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いつか君と...  作者: Saihig
2/7

#2

暫くしたら皿を持って女達は台所から出た。男達の前に差し出されたのは焼き魚とさいの目に切ったジャガイモ。女将はおじさんの隣、海は才機の隣の席についた。よく見ると才機と海の皿にだけ二個目のちっちゃい魚がある。

「美味しいね、これ」

焼き魚を一口飲み込んだ才機が言った。

「調理したのは女将さんだけど。私は食器の用意とジャガイモを切っただけ」

「お客さんの為だったら妻はいつも腕によりをかけて最高に上手いもんを作るからな。」

「それじゃあんたの為に作るのは二流の料理みたいな言い方じゃないか」

女将は旦那を横目で見た。

「いやいや、めっそうもない。あなたが作る私だけの為の料理はもっと上手いよ」

「も〜、うまいのはあんたの口なんだから」

呆れた顔つきで女将が言った。

「やっぱりうまかったよね、今の」

おじさんが才機に聞いた。

「ええ、とっさに出た割には感心した。勉強になります」

「とは言ってもそういうのに頼らなくていいように最初から女の気を悪くさせるような事を言わないほうが一番。肝に銘じておくといい」

最後のほうは才機にフォークを向けながらおじさんが言った。

「なるほど。聖賢の教えだな」

「いーや、あれは聖賢の教えなんかじゃなくて常識です」

コップを口に持っていた女将がそう言ってコーヒーをひとすすり飲んだ。

「ね?」

飲み込んだ後、海に向って付け加えた。

「まさにその通りです」

「やばい、女達は手を組んだんだ。こうなった以上、反論なんて出来ると思うなよ。逆らったら地獄を見る事になる」とおじさんが才機に言った。

「自分で忠告しておいて自分の助言通りに出来ないのね」と女将が突っ込みを入れた。

こうして皆は食事の時間を愉快に過ごした。海は才機とおじさんが楽しそうに会話しているのを見て思った。私達が異能者だって知っていたら、この二人はこんな風に気楽に話し合えたんだろうか。多分、出来なかっただろうね。主観的にそう決め付けるのは不公平ならおじさんに悪いけど、やっぱり発った町を偽ったのは正解だった。

食事が済んだら海は風呂に入ると言ってそのようにした。浴槽は石で出来ていて、それほど大きくはないが、下の炉で女将は水をちょうどいい湯加減にしてくれた。ゆったり出来るお湯だった。今日の疲れが取れた気がしたら湯から上がって自分の為に用意された部屋に退いた。体をベッドに投げ出して天井を見つめた。見た目通り寝心地のいいベッドだ。窓のカーテンとベッドスプレッドはちょっとおしゃれな感じがした。ベッドの前に置いてあった先刻掃除した絨毯もそうだ。愛らしい小さな鏡台もあった。

部屋の内装を感心して眺めていると誰かドアをノックした。

「はい」と体を起こした海が返事した。

ドアが開き、マグカップを持って女将が入ってきた。

「ココアを作りましたが、飲みますか?」

「あ、ありがとうございます」

海は暖かいマグカップを受け取った。

ココアに大きいマシュマロまで浮いていた。

「お友達にも差し上げましたよ。今、飲みながら暖炉の前で暖まっています。あなたもどうですか?」

「ん?私は別に平気」

「そうですか。うちの旦那はもう寝室で休んでいるからお友達は退屈しているんじゃないかと思いました」

「彼はそんなに退屈しやすいタイプなのかな」

「差し出がましい質問ですが、いつからのお知り合いですか?」

「一年余りですね」

「そんなにですか?知り合ってからそんなに経っていないのではないかと思い込みました。食事の時、二人は互いに殆ど喋りませんでしたし」

「私達、そんな感じがしますか」

「んー、少なくとも一年以上の付き合いの割にはちょっとよそよそしい感じがしましたね。おせっかいでしたら申し訳ありませんが、二人の間に何かありましたか?」

「え?あぁ、まぁ、ちょっと。でももう解決済みです。少なくとも解決したはずなんですが···」

「ですが?」

「何か、彼と話す時は、前と違って悲しい目をされる···ような気がします。いや、目が悲しい訳じゃないんですけど、何っていうか、光がない。彼の目はもう輝いてい

ない」

「目が輝いていないんですか?」

「んーー、変な言い方ですみません。うまく説明出来ませんが前にあった何かもう見当らないんです」

「まぁ、よく分かりませんが、これだけは言えます。本当にいい友達は大事にしないと。相当に得難いんですから、案外に」

そう言って女将は退室した。海はココアを飲んでみた。暖かい感覚が体中に染み渡った。

何とはなしに気付いていたけど、実際に口に出すまではあまり気にしていなかった。才機はどうも雰囲気が前と微妙に違った。具体的に何が違うかは特定出来ずにいる。目かもしれない。声かもしれない。笑顔かもしれない。もしかしてその三つ全部かもしれない。でも確かなのはその変化はマイナス方向に向いている。いきなり異境に送られてそれは無理もないだろうけど、根本的な原因はそれだけじゃないような気がした···。

マグカップの中身を飲み干し、残ったマシュマロがココアを吸収し切っていて茶色になっていた。それも食べてしまい、才機と一緒に暖炉のほむらを享受する事にした。

居間に降りると火がぱちぱちと燃えている音が聞こえた。でも才機の姿はなかった。直に戻るだろうと思って海はソファーに座って才機を待った。が、五分経っても未だに居間にいるのは海一人。

《どこに行ったんだろう?まだ自分の部屋には行ってないし、他に行く場所なんて···。あ。あった》

海は表口を出て手すりから身を乗り出して左の方へ覗き込んだ。案の定才機は馬と一緒にいた。とても優しそうに馬のたてがみを撫でていた。

海に気付いた才機は言声を掛けた。

「あ、ちょうどいいや。海を呼びに行こうと思ったところだ」

「そう?どうした?」

海は才機の隣に行った。

「鶏は苦手みたいけど馬はどう?綺麗だろう?」

「そうね。馬になら懐ける」

海は馬の頭を撫でた。

「馬を触った事あるの?」

「いや。今のが初めて。才機は?」

「二回目になるんだね。子供の時、動物園で馬に乗った事がある」

「手触りが気持ちいい」

「名前はネリーだ。そして好物はこれ」

才機は三分の一食べられたニンジンをポケットから出し、海に差し出した。

「食わせてみる?」

海はそのニンジンを手に取って馬の口の前に持ち上げた。

「うわ、はやっ。ちゃんと噛んでるの、この子?」と海が言った。

ニンジンがどんどん短くなっていく。後二センチまでに減ったところで海は手を離して残った部分が地面に落ちた。

「怖かった〜。指まで食いちぎられると思った」

才機は落ちたニンジンを手の平に載せて、ネリーに最後までおやつを満喫させてあげた。

「こいつ、ちょっと食い意地が貼ってるよね」

才機はネリーに餌を与えた手でまた撫で始めた。

「本当に動物が好きなんだね、才機は。何かペットを飼ってた?」

「いや。欲しかったけどね。猫か犬か何か」

「家には猫一匹あるけど、誰もあまり相手してあげない。まぁ、あの猫は私達の事もどうでもいいみたいな態度をいつも見せてるからお互いさまか」

「寂しい話じゃないか。俺は野良猫や野良犬に出くわす度に遊びたい衝動を抑えられない。殆どの時は逃げられてしまうけど」

「引っ掻かれるのが怖くない?」

「少し怖い。でも今まで一度も引っ掻かれたり、噛まれたりした事はないし、仲良くなれたら危険を冒した甲斐がある」

「ふうん。そういうもんか?才機って動物に好かれるタイプ?」

「どうかな。だったらいいけど、動物によって嫌な思いをさせられた事もある」

「嫌な思い?」

「一週間だけだったけど、アメリカに行った事がある」

「え?そうなん?初めて知った。」

「ホームステイってやつ。夜、裏庭に出た時スカンクに会った」

「スカンク?」

「うん。珍しいからこっちとしては興味津々だった。当然俺が近づいたら逃げたけど、それでもねちこく付きまとった。後をつけてる内にスカンクが少し追い詰められた状態になって、小便をひっかけてきた」

「うわ。臭かっただろう?どんな匂いだった?」

「んー、よく覚えてない。でも特定な匂いがしたっていうより···ただすんっげぃ強烈な臭いがつんと鼻に来た。本当に最悪だった。シャワー浴びた後でも匂いがそこはかとなく残っていた」

「ぷっ」

「おい、笑ったな、今」

「だって笑うだろう、普通」

今度はもっと無遠慮に笑った。

「まぁ、それもそうだね」

その時よそ風が吹いて来た。

「ちょっと寒くなってきたね。暖炉の前で暖まろうか?」と才機が提案した。

「そうね、そうしよう。じゃね、ネリー」

海は最後にもう一回頭を撫でて才機と一緒に中に入った。

二人がソファーに掛けたら海は才機に聞いた。

「今日は何の雑務をさせられた?」

「薪割りをした後、向こうにある川で釣りをした」

続きを待っているように海は黙って才機を見ていた。でも才機がそれ以上何かを言う様子はなかった。

「だけ?」

「うん」

「なんだ、ほとんど遊んでたじゃん。こっちはずっと忙しかったよ。洗い物、洗濯物、拭き掃除、炊事。っていうかあのおじさんは仕事よりただ遊び相手が欲しかったんじゃない?なんか、ずるっ」

「まぁ、ものは言いようだ。そのお陰で風呂を沸かす為の焚き付けと今夜の夕食にありつけた」

「よく言うよ。薪割りは絶対おじさんの方が沢山やってくれた。しかもあんたが釣った魚はあのちっちゃい二匹だけだった」

「それは言わない約束だろうが。無神経だなぁ」

「でも、まぁ···美味しかったよ。才機が釣った魚」

「そうか?あんな小さい物よく味が分かった。俺は多分知らないうちに食べちゃった」

「もしかしたらこれからもあんたが捕る魚を糧にして暮らすから頼りにしてるよ」

「善処します」

こうして寝るまで二人は火を見ながら久しぶりに何気ない会話をした。自分の部屋でベッドに入っている才機は薪割りをしていた時のおじさんとの話を思い出した。

《ちょっと、残然···かな》


 •••


朝起きたら窓から入る太陽の眩い光線が目を襲ってくる。寝ぼけているが、才機は考えをまとめてみる。

《そうだ。今日こそ町に辿り着いて仕事を探すんだ》

シーツを退かしてベッドで起き上がった。

《海はもう起きてるかな》

昨日の朝は才機の方が先に目覚めて、海を起こす前にその寝顔を少しの間だけ拝ませてもらった。穏やかなその顔もぎゅっと胸に来た。毎朝、起き抜けにあれを見るのに簡単に慣れそうだ。そう思いつつ隣の部屋のドアがノックされる音が聞こえた。女将は朝ご飯の準備が出来たことを海に知らせにきたらしい。次は才機に同じ通知を。才機は部屋を出て、海の部屋を通り過ぎると本人が目をこすりながら廊下に出た。

「おはよう」と才機が肩越しに海を見て言った。

「おはよう」

さも眠そうに海が挨拶を返した。

「今起きた?」

「うん。あんたは?」

「先起きたばっかり。女将が起こしに来た数分前」

「今何時?」

「八時十五分」

「そうか。太陽があんまりギラギラしてて、そろそろ昼間かと思った。あ、何かいい匂いがする」

「俺達の朝飯にはハムか何かが出てるみたい」

ダイニングルームに降りてその匂いがもっと明白になった。才機の鼻がうまく当てていた。テーブルに置いてあった皿の上に載っていたは確かにハムだった。それを含めて今朝の献立にはスクラブルドエッグと細かく刻まれた茶色と白の積み重ねが加わっていた。二人は隣り合って座ってフォークを手にした。

「頂きます」

「頂きます」

気になって才機は真っ先にあの見慣れない茶色の物を食べてみた。

「何だ、芋だこれ。ゆでた芋を炒めた感じ」

海もフォーク一杯すくい取って口に入れた。

「あ、本当だ。結構いけるね」

「こっちへ来て、食べ物だけについては文句は言えないな」

食べ終わったら海が聞いた。

「今日はどっちの町を目指せばいい」

「そうだな。確かドリックという町の方が近いから、とりあえずそっちに行くか」

台所から女将がやってきた。

「二人とも終わったみたいですね。では、お皿をお下げします」

才機の皿を持って行ったらまた戻ってきて海の皿を片付けに来た。

「ごちそうさま。俺達はそろそろ行くので、お代はここに置いておくね」

才機は九ルピスをテーブルに置いた。

「もう行くのかい?またこの辺に来たらここで泊まるといい。割引しますから」

階段を降りてきたおじさんだった。

「ありがとうございます。ドリックは北西にあると言ってたよね?」

「そうですよ。ドリックに向うんですか?」と女将が聞いた。

「ええ。そっちの方が近いなら」

「ん〜。あなた達にはアラニアのほうを勧めしますが。距離的には二十分ぐらいの差しかありませんし」

女将は海の目を直視して言った。

「どうしてアラニア?」と女将の旦那が聞いた。

「ほら、つい先日、ドリックで異能者による放火事件があったって話でしょう?今は神経がとがっていて、よそ者に用心しているかもしれません。仕事を見つけたいならやっぱりアラニアに行った方がいい」

それも海をじっと見ながら女将が言った。海はその裏に隠された意味を見落とさなかった。もし、そんな緊張が高まった町で自分達が異能者だとばれたら事態が非常に険悪になりかねない。

「じゃ、やっぱりアラニアに行こう?」と海も才機に勧めた。

「仕事が見つかる可能性はあっちの方が高いなら特に異議はない。じゃ、お世話になりました」

「気をつけて行ってください」と女将が言った。

才機と海は黄金原オアシスを後にして旅のを続きをした。


•••


暫く歩いたら道が二またに分かれた。都合の良い事には標識が立てられたからどの道がアラニアにつながるかが分かった。後は道なりに行くだけ。約三時間が経つと町が見えてきた。

「思ったより早く着いたね」と才機は言った。

「でも、何か変だよ。人の気配が感じない。いや、なくはないが、一人か二人だけだ」

才機は眉をしかめた。でももうちょっと近づいたら納得する事が出来た。その町は寂れたゴーストタウンだった。才機は頭を掻きながら周りを見渡す。

「一体どうなったんだ、これ?アラニアも異能者の襲撃を受けたのか?」

「違うと思うよ。少なくとも異能者の仕業だとしてもこの町がこうなったのは最近じゃない。埃だらけでクモの巣が氾濫している。どこもかなり朽ち果てている。人だって一人もいない。死体すらも。そう言えばさっきの気配は···」

海は目を閉じて集中するように額に手を当てた。

「やっぱりいる。二人。あっちの方向」

海は自分が感じていた気配のある方へ指で指した。

「調べに行くか」

二人は海が示した方向に歩いて行くと泣き声が聞こえてくる。

「誰かが泣いている」と才機が言った。

「子供みたいだね」

その泣き声を辿って発生源を見つけると二人とも立ちすくんだ。この世の物と思えないほどのでかいクモが目の前にいた。二人がこの世を熟知しているとは到底言えないが。

「あ、あれがゲンが言ってたグリゴ···だよね」

殆ど聞き取れない声で才機は言った。

「たぶん」

グリゴはまだ二人の存在に気付いていないみたい。二人がこそこそ話しているからではなくて、今その注目は二つの建物の間に追い込まれた何かに完全に注がれている。自分の体が大きくて入らないから長い足で何かに届こうとしている。先から聞いた泣き声もそこから聞こえるし、その「何か」とは分かり切っている。

「やばい、あの子達を助けなきゃ」

海は才機の袖を引っ張った。

「うん」

「···で?何突っ立てんだよ。早くあれを追い払え」

「俺が?」

「当たり前だろう。他に誰がいる?どうしたんだ?ちゃちゃっとぶっ飛ばしちゃえ」

「でも···海の風で吹き飛ばせるんじゃない?」

「体が変な感じになっちゃうからあれはなるべく使いたくないんだ。それにあんな大きいのをどこまで飛ばせるか分からない。怒らせるだけかも。才機なら楽々とけり飛ばせばいいじゃん」

「それが···出来ないかも」

「なんで?」

「その···凄く···苦手なんだよね、クモが。俺に危害を加えられないって分かっていても、あまり近づきたくない···かな」

「まじ?」

「まじ」

「···分かった。ここは私が何とかしてみる」

「恩に着る」

海は手の平が前方に向くように両手を前に出した。眉を寄せて、次の瞬間、手元から一陣の風がグリゴを四、五回転がして遠ざけた。グリゴは立ち直って頭に付いた十の目に海と才機が映っていた。それからぞくぞくさせる泣き声を立てた。 間違いなく怒らせた。子供達を忘れて今度は海と才機へ突進した。海は目を閉じてもう一度風を放った。今度は力の限り。しかし今回は不意を突かれなかった為か、グリゴが踏ん張って体は風に押されて低くなっただけだ。足や体に幾つか切り傷が出来たが、浅いらしくて気にしている素振りを見せていない。海の風が止まるともう一度二人に向かって突進する。海が後ずさりしていると才機は必死に周りを地面を探すが目当てのものが見つからず、とっさに隣の崩れている壁をガラスのような両手で掴んで一部を引き千切った。才機はグリゴを目掛けてそのおぞましい頭と同じ大きさの瓦礫を投げ飛ばした。飛んでいく石がグリゴの脚の付け根に命中するとその巨体が又しても五回くらい転がる。流石にあれだけ痛い目に合わせたら諦めがつく。グリゴは足を引きずりながら去っていき獲物を譲った。勿論、才機と海は子供達を食べたりするつもりは毛頭ないけど。二人はグリゴが入ろうとしていた場所を調べたら男の子と女の子が一人いた。男の子はもしかして九歳。女の子七歳。まだしくしく泣いているあの二人に海は聞く。

「二人とも大丈夫?」

子供達は泣いてばかりで返事はしない。

「あのでかいクモはもういないから怖くないよ。さ、出ておいで」

海は手を差し伸べて出てくるように促した。

男の子に先導されて二人は手を繋いでその狭い場所から出て来た。

「怪我はないか?」

男の子は頷いた。

「君達はこの町の生存者?」と才機が聞いた。

今度は首を振られた。

海はしゃがんで子供達と同じ目線になった

「じゃ、この町で何があったか知ってるの?」

少し落ち着いてきた男の子が答える。

「大地震と火事があったって親から聞いた」

「そうか。君達はこの町の人じゃないなら、どこから来たの?」

「アラニア」

「なんだ、アラニアじゃないんだ、ここ」と才機が言った。

「私達はアラニアに行く途中だったけど、一緒に行こうか?でかいクモが出たら

また退治してあげるから」

「うん」

「よし。じゃ、案内役頼むね」

四人は荒廃した町を出てアラニアへ進む。子供達によると三十分ぐらいでアラニアに着くはず。

「ね」

男の子が言い出した。

「さっき、あのグリゴは強い風に飛ばされたけど、それ、お兄ちゃんがやった?」

「いや、君達を救ったのは俺じゃなくて、海だ」

「格好よかったな。ね、エリス」

「うん」

「僕も出来たらいいな。お兄ちゃんも何か出来るの?」

才機は笑顔を作っ平手を左右に振った。

「大した事は出来ないよ。二人とも兄妹なのか?」

「うん」と男の子は答えた。

「どうしてあんな所に?」

「遊んでた。たまにあそこで隠れん坊をやってる。でもグリゴが出たのは初めて。お姉ちゃんみたいな力あったら怖くないけど。ね、もう一回見せて」

「あれを使うと変な寒気がするから必要以上にやりたくないかな。グリゴが出たらまた見せてあげる」と海が微笑した。

「出ないかな、グリゴ」

「出て欲しいんかい?!」


•••


アラニアに着いたら子供達は才機と海を自分の家まで連れて行った。

「お母さんだ」

男の子は家の前でほうきで掃いている女の人を指差して、二人はその人の所へ駆け寄った。

「やっと帰って来たか?今までどこにいた?」

「隣の町で隠れん坊してたらグリゴに襲われた」と女の子が言った。

「バカ!」と男の子が妹を咎めた。

「あそこに行くなといつも言ってるでしょうが!聞き分けのない子達!」

「でも大丈夫だった。あの人達に助けられた。風でグリゴを吹き飛ばしたんだ」

結果が良ければ全て良しみたいに男の子が弁解した。

「風で···?」とお母さんは二人を見た。

《しまった〜!口封じさせておくべきだった〜》と才機が焦り出した。

「さ、そろそろお昼を作るから中にお入り」

子供達が家の中に消えるとお母さんは才機と海に向った。

「悪い事は言わん。この町であんまり派手な真似をしない方がいいですよ。一応子供達を救った礼は言うけれど」

そう言って家の中に入った。

「好調なスタートを切ったね。もうばれてる」と海が言った。

「でもあの様子じゃ暴露するつもりはないらしい。この町は割と大きいし。諦めるのはまだ早い。町の反対側で仕事を探し回ろう」

そう言って二人はこの町で頑張ってみると決めたら、多数の叫び声が聞こえた。

「今度は何?」と才機が聞いた。

それほど遠くない場所で煙が立ち上がっていた。その方向から逃げてくる人も騒ぎの原因を突き止めに行く人もいた。才機と海はその後者に加わっている。煙を立っていた火事が発生した場所はもう人だかりがしていた。皆の視線が噴水広場で立っていて手をポケットに突っ込んでいる一人の男に集まっていた。人込みの中から祖末な武器を持った五人の男達が大声を出してその男に突撃した。男は右手をポケットから手を出し、その手を男達に向けた。するとそれぞれの指から一条の炎が放たれた。炎は男達が持っていた武器を包んで炎上させる。更に自分と町の人の間に火の壁を立てた。武器を捨てた男達はもう相手を睨む事しか出来ない。彼は冷笑して大声で言った。

「いいか、お前ら?!異能者を迫害してるとこうなるんだ!この前、ここの異能者を追い出したそうじゃないか、え?!これがその報いだ!俺達はもう黙ってやられないから!」

男はもう一つの建物を焼き討ちにした。その時、誰かが炎の壁を踏み越えて男の方へ歩いて行った。その人の肌はまるでガラスのようだった。

《やっぱり行っちゃったんだなぁ、才機。どうしよう、どうしょう。私はここで見ればいいの?任せても平気かな。も〜〜、なんでこうなるんだ?!》

男は才機に気付いて言った。

「何だ、同志か。助っ人はいらねぇって言ったはずだ。俺一人でじゅう···」

才機は男の右手首を掴んだ。

「もういいだろう?このやり方だと逆効果だよ。立場悪くしてどうする?それに関係ない人まで巻き込んじまう」

「おい!貴様、何やってんだ?放せ!放しやがれ!リベリオンの者じゃいないのよ?!」

「リベリオン?何それ?」

「フン、ただの通りすがりか。あいつらの味方をするつもり?この町に関係ない人なんかいねぇ。直接関わってなくても皆俺達を見下してる!俺達は消えればいいと思ってやがる!」

「そうとは限らないよ。少なくともさっき俺が助けた子供達はそう思っていない」

「ちっ。どうせお前はああいう口だろう?誤りに誤りを重ねても正しくならないとか、暴力に訴えちゃダメとか、話し合えば分かるとか」

「まぁ···そうだが」

「アホウか!そんなんじゃ何も解決しないんだよ!ただの下らないきれい事でしかないんだ!」

男は掴まれていた腕を才機から引き離そうとしたが才機の手はびくともしなかった。

「きれい事、ね。知ってたか?きれい事ってのはな、本気で信じているときれい事じゃなくなる。それはもう信念だ」

「信念ならこっちにもある。俺達が立ち上がる時はようやく来るんだ。邪魔するってんなら異能者でも容赦しない」

男の右腕が急に燃え上がった。

だが望んだ通りの結果を得らなかった。才機は何ともないみたいにまだしっかり彼の腕を掴んでいた。

「やめる気になった?」と才機は問う。

《何なんだ、こいつ。熱くないのか?!ならば···》

「お前···そろそろ俺の手を離した方がいいぞ。もう手加減はしないから。俺の最高の炎をぶち込んでやる。限界まで超圧縮した炎なら直径四十センチの火玉しか作れねぃけど、てめえの骨まで灰にならいって保証は出来ない」

才機には分からなかったけど、先程から男の体温はどんどん上がっていた。だが数秒後に才機の目は自分が持っていた手首に行った。遂に熱を感じ始めた。

「時間切れだ。もう逃げても遅いぜ。あばよ」

男は左手をポケットから出して才機に突っ掛かった。

でも才機はそれを予測して使っていない手で彼の左手首も掴んだ。

「くっ」

「いい加減この立ち回りを演じるのを終わりにしたいんだけど、大人しくしてもらえないか?」

「フッ。いい事教えてあげる。俺はね、別に手じゃなくても···体のどの部分からでも火を出せるんだよ!」

「!」

反応出来る前に男は才機の胸部に頭突きをした。そしてその瞬間、男が溜めたエネルギが一気に解放された。火玉なんてもんじゃない。才機の上半身はあたかも小さな太陽に包まれたようだった。見通せないほどの濃厚な光。どの道、眩しすぎて周りの傍観者は一人も直接に見る事が出来なかった。

閃光が弱まって皆がどうなったかを見ようとしたら二人がいた辺りは蒸気で充満していた。

「やっと自由になった。あの野郎、なんつう馬鹿力だった。堅かったし、思いきり頭突きしなくてよかったー」

男はずきずきしている額をさすった。

そして蒸気が消散したら男の口がぽかんと開いた。

「信じられねぇ。こいつの死体が残ってやがる。下半身はともかく上半身は蒸発させたはずだ」

才機の伸びた体からまだ湯気が立っていた。服はズボンと靴しか残っていない。

「せめて溶けろよ、てめえ」

男は才機の頭を軽く蹴った。

そして更なるショックを受けた。

才機がうなった。

「こいつ···生きてやがる!」

せっかく自由になったのに今度は才機が彼の足首にしがみついてきた。

「む!」

「正直···今のは熱かった。···体がひりひりしてる。···目くらましとしても効き目は抜群だ。···でもこうなったら···意地でもこれ以上好き勝手させない」

男は何も言わず横たわっている才機を見る。才機はまだ顔を伏せていて荒い息をしている。

遂に男が喋った。

「そうか。そうかよ!お前を嫌っているこの連中がそんなに大事か?だっだらそこでぐずぐずしてられないな」

男は集まっている人の近くにある大木の基部に炎の矢を放った。

「今のも圧縮だ。あまり広がらない代わりにあっという間に接触したものを燃え尽くす。急がないと皆ぺちゃんこだよ」

町の人達はそうとは知らず少し離れていっただけだった。このままでは何人の人が確実に下敷きになる。才機は渾身の力を振りしぼって大木の方へ走り出した。何とか間に合って、木を受け止めてから足下に落とした。疲弊していて片膝を地面についた。

「てめえ···」

でも男の姿はもうどこにもなかった。

「才機!」

海は駆け付けてきた。

「来るな!」

「え?」

海は才機の二メートル前で止まった。

「体はまだすんげぇ熱いはずだ。近づくな。俺は大丈夫だから。俺よりこの火の方を何とか出来るか?」

「あ、ああ、分かった」

海は風を召喚してさっきの男が起こした火事を一つずつ吹き消した。幸いに燃えていてた建物は殆ど石で出来ていた。火が消されたところで才機はよろよろと噴水へ歩いて体ごとを水に突っ込んだ。

ジュゥ〜〜〜〜〜〜〜〜〜。

大量の蒸気が噴水から空に昇った。ずぶぬれになって才機は噴水から上がり、生身の人間の姿に戻った。肌は少し赤くなっていた。今にも倒れそうだったから海が支えに行った。

「体はまだ結構熱いよ。大丈夫?」と海が聞いた。

「いい気分とは言えないな。やばい。なんか···意識が···」

視覚が霞んでだんだん暗くなる。最後に分かるのは才機の名を何度も呼ぶ海の声が小さくなって行く事だ。


   •••


才機の目が開けた時、知らない部屋でベッドの中に入っていた。上半身は首から下全部包帯に巻き付けられた。

「よかったー。どう調子は?」と海は聞いた。

「う〜〜ん。まぁ、前よりは大分よくなったかな。どこ、ここは?」

「町長の家。ここで安静にさせてもらっている」

「あれからどうなった?俺、何時間寝てた?」

「二時間ぐらいかも。よく分からない。でも気を失った後、町長がやってきて町の人に才機をここへ運んでもらった」

「そうか」

才機は起き上がった

「この町で仕事を見つけるのはもう無理だね」

「寝てなくて大丈夫?」

「うん。心配させて悪かったな」

「それなんだけど···才機、今回は余計な心配をさせたんだ。あんたが優しいから誰も傷つけたくないのは分かるけどさ···さっきのははっきり言って油断すぎ。あの能力を使うと確かにあんたの頑丈さが桁外れになるだけど、他の異能者がどんな力を持っているか知らないこの世界ではそうやって余裕かましている余地はない。別に力一杯殴れとは言わないけど、気絶させる程度なら出来るんでしょう?」

才機は何も答えず、ただシーツが掛けられた自分の足をじっと見ていた。

「もしあんたに万が一の事があったら私はどうしたらいいか分からないよ」

ドアを開けて男が入ってきた。

「起きたようですね。私はこのアラニアの町長です。お加減はいかがですかな?」

「お陰さまでもう良くなった。大騒ぎを起こしてすみませんでした」

「あなた達はこの町の人間ではないとお見受けしますが、何の用があってここの来たか伺ってもよろしいでしょうか?」

「俺達はただ旅をしているだけで、特に用は」

「あの火を操る異能者とはどのような間柄?」

「いや、今日で初めて会った」

「そうですか。いつぞやドリックを襲撃した異能者も火使いで異能者に対する仕打ちの報復として町を襲ったそうです。彼が言っていた事は本当かどうかは分かりません。でもそんな事があった可能性は十分にあることは否定しません。この町では異能者がいてはならないという法則はありませんが、皆の間にそういう暗黙の了解が成立しているかもしれません。まぁ、アラニアの町長としてそれは私が対処しないといけない問題です。今日の被害が最低限に抑えられたのはあなた達のお陰です。この町の住人に代わってお礼申し上げます。が···回復次第、お引き取りお願い出来ないでしょうか?あなた達を見れば町の皆が不安を感じるのはまた事実です」

「そう···だよね。分かりました」

「理解して頂いてありがとうございました。体調を完全に取り戻すまでここで休むといい。穿いっているズボンもあなたに差し上げますので返さんでいい」

「ズボン?」

「あなたが着ていたズボンはもう隠すところをろくに隠していませんでしたので」

海の顔がちょっぴり赤くなった。

そう言って町長は場を外して彼らをまた二人きりにした。才機はもう殆ど本調子だからその言葉に甘えて休む必要はなかった。町長の家を出て町の外を目指した。二人はずっと見られているような気がした。それもそのはずだ。気のせいではなく、実際に通り過ぎた人は全員横目で見たり堂々と見たりしていた。全面から送られてきた視線に何の想いが込められたかはか分からない。恐怖?憎悪?好奇心?いずれにせよ空気はぴんと張り詰めていて、町を出るまでの時間をやけに長く感じた。

「これからどうする?ドリックに行く?」と海は聞いた。

「そうするしかなくなったな。来た道を戻れば時間かかるよなぁ〜」

才機はちょっとだけ溜め息をついた。

「草原を通り抜けよう。道はないけど、この方向を真っすぐ行けばいずれはドリックへ繋がる道に出るはずだ。そうしたら何時間か削られる」

才機は本道に対して四十五度の傾斜で指差した。

「大丈夫かな。道に迷ったら大変だよ?」

「あの二またに分かれた地点からアラニアまでの距離はドリックのそれとそんなに変わらない。道のりをこれくらい切り詰めてもドリックを通り越す心配はないはず」

道筋は決まった。アラニアに来てからまだ三時間も経っていないのに二人はドリックを目指す。

「それにしても、あそこに着くまで俺はずっとこの格好かぁ。嫌だな」

「お兄ちゃ〜ん!」

男の子と女の子が二人の所まで駆け寄って来た。

「君達は···さっきの」と才機が言った。

「もう行っちゃうの?」

「あぁ、そうね。次の場所に行かなくちゃ」

「そっかぁ。早かったな。これ、お兄さんにあげてってお母さんが言ってた」

男の子はそう言うと妹が持っていた籠を才機に渡した。

籠の上には布が固まりが載っていて才機がそれを広げた。長袖のシャツだった。その下にはチーズ、パン、後、葡萄が少し積んでいた。才機はシャツをさっそく着てみた。

「サイズも悪くないね。助かるよ。お母さんにありがとうって伝えてくれ」

「うん。じゃね〜、お兄ちゃん、お姉ちゃん!」

手を振りながら子供二人は走って町に戻った。

二人が歩き出そうとしたら才機は心臓が急に冷え込むような感覚を覚えて両手を直様にズボンのポケットに突っ込んだ。でも指先目当てのものに触れると安堵の息をついてお金を取り出した。手に載っていたコインの枚数が前に確認した時より増えていた。


   •••


二人は広大な緑色の草原をてくてく歩いていた。街道を使った時は誰にも会わなかったから、当然今のルートで行って誰一人他の旅人を見かけなかった。凄く静かで時折のさえずりと自分の足が草を踏む音しかしない。物思いにふけるにはもってこい。

「俺がやった事···正しいと思う?」

「ん?」

「その、首を突っ込んであいつを止めた事。ドリックのように警告代わりにやったなら、町ごとを焼き払うつもりはなかっただろう。被害はあの一箇所のみに局限されたもしれない。俺達は別にあの町に何ら執着はないし。目立たないようにしていれば町を出る事はなかった。むしろ町の復興を手伝う為に雇われたかも 」

「後悔してるの?」

「分かんない。後悔するかどうかは海の答えによるはずだったが」

「理屈はともあれ、火があの子達の家にも広がる可能性があったなら才機のやった事は間違っていないと思う」

「そっか。でも今回といい、メトハインの時といい、そうやって後先考えずに感情に流されて突っ込んでいるといつか取り返しの着かない事になるかも。もしそのせいで海に何かが···」

「私の事は心配しなくていいよ。自分の事は自分で何とかする。そんでもって才機のフォローも出来るだけやる」

才機はちょっと笑った。

「お前、いつこんなに心強くなった?」

「さぁ、あんたから移ったんじゃない?」

「ありがとうな」

「今さらなんだよ」

海は肘で才機の腕を突いた。

「当然でしょう?それに、才機のその正義感の強い所は嫌いじゃない。ただ、あまり無茶し過ぎないで。ね?」

「合点承知」

ぐぅーーーーー。

「町を出る前にちゃんと食料補給しなかった事を後悔しているけどね」

腹に手を当てる才機はとっくに空になった籠の中を見つめていた。

「ガンバ」


   •••


「スイカ」

「かまぼこ」

「昆布」

「豚肉」

「クレープ」

「プディング」

「グレープフルーツ」

「漬け物」

「のり」

「リンゴ」

「ご飯。ちくしょう〜!って、さっきからなんで食べ物ばっか?ただでさえ空腹で死にそうなのに」

欲求不満のあまりに才機が頭を抱えた。

「仕方ない。今それしか頭にないんだ」

「頭ならもう満腹です。腹に分けて欲しい」

「もうずいぶん歩いてるんだけど、行けども行けども道も町も現れない。今何時?」

「えーと、今は···」

才機は手首を見ると腕時計がない。次はポッケトを全部まさぐってみたが腕時計は出てこなかった。

「あー!!」

あまりにも突然で海をぎょっとさせた。

「ど、どうした?!」

「あの放火狂野郎ー···俺の腕時計を。気に入ってたのに!」

「ああ、あの時ね。まぁ、あんな高熱じゃ当然といえば当然だけど」

「くっそ〜。あれがないと時間の感覚が全くないんだ」

「もうアラニアに着くのにかかった時間以上に歩いてる感じがするのは気のせい?」

やがて空も徐々に橙色になってゆく。二人は今までその認めたくない真実を口にするのを控えていたんだが、海はあえて言う。

「私達···迷子だよね」

「えーとー。迷子って言っても、それは一時的なもんで、ひょっとしたら今に道路や町が見えてくるかもしれない」

「もー、さっさと認めなさい。私達は迷子だ」

「はい、迷子です···。でもなんで??とっくにドリックへの道路に出たはずだ」

「アラニアに行った時みたいに道路は一本道とは限らない。もし途中で道路が急に違う方向に曲がったりしたら見つからない訳だ」

「んーーーーーーー、じゃぁどうする?あっち行く?あっちはどっちか知らないけど」と、おそらく南東の方へ才機は指差した。

二人は止まって辺りを見回した。どこもまったく同じ風景だ。でもその時、前触れもなく二人の目の前で何かが地面を突き破って出てきた。その何かとは大きいなミミズと類似している物だった。だがミミズと違って、この長い体を左右に揺れ動かしている物の頭部に三十センチほどのクワガタムシのような大顎が付いていた。体全体はどれほど長いかは分からないけど地面から突き出した部分はちょうど海の肩と同じ高さ。

「うわあーーー!」

「うわあーーー!」

言うまでもなく二人は完全に意表を突かれて反対の方向に逃げた。ミミズの化物は地中に潜ってまた二人の前に現れて退路を断った。そのパターンが四回ぐらい繰り返された。

「いい加減に···」

一瞬で才機の体は変形した。

「しろ!」とミミズの頭の上に拳骨を下ろした。

ミミズは地面のしたに退却した。でも今度はまた出て来なかった。

「本当に嫌な生き物がこの世界に住んでるみたいだな」

心臓がどきどきしている才機は尻もちをついた。

「そ、そうみたいね」

海はまだ警戒を緩めず周りを見張っていた。

「あいつが戻る気になる前にここを離れよう。もしかしたら仲間を呼んでくるかも」

「不気味悪い事言わないでよ」

「可能性の一つだ」

「じゃ早く行こう。···あのぅ。才機がさっき言ってた「あっち」ってどの方向?」

「え?ああー、あっち」とその方向に歩き出したら「いや、待って、こっちだ」と言って、二歩も歩かないうちにまたためらい、「···あれっ?」

「まさか···」

「やばっ···方向がさっぱり分からなくなった」

「え〜?うそ〜!」

「海は覚えてる?」

情けない顔で海に頼る才機。

「覚えてないから聞いただろう!」

「今日はとんでもない悪日だ」

「方角の見当は全くつかないの?」

「あっちだと思うんだけどなぁ···」

「あっちか」

海は溜め息をついた。

「仕方ない。ここは才機の勘に賭けるしかない。ここで迷っても何も始まらない。」

襲われてからおよそ三十分。坂を上って才機は違う方向へ進もうって勧めようとした時、景色が遂に変わった。もっと岩の多い地形になっていた。そして遠くには低い崖の麓に石造りの家があった。

「よかったー。あそこで道を尋ねよう」

海は才機の肩を叩いて家を指差した。

家まで歩いてドアをノックした。返事はない。二回目のノックでも返事は来なかった。

「留守みたいだ」と才機が言った。

二人はその周辺を歩いて家の裏手に小さな菜園を見つけた。

ぐぅーーーーーーーー。

「トマト···二個ぐらいなら誰も構わないよね。っていうか、気付きもしないだろうな?」と才機が言った。

「悪いなのは分かってるけど、大して好きでもないのにそのトマトは今凄く美味しそうに見える」

才機は蔓から二個のまるまるして完熟したトマトをもぎ取って一個を海に投げた。二人はそのトマトをとことん味わい、そして最後の一口を噛んでいたその時、後ろから人の声がした。

「おい、誰だ?!何をしている?」

両手にバケツを持った四十代のおじさんだった。二人はトマトで口いっぱい頬張っていて申し開きのしようもなかった。才機は口に入った物を飲み込んで言った。

「あぁ、この菜園の持ち主ですか?ごめんなさい、トマトを勝手に頂きました、って見れば分かるよね。もうずいぶん歩いてて、旅の途中で道に迷ちゃって、それでお腹もかなり減ってて、つい···」

そのおじさんは見るだけで二人が何者なのかを見抜く事が出来るかのように目を凝らして二人をつくづく眺めた。海は頬を膨らんだまま飲み込まずにじっと立っていた。まだ何も言ってこないから才機がまた口を開けた。でも喋ろうとした矢先におじさんが二人の方へ歩い行った。そして二人の間を通って菜園に入った。そこで持っていたバケツを置いて、もと来た方向に戻って行った。二人を通り過ぎた後、彼は止まらずに言った。

「ちょっとこっち来い」

二人は目と目を見交わした。おじいさんはどういうつもりか分からないが、付いて行くくらいなら問題はなかろう。

「いつまで口を一杯にしてるんだ?」

才機はひそひそ声で海をたしなめた。

海はようやく飲み込んで二人はおじいさんの後に付いた。

どこへ導かれているかは気になる。さっきからどんどん上の方に行っていた。おじさんはずっと無口のまま。五分で目的地に到着したみたい。おじさんは二人に向いて自分の後ろの方へ指し示した。

「あれ、何とか出来なのか?」

おじさんが指している方向を辿ると、その先に幅四メートルぐらいの川に佇む大きいな岩があった。

「あれって、あの岩?何とかと言うと?」と才機が聞いた。

「一週間前の地震でその岩が上から落ちて川のど真ん中に転がり込んだ。見ての通り、そのせいで流れがかなり悪くなってきた」

「はぁ···」

「つまり、撤去してほしいんだ」

「···そう言われても、俺達が押すのを手伝ったところであんなでかい岩は梃子でも動かないと思うよ」

「そりゃ、そうだろうな。あなた達なら別の手段があるのでは?」

「別の手段?」

才機は海と目交わした。

「岩を爆発させるとか、溶かすとか、浮かせるとか。異能者なんだろう?」

「なんでそう思いますか?」と海が聞いた。

「こんなご時世に旅なんかする人は居場所を無くした人ぐらいだよ」

海は少しの間おじさんの顔を注視した。

「手を貸してあげて」

海は才機の腕を後押しした。

この際、大丈夫よねと思いつつ才機はズボンを膝の上まで捲り上げてから変身して川に入った。それからたやすく岩を持ち上げてそっと川辺に置いた。

「なんだ、退かすだけか。地味だな」とおじさんが言った。

才機は川から上げてズボンと自分の体を元に戻した。

「ま、トマトの件はこれでちゃらにしてあげる」とおじさんは先に戻った。

「せっかく川があるからついでに水分補給しよう」と才機が提案した。

「うん」

水を心ゆくまで飲んだら二人はさっきの石造りの家にまた行った。おじさんは菜園で作業をしていた。

「あのぅ···」と海が声をかけた。

「ん?あぁ、道に迷ったって言ったよね。どこへ向っていた?」

「ドリックですけど、どっちに行けばいいか教えてもらえますか?」

「ドリッカか。それならあっちの方にまっすぐ行けば一時間足らずで着くよ」

「あっちですね。ありがとうございました」

「やめた方がいいと思うんだがな。この前ドリックは異能者から襲撃を受けた。皆気が立っている。町で異能者が見つかったらただでは済まないだろう」

「その話は別の人からも聞いたが、俺達は今他に行く当てがない」と才機が言った。

「南にアラニアと言う町がある。ちょっと遠いがそっちの方が安全だろう」

「それが···今日、同じ事件がアラニアにも起きていられなくなった」

「アラニアもか」

ずっと菜園の手入れをしていたおじさんが手を止めて二人を見た。

「ここは人里離れた場所で、今目の前に見える物しかない。私は一人でここで暮らしている。暫くの間ならここに止めてあげても構わないが、その代わりに色々と手伝ってもらう。清掃とか炊事とか」

「その申し出を受けちゃうか?」と才機が海に確認した。

「少しの間なら、いいよね?」

「では、謹んでその話に乗ります」

「そうか。じゃ、何もないけど中でくつろいでいて。今日ぐらいはゆっくりさせてやる。旅で疲れただろうし」

「お邪魔します」

海は誰もいない家に上がりながらそう言って才機はすぐ後ろからついて行く。

中は本当に何もなかった。部屋は全部で三つ。一番大きいのは台所兼ダイニングルームみたいな部屋。その部屋の左側には四つの椅子に囲まれた木造のテーブル、入り口の左に暖炉があった。部屋の南東の隅が台所になっていたが違う部屋というより、同じ部屋を小さく建て増しされた長さ二メートル幅一メートル部分みたいな感じだった。ドアもなく、低い暖簾が吊るしてあっただけだった。そこにはかまどと戸棚と壁に取り付けた調理台があった。後、色んな野菜が入っている籠。結構狭いスペースでそれ以上何かを入れたら調理する人が入れなくなるかもしれない。部屋の北部に二つのベッドルームに繋がる二つのドアがあった。一つのベッドルームに入っている家具はベッドと机。もう一つのベッドルームにはベッドのみ。家の探険が済んだら二人はテーブルで座った。

「もう他に行く場所はないかな」

海はテーブルの上に載せた両腕に体重を掛けた。

「少なくともこの辺りにはないと考えていいだろう。とりあえず、住む家が見つかっただけでありがたいか」

「あのおじさんはどう思う?異能者を嫌っているようには見えなかったね。なんで一人でこんな所に住んでるだろう?」

「さぁ。あのおっさんも異能者なんじゃない?」

「そうか。それなら筋が通る」

「まぁ、ただのへんてこおじさんという可能性もあるけど」

「駄目でしょう?そんな風に言っちゃ。あの人には恩があるんだから」

「分かってる。言い回しが悪かった。ともかく、ドリックで物事が落ち着いてきたらまたそこへ向おう」

「それってどれぐらい持つの?」

「一ヶ月なら···平気かな」

「一ヶ月世話になるんだ。ちゃんと役に立たないとね」

ぐぅーーーーーー−。

「やっぱトマト一個じゃ足りないなぁ」

海は頭をテーブルの上に落とした。

暫くしてから件のおじさんが家の中に入った。

「今、風呂を済ましたところなんだけど、あなた達はどうする?」

「お風呂はあったっけ?」と海が聞いた。

「ああ、あるよ。露天風呂だ。湯加減にはちょっと不満があるかもしれないけど」

彼は二人を風呂場へ案内した。

「自己紹介はまだだったな。私の名前はケイン」

「俺は才機」

「海です」

「才機と海ね。短くて覚えやすい」

さっきの川への道と同じだったが途中で違う方向に向って、やがて滝の音が聞こえてきた。滝と言ってもたかが六メートルだけど。

「ここだ」とケインが告げた。

「露天風呂って···池なのでは?」

才機は躊躇なく当たり前な指摘をした。

「そうとも言う。あなたがさっき退かしてくれた岩のせいで水位が下がったんだが、滝がまた勢いよく流れてる。直に元に戻る。ちなみにここは混浴だ。ここ以外体を満足に洗う所はないからな。ごゆっくり」

「ああ···俺も一緒に戻るから、海は先に入ってて」

そして海は一人っきりになった。まさに冷たそうな風呂。でもここまで来るのに大量に汗をかいた。体がべたべたした感じでさわやかな気分になりたい。やむを得ん。服を脱いで手近な木の枝に掛けた。最初は湯加減を見て足先だけを水に入れた。

「やっぱ冷たっ」


   •••


海が石造りの家に戻ったら才機はテーブルで座っていてケインは料理をしていたそうです。

「あっちは俺達の部屋になるらしい」

才機は右側のドアを指差した。

「そうか」

「どうだった、風呂?」

「低体温症にかかるかと思った。でもさっぱりした」

「俺は寒いのに弱いんたよなぁ。しゃぁない。一風呂浴びてくるか」

「いってらっしゃい」

二十分後。

「寒かった〜〜〜〜」

「でしょう?」

ドアを閉めてテーブルの上に二人分の食事が置いてあったのに才機が気付く。

「丁度いいタイミングで戻った」

椀を持ってケインが暖簾の下から出てきた。

ケインはテーブルで座って才機もそれに続いた。ケインはシチューを作っていたらしい。中身はイモ、カボチャ、ニンジン、青エンドウ。

「いい匂いですね。いつも自分で育てた食材を使って料理してますか?」

お世辞抜きで海は素直に椀から漂ってくる香りを称賛した。

「まぁ、ね。たまには町に出て物々交換はするけど。今回肉は入ってないが許してくれ。今は切らしている。魚はシチューに合わないし」

「いやいや、これでも十分ありがたい。頂きます」

才機は手を合わせてから待ちに待った食事との出会いを堪能した。


   •••


どこか暗くて松明の光でしか照らされていない洞窟みたいな所。男が後ろに手を組んで外を眺めている。どうやら男は高度の高い位置にいるようだ。

「ただいま戻りました」と後ろから声が来た。

「ラエルか。どうだった?」と外を眺め続けた男が言った。

「はっ」

ラエルはもっと近づいて、松明の光がその顔を明らかにした。アラニアで才機とやり合った人だった。

「それが、今回は邪魔が入りまして、予定より早く引き上げることになりました」

「一人でも大丈夫って言ってなかった?」

「大丈夫だったんですよ!ただ···」

「ただ···?」

「ただ、邪魔してきたのは異能者でした」

ついに男がラエルの方を向いた。

「異能者だと?」

「はい、それもべらぼうにタフな奴でね。俺の最高の炎を食らってきっちり生きていました。腕力も大したもんでした。ありゃガロンに引けを取らないかもしれない」

「なるほど。それじゃお前だって手に負えない訳だ。で、何でその異能者は彼らに加担した?」

「分かりません。ただ偶然通りかかっただけと思います。派手に暴れ始めるところで彼がいきなり出てきて止めました」

「異能者同士で争うなんて言語道断。ましては彼らを庇う為となれば」

「はい」

「我らに楯突くなら異能者とて敵に過ぎん。今さら異能者と普通の人間が協力し合って共存するなんて楽天主義者の空想。正義の味方でも演じているつもりか知らんがちょっかいを出されては困る。ある意味では普通の人間と組む異能者はその人間より厄介だ。イメージ的にも悪い。そういう輩はすべからく排除するべきだ」

「はっ。今度また会ったら必ず仕留めます」

「しかし、お前の話からすると彼は相当な力の持ち主。戦力になれる。我らの志を理解させて、その理想の為に動いてもらえないかな···。彼と直接接触したのか?」

「はい。俺の腕にしっかりしがみついて離しませんでした」

「ディンに臭いを嗅がせて監視を命じろ」

「はっ」

ラエルはその指示を遂行しに行った。

でも四歩も歩かないうちに動きが急に止まって身を引いた。近くで暗闇に立っていた人に気付いて驚いたからだ。その男は頭から足まで全身鎧に覆われた。

「なんだ、お前か。相変わらず存在感のない奴だな。ちゃんと生きてるか、その中に?っつうかなんでここにいる?」

「デイミエンがいる所に私がいて当然だ」

「チッ、またそれか?影じゃあるまいし」

ラエルはそう言い残して退出した。

もう一人の男はまた外へ注意を向けた。

「待っててシルヴィア。もう少しで全てが正される」


   •••


「美味しかった〜」

二杯目のシチューを平らげた海は空になった椀にスプーンを置いた。

「気に入ってもらえって何より。なんせここではしばしば出るメニューだからね」

「片付けますね」

海は三人が使っていた食器を集め始めた。

「家の側面に樽が二つある。樽に入っている水で食器を洗える」

「はい」

「じゃぁ、後片付けは任せた。私はもう部屋に戻る。また明日」

「お休みなさい」

食器を洗って戸棚に戻したら海は提供された部屋に入った。才機はそこのクロゼットを覗いていた。

「この部屋は本当にベッド以外何もない」

才機はクローゼットを閉めてベッドに座った。

海はその才機の隣に座った。

「まぁ、居候しているし、贅沢を言えない。前向きにやろうよ、前向きに」

「農民としての腕を磨くチャンスだと思えばいいんだな?」

「あるいは漁師として」

「この前それはあまりうまく行かなかったなぁ···あんまり自信ないけど、頑張ってみるか」

「その意気だ。私も頑張るからこの住み込みバイトを最大限に活かそう」

「分かった。そうと決まれば明日に備えて一晩ぐっすり眠ろう」

才機は立ち上がった。

「それじゃ、俺は」

「ストップ!」

海は才機の言うことを遮ってで手のひらを突き出した。

「ん?」

「どうせ『俺は床に寝るから海はベッドで寝てて』とか言うところだっただろう」

「そうだが?」

「もー、馬鹿馬鹿しい。私達は中学生じゃあるまいし。二人は余裕でこのベッドに入る。こんな石の床でぐっすりなんか眠れるものか」

「でも···」

「そんなおおごとにするな。さっきまで同じベッドの上に座っていて平気だったじゃない?寝ている方がまだ安全だ。手出しは出来ない。意識すらないんだから」

「いや、その理屈ちょっと可笑しくない?」

才機は頭を掻いてベッドを見た。

「本当にもー、じれったい!それ以上つべこべ言ったら私が床で才機の隣に寝るよ?」と海は才機を引っ張ってベッドのところへ連れてきた。

「はい、座る。はい、横になる。はい、寝る」

順次にそれぞれの動作を半ば無理強いに才機にさせてから海はベッドの反対側に回り込んだ。

「でも枕は私がもらう」

海は枕を我が物とし、毛布の下に潜り込み、背中をマットレスに預けて目を閉じた。

「俺···寝相が悪いかもよ」

「大丈夫。安眠妨害になったら蹴り起こしてあげる。お休み」

全然寝る様子のない目で才機は天井をじっと見ていた。ベッドに押し付けられてから身じろぎ一つもしていない。

《石の床よりこの状況で寝る方が難しいかも···》

才機はまんじりともしない一夜を過ごす覚悟をした。


   •••


コンコンコンコンコンコンコン!

才機と海は目を覚めるとケインがフライパンをでかい木製のスプーンで叩いているのが見えた。どうやら昨夜はいつの間にか才機が寝る事に成功した。

「朝だよー。朝食は用意してあるから温かいうちに食べましょう」

二人が起きているのを確認したケインは台所に行った。

才機は肩と首を回した。どうやら何とか眠りについたみたいけど、睡眠不足だ。何時まであの天井を見つめたんだろう。二人は赤い目をしてテーブルの席についた。

「二人とも眠そうね。ま、食べて元気になれ」

昨日の食事中、ケインが言った事は誇張じゃなかったみたい。目の前の朝飯はまさに昨夜と同じ食べたシチューだった。その瞬間、皆がそう考えていたからわざわざ口にする必要はなかったけど。食べ終わったらケインが言い出した。

「今回は私が片付ける。その代わり···」

ケインは隅に置いてあった柄に雑巾が掛かった箒を取りに行って海に差し出した。

「家の掃除を頼む。最近ろくに掃除してないからちりが溜まってきてる」

海は雑巾と箒を受け取った。

「私の部屋も勝手に入って掃除していいから。これは毎朝の仕事になる。それほど汚れてなかったら一通り済ませればいい。才機はついてきて」

二人は外に出てケインが両方の樽の蓋を開けて覗き込んだ。

「こっちのはほとんど水が無くなってるな」

ケインは菜園からバケツを二つ持ってきて才機に渡した。

「川までの道は覚えてるな。この樽をその水で一杯にしてくれ」

「了解」

終わるまで十四往復がかかった。家に戻る度にケインは枝で何かを作っていたそうだった。十四回目にケインが才機に声をかけた。

「どうだ?そろそろ終わるか?」

「ええ、これで最後です」

才機が最後のバケツ二杯の中身を樽に注いでいた時にケインが様子を見に来た。

「お、両方を満水にしてくれたか。ご苦労さん。で、今、思ったんだけどね。あなたの力を使えば、樽ごと川まで運んで一往復で済ませたのでは?」

「···あ」

「ま、毎日この樽を一杯にするのが才機の仕事。どんな方法を使ってやるかは任せる。今度は菜園で草むしりをしてくれ」

二人は一緒に菜園に入った。才機はこまめに草を根こそぎ引き抜き、ケインは野菜の手入れ。草をむしっている内に才機は赤と緑色のナスの形をした物を発見した。

「あれ。これは···ナッチよね」

「そうだよ。好きか、ナッチ?」

「え?まぁ、悪くはない。でもこんな所に植えていいの?確か、水に当たると駄目になるとか」

「そうだな。普通は温室か何かに栽培する物だ。だから少ししか植えてない」

「ふうん」

もう少し時間が経つとケインが立ち上がって腰を握りこぶしで叩いた。

「ちょっと休憩にしよう」

「あ、はい」

二人は家に入ると海がこつこつ床の掃除をしていた。

「お、久々に綺麗になっている。ヘ〜、ここの壁ってこんなに白かったか。頑張ってるな」

ケインは三つのコップを外に持って行って、水一杯になって帰ったきた。

「さっ、ちょっと休もう」

才機と海にコップを渡してテーブルで座った。

「この家、おっさんが作ったの?」と才機が聞いた。

「いや、大分前にだけど実はここを偶然見つけたんだ。誰が作ったか知らないがその人はある時点でここを捨てた。どうせ誰も住んでいないからここを自分の家にした。ちょうど新しい住む場所を探していたし」

「やっぱり、ケインさんは異能者ですか?」

海は水を一口飲んだ。

「私が?いやいや、腰を簡単に怪我をする以外何の能力持っていないよ」

ケインは否定するように手を振った。

「でも異能者を怖がったり嫌ったりしてないみたいだね」と才機が言った。

「まぁ、そうだな」

「どうして?」と海が聞いた。

「怖がる理由はあるの?」

「それは、人を傷つけるほどの凄まじい力を持ってたりするから?···もしくは殺すほどの」

「何、剣や銃さえ握らせれば普通の人間にだって人を殺める力が備わる。私は生まれもって極めて合理的な考えをする人でな。そんなのは汚名を着せる理由にはならない」

「ケインさんってなんか凄いね」

「いや、それほどでも」

「そうだ。聞きたかったんですけど、掃除していたら綺麗な女の人の写真が机に置いてあったんですが、誰ですか?」

「私の妻です」

「妻ですか?」

「聞きたい事は分かる。彼女はもうこの世にはいないよ」

「すみません」

「平気よ。気にするな」

「病気、でした···とか?」

「異能者狩り事件で異能者に殺された」

才機と海ははっとした。

「それなのに、よく異能者を恨まなかった」と才機が言った。

「私の妻を殺した異能者は特に戦闘向きな能力を持っていなかったそうだ。密告されて、自分の家に立てこもった。近衛兵が力ずくで立ち退かせに来たら、彼は強く拒否してピズトルで家に近づいてきた近衛兵に撃ちかけた。妻はあの時、その辺を歩いていて流れ弾に打たれて間もなく死んだ。ただ自分の家に残りたかった人を恨むのは筋違いだ。恨むんならその事情を生み出したものを恨むべき」

「その事情を生じたもの?それって、アナトラス現象の事?」と海が聞いた。

「アナトラス現象か···」

ケインはコップを手でぐるぐる回して水に映った自分の顔を見た。

「そう···だな」

そうと言ってケインは残っていた水を飲み干した。

「さ、こんな辛気くさい話をこの辺にして、才機、あなたは釣りをした事がある?」

「一回ぐらいなら」

「よし、これから上流に行って昼飯を確保しよう。海、留守は任せた」

二人は外に出てケインはバケツと明らかに手作りの粗末な釣り竿を手にした。

「今朝はそこの二本目を作った。即席だけど十分使えるはず」

才機はバケツとケインが指差した家に立て掛けられた釣り竿を手に取ってケインについて行った。

「さて、ここでいいかな」

ケインはバケツを下ろして釣り糸を川に投げた。

「餌は?」

「ない。それに付いているルアーをうまく使えば捕れるよ」

「そうか?じゃ」

才機も釣り糸を投げた。

今日の収穫、ケインは一匹、才機は二匹を捕った。才機の腕は少し上がったようだ···と、言いたいところだが、ケインの一匹はやや大物であるのに対して才機の二匹はこの前に釣れた魚と大して変わらなかった。才機は不満そうにバケツの中身を見ていた。

「どうした、その浮かない顔は?こいつだけでも三人で分ければ十分だ」

ケインが自分の魚を指して言った。

「帰ったら絶対に笑われる」

「そんな事はないだろう。経験の浅いあなたならしょうがない。誰も責めやしないよ」


   •••


「はははは!またかよ?」

「ほっとけ!難しいんだよ」

「まあまあ。海、今日の掃除はばっちりだったから昼飯の用意もお願いしたい。大いに期待してるよ」

ケインは才機の手からバケツを取って海に渡した。

「はい。任せて下さい」

「私達は菜園で仕事の続きをしよう」とケインは才機に言った。

三十分後に二人は家の中に入って海の前の釜に覗き込んだ。

「どれどれ、そろそろ出来たかな?」とケインが聞いた。

「うん。もうちょっとだと思う」

くんくん。才機は漂ってくる臭いを嗅いでみる。

「独特の臭いがするね···」

「言われてみればそうね···。ん?魚を煮ているのか?」とケインが聞いた。

「うん、こうして野菜と一緒にゆでれば一石二鳥」

「どんな香辛料を入れた?」と才機が聞いた。

「そこの戸棚にあった物を色々」

「色々ねぇ···」

ケインは怪訝な顔をしていた。

「もう直ぐ出来るから二人ともテーブルについて。あ、この皿とフォークも持って行って」

皿を持って二人は向かい合ってテーブルについた。ケインは手で声を才機の方に誘導して囁いた。

「今更聞くのは遅いかもしれないけど、海は料理出来るの?」

才機は同じく手で口を隠して囁いた。

「分からん。料理しているところ見たことない。彼女の手で作られた物も食べた事ない」

「なんか、紫色っぽかったぞ。魔女の釜みたいにどろどろに泡立っていた」

「野菜が悲鳴を上げていたような気がした」

二人は不安で満ちた目でお互いに顔を見合わせた。

「さ、お披露目。料理って結構面白い。はい、どうぞ」

海は三匹の魚と野菜が載せた大皿をテーブルに置いた。

「私はこれでいい」

ケインは才機が釣ったちっちゃい魚を自分の皿に置いた。

「お、俺も」

才機ももう一個の小さな魚を取った。

「なんだそれ?まるで食べたくないみたい」と海は文句を言う。

「いや、私はそんなに腹減ってないだけだ」

「先ずは初めにこれ。食べ終わったらお代わりするよ。かも」

ケインに「腹減っていない」作戦を先に利用され、他に何も思い付かない才機は最後の一言を自分自身も聞こえないほどの小さな声で言い足した。

海の顔は二人の言葉を疑っているような顔だった。

才機はフォークでその魚を刺そうとしたが触れた瞬間に粉状に崩れて刺すのが無理だった。それを見て才機はごくっとした。

男二人はお互いの皿を見て、もう一人が先に味見するのを待っていた。だがどちらにもそんな勇気はないようで、目だけでやり取りをしていた。

《おい、ケイン。いつまでダラダラとフォークで飯をかき集めてるんだ。いい加減不自然だ》

《私が先に食べるの待ってるんだね。そうはいくか。どう考えても海の連れのお前が先に食べるのは筋だ》

《察してくれ!俺が海の初めての手料理を悪く言えるはずないだろう》

《早く食わんか!流石に向こうが怪しく思い始めているぞ》

「信じられない!私の料理がそんなに信用できないの?分かった。私が先に食べて見せる」

海はスプーンをさっと取って大きい魚をスプーン一杯をすくい上げて口に入れた。才機とケインはしきりに海のリアクションを持った。長く待つ必要はなかった。海はがっくりと膝をつき、テーブルに顔を伏せた。

「シチュー···作ろうか?」とケインが聞いた。

「お願い」と海の一言。

ケインがお昼を作り直している間に才機は大皿を持って家から離れた所で海の料理を捨てに行った。これ以上海のプライドが傷つかないように、捨てた時に通りかかったトカゲが一口食べた後、仰向けになってぴくぴくしていた事を秘密にした。 


•••


こんな日々を毎日三人で過ごすようになった。少しずつだが、才機は釣りも上達していた。海はケインに園芸の色んなこつを教わった。食事係は相変わらずケインがやったけど。そんなある日、才機は自分が倒した木を斧で細かく切り刻んでいた。最初の時はやっぱり自分の力を忘れて途中で地道に木を切り倒していたが、今は造作も無く木を押し倒しては、斧で四、五発入れて切り裂ける。それを何回繰り返せば薪の山出来上がり。その薪を持ち帰るとケインは勤勉に菜園で働いていたが、その様子は急に変わった。がっくり手とひざをついて、片手で胸を握りしめた。苦しそうに息をしていた。才機は薪を落としてケインの所へ駆け付けた。

「おい、おっさん!大丈夫?!どうした?」

才機はケインの背中に手を添えた。

「薬···机の引き出し···水も」

ケインはぜいぜいしながら家の方で指差した。

才機はドアをぱっと押し開けて走り込んだら海はびっくりしてぎょっとした。

「ど、どうしたの?」

「水を用意して!」

才機は海に見向きもしないでケインの部屋に駆け込んだ。

「え?」

よく分からないけど、とりあえず海は言われた通り、コップを持って外の樽の水を汲んだ。そうしたらケインは胸を握ってよろよろ歩いて来た。

才機は必死に引き出しの中をしらみつぶしにかき回して薬らしい物を探した。遂に白い丸薬が一杯入っていた小さなガラス瓶を見つけた。それを持ってダイニングに出たら海はケインを支えて家に入った。海はケインを椅子に座らせ、才機はガラスの瓶を見せた。

「薬ってこれ?」

ケインは瓶を手に取って丸薬を三個出した。それを海が持っていた水と一緒に飲んだ。数分でケインの呼吸が落ち着いてきた。

「すまない、二人とも。もう大丈夫」

「今のは喘息か何か?」と才機が聞いた。

「そうだね。でも発作はそうそう起きないんだ。今日はいつもより暑かったせいかな」

「顔色はまだ少し悪いよ。本当にもう大丈夫?」

海は手をケインの肩の後ろに添えた。

「ちょっと休んだらまた元気になるよ。少しの間寝るね」

ケインは何とか立ち上がって自分の部屋に行った。

これ以上してあげられる事はなさそうで二人は仕事に戻る事にした。海はケインの代わりに菜園の手入れの続きをしようと才機と一緒に外へ出た。

「小学生の時、喘息持ちの友達がいたんだけど、やっぱりああいうのを見ているとちょっと怖いな」

「俺達が来るまではずっと一人で対処してきたんだろうね。大変そうだ」

その時、海がはっとなった。

「誰かがいる」

「誰かって?どこ?」

「この上」

海は真上を向いて崖の縁にある木を見た。

「この上?何も見えないが」

才機は目をこらしてその木を見たが誰かがいたとしても木の葉はこんもりしていてよく

見通せない。

「やっと俺に気付いたか?」

上から声がしてきた。そうしたら木から男が降りてきた。

「狼男?」と才機がたじろいた。

「狼男じゃねぇよ。異形者だ」

その男の顔には確かに狼っぽい特性があった。

「それより、お前らはいつまでここであの爺とままごとをする気だ?どう見ても彼は普通の人間だし」

「あのー、悪いけど誰だ、あんた?」と才機が聞いた。

「俺?俺はリベリオンの一員だ」

「リベリオン?もしかしてあの放火狂の仲間か?」

「フッ。それってラエルの事だろうな。ま、そうだけど」

「何なんだ、そのリベリオンってのは?」

「いわば抵抗集団ってやつさ」

「なるほど。で、俺達に何か用でも?」

「厳密に言うとお前らに用があるのは俺達の頭領だ。どうやらあの方はお前に興味を持ったみたい。あんた、今のこの世の中をどう思っている?」

「どうって?特に何も思ってないけど」

本当はいかれていて、訳分からない世界で元の世界に帰りたいと思っているが、今そんな事言ったって仕様がない。

「何もだと?理由もなく普通の人間に憎まれ、いつ正体がばれるか知らず、ずっと追い出されるのを恐れ、社会が俺達の存在を忘れられるように都合よくごみみたいに陰へ払い除けられ、世界は変わらないといけないと思わないか?」

「まぁ、確かにこの世界は問題が山積みのようですね」

「ですねって···なんてのんきな。ひとごとみたいに言うじゃねぇか」

才機は言い返す事が何もなかった。実際に他人事だと思いたいし。

「リベリオンならこの世界の思考を変える事が出来る。俺達は元通りの暮らしに戻れるんだ。もしかしたらそれ以上にいい生活になるかもしれない。それだけの人数と戦力を集めているんだ。それを一緒に成し遂げたくないのか?このままで本当にいいのか?!」

「戦力って、戦争でも始めるつもりか?」

「必要であれば」

静けさ。

「お前は?」

男は初めて海に向って喋った。

「お前も異能者だろう?」

「···はい」と海が遠慮気味に答えた。

「ずっと黙ってるけどお前はどう思う?」

「私は···異能者が酷い仕打ちを受けていると思う。もちろん。この世界で変えるべき事もある。でも戦争に加わりたいとは思っていない」

「ふん。もしかしたら彼を説得するのを手伝ってくれると思ったが当て外れだったな。お前達は今までどんな扱いをされてきたか知らんが、甘い。甘過ぎる。それとも何?ただの腰抜け?」

「まぁ、あれだ。面倒くさいのは嫌だっていうか」

才機はうなじをさすりながらがら目を逸らしてそう言った。

「面倒く···?!」

男は面食らってから溜め息をついた。

「呆れた。まぁ、いい。今日はそういう事にしておこう。一応お前達の監視役を仰せ付かったからそんなに遠くにはいないよ。ここで現実逃避したけりゃ勝手にそうするといい。だがこれ以上俺達の邪魔だけはするな」

男はそう言い残して立ち去った。

「本当···面倒な事に巻き込まれたようだな」

才機は先ほど狼男が立っていた場所を見ていた。

「監視役ってどういう事だろう?」

「さぁ。監視するだけなら、別に構わないけど」

二人は今のをケインに言わない事にした。あれから誰にも会わなかったのように二人はケインと一緒にあの小さい家で頑張った。ある日才機は菜園で働いていたらケインは両手を腰に当てて、揃えるように家に立て掛けられていた一列に並んでいる大量のパイプを見ていた。

「どうした?あのパイプをずっと見つめているけど?」

才機は手を止めて聞いた。

「いやぁ、前にここで住んでいた人はどうやら水揚げポンプを据え付けるつもりだった」

「水揚げポンプか。それは便利ですね」

「でもこんな大規模なプロジェクトは私一人では始末に負えない。大体、道具は揃っていない。ここはスコップ一つもないんだから」

「スコップがあればいいの?」

「スコップとスコップを動かす労働者がね」

才機は立ち上がって土しかない所に移動した。そこで足下を見てしゃがんだ。そうしたら腕を上げ、地に突っ込んだ。その腕が降り下ろされているうちに瞬時にガラスの形状になって、才機の肩まで埋もれた。一気に腕を前に出して、土が共に打ち上げられた。残ったのはパイプを埋める為のちょうどいい大きさの穴。ケインは頭をかいた。

「それ···川の所までずっと出来るの?」とケインがあごをこすった。

「出来るんじゃない?」

ケインはまたパイプを見た。

「ふーむ。やってみるか」

後に続く日々、三人は一日の殆どを水揚げポンプの据え付けに全力を注いだ。才機は穴を掘り、ケインはパイプを敷設して接続して、海は才機と一緒に終わった所を掻き集めた土で埋めた。この作業を終わらせるのに丸四日掛かった。そしてようやく日頃の成果を得る時が来た。三人はポンプを囲み、ケインはハンドルを上下に動かした。これで水汲みは限りなく楽になる。と、思ったら何も出ない。

「もうちょっとかな」

ケインはハンドルを動かし続けた。

でも何も出ない。

「可笑しいな。どこかで接続を間違ったかな」

「まさか、問題の箇所を見つかるまでパイプを片っ端から掘り出さないといけないの?」と海が聞いた。

まだハンドルを動かしていたケインが顔をしかめて言う。

「そうなるよね···てっきりちゃんと繋がってたと思ったけどなぁ」

遂にケインは諦めた。

「駄目だな、こりゃ。今日はもういい。解決策は明日にでも考えよう」

三人は家のドアに向った。ポンプの近くを通った際に才機は何気なしにハンドルをもう一回動かした。

「あ。出た」

海とケインは振り返って地面の湿り気に気付いた。才機はもう一度ハンドルを動かした。すると水がどくどくと流れ出た。

「やった!」

海は大声を上げてケインの肩を揺さぶった。

「よーし、これは祝えずにいられない。今夜のシチューに焼きナッチを入れよう!」

その特上シチューを食べ終えたらケインは自分の部屋に行って、持ち出したボトルをテーブルの上にドシンと置いた。

「これは?」と海が聞いた。

「ずっと取って置いたワインだ。凄いんだぞ、これが。気を引き締めて飲めよ」

「ワインかぁ。俺は遠慮するよ」と才機が言った。

「なんだ、それ?今夜はぱっと行くんだろう?」とケインがボトルを更に才機の方に滑らせてもう一度アピールする。

「彼はこういうの駄目なんですよ。ワインもビールも酒も、アルコールが入っている物全部」

「ええ?そうだったのか?」

「まぁ、そういう事だな」

「何、弱いのか?」

「分からない。それ以前に飲み込むのが問題だ。苦くてまるでせき止めシロップを飲んでいるみたい」

「哀れな人だなぁ。酒の良さが分からないなんて。ま、私と海の分が増えるからいいけどさ」とケインは二つのコップを持ってきて海に酌をした。

「ささ、どうぞ」

海はそのコップを口に持ってきて、ゆっくりだけど最後の一滴が無くなるまでコップを降ろさなかった。

「おお、凄い飲みっぷりだな!これを一気に飲むとは珍しい」

「何これ?美味しい!」

「二杯目いけますか?」

「行ける、行ける!」と海はコップを差し出した。

仲間はずれになった才機はただゆったり座って、二人の酒盛りを横から面白がって観察した。二人は何を飲んでいたか分からないけど、どうやらケインの言った通り結構強力らしい。四杯目の途中でケインはコップをしがみついたまま失神していた。海はもう五杯目に取り掛かろうとしていた。

「ね、ね、聞いてる?」と真っ赤な顔で海は爆睡しているケインに聞いた。

「さい〜き〜、さっきからケインが無視する〜。酷いと、ヒック、思わない?」

「この祭は仕方ないかな」

「何それ〜?ケインの味方をするの?裏切り者」

「お前、相当出来上がってんな」

「出来上がってなんかないぃ!ヒック。いや、してるかも。まぁ、いいじゃない〜。才機も一緒に酔いましょう〜」

「あぁ、けっこうです」

「そんな事言わずに」とふらふらしながら海は才機の所へ歩いて行った。

たったの七歩の距離だったが、海は転ぶんじゃないかと才機は本気に心配していた。そして案の定、六歩目で海は体勢を崩した。才機は立ち上がって右手で海を、左手で海が持っていたコップを受け止めた。何とか怪我せずに、こばさずに済んだ。

「歩く事すら出来ないじゃん、お前。ほら、座れ」と才機は海を椅子に座らせた。

「大丈夫、大丈夫。それより、これ。飲んでみ」と海は才機の顔にコップを突き付けた。

「まぁ、確かにお前はこれ以上飲まない方がいいから、これをもらうよ」と才機は海のコップを取り上げた。

「なんだよ〜。飲まないなら返して」

海はコップを求めて手を差し伸べたが、狙いはかなり外れていた。

「だめだ。もう寝てろ」

「眠くないもん。最近生意気よね、あんた。そんな事言って、また私の胸を触りたいだけだろう」と椅子で揺れる海が言った。

才機はぎくっとした。

「お、起きていたのか?」

「起きていたよ〜」

あれは二日前ほどの早朝だった。才機が目を覚めて左腕がベッドとは違う何か柔らかい物の上に載っていた。自分の手を見たらその何かは海の腹だと分かった。そして手は海の胸に非常に近かった。眠気が一気に消えた。やばいと思ってここはこっそり手を引っ込みたいところなんだけど、そうしようにもその手は海の左腕の下敷きになっていた。なんてこった!こんな状態で海が起きたら誤解されてしまうかもしれない。そろそろ起きる時間だろうし、どうする?!

実は才機より先に海の方がこの状態で起きた。才機の腕を退かしたら確実に起こしちゃった後、きまり悪い場面になりそう。このまま、また眠りに就いてみようと思ったら才機が起きた。寝ているふりをしていた海は才機の慌てを察し、左に寝返りをうってあげて背中を才機に向けた。チャンスを逃さずに才機も手を引っ張り出したけど、その拍子で腕がしっかり海の胸にこすりつけた。この事は一生秘密にするつもりだったが···。

「あ、あれは不本意というか、不可抗力というか···」と才機は目を逸らした。

今度は海がまた立って、残っている集中力を使って狙いを定めようとした。

さっき言った事はもう忘れたかどうでもよくなったか分からないけど、海の目に才機が持っていたコップしか映っていなかった。でも才機は身長の差を利用し、海がつま先で立っても手の届かない所までコップを持ち上げた。

「返して、返して〜。なんで言う事聞かないの?こんなに頼んでいるのに〜。私の事好きじゃないの?」

「え?!好きって···一度も言ってないよ。気になるって言った」とまた目を逸らす。

不意をつかれて、うっかり手が下がった。海は危うく目当ての物を取り戻したが、指がコップをかすっただけで才機は反射的にまた腕を伸ばした。

「一緒だろう?」

「違うよ。ってゆか反則だよ、こんな時にあれを持ち出すの」

「なんで反則なんだ?本当だろう?」と海は再びバランスを失って、膝から崩れ落ちるように才機にもたれかかった。

「人の片思いに付け込むな」

「分かんないよ。考えてるから」

「ん?何を?」

返事が来ない。

「グーグー」

才機は溜め息をついてコップをテーブルに置いた。それから海をお姫様抱っこしてベッドまで運んだ。

「酔っているとは言え、これでまた色々複雑になるのかな」と才機が海の無表情の寝顔を見た。

ドアをそっと閉めて才機はダイニングでいびきをかいているケインの隣に立った。前にかがんで海の飲みかけのワインを手に取って少し味見をした。

「うえ〜。皆よくこんなの飲めるんだ」


•••


海が目を覚めたら頭はがんがんしていた。窓を通る太陽の光はぎらぎらしていて目を開けたら直ぐにまた閉じる。

「おはよう。って、もうこんにちはって言った方がいいかな。やっと起きたか?」

才機の声だった。

「んーー。もっと静かに喋ってよ。そうやって叫んでると頭が痛い」

「叫んでないけど」と海の要請に応じて声をもっと低くした才機。

「んーー。最悪な気分だ。誰か部屋が回るの止めてくれない?」

やっと目を半分まで開けて、左に向いたら才機はダイニングの椅子に背もたれを抱え込むように座っていた。

「部屋を止められないけど、ほれ」と才機は床に置いてあった水を海に手渡した。

「サンキュウ」

「昨夜は大変だったよ。結局おっさんまで担いでベッドに入れる羽目になった」

「昨夜?んー、確か水揚げポンプの完成を祝って···ケインと一緒に飲んで···それから···それから···それから何があったっけ?」

「覚えてない?」と才機が頭を上げた。

「なんか、三杯目辺りから全てが真っ白になってる」

「そう···なんだ」

「何かあった?」

「いや、お前は酔ってちょっと手が付けられなくなったぐらいだ」

「そうか。普通は自分の限度が分かるんだけど、あんなに美味しいワインは初めてで後を引いた。今は凄く後悔してるけど」

「ま、そこで休んでいて。おっさんの様子を見に行く」と椅子を持って才機は部屋を出た。

《覚えてないか。まぁ、ならば好都合だけど》

ケインはベッドで起き上がって外を見ていた。

「どう、気分は?」

「ああ、久しぶりの二日酔いだ。もっと若かった頃を思い出すよ。それにしても驚いた。海ってとんでもなく強いね。パレダインをあんなに飲めるとは」

「今は後悔してるだって」

「ははは!いっててててててて」とケインは頭を抱えて痛みが治まるを待ってから続けた。

「今日は休日とういう事でいいかな。ゆっくりしていて」

そう言われて才機は外へ出て日なたぼっこにおあつらえ向きの平たい石を見つけた。その石の上で横になって色んな考え事をした。今夜は何のシチューにしようとか、そろそろトマトを収穫してトウモロコシを植えた方がいいとか、来週の天気はどうなるとか、川から水を引くパイプの格子を週に何回きれいにするべきとか。そしてこんな事を考えている最中に、才機ははっと気付いた。この生活になじみ始めていることに。考えてみれば、ドリックの様子を見に行くのに待った三週間はもう過ぎたし。いかん。これじゃ、海との約束を果たせない。でもどうすればいいんだ?明日になるまで、才機はずっとそれについて思い詰めた。思い詰めて、何一つ思い付けない自分が情けなくて悔しかった。


   •••


次の日、才機とケインはお互いに後ろ向きになって菜園で働いていた。才機はシャベルを土に突っ込んでいきなり言い出した。

「ねぇ、おっさん。変な事聞いていい?」

「変な事?」

「その···この世界以外の世界とか···そういうの聞いた事ある?」

「この世界以外の世界···それって別の惑星か何か?」

「いや、そういうんじゃなくて···と思う。もっと···何って言うか···

殆どの人が知らない得体の知れない世界。おとぎ話に出てくるような別世界」

「その発想なら知っているけど。それがどうした?」

「俺と海はそういう世界から来たって言ったら、どう思う?」

ケインの手が止まった。

「そういう世界から来たと言いたいの?」

才機は否定しなかったからそう言いたかったとケインが受け止めた。

「あなたがそんな嘘をついて得る事は何もないはずだ。私の勘だとふざけているようには見えないし。でも正直に言うと、とても信じ難い。頭が可笑しくなったって信じる方がまだ簡単だ。この際だから疑わしく思うのを許してもらいたい」

「もちろん。俺だって元の世界でこんな事言われたら信じなかっただろう」

遂にケインが立って才機に向いた。才機はまだしゃがんでいて、ぼんやりとシャベルを土に出し入れしていた。

「仮にあなたが言っている事が本当だとしたら、なんでそれを私に打ち明けた?」

「ただ相談に乗ってもらえたらと思って。私はもう散々悩んだけどお手上げだ」

ケインは何かを考えていたそうだった。

「普通はこの人がちょっと気が狂っていると思って、この話題になるべく触れないようにするのが道理だろう。···だが少しは力になれるかもしれない」

「本当か?」と才機は急にケインと向き合った。

「まぁ、正確に言うと力になれる人物に紹介出来る。

「誰ですか?」

「そういう···異世界について研究している知人が居てね。誰も彼の研究をあまり本気にしていないけど。私も含めて。でもなぜか彼の研究を聞き知った女帝陛下に認められ、今は女帝陛下自身がその研究の出資者になっている」

「その人なら帰る方法を教えられるのか?」

「さぁ。あなたが異世界から来たって信じている訳じゃないよ。でもその人に会ったら少なくとも話が合いそうだ。悪い人じゃないけどちょっと偏屈でね。他の研究員があまり関わらないんだ」

「どこに行けば会えるの?」

「メトハイン」

「メトハインか···」

「付いて来て」

二人が家に入ったら海は調理用の場所を掃除していた。ケインの後に付いて、才機はケインの部屋に入ってドアを閉めた。

「メトハインの象徴である巨大なオベリスクを知っている?」とケインが聞いて、机の引き出しの中をかき回した。

「はい」

「あれででかいと思っているだろうが、本当は見た目よりもっと大きいんだ。あの建物は深く地下まで続いてその殆どが皇帝の研究所。あ、あった」とケインはバッジかカードみたいな物を取り出して才機に渡した。

「これは?」

「あれさえあれば研究施設を自由に移動出来る。後はその格好だが」とケインはクローゼットから白衣を取って、才機にあげた。

「それを羽織れば大丈夫だろう。これから会いに行く人の名前はクレイグ博士。確か、彼の研究室は地下二階だった。建物の中心に螺旋階段が上下に走っている。地下二階へ出たら反対側の廊下の一番奥の部屋だったはず」

「なんでおっさんがこんな物を持っている?あの塔についてやけに詳しいし」

「まぁ、誰にだって過去はあるって事さ」

あまり話したくないようだ。

「一緒に来てくれないか?」

「悪いがそれは出来ない相談だ。クレイグ博士に会いたければ単身で行く事だ。海はどうする?」

「いや、海をみだりにあの都市に連れて行くのをしたくない」

「だろうね。どの道二人分の白衣とバッジは無いし」

そう言ってケインは部屋を出た。玄関のドアを開け、釜を掃除している海を見てから菜園の仕事に戻った。


次の朝。才機はいつもより早く起きた。

「んーーーーー」

「ごめん、起こしちゃった?」

「今何時?」

「六時頃かな」

「六時?何でもう起きてるの?」

「少しの間留守にするよ。明日までに戻るかも」

「明日?どこに行くんだ?」

「メトハイン」

「ええ?!どうして?」

「俺達の世界に戻る手がかりが見つかったかも。ケインが教えてくれた」

「ケインが?」

「うん。全部話した」

「よく信じたね」

「信じてないよ。協力してくれただけ」

「···じゃ、私も行く」

「いや、危険だから海はここに居てくれ。俺はあそこに行きたくないが、やっと掴んだ手がかりだ。逃す訳には行けない」

「でも···」

「それにこのバッジと白衣がなきゃ駄目みたい。なるべく早く戻るから心配するな」

才機はバっジと白衣を袋に入れて、ダイニングにあった野菜もいくつか積み込んだ。

海はドアが閉まるのを聞いて、日が昇るまで落ち着けられずにただベッドに寝転んでぼうっと部屋の壁を眺めた。


   •••


昨日、ケインに示された方向に進んでメトハインに至る道路に出た。三時間経ったら休憩を取ってお昼にした。そのお昼というのは、朝食に食べた同じ生野菜。キュウリ、ニンジン、キャベツ、トマト。寂しくて物足りないだけどこれで後何時間飢えをしのげる。しばらくしたら黄金原オアシスが見えてきた。挨拶なしで通り過ぎたけど、取っておいた根っこが付いたニンジンの部分をネリーにあげて行った。そしてその足でとうとう目的地に着いた。メトハイン。しかし、一日でこんなに歩いて足は流石に疲れた。この都市にいるのは出来るだけ短期間にしたいので入ってからより、今もう一休みした。足が満足に動けるようになったらこの旅を終わらせる心の準備に入った。

《この間、あんな事があったけどもう俺の顔は忘られているだろう。門前払いなんて事はないよな》

フードをかぶるという手もあったけど、どうもそっちの方が目立って怪しまれる気がしたので堂々と市門をくぐる作戦で行った。門番は二人。両方とも全身鎧を付けていて、見るにも重そうな斧槍を片手で立てていた。怖いけどもう門に向っていた。今更引き返せない。この前、南口の門を使った時門番はこんなに威圧感を感じさせなかったのに。門に近づけば近づくほど心臓の鼓動が速まった。門番と視線を交わすのを避けたんだが、二人がずっと自分を睨んでいるのを感じた。今にもその斧槍が降ろされ、行き先を阻みそうだ。二人の間を通った時、心臓の音が筒抜けほど高鳴っていた気がした。違うのか、構っていられなかったか、一言掛けられずに都市に入れた。最初の関門をクリア出来た。これからが難しくなる。しかし腹が減っては何も出来ない。鼻まで漂って来た匂いがそのことを思い出させた。売店で数多の種類のパンの中から焼きたてのハチミツパンを一個買って、食べながら都市の中心に向った。塔に着いたら裏手に回って誰もいないうちにバッグに入った白衣をまとってバッジを付けた。大きく息を吸って才機が塔の前に歩いて階段を上った。自然に振る舞ってさりげなく挨拶もしようと思ったが、口を開ける間際に門衛が扉を開けてくれた。才機は扉を通り抜けて中に入った。第一印象は以外と殺風景で装飾のない広間だった。どっちかというと兵舎みたいだ。そして兵舎なだけあって兵士が多い。玄関で不思議そうに周りを見るのは変だろうから真ん中のでかい柱の方へ向った。柱の中に確かに螺旋階段があった。

《よし。ここだな》

才機は螺旋階段を見下ろした。

「おい、君」

階段の入り口で見張っている兵士だった。

「はい」

その兵士は才機のバッジを睨み付けた。

「見慣れない顔ですが、新しく入った研究者?」

「はい」

「どこの所属なのか聞いてもよろしいですか?」

「クレイグ博士と一緒に研究しています」

「クレイグ博士?あの人の所に助手が入ったか。ふーん」

納得させたみたいで才機は階段を下りて行った。そして見えなくなるまで兵士はずっと才機を目で追った。

地下一階。

地下二階。侵入成功。

階段の吹き抜けから廊下に出て、進められる方向は三つ。左、右、真っ直ぐ。ケインによると階段から出た所の反対側の廊下に行くべきだ。そこを目指して才機は右に曲がった。運よくて廊下は今がらがらだった。窓は至る所にあったが、いずれもブラインドが下げられ、向こうで何をしているか見えない。ほどなく才機は目当ての廊下の一番奥のドアの前に立っていた。ここもやはりブラインドが下げられて誰かがいるかどうかすら分からない。でもここで突っ立っても何も始まらない。才機はドアにノックした。数秒後にドアが開くと同じく白衣を着た男が顔を出した。

「ん?何か用ですか?」

「あー、クレイグ博士ですか?」

「はい」

「あのー、クレイグ博士は異世界の研究をしていると聞いたんだけど」

「そうだが?」

「えっと、俺の名前は東才機。その···あなたの研究の事が耳に入って、ぜひ話したいと思った」

「そうですか?」とクレイグ博士は眉を一つあげて少し訝しむような口調で言った。

「あー、多分お互い助け合えるんじゃないかと思うんだ」

「助け合える?」

「その、俺もクレイグ博士にとって興味深い情報を提供出来るかもしれない」

「ふーん。あなたも異世界の研究をしていると?」

「いいえ、その···俺は異世界の人間です」

ピシャリ。

才機の目の前でドアがバタンと閉められた。

「悪いがこう見ても忙しいんでね。私の研究所が物笑いの種でも結構だが、君も研究者の端くれならここで油を売ってないで自分の研究に専念する事だ」

「いや、違うんだ!本気で言っている!冷やかすつもりはない、本当に!」

返事はない。

「俺の言い分を最後まで聞いて下さい!」

才機はドアに左手を付け、右手でトントンと叩いた。

「俺は研究者でもなんでもないんだ!俺達はただ地球に帰りたいだけだ。頼むよ。クレイグ博士が唯一の頼みの綱だ」

才機は額までドアに付けて、もう挫折感で完全にもたれていた。

数秒後、ドアは急に開いて才機が危うく中に転がり込んだ。

「今何って言った?」とクレイグ博士は真剣な顔で問い掛ける。

「え?あなたが唯一の頼みの綱···」

「いや、その前」

「えっと、俺達は地球に帰りたいだけ」

「その言葉はどこで聞いた?」

「言葉って?」

「チキュウだよ。どこで聞いた?」

「どこって聞かれても···俺がずっと住んでいた惑星の名前だ」

クレイグ博士は穿鑿するような目で才機の顔をじっと凝視した。

「中に入って」

才機はそうさせてもらい、クレイグ博士はドアを閉めた。研究室は少々散らかっていた。地球儀ルヴィアの、世界地図、星座早見表、望遠鏡、太陽系の模型、様々な備品や資料があっちこっちに置かれたり壁に貼られたりしていた。上下スライド式黒板が二つあって、難しい方程式と訳分からない図形で埋め尽くされていた。クレイグ博士は車輪付きの椅子に座って向きを才機が立っている方向に変えた。

「君がチキュウの人間か?それが本当なら聞きたい事は山ほどある」

クレイグ博士はなるべく平然とした態度を取ろうとしていたが、その顔は彼の興奮を完全に隠し切れていなかった。

「地球を知っているの?」

「その存在だけなら知っている」

「実際に行った事ないってこと?」

「そういう事だ。それこそが私の研究の目標なんだ。なぜ私がチキュウの事を知っているかというと君は二人目だからだ。私が出会ったチキュウ人」

「そうなのか?!」

「ええ。もう随分昔の話だけど。私が十歳の頃だった。あの日、父親に家の裏の林にあった小屋から物を持ってくるように頼まれた。とても小さな小屋で決して人が隠れられるような場所ではない。なのに取りに行った物を手に入れ、家に戻ろうとしたその時、小屋から変な音がした。それで音の原因を確かめる為に小屋のドアをもう一度開けたら人がいたんだ!私と同じぐらいの年の男の子。どこから来たかと問い詰めたら訳の分からない事ばっかり言っていた。そして話しているうちに彼はチキュウという惑星から来たことを知った。とりあえず家に誘ってあげたんだ。でも帰る途中に、現れた時と同様、忽然と消えた。真後ろで私と会話していたのに。言うまでもなく誰にも信じてもらえなかった。むしろ帰るのが遅かったから叱られた。全部まるで昨日起きた事のようにはっきり覚えっている」

思い出話を楽しんでいるみたいにクレイグ博士の目が上に向けていた。そしてその目を落としてまた真直ぐ見るようになると才機を吟味した。

「ま、懐古趣味はそれぐらいにしよう。今度は答えてもらいたい事がいくつかある」

と、クレイグ博士は口元の先に指を絡み合わせた。

「はい、何なりと」

「では、遠慮なく。そうですね···まず最初にいつこのルヴィアに来たか教えてくれる?今しがたじゃなさそうですね。後、どこで出現した?」

「えっと、きっかり言えないけど···一ヶ月前ぐらい···かな。気付いたらトゥリエ森って所にいた」

「そんなに?!あの子がここに居られたは長くて十分程度。なのに君は一ヶ月も。この世界に来る直前の事を出来るだけ詳しく話してくれ」

「来る直前の事?」

「そう。回りの状況、天気、持っていた物、何時だったか、何でもいい」

「んー、夕方の五時過ぎだったかな。天気は···異常だったよね。あの日、どこからともなく嵐みたいなのが発生した。雨が少し降っていて、風も強く、雷が鳴っていた。その落雷によって木が倒れたせいで走ってきたトラックがそれを避けようと、今度は俺達に向ってきた。それで橋から飛び降りて全てが真っ白になった。気がついたらこっちの世界にいた」

「そう言えば『俺達』って言ってましたね。他に何人がこっちに来ている?同時に来たのか?」 

「はい。海っていう、後一人俺と一緒にこっちに来た人がいる」

「そうですか。しかし私が思った通りですね、天気の様子。私の理論、聞いてみる?」

「是非」

「私が立てた仮説ではこの世界、いや、この宇宙は二通りにある。そしてこの二つの宇宙には距離なんてないんだ。宇宙船に乗ってどんなに遠く行っても行き来する事は出来なく、それでいて限りなく近くにある」

「はい?」

「次元ですよ。君のチキュウはこのルヴィアと異なる次元で同時に存在している。ただ、一つ違うのは多分、太陽の周りを公転する軌道が逆だろう。もしかしたらチキュウが自転する方向も。チキュウでは太陽が昇る方角は西?東?」

「東」

「やはり!」

「言われてみれば···こっちでは西から昇るんだよね」

「で、太陽の周りを公転する方向は知っているかな?」

「確か、反時計回りだって学んだ」

「そうそう!そして年に二回、チキュウとルヴィアが同調する時、つまり二つの世界が円軌道でぴったり重なる時に自然現象が行われる可能性がある。私はそれを星合現象と名付けている。その星合現象は主に天候異変として形を成す。でもその異変な天気は前兆に過ぎない。その周辺に開かれる扉のね」

「扉?」

「そう。二つの世界を繋がる扉。その扉の大きさやどのくらいの間開かれるかは分からないけど。毎回変わるでしょう。恐らくそれほど大きくはなく、長い間は開いたままでいられないと思う。数秒ってところかな。でももしその瞬間、扉に入るほどの大きさの物がそこに居合わせたら、もう一つの世界に引き連れて行かれる事はありうる。だが扉が大の大人を入れるほどの大きさになるのが至極まれな事だと思ていっる。その条件を全て満たしてもう一つの世界に移転される確率は万に一つ。君はよほど運がいいのね。いや、悪いか」

「この理論にどれくらい自信を持っている?」

「結構ありますよ」

「これが本当なら凄いよ。その扉を意図的に開く事が出来るの?」

「言っただろう?チキュウに行けたんならとっくに行っていた」

「あぁ、そうか。それにしてもどうやってこんな事を調べたんだ?」

「それを説明すると話が長くなる。それに説明したところでこの分野での経験がなければ直ぐに理解出来るような内容ではない」

「んー、やっぱり?でも本当に凄いよ。ずっと一人で研究してきたんだろう?」

「まぁ、ね。でも一人で達する事が出来た結論だとは言えないかもしれない。完全に詰まった時期はあったけど、情報人が持ってくれた情報のおかげで研究がかなり進展した」

「じゃ、地球の事を知っている人は他にもいる」

「少なくとももう一人が、いや、二人がいる···。誰だかは私の口から言えないけど。でもそれを気にしなくていい。チキュウに帰りたいならそれを手引きするのに一番適任の人はこの私だ。現在はチキュウに返す手立てはないんだが、君の協力があればそれは変わるかもしれない」

「俺に何かが出来る事があったら何でも言って下さい」

クレイグ博士は近くの机からノットを取った。

「ところで、どこで私の研究の事を知った?」

「あぁ、それはケインという人が教えてくれた。ここでの研究者だったのではないかと思っているんだけど。この白衣とバッジだって彼の」

「まさか、ケイン•フォグリ博士?!居場所分かっているの?!」

「え?あー、名字は聞いてなかった。もしかして、結構有名だったとか?」

「有名も何も、あの方は異能者のうみの···あ、いや、何でもない。私には関係のない事だ。さっきのは失言だった」

正直才機は今の話の続きが非常に気になっていたけどクレイグ博士はそれ以上触れるつもりはなさそうだ。

「さて、尋問は続けてもいいかね?」

「どうぞ」

クレイグ博士はノットを開いてペンを用意した。

「チキュウでは太陽暦の一年は何日ありますか?」

後一時間才機は色んな質問で攻め立てられた。うまく答えられる質問とそうでないのも聞かれた。地球の事だけではなく、自分の過去や個人的な質問も色々あった。

「チキュウとルヴィアの歴史は大分違いますね。だが根本的なところは多く共通している。例えば私達が同じグレダン語を喋べるという点もそう」

「グレダン語?日本語の事?」

「そっちではニホン語と呼ぶのか。まぁ、国の名はニホンだと言ったしね」

クレイグ博士は腕を組み、体を後ろにずらして座り直した。

「しかし、凄く気になるのはなんで君がまだこっちにいる。その理由がは全く分からない。宇宙は常に均衡を保とうとする物らしい。どんなにちっぽけな存在でも、もし星合現象によって向こう側に行った場合、それは一時的だと考えられる。居るべき世界に強制的に引き戻される。二十七年前にあの男の子みたいに。一ヶ月もこっちにいるんならルヴィアとチキュウの同期がもう大分ずれている。戻るんだったらとっくに戻ったはずだ。君は否でも応でももうしばらくここにいるよ」

「次の···星合現象を待つしかないってこと?」

「さよう。ま、それまでに何かの大躍進を遂げるかもしれない。今は君から得たデータをまとめたいので今日はもういいかな。どうすれば連絡を取ればいい?」

「住所とかないんだよね。それはちょっと難しいかも」

「でしたら、たまにはこっちに顔を出してくれ。月に一回ぐらいでもいいから。何かが分かったらその時に最新情報を提供する。新たな質問もあるかもしれない」

「じゃ···一ヶ月後にまた来てみる」と才機はドアに向った。

取っ手に手を付けると才機はクレイグ博士に問い掛けた。

「本当に···帰れると思う、俺達?」

「絶対に返してあげるなんて約束はしないけど、そう出来るように善処します。私も行ってみたいものだ」

「ありがとうございます。それじゃ、後はよろしくお願いします」

才機は背中から部屋を出た。そして前を向いたら巡回中の兵の背中にぶつかった。

「あ、すみません」と言って急いで塔の外へ出た。

雲が張り詰めていた空はもうオレンジ色な色調に変えていった。やっぱり日帰りは無理だ。気が進まないが今日はこのメトハインに一泊する事になる。通りすがりの人に安い宿の所在を尋ねて、シルヴァ•メロディという宿屋に辿り着いた。メトハインで一番安い所と言われたけど入ってみるとまだガルドルの宿よりましだった。予想通り、その料金も二倍。チェックインを済ませて才機はさっそく部屋に行った。今日の目的が果たされ、危なっかしい用事も終わった今、才機は気が緩んでこの長い一日でどれほど疲れたかようやく気がついた。ベッドに身を投げ出して目をつぶった。

《このまま明日まで眠れそう》

そして十分以内に次の日になるまで一度も途切れる事のない深い眠りに落ちた。

したがって真夜中、ちょうど誰かの目が部屋に覗けるほどにドアがゆっくり開いて閉まるのに気付かなかった。

翌日、午前四時ぐらいに目が覚めた。真っ先に思った事は

《お腹すいたー》

四時に起きるのはもう何年ぶりだが、用がなければ無用な時間をここで過ごす事はない。問題はこんな時間に営業している店はなかろう。海とケインの所に戻るまでに腹がとても持たない。途中で倒れそうだ。幸いに、チェックアウトした時、フロントで尋ねたら何も用意する事は出来ないが売ってくれる物は幾つかあると言われたのでパン二個、チーズの厚切り、ナッチをありがたく購入した。流石にメトハインもこんな早朝だと通りは人影がまばらである。メトハインのこの面を見るのは初めてで不思議な感じ。いつもはあんなに活気に満ちた都市がこんなにも静かになるもんだ。今は人よりもビルの方が目に入っていて、この都市は建築上も立派に出来ていると改めて思う。誰かと遭遇した滅多な際には挨拶してくれる。異能者に対する偏見さえなかったら暮らすのにいい所だろう。市門を出ると門番だって会釈した。

《これから偉く長旅がまた始まるんだな》


   •••


海はケインと一緒に昼ご飯の片付けをしていた。食器を外の水揚げポンプへ持って行って洗っていたら海の頭がぐいと上がった。

「あ、帰った!才機が帰ってきた」

「ん?どこ?」

「あー、今帰ったんじゃなくて、後少しで」

「分かるの?」

「うん。人の気配が分かるんだ。最初は皆の気配が同じような感じをしたけど、最近は才機の気配だけを何となく識別出来るようになった。···でも、これは···」

「なんだ?」

「いや、なんでもない」

洗い物を終わらせて二人は中に入った。

「なんか、才機が帰ってくるって分かってから顔が一段と快活になったのは私の気のせいか?出かけてから一日半しか経ってないよ 」とケインが言った。

「え?いつもの顔をしているつもりだけど」

「そう?夫が長く続いた戦争から遂に帰ってくるのを知った妻みたいだ」

「気のせいよ」と海がテブルを拭き始めた。

「ふうん。じゃあ、私の見違いだったんだな。可笑しいですね」と誠意のかけらもなく言ってケインが自分の部屋に行った。

ほどなくして玄関のドアが開いて才機が入ってきた。

「おかえり」

「ぁ、ただいま」

「あれ、もう一人は?」

「もう一人?」

「うん。誰かと一緒に来ただろう?」

「いや、ずっとひとりだったけど?」

「え?」

海は目を閉じて首を傾げた。

「変ね。今は誰もいないけどさっきはてっきりもう一人の気配を感じた気がした」

「もしかしてあの狼男か。仕事熱心だこと」

「で、何か分かった?」

「ああ。その前に何か食べる物ない?まじで腹減った」

海は昼食の食べ残りを用意し、食べながら才機は見聞きした事全てを詳細に話した。

「つまり、分かったのは私達がどうやってこの世界に来られた仮説と直ぐに家に戻れないって事ね?」

「うん」

「まぁ、何も分からないままよりはましか」

「仮説はともかく、子供の頃に地球の人に会った話は事実だと思う。地球を口にした途端に手の平を返すような反応をした。彼が会ったという子供が帰られたんなら俺達も帰られる可能性はある」

「でもその仮説が本当なら後五ヶ月ぐらい待たないといけないだろう?それでも帰られる保証は何もない」

「今は賭けるしかない、彼の研究に」

「賭ける···か。最近の私達は運不足だけどね」

「あ、そうだ。これをケインに返さないと」

才機は白衣とバッジを袋から出してケインのドアにノックをした。

「どうぞ」

才機はドアを開けて部屋に入った。

「これ、返します。ありがとうございました。お陰でクレイグ博士と色々話が出来た。一ヶ月後にまた借りたいかもしれないけど」

「あげるよ、それ。私にはもう必要ない物だ」

「そうか」

「あなたが考えている事は分かっているよ。顔に書いてある。『これで信じてもらったかな』と。私の考えている事を教えてもいいよ。信じている訳でも信じていない訳でもない。そもそもそれほど真剣に考えていない。答えは『どうでもいい』。二人がここに来てから私はかなり助かった。真面目で愉快な奴らだ。私ももう毎日が寂しいと思う事はなくなった」

最後に一言付け加えたケインの声はもっと小さなものだった。

「なんならずっとここにいても別に構わん」

「ありがとうございます」

才機は部屋を出ようとドアに向ったが急に止まった。

「実はもう一つ聞きたい事があったんだけど」

「何だ?」

「クレイグ博士と話していた時、ケインの名前を言ったら凄いリアクションを見せたけど、おっさんの名字はもしかしてフォグリ?」

「ええ、そうだよ」

「結構、名高い人だったね」

「かもね」

ケインはこの話に乗る気があまりなさそうなものでこれ以上この件に触れるのをやめようと思ったが自分の好奇心に勝てなかった。

「途中で口をつぐんだけど、クレイグ博士はおっさんが異能者の生みの親って言おうとしたように聞こえたが···それはないよね」と才機が軽く笑った。

ケインは何も言わなかった。

「だってアナトラス現象が原因だったし」

ケインは読めない顔で黙秘したまま。才機は気まずい沈黙の中で突っ立って自分の好奇心を呪っていた。

「事実だったら私の事を軽蔑しますか?」

「···本当···だったのか?」

「そうね。そうとも言えるでしょう」

「でも···アナトラス現象は?ロケットに積んでいた化学物質は?」

「隠蔽ですよ。帝国が作り上げた、事実をもみ消す為のガセネタ」

「じゃ、ロケットの爆発なんか最初からなかったんだ」

「あったよ、ロケット。でなきゃアナトラス現象は誰が信じる?ただし、空だった。積んでいた物は一つだけ。爆弾」

「じゃ···異能者はどうやってこの世に生まれた?おっさんはどう関係しているの?」

「皇帝は軍隊を作りたかった。いつでも手早く身軽に出動出来て、武器持っていなくても高い戦闘力を発揮出来る軍隊。そんな部隊を実現させる為の研究を行う内命が出され、皇帝は随分とそれに投資した。私はその研究を取り仕切った研究員長だった。遺伝学を用いて長い年月をかけて研究や実験に明け暮れた。そして十六年間の末にやっと成果が出始めた。人の遺伝子を極端に変える方法を確立した。その治療を受けたある患者に超人的な能力が現れた。後はなぜ影響を受ける人と受けない人がいるかその理由と意図的に特定な能力を表す方法を突き止める事だけだった。だが、どちらの謎も解き明かせる前に、とある患者の能力が暴走して研究所が多大な被害を受けた。その過程において治療に使うガスの保管装置が破壊されて流失したガスが地上に波及した。酸素と化学反応を起こしやすい気体でね。酸素による化学変化で新しく出来た生成物は今度窒素と化学反応を起こして自己増殖する。後は想像がつくだろう。真実を知っているのはプロジェクトに参加した研究員だけ。クレイグ博士は···まぁ、参加していなかったが、私が研究チームに誘ったからプロジェクトの事は知っている。もちろん、全員口封じされている」

「おっさんは違うの?」

「先に口を割ったのはクレイグ博士。それに私はもうそこの研究員じゃない」

「そう言えば、なんでこんな所に引っ越したんだ?」

「世界に異能者が出てしまった以上対処する手段も必要だ。収拾がつかなくなったら必死に事態を繕おうと今度は皇帝が異能者になった人を全滅させるガスの開発を命じた。当然、異能者について最も知り尽くしている私にその勅命が下った。私達が招いた惨事のせいで罪のない大勢の人を殺害する。集団大量虐殺もいいところよ。そんな物を作って許されるか!研究データを持ち出してそれ以来ここで身を潜んでいる」

「わざわざ持ち出さなくても破壊すればよかったのでは?」

「なんだかんだ言って、私の生涯を通しての研究だ。この手でそう簡単に破壊する事は出来ない。それにもし皇帝がその気になれば治癒法を見つけるのにこのデータは不可欠だ」

ケインはクローゼットに入って壁から石を取り外した。その隠し場から物凄く厚いファイルを出して机に投げ出した。

「今でもたまにこれを見直して、異能者の変化された染色体をどうにか元に戻す方法を見出そうとする」

そのファイルを見ていたケインの目に嫌悪が映っていたのに、彼の手が同じファイルを大事そうにさすっていた。

「勅命とは言え、私はいとわず引き受けた。むしろそれが私の存在意義だと確信し、伝説を残したくて研究を成功させる為に精魂を込めた。その結果が今の世の中。笑える。

これで私のいきさつが分かった。どう?世界規模の悪党と呼ばれるに足りますか?」

ダイニングから海の声がしてきた。

「こっちの答えはも同じですよ。どうでもいい。私達は過去のケインがほとんど知らない。知っているのは何処の馬の骨とも知れない私達を迎え入れて、今でも世話になっているケイン。そんなケインには感謝している。それでいい」

「まぁ、そういうこった。俺は別におっさんを責めていた訳じゃない。ただ気になっていただけ。真実を知る数少ない人としてちょっとだけ鼻が高くではあるけど」

「そっか」とケインが言って椅子に座った。

「今日もまたこのデータを見直すか」


   •••


それから三日後。朝食の片付けが終わったらケインは三トレイキを才機の手に落とした。

「これは?」

「たった今パンを切らした。二人ともドリックに行って買ってきてくれないか?」

「でも三トレイクって、一体どれだけ買えばいいの?」

「二キロぐらいかな。残ったお金でお前達の服を買っておいて」

「服?」

「今着ている服しか持ってないじゃない。池で入浴する時にその服も洗っているだろう?今は夏の真っ盛りだからいいんだけど、涼しくなったらそうはいかない」

「確かにそうね。どう、海?買い物行くか?」

「行きたい」と海が椅子から立ち上がって申し訳なさそうな目をしていた。

「二人はドリックに行くのが始めてけど大丈夫よね」

「ああ。店の中で海が興奮して台風を起こさない限り」

「しないわよ!」

「じゃ行っておいで」

「行ってきます」と二人が出かけた。


ドリックに着いたら先にパンの購入を済ませてから二人は衣料品店を探し出して中を見回していた。

「俺、ファッションセンス全くないから任せるよ」

「知ってる。大丈夫。いい物を見繕ってあげる」

海は並んであった服を一つずつ調べた。

「ね、このシャツとこのズボンはよくない?ほれ、試着室はそっち。着てみて」

着替えて試着室を出たら海は両手に服を抱えてそこで待っていた。

「お、いいじゃん!やっぱり私の目に狂いはなかった。はい、今度はこれ」と持っていた服を差し出した。

「え?また?いいって言ったじゃん」

「当然。才機に一番似合っている服を選ばないと」

海は才機に後三着を着てもらってから次は自分の服を探し始めた。最初の衣装に着替えたら才機の前で回転してみせた。

「どう?似合う?」

「似合うけど···なんだ、その帽子?」

「何って、 超可愛いじゃん」

「そうじゃなくて、別に最新流行を作り出そうとしている訳じゃないだろう?金を散財しないようにしよう」

「でもこの服にもこんなに合ってるのに〜。この黄色の色合いがぴったり」

「だめだ」

「ぶー。まぁ、才機の言う通りだけど」と海が帽子を取って元の所へ戻した。

「今度はこれを着てみるね」と海はまた試着室に入った。

才機は椅子に座って考え事をしていた。さっきはああ言ったけど、この世界に来てから海は初めて純粋に楽しんでいたようだ。普通ならこんなささいな事をいつでも楽しめるはずなのに毎日ケインの所で我慢して文句一つ言わない。自分が今ちょっと片意地張り過ぎかなと思い始めた。と、才機の一連の考えは急に海に邪魔された。

「で、こっちはどう?」

「ん?ああ、似合ってるよ」

海は後三回違う衣装を才機に見せた。

「うん、いい感じ」

「ちょっと、毎回あっさり言ってるけど真面目に考えてるの?」

「考えてるよ」

「どうだか」

「だってさ、そもそも俺は意見を聞かれるのに向いていないだ。海に対して偏見持ってるから俺の目では何を着ても似合うんだもん。モデルがいいんだからしょうがない」

「な、何それ?役に立たないじゃん」と海は試着室に入った。

「次はあの黒いのを着てみるんじゃなかった?」

海は素早く黒いワンピースを取りに行ってまた直ぐに試着室に撤退した。そのドレスについても結局また才機の意見を聞いたけど。

「さ、次行こう」といつもの服を着て海が試着室から出てきた。

「次?気に入ったのはなかった?」

「そんな事ないけどもっといい物が見つかるかもしれない。他の店にも寄ってみなきゃ。買物の基本でしょう?」

結局、全部で四軒回ることになった。

「うん、才機のはこれで行こう」

「お前は?」

「私は···やっぱ最初に行った所にあったセットがいいかな」

才機は海が選んだ服を店員が立っていたカウンターへ持って行った。

「これをお願いします」

次は海の欲しがっている服がある店に戻って海が先ほど試着した黄色いセットを買った。荷物を運んでいる才機と海が少し歩いたら、海が急に止まって周りをあっちこっち見回した。

「どうした?」と才機が聞いた。

「あそこに寄って行こう」と海が見つけた衣料品店を指差した。

店のドアの前まで行くと才機はシャツを後ろから引っ張られ、海に引き止められた。

「あの、ここで待っててくれる?」

「なんで?」

「買い忘れた物があるけど、才機がいると···ちょっとあれなんで」

「?」

「だから、見られる恥ずかしいよ」

「何が?」

「もー、鈍い奴だな!女物よ」

「あ、そ、そうか。じゃ、ここで待ってる」と才機は短い階段を下り、店に背中を向けて海を一人で行かせた。

海がもう店に入ったと思ったら、次は肩越しに手の平が才機の視界に入った。

「お金」


海は最後の買い物を終わらせて外へ出ると才機の姿はなかった。辺りを見回して見当らないと思ったら才機の呼びかけが聞こえた。

「こっちだ!」

右から才機が軽く走ってきていた。

「いた。あんたのも買っておいたから」

「俺のは見ていいのか?」

「どうせ男子の下着なんて半ズボンと大して変わらない。何、それ?」

海は才機が先ほど持っていなかった袋を見ていた。

「あぁ、これね。まぁ、おっさんがくれたお金で札びらを切るのは良くないけど、俺達の金なら帽子ぐらい買ってもいいかなと思って」

才機は手で首筋をさすりながら目を逸らして海に袋を渡した。

「···ありがとう」

「さぁ、帰ろうか」

「ね、せっかくだから、帰る前にもう少し回らない?」

「ん?ああ、そうね。いいよ」


   •••


昼寝の真っ最中のケインはドアにノックする音に目が覚めた。三回目で自分をベッドから引き摺り出して応対に出た。半睡状態でドを開けた。

「今さらノック必要ないだろう。今いい夢」

ケインの顔が真っ青になって眠気が一気に覚めた。

「久しぶりです、フォグリ博士」

「ルガリオ隊長···なんでここに?」とケインは辛うじて口から発した。

「またまた。言わなくてもご存知でしょう。随分捜しましたよ、博士。もうとっくに海でも渡ったのではないかと思いましたがこんなに近くに隠れていましたね。まさに灯台下暗しです」

ルガリオは愛想よく笑っていたんだが、それが余計に心の平静を失わせる。

「ですから、何の用?私はもう皇帝の研究員じゃない」

ケインの隊長に対する不信は明らかに顔に出ていた。

「あくまで白を切るつもりですか?いいでしょう。乗ってあげますよ。二年前、あなたは異能者に対処する為の兵器の開発を命じられました。ところが、何らかの理由で義務を放置し、姿を消しました。それだけでも重大な問題だというのに、更にあなたの研究に関するデータはほぼ全て無くなっていました。博士、そのデータはどうなったかご存知ないのですか?」

「そんな物とっくに処分したんだよ。皇帝がやろうとしていた事は過激過ぎたんだ」

「残念ですがそれを決めるのはあなたではありません。しかし大事なデータを処分したとは。その可能性もありましたね。ですが私も、陛下もそうとは思えません。博士ほど研究熱心な方がそう簡単に十六年間の苦労を台なしにするとはとても信じ難いです」

「そう信じたいなら勝手にそうすればいい。でもない物はないんだ」

「博士よ。昔の話です。寛大な陛下はあなたを罰するつもりはありません。データさえ渡せば直ぐに先ほどのいい夢の続きを見させるのでここは協力して頂けないでしょう?」

「くどい!持ってないと何回言わせるつもり?」

ルガリオ隊長の笑顔はついに消えた。

「入らせてもらう」とルガリオはケインを押しのけて中に入った。

「みすぼらしい所ですね」

ルガリオは指をパチンと鳴らし、後三人の兵士が家に入った。

「徹底的に調べろ」とルガリオが命じて、三人はてきぱきと命令を遂行した。

「おい、何をしている?!」とケインが抗議した。

「ちょっとした家捜しですよ。何、こんな小さい家なら直ぐに終わるさ」

「やめろ!」とケインが兵士を止めに行こうとしたが、ルガリオの手がケインの肩を掴んだ。

「年寄りの冷や水は止した方がいいですよ、フォグリ博士。ここで大人しくするのは身のためです」とルガリオは力を入れてケインの肩を強く握った。

ケインは顔をしかめて、ひざについた。もう、止められない。

「どうしてここが分かった?」と床をじっと見るケインが聞いた。

「私の配下にいる者は優秀からです。宮殿で若者にしてはかなりセキュリティレベルの高いバッジを持っている青年を部下が見かけた。異なるレベルのバッジの見た目は殆ど変わらないから普通は気付かないでしょうが、あの青年にどこから見覚えがあったそうです。不信に思ったので声をかけて、話しているうちに思い出した。この前、街で騒動を起こした異能者でした。私がその報告を受けたらなぜ異能者が研究所に忍び込もうとしている理由を知りたくて兵士を探りに行かせました。すると思わぬ発見をしました。彼はフォグリ博士と関係のある人だと漏れ聞きました。この人を利用すれば博士の行方が分かるかもしれないと思い、彼が宮殿を去った後、尾行を専門する部下をつけさせてもらいました。期待以上にうまく行きました」

そのうち兵士がルガリオに報告しにきた。

「隊長、それらしい物は見つけられません」

「何をやっている?!ちゃんと捜しているのか?!」

ルガリオは剣を抜いてダイニングルームの椅子を真っ二つにした。それから中身を調べてもう一度椅子を断ち割った。

「どこに隠してあるか分かったもんじゃない!この家をバラバラにしても構わん!絶対にあるからあのデータを探し出せ!」

「はっ!」

ケインは手を胸に当てて、呼吸が少し粗くなった。探索が前より激しくなっていた。何もかもが破壊されて、用のないものは窓から放り出された。まるで家の中に強烈な竜巻きが発生したかのようだった。

「博士、この茶番を早く終わりにしたい。私とて忍耐強い人ですがそろそろ我慢の限界です。あなたの友達は今留守にしているみたいですけど、いつ帰りますか?彼を少々痛

めつければあなたは協力する気になるかしら」

「彼は······関係······ない」とあえぎながらケインが言った。

ルガリオはしゃがんでケインと肩を組んだ。そして冷淡な目でケインの顔をしっかりと見た。

「そうでしょう?あなたの強情さの為に彼が酷い目に遭ったらあんまりじゃないですか。私もそういうのあまり好まないけど効果的ですよ、これが。ですから、教えて下さい。盗み出したデータはどこですか?」

その時、大きいなファイルを持って兵士がルガリオの所に来た。

「隊長、壁の細工された場所にこんな物が」

ルガリオはファイルを手に取って目を通した。

「うん、これですね。よかったです、博士。これで誰もが傷付かずに済みます。さあ、引き揚げるぞ!」

兵士達は一列縦隊で家を出た。

「顔色が優れぬようなのでゆっくり休んで下さいね」とルガリオがまるで本当に心配するような口調で言って立ち去った。

ケインは這って自分の部屋に行った。机の残片から薬を捜したけど見つからなかった。もしかしたらこの乱雑になった部屋のどこかにあるかもしれないが、仮にそうだとしても捜す力がどんどん無くなって行く一方だ。


   •••


「あれ?」と家が見えてきたら海が言った。

「どうした?」

「家には誰もいないようだ。ケインはどこに行ったかな」

「釣りにでも行ったんじゃない?」

「昨日行ったばかりなのに?」

ほどなく二人は家に着いてドアを開けた。

「?!な···」と才機は呆然自失して荷物を落とした。

「一体何があった?!」と海は先に中へ入った。

才機はまだ目の前の光景を消化しようとしていた。

「きゃあああ!」

才機は海がいたケインの部屋の戸口に駆け付けた。

「どうした?!」

海はただ手で口を覆ってじっと立っていた。才機は彼女の目線を辿って横たわっているケインが目に入った。

「おっさん!」

急いでケインの所に行って頭を起こした。

「おっさん!おっさん返事しろ!」と才機はケインを揺すった。

次は脈をとって鼓動を確認した。

「死んでる」


海の髪は風に揺れていた。才機は両手の拳を握っていた。二人は家の裏で先ほど建てた木材で出来た十字架の前で立っていた。

「誰がこんな事をした?」と海が囁いた。

後ろから声がしてきた。

「へー。死んでたのか、あの爺さん?」

振り向くと狼男だった。

「お前か?!お前がやったのか?!」と才機が彼の方を向いた。

「冗談。何で俺が?っつうか聞け。俺も知ったばかりって言ったろう」

「じゃ、誰がやった?この辺りを見張ってたんだろう?」

「さぁ。見てたかな」

「ふざけやがって、この狼男!見たのか?!教えろ!」と才機は彼の胸ぐらを掴んだ。

「狼男って言うな。俺の名前はディンだ。それにこれは人に頼みをする態度か?」

才機は少しの間ディンを正視して彼の胸ぐらを離した。ディンは自分のシャツをきちんと直した。

「別に教える義務はないけど見たよ。あれは近衛隊だった。隊長まで自らご出馬」

「近衛隊?なんで近衛隊が?」と海が聞いた。

「そんなの知るか。見たままを言っただけだ」

「じゃ、あいつらはどこに行った?」と才機が聞いた。

「さあ。装甲車で来たからその轍を辿れば見つかるんじゃない?」

「轍?」

「そこら辺にあるだろう」

才機は家の中に行った。

「もしかしてこれで二人の居場所が無くなって、また誘おうと思ったが彼は今気を取られてるみたいで俺の話を聞きそうもない。じゃ、ね」

まもなく才機が戻ってきた。

「あいつは?」

「行っちゃった」

「やはりケインの研究データが無くなっている。あれが目的だったんだろう」

「でもなんで今さら?ケインがここにいるって事知らなかったはずだし」

「クレイグ博士は無関心だったから彼が喋ったと思わないけど、どういうわけかケインと俺に関係があると感付かれて後を付けられたとしか思えない。研究室に盗聴器が取りつけられてるかも。くそ!俺のせいで」

二人はしばらく押し黙っていた。

「俺···ケインの研究データを取り戻す」

海は才機の顔を見て分かった。説得して考え直させるのは無理。だから何も言わずに黙った。黙って付いて行った。


   •••


車の跡を辿っていると二人はまたドリックに来る事になった。町に入れば車の轍はないが装甲車には大抵の人が気付く。ちょっと聞き込みをしたら装甲車が容易に見つかり、小さな酒場の前で止めてあった。才機が酒場のドアまで歩いて行くと店員に迎えられた。

「お客様、申し訳ありません。当店は現在貸し切りでございますが、後ほどまたいらっしゃって頂けまれば喜んでお持て成し致します」

海は才機の腕を引っ張って離れた所へ連れ去った。

「まさかここで何かを始める気じゃないだろうね」

「いや。ちょっと連中を見てみたかっただけ。町を出よう。メトハインへの道で奴らを待つ」

やがて酒場での飲み会が終わって近衛兵達はメトハインを目指して出発した。そしてドリッキを去ってから五分後。

「隊長、前方に誰かが道を遮っているようです」

「ん?あれは···車を止めろ」

才機の三十メートル先に装甲車が止まって、ルガリオ隊長とその手勢が降りて腕組みをしている才機の所まで歩いて行った。

「おい、邪魔だ!何者だ、お前は?」と兵士の一人が問い掛けた。

「ただのしがない異能者だよ」

「何だと?!」

「彼の言った通りですよ。あそこの女の人は知らないと思いますが」とルガリオは道端の方でちょっと離れていた海をちらっと見てからまた才機に注目した。

「私の事を覚えていますかね?」

「顔はね。でもそんな事より、なんでケインを殺した?」

「ああ、フォグリ博士への案内ご苦労でした。君のお陰でずっと捜していた物をようやく奪回出来ました」

「それなんだけど、返してもらう、ケインの研究データ」

「返すだと?あのデータは元々帝国の物です。それに君にとっては何の価値もないと思いますが」

「ケインはそれがあんた達の手に渡って欲しくなくて持ち出したんだ。俺もそれでよかったと思う。今直ぐに返してもらいたい」

ルガリオは笑った。

「実は見たところ思ったほどあまり役に立ちそうにないんです。そんなに欲しければ差し上げてもいいでしょう」とルガリオは装甲車の中から封筒を出して才機の方で投げつけた。封筒は才機の後ろにぱたっと落ちて埃が立った。

「どうぞ」

最初は躊躇したが、才機は後ろを向いて封筒を拾おうとかがんだ。

《異能者ふぜいがこの私に指図するなど笑止千万。身の程を思い知らせてやる!》

ルガリオは剣を鞘から抜いて柄を才機の後頭部に力いっぱい振り下ろした。

ガキン!

ルガリオと近衛兵達は全員後ずさりした。無論、才機はこれを予想していた。ルガリオに背を向けると同時に変形を起こしたんだ。何も感じることすらしなかったかのように見せかけてそのまま平然と封筒を拾い上げた。

「やけに軽いですね、これ。あのデータが入っているとは思えない」とルガリオを真っ直ぐ見た。

封筒を投げ捨てて才機はルガリオの胸ぐらを掴んで彼を持ち上げた。

「今日までこんな力があってこれほど嬉しいと思った事はない。非常に気になるんだ。実力行使が通じなかったらお前みたいのはどうするのかな?」

口調こそ本当に興味津々という印象を与えるが、才機のルガリオを目には何の感情を見出せない。

「お、愚か者め!自分の周りはどうなっているかも知らないで。貴様の連れ

は私の部下が捕らえている。私に何かがあったら彼女の命はないと思え」

才機はルガリオと供に全身後ろを向くと海は両方の腕が兵士に掴まれていた。才機は溜め息をついた。

「なるほど。それが答えか。まぁ、別に驚きやしない。お前みたいな卑怯者がやりそうな事だ」

「フンッ!ほざいていろ。今直ぐに降ろせ」

「海、こいつらの遊びに付き合ってやることないよ。やっちゃえ」とずっとルガリオの目を見て才機が言った。

「うわあああああ!!」

二人の兵士は海の体から放たれた風に吹き飛ばされた。ルガリオのうぬぼれた笑顔が跡形もなく消えた。

「人質作戦は失敗だな」と才機が言った。

「己!帝国を敵に回す事はどういう事なのか分かっているのか?!後悔するぞ!」

「お前は目が見えないのか?俺達は異能者だ。既に帝国に嫌われてるよ」

もう一人の兵士は装甲車の方へ走った。彼は中に入ってアクセルを思い切り踏み込んだ。隊長への反動を最低限にする為に装甲車の左角で才機に突っ込もつもりた。

「危ない!」

海は才機に警告したけど才機は横目で装甲車を見て突っ立っただけ。装甲車は高速で才機に突っ込んだ。その結果、鋼鉄の柱に衝突するように装甲車の前部が凹んで右の方に弾かれた。そして才機もまた鋼鉄の柱らしく割とよく踏ん張った。少し前にのめって後ろから誰かに蹴られた程度のようだった。才機はもう一つの手をルガリオの頭の上に載せた。

「正直、俺はこの能力にはまだ馴染んでいない。力をどれぐらい入れたら頭蓋骨は割れるんだろう?ちょっと計りたいからゆっくりやろうね」

「分かった!分かった!データをあげる!君、ファイルを持ってこい!」

言われた兵士は装甲車からファイル持ってきて才機に渡した。

「本当はケインを殺した償いとしてお前をぼこぼこにしてやりたいが勘弁してやる」

「殺してない!確かに出た時具合は悪そうだったけど殺してはいない!」

海は歩いてきてルガリオを未だに持ち上げている才機の腕に手を添えた。

「思ったんだけど、ケインに外傷はなかった。多分、この人が殺したんじゃなくて、あの発作が起きて薬を飲めなかった。それで···」

「でもこいつらが原因ってことに変わりはない」

才機はルガリオを数秒見てから落とし、二人はもと来た方向に歩き始めた。

「あ、そうだ」と数メータル離れたところで才機が言って体をルガリオ達に向けた。

「俺達をぽかんと見とれている暇があるなら、運転手の生死を確認したほうがいいんじゃない?動いていないみたいけど脳震盪で済んでいればいいドリックで診てもらったら?」と、才機は装甲車の残骸を指差して海に追い付いた。


   •••


「取り返してやったぞ」と才機はケインの墓場の隣の土を軽く叩いた。

「大分深かったけど、そこに埋めて大丈夫?彼らに見つからないの?」

「ケインが死んだ今、もうここには用はないはず。それに向こうは俺達が持っていると思っている。大丈夫だろう」

しばらくしたら才機は家を見た。

「ここにいるのは今夜で最後にしよう?」と才機が言って家の方へ行った。

「才機、あんた前から少し左足を引きずって歩くようになったけど、やっぱりあの時、効いたんじゃない?」と海はま眉をひそめた。

「平気よ、これぐらい」

「なんで避けなかった?」

「あいつに心の底から味わって欲しかった。完全な無力さを。おっさんが感じたはずの絶望。それぐらいやらなきゃ気がすまなかった」

「ひょっとして、内心では彼を···殺したかった?」

才機は真意を探るような目で海の方を見た。

「いや、心配するな。心がそこまで闇に落ちた訳じゃない」

海を安心させようと才機は少し笑って見せた。

「なんか、あの人を威嚇していた時の才機の顔、あんな顔を見たのは始めてだから···」

「らしくなかったか?ごめん。もののはずみでつい自分を忘れちまったみたい」

「ううん。謝らなくていい。ケインの敵を討つの才機一人に背負わせたもの。批判されるいわれはない」

「それは違うよ。一人でやりたかったんだ。海をそういうのに巻き込みたくない」と才機は家の中に入った。

今夜は最後というのに二人は何となく散らかった家を片付け始めた。

「やっぱりドリックに戻るの、明日?」と海が聞いた。

「もともとそういう計画だった。町の様子は普通だったし、もう大丈夫だろう。皆が特に警戒していたようには見えなかった」と才機は釜をかまどの上に戻した。

「うまくいくかな。ドリックも駄目になったら他に行く当てはなくなる」

「いざとなったらここに戻る選択肢はある。でも今は出来るならここを離れたい」

「うん。今までに暮らしてきた家と違うよね」

その夜、中の羽毛が半分床にばらまかれたマットレスを二人で共有して寝た。


次の日、ドリックに赴く前に最後にもう一度ケインの墓標の前で冥福を祈った。それが済んだら才機ほぼ満杯になった雑嚢をひょいと背負って海と一緒に出発した。ドリックに着くと早速就職活動に入った。景気が良さそうな大きい酒場のマスターに人手が足りているか聞いてみる。

「悪いが今は間に合ってる。新入りが二人が入ったばかりだし」

「そうですか。ありがとうございます」と才機が言った。

今は午前中だからそんなに客はまだ来ていない。老人が数人あっちこっち新聞を読んだり、コーヒーを飲んだりしていた。でも内装から判断するなら商売が繁盛しているようだ。

「これからちょっと別行動取ろうか?探す範囲を広く出来る。二人だと雇うのに抵抗がある所もあるかもしれないし」と才機が提案した。

「じゃぁ、後でここで落ち合う?」

「そうね。ニ時間後にこの辺りで合流という事で。もし何か見つかったらもう一人必要ないか聞いても損はないだろう」と才機は手を振って先に酒場を出た。

約二時間経過したら先に帰ったのは才機。店はお昼を食べに来た人で一杯だった。待ち合わせ場所にあった開いているテーブルに座って海を待った。まもなく海が来るのを見ると立って腕を振った。

「やっぱりどの世界でも人生は甘くないな。初日にそう簡単に仕事を見つけられると思ってなかったけど。海はどうだった?」と海が席につきながら才機が聞いた。

「一つだけ、仕事が提供されたけど···」

「え?やったじゃん!何の仕事?」

海は目を逸らして赤面した。才機は何となく海がどんな申し出をされたか見当がついたのでせき払いをして速く話を進ませた。

「んうん、とにかくくじける事はない。お昼でも食べて気を取り直してまた探そう」

その時、隣で二人の男が飲んでいたテーブルにもう一人の男がついて来た。

「なぁ、また近衛兵が町に来ているぞ」

才機も海も聞き耳を立てた。

「またか?」

「今度は勧誘してるみたいだ」

「勧誘?もう十分間に合っているはずだが」

「ま、勧誘って言っても臨時だけどな。どうやらメトハインで誰かが子供を拉致したんだ。近衛兵がその人をここまで追い詰めて来たって話だ。町の北面の家に立てこもっていて、捕まえるのを協力してくれる人を募集してるってわけだ」

「たかが誘拐犯を捕まえるために?近衛兵も地に落ちたもんだな」

「それが、相手は異能者って噂だ。それに家には色んな罠が仕掛けてある。六人のうち二人は既に負傷したそうだ」

「罠?」

「ああ。人様の家に侵入した訳じゃなくて、本人の家らしい」

「へー。北面の住居といえば金持ちばっかりじゃねか」

「誰かに援軍を要請に行かせたんだけど、子供に何かが起る前に出来るだけ早く救出したがっている」

「それで捨て駒が欲しくなった訳だ。めでてぇ話だ」

「せめてただでやってくれとは言ってないみたいけど。罪人が閉じこもっている部屋への道を確保した者に十五トレイキ、その上で検挙するのを手伝ったら二十トレイキ」

「坊主には悪いけどやらねぇよ。金があっても命がなきゃ意味ないや」

「もし死ななくてもどうせそのお金は医療費と入院費の足しになるのが落ちだ」

才機の目が海の目に向いた。二人は一言も交わさなかったが、顔の表情を通じてこういう会話をした。

「聞いたか?」

「まさか、やるの?」

「やる」

才機は椅子から立ち上がって酒場を出た。海はその後について行った。

「いい?無茶はするなよ。罠は大丈夫だろうけど、その異能者とやり合ってやばくなったら近衛兵に任せておいて」と海が言った。

「分かった。でも大丈夫な気がする。そんなにやばい相手だったらちゃっかり罠の向こうで隠れてないと思う」

「だといいが」

北の方に行くと確かに家からはもっと豪華な感じがしてくる。どの家も大きくて二階以上あって塀を巡らせてある。この拉致事件はどの家で起きているのかは誰かに聞くまでもなかった。正面に傍観者が雑踏している家に違いない。その家の表玄関の所で四人の兵士は人が近付き過ぎないように群衆を制止していた。才機と海はその人波を押し分けて近衛兵の前に出た。

「だからここから先は立ち入り禁止だ!」

「違う、俺達はこの件の加勢に来たんだ」と才機が言った。

「お前が?」と兵士が頭からつま先まで才機をよく見た。

「ほとんど子供じゃないか」

「腕には自信がある」

「これは遊びじゃないんだぞ。中には色んな危険な罠が仕掛けてある。俺達はもう二人が酷く怪我されている。下手をすれば死ぬよ」

「危険は重々承知している。任せて下さい」

「言っておくがあいつが閉じこもっている部屋まで辿り着けないと報酬は出ないよ?」

「分かっている」と才機が言って、海と一緒に家の方へ歩いた。

「レイナドの装備を持ってきて」とさっきの兵士が仲間に指示を出した。

才機は家の三メートル前で止まって家を見上げた。

「どう?どこにいるか大体分かる?」と才機が海に聞いた。

家をしばらく見てから海は答えた。

「二階。こっち側の角」

「角部屋か···今度は海にもやってもらいたい事があるかも」

まもなく上半身を守る為の防具と兜を持って兵士が才機の所へやってきた。

「多少大きいだろうけどこれを着けておいて。何もないよりはましだ」

才機には特に要らなかったけどこういう状況で断るのも可笑しいので取りあえず着けておいた。

「最初の二つの罠はもう作動したから鉄球の所に行くまでは心配ないかと思うが、その先に何が起こるか分からん。くれぐれも気をつけてください」

才機はドアを開けて敷居をまたいだ。真っ先に目を引いたのは直ぐ目の前の、間に一メートル強置かれた二つ飾ってあった鎧。その鎧は向かい合っていて、右の方は胸部分の前に剣を上方に真っすぐに持っていた。だが左の方は剣を横から振った後の体勢になっていた。そして刀身には赤い血痕がついていた。一人はこれにやられたな。再作動するように仕組んでいないみたいけど、一応二つとも押し倒してから奥へ進んだ。三人の兵士は家に入って、入り口で様子を見ていた。次に目に止まったのは階段の手前で天井から鎖にぶら下がっている鉄球。バスケットボールの二倍の大きさで、まともに食らったらたんこぶでは済まない。海によると犯人は二階にいるらしい。ひとまず二階に上がろうと思って才機は部屋の中央にある階段の手すりに右手を置いて最初の一段を踏んだ。するとその段が少し凹んで、階段の左側を形成する壁にあった四つの小さなハッチが開いて、それぞれに隠された銃口が姿を現した。階段の方に向けられた四つの銃が一斉に発射して煙を立てた。見ていた兵士は、またしても犠牲者が出たか、しかも早過ぎると思っていたところで驚いた事に才機はまだ立っていた。

「なんて運のいい奴だ。全部外したか?」と兵士の一人が言った。

もし誰かが確かめようと思ったんたら、反対側の壁に三つの穴しか開いていない事が分かる。二つ目と四つ目の間に開いているはずの穴はない。その弾はつぶれていて床のどこかに落ちていた。才機は銃を一つずつ抜き取って無造作に床に放り投げた。

《なんだこの家は?今度はお約束のでっかいとげとげ鉄球でも階段に転がり込んでくるのか?》と思いつつ才機はその階段を上った。

そして最上段に辿り着く寸前に踏んだ段がまた凹んじゃった。自分の予感が的中すると思って身構えたけど鉄球はとげとげのも、滑らかなのもすら来なかった。代わりに、目の前に来たのは二階の床からぱっと出て来た三つの小型クロスボウが放った矢だった。三本のうち、真ん中の二本目が才機の胸に命中した。

「おい、大丈夫か?」と兵士の一人が大声を上げた。

「ああ、平気」と才機は二本の矢を防具から引っこ抜いて投げ捨てた。

「浅かったか。あの防具を渡しておいてよかった」

本当はその防具がやすやすと貫かれた。

遂に二階に辿り着き、右に曲がって割と狭い廊下に入った。そして六歩も歩かないうちに、天井の仕切った部分から両刃鎌の振り子が落ち、弧を描いて才機に向ってくる。反応する時間が殆どなく、もろに胃に受けた。才機は自分の胃に当たった刃を見てから上を見てどういう仕掛けかを確認した。分かったところで鎌の振り子の後ろから出て先へ進んでまた右に曲がった。才機を見失った兵士達は階段を上がって廊下に入った。背中を壁にし、横歩きしながら惰性でまだ少し前後に揺れている鎌を慎重に通り過ぎた。

「かわしたのか、これ?」

「凄い反射神経してるんだ、彼」

才機が右に曲がるのを見た三人はまた追い掛ける。本人は今廊下の突き当たりにある分厚そうな鋼鉄の扉に向っていた。その扉の覗き穴が開いて、誰かの目が廊下を覗いた。

「あれかな、誘拐犯が立てこもっている部屋。よし、これからは我々が犯人の確保に移る。行くぞ」

三人とも才機に追い付けようと廊下へ進んだ。だが次の瞬間、その意気込みと供に才機の姿があっという間に消えた。兵士達は立ち尽くしていた。目の前で圧搾機みたいに天井が凄い勢いで落ちた。こうして見ると、落ちた天井の部分の正体は厚さ六十センチの鋼鉄厚板だと分かる。その厚板はそれに見合った太いピストンに繋がっていて、ピストンに結び付いている沢山のでかいケーブルが天井の奥から吊るされている。厚板と床の間に一センチの隙間もなかった。才機は完全に粉砕された。

「なんて悲惨な最期だ。直ぐそこだったというのに」

「くっそ!あれをどうしのげって言うんだ?!」

次の命知らずに挑戦するようにその大きい圧搾機はゆっくりと上がり始めた。顔を半分背けながらも兵士達はグロテスクな光景を目の当たりにする覚悟をした。

「ちょっと」と兵士の後ろから声がしてきた。

誰かが通りたがっているらしい。

「ホキンズは何やってんだ?ここは立入りき」と兵士が言い始めたが、振り向くとそこに立っていたのはぺちゃんこになっているはずの才機だった。

「お前···一体···」とその兵士が才機の屍があったはずの場所を見たら床には卵形の穴しかなかった。

もう一度才機を見るとさらにショックを受けた。よく見ると才機の顔は異常なほどにつやつやしていた。異能者だった。兵士達は道をあけてくれたのか、それとも単に才機から遠ざかったのか分からないけど通れるスペースが出来たので通らせてもらった。圧搾機の手前で止まってさっき落ちた穴の向こうを見下ろした。先ほどは完全に不意をつかれて、いつの間にか一階に戻って尻もちをついていた。才機は兜を取って穴の方へ投げつけてみた。そして獲物を逃さんと天井が一瞬にして落ちてきた。天井が上がると兜は床に埋め込まれていた。立っていられるだけのスペースが出来たら才機は圧搾機の下に飛び込んだ。今度は足を踏ん張って押してくる厚板を両手で受け止めた。それでも片膝つかされた。その膠着状態は数秒続け、才機の下の床板がみしみしと割れる音がして足はちょっと沈下した。ゆっくりではあるが才機は一定のペースで立ち上がり、圧搾機の方がずっと嫌な音をしていた。物凄い圧迫力によって歯車などに重過ぎる負担が掛けられる。最後に大きいな壊れるような物音を立てて圧搾機の断末魔が終わった。厚板はまだ天井から少し突き出ていたが、もう動く事はないだろう。最後の五メートルぐらい罠が仕掛けられていないことを願って才機は再び鉄の扉へ向った。扉の前で止まったら、ずっと覗き穴から見ていた目の持ち主が喋った。

「異能者のお前がなぜ近衛兵の味方をしているか知らんが置き手紙を残したはずだ。この子を返して欲しければ父親が直々に迎えに来るのが条件だ。期限は後十二時間だ。言っておくがこの扉を叩き壊して無理やり入ったら、坊やの安全は保証出来ない。一応人質だからね」

その男は脇に寄って椅子に縛り付けた男の子を見せた。次にナイフを見せびらかして覗き穴を閉めた。

「悪い。許してくれ。許してもらえないだろうけど」と才機が言った。

「別に謝る必要はない。父親をこっちに送ればそれでいい」と扉の向こうから返事が来た。

「いや、あんたじゃなくて、そこの子に言ったんだ」

ガン!

「おい、なんのつもりだ?!」

「何で俺が近衛兵の味方をしているか知らないって言ったな。あんたさえ突き出せばこっちに金が入るんだ。生死関係なくね。あんたのも人質のも。賞金首はそういうもんだ」

ガン!

「ばかな!おどしじゃないぞ。この部屋に一歩でも足を踏んでみろ。死ぬよ、この子」

ガン!

「だから、今謝ったっろ」

ガン!

扉の周りの壁にひびがいくつか入ってきた。

「いいのかよ?!父親さえ来れば解放してやるんだ!お前のせいで殺されちまうぞ!」

ガン!

「いい訳ないだろう。でも俺も必死なんだ。どうしても金が必要だ。そして早くかき集めないと俺と俺の大切な人が殺される」

ガン!

ひびが広がっていく。

《ちくしょう。捕まってたまるか。どうする?またこの子を眠らせて連れ出すか?いや、ここまで連れてくるのは簡単だったけどこんな荷物を引きずって逃げ切れると思わない。異能者が絡んできたのは誤算だった···。仕方ない。ここは作戦を諦めて高飛びだ。事情を説明すれば責められないはずだ》

ガン!

男は子供の後ろの殆ど空の本棚へ歩いた。隠された仕組みをいじって、何かのロックが解除される音がした。本棚ごと右に滑らせたら隠し通路が現れた。男はそこに入って本棚を元に戻すと鍵をかける音が再び鳴った。

ガン!

ガン!

ガン!

才機は左手で扉のかんぬきを掴んで、右手で定期的に叩いていた。それほど本気で扉をぶち壊そうとしている様子ではない。

「よし、そろそろかな。後三発ってところか」

ガン!

ガン!

ここで才機は覗き穴のふたを打ち抜いたた。覗いてみると部屋の真ん中にいる男の子しか見えない。

「行ったか?」と才機は男の子に尋ねる。

男の子は縦に首を振った。それを見て才機は扉ごとを壁から引っ張り出し、廊下に置いておいた。部屋に入って男の子を縛っている縄を解いた。彼のほっぺに湿った筋がついていた。泣いていたのだろう。

「もう大丈夫。あそこの人達はお家に返してあげるから。さぁ、行って」

涙ぐんだ目をぬぐって男の子は兵士達の方へ歩いて行った。才機は周りを見回した。確かにこの部屋に残っているのは彼一人だった。

「やっぱりなぁ」


一方では家の裏側の壁に隠し扉が静かに開いた。そこから出たのは先ほどの男だった。彼は家を巡らしている壁の下の部分の煉瓦を取り外し始めた。

「ふーん、才機の言った通りだった」

男は驚いて声の方へさっと顔を向けた。木の後ろから誰かが出てきた。

「誰だお前は?」といらいらした顔で男は問い掛ける。

「誰って···名前なら海だけど」

「お前の名前なんてどうでもいい。俺になんか用?」

「んーー、ありますね。私の友達はあんたが追い詰められたらひょっとして逃げ出そうとするから、ここを見張って逃げようとしているように見えたら止めてくれって言われた」

「はー?何言ってんだ?俺は今忙しいんだ。邪魔すんな」と男は最後の煉瓦を取り外した。

這って通り抜けようとしたんだけど突然の強風によって二メートルぐらい転がされた。

「お前も異能者かよ?!何しやがる?!」

「だから、逃げないように止めないといけないんだ」と海が少し恥ずかしそうに言った。

「ちぇ、どいつもこいつも。大体海って言うんなら風じゃなくて水を出せっつうの、このあま!」と男がナイフを出して海に突撃した。

「知らないわよ、そんなの!」と威力何倍増して再度の強風を放った。

今度は男が少し浮き上がって後ろから木に衝突し、その際に頭を打って気絶した。海は彼を両腕で引きずって玄関の方へ向って、途中で家の側面で走ってきた才機と鉢合わせした。男を引きずるのに夢中で才機が両手を海の肩に載せるまで気付かなかった。

「どうしたんだ?大丈夫?」と才機が聞いた。

「うん。ちょっとかちんときただけだ」

何が、と聞こうと思ったが、海は何とはなしに不機嫌な顔をしていたのでそういう事にしておいて男の運搬を肩代わりしてあげた。玄関に着いたら近衛兵達は男の子を囲んで質問していた。

「何があった?知っているのかい、君をさらったあの男?」

男の子は首を横に振った。

「外で遊んでたら話しかけてきた。そうしたら僕の顔に息を吐いたら急に眠くなって、起きたら荷馬車に乗ってた。手も足も縛られた」

「何もされなかった?」

男の子は首を縦に振った。

「何で君をさらったか言われなかった?」

また首を縦に振った。

「ふーむ」としゃがんでいた兵士が立って、才機が担いでいた男を見た。

「こいつは後でじっくり尋問しなくてはね」

次は才機の方を見た。才機はただ無表情な顔で視線を返しただけ。その兵士にもう一人の兵士が問い掛けた。

「どうしますか、班長?」

「報酬の件か?まぁ、いいだろう。欲しければ一緒にメトハインまで来るといい」と班長は男の子の背中に手を添えながら誘導して、一緒にその場から離れて行った。

「あの男を連行しろ。後、彼の息が眠りを誘うそうなんで猿ぐつわをはめておけ」

残った二人の兵士は男を預かって連れ去った。表玄関での人込みを通り抜けて全員軍用の車に乗ってメトハインに向った。これ以上見るものはなそうで傍観者は次々にそれぞれの日常生活に戻った。最後に残ったのは車が見えなくなるまでずっと見ていた一人の女性。その女性は先ほどの騒動の根源であった家の敷地に入って木に背中をもたれ掛かった。そこで腕組みして目を閉じた。

《作戦失敗です》

どこかの暗い洞窟みたいな所でその言葉がある男の頭の中で響く。その男は岩の上で座っていて顔をしかめた。

《失敗?どういう事だ?》

《さっきまで全ては計画通りでしたが、近衛兵を援助しに来た二人組が現れて、その後ディグルは逮捕されました》

《なんだそれは?後二人が近衛兵の助っ人に入った所で何が変わるって言うんだ?!》

《申し訳ありません。ずっと外から見ていたので詳しい事は何とも言えません》

《ったく。こんなチャンスは二度と来ないよ。今後は父親と同じぐらいに厳重に護衛されて近付けなくなる。父親は研究課のかなりの大物だ。皇帝にも直接に合っている。最近の研究の状況とか、王宮の設計とか、色んな貴重な情報を聞き出せたのに》

男は大きくため息をついた。

「どうかしたか?」と後ろで立っていて鎧に覆われた男が聞いた。

「しくじったそうだ」

男は目を閉じてまた女性に思いを馳せた。

《ディグルはメトハイン刑務所に連れて行かれるだろう。そうなると脱獄させるのは至難の技だ。もし俺達との関係が暴露されて本拠地の所在を吐かせたらまずい》

「報告か?」と女性に声がかけられた。

女性は急に目を開けて左へ見た。フード付きのローブを纏っている男が直ぐ側に立っていた。

「なんだ、ディンか。誰かと繋がっている時は話しかけるなって言っただろう。リンクが切れちゃったじゃない」

「そのリンクとやらをまた繋げればいいだろう?それに報告なら伝えってもらいたい事がある」

洞窟にいる男は頭の中にまた声が聞こえた。

《デイミエン様、もう一つ報告する事が》

《様は余計だといつも言ってるだろう》

《はい。どうやら近衛兵に加勢した二人はラエルがディンに指図した監視の対象だそうです》

《···》

《デイミエン···?デイミエン様?》

《かくも大きな目の上のこぶになるとは》

デイミエンは右手に頭を抱えた。

《これ以上のさばらせる気にはなれん。三回目はご免こうむりたい。残念だが勧誘は諦めてもう手を打つしかない。以下をディンに伝えて···》


   •••

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