、けして余裕ではない。いつまでもこんな物を持ち上げたくはない。
「なんと!聞きしに勝る強さ。本当の事を言うと無理を頼んでいるとつもりでした。絶対にてこずるばかりと···」と皇帝が目を広げていた。
「むう降ろしても構いませんか?」と才機が聞いた。
「そっと、そっとね」と大臣が懸念溢れる声で言った。
こんな素晴らしい石像を壊すのはもったいないなという事は芸術がよく分からない才機にでも理解出来る。音を殆どせずに石像を元に戻して海がいた所に戻った。
「様々な異能者の能力について聞いた事はありますが、戦闘能力に関してはそなたのがまことに優れています。シンプルではあるが効果的。二人とも···なんと申すか?」と皇帝が問い掛けた。
「才機と申します」
「海と申します」
「では才機殿、海殿、こんな話を知っていますか?西にあるアラニアを焼き払おうとした異能者が現れ、その異能者を撃退し町の人の命を救ったのはまた異能者。肌を輝かせて極まりなく熱い紅蓮の炎に耐え、素手で落ちる大木を受け止めたという」
「はあ」
「その異能者とは、もしや他ならぬ我が目の前にいるそなたでは?」
「多分、そうです。こんなに話題になっていたとは知りませんでしたけど」
「まぁ、悪事は千里を走るなら善事は猛追してくるものだということ。そして今度は異能者にかどわかされた子供を助け、犯人も見事なまでに捕まえてみせる。異能者が異能者同士と対立してこんなに普通の人間を助けるとは希有な事です。何か事情でもありますかね?」
「いいえ。適材適所というやつです」
「ふーん、なるほど。実を言うとね、国民はこういう残虐行為を頻繁に受けています。その殆どはリベリオンという暴力団が行なっています。聞いた事はありますか?」
「記憶にはあります」
「アラニアでのならず者もレビリオンの一員でした。罪人の尋問はまだですが、恐らく今回の事件もあのやからの仕業です。誘拐された子供の父親はここの研究課の重要な人物です。彼らの目的は彼が持つ機密情報かと思います。このメトハインにも強襲してきた事がありますよ。幸いに何とか追い返せたのですが、こっちにも被害が多くて。本当に弱っています。そこでだが···」
《もしかして···》
「そなた達のような有徳の方々がリベリオンの対処に尽力してくれればどれほど心強いことか。彼らのアジトを突き止め次第、攻勢に出たいと思っています。その時はそなた達の支援を当てに出来ないでしょうか?」
《そういう事か》
「恐れながら、わたくしどもはもめ事になるべく関わりたくないと考えておりますので、出来れば遠慮させていただきたいのですが」
「もうかなり関わってきたのでは?」
「アラニアでの事は···ただの気まぐれでして、大した意味はありませんでした。そして恥ずかしながら今回は専ら金目当ての行動でした」
「もちろん、ただでとは言いません。それなりの待遇を約束します。この王宮に居住権も与えましょう」
才機と海はちょっと目を交わした。
「陛下は寛大過ぎて光栄です。でもやはり、好き好んでいざこざに関与しようと思えませんので、わたくしどもの参加しないという勝手な決断をどうか許して下さい」と海が頭を下げた。
皇帝は髭をさすって二人を注視した。
「皇帝になってから色んな人を見てきました。人の本心を多少察知出来るようになったと思っています。この部屋に入ってから二人は何かしら落ち着かないような気がします」
才機と海は何も言わなかった。
「何か気にかけている事でもあるのではありませんか?遠慮なく言ってくれ」
才機は頭の中で何かを思案しているように見えた。
「自由に申し上げてもよろしいですか?」
「なんでも申すがよい」
「先ほど申し上げた事は全て事実です。···但し、最初から気になったのはなんで皇帝がわたくしどもにこんなに好意をお抱きになっているかです」
「それはもう、多いに力になってくれているから」
「ですが···ご存知ないはずがありません。陛下の隊長の任務を妨害したのも私だという事」
皇帝は驚くようにぐいと頭を引いた。
「その証拠に海の能力についてご存知でした。今回の事件で海の力を目撃したのはその力を受けた本人だけです。つまり、突き出した誘拐犯です。その誘拐犯の尋問がまだだと仰るならその事を知りようがありません。となると、海の力がご存知だったのは当然隊長から報告をお聞きになったからです」
「はは、少しばかり失敗したようですね。そう、その話はあまり持ち出したくなかったがそれについても知っています」
「その割には随分と上機嫌のご様子ですが」
「信じがたいかもしれませんが、我はそんな命令を出していません。何故ならばフォグリ博士の研究データはもう必要ありません。我が研究課は順調にはかどっています。ルガリオ隊長は独断で行動していたに過ぎません。その為に彼は今重謹慎を命じられています。故フォグリ博士とはいくぶん親しくなったそうです。 ご愁傷様です」
「そういう事でしたか。疑って申し訳ありませんでした。しかし、それでもやはり、余計な争いに片棒を担ぐのを差し控えたいのでどうかご容赦ください」
皇帝は小息を吐いた。
「そこまで申すならこれ以上押し付けません。得難い人材ですが、不本意ながら諦めるとしましょう。さぁ、約束した報酬をもらいにくるがよい」
才機は皇帝が座っている玉座に行って、コインが一杯入っている袋を受け取った。近くに来た途端に、それまで客人に対して冷淡だった女帝に凄く熱心に睨まれていたような気がした。あまりにもどぎまぎさせらて、まともに見返す事が出来なかった。
「では、わたしくどもはこれにておいとまします」と才機が皇帝にお辞儀をした。
「もし気が変わったらまたいつでも訪れば良い」
才機はもう一回お辞儀して海と一緒に大広間を出た。そこまで案内してくれた兵士が廊下で待っていたようです。
「市門まで送りします」
エレベーターに入ったら海が言った。
「うまくいったんじゃない?」
「うん。考え過ぎだったみたい。ま、何はともあれ、しばらくの間は安心出来るかな」と才機がコインが入った袋を持ち上げた。
皇帝がいる部屋の裏の扉が開いて、人が出てきた。その人は皇帝の玉座の後ろへ回った。
「よろしいのですか、陛下、野放しにして?」とルガリオ隊長が聞いた。
「よい。確かに抱き込めるならそれに超した事はない。毒を以て毒を制するのが一番だからな。しかし我が物にはならないのならせめて牙がこっちに向かないようにするのが得策。あれじゃ地下牢に放り込んでも意味はあるまい」
「はっ」
「フォグリ博士のデータがあれば役に立つのは間違いないが、研究課が順調に進行しているというのは嘘ではない。あれがなくてもやっていける」
才機と海は王宮を出たら案内人が車を持ってくると言って二人をそこで待ってもらった。暫くしたら才機と海は案内人が持ってきた車に乗って市門まで送られた。
「ドリックまでは結構距離あるし、また黄金原オアシスに止まるか?」と才機が聞いた。
「んー、そうね。今回は気を使ってもらわなくてもいいね」
二人はメトハインを出て黄金原オアシスに行く道へ進んだ。
「それにしてもあんなに敬語を使わされたのは初めてだ。疲れる」と才機が言った。
「本当に全然才機らしくなかった。あんなに緊張していなかったら笑いを堪えられなかったかもしれない」
「いや、お前だってさ」
「お待ちください!」
才機と海は急に後ろから来たその呼びかけに振り返る。女の人が二人の方に走っていた。しかも見覚えのある女の人。さっきの大広間にいた侍女の一人だった。
「私は女帝に仕える者です。伝言を預かっております。是非女帝の馬車を使ってドリックに帰ってくださいとの事ですが、応じて頂けますか?」
「女帝が?まぁ···こっちとしては助かります。ね、才機?」
「う、うん」
「では、申し訳ございませんが少々ここで待っていて下さい。馬車は後ほど来ますので」と侍女が言って市門の向こうへ消えた。
「どういう事だろう?女帝はずっと座っていて一言も喋らなかった。私達に全然興味なかったと思った」と海が言った。
「そういや、金をもらいに行った時、女帝にすんげぃ睨まれていたような気がした」
「そう?んー、よく分かんないけど、これで歩かずに済みそうだ」
五、十分ぐらい待っていたら馬車が市門をくぐって二人の方に向ってきた。
流石は女帝の馬車だ。今まで見たそこら中の馬車より出来が違い過ぎる。それを引いている二頭の馬もたくましい。馬車が二人の隣で止まった。
「どうぞ、お乗りくださいませ」と御者が言った。
才機は馬車のドアを開けて馬車への段を踏んだ。そこで見た二つの物にびっくりして体が急に止まった。最初に目に入ったのは色んな豪華そうな食べ物が馬車の中央に設置されたテーブルの上に並んである様。二つ目は後ろの座席に座っている人物。女帝だった。
「さぁ、上がってください」と女帝が言った。
才機は戸惑いながらも前の席に座って、後から入った海は才機の隣に座る目に同じようなリアクションを見せた。中は結構広々としたていたから後一人が余裕で座れた。御者
はドアを閉めて馬を前進させた。
「あの、わざわざ送って頂き心より感謝申し上げます」と海が言った。
慣れない敬語を使った瞬間に才機の視線を感じて顔がちょっと赤くなった。
「いいんですよ。実は二人に話をしたかったんです」
「話ですか?」
「ええ、たまには旅人の話を聞いて遠い場所の事を知るのも楽しいものです。わたくしのわがままに過ぎないが許して下さい」
「いいえ、とんでもなありません。ただ···それほど聞きがいのある話はないかと思います」
「まぁ、ともかくお腹はすかないのでしょうか?急遽に用意してもらったのでアペタイザーしかないがよかったら好きに食べて下さい。それと、堅苦しいのはなしにしない?ここにはわたくし達しかいないし、その方が気楽に話し合えると思う」
何だか女帝は凄く優しそうな顔で笑顔を見せて、本当に楽な気分になった。
「では、お言葉に甘えて」と海はクラッカーか何かに載せた赤白色のペーストを味見した。
「美味しい、これ!食べてみて」と海が才機に勧めた。
才機は同じ物を手に取ってぱくっと口に入れた。
「ん、本当だ。海の幸ですね、これ。カニかな。もしかしてエビも混ざっている?」
「実はわたくしも何が入っているかあまり詳しくないけど、口に合ってよかったわ。他のも是非食べてみて」
「十種類以上もありそうだし、どれもうまそう。これがアペタイザーならメインディッシュは要らない」と才機が違う物に手をつけた。
「あなた達の旅はどこで始まったかしら?」
「遠い南の方から」と海が答えた。
「遠路はるばるご苦労ですね。それでは生まれもそうですか?」
「はい」
「そうですか?あんな遠くから来て、随分と旅慣れているんでしょうね」
「まぁ、普通に」
「しかも、若い。何才ですか?」
「十九才です」
「俺も十九才」と才機が指を舐めた。
「ふーん。で、何才まで故郷に住んでいた?」
「えーと。十八才まで」と海が答えた。
「もしかして、兄妹ですか?」
「いいえ、同じ学校に通ったんです」
「そう···なんですか。では、恋人同士?」
ペーストリーにかじりついた才機は噛むのを止めて全身動かなくなった。
「あぁー、いや···そこまでは行っていない」と海の瞳は少し才機が座っているの方に行った。
顔は真っ直ぐのままだから才機の表情が見えないし、才機もまたその目の動きに気付いていない。
《そこまで?じゃ、どこかまでは行ったって事?どこまでだろう?》と才機が心の中で問う。
「ここの天気は故郷より暖かいでしょう?辛くない?」
「全然平気です。と言うか丁度いい気候です」と海が言った。
「でも冬は寒いよ。油断すると肺炎にかかる事もあります。でも出身が南の方ならもう慣れているかしら?どんな所ですか、故郷は?」
「えーと。一年中寒いですね。雪がよく振っていて、厚い毛羽のコートか何か着ていないと外に出られない」
《エスキモーか、俺達は?》と才機が心の中で問う。
「それから、えーと···ほら、才機。食ってばかりいないであんたも話しなさいよ」
「え?あぁ、そうね···食べ物はこんなのに比べたら粗食に見えるだろう。 穴釣りをしたり、シロクマを猟ったりして」
《俺もバカだった!》
「まあ!シロクマですか?見た事はないが文字通り真っ白ですか?」
「え、ええ」
「不思議。でも、一応クマですから凶暴なんでしょう?危なくないんですか?」
「子供の頃から訓練を受けるから。それに必ず大勢で猟るのが原則だし」
「そうですか?大変そうですね。じゃ、二人の好きな食べ物は?趣味とかは?」
ドリックに辿り着くまでこんな感じで会話が続けた。特に意義のないささいな話だったが女帝は熱心に聞き入って誠実に喜んでいたようだ。当然、南方の事をあまり詳しく教えられなかったから、結局はほとんどゲンに出会ってからの事を話した。実際に着いたのは三時頃だった。馬車が止まって御者が到着を告げた。
「着いたみたいですね。改めてありがとうございました」と海が礼を言った。
「ごちそうにもなったし、本当に助かりました」と才機も礼を言った。
海はドアを開け、外に出ようとしたが後ろから急に手首が掴まれた。
「待って」と女帝が言った。
振り向くと確かに女帝の手だった。
「あの···よろしけらば、また会ってくれますか?」と女帝の目は海から才機へ、そしてまた海へ行った。
何だかその目が寂しそうで、海は一旦才機を見た。
「私達は暫くこの町にいるから、もしまた会いたくなったらいつでも誰かを捜しに遣わせて下さい。その辺の宿に泊まっていると思います」と海が言った。
「そう?ありがとう。ではお大事に」と女帝は海の手を離した。
二人は馬車から降りて、馬車が元来た方向へ戻るのをじっと見ていた。
「何だったんだろう?」と海が聞いた。
「さぁ。悪い気はしなかったけど」
「うん。凄く優しかったね」
馬車と馬の足音はもうほぼ聞こえなくなった。
「さ、宿を探すか?」と才機が聞いた。
「うん」
二人は町の方へ歩いた。
「それにしてもシロクマを猟る??何考えてたんだ?皆ペンギンも飼ってたのか?」
「仕方ないだろう。ありありと南極の風景を描いたのはお前なんだ」
「だとしてもあんな見え透いた嘘はないだろう!」
「いや、でも···ばれてないと思う」
•••
色んな所で値段を比べたあげく、二週間決めで支払うと割引してくれる宿に逗留する事にした。縦四メートル横三メートルの一間で、家具は左壁に添った鏡台、小さな丸いテーブル、二つの椅子、そして三人が丁度入るぐらいなベッド。奥に小さな浴室へ通じるドアが左壁に取り付けられている。そこには四本の脚が付いた古風な浴槽。
「暫くの間はここがお家か」と才機が雑嚢を床に置いた。
「渡された鍵はその一個だけ?下に行って合鍵をもらえないか聞いてみる。ついでに飲み物も買ってくる。女帝のお陰でお腹いっぱいけどのどはからからだ」
「じゃ、その間にトイレを探してくる。この部屋にそれがないのは唯一の欠点」
トイレを探すのに意外に苦労した上、やっと見つけたら取り込み中だった。前からずっと我慢していたのにゴールを目の前にして更にじらされるとはあまりも残酷だ。才機の後ろにもう一人必死そうな男が列に加わった。
《この人に悪いがもうちょっと待ってもらうよ。なるべく早く済ませるから》
何とか耐え忍んで自分の順番が遂にやって来た。用事を済ませてドアを開けると、トイレを完全に出られる前にもう一人待っていた男が飛び込んできた。ぎりぎりだけどどうやら間に合えそう。すっきりしたところで才機は部屋に戻って顔でも洗おうと思って浴室に入った。
最悪の展開。海が入浴中だった。
「きゃーーーーーー!!」
「ご、ごめん!もう帰ったとは知らな···!···ん?」
《海じゃない。っていうか、よく見るとこの人の頭頂部に猫の耳みたいなのが生えている》
「あれっ」と才機は慌ててドアの方へ見て自分の荷物が床にある事を確認した。
部屋を間違っていないようだ。
「いつまでドアを開けてんだよ?!出て行け!大声出すよ!」
「すみません!って言うか、もう出したし」と言いつつ、なんで自分の部屋なのにそんな事言われないといけないと才機が思う。
取りあえず、浴室を出て寝室に逃げ込んだ。考えを整理しているうちに、浴室にいた女の子が出てきた。女の子と言っても海と同じぐらいの年だろう。その女の人は今二枚のタオルを着用していた。一枚は体に巻かれ、もう一枚は頭の上に巻かれた。体を包んでいるタオルは左手が支えている。右手は威嚇的に入浴用の木製ブラシを振るっている。
「てめぇ〜!見たな?!」
泡たっぷりの泡風呂だったのでそうとも言えない。
「いや、見てない!ほとんど。じゃなくて、誰だ?!」
「話をそらすんじゃねぇ、この覗き魔!」
「のぞ···?」
その時、部屋へのドアが開いた。
「ごめん、下でカップに入れるものしか売ってなくて、隣の店でこの二本の」
と、言う事を終えなかった海が目の前の場面を見てじっと立っていた。
「どういう···事?」と体の自由を取り戻した海が二本のペットボトルを鏡台に置いた。
「なんだ?お前はこの変態の仲間か?」
「才機?」
「知らないよ!部屋に戻ったらこの人が風呂に入っていた」
「何それ?自分の部屋みたいに言ってるじゃない」
「自分の部屋だよ!」
「鍵を掛けなかった?」と海が才機に聞いた。
「掛けたよ。掛けたよね···」と才機は記憶を辿ろうとして目が斜め上の方向に行った。部屋に戻った時、鍵を開けて入ったんだけど、鍵が元々開いていたとしたらそのことは気付かないからな。鍵を開けっ放しにしたのかなと思ったら次にお金が入っていたバッグが非常に気になった。
「鍵なんて掛けてなかったよ。って言うかこれはあたし達の部屋だ!」
才機はバッグの中を覗いて、お金がまだ入っていると分かって少しほっとした。
「あたし達?」と海が聞いた。
部屋のドアがまた開いた。
「騒々しいよ、メリナ。一体···」と入ったきた男が先ほどの海と同じ反応をした。
才機には見覚えのある顔だった気がした。
「お兄ちゃん!どこいたんだよ?!」
「どこって、トイレだよ」
《そうだ。さっき中々トイレから出て来なかった人だ》
「それより何が起きてるんだ?そしてなんだあの格好は?!」
「風呂に入ってるところ覗かれたよ!そいつに!」とメリナは持っていたブラシを才機に向けた。
「なにぃぃぃぃぃぃぃぃ?!」と男は才機を睨んだ。
「おい、てめ。俺の妹を覗くとはいい度胸じゃねか。それなりの代償を払う覚悟は出来ているだろうな」
男は羽織っていたマントを少し退かしてその下に忍ばせていた剣の柄に手を付けた。
才機と海は一歩後ずさりした。そして、まだ才機を睨み付けたまま男はもう片手で海を指差す。
「お前の連れの裸も俺に見せろ!」
沈黙。
まだまだ続く沈黙の中で全員が思いも寄らない反応に立ち尽くしている。
部屋の後部からブラシが飛んできた。そして見事に男の側頭部に命中した。
「いってぇぇぇぇぇぇぇぇ!」と男が頭を抱えてしゃがみこんだ。
「バカお兄!そういう問題じゃないだろう!見られたんだよ!あたしの耳···」
さっきの痛々しい場面は演技だったのか、妹の言った事が痛みを忘れさせたのか、はたまた痛みに絶えながらも気を取り直したのか分からないが、男は何もなかったように立ち上がって、今までになかった深刻な顔付きになった。ブラシが頭に当たった時の音からすれば、おそらくは三番目でしょうけど。今度は持っていた剣を実際に抜いた。
「知ってしまったか?でも妹が異形者だって事を漏れさせる訳にはいかない。俺達はこの町で暮らすと決めた」
「ちょっと待って!」と才機が言った。
「元々覗いたお前が悪いんだ。悪しからず」と男が才機達に一方近づいた。
「ここはメトハインじゃあるまいし、異形者は追放の対象になってないだろう?」
「公式にその法律がなくても同じ事だ。妹の秘密がばれたら色んな人に嫌がらせや迫害を受け、どの道この町に住めなくなる。こっそりどこかに連れ去れて殺されないとも言い切れない。普通の人間のままでいられた人に言っても俺達の事情が分からないだろうけど」
「妹の秘密をばらさないよ。だって私達も異能者だもの」と海が言った。
「フン、この状況だから必死なのは分かるけど、そんな見え透いた嘘を信じると思うか?」
「本当だって!」
「じゃ、今直ぐに証拠を見せろ。出来なかったら口封じさせてもらうから」
海は右手を上げて小さな円形を何回も指で描いた。部屋の中の空気が循環し始めた。力の限りに作った竜巻きではなかったがそれでもメリナという女性の頭の上に巻かれたタオルが吹き飛ぶほどの風力だった。急いで巻いたせいでしっかり結び付けていなかっただろう。
「タオルが!」とうっかり手放した風船を手遅れになる前に取り返そうとする子供のようにメリナは両手をタオルへ伸ばした。彼女の頭に生えている耳が今よく見えていて非常に目立っていた。本当に猫のに酷似している耳だった。メリナはタオルの奪回に成功した。その反射神経も猫並みでしょうか。だがタオルを掴んだ瞬間、その急な動きで今度は体の方を包んでいたタオルが落ちた。
「きゃーーーーーーー!!」とメリナが速やかにうずくまって体を落ちたタオルで覆った。
「おい、見てんじゃねぇ!」とお兄さんが才機を戒めた。
「仕方ないだろう!」
「ちょっと見過ぎのような気がするけど···」と海が声を潜めて言った。
「もー!最悪だ!」とメリナは目をつぶって真下の方に顔を向けていた。
「うるさいぞ、お前ら!」と上から足が踏む音と共に不機嫌声が降りてきた。
僅かな沈黙。
「でも驚いた。その猫耳、本物?」と海が聞いた。
「本物に決まってるだろう!偽の猫耳なんて付ける奴どこにいる!?」
「いーーーーーないっ···よね。はは···は」と海は頰を引きつってから両手を後ろに組んでメリナの後ろへ回ってその後ろ姿を興味津々と見た。
「何よ?!」とメリナは海をはたと睨み付けた。
「いや、尻尾も付いているかなと思って」
「付いてないよ!馬鹿にすんな!」
「別にそういうつもりじゃないけど。むしろ、その猫耳だけで日本中の猫キャラ萌えな男は狂喜するだろう···」
「は?」
「あ、いいえ、何でもない」
「ちなみに俺は違うからね」と才機は手を挙げた。
「とにかくこれで分かっただろう?他人に知って欲しくないのはお互い様だ。異能者同士なんだから」
「じゃぁ、彼は?」と男は才機の方を見た。
才機はガラスの姿を取って自分に向けられた疑いを晴らした。
「で、お前は耳が生えてないみたいけど、マントの下に翼も隠してるのか?」と才機が聞いた。
「俺?俺は何の変哲もない普通の人間だ」
「普通かよ?!」
「うん」
「じゃなんで俺まで見せないといけなかった?」
「何となく」
「ああ!」とメリナはいきなり声をあげた。
「思い出した!あんただったのね。見たんだよ、メトハインで」
「は?」と今度は才機が混乱する番だった。
「さっきからどっかで会ったような気がしたんだけどその姿を見て思い出した。メトハインで助けたんだろう?暴徒に攻められていた異能者の少年」とメリナは立って両方のタオルを包み直した。
「あ、ああ」
「やっぱりだ。その時あたし達もいたんだ」
「どうでもいいよ、そんなもん。それより、この事を黙るんなら何もしないから部屋を出ていてくれないか?」と男が言った。
「だから、これは俺達の部屋だって!」と才機が反論した。
「何言ってんだ?ここは一○七号室」
才機は鍵をポケットから出して、その鍵から吊るされた札を男の前にぶら下げた。札に書いてあったのは107。
「え?」と男は驚いて同じく持っていた鍵を出して才機に見せた。
才機は小さなため息をつき、うなだれて親指と中指で額をもんだ。
「あのー、もう一回その札をよく見てもらえる?」
「ん?」と男が手に持っていた鍵の札を見た。
「あ、一○一だった」
「お兄ちゃんのバカ!一○七って言ったからこの部屋に入ったのよ!」
トントン。
誰かがドアをノックした。部屋中に完全な静寂が訪れた。
「あのぉ、すみません。さっきからうるさいとの苦情を承りましたが、大丈夫でしょうか?」
四人ともそれぞれに目を交わした。
「はい、大丈夫です。以後気をつけます」と才機が言った。
それで納得したようで様子を見に来た人が帰って行った。
「ほら、起こられたじゃないか?」と才機が言った。
「元はと言えばあんたが覗いたのが原因だ」とメリナがすねるように言い返した。
「部屋を間違えたお前達が悪いだろうが?!」
「細かいなぁ。お陰でいい物見えたから文句言わないの」
「な、こいつなぁ!」と才機が苛立ちで何かを握り潰したがっているような手をメリナに向けた。
「ほら、才機、静かにしないと」と海が言った。
「一番でかい声を上げてるのはこいつなんだけど。二回も」
「それで済んだのを感謝しなさいよ。女であるあたしがぶん殴っても許される状況なんだから」
「お前どれだけ理不尽なやつだ?」
「まあまあ諸君、ここでいがみ合っても何も解決しないんだ。メリナ、さっさと着替えてこい。風引くぞ」
メリナは反抗的な態度を直して素直にお兄さんの言う通りにした。浴室から出てきた時、耳はまた隠してあったがタオルではなく、バンダナをかぶっていた。
「迷惑をかけたな。俺達はもう自分の部屋に行く。おい、メリナ、お前も謝っとけ」
「わ、悪かった」
どっちかと言うと才機達じゃなくてベッドに謝ったように見えたけど、誠意は一応込めていたみたい。
「さ、行くよ」と男はドアを開けて部屋を出た。
メリナも後についた。
「とんだ災難だった」と二人になったら才機は大手を広げて後ろにベッドに倒れた。
「本当はちょっぴり嬉しかったんじゃない?」
「ぬかせ。あんなじゃじゃ馬と会うのは二度とごめんだ」
「ふーん」と海は雑嚢を開き、色んな物を取り出してクローゼットと鏡台の引き出しにしまい始めた。
「宿代だけに使えばもらったお金は一ヶ月ちょっとは持つ。明日から就職活動の続きだ」と才機が言った。
「何かのコネがあったらいいのに。どうも見つかる気がしない」
整理が終わったら海はもう一回部屋を見回った。
「悪くない部屋ね。テレビぐらい欲しいけど」
「確かに暇だよな」
「自分の部屋で勉強したい、なんて思う日が来るとはね。もし帰れたら毎日必ずまじめに勉強すると誓う」
「勉強かぁ。今となってはそんなに面倒くさく思わない」
「他の皆は今頃何をしてるかな。私達が急にいなくなって心配してるかな。お母さんは大パニックだろうな」
「俺の両親は多分気付いてもいないだろう。大学に入ってから連絡は滅多に取り合ってない」
「両親とあまり中が良くないの?」
「そうでもないさ。最初は隔週の日曜日に電話で話してたけど、なんか、こっちは元気でやっているみたいから、そんなに心配しなくてよくなった。大事な事がある時だけに電話するようになった」
「信頼されてるんだ」
「ま、ね」
「でも柔道部の皆はきっと部長がいなくなった事でうろたえてる」
「どうだろうな。さきと綾子は俺達が駆け落ちしたって噂でも流しているんじゃない?」
「ありうる」と海が鼻で笑った。
「っていうか、学校を休み過ぎると除籍されちゃうのでは?」
「もー、わざわざ言葉にする事ないよ、そんなの。余計に悲しくなるだけだ」
「でも分かんないよ。もしかして、テレビみたいに元の世界に戻ったらいない間に止まっていた時間がまた動き出したりして」
「そんなに都合のいいものなのかな。違うような気がする」と海が才機の隣に座った。「もう一ヶ月以上経つよね。一ヶ月。皆に会いたいなぁ。やっぱ才機は強いね。ここに来てから弱音一つも吐いてない。まさか気に入ったとか、この世界?」
「俺だって帰りたいさ。ここは苦労ばっかりだ。楽しみにしていたゲームがそろそろ発売されるはずだし」
「ゲームかよ。こんな状況で会いたい人くらいいるだろう?」
「ここに来るちょっと前に実家に帰ったから暫くの間は親に会いたくなる事はないだろう。それほど親しい友達もいないし。会いたい人は一人ぐらいいたかもしれないけどその人は今···」
「ん?今?」
「いや、なんでもない。ね、完全に暗くならないうちにこの辺りの下見をしてみない?明日仕事に応募する所を探しておく事ぐらいは出来る」
「そうね。どうせ他にやる事はないし」
そう決めて二人は部屋を出た。
「今度はちゃんと鍵を掛けてね」
「掛けます、掛けます」
•••
昨日はあっちこっち歩いて何箇所に目を付けた。今日はそれらの所、そして駄目だったら他の所でも尋ねてみる。だが先立つものは朝飯。八時半ぐらいに起きて顔を洗ったら一階で何かを頼みに行く。部屋のドアの鍵を掛けた時、左斜め向かいの部屋のドアが開いた。朝っぱらから文字通り、この世界で一番会いたくない女の人が出てきた。
《げっ。最悪のタイミングだ》
お互いなんか知らないふりをしてたけど、直ぐ後からお兄さんも出てきた。
「やぁ、諸君、おはよう」
「おはよう」と才機が挨拶を返した。
「昨日の事は悪かったな。俺達はこれから朝飯食べに行くんだ。お詫びにおごるけど、どう?」
「え、いいの?」
「いいぜ、朝飯くらい。ただあまり注文過ぎないいでくれ。一人人皿な?」
四人は下に降りて四角形のテーブルで席に着いた。兄妹の二人は斜交いの席に座っていて、才機はお兄さんの向こう側に、海はメリナ向こう側に座っていた。ウエイトレスが直ぐにメニューを配りにきて、四人の注文を受けるとシェフに伝えに行った。
「名前はまだ教えなかったな。俺はリース。妹のメリナは知っているよな。確か···お前は才機だっけ?友達は?」とリースは海の方を見た。
「海です」と本人が答えた。
「海ね。二人、結構若いな。まぁ、俺だってぴちぴちの二十二歳だけど。妹は三つ年下」
「じゃ、妹さんは私達より一個下ですね」
「ね、昨日の話に戻るけどさ」とメリナが才機に話し掛けた。
「あんただったよね、メトハインであの男を庇ったのは」
「まぁ、ね」
「あたし達もそこにいたんだ。凄くかっこよかったよ。結構勇気あるね、あんた」
「いや、メトハインに行ったのは初めてだったんで、何に関わろうとしていたかよく分からなくて」
「それでも凄いよ。あんな状況で誰かを守ろうとするのは中々出来ない事だ。異能者であればらなおさらだ。ん、どうした?なんでそこで引くの?」
「んー、何って言うか、びっくりした。昨日とはまるで別人みたい」
「もー、まだ根に持ってるの?急に知らない男に裸見られたから仕方ないじゃん。しかも本当にあたし達の部屋だと思ってたし、どう反応すれば良かったって言うの?」
「まぁ、一理ある」
「でしょう?それにもう怒ってないからお互い昨日の事はもう金輪際触れない。いい?」
「あ、ああ」
「で、兄があんた達の関係を勝手に友達と決め付けたんだけど、本当にそう?」
「ええ」
「ふーん。ちょっと似ているとこるあるからもしかしてあたし達みたに兄妹かなと思ったけど。そっか」
「さっき、才機をメトハインで見かけたって言ってたけど、よりによってなんでメトハインにいた?もしあのバンダナがふとしたことから取れでもしたら大変でしょう?」と海が聞いた。
「あれは仕事で行ったんだ」とリースが答えた。
「メトハインで働いてたの?勇気があるのはあなた達も一緒ですね」
「あの日はたまたまメトハインで仕事をしてただけ。俺達の生業はいわゆる何でも屋。どんな依頼でも完璧に成し遂げてみせる。自分で言うのはあれなんだけど、かなりいい実績をあげてるよ。契約を守れなかった際は指で数えられるほど少ない。どうだい?俺達に依頼したい事はないか?」
「いや、むしろ紹介して欲しいぐらいだ。俺達は今職を捜してるんだ」と才機が言った。
「そっかぁ。まぁ···それなら、出来ない事はないが」とリースは目を妹の方へ向けた。
「まともな報酬を得るにはそれなりの仕事をやらないと。あたし達が引き受ける依頼の多くはちょっとやばげな感じと言うか···。あたしを外して兄さん一人でやる時もある」とメリサはリースの台詞の続きを言った。
「やばいって、具体的に言うと?」
「そうね。例えば、ちょっと後ろ暗い組織が血眼になって探している爆発しやすい高性能爆薬をある場所へ配送するとか、悪名高い盗賊団のアジトに潜入して盗まれた物を奪い返すとか」
「うわ、それじゃ妹を巻き込む訳にはいけないな」と才機が言った。
「あの仕事はあたしも手伝ったよ」
才機と海は「え」って顔でメリナを見た。
「それでもやりたいと言うなら分け前をあげてもいいよ」とリ−スが言った。
「えーと」と才機は一旦海を見てから続けた。
「その仕事の内容を事前に教えてもらえば考えたいと思う」
「いいよ。今日はもう仕事が予定されてる。北の森に土地開発をしている連中は建設したいらしいけど、現場が森の生き物に乗っ取らちまった。それの退治の依頼を引き受けた」
才機は腕を組んで椅子の背に寄りかかり、上を見ながら熟考し初めた。
「はっきり言ってこんな仕事なら妹がいてもあまり力にならないから外すつもりなんだけど」
「こういう仕事って、能力を使ってもいい?」と才機が聞いた。
「まぁ、それはその依頼によるんだな。仕事をしているところが誰にも見られないならもちろん大丈夫。そうじゃない場合はその依頼人次第。異能者と関わりたくない人がいれば、是が非でも仕事を成功させて欲しい人もいる。建設現場は今放置されているから今回ははた目を気にしなくていい」
「じゃぁぁぁ···乗った、この話。海は昨日見に行った所で応募してみてくれ」
「また置いてきぼりにする気?」
「せめて一人がカタギの仕事に就いた方がいいよ。これは一時的な解決策」
海はまだ完全に納得していないようだが、異議をさしはさまなかった。
「それじゃ、決定か?俺達だけで現場に行って一掃作業をやる?」とリースが聞いた。
「ああ」
「だったら食べた後、依頼人のとこに行って挨拶してから早速北の森に行くぞ」
リースがそう言った直後にウエイトレスが皆の飯を持ってきた。食べ終わったら約束通りリースは勘定を払って全員宿を出た。海はリースに相談して求人していそうなところを教えてもらっていて、才機とメリナも話し合っていてちょっとだけ遅れて歩いていた。
「才機ってさ、もしかして困っている人を見たら放っておけないタイプ?」
「ん?どうかな。お節介なだけかも」
「ううん。きっと優しいんだよ。風呂に入ってるとこ見られて動揺していなければ男を見る目はあるつもり」
「二度と触れないって約束じゃなかった?」
「ダメなのは相手を責める為に蒸し返す事だよ」
「なるほど」
「とにかくもっと胸を張りなさい。あの人の命を助けたかもしれない」
「そんな大げさな」
「本気だよ。石を投げられて死ぬ事もある。才機は間違っていない。見る事しか出来なかったあたしが恥ずかしい」
「恥じる事じゃないよ。それが普通だ。俺はたまに考える前に行動する性質だけなんだ」
「ふーん。まぁ、世の中は幻滅させるような事ばかりだからくじけちゃ駄目。そのままでいてください」
「はぁ」
「自分の善行に気付いてない?それとも謙遜?どっちか分かんないけどなんかかっこいい。気に入った、あんた!」とメリナは何回も才機の背中を叩いた。
ちょっと前の方で歩いていた海は後ろの二人の会話が耳に入ってリースに言った。
「なんか、メリナはやけに才機になついてるんじゃない?」
「憧れてるだろう。あの子は似たような状況を経験しているからかな」
「似たような状況?何の?」
「メトハインで攻められていた少年」
「耳の事がばれた?」
「いや、あの耳が生える前の話だ。俺達が生まれた場所では妹のような赤い色の髪は結構珍しい。って言うか、村全体で茶色以外の髪をしている子供は妹だけだった。俺達の父親は元々村の人間じゃなかったんだ。俺はこの通りだが、妹の髪は父譲りだ。そのせいでよく他の子供達にからかわれたり、苛められたりしたんだ」
「そうですか?」
「妹は色んな手を使って髪を隠し始めた。見えなくても皆知っていたから無意味だったけど。もうそんな事をしなくていいように故郷を出て、あいつがせっかく人と打ち解け始めたって言うのに、今度は耳を隠さないといけないから逆戻りだ。だた普通に生きさせてやりたかっただけなのに、神様って意地悪だよな」
海は横目で後ろの方を見た。まだ大きな笑顔を振りまいて才機と楽しくやっているようだ。
「毎日苦労している割に元気ですね」
「強いからね、あの子は」
もう少し歩いたらリースが目指していた所に着いた。
「ここだ。これから仕事に入るって知らせるからお前もちょっと顔出して」
二人はビルの中に入って女達が外で待った。
「リースが一人で働く時はメリナは何をしているの?」
「あたしは適当に時間をつぶしてぶらぶらするだけ」
「よくある事ですか?リースが一人で仕事をこなして、メリナが残されるのが」
「んー、五分五分かな。こういう戦ったり、力が必要な仕事ならあたしじゃあまり役に立たないから」
「普通の仕事をやりたいと思わない?」
「あんた達異能者と違って異形者は自分の異状を完全に隠しきれない。さっきあたしに聞いたよね?このバンダナが何らかの理由で取れたら大変な事になるのになんでメトハインにいたって。メトハインにいたのはちょっとの間だけ。毎日大勢の人に接っしながら仕事をするのは危険過ぎる」
「そっかぁ。大変だね」
「まぁ、これでもあたしは運がいい方だと思っている。これを頭に巻いただけで町を出歩けるから。異形者の中には異状が極端過ぎて隠しようがない人もいる。それに、お兄ちゃんがいるから寂しくない」
まもなくリースと才機が戻ってきた。
「じゃ、俺達は直ぐに北の森に向う。面倒事に巻き込まれるなよ」とリースは妹を注意した。
「分かってるって」
「帰るのは午後だそうだ。頑張ってな」と才機が海に言った。
「うん。気をつけて」
別れの言葉を言い終えて男達は立ち去った。
「確か、海はこれから仕事を探すんだったよね」
「ええ」
「あたしも付いて行っていい?」
「私は構わないけど、メリナは町の中で仕事するの控えてるでしょう?」と海は男子達が行ったのと逆の方向へ歩き出した。
「うん。でもこの際だからちょっと話がしたいの」
「話?何の?」
「才機とか」
「才機?」
「二人はいつからの知り合い?」
「一年半前ぐらいかな」
「ふーん。それで友達として同居してる訳だ」
「まぁ、ちょっと···事情が」
「だろうね。でも一緒に住んでて、同じベッドにまで寝て、二人は付き合おうとか思っ
た事あるだろう?それともお互い好みは違う?」
「好みとかは関係ないけど···」
「じゃぁぁ、前者だ」
「そうは言ってないだろう?」
「否定もしてない」とメリナはにやにやしながら前にかがんで海の顔を読もうとする。
しかし海は読めそうな表現を顔に出さず、ただ歩き続けただけ。
「もしかして、才機はもう彼女が出来てる?」
「いないはずよ。まさかと思うけど、メリナは才機に興味があるの?会ったばかりだからそれはないよね?」
「さぁ。ありって言ったらどうする?」
「べ、別にどうもしないよ」
「ふーーん。ま、ないとは言えない。あたしって友達いないからな。話し相手って言えばお兄ちゃんぐらいしかいない。でもお互い秘密知られた以上、出来るかなぁと思って。隣人同士だしね。あ、もちろんそれ海も入ってる」とメリナが笑顔を見せた。
•••
才機とリースが現場に着いたら周りは静かだった。その森の開拓地の様子は労働者が全員休憩に入ったきり、戻ってこなかったみたいだった。途中まで切られた丸太は鋸がはさんだまま。斧は木の側面にめり込んでいる。積み重ねた丸太は片側だけ縛られた。
「仕事中に皆が襲われて逃げたんだな、こりゃ」とリースが言った。
「リースは大丈夫、あの剣一本で?それとも見かけによらずかなりの遣い手なのか?」
「見かけによらずとはなんだ?」
「いや、その、剣士って感じがあまりしないかなって」
「じゃ、剣士はどんな感じがするんだ?」
「え?あぁ、どんな感じって聞かれても···俺もよく分からない。見かけで判断しちゃいけないか、やっぱり?」と才機は頭を掻いた。
「ま、今回はお前の見立てが正しいけど。剣なんてろくに使えない」
「え?じゃ何で持ってるんだ?っていうかどうやって身を守るつもり?」
「これで」とリースは背中に手を回してスコープの付いたライフルを出した。
「こっちが専門だ」
才機は眉をあげた。
「さっきからあの肩掛けベルトはなんだと思ってたけど、マントの下に銃まで隠してたんだ」
「接近戦になるとこいつはあまり使い物にならないだろう?そういう時の為に剣も持っている。使い方が今一分からなくてもこのライフルをぶん回すよりましだ」
「なるほど」
「もっとも、俺はターゲっトを近付かせるような事は滅多にないけど」と意味ありげな目付きを見せた。
「お前こそ大丈夫か?体をピカピカにしたところでどうにかなる相手じゃないよ」
「俺なら心配ないよ、多分」
「そうか?じゃ、もうちょっと深いところまで行くぞ」とリースは先導して森の奥に入った。
「これから退治する対象なんだけど、殺さないと駄目なのか。追い出すだけでも報酬をもらえるの?」
「おとなしく追い出されてくれる相手ならそもそも俺達の出番はないと思うが」
もう少し歩いたら才機はリースに尋ねた。
「なぁ、まだ聞いてないけど、俺達は実際何を退治するんだ?」
リースは歩くのやめて、上の方へ見ていた。
「あれだな」
「あれって?」と才機も釣られて上の方を見たけど特に変わった事が見えない。
リースはライフルを上へ向けて一発打った。
「今、何を狙った?」と才機はリースを向いて聞いたが答えてもらう必要はなかった。
何か大きい物が木々の上のどこかから二人の十メートル先にドスンと地面に落ちた。まだリースの方を見ているから、それはかろうじてしか視界に入っていないけど、才機は血の凍る思いがした。
逆さまで、足が丸くなっていて、まだ少しぴくぴくしているグリゴだった。
「ま、まさか退治するのは···グリゴ?」
「そっ。そしてどうやらこの辺のグリゴは環境に順応していて木の中で自分をカマフラージュ出来るみたいだ。気を付けろ。どこから出てくるか分からない」
「ま、まだいるのか?」
「当たり前だ。群れだぞ。仲間がやられて黙って引き下がらないよ」
その時、身の毛もよだつような鳴き声が何回も森の中にこだました。才機はきょろきょろ回りを見て、そこ以外のどこでもいいから他の場所にいたいと強く、必死にねんじた。
才機は四つん這いになっていた。戦闘は十分もかからなかったが才機にとっては永遠に終わらない地獄だった。普通の体だったら顔は今汗だらけになっていただろう。周りはグリゴの死骸がごろごろしていた。死因は体に穴を開けられたか、強力な打撃を受けて死んだ。
「ね、大丈夫?もしかして運動不足?」
「大丈夫です」と才機は周りを見たくなくて、まだ真下を見ていた。
「俺が仕留めたのは十四頭。そっちは?」
「あぁ···よく分からない。」
それもそのはずだ。数えるどころか才機は敵をろくに見もしなかった。殆ど目をつぶて、近づいてきた物全てに力一杯蹴り飛ばした。
「流石にこれほどの数を期待してなかった。お前を連れてきてよかったよ。それにしても素手でグリゴと戦う奴なんて初めて見た。異能者とは言え、たまげたよ、本当に」
「どうせ使わないならお前の剣を借りればよかったとは思うけどな」と才機は疲れに満ちた顔であぐらをかいた。
すると銃の打ち金を起こす音が聞こえた。顔を上げるとリースが自分にライフルを向けていた。「え」と考えた途端にリースは引き金を引いて弾丸が才機の擦った。全く痛くなかったとはいえ、いきなりに味方に撃たれて当然才機は動揺した。説明を要求しようと口を開いたけど、声を出せる前に次の瞬間、背中に重みが掛かるのを感じた。肩にも何かが載っていて、それが何か確認すると自分の手と同じくらいの大きさの大顎だった。そしてその大顎に付いていたのは青い体液を滴る穴の開けられた複眼。
「うわああああああああ!!」
半狂乱の悲鳴を上げた才機が四つん這いでリースのところまで全速力で走った。そこで体を引っ繰り返ってさっきまで自分に乗っかていた死体を見ていたら心臓の鼓動が激し過ぎて破裂しないかとまじで不安がっていた。
「わりぃ。肩に当たちまったよな。大丈夫?」とリースが才機の側でしゃがんだ。
「うん、心配ない」
「あ、本当だ。無傷だ。なんだこの皮膚の強度は?」とリースは才機の肩を指関節でノックした。
「見ての通りだ。実際にどこまでのダメージに耐えられるか分からないけど」
「本当にかすり傷も付いてない。直撃されても平気なんじゃない?」
「かも。別に試したくないけど」
「ま、とにもかくにもお疲れ。帰って賃金をもらおうぜ」とリースは立つ為に才機に手を貸して、二人はその不気味な場面を去った。
「お前···」とリースが言い始めた。
さっきの事で頭が一杯でまだ緊張していた才機ははっとリ−スを見た。
「クモが怖いんだろう」
「···やっぱ気付いた?」
「だって、お前、ずっと目を閉じたまま戦ったんだよ。あの震えっぷりは武者震いだったとは言わせない」
素直に認めるしか出来なかった才機の顔がちょっと赤くなった。
•••
ドリックを臨む丘の上で体がローブに包まれ、顔もフードで隠されている人がいる。その人は頭の後ろに手を組んでいて、のんきに木陰で座って流れ行く雲を見ている。口にはさんだススキは上下に揺れる。そのうち、後ろから全く同じ格好をしている人が歩いてきて隣で足を止めた。三十代前半ってところ。但し、この人は何と言ってもでかい。普通の人より遥かに。高さは二百センチもあって、相応な胴回りが伴う。大の男が四人体を寄せ合ったら同じ大きさになるかましれない。
「遅かったじゃん、ガロン」とディン言った。
「当たり前だ」と今来た男が淡々と言い返した。
「ま、ね」
「あそこか、彼らがいる町ってのは?」
「ああ」
「なぁ、本当にやるのか?」
「かしらがわざわざお前を送り出したって事本気なんだろう?」
ガロンはドリックを見下ろし、深く息を吸ってゆっくり吐いた。
「じゃっ、あまり気乗りがしないが、さっさと終わらせよう」
「そう急ぐなって。あいつらの動きは監視されている。いいチャンスが来るのを待てばいいさ。シェリにお前が来たって伝えておきたいが、あっちからあの電波とやらが来るのを待つしかないのは不便だよな」
•••
才機が宿に戻ったら海はいなかった。精神的にかなり疲れたので、ただちにベッドに身を投げ出して寝た。
数時間後、ドアが開ける音に目が覚めた。
「あ、戻ってる、戻ってる」と海が言った。
「お帰り」とまだ顔を枕にうずめている才機の声が鈍く聞こえる。
「どうだった、今日の仕事?」
「最悪。思い出したくもない」
「怪我とかしてない?」
「してない」
「そう?ならいいけど。詳細聞くのを勘弁してあげる」
「あれっ、なんかいい臭いが」と才機は頭を上げて海の方へ見た。
「早速気付いたね。お腹減った?」と海は紙袋をちらつかせた。
「減った」
海は袋の中身を出して鏡台に載せた。確かにうまそうだが、どうみても一人分た。
「さぁ、召し上がれ」
「海の分は?」と才気は席についた。
「さっき食べたから気にしなくていいよ」と海はベッドに座った。
「じゃ、頂きます」と才機は遠慮なく食べ始めた。
「これ、下で買った?」
「ううん、金は一切払わなかった。ただだった」
「ただ?そんなうまい話あるの?」
「まぁ、ただって言うより、役得?」
「役得って?」
「見つかった、仕事。今日から正式にウエイトレスになった」
「へー、やったじゃん!」
「そして仕事が終わった後、売り残りをもらえる」
「いいね。食費が三分の二になった」
「メリナのお陰だよ。色んな場所に行ってみたんだけど全部駄目だった。そうしたらメリナが、いつも忙しそうな店を教えるって言った。そっちに行ったらちょうど後一人誰かを探してたらしい」
「そうか。後でこっちからも礼を言わないとな」
「メリナ、喜ぶだろうな」
「ん?」
「ずっとあんたの事ばかり話してたよ。才機にぞっこんかも」
「え?俺?」
「よかったね、可愛いファンが出来て」と当てこすり溢れんばかりに言いながら笑った。
「別にファンになってないと思うけど」
「他は否定しないんだ。可愛いって事も、よかったって事も」
「ん?べ、別に深い意味で言った、いや、言わなかった訳じゃない」
「どうかしら。自分の気持ちに気付いてないだけかもしれない。今朝はあんなに仲良くしてたじゃない」
「彼女は···ちょっと積極的だけで、気を許したら人なら誰に対してもそうなると思う」
マンガにたとえるなら海は今生えた悪魔のしっぽを思い切り振っている。
「じゃぁメリナと私、どっちが可愛いと思う?」
才機の目は一旦横の方へ行って、また海を捕らえた。
「メリナを見ていると確かに可愛いなぁと思う。だが海を見ていると可愛いなぁと思って、その上『おお、海だ〜!幸せだ〜生きていてよかった〜!』と思う。だから海の顔
を見ている方がずっと嬉しいよ」
海は特に反応せず、ただ瞬きしてなんとも言えない表情で才機を見るだけ。そうしたらまるで白昼夢から覚めたよう急に言い返した。
「ふん!そうやってはぐらかして。質問に答えてないじゃん」
「あんな質問されて、もう一人の女の方が可愛いって答えるほど馬鹿な男はこの世にいるか。だから例え俺が海の方が可愛いと思ってそう答えても、それは俺の本心かどうか分からない。でもさっきのなら···信じてもらっただろう?」
「な、なんでそういう恥ずかしい事をさらっとと言えるのよ?」
「んーー」と才機は頭を掻いて上の方へ見た。
「恥ずかしくないから?本当の事を言ったまでだ」
「もー、才機をからかってもちっとも面白くない。いつも真剣なんだから。早く食べないと冷めちゃうわよ」と海は才機に背中を向けて、ベッドにうつ伏せになった。
「結局質問に答えないし。でもそれが答えになっているのか?いや、より可愛くない方を見てもっと喜ぶって普通にありだからやっぱり答えになってない。幸せって何?可愛さは幸せ単位で測るものなの?でも最後は···例え話だったし···。もー、分からなくなってる。大体いつもそうやってきざなことばかり言おうとして。もっとシンプルに出来ないのか。もういい。考えない。頭痛い」とだだ漏れながら海はぶつぶつ自分に独り言を言っていた。
「うん。じゃ今度はもっとちゃんと空気を読んでみる」と才機は食事を続行した。
海はいらいらしているような、安心したような、複雑な気持ちと格闘していた。
•••
「才機、海、こっち!」
翌朝、下に降りたらメリナが兄と一緒にテーブルで座っていて、手を振りながら才機と海に呼び掛けた。二人は同じテーブルの席に着いた。
「聞いたよ。海に働き口を紹介したのはメリナだって」と才機が言った。
「いいえ、そんな大したことじゃ。ただいつも忙しそうな店を教えただけ。まさか本当に雇われると思わなかった」
「それでもありがとな」
「そう?じゃ、いつかあたしも何かをお願いするかましれないから、その時はよろしくね」
「仕事と言えば今日も一緒にどう?地味な仕事なんだけど」とリースが言った。
「いいね。俺は地味が別に嫌いじゃない。全然オーケー、地味」
「今回はあたしも手伝うよ〜」とメリナが手を上げた。
「どんな仕事?」と海が尋ねた。
「ちょっと変わった依頼だけど、一日鉱夫になるんだ」とリースが答えた。
「鉱夫?」と才機が聞いた。
「うん、ちょっと東の方に廃坑がある。もう採掘する物は殆ど残ってない故に廃坑なんだけど、依頼人は鉱石がまだ絶対にあるって信じてる。なんで今さら採掘を再開したがっているか分からないが金を払ってくれるなら文句は言わない」
「採掘かぁ。筋肉痛になりそうね」
「別に昨日みたいな仕事を待ってきても構わないぜ。どっちかと言うと俺はあっち系の方が面白い」
「いいえ、大丈夫です!や〜、ちょうど運動不足だなぁと思ってたし。今日は張り切ってやれそう!」と才機が肩をつ掴んで腕を回した。
「昨日は一体何があったって言うの?」と海は怪しむような目で才機を見た。
「こいつがね」とリースが笑い出した。
「別に!何もない!」と才機が割り込んだ。
「さぁ、今日は仕事に備えてたっぷり食べて栄養を付けましょう。すみません、注文は決まりました!」と才機がウエトレスを呼び寄せた。
「いや、まだ何も決まってないけど···」とリースが言った。
朝飯を食べ終わると皆が宿を出た。
「これから依頼人と会うのか?」と才機が聞いた。
「いや、この程度の仕事ならしなくていい。終わってから報告するればいい」とリースが言った。
「終わるのは何時頃?」と海が聞いた。
「午後遅くだね。五時ぐらいかな」
「じゃ、私がお昼を用意しとこおうか?昼休み中に持って行ける」
「おお、助かるな。昼休みはいつ?」
「十二時半」
「じゃ、その時はメリナを迎えに行かせるから部屋で待っててくれる?」
「分かった」
「行く前に一箇所寄らないといけないんだ」
「どこ?」と才機が聞いた。
「カンテラを買いに。暗いぞ、坑道は。準備はいいか?」
「うん。じゃ、行くから海も頑張って」
「後で迎えに来るからお昼は頼んだよ」とメリナが言って他の二人と一緒に去った。
「なんだか私だけ仲間はずれみたい」と海は小さくなって行く三人の背中を見送った。
•••
必要な物を買ったら三人は廃坑に向った。鉱山への入り口は木製支保工に支えられ、その奥の暗闇に通じるレールがあった。少し進むとレール上にあった軌道車に通り掛かった。中には採掘用の道具が幾つかあった。
「ちょうどいいや。これを借りちゃおう。メリナ、これを持ってて」とリースはカンテラに火をつけて妹に渡した。
リースが軌道車を押し、三人は更に奥へ進んだ。
木の影で座っているディンは急に頭をあげて、ぼうっとしているように見える。
「今シェリから連絡が来た。鉱山に入ったそうだ。そろそろ出番よ、ガロン」
そのうちリース達は広い空間に出た。壁にたいまつが二本あったからリースはカンテラをメリナから取って、火を二本ともに移しておいた。さっき通ってきた坑道の他にもその広間には四つの坑道が繋がっていた。
「ふーん。どっちだろうな。才機はどう思う?」とリースが聞いた。
「いやー、さっぱり。ここはメリナに決めてもらおうか?」
「なんであたし?あたしもここに来るのは初めてよ」
「まぁ、本当はどれでもいいんだけどさ。用は掘って鉱石を探せばいいから」とリースが言った。
リースは左から右へ、そしてまた左へ視線を走らせた。
「神様の言う通りどっちらにし」
リースが終わらせる前にメリナはカンテラをお兄さんの手からさっと取った。
「左行くぞ」とメリナは呆れた口調で言って先に一番左の坑道へ向った。
リースは肩をすくめて、軌道車を押しながら後に続き、才機はしんがりを務めた。その坑道は一本道で奥まで進むと行き止まりに着いた。
「ここまでのようだね」とメリナがカンテラを持ち上げて周りを見た。
「じゃっ、掘るとするか」とリースが軌道車にあったつるはしを才機に渡した。
寂れた鉱山の中に鋼が石にぶつかる音が久しぶりにこだまする。才機とリースはひっきりなしにつるはしを壁に打ち込む。出てきたがらくたはメリナが集めて軌道車に放り出し、溜まったら軌道車をさっきの中心の広間に持って行って処分する。
「けっこう疲れるね、これ」と才機が汗を顔から流していた。
「もうへたばってるのか?まだまだ終わらないよ」とリースがつるはしを振り続ける。
「いや、まだ行けるけど、流石にに手も痛くなったきた。手袋か何かあった方がずっと楽だ」
「これを使う?」とメリナが首に巻かれていたスカーフをほどいて才機に差し出した。
「汚れちゃうよ、あれを使ったら」
「別にいいよ。洗えばいいから。古だし」
才機はまめが出来そうな自分の手を見た。
「じゃぁ、使わせていただこうかな」と才機はメリナからスカーフを受け取って自分の手に巻いた。
「あ、ずるっ!お兄ちゃんは?」とリースはメリルにごねる。
「だって何も言わなかった。それにスカーフはその一枚しかないんだ。汚して洗うのは構わないけど、半分に破いて後で縫い付けるのはやだ」
「ほら、本当はリースも辛かったろう」と才機が言った。
「そりゃ辛いさ。だが辛くても俺は辛抱していた。それが男というもんだ。だがその結果がこれとは、不憫過ぎるぜ」とリースがまた掘り始めた。
「なぁ、やっぱ、能力を使って一気にぶち抜いてまずいか」
「ったりまえだ。生き埋めになりたいのか?ここは地道にやるしかねぇよ」
「やっぱり?それにしても三人だけで依頼人は何を期待している?この仕事は無意味なんじゃない?」
「どんな仕事でも俺は雇い主を疑わない。それが何でも屋」
「しかし、その雇い主は俺達が実際に働いてるかどうかはどうやって分かるの?こんなんじゃ、ずっとサボってもばれないんじゃない?仮に何かを見つけたとしても自分の物にしようと思えば止めるものは何もない。ちょっと可笑しくない?」
「可笑しくても金を出せばなんだってやるのも何でも屋」
確かにそうだ。最終的にはギャラをもらえば問題はないはず。訝しく思ってはいたが、今はその不信の想いを気にせず、作業に戻った。
皆がもうちょっと頑張り、そのうちリースが言った。
「そろそろお昼の時間よな。海を向かいに行ってくれないか?」
「は〜い。なるべく早く戻ってくるから待っててね」とメリナは才機とリースを二人にした。
「何を用意してくれたかな。もしかして丹精を込めた愛妻弁当を食べられるのか?」とリースの期待が膨れ上がった。
「いや、それはない」
「率直に言うなぁ。二人はそんなに脈なしか?」
「そういう意味で言ったんじゃなくて、海は自分が調理器具に触れてはならない事をよーく知っている」
•••
ハックション!!
「風を引いてないよね、私」と海は鼻をすすった。
「でも危なかった。くしゃみをかけるところだった」
海は顔を下に向けて、膝の上に持っていた帽子に目線を戻した。才機がこの前買ってくれた帽子だ。一回も被っていなくてまだ新品。こうやって愛でる時はたまにあるけど。
トントン。
海は帽子を箱に戻して蓋を閉めた。
「開いてるよ」
メリナが入ってきた。
「向いに来たよ。準備は出来た?」
「ええ」と海は鏡台の上の袋に顔を向けた。
「よし、じゃ行こう」
「うん、あ、行く前にちょっとトイレに行ってくる」と海は部屋を出た。
戻ってくるとメリナは鏡台で座っていて、鏡に映る海の帽子を被っている自分を見ていた。
「あ、それは···」と海が言った。
「お、戻ったか。この箱にも食べ物が入ってるかなと思って、除いてみたらこんなおしゃれな帽子は入ってた。あたしのバンダナなんかよりずっと可愛いんだ」
「あ、ありがとう。さぁ、行こう?」と海は帽子をメリナの頭から優しく取って大事そうに箱に戻した。
「ね、たまには貸してくれない?」
「え?あぁ、でもこれはちょっと···」
「いいじゃん、たまには」
「大事な物なんだ、この帽子。私だってまだ使ってない」
「ほほ〜。ってことは大事な人からもらったってことかな?」とメリナの顔に大きなにや笑いが広げた。
海は返事しなかった。
「もしかして···才機があげたの?」とメリナは海をからかうように言った。
「そうは言ってないだろう?」
「じゃ、誰なんだ」
「誰だったいいじゃん。一時間以内に戻らないといけないから早く行こう。はい、一個持って」と海は袋をメリナに渡した。
二人は宿を出たらメリナは急に止まった。
「あ、忘れ物しちゃった」とメリナは引き返した。
「忘れ物?」
「お兄ちゃんの手袋」
•••
一方ではメリナが鉱山を出たちょっと後。
「まじで(カラン)疲れて(カラン)きた(カラン)」と言葉の合間に才機はつるはしを壁にぶつけた。
「こんなに疲れたのは久しぶり」とあえぎながら才機が言い足した。
「流石に俺もだ。早く飯を食いてぇ」
その時、才機とリースはどこかから大きなドンドン叩く音を聞こえた。驚いてリースが二歩引いたら、うっかりカンテラを踏み倒し、周りが真っ黒になった。
「あ!やっちまった〜」とリースが嘆いた。
「なんだ、今のは?」
「分からん。くそ〜、壊しちゃったか?」とリースは暗闇の中にカンテラを探り当てようとしていた。
「あった。んー。何とか使えそうだな。さっきの広間のたいまつの火を借りてつけ直そう」
少し後戻りしても暗闇はちっとも明るまず、さっきの広間が見えてこない。
「変だな。この坑道はこんなに長かったっけ?」と才機が聞く。
「ふーむ、たいまつの火も消えたかん、いて!」
「ん?どうし、いて!」
二人とも相次いで壁にぶつかっていた。
「あれっ、一本道じゃなかったのか?」と才機は額をさすった。
「一本道だよ。触ってみ。これは壁じゃなくて陥没だ」
「ええ?!さっきのは地震だったのか?」
「まさか···」とリースが小声で言った。
「ん?何?」
「いや、なんでもない。お前ならこの崩れたのを突き破れるんじゃない?」
「言われなくたって」と才機はすでに変形を引き起こしていた。
次の瞬間。
「いってぇ〜〜〜〜〜〜〜!!」
才機の叫び声だった。
「どうした?!」
「思いっきり蹴った〜!」
「そのつもりだったんだろう?」
「でも生身の足で蹴った」と苦しそうに才機が言った。
「なんで?」とリースは不思議そうに聞いた。
「いや、わざとじゃなかった。てっきりもう変身していたと思った。あぁ、いてぇ〜。殴らなくてよかったぁー」
「大丈夫か?」
「うん。よし、もう一回」
もう一度変形を引き起こして、今度はもっと用心深く小手調べに軽く蹴った。手応えが違う。
「可笑しいなぁ···」と才機が言った。
「何が?」
「体が変わらない。能力使えなくなった」
「え?!どうして?」
「分からない」
「参ったな。これじゃ閉じ込められる事になっちゃうぞ?メリルが戻ってくるのを待つしかない」とリースは腰を下ろした。
「ちょうど休憩したかったし、気長に待つよ」と才機も座り込む。
「こういうの前にもあった、力を使えなくなったってのは?」
「いや、使い慣れてから一度もなかった。疲れたせいかな」
「じゃぁ、少し休んでからもう一回やってみてくれ」
「うん。それにしてもお前と仕事するとハプニングが多いな」
「なんだ、この程度で怖気づいちゃあかんぜ。そのうち本当に凄い事が起きるから。その時はお前は降りるかもけど。あ、マッチがあったんだ」とリースがカンテラに火をつけた。
「ちょっと貸して」と才機はカンテラを足の近くに置いて靴と靴下を脱いだ「外傷はないようだ。まじで痛かった」
十分ぐらい経ったら才機ははっとなった。
「なぁ、酸素は大丈夫かな。空気がちゃんと循環してるだろうか?」
「ん?考えてなかったな。念のため火消そうか」
「やばっ。くそー、能力さえ使えば直ぐに出られるのに」と才機は自分の手を見た。
そして手がガラスみたいにつやつやになった。
「あ、出来た!」
「本当だ。また使えなくなる前に早く出してくれ」
「うん、よく分からないけど···」
ドカン!
塞がれた坑道は一気に開いた。
「あれっ」と才機は広間に出た。
周りをあっちこっち見たけど、今しがた才機が散らかした瓦礫以外、前に通った時と何一つ変わってなかった。
「崩れたのはその一箇所だけ?どんだけ運悪いんだ俺達は?」と才機が聞く。
リースは怪しむような顔になっていた。
「とにかく一旦ここを出よう」
鉱山を出て二人は声をかけられた。
「あれっ。もう一人いたのか?」
才機とリースは振り替えて鉱山の入り口の上に男が座っていた。
「やっぱり、そう簡単に閉じ込められてはくれないなぁ。直接手を下すしかないか。しかし···」と男は才機とリースを交互に見た。
「どっちだろう?」と男は少し困った顔になった。
「あのぉ···誰?」と才機が聞いた。
男は近くにあったバイクと同じぐらいの大きさの岩を引き寄せて、まるでサッカーボールでも投げ渡しているみたいに、気楽に二人の上に投げた。
才機はまたガラスの姿を取って右腕で岩をはじいた。
「そっちだな」と男は飛び降りて、人間ではなく象か何かが着地したような音がした。
目の前で見るとどれほど大きな人か分かる。才機やリースより四十センチはある。
「俺の名はガロン。典型的な悪役の台詞で悪いが、消えてもらう」
「はぁ?なんで?お前とは会った事ないはずだが」と才機が抗議する。
「上からの命令なんだ。お前さんが鼻つまみ者らしい」
「命令?誰の?」
「それぐらい教えてもいいか。リベリオンのトップだ」
「またリベリオンかよ?もう済んだ話はずなんだ。なんで今更···」と才機は皇帝の話を思い出した。
《アラニアでのならず者もレビリオンの一員だった。罪人の尋問はまだですが、おそらく今回の事件もあいつらの仕業だ》
才機はかがんだ顔を手に載せた。
「心当たりはあるようだな。俺はお前さんは何をしたか知らないが、命令が下された以上、それを実行するのみ」
「仕事熱心なこった。俺はただ誘拐された子供を助けただけだ。どう考えたって理不尽過ぎるだろう」
「文句なら俺は受け付けられないぞ。言ったはずだ。俺は命令を実行するのみ」
ガロンはその巨体で予想に反する素早さにて普通の人の二、三倍の大きさの拳で才機を殴った。
そして才機は飛んだ。
十メートルも飛んだ。
リースはおもむろに後ずさりした。しかしガロンはリースのことを歯牙にもかけず目に入らないようだ。才機はショックを受けていた。変形が知らないうちに解けたんじゃないかと思って自分の手を見たんだけどつやつやのままだった。今、この姿でありながら才機は初めて気に留める程の痛みを感じた。この前装甲車に突っ込まれてもよろめく程度だったのに。
「おたなしく殺されろなんて言わない。生きたければ死ぬ気で掛かってこい。手を抜いたら死ぬのはお前さんの方だ」
才機は立ち上がった。こうなったら引き下がる訳にはいかない。ガロンに突進して本気で腹と胸部の間にパンチをくらわした。
「俺を真正面から挑んできたか?フンッ。不正解だ」とガロンが言った。
粘土ででも出来たみたいにガロンの体に才機の拳が埋め込んでいた。全然効いていないようだ。ガロンはまた拳を固めた。
•••
二人揃って手から袋を下げながら海とメリナは才機とリースが待っている鉱山へ向っていた。
「何か聞こえない?」と海が聞いた。
「うん、なんだろう」
「何か凄く大きいな物が動いてるみたい」
もう少し進むとその音の原因が分かった。才機と正体不明の大男が激しい殴り合いの最中だった。二人の拳がお互いに当たる度にに凄い音が響いた。少なくともそう見えていたが、才機のパンチは当たっても実はそんなに大きな音はしていなかった。海とメリナは状況を把握しようと、ただ突っ立って目の前の場面をじっと見た。そうしたら背後から手が二人の肩を掴んで茂みの後ろに引きずり下ろした。誰に捕まえられたかを見るとリースだった。
「リース?一体どうなってるの?!」と海が聞いた。
「お昼は後回しだ。見ての通り才機は今喧嘩の最中だ。いや、死闘か」
「死闘ってなんで?!」
「俺も事情がよく分からない。向こうがいきなり現れて才機に消えてもらうって言い出したんだ」
「だったらどうしてここに隠れてるの?!才機を助けなきゃ!」と海は立ち上がったが、手首をリースに掴まれてまた引きずり下ろされた。
「俺達がどこうこ出来る相手じゃないんだ。さっき一発打ち込んだけど、あのでかぶつは気付いたかどうかすら怪しい。才機はともかく、俺達はあいつの攻撃を食らったらひとたまりもない。今んところ才機は勝ってはいないが、負けてもいない。ここはちょっと様子を見るべきだ」
その才機は自分の攻撃が頭部以外に当てても無効化される事にいい加減苛立ってきた。
「くっそーーー!」と殴るのをやめて払い腰でガロンを力強く投げ倒した。
地面に落とされたガロンはまた凄い音をした。今の少しは効いたかなと思って才機はちょっと距離を置いた。
「面白い技を使うなぁ。って言うか、俺と実際に歯向かえるのはお前さんで初めてだ」と仰向けになっているガロンが言った。
ガロンは頭の後ろをさすりながらゆっくり立ち上がった。
「しかし俺を投げられるとはお前さんもやるじゃないか。俺は見た目よりも重いんだぞ。馬だって乗れなくなった。上に乗ったら潰されちまうからね。もうどこへ行こうにも徒歩でしか行けないんだ。乗馬、大好きだったのになぁ···」とガロンは背中を才機に向けて違う方向へ歩いた。
もしかして諦めてくれるのかと期待を抱かせたが、ガロンが大木を根こそぎ抜き取ると彼の狙いは明白だ。頭上に降り掛かった大木を才機が両手で受け止めた。そして大木とその大木の反対側を持っているガロンごとを押し返した。だがガロンは足取りをしっかりして才機の前進を止めた。大木を中心に押し合いが始まった。
「ほー。力比べか?面白いっ」とガロンは腰を入れて本気で押し始めた。
どっちも顔を見て真剣なのは分かるが、どっちもまだ一センチも譲っていない。
「さぁ、ここはどうなるか?」と観覧席でリースが言った。
でもその勝負はつく事なく、分からずじまいだった。大木は増して行く圧力にとうとう耐え切れなくなって、二つに割れた。細かい木の破片が各方角に散らばり、足をすべらせた才機は前方に倒れて勢いよく地面に突っ込んだ。顔を上げる時間すら与えずに、ガロンはまだ持っていた大木の一部を全力で才機の背中の上に叩き込んだ。僅かだけど才機の体が実際に地面にめり込んだ。
「もう見てられないよ!」と海が顔を手に落とした。
ガロンは才機の背中の上に立たせている大木にもたれかかった。
「こんな力を得てお前さんは嬉しかったか?俺は不幸だ。これだけの力があれば俺達は怖いものが殆どない。腕力や体力が重宝される仕事とかも楽勝。だが俺は大事な物を失った」
ガロンは大木を持ち上げて再び才機の背中に振り下ろした。才機はさらに地面にめり込んだ。
「異形者となって社交的な関係はもちろんのこと、でもそれ以上に俺の生き甲斐だった乗馬が出来なくなった。子馬の時から育てた三頭の馬が持ち腐れになった。今はこの人離れした体格だが前は競馬の世界で少し名を馳せた騎手だったよ?笑えるだろう」
ガロンはまた大木を持ち上げて振り下ろしたが今度は下される前に才機は転がってぎりぎりで避けた。
「お前···身の上話をしに来たのか···俺を殺しに来たのか···どっちだ?」と乱れた呼吸で才機が言う。
「あら、失敬。俺と似たような力を持つ人に会えてつい口走ってしまった」
ガロンは大木を投げ捨てて才機に突進した。才機は戦略を変える事にした。力に頼るのではなくて、主に柔道の技を中心に相手を投げ倒す。その作戦で形勢は何とか才機に有利になった。流石は元騎手、戦い慣れしているとは言えない。喧嘩に関しては完全な素人と言っても過言ではない。リベリオンに入ってから争いを沢山経験しているとしても、一発で終わった戦いばかりだっただろう。しかしガロンのしぶとさに敬意を表しなければならない。何回投げられても勢いが衰える様子殆どなく、立ち上がってまた才機に襲い掛かる。
「これじゃ埒があかないな」とリースが立ってどこかへ行こうとした。
「どこへ行く?」と海が囁いた。
「ちょっとした下準備。お前とメリナはここで待ってて」としか言わすリースは行ってしまった。
ガロンは後何回投げ倒されたが、ガロンにも学習能力はある。突進するだけでうまくいかないなら周りの物、武器として使える物なんでも才機に投げたり、打ち付けたり隙を作る。そうやってそのうち才機の背後に回って、腕を才機の首に回した。そんでもって才機にてこの力を使わさせないように身長の差を利用してそのまま地面から持ち上げた。
《やばい!これじゃ手も足も出ない!》
才機は力一杯あがいたが、この状況でガロンの把持から逃げられない。そしてもがいているうちにガロンは呻き声をあげて、才機の足がまた地面に付いた。偶然とは言え男同士の戦いではやや卑怯な手だと言えるかもしれない。足を激しくばたばたしていたら、たまたまガロンのもう一つの『弱点』に当たった。流石にあそこは衝撃を吸収する事は出来ない···。才機はなぜ自分が下ろされたか分からなかったが、その隙に一本背負いでガロンを地面に叩き付けた。今度、ガロンは直ぐには立ち上がらなかった。
銃声が鳴り響き、それに引き続く弾が激しい息遣いをしている才機の肩に当たって跳ね返った。振り向くとリースがこっち来てって手で合図をしていた。リースがいた所に向ったが彼は逆方向に走って行った。こっち来てと言うよりは付いてきてのようだ。
「ま、待って!逃げる気?!」とガロンが才機の後ろから呼びかけた。
もう少し走ったら才機はリースが猿並みの器用さで木を登るのを見た。才機がその木の下に駆け付けた時にはもうリースの姿がよく見えなかった。木の上からリースの声が聞こえてきた。
「悠長に説明する暇はねぇ。そのまま真っ直ぐ走り続ければ百メートル先に峡谷がある。そこで葉っぱが集まっている場所を探して。どうにかあいつをその上に張り倒せ。やったら振り返らず一目散にずらかるんだぞ。いいな?行け!」
後ろからガロンが向ってくるのを遠方に見えたので才機が言われた通りにした。リースが言ったように先に進んだら幅二十五メートルの峡谷があった。
才機は周辺にざっと目を通した。右の方に葉っぱの小さい集まりが目立っていた。葉っぱの上に張り倒せと言うからには落とし穴でも隠されているかと思ったが、あんな短い直径じゃ、あの大男の足ぐらいしか入らなさそう。そこに行くと才機は唾を飲んだ。縁から三メートルしか離れていない。
《こんな所で戦ったら二人とも落ちかねない。突き落とせって言うのか?冗談じゃない。道連れにされるのが落ちた。でも確か、言われたのはそこの葉っぱの上に張り倒すと。
それぐらないなら何とか出来るかも》
「もう逃げ場はないみたいですね。覚悟しろよ」と追い付いたガロンは才機に突撃中だった。
あまり突然過ぎて才機は本能的に構え、掛かってきたガロンを肩車で持ち上げた。狙ってやった訳じゃないが、ガロンはばったり葉っぱの上に落ちた。そして落ちた途端に銃声が三回連続して響き渡った。才機は何かジュージューいう音も聞いたような気がしたんだけど、リースの指示に従ってひたすら逃げ出した。そして僅か五秒後に、後方の多重の爆発に驚かされてぴたっと止まった。振り返ると大きな土ぼこりが立っていた。少しずつ収まるにつれてガロンのシルエットが見えてくる。うつ伏せになった彼がゆっくりとひざに立った。体中は凄く汚れていたがそんなにひどく怪我してはいないようだ。でも様子はちょっと可笑しい。膝をついてから身動き一つも取らない。本人が気付いたんだ。さっきの爆発のせいでそれ以上動いたら足の下の地面が崩れ、自分が千尋の谷に落とされる。いや、このまま動かなくても今にも崩れそう。落下は避けられない。
終わった。
「やられたな」とガロンは首を右に回して才機を見た。
「とても競馬所で走るほどじゃないが、少しは面白かったかな」
才機は『ん?どういう事?』と言おうとしたが、その言葉が口から出る前にガロンの周りの地面が崩壊し、ガロンもろとも崖の縁の下に消えた。
才機はそこから動かず、ただついさっきまでガロンがいた場所をじっと見ていた。体が元に戻った。
「ちゃんと逃げられたみたいだな」と後ろからリースの声がしてきた。
「どうなってたんだ、今?」とまだ同じ場所に目が釘付けになっていた才機が聞く。
「葉っぱの周りにダイナマイトを三本仕込んでおいた。もしかしたら採掘で役に立つかなって思って買っておいたんだけど、違う使い道で利用してしまった。で、木の上からさっきの三発で導火線に点火した」
「弾丸で?」
「まぁ、正確に言うと導火線に結びつけておいたたマッチに点火した」
才機はようやくそこから動いて縁に近づいた。見下ろすと約六十メートル下のところで視界は濃い霧に阻まれた。
「死んだ···のか?」
「それはどうかな。二人とも頑丈さは桁外れだからな。それにこの下は沢山の茂みや木々があると思われている。落下のショックを和らげたかも。でも生きているとしてもそう簡単には戻ってこれないだろう」
才機が縁から離れてリースが立っている場所に行った。
「ありがとうな、援護」
「いいって。皆の所に戻ろうぜ。海がすんげぇ心配してたよ」
「しかしなぁ、ただ俺の注意を引く為だけに一々銃で打つのを勘弁してくれ」
海達とメリナとは途中で合流した。海は才機を目掛けてまっしぐら抱きついてきた。
「大丈夫か?!もー、凄く心配したんだから!」
「う、海···」
「ん?何?」
「痛い」
「あ、ごめん!」と海は素早く離れた。
「さっきの爆発はなんだった?」とメリナが聞いた。
「ダイナマイト」とリースが答えた。
「ダイナマイト?!相変わら兄ちゃんのやり方は荒過ぎるよ···」
「荒療治が必要な事態だった」
「でもそもそもなんでこんな事になった?」と海の目が必死に才機から説明を求めた。
「帰ってから話していい?なんか、疲れたんだ。早く横になりたい」
•••
翌日の朝、才機と海の部屋のドアにノックがあった。海が応対に出たらそこにリースが
立っていた。
「おはよう。才機の調子は?」
「体中痛いんだって。一日中安静にしたいらしい」
「そうか。ま、無理もないか」
「そういう訳だから、今日は仕事の手伝いが出来そうにない。ごめん」
「いや、それは別にいい。ただ、踏んだり蹴ったりだとは思うけど、その···昨日はただ働きをしたみたい」
「どういう事?」
「その後、依頼人と会って報告するはずだったが現れなかった。前に言われた宛先もがせだった。思うんだけど、大方昨日の依頼は才機をはめる為の物なんじゃないか?」
「その可能性は···あるね」
「えーと、まぁ、もう行くけど才機にお大事にって伝えてくれ」
「はい」
リースは手を振って下に下りた。
「今の話聞いた?」とドアを閉めてから海がベッドの上で腕を広げている才機に聞いた。
「うん。この先も刺客が現れるのかな?まじであのリベリオンとやらと縁を切りたい」
「リースと仕事をするのをやめる?」
「少なくとも昨日みたいな怪しい依頼からは外させてもらう。完全にやめる訳には行けない。でも海、お前も気を付けろよ。狙われてるのは俺だけじゃないかも」
「うん」
二人は暫く押し黙っていた。
「お腹減った?何か持ってこようか?」
「そうだなー。仕事に行く前にちょっとした何かを持ってくれたらありがたい」
食堂でリースとメリナは朝飯を食べていた。
「二人とも下りてこないね」とメリナが言った。
「来ないよ。才機は無理が祟って寝たきりだそうだ」
「ふ〜ん。じゃどうする?」
「どうもこうも。いつも通りやるさ」
正午に仮眠をしていた才機はドアをノックする音に目が覚めた。応対に出るのがちょっと遅過ぎてドアを開ける直前にまたノックが来た。
「メリナか。どうした?」とドアを開けた才機が既にベッドに戻って真ん中にうつ伏せになった。
メリナは入らせてもらってドアを閉めた。
「お見舞いに来たよ〜。どう調子は?」
「体中筋肉痛みたいだ。特に背中が」
「ま、あんなにぼこぼこにされちゃね。それぐらいの反動はない方が不思議だ」とメリナはベッドの隣に行った。
「まるで俺が一歩的にやられた言い様だな」
「どっちかっていうと才機の方がダメージを負ってたように見えたけど、違う?」
「生き残ったのはこっちだぞ」
「お兄ちゃんのお陰でね」
「言うと思った。見舞いに来たんだよね?なんかメリナが来てから全然元気出ないけど」
「まぁまぁ、そう言うなって。才機もよく頑張ったよ。あの後自分の力で歩いて帰ったし、本当はまだやれたんだろう?」
「やれたかもしれないけど、あの時は興奮していて、自分の体の疲れに気付いてもいなかった。戦いを終わりにしたお前の兄さんに感謝してるよ」
「でもやっぱり負けていた訳じゃない。凄く丈夫だね。感心したよ」
「それはどうも」と誠意のかけらもなく才機が言った。
「いいの?そんな態度をとって?いい物を持ってきたんだけど···」
「いい物?」と才機は顔をあげてメリナの方へ見た。
メリナは人差し指と親指の間に持っていた小さな瓶をぶらぶら揺らしていた。
「何、それ?」
「塗布剤だよ。効き目のいい奴」
才機は横たわったまま瓶をじっと見た。
「欲しい〜?」とメリナはからかうように聞いた。
「欲しい」
「素直でよろしい。背中に塗ろうか?」
「頼む」
「じゃ、起きて。シャツも上げて」
才機はあぐらをかいてシャツを頭から引き上げて脱いだ。腕はまだ袖に入っている。メリナは四つん這いでベッドの上に乗って才機の後ろに座った。
「やっぱあの時は効いたね」とメリナはガロンが大木で才機を叩いた時を思い出して才機の背中に手を付けた。
「まぁ、ね」
「そう言えば、なんか面白い技であの人を投げ倒したんだね。びっくりしたよ。才機ってあまり戦闘に向いてなさそうだ」とメリナはボ瓶を開けて塗布材を手のひらに注いだ。
「あぁ、あれは柔道って言うん、だ〜!冷たっ」と才機がびくっとした。
「わめくな、これくらいで。男らしくないよ」
才機は背中を元に戻した。
「海もやるんだよ。あいつも結構出来る」
「ふ〜ん、覚えておこう。二人はまだ他に隠している特技とかあるの?」
「ない···と思う。まぁ、海なら人の気配を探知出来るらしい。詳しい事はよく分からない」
「え?二人はずっと前から一緒じゃなかったの?」
「んー、一年半の付き合いかな。でも海も俺もこんな能力が現れたのは最近の事だ」
「最近?結構遅いね。あたしの耳はアナトラス現象後、二週間で生え始めた。三ヶ月足らずのうちに完全に成長しきった」
「海からちょっと聞いた。大変だったらしい」
「そうでもないけど。この赤い髪のせいで孤独にはとっくに慣れていた。元通りに戻っただけだ。まぁ、お兄ちゃんがいたから本当の孤独じゃないか」
「仲のいい兄妹だね」
「ま、ね。お兄ちゃんの馬鹿さ加減に付き合ってらんない時もあるけど」
「でも、まじな話、それほど悪くないよ、お前のその耳。もしかしたら···可愛いとでも言えるかも」
「な、何言ってんだ?!可愛い訳ないたろう。薬を持ってきたからってそんなお世辞は言わなくてもいいよ」
「いや、本当。俺は動物好きだからかな。でも勘違いしないで!俺は変人とかじゃないからね。あ、べ、別に変人じゃなきゃそんな風には思えないって意味じゃ···その、俺が言いたいのは···ん、だから·····あーー、もうやめだ!今のは取り消しだ!ごめん、忘れて!」
「···どこまで?」
部屋のドアが開いた。
「お昼を持ってきたよ。お腹すいてる?」と海が入って二人を見た。
なんだか、この部屋に入ってこんな気持ちになるのが前にもあったような気がした。但し、今度は半裸役が交代されていた。
「どうした、二人とも?」
「塗布材を持ってきたんだ」とメリナは何気なく塗り続けた。
「あ、そう。ありがとう」
海は持ってきた袋を鏡台に置き、椅子をベッドの隣に移動させて座った。
「やっぱ、まだ痛いか?」と海が才機に聞く。
「ちょっとな」
海は心配そうに才機を見た。
「これでよしっと」とメリナが瓶に蓋をした。
才機はシャツを着た。
「じゃ、あたしはもう行くね。薬は置いて行くから」とメリナは瓶を海に渡した。
「お兄ちゃんは組む人を見つけて嬉しいと思うから早く元気になってね」とメリナは部屋を出た。
「ごめん、私も薬を買ってあげる事ぐらい考えればよかった」
「気にすんな。それより鼻まで漂ってくるこの香ばしい臭いが気になる」
「あぁ、これ?」と海は袋から椀を取り出した。
「バイトで今日の日替わりランチだった。シーフードスープ」
「おお!まじ?!超好物じゃん、魚介類」
「うん、確か前にそう言ってた」と海は蓋を開けてスープとスプーンを才機に渡した。
湯気の立つスープにエビ、貝、鮭が浮いていた。最初の一口。
「うむ、うまっ。温度もちょうどいい」
椅子の背を脇に挟んだ状態で海は絡ませた指を椅子の背の上に乗せ、その指の上にほっぺたもまた乗せて才機が一匙を次々に飲むのを見ていた。
「やっぱ、手製の料理を食べた方が嬉しい?」
「手製だろう、これ」
「まぁ、そうだけど、その···出された料理が出した人の手製の料理だったらもっと嬉しいものなのかなって」と海は目を逸らした。
才機は食べるのをやめてほんの少しの間海を見た。
「俺は、別にどっちでもいいけど。美味しく食べる事さえできれば」
「オーナーは料理が大好きだし、優しいし、頼んだら多分キッチンを使わせてくれると思う。こつを教えてもらおうかななんてって思ったんだけど」
「え?料理···すんの?」
「ううわー、今思いっ切り疑っただろう!」
「そ、そんな事ないよ!」と才機はまた食べ始めた。
「私の顔ちゃんと見て言えなかったし!」
「食べてるだけだろう?考え過ぎだって」
「言っておくけどあの時は初めて料理しようとした!うまくいかなくても当然だ」
「そうだね。次はもっとうまく出来るよね」
「そうよ。今度オーナーに尋ねてみるから待ってなさい」
「じ、じゃぁ出来たら味見してあげるよ」と才機は下手な作り笑いをした。
「言ったね。絶対にびっきりさせてやるんだから」
才機はどんな風にびっくりさせられるのか非常に不安だった。
•••
《ガロンが見つからない?》
一本のたいまつに顔を照らされてデイミエンがそう考えて、その想いをシェリに馳せた。
《はい。ディンはガロンがあの人達を処分しに行ったと言っていましたが、その後、音信不通のままです。私も彼と直接リンクした事ないのでこの方法で連絡を撮れません》
《嫌な予感がする。で、その二人は?》
《はい、変わりありません》
《やっぱりそうか。ガロンは破られたと考えていいだろうな。しぶとい奴らめ》
《どうなさいますか、デイミエン様?》
《デイミエンだ》
《は、はい、デイミエン》
《そのまま監視を継続して。ディンに帰還するように伝えて。後はこっちの方でちょっと考える》
《承知しました。何かあったら連絡します》
デイミエンは祈るように指を組んで、額をその手に載せた。そしてしばらくすると、
「真っ向勝負じゃ駄目か···。ジェイガル」
全身鎧に覆われた男が影から出て後ろからデイミエンの左側へ歩み寄った。
「アイシスを連れてきてくれる?」
「はい、直ちに」
一方ではシェリはディンと話していた。
《デイミエン様から帰還命令が出た。本拠地に戻っていいよ》
《やっと帰れるか?まじで人使いが荒いぜ、うちの頭領は》
《何を言うんですか?デイミエン様は私達の未来の為に》
《分かった、分かった。ってか、本人もいつも様はやめろって言ってるだろう》
《わ、私の勝手だろう?今は本人と話していないし》
《はい、はい、命の恩人だもんな。別にどっちでもいいけど、俺は。ガロンの奴に悪いが、先に帰らせてもらう。じゃ、ね》
《そんな言い方はないだろう?ガロンは仲間ですよ。···死んでるかもしれない》
《あいつがそんなやわな玉かよ。それに、あの二人は誰かを殺す度胸ねぇよ。どこに行ったか知らないが鈍いあいつの事だ。遅れてのこのこ帰ってくる》
•••
翌日。才機は大分楽になった。またリースと仕事をするつもりだったが、仕事の予定は入っていなかったから今日も全治に向けて体を癒す為にのんびり部屋で過ごしていた。正直に言うとほっとした。仕事がない事に。あのリベリオンの連中はそう簡単に諦めるはずがない。もうこの前みたいな目に遭うのはまっぴらごめんだ。とは言ってもずっとこの宿にこもる訳にもいかない。海だって危険なのに一生懸命に働いている。本当に困った立場だ。ただでさえ訳分からない世界に行かされた上に、この来たくもなかった所で命まで狙わなければならない。あんまりだ。海は何となく才機のその絶望的なオーラに気付き、ベッドで横になっている彼に声をかけた。
「もう二日間ずっとこの宿にいるのね。そろそろこの部屋の壁が見飽きてきたんじゃない?」
「別に。元々そんなに刺激を求めるような人じゃないし」
「らしくないよ、こんなにしょげるなんて」
「いつも通りよ」と才機はごろりと寝転がって背中を海に向けた。
「私だよ?ごまかせないで。思い切り凹んでるじゃん」
才機は黙っていた。
海は彼の手首を掴んでベッドから引き摺り出した。
「ど、どうした?」
「付いてきて」
親が不満たらたらの子供の手を引っ張って連れて行くように、海に先導されて二人は階段を下りた。
「おい、どこに行くんだ?」
「気分転換」
階段を下りて右に曲がった二人は才機がまだ行った事いない廊下に入った。廊下の奥のドアをくぐって割と広くて何もない部屋に入った。
「何、この部屋?」
「分かんない。この間見つけた。でもいつも開きっ放しで、前に子供達が走り回って遊んでるのを見た。客は自由に使っていいと思う」と海は部屋の後部にある倉庫からマットのようなものを取り出し始めた。
「そこで見てないで手伝ってよ」
二人で九枚のマットを出して床に並ぶように敷いた。才機は今自分が敷いた十枚目を見下ろして両手を腰に当てた。
「もういいだろう?なんでこんなにマットを〜〜〜〜〜〜!」
ドシン!
気付いたら才機は投げ倒されていた。海の手によって。
「いきなり何すんだ?」と才機は疑っている目で海を見る。
「稽古だよ、稽古。久しぶりにやろう?」
「稽古かぁ」と才機はゆっくり立ち上がるように見せかけ、海の足を狙って、海を引っくり返した。
「きゃー!」
ドシン!
雪辱を果たした才機は再び両手を腰に当てた。
「手は抜かないから覚悟しろよ」
「何してんだ?」と宿の一階の廊下でドアをほんの少しだけ開けてその隙間から覗き込んでいるリースにメリナが聞いた。
リースは何も返事しなかったけどメリナが近くまで来たので自分で除いてみた。
「あの二人何やってんの?」
「稽古、ですかね。さっきからずっとやってるんだ。こっちにはまだ気付いてない」
「ふーん。そういや、ジュウドウか何かって格闘技をやっているって言ったんだ、才機」
才機は海を何回も倒し、色んな固め技で海を抑える。縦四方固め、三角締め、上四方固め。
「何それ?武道?あんなエロい武道初めて見るけど」とメリナが言う。
「焼いてるのか?」
「バカ言え」
「そうよね。そんなはずないもんな」
メリナは部屋に乱入して大きな可愛いらしい笑顔を見せた。
「二人だけで楽しそうな事をしてるじゃない。あたしも混ぜて〜」
「メリナ?」と才機は海を抑えていたあごをもたげた。
海も才機の緩めた把持から抜け出して身を起こした。
「と言われても、初心者がいきなり出来るものじゃないよね。怪我するかも」と海は額から汗を拭いた。
「だったら最初から教えればいい」とメリナが反論した。
才機と海は目と目を見交わした。
「ほら、海の仕事を見つけてやった恩があるだろう?だから、ね?」
「そんなにやりたいなら別に教えてもいいけど」と才機が言った。
「本当?!やった!どうすればいい?」
「そうね。まずは受け身を練習しようか。柔道ってのは負けた時の為に練習しないといけないものだ。受け身がちゃんと出来ないと本当に怪我するかも」
「へー」
「じゃ、その前に軽くウォミンガプしよう。こんな風に回転してみて」と才機は三回連続で前転した。
「楽勝、楽勝」とメリナも三回前転した。
次は逆向き。それから側転。続いて倒立公転もやったがメリナはちょっとてこずって海が体を支えなけらばならなかった。
「それじゃ、こうやって倒ればいい。最後にマットを叩いて」と才機は受け身の手本を見せた。
「何、それ?」
「これは正しい倒れ方だ。投げられたらこんな風に倒れるといい」
メリナは今一分からなかったが取りあえず何回も真似してみた。
「よし。次は実際に投げてみるか。柔道の基本中の基本は背負い投げ。まずそれをやってみよう」と才機はメリナの前に行って拳を上げた。
「もし俺がこんな風に攻めてきたらお前はどうする?」と才機はゆっくり拳をメリナの方に振り下ろした。
「それは、避けるだろう?」とメリナはそうした。
「普通はね。でも柔道では相手の攻撃を避けるんじゃなくて、相手の攻撃を利用して逆手に取る。このようにね」と才機は海に向けて襲い掛かった。
すると海は背負い投げで才機をマットに送った。
「まぁ、自分でやるのは一番分かりやすいだろう。海がやり方を教えてあげる」
海はメリナの襟と袖を掴んだ。
「才機とやらないの?」とメリナが聞いた。
「海の方が軽いからその分投げやすいはず」
「そうか」
「この状態で体を回しながらこうやって相手を背負って肩越しに投げる」と海は説明しながらゆっくりメリナを持ち上げた。
「はい、今度メリナやってみて」
「お、重い!海って見た目より力あるんだね」と辛そうに言いながらメリナは苦労して何とか海を肩に背負い、中途半端にマットに落とした。
「まぁ、私の場合はずっと前からやってるから。筋トレもそれなにやってきた」
「あれが難しいならもう一つ、力がそんなに要らない技を教しる。海、大外刈りを見せてやって」と才機が言った。
海がまたメリナを掴んだ。
「こうやって右足で相手の股の外側から相手の右足を刈り上げて倒す」と海はゆっくり見本を見せた。
「なるほど。これなら簡単に出来そうだ」と今度はメリナが挑戦する。
こんな風に四十五分ぐらい経った。疲れたのか飽きたのか、メリナはそれ以上付き合いきれなくて先に帰らせてもらった。才機と海は後一時間ほど稽古を続けた。終わった頃には二人とも仰向けにばったり倒れていていい汗をかく快感を噛み締めていた。
「どう?少しは気分が晴れた?」と海が聞く。
「そう、ね。結局今日もずっと宿にいたままだけど。外に出るのが海の目的じゃなかった?」
「じゃ、さ、明日どっかに行く?私、休みだし。そうだ、ピクニックでもしようか?」
「ピクニックか。リースとメリナも誘おうか?」
「いいんじゃない?彼らにも何か用意してもらおう。行きたければの話なんだけど。そうだ!この辺に花が咲いているところがないか聞いてみて花見を兼ねて出かけよう」
「よし、決まりだ。後は片付けなんだけど、負けた回数イコール片付けないといけないマットの数っていうのはどう?」
「ふーん。せっかく励ましてやったのにそんな事言うんだ」
「冗談てば、冗談。つうか、俺が片付けるよ。海は先に風呂にでも入って」
「流石は才機。中々いい紳士振り。じゃ、そうさせてもらう。ここは頼んだ」
と海は才機の肩を叩いて先に帰った。
才機は一人で後片付けを始めた。だがさっきまで取り付いていたもやもやはもう晴れていた。
• • •
昨日リースとメリナにピクニックの話をしたら了承を得たので十二時が近付いたら海は彼らの部屋に呼びに行った。ドアにノックをして応対に出たのはメリナ。
「あ、ごめん。お兄ちゃんがピクニックに持って行く物を買いに行ったきり戻ってきてない。そろそろ戻ってもいい頃だけど。入ってきな」
海は自分と全く同じ構造の部屋に入った。そして海達と同じく飾り物などない、装飾や個性を欠けた部屋だった。
「あたしは準備していたところだったが、もうちょっとで終わる」とメリナは浴室に入った。
鏡台に置いてあったアクセサリーが海の目を引いた。それを手に取って、メルが常に付けているハートのペンダントだと分かった。ペンダントは粗雑に結び付けた革ひもに掛けられている。よく見るとそのペンダントは実はハートの形をした錠前だ。底に鍵穴がある。メリナは浴室から出たら海がその錠前を弄っているのを見た。
「あああ、気をつけて、それ!」
「あ、すみません。壊れやすいの?」
「いや···多分、大丈夫。ただ、元々それほど強い錠前じゃないんだ。古いし。ひもはもっと危ない」
確かに本格的な頑丈な錠前ではなく、どっちかというとおもちゃのたぐいだった。
「いつも付けてるのね、これ。手作りに見えるけど、そうなの?」
「うん。値打ちはゼロに近いだろうけど、あたしにとっては凄く大事な物。あたしにも
あるんだ、そういうの」
「大事な物?」と海は改めてそのいかにも安っぽい錠前を見た。
「あれ、本当は日記用の錠前だ。あるだろう?他人に読まれないように表紙に掛けるやつ。その日記はお兄ちゃんからの八才の誕生日プレゼントだった。友達がいなかったあたしに、話したい事とか欲しい物があれば全部それに書いてって言われた。日記と鍵はいつも家の机の中に入れておいたから、あたしがいない時にお兄ちゃんは日記を読むの。悩み事を書いたらお兄ちゃんは相談相手になってくれて、他の子達が美味しそうなお菓子を食べてるのを見て、食べてみたいって書いた時にお兄ちゃんが同じ物を買ってくれた。同じクラスの男子の二人があたしの髪に付けたリボンを奪って返さなかった時の事を書いたら、次の日学校に着いたら机の上にリボンが置いてあって、二人とも目に黒いあざが出来ていた。最初は普通に書いていたが、半分まで使ったら出来るだけ多く書けるように必ずページの端ぎりぎりまで書き始めた。結局書き尽くしたよ、あの日記。最後の方は余白なんてものがどこにもなかった。正にあたしの魔法のランプだった。日記は今でも実家にあるけど、錠前を首飾りにして、それと鍵だけを持ってきた」
最後の最後のページだけは『お兄ちゃん大好き。ありがとう』とでかでかと書いて余白は幾らでもあったが、流石にそれは恥ずかしくて言えない。
「ふーん。なんかいいね。そういうの」と海はネックレスを鏡台の上に戻した。
なんだかあのみすぼらしい首飾りは前より可愛いく見えた。
「でも日記を完全に埋め尽くした後はどうしたの?ランプの精霊はそう簡単に手放せるものなのか?」
「流石にね、無口でいつも我慢する自分に戻るのが嫌で、自分からお兄ちゃんに相談するようになった。お兄ちゃんに頼るのも大事だって教えてくれたんだ」
その時ドアが開いてリースは袋を下げて入ってきた。
「本当にいいお兄さんだね、リースは」と海はリースを通り過ぎざまにに肩を軽く叩いて部屋を出た。
「なんだ、いきなり?」
「準備が出来たんならもう行くよ」とメリアが言った。
二人は部屋を出て少しだけ待つと才機と海も袋を持って部屋から出た。海はあの黄色い帽子をかぶっていた。
「おや?初デビューかい?」とメリアは海の帽子に視線を送った。
「そうね」と海はメリナと目を合わせなかったが何気なく言ってのけた。
「初デビュー?」と才機が聞いた。
「何でもない。さ、行こう」と海がメリナの手首を取って先に行った。
「あの二人、仲良くなったのか?」とリースが聞いた?
「さぁ」
四人で宿を出ると海は思い出すようにはっとなった。
「そうだ。綺麗な花が咲いてる場所ってこの辺にある?枝が満開の花で一杯並木とか」と海がリースとメリナに聞いた。
「ん〜、そんな場所あったっけなぁ」とリースはあごに手を当てて考え始めた。
「思い当たる場所一つあるけど···並木とはちょっと言えないな」とメリナが言った。
「じゃ、取りあえずそこに行ってみよう」と海が言った。
メリナに案内されて辿り着いたのは街の外にある草原の丘で、花が咲いている木は確かにあるにはあったが、たったの三本。並んでいるのは二本だけで、もう一本はやや離れた場所でぽつりと立っていた。木の枝には花だけではなく、松かさみたいなのもまだらに付いている。花の方は桜と違って薄緑色をしていてユリに類似している。皆は木が二本ある方に足を運んだ。
「まぁ、これはこれで綺麗だよね」と海が才機に言った。
「うん」
シートはなかったので皆が適当に木の下で座った。周りに松かさが数個落ちていて、頭の上に落ちたら痛そうと思いつつ、才機はあぐらをかいて体重を斜め後ろに置いて両手にかけた。リースも同じことを考えていたのか、やけに上の方を気にしている。海は八種類のサンドイッチ、サラダ、様々な切った果物と飲み物を四人の真ん中辺りに置いた。リースは持ってきた袋から箱を出した。
「結構大きいね。何が入ってる?」と海が聞いた。
リースは蓋を開けて、中の立派なチョコレートケーキを全員に見せた。
「うわ〜、凄い!しかもでかい。四人で食べきれるの?半分残りそう」
「その心配はないと思うよ。お兄ちゃんはどうしようもない甘党だから」
「悪い?」
「別に。でも目を離すとお兄ちゃんは一人で半分以上食べかねない」
「しねぇよ、そんな事」
「今から五年前、九月十九日、お父さんが持って帰った三リットルの期間限定キャラメル•ナッチアイスが」
「おい、いつまで引き摺ってんだ、あんな昔な話?」
「あたしの限定キャラメル•ナッチアイスを返すまで」
「食べちまった物は返せねぇよ」
「じゃ、永遠にだね」
「まあまあ、今日は皆が美味しく食べられるよ。ほら八種類のサンドイッチもあるから好きな物はあるはず」と海は皿を見て七つのサンドイッチしかない事に気付いた。
「って、才機もう食べてるじゃん!いつの間に?!」
才機は肩肘にもたれかかっていた平然と食べていた。
「そこの兄妹が揉めていた間に」と才機が悪びれずに答えて噛み続けた。
「ちょっとは遠慮してリースとメリナに先に選ばせてよ」
才機は瞬きして自分が一口食べたサンドイッチを見た。そして上半身を起こして前にかがんだ。
「戻すな」と海の一言。
才機は元の体勢に戻った。
「もー、ごめんね二人とも。まだ沢山あるから好きなのを選んで。後、果物一杯持ってきた。ほら、リンゴ、メロン、ブドウ、イチゴ、そしてナシ」と海は果物が入った入れ物の蓋を取った。
「おお、イチゴは超大好物だ!」とメリナの顔が光り輝いた。
「どうぞ、食べてみて」
メリナはイチゴを取って先端をかじり取った。
「うむ、甘い!この味だ〜!」
海は皆に髪皿を配った。
「サラダはこの皿に盛って。どんどん食べてね。残っちゃうとこっちが困るだけだから」
海は小さなため息をついた。
「後はこの木から桜の花びらが散っていたら完璧なのになぁ」
「桜?」とメリナが聞いた。
「あー、私達の故郷にちっちゃくって奇麗なピンク色の花を咲かせる木があって、花びらが散るとますます奇麗になるんだ。実は毎年の春に花見というのがあって、そういう木の下で桜を見ながら酒宴を張るんだ」
「ふーん。見てみたいな、それ。お兄ちゃんにはそういうのちゃんと鑑賞出来ないかもしれないけど」とメリナは左手で既に限界まで盛り付けられた皿を持ちながら右手でサンドイッチを頬ばっているリースを失望の色が浮かんだ目で見た。
「それは花より団子って言うんだ」と海が笑った。
「ダンゴ?」とメリナはまた不思議そうに聞いた。
「その辺でやめておけ。埒があかない。ともかく食べ物な」と才機が簡潔に答えた。
「このサンドイッチ結構うまいぞ。海が使ったのか?」とリースが聞いた。
「それはない、ない。海の料理の腕なんか」と言い始めた才機が海の不愉快な視線を感じた。
「···はまだ上昇中です、はい」
話題を変えるような何かを探して才機はリースの後ろからはみ出しているライフルに気付いた。
「あれっ、こういう所にまで銃を持ってくるの?」と才機が聞いた。
「こいつはいつも携行してるんだ。まぁ、今日は使う事にはならないと思うが、念の為だ」
「そう言えば、お前もしかして銃に関してはかなりの凄腕だったりする?」
「お兄ちゃんの数少ない取り柄の一つだね。古里の射撃大会で毎回必ず優勝した。いつも『百発百中だ』って威張ってる」
「そんなに凄いの?」と海が聞いた。
「この前、俺があのでかい奴と戦った時、凄い距離からマッチを狙って当てたんだよ。ありゃ大技だ」
「あの時は百発百中だったかどうか分からないがね。流石にあんな距離じゃ三発も当てたって自信を持って言えない。もしかしたら一発だけ当てて連鎖反応で残り二本のダイナミトが爆発しただけかも。ま、俺のことだから三発全部当てた可能性は十分あるけど?」
「じゃ、何か芸を見せて」と海が所望した。
「芸ねぇ」とリースは辺りを見回した。
「じゃ、移動中の的を当てるのはどうだ?あそこの木の枝から垂れ下がっている松かさが見えるか?一番左のやつ」
約十五メートル離れた木に海はリースが言っていた松かさを見つけた。
「うん。動いてないけど」
リースはライフルを出して狙いを定めた。海は照準線に割と近かったので少し下がった。海と同じくらい照準線に近かったメリナは特に気にする様子はなく、そのまま平然と食べ続けていた。そしてリースが引き金を引いた。銃声がとどろくとともに松かさが地上へと落下し始めた。三秒も経たないうちに二発目の銃声が鳴り、松かさは空中で炸裂した。
才機は両眉を上げ、海は拍手しながらアンコールをせがんでいる。
「おおお、凄い!もう一回見せて!」
「こんな座興を何回も見せられないよ。弾はただじゃないんだから」
「ケーキを買う為なら金の糸目をつけないくせに」とメリナが言った。
「何、これは皆の為を思って買ってやったんだぞ。感謝してもらいたいくらいだ」
「ならあたしたち三人でほとんど食べても構わないよね?」とメリナは小悪魔的な笑みを見せた。
「無理しなくていいよ。苦しくなったら残ったケーキは俺が責任取って片付ける。それに食べ過ぎる太っちゃうよ。女は気をつけないと」
「お兄ちゃんみたいな食い意地のはった人と一緒に住んで太る訳ないだろう」
「んーーーーーーーー!」と海は仰向けになって両腕を伸ばした。
「やっぱいいね、こういう雰囲気。こういう景色。なんか、最近町ではよく見られてるような気がして落ち着かないんだ」
「リベリオンに狙われてるだろう?その可能性は十分にある」とリースが言った。
「もー、言うな、それ。分かってるけど、こんな時ぐらい気のせいだとか、安心させるような事言ってくれないかな」
「いや、リースの言う通りだ。決して気を許すな」と才機が言った。
「前にも襲われた事あるのか?」とメリナが聞いた。
「ううん。この前は初めてだった」と海が言った。
「相手も異能者だから油断は禁物だ。どう仕掛けてくるか分からない。お前のあの姿になると大抵の物理攻撃なら無効になるが、何かに弱いとかそういうのある?熱さとか寒さとか」とリースが問い掛ける。
「俺の知っている限りはないんだけど、色々試してきた訳じゃない。でも高熱にはある程度の耐性はあるみたい」
「海は風を操れるけどそういう防御的な能力とかはないよね?」とメリナが聞いた。
「うん。その辺に関して私はメリナやリースと変わらない。柔道の技なら知ってるけど」
「でも柔道が通じる相手じゃないだと考えた方がいいかも。連中は町の中ではあまり派手な事はしないと思うが、万一の場合は一人で対応しようとしないで必ず俺を探しに来て」と才機が海を戒めた。
「あれ〜、海の事そんなに心配してるの?」とメリナはからかうように尋ねた。
「ええ」と才機は普通に答えた。
「熱いわね〜。海への想いがぴんと伝わっくる 」
「ちょっと、勝手に脚色しないでくれる?」と海が言った。
「そなんに照れなくてもいいのに。もっと素直になれよぉ。二人とももう付き合っちゃえば?楽になるかも」
「だとさ」と才機は何の動揺を見せずに食べ続ける。
「な、何言ってんの、あんた?」とメリナに向って海が言う。
「才機は何かまんざらでもないって感じよ」
「俺は海のタイプじゃないんだよ、きっと」
「じゃ才機のタイプは?」
「俺?ないよ、そんなもん」
「じゃ海の事をどう思っている、実際?好きなの?」
「しつこいよ。これでも食べて」と海が文字通りメリナの口をリンゴの一切れでふさごうとするも華麗にかわされる。
「答えはどっちであれ、そんなの本人の前で言うのはまずいのでは?はいって答えたら自分の気持ちがばれる。いいえって答えたらそれは『お前なんて眼中にない』って言ってるのも同然だ」
「うわー。用心深いだな、あんた。何の隙も見せない。ま、海の興奮ぶりを見るのは面白くて、からかい甲斐があるけど」とメリナは何度も突き付けられているリンゴを遂に口で受け取って噛みながら海にやんちゃなにこ笑いを見せた。
海はそれに反応せず、ケーキを切るのに夢中になるようにして皆に配り始めた。リースの分を多目にする気遣いまでした。まだにこにこしていてメリナは手を果物が載せた皿へ伸ばした。でもその笑顔が長く続く事はなく、消えた。
イチゴが···ない。
「もうなくなってる!」とメリナは右の方へ顔を向けて、真っ赤なイチゴがリースの口に持って行かれ、消えてなくなるのを見た。
「あああ!お前、また〜!あたし二個しか食べてないのに!」
「だってみんな他の果物ばっかり食べていて、誰もイチゴ食べてなかったもん」
「気を使ってくれてたんだろうが!」
「はー?深く読み過ぎだよ、それ。な?」とリースは才機と海に聞いた。
「俺は遠慮していた」と才機は手を上げた。
「一応、私も」と海も手を上げた。
「ほら、見ろ!そしてあたしは好きな物を最後に取っておくのをお兄ちゃんは知ってるはず!」
「それなんだけどさ、もう何年俺と暮らしてきて、何回もこういう事になってるんだから、そろそろその癖を直した方がいいと思うんだけど」
「な···、な···」と怒りのあまりに言葉も出なかったメリナだった。
「そのケーキをこよせーー!」
メリナはリースの前に置かれたケーキが載った皿を鷲掴みにした。
「おい、返せ!イチゴが一番手近にあったから何となく食べただけだ!」
リースはケーキを取り戻そうとしてケーキに腕を伸ばしたが、メリナはリースに背を向いて回避した。そしてフォークを手に取り、リースのケーキから飛び切り大きいな一口を食べた。
「ああああ!分かった、分かった、イチゴなんて買ってあげるからそれ以上はやめてくれ!」
「約束だよ」
「約束だ!」
メリナはしぶしぶケーキを返した。
「四分の一無くなってんじゃん」とリースがケーキを受け取った。
「自業自得だ」
リースはがっくりとうなだれて目を閉じた。その時、ぐしゃっという音がして皿が少し重くなると目を開ける。ケークの上に小さな松かさが載っていた。ケーキはもう皆のところに回っていて、全員が話し掛けづらい目でリースを見ながら食べていてリースだけが食べずにその松かさに潰されたケーキをじっと見ている。やがてリースは松かさを取って無造作に肩越しに後ろへ放り投げて何もなかったようにケークを普通に食べ始めた。
「まあまあ、ケーキはまだ余ってるから大丈夫だよ」と海が慰めてみた。
「食い物の恨み、やっぱり怖いな」と才機が言った。
「才機ならそういう酷い事はしないよね。あたしは才機の隣に座るもん。海は別に構わないよね〜?」とメリナは立ち上がった。
「なんで私に断るのよ?好きにしたら?」
「本当に素直じゃないな。ならあたしがアタックしちゃうかしら」
メリナは才機の隣を目指して歩いたが、途中で風が吹いてきてスカートが捲られた。
「きゃあ!」と危機一髪でスカートを抑えた。
メリナは怪しむようなまなざしを海に送った。最初、海はなんで睨まれているか分からないような様子で無表情に視線を返したたけ。気付いたら両手を前に出してぶんぶん振った。
「私じゃないよ!本物の風だった!」と海が責任を否定した。
次の一陣の風が地面に置いた紙コップを引っくり返し、食べ滓しか残っていない皿を手の届かない所まで吹き飛ばした。
「風が出てきたな。そろそろ片付けて帰るか?」と才機が提案した。
「そうね、早くケーキを食べて帰ろう」と海が言った。
皆が直ぐに食べ終え、半分弱残っていたケーキをリース達に持って帰ってもらった。宿に着く直前に雨も降り始め、水を浴びないといけなかったのは本の数秒間。それから天気はますます悪化して本格的な雷雨になった。こうして最高のピクニック日和が一時間にて最悪の天気と化した。
•••
雨の恵みというべきか、雷の恵みというべきか、次の日の仕事が決まった。どうやら昨夜の雷鳴を恐れて家から逃げ出した猫が戻ってこなかった。当然、何でも屋としての仕事というのはその愛玩動物を探す事だ。普段ならリースはこんな屈辱的、さらに重要な事に報酬の少ない仕事を受けないが、依頼してきたのは沢山の宝石をぎらぎら光らせていた典型的なお金持ち婦人だった。約束した礼金も半端ではない。
「という訳で探せる範囲を出来るだけ大きくする為に手分けして三人で別行動を取るのが最善と思う。猫の特徴は白くて、毛がふわふわしていて、首に青いリボンが結ばれている」と朝食を食べながらリースが皆に説明した。
「結構楽だな、今回の仕事は」と才機が言った。
「楽だけど成果をあげなきゃ一ルピスも出ない。つまり監視されないからってサボんなよ」
「誰が?リースこそ遅れを取るなよ。俺は動物に好かれるタイプなんだ。その猫は向こうから寄ってくるって」
「なんだ、それ?動物と会話出来る能力も持っているか?」
「そう、心が通うんだよ。なんって言うか、俺の人徳ってやつ?」
「ほ〜。自信満々だな。何なら賭けようか?誰が猫を捕まえるか」
「面白いかも。何を賭ける?」
「じゃぁ、負けた方は勝った方に明日の朝飯をおごるってのはどう?」
「いいだろう。乗った」
「よし、そうと決まればさっそく捜索に入らせてもらう」とリースがパンケーキの最後の一枚をフォークで刺して頬張っり、まだ口一杯のまま宿を出た。
《案外そんなに遠く行ってないんじゃない?まずは依頼人の家の周囲を捜そう》
「あぁあ、張り切ってるんだな、お兄ちゃん」とメリナはフォークに立たせたソーセージを食いちぎった。
「賭け事になるとリースは本気になっちゃうようだね」と海が言った。
「負け嫌いだよ、お兄ちゃんは」
「本気過ぎだよ。例え見つけたとしてもリースじゃ猫を怖がらせて逃げられるだろう。猫を見つけさえすればこっちのもんだ。この勝負は勝たないことはあっても負けることはない。最悪でも引き分けに終わる」と才機が言った。
「あ、そうだ。才機、この前の話覚えてる?」と海が聞いた。
「この間の話?」
「絶対にびっくりさせるって話」
海の手料理の件が才機の脳裏を横切る。
「ああ、あれ···ね」
「今日持って帰るから覚悟してね」
《覚悟って···》
「オーナーからこつを教わってから作るんじゃなかった?」
「だから、今日色々教えてもらって作ってくるって。」
「そ、そう。頑張って」
メリナは話の内容がよく分からなかったが、二人を見ていて何かが妙に調子はずれだった。あえて聞かないでメリナは聞き捨てる事にした。
リースが依頼人の地所から出た。敷地での探索は不毛だった。
《他手がかりはない。適当にあっちこっち回るしかないか》
才機もメリナも同じような事をしていた。事細かく探していたのは前者の二人だけだけど。メリナはどっちかというとゆったり散歩している気分で、もし猫が運よく視界に入ったらついでに捕まえておこうって感じ。その点、リースと才機はどんな木の枝も壁の上部もチェック済み。今だって才機は角を曲がって並んである沢山のゴミバケツを一つ一つ蓋を上げて中を覗いている。そしてちょうど角にあるゴミバケツの蓋に手を付けたら、同時に別の者の手がその蓋を掴んだ。腕を辿って顔を見るとそれがリースの手だと分かる。
「なんだ、お前もゴミバケツを確認してるのか?」と才機が聞いた。
「俺は何事も徹底的にやる人だからな」
「聞きそびれたんだけど、依頼人の家はどこ?その辺をちょっと捜してみたい。俺の勘が当たると思うならリースも付いてきていいよ」
「残念。そこはもう捜してきた。外れだな」
「フンッ。自分だけ肝心の情報を独り占めしてちゃっかり抜け出そうとしたな?」
「別に。聞かなかったお前のミスだ。そこ以外にも他に当ては幾らでもあるよ」とリースは才機に背を向けてあごをこすり始めた。
《考えろ!俺が猫だったらどこに行く?》
「どうせ今『俺が猫だったらどこに行く』とか考えているだろう」
「な、な訳ないだろう?素人じゃあるまいし」
「そうか?ま、あまり無理すんなよ。今度会ったら俺は猫を抱いてるかも」と才機はその場から離れて歩き出した。
「今夜は晩ご飯抜きだな。明日の朝の為にお腹をすかせて一杯食べたいから」とリースがわざとらしく大きい声で言って才機と逆方向に行った。
そしてその場から誰もがいなくなると、角にあったゴミバケツの蓋が少しだけ動いて、魚の骨をくわえて何かが出てきた。それは白くて、毛がふわふわしていて、首に青いリボンが結ばれていた猫だった。
リースと才機は無闇に町を駆け巡って捜し続ける。今のところ、二人ともついていない。
「フワァ〜〜〜〜」
メリナのちょっとした休憩がいつの間にか仮眠になっていた。さっき、近くにいたハトの群れが一斉に飛び立つ音がメリナを起こした。公園のベンチに横たわっていて、メリナは首を回し、眠そうな目でハト達がさっきまでいた場所を見た。ハトの代わりに手をなめている一匹の猫がいた。白くて、毛がふわふわしていて、首に青いリボンが結ばれていた猫。
《猫か···可愛いな···》とメリナは二度寝した。
目をつぶって。
心地よくなって。
身を眠りの魅惑的な誘いに任せて。
···
···
···
「ああああ!」と最初から全然眠くなかったようにメリナは急に起き上がって猫を指差した。でもそこには猫はもういなかった。
リースは猫の鳴き声に引かれて暗い路地に入った。そこで発見したのは、なんと、三匹の子猫だった。しかしどれも捜している猫と違う。ため息をついてリースは頭をかいた。三匹の遊んでいる猫に目を取られて、後ろに本命の猫が走って通り過ぎるのを気付かなかった。次に通り過ぎたその猫を追って走る妹にも気付かなかった。でも妹はお兄さんに気付いたらしい。背走して路地にいるお兄さんに叫んだ。
「お兄ちゃん!いた!いた!」とだけ言ってメリナは追跡を再開した。
小道、広場、商店街。二人はしつこくどこでも猫の後を追う。大の男と女二人が猫を追い掛けているのは傍目から見ればさぞかし滑稽な場面だろう。 上げられた眉とあざ笑いの数は決して少なくはない。でもそのうち皆と違う反応を示した人がいた。目を見張って心の中に焦りを感じた。それは才機だった。猫を追い掛ける二人から猫を追い掛ける三人になった。
「おい、付いてくんな、今更!人の手柄を横取りするんじゃねぇ!」とリースが駆け付けた才機にに言った。
「依頼通り、俺はいなくなった猫を捜していただけだ。そして見つけた時に二人がそれを追い掛けていたってだけのことだ」
「っていうか、見つけたのはあたしだから、それを言うんならあたしが言うべきよ」
「余計な事言うなって。誰の味方なんだ?」とリースが文句をつける。
「あんた達のくだらない勝負に付き合うつもりはないよ。あたしが欲しいのは礼金だ」
猫は追っ手を振り切れず、遂に木を登った。高い枝の上にしゃがんで三人を見下ろしている。
「それで逃げたつもりか?」とリースはライフルを出して猫を狙った。
「ちょっと、何をする気?」と才機が聞いた。
「威嚇するだけだよ。枝を撃ち落とす手もある」
「これ以上怖がらせてどうする?それに枝を撃ち落としたら猫が怪我をするかも」と才機が銃口に手を付けて下げさせた。
「じゃどうするって言うんだ?」
「見てろよ」と才機が猫の真下の所に行った。
リースは不満そうに先手を譲った。メリナは近くのベンチに座った。
「いい子だ。おいで〜。傷付けたらりしないよ。お家に返すだけだ」と才機は手を軽く叩いて両腕を猫の方に伸ばした。
「なんだ、それ?猫が分かってるはずないじゃん」とリースが愚痴った。
「大事なのは気持ちだよ」と才機は手にポッケトを入れてナプキンを出した。
そのナプキンを開くと今朝の朝飯から取っておいたハムがあった。
「ほら〜、下りてきて〜」と才機がハムを振り回した。
「ずるいよ、餌なんか使って!何が気持ちだ?」
才機はリースの苦情をスルーにして猫に集中した。猫の方は警戒を少し緩めたそうだった。頭をぴょこんと上下に動かして才機を見ていた。
「よーし。いい子だ。怖くないから」
猫は下りたい素振りを見せていたが、やっぱりちょっと高過ぎて無事に下りられる自信がないみたい。しかし才機の激励、あるいはもしかしてハムの御利益のお陰で猫は飛び降りた。ところが、猫の狙いは才機の誘っていた手でもハムでもなかった。才機の顔だった。それを踏み台にして猫は地面に辿り着き、また逃げ出した。リースはチャンス到来と見た。
「もらった!」とリースは猫に飛び付いた。
一秒遅かった。猫が脇の間から抜け出した。それから猫はマリナの方に向った。メリナの膝の上に飛び上がって···そして、座って泣いた。
「あれっ」とメリナは猫と見つめ合った。
リースと才機はそれを見て呆然としていた。
「なんで?」と同時に言った。
「わかんない。脅威を一番少なく示していたから?」
「まぁ、とにかく依頼人に引き渡そう。また逃げ出す前に」とリースが言った。
「じゃ、二人ともはあまり近く寄らないで。嫌われてるみたいんで」
依頼人は愛するペットとの再会に歓喜した。
「ベシ〜!ママは凄く心配したんですよー!もう二度といなくなったりしちゃダメよ、
この悪い子。わたくしの可愛いベシを見つけてくれて本当にありがとうざました。はい、
約束した報酬ですわ」と依頼人がお金をメリナに渡して家の中に戻った。
「猫を捜すだけこんなにもらえるなんて金持ち大好き!これ使って何か豪華なものを食べない?」とメリナが言って才機に分け前をやった。
「ああ、悪い。ちょっと寄りたい所あるから先に帰ってて」
才機は手を振って小走りでリースとメリナと別れた。
才機が宿に戻ったのは海がそろそろ帰る頃だった。ベッドで休んで十五分経たないうちに海が帰った。
「お帰り」
「ただいま。猫見つかった?」
「うん」
「賭けは誰が勝った?」
「えーと。メリナ」
「メリナ?」
「見つけたのも捕まえたのも彼女だった」
「ふーん。ま、それでよかったよ、きっと」
「それはもしかして···」と才機は海が持っている袋の事を見た。
「うん。スープを作ってきた」
「へー。どんな?」
「野菜のスープよ。食べて驚け。絶対美味しいから」
「そうか。もう味見したんだ」
「いや、してない」
「してない?」
「オーナーが自分の料理を信じてあげなさいって言った。心が込めていれば料理は必ず答えてくれるって。
《オーナーよ〜。俺に何の恨みが?!》
「なら、きっと大丈夫ね」と才機は頑張って笑顔を作った。
海は袋から容器を出して才機に渡した。
「あ、スプーンを持ってくるの忘れちゃった。確かこの前の取っておいたよね」と海は鏡台の引き出し開けた。
「あ」と海を止めるように才機が手を出した。
「ん?何これ?」と海は小さな瓶を出した。
その瓶の中には沢山の丸薬が、外側に胃の絵が貼ってあった。
「薬?胃薬?胃薬買ったの?!」
「そ、その···なんっていうか、別に海の料理を食べて絶対に腹を壊すと思った訳じゃないよ?ただ万一の場合もあるだろう?材料が駄目だったとか···体質に合わないとかさ。そもそもそういうのはいつも持っておいた方がいいだろう?どの家庭でも欠かせない代物というか」
海は当初の目的だったスプーンを取って才機の目の前に突き出した。
「食べて」と些か冷たい目で海が言った。
才機は海が差し出していた物をスプーンではなく、自分の腹を切る為に出されたナイフを受け取るように手にした。容器の蓋を取った。見た目は茶色。色は濃くて表面の下までは見えない。才機はスプーンを入れてみる。
手応えあり。
スプーンを上げると載せたのはどうやらジャガイモとニンジン。さぁ、正念場だ。最後の晩餐になるか?スプーンを口に持って行きながらも、あのもがいていたトカゲの姿が脳裏をよぎる。分別を無理やり押さえ込み、決心が弱くなる前に才機はスポーンを口に突っ込んだ。取りあえず意識を保つ事に全力を傾注したから味わうのを忘れたけど、味が悪くなかったような気がした。
「どう?」と海がちょっと不安そうに問い掛けた。
再確認の為もう一度味見すると才機はスープに向って言った。
「悪くない···悪くないんだ!」と才機はまた一口を食べた。
「うん、普通に食べられる、これ!凄いよ!」ともう完全に警戒心を解いて才機は心置きなく食べていた。
「確かに驚けと言ったけどそこまで驚かれるとなんかむかつく···」
でも完全に空の容器を返されたらそれもなんとなく許す事が出来た。
•••
「さ〜て。何を頼もうっかな〜。前からこれを食べてみたかったけど、流石にこの値段だからちょっとあれだったよね」とメリナは嬉しそうにメニューに目を通す。
「あの、やっぱり納得出来ない。お前は賭けに参加してなかった」とリースが言った。
「何よそれ?!参加していたに決まってるじゃん!お兄ちゃんが言った事をもう一回復唱しようか?『何なら賭けようか?誰が猫を捕まえるか。負けた方は勝った方に明日の朝飯をおごるってのはどう?』あたしも昨日の仕事に参加していた以上、賭けにも参加していたという事。二人だけの勝負だなんて誰も一言言ってなかった」
「もし俺か才機が勝ってたら自分は関係ないって言ってたくせに」とリースはメリナから顔を背けるぶつぶつ言った。
「よしっ、決めた!これにしよう。頼むよ、才機」
才機は目を大きくして、メリナの人差し指の下にあるスーパーデラックス朝飯定食の絵をガン見した。
「ええ?!そもそも食べきれるのか、あれ?」
「まぁ、才機のお金がなるべく無駄にならないように頑張ってみるよ」
「ちぇっ、おごられるべきなのは俺なんだけどな。あの猫は絶対に俺の胸に飛び込みたかったはずだ。本当はその耳が猫に電波か何かを発信してんじゃない?怪しい」と才機は肘をテーブルにつき、その手にあごをもたせかけた。
「してないよ。あたしの知っている限りは···。んーー、さすがに二人前はいらないからお兄ちゃんの分は海に使ってあげるね。食べてみる?スーパーデラックス朝飯定食」
「えっと、じゃあ半分を才機にあげる。お願いします」と海がリースに会釈した。
「はい、はい、それで満足か?」とリースがメリナに確認した。
「大満足!」とメリナは満面笑みを浮かべた。
「はい、今日の賃金だ」とリースは金が数枚のコインをテーブルの向こう側に滑らせた。
「え?今日はまだ何もしてないけど」と才機が言った。
「今度は依頼人に前払いしてもらった。知ってた?今日は北東地区の粗大ごみ捨ての日」
「知らなかった」
「昨日はあの辺を回って、ちょっとした料金の代わりに俺達が捨てに行ってあげるって色んな人と話をつけておいた。町を囲んでいる外壁の東西部分の外側は一時的な粗大ごみの捨て場になっている。北の門を使って皆が捨てた物をごみ捨て場まで運ぶ。という訳で、今日はちょっと肉体労働を頼む。もう分かってるだろうけど、生身の体で地道に働くんだぞ。町の外に出てもだ。誰かと鉢合わせするかもしれない」とリースは自分のフォークでメリナの皿にあるソーセージを刺した。
しかし取り上げる前にメリナのフォークもそのソーセージを刺して押えつける。
「何のつもり?」とメリナが言って、もう片手が持っているコップからコーヒーを一口飲んだ。
「いいじゃん!四本もあるんだから。それもハムもベーコンも」
「もし残したらあげるよ。まだ早い」
「けち」とリースは不満ながらフォークを引き出した。
「あの、今日は仕事が入ってないから私も手伝える」と海が言った。
「そうか?じゃー、二チームに分かれよう。俺とメリナは北北東を、海と才機は北北西の方を担当して。そっちは十二人から承諾をもらった。家の前に捨てる物を置いておくように言ったから見かけたらごみ捨て場へ運べばいい」
全員食べ終わったら、あげくの果てにメリナは五分の四をお腹に収める事が出来た。リースに残されたのはソーセージとベーコン一本、ハムのスライス二枚、トースト一枚といり卵が少し。外へ出ると薄暗い日だった。霧もちょっとだけ立ちこめていた。リースは皆に荷車を借りられる場所へ案内した。
「これらを自由に使っていいよ。一台を持って行って。こっち側からは十四人の依頼を受けたから、もしそっちが先に終わったら手伝いにきてくれ」とリースが荷車を持ってメリナと一緒に自分の担当している場所に向った。
「じゃねー。しっかり働いてくれよ、二人共」とメリナが手を振った。
才機と海は依頼人の家を捜すのにそんなに苦労はしなかった。
「うわ。流石に捨てる物がこんなに一杯あると金を払って他人にやってもらうかもね」と才機が言った。
「この荷車を使っても一往復で全部運べないよね」
「今日が休みだって事を後悔し始めたか?」
「いや。たまにはリースとメリナだけじゃなくて、私も才機と一緒に働きたい。最近仲間外れにされてるみたいな感じがしてさ」
「何言ってんだ?な訳ないだろう?俺から見れば海が堅気の仕事についていて一番えらいと思う」
「でもやっぱり···ちょっと羨ましい」ともっと小さな声で海が言った。
「ん?何?」
「何でもない。十二軒もあるんだろう?リースとメリナが先に終わったら格好がつかないからてきぱきとやろう」
結局どの家もごみを大量に積み上げていた。机、マットレス、鍋、椅子、部品、何でもあり。量が多くなかった場合は代わりに凄く重い物が待っていた。ソファーとか箪笥。積載した荷車の中身を西のごみ捨て場でぶちまけて、ずっとそれの繰り返し。もう何回往復したかははっきり覚えていないが、残り三軒となった。十軒目のごみを下ろしながら海が言った。
「そろそろ大詰めだね。リース達の方はどうなってるだろう」
「たまに他の人とは会ってるけど、彼らとは一回も出くわしてないな。東のごみ捨て場を使ってるだろう?」と才機は中型テーブルを今朝から着実に大きくなって行くごみの山に加えた。
「未だに霧が晴れないね。今日ずっとこうかし」
海が言い終える前に才機は何かが飛んで直進してくるのに気付いて、荷車から小さなコンロを下ろしていたた海をタックルした。
「いっててて。いきなり何するんだ?」
才機は返事しなかった。
「おい、何黙ってるんだ?っていうか重い!早く退いて」と海が少し苦しそうに訴える。
海は才機を押しやろとしたら手が濡れるような感じがした。しかも温かい。自分の手を顔の前に持ってきて、その理由が分かった。手が血まみれだった。上を見るとちょうど海が立っていた場所に半透明な刃らしき物が二本荷車に刺さっていた。その刃先は赤色に染まっていた。海は少し起き上がって、手で刃を触った。
《氷?》
次にまだ自分の上に倒れている才機に目が行った。酷く出血していた。かなりの深手のようだ。
「ちょ、ちょっと、才機?才機返事して!!死んでないよね?!」と海が大パニックに陥った。
弱った声ではあるが、遂に才機が喋った。
「やっぱり···あれはやばかったな。怪我···ないか?」
「何言ってんだ?!私は無傷だから自分の心配をしろ!見たんならなんで能力を使わなかった?!誰もいないじゃない!」
「いや···何っていうか···あの力は···自分の身を守ろうとする時に···発動するんだ···さっきは···海を守る事しか···考えてなくて、つい···」
「バカ!少しは自分の事も考えてくれ!こんなのやだよ!」と海は才機を激しく揺さぶる衝動に駆られたが、どう見てもこんな状態ではそれはまずい。
海は唇をかんで目に涙が浮かんできた。突然、聞き慣れない女の声が聞こえた。
「あら、やっぱりこんな霧の中で、しかもあんな距離じゃ二人とも同時に仕留めるのは無理だったか」
霧の向こうに人のシルエットが見えたきた。十メートルまで近付いてきたらそれは二十代後半の女性だと分かった。
「お願い!誰か読んで!この人凄くしている!」
「あら。聞いてなかったかしら。それやったのは私なのだれけど」
海はさっきの言葉をちゃんと聞いてはいたが、うろたえるあまりにその内容について思考力を割かず、取りあえず初めて見た人間に助けを求めた。
「誰だ、あんた···?」と海が今の状況を理解し始めたが、つい尋ねた。
「私は誰だと?この状況でもっとましな質問はないかい?どうすれば助けてくれるとか?」
「リベリオンか?!」と涙を堪えながら海の悲嘆が怒りに上回られた。
「まぁ、そういう事だ。せめての情けとしてさっきの質問も答えてあげるか。アイシスと言います。それにしても私って本当についてる。到着した早々二人とも目の前にいるんだもの。おびき出す必要もない。でも当てたのが彼でよかったー。どうやら厄介なのは彼らしいからね」
海は膝の上に抱いている才機の肩をぎゅっと握った。
「許さない···許さない!!」と海はアイシスの足元をすくうほどの風を放った。
アイシスは不意をつかれたが直ぐに体勢を直して、周りの空気に先ほどの氷の短剣を出現させ、海の方へ飛ばせた。海は手を瞬時に上げて、風の壁を作った。氷の短剣が壁にぶつかると軌道を変えられ、害を及ぼさずに地面に刺さった。しかし反撃のチャンスを与えないようにアイシスは攻撃を緩めなかった。多様な角度から刃をひっきりなしに発射して、海に防御の範囲を背後にまで広げさせた。
「そう言えば、彼はともかく、あなたの情報は割と少なかったわね。こんな事が出来るんだ。でも、守るのに手一杯みたいね。いつまで持つかしら?私なら数時間続けられけど?」
消耗戦となれば海は不利な状態になる。今のがはったりでない限り。海の手は少し寒くなってきて、長く続ければ寒さのあまりに痛みも伴う。そうしたら壁をちゃんと維持出来るかどうかは···。それにここで悠長に守っている場合ではない。一刻も早く才機に治療を受けさせないと。アイシスを見ると確かに余裕ありそう。彼女は平静を完全に保っていて肘を抱えていた。口を少しだけゆがめていて勝てる自信満々。その口のゆがみは海が思っていたように軽蔑していたからではない。仕掛けは後少しで完成するからだ。海は周りから飛んでくる刃を防いでいたが、頭上の方には注意が行き届いていない。全くがら空きだった。それに付け入ってアイシスは今必殺の巨大なランスみたいな物を海の真上に作っていた。そんなアイシスを見て、彼女の目がやたらと上の方に行き始めたのに海が気付いた。そして次の瞬間にアイシスは手を振り下ろす動作をしたと同時に、海は顔を上に向け、落ちてくる氷のランスを見た。海は反射的にだじろいで腕を盾にすると、上を含めて風の壁が海と才機を完全に囲んだが、やはり攻撃を完璧に防ぐのに少し遅かった。上の方で壁が貼られた時、ランスの先端が既に壁の向こうまで届いていた。よって先端だけが本体から切り離されて海のニの腕に辿り着いた。海はうめき声を上げた。幸いにその先端は僅かな十センチ。ほとんどの重さを失って、肌を破って血が出ていたものの傷はそれほど深くはない。壁を突破出来なかったもっと大きな部分が風の壁に沿ってドスンと地面に落ちた。
「ちぇ。気付いたか。苦しみを長引かせるよりいっそ楽になった方がいいと思うんだけどね」
命拾いしたとはいえ、状況が好転した訳ではない。押されているまま。手も痛くなってきた。正に万事休す。問題は相手がその氷を思いのまま好きな所に出現させる事が出来る。海は自分自身の元から風を発生する事しか出来ない。それでは、この状態で逆襲しても敵に勝つどころか相打ちにすらなれるかは怪しい。打つ手がない。
でも待って。
本当に出来ないのか?
実際に試した事がないだけでその事実は定かではない。でも仮に出来るとしても、この風の盾を保持しながら風の遠隔操作なんか出来るか?正直こうして全面的に二人をしっかり閉じ込めるような風を回し続けるのに集中力を使い切っている。アイシスの野次も耳に届いていない。盾を解除して相打ちになるのは駄目だ。海が助けを呼びに行けなくなったら意味はない。取りあえず実際に遠隔操作が出来るかどうか確かめるのが先決だ。左手に少し離れた所で落ち葉を見つけた。風で少し揺れていはいるがその場から動く様子はない。海はその葉っぱを見て集中した。葉っぱが軽い風で八センチぐらい舞い上がるのを心に描いた。強く、強く念じた。葉っぱは以前と変わらず、緩やかに揺れていただけ。もう一度。手の痛みを出来るだけ無視して、飢えているオオカミがやっとの思いで見つけた獲物を見るような目で葉っぱを見据えた。
《動け!動け!》
それでも葉っぱはその場から離れなかった。逆に、風の盾が少し弱まったらしい。今まで、海が作った障壁に接触して逸れたり砕けたりしていた氷の刃が一本、回っている風に進路を僅かに変えられただけで、障壁を突破した。通り抜けたやいばは才機の頬を掠って赤い血の線を残した。更に血を流す才機を見て、海は自分の無力さを呪った。そして、絶望した。上半身を才機の上に載せ、あの動かない葉っぱをどんよりした目でじっと見つめた。今はもう、ただ自分の力が尽きるのを待って、その先の末路を受け入れようとしていた。あの一枚の葉っぱを動かす事さえ出来たら、才機を救えたかもしれない。そう思うと胸が無念で一杯になり、涙を遂に流す。あのちっぽけな葉っぱ。あのたった一枚も葉っぱ。浮いてくれたら才機を助けられた。浮いてくれたらまだ才機と一緒にいられた。浮いてくれたら一緒に自分の世界に戻れる方法を見つけたかもしれない。浮いてくれたら才機に···!
海の目に急に光が少し戻った。
葉っぱが浮いた。
自分でもよく分からなかったけど何となくこつを掴んだ。自転車の乗り方を習おうとして、何度も失敗するうちに、何度目でいきなり転ばずにバランスを保てるように。
出来たんだ。
しかしやはり、僅か八センチしか浮かせなかったのに、浮いた途端に風の障壁の一部に小さいだけど、隙間が出来るのをはっきりと感じた。これで先ほど考えた問題の深刻さが実感出来た。やるんなら全力で。一撃で終わらせて相手の攻撃を止めさせなきゃ。二度はない。そんな強力な一撃を加えたら障壁は確実に消えるのだ。自分の急所に当たらないように祈るしかない。確かに分が悪いけど、持っている手札はそれだけだ。
その時、海は気付いた。
よく見たら、続々と飛んでくる刃は前みたいにそれほど正確に向かってきていない。微妙にずれていて、もっと下の方に向けていた。もしそのまま海の風を通ったら足に当たるような、ぎりぎりで外れるような気がした。さっきの大きいランスを降ろしたと同時に無意識に他の刃も下に向かせてのか?理由はどうであれ、相手が気付く前に今がチャンスだ。なるべく才機を庇うように海は自分の体を張って才機の身を覆った。そして真っ直ぐアイシスを見た。心臓の鼓動が急激に速まって破裂しそうで何とか落ち着くように一息ついた。障壁を解除し、切り裂くような風を呼び出す為に気力を限界の限り注ぎ込んだ。強烈な風の螺旋がアイシスの足元から生じた。同時に氷の刃を妨げる壁が消え、鋭い短剣が自由に目標へ進んだ。その殆どが海の直ぐ周りの地面に先端を埋めた。二本が海の左脚に、一本が右脚に、そしてもう一本がちょうど才機の頭を守っている海の右腕に差し込んだ。痛みで海が目を強く閉じて、歯を食いしばった。だが、痛みは海だけの物ではない。
アイシスの叫び声が鳴り響いた。未だに容赦ない風が彼女を巡り、ぴんと張った体の至る所に無数の裂傷が次々に現れた。風が沈静して、アイシスは倒れた頃には既に気絶していた。
勝った。
勝ったが、勝ち誇る時間はない。海は体を刺さっている氷の刃を一つずつ引き抜いて投げ捨てた。
「もう大丈夫よ。歩ける?んな訳ないか。ちょっと待ってて。今助け呼んでくるから。少し動かすね?···才機?···才機?」
さっきまであんなに急速に鼓動していた心臓がが瞬時に止まったような感じがした。
「ちょ、ちょっと、返事ぐらいしてよ。生きてるよね?」
返事は来なかった。
「私、頑張ったよ。あの人に勝ったんだから、これから手当してもらうんだから、しっかり···して···」と海の声が掠れた。
まだ返事がない。
「やだ···やだよ。一人にしないで!」と海はもう完全に涙声になっていた。
それほど離れていない所でストーブがどんと落とされた。ごみを捨てに来た町の住人だった。血塗れの才機と傷だらけのアイシスが目に入って、彼はうろたえた。
「た、大変!医者!医者だ!」と彼は慌てて元来た方向へ走り出した。
海は座ったまま才機をしがみついていた。ただひたすらに泣いた。そして涙溢れる目で才機を見ているうちに、他に見えてきた物があった。今まで何回か見た才機の気配が具体化した青いオーラだった。見るのは久しぶりだけど、それは以前より遥かに薄くて、消えてしまいそうだった。しかも、見た事がない黒い靄みたいな物が才機の傷に重ねて渦巻いていた。本能的にその黒い物が才機を蝕んでいるように何となく感じた。無駄だと分かっても他にどうする事もなく、海は半狂乱でその黒い靄を取り外そうと引っ掻いてやった。意外な事に、その黒い靄はほんのちょっとだけど、現に払われた。前に才機のその気配を触ろうとした事があったけど何の影響は与えられず干渉出来なかったのに。後、異様だったのは今まで非常に寒かった指先が暖かくなってきた。というか、焼けるような感じだった。その黒い靄に触れる度に、まるで擦り剥いた手をとげだらけの岩に擦り付けているみたいだった。しかし海は両手に走る痛みを構わず、意地になってその靄に八つ当たりでもしているように、半狂乱で全部剥がそうとした。
間もなく四人の人はその場へ走ってきた。その中にリースとメリナがいた。四人には海が才機の上の見えない何かと必死に戦ったいるように見えた。
「ど、どうなってんだ?!」とリースが聞いた。
「さっき市門の方で人が死んでるかもって叫んでいた男に会った。何があった?!」と次はメリナが問う。
「才機が···才機が···!」としか答えられなかった海はまだ黒い靄との格闘を続けていた。
靄はもうほぼ無くなっていたけど、気配は小さくてはかないままだった。
「とにかく才機を病院へ」とリースは海の前でしゃがんで、才機を抱き上げた。
「あの女は誰?」とリーサはアイシスの方へ見て聞いた。
「私達を襲ったのはあの女だ!多分死んでないよ。頼む、才機を助けて!」
リースはもう一度アイシスを見た。
「分かった。メリナ、海に手を貸して。彼女も怪我してるみたい」とリースが荷車にあった残り少ないゴミを退かしていたメリナに言って才機を荷車に乗せた。
「私は平気だ。才機を···」
海は立とうとしたが、 足から力が一気に抜いた。
《あれっ》
意識も霞んで全てが暗闇に負われた。
•••
近付く足音でアイシスの目が覚めた。もう、そこにはその足音の持ち主しかいなかった。その人はアイシスの直ぐ隣で止まった。体を満足に動けなかったアイシスはそれが誰だかすら確認出来なかった。
「本当にせっかちなんだから。任せりゃいいもの」
男の声だ。朦朧とした意識の中で声が遠くに聞こえたせいなのか聞き覚えはないけど。
「誰だ?」とアイシスはなんとか言えたが、声が小さ過ぎて聞こえなかったか、あるいは単に無視されたか男は答えなかった。
どの道、答えたとしてもアイシスはまた直ぐに気を失った。起きるのがまだ早かったようだ。男はアイシスを抱き上げてどこかへ連れて行った。
•••
海の意識が戻った頃にはもう夜だった。見知らぬ場所のベッドの上でその日の出来事を思い出した。夢であって欲しいと願ったが、左の方に顔を向けて点滴を受けている才機を見て、現実だと分かった。
「才機!」と海は起き上がろうとしたが、急に動いたら頭が凄くがんがんして元の体勢に戻された。
「大丈夫よ。生きている。まだ目は開けてないが安定してる」
声は右の方から来た。そこを見るとリースが脚も腕も組んで椅子に座っていた。隣の椅子にメリナが寝ていた。
「ここは病院?」と海が聞いた。
「ああ」
「どう、才機は?」
「危なかったよ。出血多量で死ぬとこだったらしい。幸いにこいつは才機と同じ血液型だから輸血で命を取り留めたんだけど···」
「だけど?」
「妙なんだ。才機のシャツはかなり血塗られたけど、あれは海が垂らした血なのか?」
「え?いや、あれは才機が流した血だ」
「そうか?」
「何が妙だ?背中に凄い傷があったんだろう?」
「それが、医者の話によるとあんなに出血した割にはそれほどの傷はなかった。背中に傷と言えば傷はあったけど、とても命に関わるよう傷じゃなかった」
「そんな···。私の目の前にあんなに血を流してたのに。リースも見ただろう?才機は意識も失っていた。死んだんじゃないかと思った」
「フワァ〜〜〜〜」
メリナが起きた。
「あれっ。海、起きてたんだ。もう大丈夫?」
「うん。頭が痛いけど」
「びっくりしたよ。海の怪我はそんな大した事なかったけどいきなり倒れるんだもん」
言われてみれば腕と足に包帯が巻かれていた。
「うん。私もよく分からない。急に力が入らなくなった。力を使い過ぎたかな」
「確かにあの時の海は変だった。駆け付けた時は平泳ぎか何かをしてた」
「あ、あれは···」
今のメリナの言葉であの黒い靄の事を想起させた。何となくあれが才機にとってよくない物と感じて打ち払ったけど、まさか、あれで才機が治った?海はまた左へ顔を向けて才機の気配を確認した。その青いオーラみたいな物はいつもの大きさに殆ど戻っていた。黒い靄もない。
「とにかく、この事件は謎がずっと解けないまま終わるらしい。医者も俺もさっぱり分からん。ま、皆無事だったからいいって事にするか」とリースが言った。
「あ、そうだ。あの女はどうした?」と海が聞いた。
「それが、先に才機と海を病に送って後で俺はあそこに戻ったが、もう彼女はいなかった。海の言う通り死んでなかったみたい」
「そうか」
「じゃ、海も無事に切り抜けたことで、俺達はもう帰るよ」
「ありがとう、みんな」
「また明日」とメリナが言った。
二人は病室を出て、海は安心してまた眠りについた。
•••
才機が意識を取り戻したのは翌日、午前遅くだった。最初に気付いたのは右脚がやたらと重い。脚の方へ見ると海が側で椅子に座っていて、才機の脚の上に腕と横顔を載せて
いた。眠っていた。
《助かったか》と才機はまた頭を枕に預けて目をつぶった。
そして数秒後にまた開けた。自分が今大怪我をしているはずだ。なのになんで包帯一枚も巻いていない。体もどこも特に痛んでいない。いつものように寝起きする感じだった。ぐっすり寝て起きた感じはしなかったけど。疲れは確かにあった。才機は起き上がって自分の背中を確認しようとた。その動きは海を起こした。目を開けて、才機が自分の背中を触っているのを見た。
「よかったー!やっと気が付いた!もー、本当に心配したんだよ!」と海は才機に抱きついた。
「という事は···夢じゃなかった。ならば、どうして俺は何ともないんだ?これはまだ自分の体だよね?あ、一応医療パッドみたいなのが付いているね」
才機と最後に言葉を交わしてからの事を海が全部教えた。
「じゃ、海が治したって言うの?」と才機が聞いた。
「分からない。でもそれでしか説明しようがない」
「本当にそうならそれは凄いぞ。奇跡そのものだ」
「とにかく私は才機が無事で何よりだ」
「お前のお陰だな。ありがとう」
「何回も言ってると思うけど、私ばかりじゃなくて自分の事もちゃんと大事にして。二回目だよ、あんたの病床を見守るのが」
「ごめん、心配かけて。本当にこれきりにするよう努力する」
「でも、こっちからも礼を言う。あの氷の刃で私が死んだかもしれない。ありがとう」
「お二人さん、朝から熱いっすね」
部屋に入ったリースだった。
「もう元気か、才機?心配したよ〜」と後に付いてきたメリナが嬉しそうに才機に抱きついた。
「ええ、おかげさまで」
「本当よね〜。痛かったよ、あの鍼。でもこれであたし達は永遠に結ばれている。責任とるよね?」
才機は混乱した顔になった。説明した時に海はその辺だけをはしょった。
「えっとー。さっき才機が一杯血を失ったって言ったよね。メリナは適合者だったから才機の輸血の為に献血者になってくれた」
「そう···だったのか。わりぃな」
「いいって、いいって。才機の耳が生えてきたらお揃いのバンダナ買いに行こう!」とメリナは楽しそうに手を胸元の前に合わせた。
「え?!!」
「冗談だってば。血が少し混ざったぐらいで生えないよ」
才機はちょっとだけほっとしたような顔になった。
「でも、輸血に参加した事ないし、正直分かんない」とメリナが付け加えて言った。
才機はこれ以上振り回されるエネルギもなく、頭の定めを運命に任せてため息をついた。
「生えたら、柄は俺に選ばせろよ」
「そんなにしょげるなって。生えないよ。多分。生えたって海はまだ才機の事が好きだよ」
「あんた、また考えなしにそういう事を」と海は顔をしかめた。
「俺が知りたいのは、才機、お前気分は?見た目はどうってことないけど」とリースが言った。
「うん。具合はいつもと殆ど変わらない」
「その理由は見当がつく?」
才機と海は目と目を見交わした。
「説ならあるんだけど···」と才機は部屋の外を通りすがる医員達を見た「宿に帰ってから話そう」
医者から見ても特に問題はなかったので退院する許可は容易に得た。宿に戻ったら全員才機と海の部屋で集まった。
「わざわざここに戻って話すって事は異能者である事に関係してるんだな。まさか、自分の傷が勝手に治る能力もあるとか?そうだったらお前は神の領域に近付いてるぞ」とリースが言った。
「異能者がらみではあるが、治したのは俺の力じゃない。海の力だったかもしれない」と才機が言った。
「海?」
「メリナ、言ったよね。私が泳いでいたように見えたって。あれは才機の生命の具現みたいな物から害を取っていた···と思う」と海が説明した。
「生命の具現?害?」とメリナが聞いた。
「私しか見えないの。集中すればリースとメリナのも見えるよ。うん。今は青くて、体中を覆っていて、メリナのはなんか生き生きしていて、リースの方は安定している。才機のはメリナと少し似たような感じだけど、怪我していた時はもっと薄くて、変な闇もかかっていた。その闇は害のように感じたから取り払った。もしかして、それで才機が治ったんじゃないかと思った」
「あたしは海の事を大体知ってるつもりだったけど、まだ知らない事が多いみたいだね」とメリナはびっくりするような顔になっていた。
「私だって昨日までは知らなかった」
「昨日まで知らなかった力···進化なのかな」とリースが言った。
「進化?そういや、ゲンから同じような事を聞いた気がする。それかどうかは分からないけど」と海は才機を見た。
リースは海を見て考えていたようだった。
「もし今の話が本当なら、誰にも言わない方がいいよ。たとえ同じ異能者でも。そんな凄い力は聞いたことないし、誰かに何らかの形で利用されかねない」
「うん。賛成」と才機が言った。
「ま、これで謎は恐らく解けた。一件落着だ。今日は仕事が入ってないからゆっくりしてて」とリースが言って、メリナと一緒に部屋を出ようとした。
「あ、昨日の仕事。後二軒残ってた」と二人は戸口をくぐったら才機が呼び止めた。
「気にすんな。残りは俺達でやっておいた。そうそう、今回のギャラはどうなったって思っているんなら、渡すのを忘れた訳じゃない。治療費に使わせてもらった」
「そうか。足りたか?」
「少し足りなかった」とリースはウインクして部屋のドアを閉めた。
「ここんところ事件が多くて嫌になるよな」と才機は座っているベッドに横になって目を腕で覆った。
「ここで暮らすだけでもう十分苦労してるっていうのに、これからもあのリベリオンの連中に絡まれなくちゃいけないのか?」
「二回目の失敗だから、諦めるといいんだけど。運がよければ才機が死んだって思い込んでくれるかも」
「その考えは甘いと思うよ。お前も言っただろう?誰かに見られているような感じがするって。大方、町にスパイがいる」
海は鏡台に寄り掛かって視線を床に向けた。
「そろそろ仕事が始まるんじゃない?俺はもう大丈夫だから行っておいでよ」
「そうか?じゃ行ってくる。今夜は何か美味しい物を持ってくる」
「サンキュウ」
気がちょっと滅入っていたけど、海はいつものようによく働いた。上がるまで後十五分のところで、よく知っているお客さんが入ってきた。
「才機?どうした、こんな所に?」
「考えてみれば、お前の職場見た事なくて、見物がてら向いに来た。ついでに食事もここで住ませるか」
「では、ご案内いたします。こちらへどうぞ」
才機は海が案内してくれた席についた。
「この間、お前が作ったスープを頼めるか?あれは結構良かった」
「ああ、あれね。かしこまりました。出来次第直ぐにお持ちしますので少々御待ちください」
スープが持って来られた時、ロールパンも付いていた。
「オーナーは才機が私の知り合いだって感付いて、パンをサービスするだって」
「人がいいんだね、ここのオーナー。頂きます」
海は帰る準備を終わらせてフロアに戻った頃、才機はもういなかった。残っていたのは空の椀と数枚のコイン。店を出ると才機はドアの隣で待っていた。
「お疲れさま」
二人が宿へ向って歩いていると海は持っていた袋を持ち上げた。
「才機はもう要らないでしょうけど、お礼にこれをリースとメリナにあげようと思った」
「そうだな。色々と世話になったんだ」
「しかし本当にびっくりした。まさかあんたが店に来るなんて」
「前からちょっと気になってたんだ。なんかいい雰囲気の店だね」
「昼間ならお客さんがわんさと来て大変だよ。オーナーが拡張を考えてるらしい」
「食べ物は美味しいしね」
「そう、せっかく来たんだから別の物を食べてみればよかった」
「比べたかったんだ。海の味とこの店の味。海の方が美味しかったかな」
「何あのわざとらしいお世辞?んな訳ないでしょう?」
「いやぁ、本当だ。俺もよく分からないけど、何かが違った。もしかして海は俺の為にエビやサケとかを一杯詰め込んでくれた?」
「普通の量だったと思うけど」
「そうか。まぁ、でもこれだけは言える。海のスープを食べた時の方が嬉しかった」
「口のうまい事言ったつもり?」
海は才機を軽く押しのけた。
「でもそんなに言うんだったらいつかまた作ってあげてもいいよ」と今度はちょっと嬉しそうな顔で言った。
宿に戻ったら海はリースとメリナの部屋のドアにノックをした。出たのはリース。
「あ、食事がまだだったらー、なんだその顔?!」
リースの左目の縁に真っ黒なあざが出来ていて腫れていた。
「うん、ちょっとな。どうした?」
「あ、えっと、まだ食べてないならこれを持ってきたけど」
「そうか?悪いな。どうぞ入ってて」
海と才機は部屋に入った。メリナは明らかに不機嫌だった。
「喧嘩···したのか?」と海がおずおず聞いて袋を鏡台に置いた。
「ああ、お兄ちゃんがね」
その不機嫌さが口調にも現れた。
「誰と?」
「あたしにしつこく口説いていた奴と」
「言っておくけど、こんな顔だけど勝ったのは俺だから」
「あたしもあいつの金玉に飛び切り素早い蹴りを入れたかった、あの馴れ馴れしい野郎」
「痛そうだね」と海はリースの目を見た。
「どうって事ないよ、これくらい」
海はリースの顔を凝視してその左目へゆっくり手を伸ばした。実際にリースに触れる寸前に、静電気によるショックでも受けたように手を急に引っ込んだ。
「どうした?」と才機が聞いた。
「ある。あの黒いの。才機の時ほど濃くはない。もっと小さいし。でもある。そしてやっぱり···触ると痛い」
海はまた手をリースの方へ伸ばした。
「おい、無理すんな。こんなの別に致命傷じゃないんだから」とリースは頭を引いて海の手を避けた。
「確かめたいんだ。本当に治せるかどうか」
自分しか見えてない何かに手を付けて、何かを剥がすような動作をしていた。海の顔の表現は苦しそうだった。
「本当に大丈夫?」と才機が心配そうに聞いた。
「大丈夫。後少し」と海は辛そうに言った。
その時、才機とメリナの口が同時に開いた。目の前でリースの左目が見る見るとよくなって行った。海が終わったらもう殆ど元通りになっていた。リースは自分の左目を触ってみた。
「凄い···凄いよ···。海が言った事を疑っていた訳じゃないけど、実際に治されると···凄い···」
「私も未だに信じられない。これが現実なのか?異能者の力って一体なんなんだ?何でも出来る···の?」
海の脚が急に崩れ、才機はくずおれる海を受け止めて支えた。
「やっぱ大丈夫じゃないじゃん!」
「どうやらこの力を使うと副作用が出るらしい」と海は自分の額に手を当てた。
「海、その力をみだりに使わない方がいい。永続的な作用だって可能性がある」
「一応礼を言うけど、俺の助言を聞きたいなら俺も同じ考えだ」
「今日はどんな気分だった?何か違和感とか感じなかった?」とメリナが聞いた。
「今朝起きたらいつも通りだった。仕事も普通にこなせた」
「とにかく、部屋に戻って休もう」と海を支えて才機は自分達の部屋へ向った。
「夕飯、ありがとう」とメリナが言った。
「いいえ、これ以上冷める前に食べてください」と海が言った。
「あ、そうだ、才機。明日の仕事は決まったけど、お前はどうする?」とリースが聞いた。
「町を出る必要はあるの?」と才機が尋ねた。
「あ、いや、町内での仕事だ」
「じゃぁ、やるか」
「詳細は明日伝えておく」
「わかった」
才機と海は自分の部屋に戻り、リースは鏡台に歩み寄ってほぼ治っていた目をよく見た。
•••
アイシスは洞窟の中で藁のベッドの上で横になっていた。よく知っている場所だ。ここはアイシスの部屋だ。謎の男に拾われて次に意識が戻った時は自分がどこかの野原にいた。その時は謎の男ではなく仲間の二人が起こしてくれた。そしてその二人がアイシズをアジトに連れ帰った。彼女の傷はまだ塞がっていないが、出血はとうに止まっていて、こうしてじっとしていれば傷はそんなに痛まない。海に味わわせられた屈辱が一瞬も頭から離れなくて、今もいらいらしながら天井となっているごつごつした表面を見ている。そんなアイシスにお客さんが来た。デイミエンという男だった。彼はアイシスの側に座り込んだ。
「デイミエン。わざわざこんな汚い所に来ていただかなくても、呼びさえすれば直ぐに行きましたのに。この無様な姿をあなたにさらしたくはありませんでしたけど」
「何を言う?ここはどこも汚いじゃないか。むしろこの辺りはあまりじめじめしていない分、他よりいい場所だ」
「私達がこんな所で住まなくていい日はいつ来るのでしょうか」
「来るよ。俺はここにいる皆が堂々と世間で生きられるようにして見せる。必ず。それは追い追い、具合が良ければ報告を聞きたいんだが」
「ええ。大丈夫です」
「君の遠距離攻撃なら彼らの不意をつけられると思ったんだけど」
「はい。安心して下さい。私はこの有り様ですけど、まったくの失態という訳ではありません。男の方を仕留める事が出来た。死んでいなければそれに近い状態のはずです。もし生きていれば、今止めを刺すのは造作もないでしょう。女の方は思いがけない力を発揮して油断しているところを襲われました。面目ありません」
「そうですか。今の報告は入った情報とかなり矛盾しているけど」
「···と、言いますと?」
「男はぴんぴんしているそうだ」
「ええ?!ありえない!何かの間違いでは?」
「いや、確かな情報だ」
「そんなばかな!っん!」
アイシスは急に起き上がったが体中の痛みで顔を歪めた。
「信じて下さい。本当なんです。彼に致命的な傷を負わせました」
デイミエンはアイシスを優しく仰向けに倒した。
「落ち着いて。君を疑っている訳じゃない。失敗したとしても俺がアイシスを責めないって事はお互い知っているし。嘘をついても何の得はない。だが君の言う事が本当なら何があったかを突き止める必要がある。君はもう休んでいて。後は俺達に任せて」
「申し訳ありません」
デイミエンは立ち去って暗闇に消えた。
•••