#1
では、まず初めにこれは8年前に書いたもので、書き終わってからずっとパソコンに入ったまま放置しましたが、今になって投稿する気になりました。異世界ファンタジー、恋愛、ラブコメの要素が全て含まれているのでジャンルについて少し悩みましたが、異世界がある以上異世界にしました。
次に、実は日本語は母語ではありません。ですから、もし違和感のある言い方や文章がたまに出てきてもそれを大目に見て頂ければ幸いです。
最後に、この作品の中に《 》みたいな変な文字が使用されていますが、こちらはキャラクターが頭の中で考えていることを表します。
争い。叫び。恐慌。恨み。憎しみ。痛み。死。
白昼の街にこういったものがはびこっている。どこも防具を着けて武装した人間が丸石で舗装された道を走っている足音が聞こえる。その音と混じっている叫び声の原因は主に三つ。恐怖か苦痛か憤怒。小規模の破壊の跡はいくらかある。連行されていく人が数多く、あっちこっち怪我をしている男、あるいは女も子供も意気消沈した表情で道端で座り込でいて、一際酷い怪我で今に息を絶えそうな者もいる。この街では小さな戦争が行われているか襲撃を受けているかのどちらかのようだ。但し、それにしては一つずれている事がある。この大混乱の中で、家の窓からゴミ袋の中身をめぐって争っているカラスでも見ているかのようにこの光景を平然と見ている人、或いはほとんど気にしていない人が非常に多いことだ。
•••
ドシン!白い柔道着を着た男性が凄い勢いで畳に投げ付けられた。
「次!」
二人の男性が激しい掴み合いを始める。やがて一人が投げ倒され、ずしんと畳にぶつかる。先ほど「次」と叫んだ男がまだ立っていて、同じ一言を繰り返す。ここは中央大学の柔道部で部長は今部員達に稽古をつけている。
「あっという間だった」
「やっぱ東先輩には敵わんよな」
「本当だよ。少しでも太刀打ち出来る人は一人しかいないっつうのに、あいつまた遅刻かよ」
「東先輩よりあの人の胸を借りたいんだよな。色んな意味で」
「ちがいねぇ」
自分の番が来るのを待っている三人の男性がくすくす笑う。
「次!」
「はい!」と、その一人が瞬時に真面目な顔になって東の所へ向った。
東才機。去年この大学に入学した。今年は二年生にも関わらず、怪我をした柔道部の部長が復調するまで代理として活躍している。その類いまれな実力故に誰一人不満を示さなかった。小学校の頃からずっと柔道に精進してきた成果というべきだろう。
ドシン!
「くっそ〜」
畳の上にひっくり返っていた男性の方が気を緩めて悔しがっていると道場のドアが開くのに気付いてそのまま頭を後ろに傾けてそっちに目を向けた。
「才機、また部員達を苛めているの?ちょっとは手加減してもいいんじゃない?」
言いながら入ってきたのは白い柔道着を着た女性だった。
「これのどこが苛めって言うんだ?それに手加減したら俺が一人一人の相手をする意味がなくなるだろう。強い相手との戦いをなるべく経験した方がいい。それより自称副部長のくせに何遅れてんのよ」
女性が頭を下げて両手をその頭の前に合わせた。
「ごめん!さっき知り合いにばったり会って思わず話しに夢中になってさ。気付いたらもうこんな時間だから急いで走ってきた。ほら、もう着替え終わったし」
才機は小さな溜め息をついた。
「ま、早く半分の相手をしてやってくれ。俺だけじゃ順番回るのが遅すぎ」
「は〜い。で、今日私が才機に勝ったら遅れた事を許してくれなきゃいけないからね」
「俺の承諾なしでそんなのは成立しない。どの道今まで一度も勝った事ないだろう?」
「過去にこだわり過ぎる男はもてないよ。今日はその鼻っ柱をへし折って勝ってやるんだから」
「ほー。言ってくれるじゃないか。じゃ期待しているよ」
この人は今瀬海。才機と同様去年からこの大学に通うようになり、才機と同時に柔道部に入部した。才機が代理部長に任じられた途端に自ら副部長と名乗ったけど、実際に柔道部で三番目に強い人な訳だ。才機と部長は別として他の部員なら割と強い相手でも大体五中三は勝つ。
「よし、じゃ半分は副部長に稽古をつけてもらって。残り半分はこのままじゃんじゃん行くぞ」
足がせわしなく移動する音がし、止まったその次の瞬間。
「いや、だから、半分だけだって···」
•••
夕暮れ。夕焼けで赤く彩られた空。その赤い空の下の道場から最後の二人の部員が出てきて校門への道を辿る。海が目を強く閉じて両腕を長々と伸ばした。
「んーーーー、は〜。でも惜しかったね。後少しで私の勝ちだったのに」
「うん、ちょっと焦った。ま、安心して。約束を取り消してやるから。許してあげよう」
「何だそれ?恩を売ったつもり?才機の承諾なしで成立しないって言ったのは誰だったかしら?」
「はあー??いつから俺の承諾がなかったらお前との約束を守らなくてよくなった訳?」
「そういえば、腹へったなぁ。今夜は何食べようっかな〜。いい気分だから私がおごっちゃうか?」
《ごまかしやがった》
《ピンチ回避!》
「体動かしたらお腹すいたんでしょう?どっか食べに行こう」
海が頭の後ろで手を組んで提案した。
「ん?ああ、構わんよ」
「よし、今日は牛丼の気分だ」
「またか?お前本当に好きだなあ、牛丼」
「美味しい物は美味しいんだもん〜」
•••
翌日の朝。才機は憎たらしい目覚まし時計のブザーで目が覚めた。
《ねむっ。後五分だけこのまま横になりてぇ···*》
三十分経過。才機の目がいきなり皿のようになって心臓が一瞬止まった。
「やばっ!またやっちゃった!」
まるでアパートで火事が発生していたかのように才機は布団から跳ね起きて浴室に飛び込んだ。約二十分後にトーストを口にくわえて才機はアパートを出た。ひんやりした空気の中で上を向くと恋しい太陽がまだ見当たらない。唯一頼りになる熱源を諦めた才機は腕時計を確認して通りを歩いて行った。
《危なかった。何とか間に合いそうだ》
アパートから大学まで徒歩十分そこそこ。悪くない通学だ。大学の正門が見えてきたと同時に向こうから海の姿も見掛けた。いつもの元気で声をかけてきた。
「おっはよう!」
「おはよう」
「何だその格好?身だしなみをちゃんと鏡で確認してから大学に来た方がいいよ。だらしないんだから」
「え?」
説明の代わりに海が才機のシャツの立っている襟を直してあげた。
「あ、サンキュー。今朝は慌てて出たから気が付かなかった」
海は鞄に手をいれてヘアブラシを取り出した。
「その頭も何とかしなさい。ブラシは二時限の直前に返していいから」
思わずに才機が自分の頭に手を載せた。
「うむ、わりぃ」
「じゃ、先に行くね」
海は校舎の方へ向かった。才機は手近なトイレへ。
•••
二時限は社会学。二時限以外に海と同じ授業なのは六時限の文化人類学だけ。忘れず
に返しておかないと。才機は教室の入り口で待つ事にした。授業が始まる一分前に海もやって来た。
「さっきよりは様になっているじゃん」
海は差し出されたをブラシを取って鞄に戻した。
「うん。お陰さまで恥ずかしい思いをしなくて済んだ」
「今後は気をつけてよね。今朝はたまたま会ったからいいんけどいつも気付かせてあげられるとは限らないから」
海が才機の方を軽く叩いて先に教室に入った。才機はおじぎをしてそれに続いた。
ごろごろごろ。授業のペースは鳴った才機の腹に破られた。やっぱりトースト一枚では到底足らない。才機は今、ちゃんとした朝ご飯を食べなかった代償を払っている。高い。高いなぁ···
ようやく二時限が終わりを迎え、エネルギーが徐々に抜かれていく才機はのろのろと教室を出る。
「ほらよ」
振り向くと海が手を差し伸ばしている。そしてその手の平の上に三角形のお握りが載っていた。こんな所で飯に有り付く事自体に気を取られて才機は目の前のお握りを疑い深くじっと見つめる事しか出来なかった。我に返るのに数秒が掛かった。
「いや、それ海のだろう?今日はもう十分世話になった。海のお昼までもらえないよ」
「何言ってんの?今朝のあんたの姿から考えれば恐らく朝からろくな物は食べてないでしょう。それにこれと同じ物はまだ二個持っている。お腹があんなにうるさいんじゃ、次の授業で周りの人の迷惑になるだけよ」
「···でも、やっぱ悪いよ。そんなに」
「も〜、水臭いんだから!」
海は才機の言うこと遮ってその手を自分の手に取り、お握りを押し付けた。
「言っておくけど、ただであげている訳じゃないよ。心配しなくてもその内ちゃんと倍にしておごってもらうからね」
「了解した。かたじけない」
才機が頭を下げた。
去って行く海が人込みに紛れて消えるのを見て、才機は自分の次の授業へ向った。何だかさっきより空腹がちょっと治まった気がしたけど、ありがたくお握りをパッケージから出してかじりついた。梅干しお握り。どっちかというと才機にとって苦手な味ではあるが、今までの人生で一番美味しく食べられたような気がした。さ
•••
ようやくお昼の時間だ。才機はまっすぐ購買部に行ってカレーパン、焼そばパン、牛乳を買う事にした。必要な食料を確保したら、後はいつもの場所に行ってゆっくり食べるだけだ。その場所とは才機が四日掛けて遂に見つけた取って置きの場所。工学校舎の裏手にある空間。シンプルで小さな噴水と植物が多少あって、真ん中には草しか生えていない少し高めの花壇が円形になっている。そしてその花壇を囲んでいるのは座るのにちょうどいい高さの煉瓦塀。最初は他に誰かが先にここの領土権を主張していないか確かめる為に二日この辺りを見張っただけ。二日経っても誰一人現れなかったからこの穴場を自分の食堂にすることにした。
《今日は西に向って食べようかな》
その煉瓦塀はコンパスみたいに鉄製の文字で四つの方角を示していて、そんなこと思って低い煉瓦塀の「西」の上に腰を掛けた。食べているとそのうちここが気に入っている理由がもう一つ現れた。毎回ではないが、この時間でたまにタヌキが一匹姿を表す。恐らく来るのがいつも同じ一匹。才機が食べかけの焼きそばパンのパンの部分を少しちぎってタヌキの近くに投げだ。タヌキが才機を警戒しながらそのパンのひとかけらとの距離を埋め、一瞬で食べ尽くした。才機が一つまた一つパンをちぎってタヌキに放ってやり、その度に誘い込むように投げる距離を段々短くした。しかし、相変わらず一定の距離まで縮めるといくらパンを投げてもタヌキが近づいて来ない。何とか手で直接あげられる距離まで誘き寄せたいところだが、このやり取りを何日やってもタヌキが中々心を許してはくれない。驚かせないようにゆっくりと尻を煉瓦塀の上に滑らせて距離を開け、タヌキが溜まったパンのくずを我が物にする。才機は動物が好きで今獣医を目指して勉強をしている。こうやって野生動物と触れ合う機会を逃すことはなく、子供の頃からたまに痛い目に遭っても懲りずに接しようとする。またパンを放り投げっているうちにもうそばしか残っていないことに気づく。流石にそれまでは手放さないと決めた才機がそばを頬張ってタヌキとにらめっこをする。暫く牛乳を飲んでいる才機を観察してご馳走はもう終わったと悟ったタヌキが特に惜しむ様子もなくどこかへ去って行った。
空になった牛乳パックを一旦地面に置き、膝を曲げた片足を煉瓦塀の上に載せて仰向けになった。空を見ると、今日は結構天気がいいなと思い、まぶたを閉じて目を休んた。こうやって才機は毎日昼食時を過ごす。他人から見ればさぞかし寂しそうな風景だろう。定義通りならば実際これは寂しい状態だと言わざるを得ない。でも幸いな事に寂しい状況であっても才機はそう簡単に「寂しい」という気持ちにはならない。昔からそうだ。本当に親しい友達がいないのも多分その取っ付きの悪さに原因があるかもしれない。別に無愛想な人という訳ではないけど、取り分け愛想がいい訳でもない。友達を持つのも持たないのも功罪相半ばする面があるのでどっちでも良いが、そうなると努力はあまりしない。そして努力をしないと自ずと持たない方向に片寄る。人と知り合って軽い言葉を交す間柄になっても、それ以上関係をそんなに深める事はない。ずっと前から何となくそういう展開になるのだ。あの人に出会うまでは···。
海はなぜか始めから自分の事をやたらに構ってくれたような気がする。才機はそう思っている。いつも挨拶をしたり、声をかけたり、会話を始めたり、今日みたいに助けたりする。才機としては自分が大した見返りはしていない。なのに海はいつも優しい。誰にでも優しいんじゃないのか?あのキャラではありえなくはない。海が部員以外の人と関わっているところをあまり見た事ないからよく分からない。そして部員と仲良くするのは別に普通だし。自分と話すのがそんなに楽しいかな?そんなはずがない。と、考えながら海と話すと自分が割と楽しいと思っている。海もそう思っている可能性はないとは言えないのでは?
···。
こんなのでくよくよしたって切りがない。
でも、もしかして。
あれだ。
あれだったら説明が付く。付くが、そんなまさか。絶対にありえない。
海が俺の事が好きな訳がない。
でも自分はどうだ?海の事をどう思っている?まだ好きだとは言えないけど、気になるのは確かだ。あの人と付き合うようになったらうまく出来るんじゃないかなと思った事はある。
彼女か。今までに彼女を作ろうとした事はなかった。いいんだろうなとは思っていたけど、彼女を作るのにそれほど執着していなかった。でも万が一海が本当に自分が好きだったらどうする?こっちの気持ちに気付いているのかな。告白するべきなのか?告白されるのを待った方がいいのか?ひょっとしたら彼女が俺に気があるって事をずっとほのめかしていて、俺が告白するの待っているのか?実際に確認していないけど海に彼氏がいないだとほとんど確信している。だが待っているうちに誰かに取られる可能性もある。参ったなぁと言わんばかりに手で既に閉じた目を覆った。誰かをこんな風に思うのは初めてだった。チャンスが低くても取り逃がすのはまずいのでは?才機の意見では海はどっちかというと結構可愛い方だし、他の男に目が付けられてもおかしくない。他に男友達一杯いるんだろうか。
《なら、やっぱりこっちから告白した方がいいかな。って、そんな度胸がないのは自分で分かっているくせに何考えてんだ俺は》
一番の問題はもちろん、相手の気持ちがはっきり分からない。去年の新入部員の歓迎会でまだそんなに親しくなかったのに海は自分の悪習とか将来の夢とか子供が何人欲しいまで色々話してくれた。ま、あの時、彼女はちょっと酔っていた気がしたんだけどね。前に一度、海に好みの女を聞かれた事がある。女の人がそれを男に尋ねるって事は、その男に興味があるって事じゃないのか?いいチャンスだったのに、海に同じ質問を聞き返さなかった。怖かったからだ。自分がその好みに沿わない事が。
《やっぱ無理だ。もっと確実なものに出来ないと言えない。卒業日ぎりぎりまで待って、運よくそれまで彼氏がまだ出来ていなければ告白しよう。振られてもどうせ会う事は二度とないからお互に変なぎこちなさは生まない。今はこのままでいい。彼女を作るのに急いでいる訳じゃないし》
そう思って、もう少し日なたぼっこをして噴水の音を聞きながら昼寝をした。この穏やかな雰囲気で眠りにつくのは難しくない。
ドシン!
しかし寝るのは難しくなくても、この円の形になっている煉瓦塀の上で眠りながらバランスを保つのは十分難しい。
•••
六時限が終わるまで後数秒。
「じゃ、この辺で終わりにしますか。続きはまた今度にします。今日はちょっと複雑な内容だったかもしれないけど必要ならば家でもう一回テキストで読むといい」
全員荷物をまとめ始めて、教室の外の廊下は間もなく学生で埋め尽くされた。その中で才機と海は一緒に道場に向う。
「一週間後の試合の準備はもう出来たか、副部長?」
「ん〜、かな。才機みたいに必勝の信念を持ってないけど。いいな、あんたは。試合で緊張感が湧いてこなさそうね」
「俺だって勝利は確実じゃないよ。その為に練習してるんだ」
「そうだったね。試合を目の前に控えてるといつもより練習するし。今日から皆より遅く残って一人で頑張るんでしょう?」
「うん、ちょうど一周間前になったからな。海もどう?」
「ん〜〜、一緒にいてあげたいんだけど、部活は好きとはいえ才機みたいに柔道に明け暮れるほどじゃないや。この大学でそんな事をしてるのはあんたぐらいじゃない?」
「そりゃないだろう。部活に熱心な人は海が思っているよりもいるかもよ?」
「ふうん〜。じゃ、あなた達の熱心に敬意を表して陰ながら応援させてもらう」
「それはどうも。って応援はいいからお前も本気でやれよ。素質はあるんだから」
「何だよ。私はいつも本気だよ」
「まぁ、そりゃそうだけどさ、もっともっと強くなれるよ、海なら。残るって言ってもたったの三十分ぐらいでいいよ」
「ん〜〜〜。考えておく」
•••
道場に着いたら更衣室に入って着替え始めた。先に着替え始めた部員もいた。
「東先輩、今夜の飲み会に来れますか?」
「うん。ちょっとだけ遅れるかましれないけど」
「やっぱ今日は残って修業をするんすね」
「まぁ、ね。それほど遅くはならないと思うがね」
「ま、とにかく息抜きも重要だって事忘れないで。多分一番必要なのは東先輩ですし」
全員準備が整ったところで稽古開始。道場は自分の技を磨いている若者で生き生きしている。四十五分経ったら休憩に入り、才機と海が立っている場所に二人の女子部員がやってきた。
「何か今日の今瀬先輩はいつもより手ごわかった」
「また腕上げたんじゃない?」
「そう?私はいつも通りやっているつもりだけど」
「家に帰った後でも練習したりするの?」
「ああ!分かった!実は東先輩にこっそりと個人的に稽古をつけてもらってるんでしょう。隅に置けないね、二人とも」
「ええ?そうだったの?」
それを聞いた片方の女子が口を手で覆い、海に確認する。
そこで海は腕を才機の首にまわして答える。
「そうだよ。二人でのプライベートレッスンだ。羨ましいいでしょう〜」
「やっぱりそうだった。ずるいよそんなの。東先輩もあまり変な事教えちゃだめだよ」
才機は海を横目で見る。
「こら、そうやっていつもからかってると本気にされるよ?」
「可愛いな、照れちゃって」
海が返事すると二人の後輩がくすくす笑う。
「はい、はい。休憩はそろそろ終わりだ!全員続きやるぞ!」
「ほら、今瀬先輩。東先輩を怒らせたじゃない」
「元はと言えばあんた達が煽ったんでしょうが」
「いいから、お前らも早くやれ」
一時間後、全員がまたしても着替えを済んでいるところだ。才機以外は。最後の部員が飲み会に来るよう才機に念を押して扉から出て行った。
《さて、もうちょい頑張るか》
深呼吸をして精神を統一し始めた。それから目をあけてゆっくり構えを取った。
《やっぱりいいよな、この静けさ。やすやすと集中出来る》
···と思ったら後ろから声が聞こえた。
「付き合ってやるよ」
海の声がしたような···。振り返ると海の顔が見えた。
集中力は一瞬にして雲散霧消。
「別に普段からこんな事をするつもりはないけど。今日だって飲み会に行く前に家に帰って着替えとかしたいんだからそう長くはいられないよ」
「そっか。じゃー···」
才機は壁に掛かった時計を見た。
「半までいいか?」
「そうね。さぁ、やるからには本気でやるよ!」
「そうこなくちゃ」
ほどなく二人が練習に全力を注ぎながら海は才機から色んなアドバイスをもらっていた。
《あんなに気が進まなかった割には相当集中してるな、こいつは。初めてかも、こんないい感じの海》
ドシン!
《あれっ?》
いつの間にか才機は天井を眺めていた。見慣れない光景だ。天井にあんな染みがあったなんて始めて知った。頭を後ろの方へ傾けると、次に見るものは目を丸くしている海とその顔にだんだん広がって行くにやにや笑い。
「え?やった?···やった〜〜〜!才機に一本取った〜!!」
海は叫んでぴょこぴょこ跳びはねていた。
「参ったな。本当にやられた。油断しちゃったかな」
「ああ!言い訳するな。今、正々堂々と勝ったよ」
「分かった、分かった。でも今のを再現出来るかな?」
才機は海に挑戦して立ち上がった。
「うん、出来るよ。···多分···かも」
明らかに自信を無くしつつ言い張ろうとする海。
それでも構えを取る。
「それじゃ、遠慮なく行くぞ」
才機も構え、頭を少し低くしつつ本気の目で海を捉える。
その威圧感は海にもよく伝わり、いっそう力んで、飛び掛かる才機を受け止める準備をしたものの、不意に時計を確認した才機が逆に構えを解いた。
「と、言いたいところだが、もうずいぶん時間を食っちゃったみたい」
「あ、本当だ。もう直ぐ四十五分だ。じゃ、私はそろそろ帰るね。勝負はお預け」
「あぁ、後少しで俺も行く。」
才機は更衣室に走っていく海に呼び掛けた。
五分経つと海は私服の姿で戻って広間に入った。そして道場から退場する際に扉を完全に閉める前にその透き間から未だに練習している才機に言い残した。
「あっちに着いたらさっきの私の偉業をちゃんと皆に言い触らすからご心配なく」
扉が閉まるのを聞いて才機はかすかに笑ってうなだれた。
《今日はもう上がるか》
•••
家でシャワーを浴びてさっぱりしたら皆と合流だ。待ち合わせ場所は大学からそれほど離れていない居酒屋だ。毎朝歩いている方向を四十五度旋回した道のりはいつもの通学路と大して変わらない。七時十五分前ぐらいに店に入って九人の部員が待っていた所まで店員に案内された。沢山の焼き肉とビールが既にテーブルの上に散らばっていた。
「おい、東、さっき聞いたぞ。今瀬に負けたんだって?」
「ああ。ちょっと不覚を取ってね」
才機は苦笑いして襟首をさすった。
「こっち、こっち。今夜は才機が君臨する時代の終焉を迎えた記念を兼ねて祝うんだよ」からかう海はテーブルの隅にある彼女の隣の空いているクッションをパタパタ叩いた。
才機は席に着くと香ばしい肉の匂いが鼻まで舞い上がってくる。
「うまそうね」
「今夜はたっぷり食べてたっぷり飲むわよ」
そう宣言して海は手前のビールのピッチャーを手に取っるとはっとなった。
「あ、でも才機は飲まないんだ」
「うん。でも海は喜んで飲むよね」
才機は海が持っていたピッチャーを取って彼女のグラスに一杯を注いだ。
「じゃぁ、ウーロン茶でいい?」
「ああ」
才機は自分のグラスを差し出して一杯もらった。
するとテーブルの真ん中の方で座っっている男があの待望の言葉を告げた。
「それでは皆さん、早速乾杯と行こうか」
「乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯!」
多数のグラスがチャリンと鳴る音は虚空の中で反響する。その辺りは直ぐに盛り上がって、柔道部の皆が活気づいた。そのうち次いでの注文もビールのお代わりの要求も次から次へと入った。才機の向こう側に座っている男がビールを飲み干し、グラスを握っている手をテーブルに置いて言った。
「な、東、お前も来るよな、合コン?いないんだろう?」
男は小指だけを立ててみせた。
才機は彼のグラスをなみなみと満たしてあげた。
「合コンかぁ···。正直俺はそういうのあまり好きじゃないんだよなぁ」
「そうなのか?どうして?まさか女に興味はないとか言わないよね」
「いや、言わないけど、何って言うか···ロマンの欠けらもないんだ、あれじゃ。」
「ロマンだと?何を言うかと思えばそう来たか。ロマンね」
「へ〜〜。ロマンチックな男だったのか、才機は?」
今度の問いは左手の海から発せられた。
「ちょっとぐらいいい別にじゃん。合コンと言えば彼氏や彼女が欲しくて知らない連中とデートをする為の集まりみたいもんじゃない?何が悲しくて赤の他人と付き合わなくちゃならないんだ?」
「なるほど、なるほど。じゃ、東はどんな出会いがいい?」
男は目を閉じて二回ほど深く頷いて尋ねる。
「それは···そうね···前から知り合っていて···時が経つにつれて自然にその人に対して特別な思いを抱くようになって···別に最初からそういうつもりはなかったけどつい···」
「つまり、友達から恋人になるってやつね」
海は才機を見ながら頬杖をつき、わずかに微笑んでそう言った。
対して男の方がぷっと笑った。
「そんな理想をいつまでも追っていると独りぼっちになるのが落ちだぞ。それにさ、合コンで会ったからって相手と付き合う事になるとは限らないんだよ。後で二人になってお互い単に遊んで楽しむ事だってありだぜ。色々な遊びをね」
「ああ!」
女子部員が突然声を上げた。
「今とんでもなくいやらしい事言ったね、俊」
「いや、冗談だよ!そうに決まってるじゃん」
「いーーえ、本気で言った。分かってるよ、あんたみたいな男が考えてる事なんて」
「だから違うって。真に受け過ぎだろう、お前」
男が必死に弁護しようとする。
その間、海は才機に向けて問い掛ける。
「で、才機が好きなタイプはどんな人?」
《あれ、また?この前教えたけど、忘れたのかな。ま、いいか》
「ん〜、外見なら好みとかは特にないかな」
「そう?髪が長い方とか短い方とか、そういうのどっちでもいい訳?」
「まぁ、長い方が似合う人がいれば短い方が似合う人もいる。俺は···そうね。初めて会った時の格好が一番似合うと思うことが多いかも」
「それって私が髪を伸ばしたら似合わないってこと?!柔道の邪魔になるから今は肩くらいの長さでどどめてるけど、いつかは気分転換に伸ばしたいかも」
「それは、実際に見ないと分からないな」
「容姿にそんなにこだわらないってことかな」
「というか、可愛い子ならどこでもいくらでもいるって。俺の理想はそんなに高くないだけかもしれないけど」
「可愛さってのは見た目だけじゃないけど。個人の癖や趣味も関わってくるよ。例えば、テニスをする女の子とか料理のうまい女の子が可愛く見えるでしょう?柔道みたいな男らしい事をやる女子も可愛いと思う?」
ここで才機は横目でちらりと海を見た。
「そういのはあまり関係ないかな。少なくとも俺にとっては」
「ふーん。じゃ、性格は?」
「性格か···」
才機が目を上に向けてちょっと考えた。
「好きな人のどんなところが好きかって聞かれたら、面白いところとか、頭いいところとか、優しいところが好きだとか言うのは一般かもしれないが、そういう人なら一杯いる。それだけじゃ好きにはならないと思うよね。どんな人か···。とりあえず、俺の欠点にも関わらず俺のありのまま好きでいられる人。一緒にいるだけで十分幸せな気分にさせる人。かな」
「ん〜。でもそれって性格じゃなくて、才機の事が好きな人、誰かを好きになった才機の当たり前の気持ちじゃないの?」
いきなり目から鱗が落ちたように、才機はただただ瞬きをした。
「ふむ。言われてみればそうかもね」
《って事は何?俺は誰でもいいから誰かを好きになりたいだけなの?それとも誰かに好かれたいのか?いや、両方か?》
「っていうか、才機に欠点なんかあったけ?どんな欠点なのか是非教えてください」
「大有りだよ。今ここで述べ切れないくらいある」
「はぐらかして人の知りたがっていることを教えてあげないところとか?」
「そうそう。それに沿って先の質問の答えを『分かりませーん』に変更だ。そういうのは多分、言葉で説明する事が出来ないんだ。本人すら完全に理解出来ない自分の気持ちが重要なんだろう」
才機は肩をすくめてから更に続けた。
「おそらく、大抵どんな二人でも、いい人でさえあれば結ばれて幸せになれるんじゃないかな。その気になれば。でもその気にさせるものは···何だろうね」
少しの間が空いて、海は出し抜けに聞いた。
「もしかして、好きな人いるの?」
「いや、彼女もいないのにそのはずはないだろう」
「ん?誰かを好きになるからその人を彼女か彼氏にしたいと思うんでしょう?」
才機は気取って人差し指を振った。
「チッチッチ。一目惚れなんて存在しないのさ。付き合ってもいないのにそんな気持ちを本物の好きとは言えん。付き合ってから初めて心から好きになるんだ。俺が思うには誰かを本気で好きになるのに一番大切なのは思いでだ。その人と二人で時間を過ごす事によって積み重ねていく沢山の思い出 」
「じゃぁ、誰かと付き合いたい気持ちは何っていうの?」
「気になる」
「似たようなもんじゃない」
「いや、違うんだよね、それが。気になる人にある日突然『どこどこに行かないといけないからもう会えなくなる』って言われたら、残念だとか、もっと一緒にいたかったのにとかしか思わないはずだ。しかし本当に好きな人ならそんな事言われて『残念だ』で済むはずがない。反対して離れる事を力の限り阻止しようとする。そして生き別れる羽目になったら悲しみに打ちひしがれる」
「まるでそういう経験をしてきたような口振りだけど?」
「俺が?まさか。彼女いない歴十九年だよ?」
「うそ!そうなの?」
「うそついてどうする?つくんだったら、経験豊富だってつくだろう」
「じゃあ、なんで?」
「ん?なんで?んーーー。作ろうとした事ないから···かな。告白されるほどもてる訳でもないし」
「ふうん。才機なら好きな人がいたとしても告白しないタイプっぽいよね。絶対待つ方だ」
「ま、事情によって、条件が揃えばするかも···」
「告白しないと後悔するかもよ」
それを聞いて才機は海がどんな顔をして言ったのか非常に気になっていた。だが何となくそれを自分の目で確認する勇気を出せなかった。
「他の男に取られちゃうかもしれないから言った方がいいよ」
「そういう恐れはあるよね。確かに···。じゃ、そういう海はどうなのさ?彼氏作った事ある?告白した事は?」
「私?私もない。なぜかと聞かれたら···何となくとしか言いようがないけど」
「なんだ、さっきあんなに偉そうに言うからてっきり色々経験しているかと思った」
「別に偉そうなんかじゃない。本心だもん」
「そうか。ま、一応覚えとこう」
約二十分後に壁に張ってある時計が八時三十分を迎えようとしていた。皆が帰る準備をし始め、全員店の外で集まったら別れの挨拶をしてそれぞれの道を行く。帰る途中、才機の頭の中で繰り返し再生していたのは先ほどの海との会話だった。家に着いて布団に身を投げ出してなおまだ海と交わした言葉を振り返った。
《今夜もその手の話になったんだな。俺の好きなタイプがそんなに気になるんだったらやっぱり海は俺に気があるって事じゃない?『柔道みたいな男らしい事をやる女も可愛い?』それって遠回しに『私は可愛いと思う?』って聞いているようななもんだろう。何より最後の告白の話。あれは『私の事が好きなら早く告白してよ』という意味だったかな。これで海が俺に気があるのは八十パーセントぐらい確信した。もしかして海は俺の気持ちがよく分からないから告白出来ずに俺の出方を見ている?確かに自分の気
持ちが悟られないようにいつも気をつけている。それが海を慎重にさせているんなら···》
「よし···やる。明日はやる!」
才機は決心を固めた。
《今夜の話からすると、もし断わっても、海は告白された事をそんなに迷惑だとは思わないだろう。···好きなら言った方がいい、か···。そこまではまだ至っちゃいないと思うけど、海なら簡単に好きになれそう。明日だ。明日はどんな日になるんだろう···》
•••
次の日。目覚まし時計はいつも通り六時半に鳴った。今日は抵抗せず、才機は起きて大学に行く支度をする。いつも通りシャワーを浴びて、いつも通り同じ朝食を食べて、いつもの時間でアパートを出る。そしてこの毎朝の日課を行っている間、気にかけているのは一つだけだ。今日という日はどんな風に終わるんだろう。部活が終わってから海に打ち明ける事にした。でも案外に緊張感はなかった。大学に到着しても、二時限で海に会っても、授業が全部終わって道場に向ってもだ。今日才機は初めて誰かに告白する予定があるなんて誰も予測しないだろう。それは海も含めてだ。練習にかかるといつものように見事にこなしている。海に二度と引けを取らないほどに。そして練習が終わったら才機はすぐに海に声をかけて、さりげなく会話を始めた。
「やっぱまぐれだったんだよ、昨日のは」
「そりゃ、そういつも才機には勝てないけど、才機を超える為の潜在能力が私の中に秘めているのが昨日分かった。知らないうちに私が代理部長、いや下手すれば部長になっちゃうよ」
「そんなに野心があったとは。だったらもちろん、今日も残って修業するんだな」
「う、それは···。私ほどの天才ともなれば修業しなくても放っておいたら勝手に伸びるんだ」
才機はただ「は?何言ってんだ?」と言わんばかりな視線を海に送るだけだ。
「もう、分かったよ。別に一緒にやってもいいけどあさっては文化人類学の試験があるでしょう?今日も明日も出来るだけ勉強したいんだ」
更衣室に向っている二人の女子部員がひそひそ声で言う。
「やっぱりあの二人中いいよね」
そして広間に残っていたのは才機と海だけ。二人の会話は後少しで終わって、海もようやく着替えに行った。これは全て作戦だ。海だけを引き止め、そのやり取りを出来るだけ長くして遅れさせる。これで海が着替えを終わらせて帰る頃には他の皆はもう先に帰っている。海を除いて最後の部員が帰ったら才機は道場の外でその人の去って行く姿と周りに誰もいないか確かめた。後は待つだけだ。
《それにしても不思議だ。何の緊張感を感じてない。普通は感じるよね、こういう時は。海だからかな》
ちょうどその時、海が更衣室から出てきた。
《あれっ。才機はいない。まさか今日はもう帰った?いや、トイレでしょう。私は帰って勉強しようっと》
うまく逃げた気分で扉を開けて外に出たからさっき見当たらなかった才機がそこに立っているのを見て海は少し驚いた。
海を目にして遂に来た。緊張。
《やばっ。どうしよう。今さら感じてきちゃった。やめとくか?いや、ここまで来てそりゃない。やっと覚悟を決めたんだ》
「あら、なんで才機がここにいる?あ、まだ私を説得しようと思ったのか?今日は勉強するんだから無理。また今度一緒にやるから。っていうか、才機も一緒にどっかで勉強しない?あんたもちょっとやばいんでしょう、文化人類学」
「いや、そうじゃなくて。あのぅ···本当は後二年ぐらい待つつもりだったけど、昨日の話で思ったんだ。ここはひとつ海のアドバイスに従おうと。海はこんな事言われてそんなに困らないって。それで、やっと重い腰を上げる気になった」
「ん?何?私のアドバイス?」
向こうは何の話だか分かっていないようだ。才機は視線を海から外して遠くて違う方に向けた。
「うむ、その前にどうしても確認したい事があるから、先に確認するけど···なんか、まだ百パーセント確信していないから、見当違いだったら謝るけど···その···もしかして···」
視線をまた海に戻した。
「海は俺に気があったりするの?」
四秒ぐらい海は何も言わず、ただ才機を見るだけだった。そして返事をした。
「それって···ひょっとして恋愛的な感じ?」
期待していた返事とは違う。
《まずっ。見誤ったか?》「まぁ、そういう事になるね」
再びやってくる先ほどと同じ短い沈黙。
「私···才機が好きだけど···それは、友達として···彼氏とか、そんな風に考えた事は···」
「そっか。じゃ、俺の勘違いだったっていう訳だな」
他に何と言えばいいか分からなくて海はか細い声で「うん」としか答えられなかった。
「ま、男に二言はないから、一応約束通りさっきの続きをやるが···俺はかなり海の事が気になる。ま、話はそこで終わると思うけど」
今までの話の流れでまるで才機が言った事を予測出来なかったように海はびっくりした顔になった。
「え?私の事が?なんで?」
才機は空を見上げて腕組みをした。
「なんでだろうね。昨日言ったように何が人をその気にさせるのかは分からない。そりゃ、海は可愛いと思ってる。結構いい奴だし。でも俺がそのように思った人は今まで沢山いた。ただ···ただ、他の人と違って、海を見ていると、海を見る時にしか感じない何かがある···としか言いようがない」
「そう···なの?」海は 恥ずかしそうに微笑んだ。
「あれじゃ分かんないよな」
才機が苦笑いしたが、その苦笑は長く続かなかった。
「でも、まぁ、俺が見なした通りでいいのかな?」
「え?」
「その···告白されても別にそんなに困らない」
「私が?」
「うん。後二年待つつもりだったっていうのは、先に卒業して、別れる直前に言おうと思った。そうしたら海が断らないといけなくても、もう会わないから別に迷惑しない。でも昨夜の話を聞いて海なら平気だろうって思って」
「別に、困ってはいないよ。才機の気持ちは嬉しいし。その気持ちに答えられないのは悪いと思っているけど」
梅は伏せた目で最後の方を言い足した。
「それぐらいはあるよね」
頭をかいて才機は微妙な笑顔を見せた。
「ん〜、ま、今のを全部忘れてくれ、なんて言わないけど。どうせ忘れられないし。でもあまり気にせずに気をつけて帰ってね。車だろう?ぼうっとして事故るなよ」
言い終えると才機は扉の取っ手を掴んだ。
「才機はいいの、それで?」
「うん。いいよ。また明日ね」
「う、うん。明日」
海は道場の扉が才機の後に閉まるのを見て、そのまま閉まった扉を凝視し続ける。その扉の向こうで才機は練習を続行し始める。
「あっけなかったなぁ。これからは九十パーセント確信してないとな」
•••
数時間後、海の家。彼女はベッドの上で仰向けになっている。そのベッドに載っている右手の指先のすぐ近くに文化人類学のテキストが開いてある。左手の手首は額についていた。その目は天井をただ見つめていただけだ。
《全然気付かなかった。いつから才機にそんなに風に思われるようになった?》
まぶたを閉じながら手首を少し下げて目を覆い、その答えを記憶の中で探った。考えてみると自分が才機に気があるような素振りを見せた節はあったかもしれない。そりゃ、才機に非常に親しく接する時はある。でも顔に表情をあまり豊に出さない人だからそれぐらいしないと中々いい反応はしてくれない。海が思うにはからかい甲斐がある人だし。初めて会った頃は少しよそよそしい感じだったけど、才機の柔道の腕に素直に感心してもっと近付きたいと思った。その結果、意外と気が合うことに気付き、今では他の部員より才機と過ごす時間の方が圧倒的に多くなった。海は元々オープンな人だけど才機とは何でも話せるような仲になったつもりで、たまに話題が恋愛事に関係してくるけど、そういう話は楽しいし、男だからって避けるのは勿体無い。それに常に泰然自若な才機の意見は実に気になる。でもこんなことになるなら男であることをもっと意識した方が良かったかもしれない。一瞬、才機と親しくなったことを後悔し始めた。でもそのこと後悔し始めている自分に気づくとそんな自分が嫌になってその思いを極力払拭しようとした。
《悪い人じゃないんだけど、むしろ一緒にいるのが面白い。話すのも楽だし。なんか最後に自分より私の心配をしてたし。でも特別な感情とかそういうのは特に···。今まで通り出来ないかな。そもそも才機は元通りに戻りたいかどうか分からない。才機に話しかける度に彼はつらいだけでしょうか。明日は一体どんな顔をして会えばいいの?》
海は長いため息をついた後、うつぶせになって顔を枕に沈めた。
「もぅ〜〜こんなんでどうやって勉強するっていうんだ」
しばらくしたら、目が辛うじて前を見えるほど顔を上げた。
「どうしてくれるんだよ、才機」
•••
次の日、昨日と違って才機は大学に行く途中でも着いた後でもずっとどきどきしていた。お昼の時間になっていつもの場所で食べて、少しは落ち着いてきた。あの低い煉瓦塀に座って、才機は二時間前の二時限を思い出す。才機は入り口に近い席に座ったから入ってくる人はほとんどその席の前を通る。今日は才機が海より先に来たから海が前を通ったら必ず挨拶をすると決めた。実際に挨拶をすると海もいつものように「おはよう」と返事してくれた。ごく普通のやり取り。なのにどことなく不自然な感じがした。気のせいなのか考え過ぎなのか分からないけど、どうも見せてくれた笑顔はいつもより明るくてわざとらしかった。お互いの目が合った時間はいつもより微妙に短い。さすがに昨日みたいの事が起こるとあっては今度会った時は気まずい。
《海もそうだろうな。昨日はああ言ったんだけどある程度は動揺しているだろう。完全に元通りになるのは無理かも》
相変わらず海の気持ちが分からない。しかし、昨日やった事を意外と後悔してはいない。そりゃ、今、海は自分の事をどう思っているかを知っていて、奇跡的に過去に戻ったら同じ事はしないけど、もし昨日の出来事を本当になかった事にする機会が与えられても、何も変えない。叶わぬ想いをずっと抱えながら海と交際するより今の方がいい。でもうまく行かなかったからって縁を切りたい訳でもない。だって一緒にいるのが楽しい。向こうはまだそう思っているとは限らないけど。才機はお昼のごみを拾てて安らぎの場所を去った。
「なるようにしかならないか」
•••
六時限。才機は一番右側の列に座っていて、海は隣の列の二席前に座っている。才機は
中途半端に教授の講話を聞いていた。黒板を見ている時間と海を見ている時間がほぼ同じだった。ほんの少しだけ彼女の横顔が見える。海を見ているところを本人に見つかる心配はまずない。でもやはり···海を見ていると例の感じる何かが込み上げる。向こうはその気じゃないなら別に口説いて心変わりさせるつもりはないけど。それこそ迷惑だ。
《あああ!もうー!なんであいつがこんなに気になるんだよ?!こんなの初めてだ。あいつの何がそんなに特別なんだ?率直に言ってこの教室にだって海よりも可愛い女の子が何人もいるのにどうして?なんであいつだけがこんなに···》
悶々とする才機。
見なければいいのに。見なくて別の事に集中すればいいのに···。自分にそう言い聞かせるのは簡単でも、実行するのは中々難しい。
六時限が終わると次は部活の時間だ。海は先に行ったようだ。二人は必ずしも一緒に道場に行く訳じゃない。別々に行く日もあるから大した意味はない。多分。
練習が始まったら稽古は順調に進む。海は楽しそうに女子の部員と話す。才機は真剣に指導をする。二人の間に何かがあったなんて誰も思うまい。休憩時間に海と二人の部員が一緒に座っていて、その会話が近くで壁に寄り掛かっていた才機の耳に入る。話していたのは主に海と一緒にいる二人の女子だった。
「それで彼氏とあっさり別れた」
「ヘ〜。二人はいつから付き合い始めた?」
「四ヶ月前ぐらいかな。あの時はこうなるって知ってたら全然相手にしなかったけど」
「やっぱりいい男はそう簡単に見つけられないよね」
「なんかさっきからずっと黙っているけど、海は誰かとそういう関係を持った事ない?」
「私?ないですね」
「あんたと違って海なら最初からそういう男と関わらないからだ」
「じゃ海のタイプはどんなかな。やっぱり東みたいな人がいい?」
「そうだ。東と付き合っちゃえば?二人なら相性よさそうだし。うまく出来るんじゃない?お似合いのカップルだ。ね、春華」
「え、え?そうなん?」
恥じらう海。
才機だけがその反応がいつもと違うという事に気付き、そしてその反応の本当の意味を知っていた。だがしかし、せっかくその稀な様子を誰も気に留めなかったのに、仕舞には少し赤くなった自分の頬に海は裏切られた。無論、なぜその頬を染めたのか、その原因については誤解された。
「あれれ?なんかその顔、赤くなってない?」
「図星か?!」
海が返事出来る前に才機が割り込んできた。
「あのな、本人がここにいるんだぞ。何だよ、その根拠のない勘ぐりは?俺たちの間には何もないよ」
「東も素直じゃないな。取り持ってあげてるんだからフォローしないでどうする?」
「仲人はいらん。まずは自分の心配をしろよ。また独身になったそうではないか」
人を追い払う手振りを見せながら才機がそう言った。
「ほら綾子、私達が手助けしなくても自分で出来るって。二人にしてあげましょう」
そしてにやにやしながら二人はその通りにした。
「あの二人本当に飽きないなぁ」
才機は腕を組んで遠ざかる二人を見ながら言った。
海は座ったまま何も言わない。別に海に言った訳じゃないから返事がなくてもいいけど。二人は無言でただ周りを見るだけ。やっぱり、ぎくしゃくしている。そのうち海は才機に顔を向けて口を少し開けた。何かを言いかけたけど、才機は道場の中央へと歩き出し、結局口をつぐんだ。
「はい!皆、続けるよ」
海の顔にはめったに見られない悩む表情を彼女は頑張って隠そうとして皆と練習を続く。
•••
こんな風に何週間が過ぎた。あんまり長い間お互いの目をまともに見れず、学内のどこかで相手を見かけても、向こうに気付かれなかったら自分から声をかける事が少なくなった。一緒に過ごす時間はおそらく前より減った。そんなある日、海は三人の女友達とテーブルを囲んでお昼を食べている時に突如として言い出した。
「ね、皆は告白られた事ある?」
「私はないけど真由なら彼氏がいるからされたんじゃない?」
左に座っている女性が海の右に座っている本人の方にあごをしゃくった。
「いや、実は告白ったのは私の方だった」
「あるよ。二回。なんで?」
海の真向かいに座っている女性が中途半端に手を挙げた。
「そうなん?じゃ、どうなった?」
海は口に入れようとした卵焼きを弁当箱に戻して詳細を要求した。
「んー。最初はいいんじゃないかなと思ってオーケーした。でも三日ぐらいで別れた」
「はやっ。どうして?」
右手の女性はそう尋ねた。
「なんか面白そうだったけど面倒くさくなったかな。だって休み時間は必ず一緒に遊ばないといけなかったり、リコーダーの練習も決まって二人でやらないといけなかったり」
「ちょっと待って。これ、いつの話?」
海は怪訝な顔で割り込んだ。
「小三の頃の話」
「そんなの入らないよ。二回目はいつだった?」
明らかにがっかりして海は続きを促した。
「先月」
こんどは真由がびっくりした。
「ええ?!聞いてないよ、そんなの!」
「別に言うほどの事じゃないから。相手の事ほとんど知らなかったし」
「じゃ、振ったの?」
「まぁ、無下に振るほど冷酷じゃないし、ちゃんと話し合ったけど、そうよ。断った。当然でしょう」
「今はその人とどんな関係なの?」
尋ねたのは海だった。
「関係もなにも、元々そんなに深い仲じゃなかったんだ。別にどうもしないよ」
「そっか」
海はテーブルに置いてあった自分の両手にあごを載せた。
「どうしたの、海?告白でもされたのか?」
左の女性はそう尋ねて弁当から取り出したプチトマトを口にした。
「うん。かなり仲のいい人に」
「その様子だとめだたくハッピーカップルになった訳じゃなさそうね」
「分かる?それどころかだんだん疎遠になっているような気がする」
「どれくらいの付き合い?」
「去年入学した早々からの。たまには話してるでしょう?柔道部での強い友達」
「ああ、才機だっけ?」
真由が本人の名前を思い出す。
「そう。三週間前に告白されたんだ。私全然気付かなかった、才機がそういう気持ちだったなんて」
さっき海が聞いた質問を今度聞かれた人が海に聞き返す。
「で、今はどんな関係なの、二人は?」
「···分かんない。でも前と違うのは確か。話はしてはいるんだけど···なんか、無理にというか、不自然というか。こう、お互い本当の自分を見せていないみたいな」
「じゃ、本当の海はどうなの?何がしたい?」
真由は海の目を直視する。
「本当の私?本当は前みたいに楽しくやりたい。一緒にふざけたり、からかったり、助け合ったりさ」
「一緒にいるのがそんなに良いなら付き合ってみたら?」
「そう言われても···」
海はちょっとそわそわして目を逸らした。
「複雑です」
最後の方はすねるように行った。
「だったらさっき言った事を彼に言うしかないんじゃない?」
「そう簡単に言えるもんじゃないでしょう、それ」
左側の女性が口を差しはさんだ。
「分からんな」
海と真向かいの席に座っている人が頬杖をついて胡麻の掛かったご飯を何回か箸で突いた。
「彼氏と別れた後でも、翌週には何もなかったように私達は普通にいつも通りやってたけど」
「その話はもういいから。八歳じゃないんだから私達は」
今度は顎に止まらず、海がテーブルに置いてあったその手に完全に突っ伏した。
•••
「この前のテストの平均はちょっとばかり低かったので同じ内容をまた来週のテストに
出すぞ。言うまでもないと思うがもちろん、最近勉強した事も含めてね。今週末を利用してしっかり勉強する事だな。以上」
才機はノートとテキストをバックパックに入れ、席を立った。教室を出ようとした時にちょうど海もそのドアをくぐるところだった。才機は道を譲った。
「どうぞ」
「サンキュー」
校舎を出る時もドアを開けておいて先に海を通らせた。才機は今までこのような気を使うのが普通だったかどうか判断しかねていた。海が外に出た途端に顔に吹き付ける冷たい疾風に迎えられた。
「教室の中でも風の音がしたんだけど凄いね、これ」
風がもろに目に入らないように才機は少し顔を背けた。
「本当。しかもいきなり」
「雲もやばい感じがするなぁ」
「天気予報でこんなの一言も言わなかった。うわっ、さむっ」
海が手を上着のポケットに突っ込んだ。
「早く道場に行こう」
「うん」
足早に歩いて二人はやっとの思いで道場に辿り着いた。
「ああ、寒かった〜。これじゃやる気が出ないなぁ」
海は手を必死にこすって暖めようとした。
「ま、とりあえず着替えよう。始まるまでに少しは暖まるだろう」
部活開始時間になったら体は多少暖まってきたけど海はもうちょっと暖まってもいいと思っていたが、そんな弱音は才機に通じるはずがないから観念した。部活動に加わる以外道はない。
部活が終わったら、帰ってぬくぬくとベッドの毛布に包まれたい気持ちは山々だったけど、スーパーでの買い物をお母さんに頼まれていたので帰るのはまだ早い。今日は弟が車を借りているから電車で帰らないといけないし、長い一日がまだまだ続きそうだ。海は出口に向ってその話をもう一人の部員にしていた。その話は扉の近くで他の部員が帰るのを待っている才機にも聞こえた。
《こんな天気で買い物か。手伝った方がいいよな。一人じゃ大変そうだし。海は喜んでくれるはずよね。こっちに来たら何気なく「手伝うよ」って言えばいい》
そして海ともう一人の女子が近づいてきた。
「じゃね、才機」
「また明日、東先輩」
「うん、じゃな」
二人は去って行った。
言えなかった。
言えると思ったのに土壇場でおじけづいて言えなかった。
しばらくしたら他の部員も皆帰ったので才機も帰途についた。外に出ると強風に加えて霧雨も降っていた。
《くっそー。何やってんだ俺は。「困らない?」とか言っておいて俺が普通に出来ないじゃないか》
才機は首を振った。
《いつまでもこんなんじゃ駄目だ》
やがて才機が正門を通り抜けて立ち止まった。
《まだそんなに遠くには行ってないはずだよな》
今日、学園を去って才機はいつもと違う方向に向かって走って行った。
•••
天気はひどくなる一方だった。
《今度は雷かよ。何だこの異常気象は?海は買い物に行くのを諦めたかな。雨はまだそんなに強く降っていないけど》
確かにこれくらいの雨なら使いに行くのを思い止まらないかもしれない。雨というより靄に近い。でもその割には雷鳴の轟きがやけに頻繁になってきた。才機はスーパーへの道を急いで海に追い付こうとした。
《海が同じ道を使っているといいんだが···》
才機が駆けていたのは彼が最も直接だと思っているルートだけど、大学からスーパーまでは一本道じゃないから海はどこで曲がったか知る由もない。幸いに人はそんなに多く出歩いていないが、海の姿が見当たらない。引き返して別のルートに当たってみようと思ったら、海が川にかかっている橋を渡ろうとしているのを発見した。
《いた!》
「海—!」
呼びかけて彼女の所へ駆け出す。
しかし才機の声は風にかき消され、海の耳に届かなかった。二人の間の距離が縮まってきたところでもう一度海の名前を呼んだ。
「海!」
今度は聞こえたようだ。本人が全身をくるりと向き直った。そしてまるで彼女と接することで何かの禁忌を破ったかのように、同時に空が光り、雷鳴が不吉に轟いた。
《?》
海は片手をかざしてそれまで背中にぶつけてきた風から目を覆った。前方を見ると指の間の透き間から才機のぼうっと見える姿が程なく明確になってきた。
《才機だ》
後二十メートルで海の側に辿り着いたその時、先程の雷が橋の上にぽつぽつ植えられ
た木の一本に落ち、その木がパッと燃え上がって倒れ始めた。落雷された木は橋の右側にあった。海からは道を隔てた真向かいで起きた事とはいえ、海は橋の左側にいたから下敷きになる可能性は万に一つもない。だが、対向車線で後ろから向ってきていたトラックはそれを回避しようと強く右折し、炎に包まれて落ちてくる木をぎりぎりで避けた。そしてそのはずみでトラックの新たなコースの真っただ中にいるのは海だ。本人はその事に気付いたが立ちすくんでいて身動き取れなかった。才機の走りが猛烈なダッシュに変わた。でも間に合いそうにない。あのでっかいトラックを完全に避けるのは不可能。
「危ない!」と叫んで海を両腕で掬い上げた···そして半ば海を肩に担ぐ形で橋の低い欄干を間一髪で跳び越えた。トラックが欄干に衝突する雑音が響き、二人は頭から先に川へと墜落する。九十メートルかそこらの落差だ。川の深度はせいぜい二メートル。無事では済むまい。無駄だろうが才機は本能的に海の頭と体を自分の腕で守ろうとしてもっと力強く抱き締めた。激突まで後六十メートル。四十メートル。二十メートル。又しても稲妻が空を走った。そのとび切り大きい落雷が空中の二人を覆って吸い込むように見えた。
•••
闇。物凄い土砂降りの音しかしない。体が寒い。体熱が地面に奪われていく。地面?海はうめき声をあげてゆっくりと目を開けた。上半身を起こして周囲をよく見ると、どうやらどこかの小さな洞穴にいるみたい。周りには何もないし、誰もいない。外は雨が降っているらしい。海はそれまで何があったか思い出そうとした時に声が聞こえた。
「よかった。気が付いたみたい。大丈夫?」
問い掛けてきた声の方へ顔を向けると、洞穴の入り口に才機がいた。
「うん、大丈夫。頭がくらくらするけど」
海はそのがんがんしている頭に左手を添えるところだったが、急に腕を訪れた痛みのせいで動きを止めた。しかめっ面をしながら右手でその腕を握りしめてから袖をまくり上げた。二の腕に打撲があった。
「あぁ、わるい。さっき海を持ち上げた時に物凄い勢いでぶつかったからなぁ。多分そのせいで」
才機は海の隣にあった岩に腰を下ろした。
才機の言葉を聞いて先ほどの出来事の記憶が一気に戻った。
「ううん。命を救ってもらって相手に謝られる必要はないよ」
海は外の雨を眺めて才機に聞く。
「どこ、ここは?才機が運んでくれた?」
「いや。目が覚めたら俺はここで海の···」
才機は明後日の方向を見てから続きを言う。
「···俺も横たわっていた。ついさっきの事だ」
「じゃ、誰か私達をここに連れてきてくれたってこと?」
「そうとしか思えないけど起きたら他の誰もいなかった。海は息をしてたからそのうち
起きるんじゃないかと思って外の様子を見てきた。でも···変だ」
「何が?」
「俺達は今どこいるのかさっぱり分からない。この辺りの地形に見覚えが全くない。そもそもこんな崖はあったっけ?」
「近くに誰もいなかった?」
「海の事が心配であまり遠くは行かなかったが人気ははなかった。外は森みたい」
海が眉をひそめた。
「大体、なんで俺達が助かったのか分からない。海のその打ち身を除いて俺達は傷一つも付いていない。どういう事だ?」
海が自分の体を確認して才機が言った事が本当だと気付く。
「まぁ、とにかく生きているだけでも感謝しなくちゃ」
「そうね。まじで俺達はあの世行きだと思った」
ざあざあと降る雨は耳をつんざくような音がした。雨が一段と強くなったらしい。才機は海が次に言った事をかろうじてしか聞き取れた。
「ところで···」
「ん?」
「なんで才機がそこにいた?橋の上」
「え?あぁ、海の買い物を手伝おうと思って。ほら、天気はあれだったし、一人じゃ大変じゃいないかなって。それに···」
才機は海から顔を背けた。
「最近、俺は海を避けているような気がして。別にそのつもりはないのに」
少しの間、洞穴は雨以外何の音はしなかった。
「てっきり私の方が才機を避けていたと思った。前のように話してないし、才機の周りで変な気を使ってるし」
「それは俺だろう。今日だって···少なくとも今日だと思う···本当は海が帰る前に手を貸そうと思ってたけど言えなかった」
「それを言うんなら、私も才機に手伝ってもらおうと思ってたけど頼めなかった」
二人は何も言わず、ちょっとの間互いの顔をじっと見ただけ。そして同時に笑い出した。あの時以来、久しぶりに心から一緒に笑った。
にやにや笑いがまだ少し顔に残った海は膝を抱えた。
「ありがとうね。助けてくれて」
「何水臭い事言ってんだよ。当たり前だろう?···って言うか、助けたって言えるかな。あれは正に一難さってまた一難。後先の事全然考えてなかった。橋から飛び降りた後は完全にお手上げだった」
「それでも、気付いたよ···落ちながらも私を守ろうとしてくれた事」
才機は肯定する事も否定する事もせず目の前の壁を見るだけだった。
「なんか、久しぶりね。こんな風に話すのが」
海はそう言って懐かしむように少し微笑んだ。
「そうかもね」
そこで海は真由との会話を思い出した。
《本当は前みたいに楽しくやりたい。一緒にふざけたり、からかったり、助け合ったり》
《だったらさっき言った事を彼に言うしかないんじゃない?》
自分の膝を見ながら海は切れ切れの声で言いう。
「ね···前みたいに···さ、また才機と一緒にふざけたり、からかったり···助け合ったりしても···いいかな?だめかな?」
「だめ?俺は願ったり叶ったりだけど」
海は才機と目を合わせて肩の荷が下りたような感じがした。
「ごめんね」と海が急に誤った。
「何が?」
「何でも」
「謝らなくていいよ。罪悪感も感じなくていい。自分の気持ちは自分ではどうしようも出来ないんだから。ってゆうか、気にすんな、本当に。言ったろう?海の事が気になるって。飽くまでそれだけだから。好きになった訳じゃない。正直に言うと海以外に他にも気になる子が何人かいるよ。ただ、一番気になっていたのは海だったってだけだ。そして海も同じ気持ちだと勘違いした。それだけの事だ」
才機は自分をも説得しようとしているような気がした。
今でも海の事がまだ気になるかどうかははっきりと言わなかったけど、海はそれを考えるのを後回しにすることにした。
「じゃぁ、聞きたい事あるんだけど」
「何?」
「私が寝ていた間に···私に何か変な事をしなかった?」
海は才機を怪しむような目で見る。
才機は危うく岩から落ちそうになった。
「え?!な、何言い出すんだ?する訳ないじゃん!」
「だって、さっき才機が起きた事情を説明した時、なんかたどたどしく話してた。変に目を逸らしたし」
「そ、それは···その、うそをついた訳じゃぁ、ないけど。目が覚めたら横たわていたんだ。ただ···」
「ただ?」
「ただ···地面じゃなくて、海の上に···海を抱いたまま横たわていた···。でも疚しい事はしてないよ、本当!」
「どうだか。気絶している女の子を目の前にして男は果たして理性を保てるものかしら。好き放題やっても明るみに出る事はないでしょうし。そう言えば私の体に傷がないのをよく知ってたわね」
「それは見たところって意味だった。体を実際に調べたりしてないよ。じろじろ見てた訳でもないけど。まぁ、見てたけどそういう目で見てたんじゃなくて、なんっつうか、心配だったから···」
慌て出す才機。
その点、海が爆笑した。
「冗談だよ。才機がそんな事をする人じゃないのは分ってる。あんたなんか人畜無害だ。ふー、やっぱ才機よりからかい甲斐のある奴はいないよ。少し元気出た」
才機は肩の力を抜いて、ため息まじりに言う。
「ったく。願ったり叶ったりって言ったのは間違いだったかな。っつうかお前の元気の源をどうにかしろ」
海の顔から笑顔が忽然と消えて、洞穴の入り口の方を見た
「あれっ。誰かが来る」
才機は海の視線を追って外を見る。誰も来ない。
「誰もいないよ?言っただろう?ここは人の気配がないんだ」
海は額にしわを寄せて首をかしげたが、外を見続けた。確かに誰かがいたような気がした。
「足音でも聞こえたと思った?あったとしてもこんな雨じゃ外の足音なんてとても」 才機が自分の台詞を言い終える前に入り口の右側から恰幅のよい六十代前半の男が現れた。頭のてっぺんの灰色の髪がちょっと薄かったがそれ以外は肩を超える長さで、背中に結構大きいなリュックを背負っていた。
「あら、先客がいたのか。わしもここで雨宿りさせてもらってもいいでしょうか?」
返事を待たず男が洞穴に入ってきた。
「う、うん。どうぞ」
返事したのは才機だった。
男はびしょびしょになったリュックを地面に置き、二人と向かい合ってあぐらをかいて座った。
「いや〜、それにしてもすげぇ雨ですね。もっと早くここを見つければよかった」
「あの、ちょっと変な質問かもしれませんが、ここはどこですか?」と海が尋ねる。
「ん?二人とも旅人かい?それにしちゃかなり身軽に旅しとるのぉ。ここはトゥリエ森じゃよ」
「トゥリエ?」
海が再確認して、「知ってる?」と言わんばかりに才機を見た。
才機はただ首を振って肩をすくめた。
「もしや二人はメトハインを目指しとるのか?」
「あー、いや···。メトハイン?ここは日本だよね?」
才機がおどけて言った。冗談のつもりで言ったのだけれど、受けなかったらしい。男は混乱した表情を見せた。
「どちらの方々ですか?」
「東京···だけど?」
「トウキョウ?どこの田舎か知らんが、旅をするんだったら旅先ぐらい知っといた方がいいぞ」
《田舎?》
才機と海が同時にはてなマークが見て取れそうな表示になった。
「とにかくこの辺にある町は南のガルドルと北の都のメトハインだけさ。ま、ガルドルは町と言うよりスラム街みたいなもんだがな。わしはそこに向っとる」
才機も海も同じような事を考えていた。一体どこに連れて来られたんだ?それとも、この人は正気でないのか?だとしたらなぜかこの人からはそういう印象を受けていないけど。
「日本って知らないんですか?」
白い目で見られる覚悟で海は試しに聞いてみた。
「んー。わしは地理学が専門じゃないが聞いた事ないな、ニホンという土地」
《いかれてるかとんでもなく勉強不足だな、こりゃ》と才機が思う。
「あなた達、ただあてどもなく旅しとるのかい?見たところ消耗品はもう使い果たしてある。よかったら一緒にガルドルまで行くか?メトハインほど立派な所じゃないがメトハインよりずっと近い。このまま西に歩けば約三十分で着く」
「じゃぁ···そうしようかな」
海が同意を求めるように才機を見た。
「ああ、そうだな」《とにかく町に行けばここはどこだか分かる》
「あなた達、もしや···いや、なんでもない」
男は何となく深刻な顔で言いさしたから気になったけど言わないのなら仕方がない。
「あ、忘れとった。自己紹介はまだじゃったな。わしはゲンと言ってこう見えても商人をやっとる。主にメトハインの商品をガルドルで売っとるからその間をよく行き来する」
「俺は才機。彼女は海。···旅の途中でちょっと道に迷ったみたい」
「そうか。ま、穿鑿はしないけど結構遠くから来たみたいじゃな。珍しい服も着とるし」
ゲンはリュックの中で何かを探し始めた。
「あれはどこにしまったかな。お、あったあった」
何か緑と赤色のナスに似た奇妙な果物らしい物を三個取り出した。
「やっぱびしょぬれじゃ。これじゃあまり高く売れないなあ。可笑しいよね、ナッチは。熟した後は濡れすぎると駄目になっちまうんだ。もう、しなびかけとるけど、今なら味の大部分はまだ残っているはずじゃ。食べる?」
「いいんですか?」
心中ではその見たことのない果物を疑わしく思いながら海がそう聞いた。
「もちろん。どうせガルドルに着く頃には価値のない荷物になるぐらいなら皆で噛み締めた方がいいじゃろう。はい、お嬢ちゃん」
ゲンは一個を渡した。
「ありがとうございます」
「はい、兄ちゃんも」
「どうも。これ、ナッチと言った?」
「そうよ。まさかナッチを食べた事ないとは言うまいな」
ゲンはその果物らしい物体にかじりついた。
「それが···ないんです」
「へぇー。ひょっとして二人の故郷は一年中ほとんど気候の寒い所とか?」
「そうでもないけど···」
才機はそう言ってナッチを注視し始めた。手ざわりは意外と柔らかい。皮を向いたバナナみたいだった。
海が一口食べた。
「なんか、ピリッとするナシみたいだ」
次は才機が味見してみた。
「悪くはないね」
「水を吸収する前だったらもっとうまいよ」
食べ終わった後、間もなく雨が次第に収まり、ようやく止んだ。
「お、やっと止んだみたい。それじゃ、今の内に出発しようか」
ゲンは立ち上がってリュックを背中に掛けた。
三人は洞穴を出て周りの様子を確認した。海は外に出るのが初めてでびっくりした。本当に森だった。ずっと洞穴にいたから自分がこんなうっそうとした森の中にいるとあまり実感しなかった。
「でかい蔓がうじゃうじゃしとる所もあるから足下に気を付けて」
ゲンがそう忠告して森の奥へ進んだ。
才機は空の方を仰ぎ見た。
「雨上がりの虹はないっか」
•••
ゲンに案内されてガルドルを目指してから八分。不気味な音がした。
「オウウウウウウウー」
「何?今の?」
海は立ち止まってきょろきょろと辺りを見回した。
「まずいなぁ。雨が止んで出てきたのはわしらだけじゃないようじゃ。ペースを上げよう」
ゲンは心配そうな顔で二人に急ぐように促した。
「今のって狼か何か?」
警戒しながらも才機は思わずちょっと見てみたいと思った。
「そうじゃ。この辺には狼がうろつくから近道ではあるが森を経由することには危険が伴う。昼ならともかく、この時間帯は特にね」
「人が襲われたりしますか?」
海はひそひそとゲンに聞いた。
「そうよくある事じゃないが、前例はある。もっとも、人はこの森をあまり通らないけど。わしの場合、雨が降り出す前にガルドルに着こうと思ってこの森に入った。失敗じゃったがな」
「オウウウウウウウー」
今度は前より近くに聞こえた。
「いかん、狙われとるかも。」
ゲンは目だけで左右を確認した。
「走るぞ」
振り返りもせずゲンが走り出し、才機と海はゲンの後について走った。無数の木を避けながら二人の心臓は激しく鼓動していた。森の地面はむらがあって全力で走るのがち
ょっと難しい。気を抜いたら落ち葉に隠された石や木の分厚い根っこにつまずきそう。
「オウウウウウウウー」
三人は明らかに追われている。このままだと追い付かれるのは時間の問題だ。身をかくまえそうな場所もどこにも見当たらない。才機は何かの策を考えようと必死に頭をひねっていた。そのせいかどうかは定かではないが、才機は力強く転んだ。それを並行して走っていた海が視野の端で見て百八十度転換し、才機の元へ引き返した。
「こんな時に何転けてんのよ?!早く起きて!」
「あいたっ。何かに引っかかった」
才機が前を向くと海は自分が落ちている場所に戻ってきていた。
「バカ!何やってんだ、お前?!こっち来んな!あっちへ逃げて!」
「置いて行ける訳ないじゃない!」
海は才機の腕を掴んで助け起こそうとしたが才機のひざが地面から離れない。
「足が」と才機が一言言って体を引っくり返した。左足が蔓に絡まれていた。しかもかなりもつれていた。
「一体どう転べばこうなるんだよ?!」
海はもつれた蔓をほぐすのを手伝おうとする。
ゲンは立ち止まって二人に呼び掛けた。
「急げ!もうすぐここまで来とるはずじゃ!」
「もういいから、先に逃げて!俺もすぐ行くから!」
「もう少しだ。足を引っ張って!」
海はそこから動かそうとせず、才機の足を自由にしようとするが、厚過ぎてなかなか千切れない。十メートル先に木の後ろから出てきた一匹の狼が接近しているのが見えてきた。
間に合わなかった。
狼は口を開けて才機に突進した。才機は反射的に腕を正面に上げて目を強く閉じた。狼の鋭い牙は才機の首に届かず、腕にかじりつき、海は悲鳴をあげて尻餅をついた。
《今度こそ終わりだ》
才機は諦観してこの世を去る覚悟をする。
直にこの狼の仲間の何匹もやってくる。死を免れたばかりなのに。狼は自分の事で手一杯で海達を追わないよう祈るほか手はない。海がさっさと逃げてくれればの話だけど。才機の腕に狼の牙の感触を感じる。
感じてはいる···けど···
《あれっ。痛みがない。ってゆか、肌が破られた感じすらしない》
目をゆっくり開けて腕を見ると本当にそうだった。同時にその腕をくわえている狼の唸る顔面も視界に入った。その脅迫的な毛まみりの顔をこんなに間近に見たら然もの才機もぎょっとして腕を激しく揺り動かした。すると狼はきゃんきゃん鳴く声をあげ、あたかも石ころのように数十メート先の木の方に飛ばされてその幹に激しく叩き付けられた後、地に落ちて動かなくなった。今しがた到着してその場面を目の当たりにした二匹の狼はためらって才機と海の前に立ち止まった。怒ったような唸りで耳を閉じて、いつ飛び掛かってきてもおかしくない体勢に入っていた。五秒前に何がどうなったか分かっていないまま才機はおもむろに立ち上がって海の前に移動した。足が地面に繋ぎ止めていたという事を忘れていたが、立ち上がったら蔓は気付かないほどいとも簡単に折れた。「立って」と海にささやくところだったが狼が一匹山気を起こして才機に襲いかかった。才機はまたしても腕を盾にした。そして結果は同じだった。狼の牙が腕に圧力をかけているのを感じものの、なぜかその牙は肌を貫かない。どういう事かさっぱり分からないが、とりあえず腕からぶら下がっている狼を左手で突き飛ばした。突き飛ばされた狼はもう一匹の狼の上に落っこちそうだったがぶつかる寸前に素早くかわされた。その狼は仲間と同じ目に遭いたくないらしくて渋々退いた。残った狼は立ち直って同様にこれに続いた。胸を激しく波打たせて才機はその場で立ち尽くしていた。ほどなく後ろから海の声が聞こえた。
「さ、才機。その体···」
「?」
才機は下を見て体に特に異常がないと判断したら足に巻き付いている蔓に気付いた。
《あれっ。いつの間にか折れた》
折れたとは言え、しっかり足首に絡みついている部分が未だ残っている。才機は手を下へ伸ばして蔓を引っ張った。さっきはあんなにてこずったのに今はほとんど力を入れないで軽々と取れた。蔓をむしりとった自分の右手をよく見るとガラスで出来ているみたいに肌がつやつやしていた。狼の牙に破かれた袖を退けると腕もそうだ。海があんなに驚いたのはきっとこれだ。
「な、何···これ?体は全部こうなのか?」
才機は小さな声でそう言って両手と腕を疑いの目で見る。
まだ地面の上に座っていた海はじっくりと手を伸ばし、才機の腕を触った。そして触れた瞬間、やけどでもしたかのように速やかに手を引いた。だが才機の腕は全然熱くなかった。むしろ驚くほど冷たかった。そして、硬かった。人間の腕よりもまるで水晶玉を触っているようだった。海の反応を見て才機も自分の腕を触ってみた。自分の体なのにやはりびっくりのあまりに同じ反応を示して二歩下がった。
「あ···元に戻った」
才機の体に穴が開くほどに海が才機を凝視する。
「ん?本当だ。一体なんだった、今のは?」
才機は腕に柔らかい感触が戻ったことを確認して誰にともなく聞いた。
「やっぱり異能者じゃった」
ゲンが歩み寄ってきた。
「え?どういう意味?」
才機はこれ以上ないくらい混乱した顔を見せた。
「まあ、心配すんな。わしもそうじゃ。こんな大きい図体であんなに早く走れて変じゃ
と思わなかった?まぁ、さっきはひたすらに走っとったから気が付かなかったんじゃろうけど」
才機と海の目の前にゲンの腰が見る見る小さくなって最終的に才機と同じぐらいの大きさになった。二人は絶句していて何度も瞬きする事しか出来なかった。ゲンはその驚きに気付いていないようだ。
「ある程度こうやって自分の体の大小を自由に出来る。ずっとこの姿でいればいいのにと思っとるじゃろうけど、結構疲れるよ、これが」
才機と海はまだ無口のまま。
「どうした?」
ゲンは体を元に戻した。
「そりゃお前さんほど便利な能力じゃないが、役に立つ時はちゃんと」
ゲンが言い終える前に才機が大あわてで何回も首を左右に振って遮った。
「待って!持って、待って!ちょーーっと待って!今、何をした?!」
「ん?だから、自分の体の大小を」
「そうじゃなくて、なんで出来るんだ?!」
ゲンはこめかみの所を人差し指で掻きながら答えた。
「そう言われても、お前さんも出来るじゃろう?その、さっきのあの凄い力」
「そうだよ!なんで俺がそんな事出来るんだ?!」
「もしかして···その能力が発生したのは初めてじゃったとか?」
「ええ」
「ふーん。そいつは大した奥手じゃな」
「ん?奥手?」
「だって、アナトラス現象が起ってからもう三年近くになる」
「え?アナ何?」
「おいおい、アナトラス現象が知らないなんてどこの山でこもって隠棲しとたんじゃ?」
才機からも海からも返事はない。
ゲンは交互に二人を見て聞いた。
「え?本当に知らなんのか?」
二人は首を振る。
まだ疑っているような顔をしていたが、ゲンが説明に入った。
「その···なんだっけ、トウキョウ?ってとこはあまり影響受けてないのかのう。まぁ、アナトラス現象ってのはほぼ三年前、帝国が推し進めた計画にまつわるものじゃ。何でもロケットを宇宙に打ち上げて色んな実験や探検をする計画じゃったらしい。でも失敗じゃった。ルヴィアの成層圏で爆発したんじゃ。ロケットには実験で使う為の素材が一杯運んどった。中に開発したばっかりの化学物質が入っとた。その物質が爆発の熱によって恐ろしい速さで自己増殖し、大気で分散して僅か数日で世界をまとったという。そして適合性については分かっとらんが、その影響である人間は変化を受けた。それが表現型の変化であればそうでない変化もあった。爆発したロケットの名称はアナトラス。わしらみたいな一見では普通の人間とまったく見分けがつかない人は異能者っていって、表現型の変化までを受けた人は異形者。後者の方が少ないがね」
才機は言われた情報を処理しようとしている間に海がゲンに質問をした。
「今の話、ルヴィアの成層圏って言いました。ルヴィアって?」
「ん?ルヴィアって言ったらルヴィアじゃろ。この星以外のルヴィアってあるのかね?」
才機と海は顔を見合わせた。
才機は人差し指を立ててゲンに言った。
「ちょっと待って」
それから未だに立ち上がらない海の側でひざまずき、二人の背中をゲンに向けてひそひそ言い出した。
「今、この星の事をルヴィアって呼んだよね」
「うん」
「地球じゃなくて、ルヴィアって言ったよね」
「うん」
才機の目はゲンを求めたけど、この向きでは難しいのでぎりぎり視界に入る程度で横目でその顔を見た。当の本人は何だろうという顔をしていた。
海は才の手首を掴んだ。
「まだあの洞穴の中だったら一秒でも本気にしなかったでしょうけど、今までの出来事を考えると···でもそんなことあるはずないよね?」
そうだと説得して欲しいとでも言うように海は才機に聞いた。
「じゃあ、あのガルなんとかという町に着いたら他の人に確かめよう。ここはルヴィアってまた言われたら俺達は橋から落ちた後、死んで別世界に転生してきたの決定だ」
才機は半ば冗談めかしてそう言った。
「二人とも、大···丈夫?」
後ろからゲンの声がした。
才機は海に手を貸し、立ち上がらせた。
「うん、大丈夫。先を急ごう」
ガルドルへの道のりを再び歩き出そううと思ったら、ふっと才機の頭に何か浮かんできたようで歩いてきた方向を向いた。
「どうした?」と海が聞く。
「あの狼。俺が吹っ飛ばしたした狼。どうなったかな。あんなに強く飛ばすつもりじゃなかったけど、体がああなった時は腕力が数倍になってたみたい」
「仕方ないよ、あんな状況じゃ。当然の自己防衛」
「でも、もしあの辺でどうすることも出来なく苦しんでいるなら一思いに止めくらいを···」
「才機がそういうの気にするタイプなのは分かるけど、いちいち気にしていられないよ。特に今は」
「二人ともそんなに離れないで。後少しとは言え、この辺が分からなかったら迷う可能性はまだ十分ありうる。日が暮れかけているしね」
先に行っているゲンが二人にそう呼び掛けた。
「行こう?」
海が才機の腕を優しく引っ張った。
「ああ」
•••
日はもう完全に暮れている。前方がよく見えないので才機と海はゲンの後をぴったりつ
いている。
その暗さの中で海は急に言い出した。
「あ、いる。町に着いた」
「俺は目の前の木々しか見えないけど···」
才機は細目で町どころか数メートル前が見えなかった。
「いや、お嬢ちゃんの言う通りじゃ。もう直ぐ森を出るよ」
そして後三十歩ほど進むと三人は森を抜け出した。約六十メートル先に確かに町があった。
「なんで分かった?俺は何も見えなかったよ」
小さな町を見下ろしながら才機は海に聞いた。
「いや···なんでだろう···」としか言わなかい海。
「さ、行こうか」
ゲンが斜面を下り始めた。
町に入ると色んな人がいた。ゲンはどことなく日本人の顔立ちをしていたが、この町の人間は皆それぞれ違っていた。
才機は海に耳打ちした。
「ね、アメリカなんじゃない、ここ?日本でこれほど多様な人種の人がこんなに集まるのは空港ぐらいだ」
「アメリカにしては時代遅れ過ぎじゃない?街灯を見て。電気じゃなくて火がともってる。ビルだって全部石で出来ていて十五世紀のヨーロッパの建物みたい。この町の周りの地域は見渡す限り全然開拓されてないし、それに周りの声をよく聞いて。皆日本語でしゃべっている。なぜアメリカ人が日本語で喋っているの?」
先導しながゲンが二人に話しかけた。
「この町は昔捨てられたんじゃ。グリゴの大群に荒らされてね。二年前に人がまた住み着くようになって、ここまで再建したんじゃ。ここの住人は皆わしらと同じ異能者よ」
「グリゴ?」
海が首を傾げた。
「二人の故郷にはいないのか?羨ましい限りですなぁ。でっかいクモみたいなもんさ。大抵の人間よりもな。おぞましいもんだよ、これが。ここら辺にはもういないけど」
「ここは好きになれそうにない」
才機が独りでつぶやいた。
「ん?何か言った?」
海が才機の方を見た。
「いや、何でもない」
「じゃ、わしは色々と用事があってね。ここら辺で失礼する」
「そうですか。案内してくれてありがとうございました」
海はお辞儀して礼を言った。
「いいって、いいって。こっちは頼もしい用心棒がついたからお互いさまじゃ」
手を振りながらゲンは二人と別れた。
「さてと」と才機は何かを探しているようにぐるっとあたりを見回した。そして通りかかって来る男に目をつけた。
「あの、俺達東京に行きたいんだけど、一番近い駅はどこでしょう」
「トウキョウ?悪い、知らない。駅って?」
「東京、日本の」
「いや、悪いけど知らない」
「えっと、じゃアメリカは?アメリカならどう行けばいいの?」
「え?」
「じゃ、ヨーロッパ。ヨーロッパ分かる?」
男は才機を怪訝そうな目で見てそのまま横を通り過ぎ、去りながら不機嫌そうに言い残した。
「酔っ払いと付き合ってる暇ねぇよ」
去って行く男を少し見てから才機は直ぐに次のターゲットを探して声を掛けた。
「あの、この惑星は何って言うの?」
才機はその人から変な顔をされながら素通りされた。
海は手の甲で才機の肩をぶった。
「あほか?こんな時間に見ず知らずの他人にあんな事を単刀直入に聞かれたら変人だ
と思われるに決まってるでしょう」
また男が一人近づいてくる。
「どいて」
海は才機の前に出て男に声をかけた。
「すみません」
「ん?」
「ちょっといいですか?本当に情けない話だと分かっていますが私の兄はまるで常識ってもんがなくて、今揉めていたんです。まぁ、学習障害を抱えている人だから仕方ないのは分かっているけど、もう頭がどうにかなりそうです!私が何回言ってもこの人は聞かないんだからそちらからも言ってやってくれますか?この惑星は何という名かを」
「え?惑星ってルヴィアの事?」
「ほら、言ったでしょう?ルヴィアって」
「そんな事も知らないのか?小学校からやり直した方いいんじゃない、坊主?」
男が嘲笑ってその場を去った。
「これで俺は晴れて情けなくて無常識な人間か」
「そんな事より言ってたよ。ルヴィア」
才機は溜め息をついた。
「正直あまり驚いてはいない。言うと思った。他の誰かと確かめようと言ったが···。ナッチという見た事も聞いた事もない果物。アナトラス現象。異能者。異形者。人間より大きいクモ。地球って言ってくれるはずがなかった」
「こんなの···こんなのありえないよ。ここってもしかしてまだ発見されていない古代文明?外界からずーと、ずーと途絶されて」
「このご時世に?それも結構ありえないと思うよ。見たところここは孤立した場所でもなんでもない。俺だって信じたくないが、ここは俺達が知っている地球ではない以外の説明がつかない」
才機は直ぐ側にあった長い間水を噴出していなさそうで完全に干からびた噴水の外縁に腰を下ろした。暫くまっすぐ前を見てから頭の後ろで両手を組んで顔を膝の近くまで下げて独り言のように呟き始めた。
「やばい。やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい」
続いての沈黙。
隣でだらんと垂らした左腕の肘を右手で抱えている海は才機の方を見た。
「これからどうする、私達?」
「どうするって···警察に行って俺達は違う世界から来たんだど、助けて頂けますか、なんて言える訳ないし」
「自分の世界にちゃんと戻れるのかな」
「やっぱり、俺達はあの時死んで、本当に転生したんじゃない?」
「普通、転生すると赤ちゃんからやり直すのが順当じゃないの?それに前世の記憶はないはず。まぁ、転生した事ないから分かんないけど」
海の声に悲しげな響きが混ざっていた。
「じゃ死んでないなら···死んでないなら···もー、どうしたらいいんだ俺達は?!」
「それは私がさっき聞いた」
二人はまた無言で数秒間を過ごす。
「取りあえず目の前の問題に取り掛かろう。ちょっと寒くなってきた。俺達は今夜どこで止まる?」
才機は差し迫った問題を提示する。
「私、お金そんなに持っていないよ。才機は?って、この世界では使えるんだろうか?」
「財布はある。でも国によって通貨が違うなら世界もそうだろうなぁ」
海はポケットに手を入れとハッとなった。
「あれっ。財布がない!逃げていた時に落としたのか。あれ最近買ったばっかりのに」
才機は何年も使い込まれたらしいおんぼろの財布を出した。
「気にするな。どうせ宝の持ち腐れだろう。町に入った時、宿かアパートらしいビルがあった。駄目もとであそこで聞いてみる。ここで待ってて」
海は才機が向こうへ行き、角を曲がって消えるのを眺めた。約五分後に才機が戻ってきた。
「どうだった?」
「やっぱ駄目だ。ちょっと珍しいお金かもしれないが、これで何とかならないかって聞いてみたが、ここではトレイキという通貨が必要だそうだ」
海は視線を下に戻した。そしてその曇った表情を見て才機は自分の非力さを呪った。
「少しでも屋根のある所がないか見て回ろう。雨がまた降ってきたらかなわんからな」
才機はそう提案した。
町を歩き回るとゲンが言った通り本当にスラムみたいだった。道が汚くて、損傷を受けているビルが殆どだった。どんな路地裏も少なくとも誰か一人がそこに住み着いていたようだ。たとえ太陽がこの町を照らしていたとしても、雰囲気が暗い事に変わりはないだろう。少しでも防寒になるような場所は全て占有されていた。そんな路地を歩いていた時に前面にドアが開いて鈴の音がりんと鳴った。
「毎度お引き立てをいただきましてありがとうございます」
聞き覚えのある声だ。そのドアをくぐって出てきたのはいかにもゲンだった。
「おや、さっきの世捨て人達じゃないか。どうした、こんな所に?」
「あー、いや、町をちょっと探検してただけ」と才機が答える。
「ふーん」
ゲンは顎をなでて、しばらくの間二人を見た。
「あなた達、今夜止まるとこはもう決まっとるのか?」
「いいえ、まだ」
「そっか。だったらわしと来るか?今日はそれなれに儲かったよ。これから宿で部屋を借りるところじゃった」
「そう?正直助かります。俺達は野宿するしかないと思った。よかったね、海。行こう」
海はぼうっとしていて反応しなかった。さっき見回っていた時も同じような顔をずっとしていた。
「海?」
才機は海をひじで軽くつついた。
「ん?あ、ごめん。じゃ、お言葉に甘えさせていただきます」
「そう堅苦しくなるなって。困っとる時はお互いさまじゃ」
•••
辿り着いた宿は先ほど才機が尋ねた場所だった。内部は外見から見て予想通りシンプルで殺風景。壁に飾りが一つも貼られていない。一階にはペンキやニスすら塗っていない粗末な円形の木造テーブルが四台と各テーブルを囲む同じく装飾性の全くない四つの椅子だけだ。才機と海を引き連れてゲンは宿のマスターが後ろに立っているカウンターまで歩き、ポケットから茶色の革の小袋を取り出した。ひもをほどいて取り出した数枚の銀貨をカウンターの上に置いた。
「部屋を二つ下さい」
マスターは後ろの鍵掛けから二つの鍵を取って、お釣りと一緒にゲンに渡した。そしてゲンはその鍵の一つを才機に渡した。
「さてと、部屋でくつろぐとするか?」
ゲンは二階への階段に向かおうとしたら、とっさに才機はマスターに質問を投げた。
「地図は持っていないか?」
「地図?どんな?」
「世界地図···」
「世界地図はないが、この辺の地図ならあるけど」
マスターはカウンタの下を漁り、目当ての物を出してカウンターの上に広げた。
流石にそれを見ててさっぱり分からない才機と海だったが、地図の四隅に小さな丸い絵が書いってあった。
「こ、これは?」
才機が躊躇いがちにその丸い絵の一つを指差した。
「まぁ、世界地図といや世界地図だけど、こんな大きさじゃ参考にならんだろう」
どっちかというと飾りのつもりで描いてあったであろう四つの絵からは大したことは分からないが、それでも四つの視点から見る惑星がそれぞれの絵で描写され、どんな大陸があるくらいは大体分かる。そしてそれは明らかに才機と海が見慣れているような陸塊や大洋ではなかった。
「ありがとう」
手を地図から離し、最後の希望が砕かれたように才機の声には諦めいたものがあった。
海も心痛に耐えようとするように目を閉じた。
調べ物が済んだと見てケインは今度こそ階段へ歩いて上り始めた。その後に才機と明らかに滅入っている海が続いた。
廊下で右を曲がって三人は奥の方へ進んだ。
「あなた達のは一番奥の部屋みたい。わしは隣じゃ。何か入り用だったら知らせてくれ」
「どうも」
才機はまた礼を言い、ゲンが自分の部屋に退いた。
才機と海が隣の部屋に入るとその物寂しさは一階と変わらない。テーブルと椅子の数は一つに減っただけだ。但しベッドはちゃんとあった。そしてテーブルの上にランプもあった。海はその椅子に座り、才機はテーブルに置いてあったマッチを使ってランプに火をつけた。それから組み合わせた手を膝の上に載せている海を少し見てから言った。
「ちょっと待って。直ぐ戻るから」
才機は部屋を出てドアを閉じた。数分後、海は隣の部屋からドアがノックされる音の次に才機とゲンの声が聞こえた。話の内容までは聞き取れない。ドアの閉じる音がした後、才機は部屋に戻ってきて右手に持っていたカップを海に差し出した。
「下で頼んだ。本当は何か温かい物を飲んだ方が落ち着くだろうけど、ただの水だ」
海がカップを受け取ったら次は左手で持っていた物を渡した。
「これはゲンからもらった。普通にキャベツみたい。よかったら食べて」
「ありがとう」
海はそれぞれの手にある才機が持ってきてくれた物を見た。
《気を使われてるな、私。このままじゃ駄目だよね》
「ごめん」と海が急に謝った。
「ん?何が?」
「さっきからずっと自己憐憫におぼれて心配させたんでしょう?なんか、ここはもう地球じゃないって事が確実なものになったら凄く心細くなって。分かってたけど···分かってたけどどこかでまだ希望を必死に持っていた。こんな不条理な事が立て続けに起
きているのに私達はまだちゃんと自分の世界にいる可能性があると信じたかった」
「こんな状況じゃ誰だって怖くなるって。気にすることないよ」
「でも才機も事情が同じなのに私は自分の事ばっかりで。私の為に才機が巻き込まれたって言うのに」
「それは言いっこなしよ。海が無事なら違う世界に行く事ぐらい安いもんだ」
才機が笑顔を見せてやった。
「こんな事、言っちゃ悪いかもしれないけど、才機が一緒にいてくれて本当によかった」
才機も海と一緒にいられてよかったとは思っていたが、あえてそれを言葉にしなかった。
海は水が入ったコップをテーブルに置いて半分に切ったキャベツを少し手こずりながら二つに分けた。
「そんなに食欲ないから才機は半分食べて」
海は半分を才機に差し出した。
才機は千切られたキャベツを受け取ってベッドに座った。
「本当を言うと俺も結構動揺してる」
「そうは見えないけど」
「まぁ、感情がそう簡単に顔に出ないのは俺の特徴かな。俺達はどう帰ればいいかずっと考えてるが、そもそもここに来られた原因が分からない。また高さ七十メートルの橋から飛び降りる手はあるが、それはやりたくないよね?」
才機は海の意見を聞いてキャベツを一口食べた。
海は静かに首を縦に振った。
「だよな。今のところ、俺達が出来るのはいずれ日本に戻されるのを願うしかないと思う。その時が来るまでこの世界でどう生き延びるかに専念した方がいい。その点に関してはまだ考え中だけど」
「ゲンに頼んで何か仕事を紹介してもらえないかな」
「そうね。この世界で何とか自力で生活費を捻出しないといけない。明日にでも聞いてみるか。就活はまだ二年も先だと思ってたのになぁ」
その正に一汁一菜の食事を食べ終わったら、海は椅子から立ち上がった。
「ちょっとトイレ行ってくる」
「おお」
海は下で尋ねてトイレの在り処を突き止めた。そこでシンクの蛇口をひねって出てくる水を両手で集めた。水が溜まると上半身をかがめて顔を洗った。ぽたぽた水を垂らす顔で海はシンクの上の鏡を見詰めた。それから目をつぶって両手で二回頬っぺたを叩いた。
《しっかりしなきゃ。前向き、前向き。転落死よりずっとましだもんな》
目を開けてもう一度鏡を見る。
《よし》
海は左右を確認する。
「あ···。タオルがない···」
階段を上って海は部屋に戻った。ドアの取っ手を回して開けると奇妙な光景が待っていた。その光景とは立っている才機の後ろ姿。奇妙なのはどこかの何とかヤ人が力を上げて強く力むみたいに、才機の膝が少し曲がっていて、拳を握って腰の高さまで上げていた。ただ、才機の場合は何も叫んでいなければ、光るオーラも出していない。でも身震いしていたから体全体に力を入れているのが見て分かる。
「何···してんの?」
何かいけない事をしているところを見つけられたかのように才機は急速に転回して海を見た。
「ああ、いや、これは、その···」
才機は口ごもって頬が少し赤くなった。
「顔にちゃんと出てるよ、感情」
才機の頬はますます赤くなった。
「いや、だから、わけあってああしてたんよ」
「そのわけとは?」
「ほら、森の中で俺の体に起きた異変覚えてる?あれを再現出来ないかなって思った」
「何だ、そんな事か。遂に切れたかと思った。でも何か、気味悪かった、あれ。出来ればやって欲しくないけど」
「まぁ、確かに普通じゃないんだ。でもあの力を自在に出せたら何かと役に立つかも。実際、そのお陰で狼に襲われた時助かったし」
「そうだけど···ほどほどにね。才機の顔がガラスみたいになるんだもん」
海は部屋の向こう側にあった椅子にまた掛けた。
「見たところあまりうまくいってないんだね」
「うむ。あの時、俺は何をしたか分からん。気付いたらもうあの姿になっていたんだ」
海は近くの窓から外を見た。
「一朝一夕でどうにか出来るもんじゃないって事さ。それは明日にでも考えよう。結構遅くなってきたし、もう寝ようか?」
「そうね。せっかく、ここで泊まらせてもらっているんだ。海はベッドで寝て」
「そんな気を使わなくてもいいよ。才機はどこで寝るの?私だけベッドで寝たら気が差して眠れない」
「気にすんな。男はどこにでも眠れるもんだよ。海と添い寝するのは魅惑的な話ではあるが俺は床でいいや。ずっと布団で寝てきたし、いきなりベッドで寝てたら落ち着かない」
言って才機は床で横になり、頭の後ろに手を組んで目を閉じた。
海はちょっとの間才機を見て、説得するのは無理だろうと判断したら窓の雨戸を閉じてベッドの所へ歩いて行った。才機は急に何かが腹の上に落ちてきるの感じて目を開けた。枕だった。
「それ使って。特に要らないから。後、これも」
海はベッドの上に広がっていた毛布を才機に持って行った。
「寒くならないの?」と才機は聞く。
「まだシーツがあるから大丈夫。そんなに寒くないし」
「じゃ、使っちゃう」
海はランプの火を吹き消してベッドに入った。
「おやすみ」
「おやすみ」
そうは言ったものの、二人が実際に眠りにつけたのはずっと後だった。
•••
翌朝、二人はドアをノックする音に目を覚めた。
「はい」
寝ぼけた口調で才機が反応する。
「もう直ぐ朝ご飯の支度が出来るよ」
ゲンの声だった。
「あ、はい。今行く」
ベッドで起き直っている海の方へ向いて才機は言う。
「目が覚めたら全部夢だった···という展開にはならかったね」
「みたいだね」
目をこすりながら本の少しだけど海はつい笑った。
二人でベッドのシーツと毛布をきちんと整えたら階下へ下りた。
「なんかいい匂い」
海は周りに漂っている香気に気付いた。
他の客が二人テーブルで座って朝ご飯を食べていた。食べ物を盛った皿が三枚置いてあった別のテーブルでゲンも座って食べていた。
「お、来たか。鍵はあの人に返せばいいよ」
ゲンは変わらずカウンターの後ろで立っているマスターを親指で指した。
才機は言われた通りにして、海と一緒にゲンがいたテーブルについた。皿の上にはトースト、目玉焼き、ソーセージ二本が載っていました。
「さ、冷めないうちに食べて食べて」
「頂きます」
「頂きます」
匂いも良ければやはり味もいい。ちょっと怖い顔をするけど才機はマスターの事を見直した。
「会ったばかりの私達の為に色々してくれて本当にありがとうございました」
海はゲンに礼を言った。
「んーー、そう素直に礼を言われたらかえって困るよ。わしはそれほどの慈善家じゃないからな」
ゲンはそう言って水をぐいぐい飲んだ。
「実は話が」
「実は話が」
ゲンと才機が同時に言い出した。
「どうぞ」
才機は発言権を譲った。
「あなた達の事を気にかけとるのは商売の話があるから」
ゲンは両肘をテーブルの上に置いて指を絡み合わせた。
「お前さんを見込んで護衛を頼みたいと思っとるんじゃ」
「護衛?」と才機が聞いた。
「そうじゃ。言わずと知れたあの森は急いでいなければ遠回りした方がいい。しかしだからと言って道路をちゃんと使えば完全に安全とは言えない。盗賊が現れる可能性は常にある。特に最近はこの辺にうろついとるって話を聞いた。運が良ければ命までは奪われないが、金目の物は一つ残らず分捕られちまう。運が良ければな。そこでだが、もし、わしも商品もを無事に送り届ける事が出来たら四トレイキを払う。危険の上でなら五トレイキ。命は助かったが商品に何かがあった場合は二トレイキ。万が一わしの身に何かあったら報酬はなし。無論、その時はどうせ払えっこないのは言うまでもないが。どうじゃ?」
才機はそれが安いのか高いのかよく分からなかったが昨日ゲンが払ったのは二トレイキなら、何も起らないで目的地に辿り着いたら宿代四日部が入る。いや、お釣りが出たからもしかして五日かもしれない。どの道今は仕事のえり好みしている場合じゃない。
「渡りに船ってこういうことだね。俺も今、何か仕事を紹介してもらえないかと頼むところだった」
「じゃ、引き受けてくれるのか?」
「是非やらせて頂きます」
「よし。商談成立」
三分後にゲンは飯を食べ終わって席を立った。
「色々と整理しないといけない事あるので、わしは一旦部屋に戻る。終わったら荷物をまとめてくる。一時間半近く掛かるからここで待ってて」
「いいのか?」
ゲンが階段を上り切った後、海は才機にそう聞いた。
「何が?」
「だって、あの能力はまだ使いこなしてないでしょう?」
「そうだけど、このチャンスを見逃せない。使いこなせるようになれば問題はなくなるし」
「だったらなるべく早くそうした方がいいよ。今日、盗賊に襲われた皆が危ない」
「分かってる。その辺は俺が何とか頑張ってみる。ゲンの期待に応えたいっていうのもある。もしかして、危険にさらされたら勝手に発動するかも。でもそうね。せめて今日だけでも何事もなく終わる事を祈ろう」
二人が腹ごしらえをしたら海はトイレに行き、才機は外の空気を吸いに行った。外は明るく、人々の行き来する姿はあっちこっち見える。二時間をどう過ごすか考えてみたが、アイディアは特に何も浮かんでこない。きびすを返して中に入り掛けた時に近くを通る男の二人組の声が耳に入った。
「馬鹿か、お前。夜に森に入るなんてそんなに狼の餌食になりたいわけ?」
「そんなに奥までは入らなかった。雨降ってたし、あんまり濡れるとダメになる品物がほとんどだったから仕方なかったよ」
「それでもさー」
「大丈夫だったんだからそうがみがみ言うな。俺のおかみさんかっつの」
「てめぇはおかみさんにとっくに逃げられてんだよ」
「うるせぇ!」
遠ざかる声を背中にして才機は森を見つめた。
海は戻ってくると才機の姿がいないから周りを見渡した。
「お客さん」
宿のマスターに声を掛けられた。
「あんたの連れならさっき、用事があるからちょっと行ってくるってさ」
「そうですか。ありがとう」
海はまたテーブルについて才気を待ったけど十分経っても戻って来なかった。
「すみません、彼はどこに行くか言いましたか?」
海はマスターに尋ねた。
「いや。でも窓から町の外に行くのを見たような気がする」
「町の外?」
《町の外で才機は用事があるはずないが···。だって外には森ぐらいしか···まさか》
海は椅子から立ち上がって宿を出た。町のはずれにある森の手前でまで歩いて、そのおびただしい木々の量を見透かすように目を凝らした。
《まさかと思うけど···》
海は森に入った。昨日通った道筋を思い出そうとして迷子にならないように慎重に進んでいた。途中で何だか自信がついたようにペースを上げてきびきびと歩き始めた。間もなく目当ての場所に着いた。
「やっぱりここだった」
「付いて来たか。宿で待っていればよかったのに」
石を積み上げるのに夢中だった才機は振り向かずにそう言った。
海が近づくと才機の手が凄く汚れているのに気付いた。
「どうしても気になってたんだ。もし死体が見つからなかったら、生き延びたと思い込んでもいいかなって思ったが、見つけちゃった。そんなに苦しまずに死んだと思う。首が折れていた。」
海は才機の肩に手を掛けた。
「自分を責める事ないよ。わざとやった訳じゃないでしょう?って言うか自己防衛だって」
「そうだけど···私がやった事に変わりはないから。せめてこれぐらいやらないと気が済まない。こいつだって悪意を持って襲ってきた訳じゃない。本能に従って生きようとしてただけだ。圧倒的に強かった俺が殺す必要はなかった」
「強過ぎるのはあんたの責任感だよ」
海はもと来た方向へ戻り、姿が木々に紛れて消えた。
しばらくしたら腕に石を一杯持った海が戻ってきて死骸の埋葬を手伝った。
「よし、これでいい。帰ろう」
才機は満足したようで二人はまたガルドルに戻ろうと立ち上がった。
「あ、そうだ。私の財布どこかに落ちてない?」
「半分それを探しに来たようなものだけど見つからなかった」
「そっか。まぁ、あっても大した役には立たないだろうけど」
落ち葉の上を歩いてくしゃりと音を立てながら才機は腕時計を確認した。
「戻った頃にはゲンの準備はそろそろ出来ているはずだ。それにしてもよくここが分かった。俺がここを見つけるのにちょっと苦労した」
「それが···私もその異能者って奴かもしれない」
「え?どういうこと?」
「なんか···分かるんだ。人の気配。見えなくても人の位置は大体掴める。だから狼が落ちた場所を見つけたと言うより、才機のいる場所に行った。それは才機の気配だったって分からなかったけど、この森にいるのはあんたぐらいしかいないと思って」
「そう言えば町に着く前に分かってたんだよね。この先に町があるって事。考えてみればあの洞穴でゲンが来るの知ってたし。遠くてどのくらい分かるの?」
「ん〜〜。それは人数によると思う。一人だったら何か、意図的に探せば二百メートル先ぐらいかな。町みたいな人が一杯集まってる場所ならもうちょっと遠くから感じられる」
「ふーん」
「でも意識しないと近くに来るまで気付いたり気付かなかったり。後、周りに人がたくさんいると、なんかごちゃごちゃになって···そのせいで意図的に感じようとしない限り、特に何も感じないというか、皆の気配を一度に感じるから何も気付かないというか。よく説明出来ない。でも本当に驚いたのは集中すれば目の前の人の気配を実際に見えるよ。こう、体全体を囲む青いオーラみたいなものだ。人の魂でも見ているようで不気味だ」
「ま、取りあえず盗賊に不意を突かれる心配はないって事かな」
「多分」
迷わずにガルドルに戻れた二人は宿でゲンを待った。でも待つほどもなくゲンがいくばくもなく階段を下りてきた。
「さて、今日の行き先はメトハインじゃ。準備はいいか?」
「はい」
才機は椅子から立ち上がりながらゲンに答えた。
「わしもじゃ。それではさっそく行こうか。時は金なりは商売人の信条じゃ」
三人がガルドルを出ようとした時に向こうから見覚えのある顔がやってきた。
「おや、自分が住んでいる惑星の名前を知らなかった坊主じゃねか。お出かけかい?姉ちゃんからはぐれて迷子になんなよ」
男は冷笑しながら町に入った。
「そうね。なんなら手つないでいいよ」
海はにこにこしてそう提案した。
「断る」
•••
徒歩で行く場合、ガルドルからメトハインまで約三時間は掛かる。幸いに今日は御の字の天気だ。晴れ渡った且つ涼しい日。三時間ほどではないが正に散歩に出かけたくなるような日だ。
「馬車がなくて悪かったな」
「いいえ。大丈夫。体力には自信がある」
才機は軽く力こぶを作って見せた。
「もう少し金を貯めたら馬車に投資したいとは思っとるがね。通勤時間が短くなりなおかつ在庫品を増やせる」
「というか、車とかは見てないけど、ロケットがあるんなら車もあるよね。」
「贅沢な事を言うね。そういう値の張る物には一般人は手を出せない。自動車を使用しているのは大金持ちと軍隊ぐらいじゃ。わしも何年働いても手に入らないじゃろう」
「何年商人をやっていますか?」と海は聞いた。
「そうね。もう三十年近くになるかな。前は自分の店を経営したんじゃが、こうやってあちこち旅回って物を売るようになったのは二年前」
「そうですか」
「二人はメトハインに行くのは初めてよね?」
「ええ」と海が答えた。
「ガルドルと比べ物にならないほど大きいよ。さすがは都だけあってこの国の最も活気のある都市じゃ。国内屈指の科学技術に長けとる都市でもある。と言ってもその技術の殆どは王宮でしか享受してないがな。都市の中央に凄く高い塔みたいな建物があってね、そこには皇帝が御座す。街に何か不安があるとすれば、皇帝の跡継ぎが二年前に病死して、未だに新しい継承者はいないって事ぐらいかな」
「皇帝はどんな人ですか?」と海は聞いた。
「んー、会った事はないから実際にどんな人なのかは言えないが、とにかく暴君とかそんなんじゃない。皇帝の統治に文句をつけとる人は少ないと思う。まぁ、最近まではね。とは言っても文句があるのは異能者ぐらいだろうけど」
「どういう事?」
海は首を傾げる。
「異能者狩り事件。アナトラス現象の余波を受けて神秘的な能力を持つようになった人が次々と現れた。市民はその原因を知らせられたんだけど、原因が分かったところで皆が異能者や異形者をそう容易に受け入れる事が出来なかった。誰も公然と言わなかったけど異能者であることは社会的不名誉となった。普通の人間とそうでない人間の間に敵対意識がだんだん強くなって、争いも頻繁になった。異能者がらみの犯罪によって状況は更に悪化した。そしてとうとう死人が出ちまった。普通の人間が異能者に殺された。その後、異能者に対する抗議運動が始まり、何日も続いた。とどのつまり皇帝は全ての異能者と異形者が都市を立ち退く法令を出した。だが、人は進んで自分の家を捨てる事は中々出来ない。あげくの果てに近衛兵は駆り出され、異能者は毎日のように密告されては強引に排除された。抵抗があった場合、近衛兵は実力行使に訴えるのを躊躇しなかった。その為の犠牲者もいた。抵抗した異能者も、そのとばっちりを食った普通の人間も。ガルドルの住人の大多数はメトハインから追放された異能者じゃ。二年が経った今でも、時折りあれからメトハインで鳴りを潜めていた異能者が伏せてきた正体がばれて追い出される事はあるよ」
「そんな事が···」
海はそのメトハインに行くのが急に不安になった。
「これでもう分かっとるとは思うけど都市に入ったら間違っても能力を使うなよ。大変な事になっちまうから」
中間地点で三人は木陰で休憩をとった。周りは今までと変わらない何もない風景だ。あるのは永遠に広がる草原,、丘、そしてトゥリエ森の縁を形成する木々。盗賊どころか旅人一人にも出会っていない。ここまでは望み通り。何か不満があるとすれば、それは才機はまだ一度もあの力をまた引き出す事が出来ていない。道すがら何度もあの変形を引き起こそうとしたけど毎回無駄だった。一回きりの奇跡だったかなと才機が思い始めた。二十分の休憩が終わったらまたメトハインに向かって出発。
「ゲンさんは盗賊に襲われた事あるの?」と才機がは尋ねた。
「さん付けなんていいって。こそばゆいったらないわい」
「はぁ···」
「でもあるよ。二回も。商品は洗いざらい持って行かれた。財布だけが無事だった」
「普通、真っ先に取られるのは財布じゃないの?」
「そうじゃろうね。その在り処が分かればの話じゃけど」
「ポケットに入ってるでしょう?」
「いや、旅しとる間はここ」
ゲンが腹をパタパタ叩いた。
「?」
「腹をちょっと伸ばして脂肪層の中に隠してある」
「ああ、なるほど。確かに腹の中まで探そうとは思わない」
海が感心の目でゲンの出っ張ったお腹を見た。
「でも、ま、お前さんがついとるならやらなくても平気か。その力の前では盗賊の凶器なんざ小枝同然じゃもんな」
「あ、ああ。そうだね」
才機は顔を背けて答えた。
海はそれがどういう意味かちゃんと理解していた。でも今日はついているみたい。願いが叶った。高めの坂を登り着るとメトハインはついに見えてきた。盗賊の方はどこにも見当らない。
「ほれ、あれじゃ。あの高くて黒い尖塔。あれがメトハインの都心」
二百メートルの高さを超えていそうなオベリスク形の塔が空にそびえていた。広さはもしかして百平方メートル。塔の麓に城壁を巡らした大都市が円形になっている。
「さあ、後一息じゃ。あっちに着いたらちょっと別行動に入るよ」
•••
やがて三人は市門まで歩いて行った。ゲンは槍で武装した門番に会釈して三人は門をく
ぐった。
「これからわしは少し忙しくなるからのちほどここで落ち合おう。そうね、二時間後でいいかな。その間思う存分に見物するといい。この都市の名物の一つはモモソース入りのはちみつパン。食べてみたらどうじゃ?」
ゲンは才機に銀貨を五枚を手渡した。
「但し、前に話した事をくれぐれも忘れない事じゃ」
その注意を残してゲンは二人と別れた。
「どうする?時間あるから回ろうか?」と才機は海に勧めた。
「そうね」
ゲンが言った通り、このメトハインは確かに賑やかな都市だ。どこも人通りが多くて、商店街ではどの露店も客が集まって品定めをしていて、あちこち芸や演奏を披露している人がいた。子供もそこら中色んな事をして遊んでいた。たまにはいい匂いが漂ってくるが、今は買い食いをしている余裕はない。メトハインの特産物を楽しむのもまた別の日にしないと。二人の経済状況と対照的に、都市の方は特に財政難がなさそう。道は広くて立派に舗装されている。当然この真っ昼間に点いていないが、通りに沿った街灯はちゃんと電球を使用している。ビルも全部いい状態で維持されている。まだ都市の六分の一も回っていないが、どうやらメトハインの構造は至って単純だ。この大都市は主に三つの地区に分かれている。住宅地区、商業地区、工業地区。最も外側なのは商業地区。次は住宅地区。最も内部にあるのは工業地区。そしてその三つの地区の中心にはあの巨大の尖塔が建っている。
「近くで見ると凄いな、この塔」
真上を見ながら才機はそう言った。
「でもなんでこんなに高く築き上げたんだろう。いくら皇帝とは言え、宮殿にしてはこの設計は非実用的過ぎるんじゃない?自分の家の中であっちこっちへ移動するのが大変そう。凄い物好き」
海は感心するよりも呆れる感の方が強かった。
「皇帝や王というのは得てしてそういうもんじゃないの?」
「私には理解出来ない」
引き続き探索をすると、周りの人が自分を忌み嫌っているという事を忘れてしまうほどいい感じの都市だ。事情が事情でなければ二人は単に暇つぶしじゃなくて、素直に楽しんでいたのだろう。ゲンとの待ち合わせ時間まで後三十分になってから市門に戻る事にした。その場所へ向う途中に、突如として直ぐ左の店の扉がぱっと開き、才機と海の二、三メートル前に十七歳ぐらいの少年が勢いよく後ろ向きに押し出されて歩道に背中から倒れ込んだ。少年はエプロンをしていて目には紛れもない恐怖が映っていた。押した方も直ぐに出てきて登場した。割と大きいな三十代の男だった。
「てめえ、異能者だったんだな!」
周りの人からざわめきが始まった。
「今の聞いた?」
「異能者だって」
「あら、怖いわ」
「まだいたのかよ」
少年は恐れで一杯になって動けずにいた。
「見たんだよ!こいつが皿と食器を空中で浮かせてたんだ!」とその大きい男がどなり散らした。
「ご、ごめんなさい!あれはわざとじゃなくて、手、手違いだった!悪気はなかった!」
少年が何とかどもりどもり言った。
「知るか!早くここから出て行け!よくも俺を騙しやがった!ここにはてめえみたいな危ない奴の居場所はない!異能者がここで働いていたら亡くなった娘が浮かばれない!」
少年を遠巻きにし始めた連中が右へならえをした。
「そうだ、出て行け!」
「迷惑なんだよ!」
「ずうずうしい異能者め!」
「何とか言ったらどうだ?!」
少年は座り込んだままだった。次に石が少年の方へ飛んで行き、腕に当たった。石がまた飛んで、今度は額に当たって赤い打ち身を残した。三個目も一直線に顔へ飛んで行ったけど、顔の前に手が伸ばされ、石をはじいた。それを見て海は少しほっとした。でもその安心も束の間。手の持ち主の正体に気付くと顔色を変えた。才機だった。大騒動になった為、海は才機が側から離れた事に気が付かなかった。
「あの、すみません。ここまでする事ないんじゃない?出て行けばいいだろう、この人?」
才機は周りの怒りに満ちた視線に直視出来ず、自分の視線を少し下に向けてそう言った。
「あいつを庇うのかよ?!」
「退け!」
才機は少年に手を貸して立ち上げらせようとした。少年がその姿勢に応えて才機の手を取ろうとしたその時に、石が才機の背中に当たった。それほど強く投げられなかったのでそんなに痛くなかったが、振り向くとまた石が飛んでくる。今度は頭に接近中。才機はぎりぎりで腕を盾にして受け流した。
キン!
そのキンと鳴った音であんなに騒がしかった辺りがたちまち静まり返って周りの人もあの少年のように動かなくなった。七秒間ほど。
「こいつも異能者だ!」
「どうりであの異能者を庇った!仲間なんだ!」
「お前ら何企んでる?!」
才機はあのガラスのような体になっていた。石だけではなく、他の物が手当たり次第に投げらてきた。今の才機には傷一つ付けていないが。
頭の中で「どうしよう」の一言を繰り返して慌てている海の後ろに二人の男が小さい声で話し合っていた。
「おい、誰か隊長を呼んできた方がいいよ」
「何人か既に呼びに行った。じきに来るはず」
才機はまだ暴徒に理を説こうとしていた。
「分かった!分かったから道を開けてくれ!直ぐ出て行くから!」
そして道が開いた。でもそれは二人を通す為の道ではなく、六人の近衛兵を引き連れる偉そうな人を入れる為だった。その人は正に典型的な悪役のような無愛想で不機嫌な顔をしていた男だ。おまけに警棒みたいな物で威嚇的に手の平を叩いていた。
「ルガリオ隊長だ」
「ルガリオ隊長が来たぞ」
「異能者が市内に現れたという報告を受けましたが二人もいるようですね」
その隊長はイライラした目で才機と少年を交互に見た。
「俺達はこれから出て行くので問題を起こすつもりはない」と才機が言った。
「それは当たり前です。でもそう簡単に行かせる訳にはいけません。場合によってはここを出る前に、処刑台に寄ることもありますから。この都市に来た理由を教えてもらおうか。見覚えのない顔ですが」
「え、何?この都市の人間の顔を全部頭に入れてあるとでも言うのか?」
「ふふ。確かに俺の記憶力はそれほどの物ではありません。だが匂うんだ。よそ者の匂いがね」
「俺がよそ者だと分かって、たまたまこの都市に入っただけで処刑されるのか?」
「よそ者でもこのメトハインは君のような人が来る所ではないのは分かっているはず。それによそ者だからこそ危険です。ここへ来て皇帝の暗殺でも企ているかもしれません」
「とんでもない言い掛かり、それは!俺はこの都市とは何の関係もない!皇帝の名前すら知らないんだ」
「どうやら協力する気はなさそうですね」
近衛兵が前に出て剣を抜いた。才機は手を握り締めて防御の身替えをとった。
すると、後ろから誰かが才機の手首を掴んだ。
「ちょっと失礼」
今度はその人がルガリオに向って言った。
「お騒がせして申し訳ありません。僻地の者で旅の途中なのです。少しばかり糧食を補給しようと思いましたが、用事が済んだのでここでおいとまします」
やせていたゲンだった。顔も少し歪んでいた。ゲンは才機と少年を引っ張って人込みの中で退路を切り開いた。
「止まれ!」
ルガリオ隊長はそう怒鳴ったけど三人が止まる様子は微塵もなかった。
「待って、海はまだ」
ゲンに引っ張られながら才機は後ろを見ていた。
「大丈夫。先に城壁の外に行ってもらったんじゃ」
ゲンは才機を安心させて群衆を押しのけて進んだ。
「追いましょうか、隊長?」
部下の一人が指示を仰ぐ。
「まぁいい、捨て置け。あの青二才に何も出来まい。今度会ったらこの都市に踏み入れた事を後悔させてあげるとしよう」
三人はメトハインを出て市門から五十メートル離れた所で待っている海と合流した。
「よかった〜。一時はどうなるかって凄く心配だった」
三人が近づくと海は胸をなで下ろした。
「ああ、助かったよ、ゲン」と才機が礼を言った。
海は今度少年の動転した表情を見た。
「大丈夫?一体何があった?」
「いや、僕のせいなんです。ぼうっとしていたのがいけなかった。注意していないとたまに能力が発生して周りの物が勝手に浮いてしまう。ずっと隠してきたのに、今日のミスで今までの努力が一気にぱあになりました」
「行く当てがないんじゃったらこの先にガルドルという町がある。そこでなら、まぁ、歓迎されるまでとは言わなんが、少なくとも拒絶される事はない」とゲンが提案した。
「ありがとうございます。でもやっぱり、実家に帰ります。ちょっと遠いんですけど途中で民宿があります。今から行けばちょうど日が暮れ始める頃には着くかもしれません」
「実家はどこか聞いていいんじゃろうか?」
「アラニアです」
「アラニア···。ならさっき言ってた民宿ってのはもしかして、黄金原オアシスの事?」
「ええ。ご存知ですか?」
「たまにあそこで商売をしとるからな。あの民宿を経営する夫婦はとても人がいいんじゃ。もし金で困っとるなら部屋代の代わりに家事や雑用をする代わりに泊まらせてくれるだろう。行商人のゲンからそう聞いたって言っておくといい」
「すみません。でも財布だけはあるから大丈夫です。色んな物を置いて追われちゃったけど、着のみ着のままという訳ではありません。また異能者であることさえばれなければ···」
少年は才機の方を向いた。
「申し遅れましたが先ほどは本当にありがとうございました。あなたがいなかったら無事では済まなかったかもしれません」
「いいえ、向こうが悪いんだ。完全に逆上してたんだよ」
「まぁ、とりあえずありがとうございました。お礼はそれぐらいしか出来ませんけど。それでは皆さん」
少年は頭を下げてそう言ってから三人と別れた。
「しかしねぇ、あんなに能力を使うなと言ったのに」
ゲンは才機を見てそう言った。
「すみません。何か無意識に体が反応したんだ。ってまたいつの間に元に戻ってる」
才機は自分の手を見つめた。
「でももしかして···」
何か見えない攻撃でも防ぐように才機は急に両腕を前に出して首を逸らした。そうしたら海とゲンの目の前に一瞬にして皮膚が変形し、光沢を帯びるようになった。
「出来た!」
海は目を丸くして手を合わせた。
「みたいだね。今まではこう···内から力を出す感じでやってみたんだけど、どっちかというとその逆だった。自分の身を守って力を引き込むような感じで変形を起こせる」
才機は目をつぶって深く息を吸い込んでからゆっくり吐いた。すると生身の体に戻った。
「そしてこうやって落ち着いて緊張をほぐすと元に戻れる」
「この騒動でせめて一ついい事があったみたいね」 と海は苦笑した。
「それって···」
二人の横で立っていたゲンだった。
「今まではそれが出来なかったって事?」
「えーと。満足に出来なかったっていうか、いざとなると出来るだろうというか···。すみません」
才機はゲンに向き直ってお辞儀した。
「まぁ、今は出来るなら問題はないか。と言ってもガルドルに戻ったら当分の間護衛は要らなくなったけどな。ほとぼりが冷めるまでメトハインに入らない方がいい。わしのあの二つ目の顔を忘れる時間も与えたいし。今の顔と違うとは言え、やはり似とるところはあるからのぉ」
ゲんは背中に背負っていたリュックを担ぎ直す。
「それじゃ、行こうか」
•••
中間地点を通り越して帰りは行きと同じく平和な遠足みたいな感じがした。
「ゲンってお人好しですよね?」
海がふと言い出した。
「ん?何じゃ急に?」
「だって、出会った時から私達を凄くよくしてくれて、自分が危険にさらされる事を顧みずに才機とあの男の人を助けて、危険を脱した後でも彼に色んなアドバイスをあげたじゃない」
「まぁ、わしは最初からそういう事をするような人じゃなかったけどね。これは償いなんじゃよ」
「償い?」
「気付いとるかもしれんが、わしはな、元々メトハインの住人じゃ」
「うん、そうじゃないかって薄々気付いてた。恨んだりとかしてないの、メトハインの人達?」
ゲンは鼻で深く息を吸い込んで、ゆっくりとまた鼻から吐いた。
「わしは以前、先ほど目撃した場面と凄く似たような境遇にいた事がある。但し、あの時、激怒した店主はわしで、わしの怒りの矢面に立った不運な人はお客さんじゃった。言ったじゃろう?以前は自分の店を経営したって。メトハインに住んどった頃、わしはさっきのあの暴徒とそんなに変わらなかった。自分も異能者でありながら、その事をまだ知れず異能者を目の敵にしていた。あのお嬢ちゃんをすっかりおびえせたんじゃろうなぁ。彼女に申し訳ない事をしちまった」
ゲンは才機を見た。
「あの時はお前さんみたいに暴徒から庇ってくれる人は出てこんかったけどね。他の異能者のことを密告した事もある。そして異能者狩り事件から約一ヶ月経った頃、わしは店に入ってきたお客さんを手伝おうとして目当ての品を指差した時に腕が急にぐんとの伸びた。あの人は飛び出して、真っ先に通報に行ったんじゃろう。最初は自分でも信じられなかった。でも間もなく近衛兵がやってきて、現実を受け入れざるを得なかった。このリュックに押し込めるだけの物しか持って行く事を許されなかった。ずっとあの都市で住んできて、腕が一瞬伸びた為、追放されるなんてそんな理不尽な話があるかって思った。こっち側に来るまではそういう見地から見ることが出来なかった。見ようと思っていなかったんじゃろう。それで異能者はどんな苦汁をなめてきたか身をもって体験したんじゃけど、異能者を侮蔑する人を責められない。責める資格なんてないんじゃ、わしには」
「そっか。ゲンも大変だったね」
海は視線を落とした。
「これは天から授かった報いじゃよ、きっと。まぁ、今の状況でせいぜい善処する」
もう少し歩いたら、海は才機の袖を引っ張って耳打ちした。
「何か、さっきから三、四人の気配を森の方から感じるんだけど、だんだん近づいてきている」
「そう?」
才機は森の方を見た。
「んー、どういう事かよく分からないが五十メートル以内に来たら教えてくれ」
「もうそこまで来ていると思う」
「そうか」
才機の体はガラス状になった。
「どうかしたのか?」とゲンが聞いた。
「んー、ちょっとね。付けられてるかもしれない」
ゲンは辺りを見回した。
「森にいるらしい」
才機は少しだけ頭を傾けて森の方を指した。
「大丈夫なのか?」
「まぁ、もし襲い掛かってきたら二人はあっちの方へ下がってて。俺はここで食い止める」
才機はまた右袖が海に引っ張られるのを感じた。海は左側にある森の方へ控えめに指差した。その指が指している方向を見ると、かすかだけど木々の間に動いている人の影法師が垣間見えた。
「二人とも、あそこの木に向って後ろで隠れてて」
才機は森から離れた前方にある大木を指差した。
海とゲンは言われた通りさりげなく小道から外れて大木の方へ向かった。そして二人は才機から二十メートル離れたところであの影法師は具体化し、才機に襲い掛かる三人の盗賊になった。才機は気を引き締めた。三人の盗賊は今の才機の姿に気付いていないのか、それとも知っていて構わず突撃したかは定かではないが、何の迷いもなく才機に向ってまっしぐらに走る。
「この男がボディーガードだ!伸してやれ!」
最初に攻めてきた男に才機は体落しを使って相手を地面に投げ落とした。狼の出来事をぎりぎりで思い出し、最後で手加減して力を抜いた。それでも男は背中から落ちると息を詰らせた。二番目の男に対しては軽く膝車で地面へ放り投げた。男はびっくりしただけだった為、直ぐに立ち上がった。三番目は攻撃するのを考え直して、まだ地面で咳き込んでいる男を見た。
「こいつ、そう簡単に倒れてくれそうにない。お負けに異能者だ。仕方ない。使え」
男は指示しを出して剣を抜いた。もう一人は二本の短剣を出した。
「悪く思うなよ。この弱肉強食世界で俺達は生き抜こうとしているだけだからさ」
剣を持った男はそう言って剣を振り下ろした。
狼に噛まれて平気だったから剣も大丈夫かもしれないが、才機にはそれを試す気がない。牙と鋼では大差がある。剣をかわし、後方に下がった。直ぐに短剣を振るっている男が追撃して才機に反撃するチャンスを与えない。この二対一の状態と二人の連係プレーを前にして才機は手も足も出ない。二人の男はパートナーを組んで戦う経験が豊富なのは明白だ。畳み掛けてくる敵の猛攻をかわすだけで精一杯。だがこれはいつまでも続けられない。いつ相手がうまく刃で当てたり、才機が足を踏み外してひっくり返ったりするか分からない。最初に出てきた男はそろそろ立ち直って戦闘に加わる。そうなったら確実にかわしきれなくなる。早く何とかしなきゃ。才機は怪力に物を言わせて攻守所を変える事にした。長剣を右に避けて、肩を狙う短剣を下にかわす。そしてその低い体勢で足を完全に伸ばし、全力ではなくても両方の相手の足をしっかりと払った。効果抜群。二人は地面の上で足を抱えてもがき苦しんでいた。これで一安心と思ったら後ろから海の悲鳴を聞こえた。
もう一人盗賊がいたらしい。その一人は機がさっきの三人の相手をして手がふさがっていた間に海とゲンを追い掛けった。そして今は海の首にナイフを運び込んでいた。
《くそ!どうやってあいつを見落とした?》
「さあ、兄ちゃんよ。その辺にしといてもらおうか?」
「おいおい、彼女は何も持っていないし、何も出来ない。相手にするのは俺だろう?四人がかりでも構わないよ。かかってこい」
まさかこの程度の挑発に乗ってくれると思っていないが、他に手が思いつかない。
「勘違いするな。俺達は用があるのはあのおっさんとその荷物だけだ」
盗賊はあごでゲンに指し示した。
「お前とこの女は邪魔者以外の何物でもない」
「分かった。抵抗しない。代わりに俺が人質になってやる」
才機は両手を上げて一歩前に踏み出しす。
「おっと、それ以上動くな。変なまねをしたらこの女の喉笛をぶった切って次にあのおっさんを人質になってもらうぞ」
才機は胸を冷やされて一気に戦意を失った。後ろの三人はふらふらしながらも立ち上がる。長剣を持った男は頭上に剣を持ち上げ、抜き足差し足で才機の背後に近づいていく。
「危ない!後ろ!」と海が叫んだ。
が、遅い。
ガキン!
男は力の限り剣を振り下ろし、才機は背中に重い刃が落ちてくるのを感じて頭をぐいっと上げた。凄い音の後、緑色の草は滴り落ちる血の赤で染まっていく。海を人質にしている男はちょっと警戒を緩めて、ナイフが海の首から離れた。護衛が始末されて緊張が解いた訳ではない。ショックを受けていた。あの赤い血は仲間の肩から流れ出ていた。それに引き換え才機は無傷だった。剣が才機に当たった瞬間に刀身が二つに折れたんだ。そして折れた部分は跳ね返って高回転速度で男の肩に切り込んだ。海は自分を捕らえている人が隙を見せている間に、ナイフを手にした腕をひっつかんで一本背負いを見事に決めた。いつも通りなら相手は足下で地面に叩き付けられるだけなんだけど、それがおよそ六メートル吹っ飛んた。一見、海も剛力の持ち主に見えただろうが、よく見れば地面に散らばっていた落ち葉や枝も一緒に吹き飛んでいた。海の周りの草も風になびくように揺れていた。この場合、風になびくようにと言うのは少し不適切な表現。なぜなら実際には風が吹いたからだ。そしてその風は海から発した。盗賊の連中はゲンの所持品がこんなに手間を掛けるほどの値打ちではないと判断した模様で、「化物どもが!」と言い捨てて全員トンズラした。
「はらはらしたわい。お嬢ちゃんよ、そんな事出来るんなら最初からやって下さいよ。出し惜しみは無用じゃ」
「いや、私が···やったのかな、今の?」
「大丈夫?切られてない?」
駆け付けてくる才機はあわてて海に傷がないか確認していた。
「うん、大丈夫。でも···何だった今のは?見たでしょう?いきなり強い風がどこから出てきて、男が飛んで行って、何か腕もしびれるし」
「いつからそんな事出来るようになった?」
「分かんない。たった今?」
「あれが初めてだったって言うんなら、能力が進化したのかな」
ゲンが顎をなでながら言った。
「進化?」と海が聞いた。
「ええ。前からあった能力がさらに変化して違う形で顕現する。たまにはあるんじゃ」
「でも、今までは人の気配を感じる事ぐらいしか出来なかった。あんな派手なのは初めてだった」
「んー、確かにその二つの能力はあまり関係ないんじゃな。進化じゃないんなら、その能力は前からあったが知らなかっただけかも」
「しかし不思議な感覚だった。あんなの感じた事ない。こう、体中が冷や冷やしていて、特に腕が」
海は上げていた自分の前腕を不思議そうに見ていた。
「そしてその冷や冷やした感触は一気に体の中を走って腕から出て行ったような」
そう思い出していると同じ症状がまた起こって、急に海の手から竜巻が舞い上がった。海を含めてそこにいる皆がびっくりして二歩引いた。突然嫌な物が手に落ちてきたように竜巻を落とすつもりで海は手を素早く引っ込めた。でもそうする事で竜巻の角度を変えただけだ。今度は才機とゲンにもろに吹き付けた。幸いに威力はそれほど高くなくて数秒で静まった。
「ごめんなさい!大丈夫?!思い出していたらつい出ちゃった」
「ええ、大丈夫。ちょっと驚いただけ」
ゲンは服に着いた葉っぱを払い落とした。
才機の方は痛そうに目をこすっていた。
「変形を解くんじゃなかった」
「ごめん···」
•••
一時間がちょっと過ぎると三人はガルドルへ戻ってきた。才機の手に六枚の銀貨
が落ちる。
「約束通り危険の上で無事に送ってもらったから五枚」
「今、六枚渡したけど」
「今夜の宿代。解雇手当じゃと思って。わしはしばらくこの町にいるから」
「ありがたく頂きます」
「もし定職につきたいならこの町でうまく行く事はまずない。西方にある町のどれかに行ってみるといい。そこでも異能者が受ける仕打ちはそんなに変わらないじゃろうが、新顔じゃから下手さえしなきゃ大丈夫かも。メトハインだけは止めておけ」
「西ですか。じゃ、そうしようか?」
才機は海にお伺いをたてる。
「うん、そうですね。今まで大変お世話になりました」
海はゲンに向ってお辞儀した。
「縁があったらまたどこかで会おう」
ゲンはガルドルの住民の中に紛れ込んで去っていった。
「五時回っているけど、どうする?チェックインする?」と才機は海に聞いた。
「んー、満室になる心配はないと思うがそうしといてくれる?私もこの新しい力を使いこなせるように町の外でちょっと特訓してみる」
「そっか。じゃ行ってくる」
才機は宿に、海は森の方に向かった。チェックインを済ませて才機はサンドイッチを食べながらさっきまで二人がいた場所に戻った。
《どこで特訓するか聞いておけばよかった》
町を出るとそんなに遠く探す必要はなかった。林縁で彼女は目を閉じていて竜巻の中心になっていた。髪は風に激しくなびいていて、海の周りに落ち葉が渦巻いて上の方へ上がる。その光景は何とも優雅で見ていると才機は恐れ入った。海の気を散らさないように邪魔をせず近くにあった切り株に座って見とれる事にした。考えてみればこんな風に海を見つめるのはこの世界に来てから初めてだった。でもやっぱり引かれちゃうんだよね、海に。そう思いながら小さな溜め息をついた。この奇怪な世界に来て心のどこかにちょっぴり嬉しく思ったりしていないでしょうか。こうして海と二人で一緒にいられる事を。今は二人の関係を深めている場合じゃないが、とりあえず一緒に過ごせる時間、海を見られる時間が増えた。元々それこそが求めていた事だから本望のはずだ。でもその海が不安で気が沈んでいるなら無意味だ。どうにかして元の世界に返してやらないと。ここでの生活に馴染んではいけない。無論、帰られるなら躊躇無くそうする。才機だって一刻も早く元の生活に戻りたいと思っている。
葉と草を踊らせている海は数分で才機に気付き、術を解いた。空中で舞っていた葉は少しの間だけ宙に浮いてから緩やかに地面に落ちた。
「いたのか。あそこで待たなくていいよ。危なくないから。意外と制御しやすい、これ」
才機は立って海の所まで歩いて行った。
「かなり集中していたように見えたからそっとしておいた方がいいかなと思って。もう自由に使えるようになった?」
「んー、少なくとも前よりはね。見てよ、あの木」
才機は海が指差した木に近づいて木の様子を調べた。傷だらけだった。傷はそれほど深くはないが、まるで誰かがナイフで何度も何度も切り付けたようだった。
「思いきりやってみたらああなったんだ。私が作り出す風は危険なものにもなれるらしい」
「確かにこんな事が出来る風に当たりくないな。あ、そうだ。はい、海の分」
才機は持っていたサンドイッチを手渡した。
「サンキュウ」
海は才機に背を向けるように斜面に座ってサンドイッチを食べ始め、才機は数秒ぐらい自分の指を見つめた。
「あの宿のマスタって見かけによらず料理の才能はあるな」
言いながら才機は海の左側に腰を下ろした。
「うん、美味しいよ、これ」
才機はもう一度自分の指を見た。
「今、サンドイッチを渡した時、海の手が凄く冷たく感じたけど、気のせい···じゃないよね」
「冷たいよ。ほら」
海は手の裏で才機の頬に触れた。
「うわ、つめたっ!平気なのか?」と才機はだじろいだ。
「少し待てば元に戻るはずよ。これが副作用みたい」
「ふむ...じゃあ、もう一回手を出して」
言われた通り海はもぐもぐしながら物をもらうような動作で左手を出した。
「ああ、そうじゃなくて、こう、握手する時みたいに」
その指示に従うと才機はその手を自分の両手に挟み、木の枝を回転させて火起こしする要領で海の手が暖まるように急速に両手を前後にこすった。
「凄い。だんだん暖かくなってきた」
「偉大なる摩擦の力だ。こんなもんでいいかな。はい、右」
才機は海の前に回った。
海はサンドイッチを左手に持ち替えて右手を差し出した。才機はその手をまた自分の手の間に挟んでひたすらにこする。海がちょうど食べ終わった時に才機も手を離して上体を後ろにそらした。
「ふ〜、ちょっと疲れた」
海は自分の手をこすり合った。
「ありがとう。大分暖まった」
才機はそのまま仰向けになった。二人はそうやってわずかに残っていた落日が沈むのを見た。
「この世界も夕焼けは奇麗だね」と海が言った。
「夕焼けかぁ。まぁ、赤い空はいつも見ている青空と違う感じがしてちょっとした気分転換にはなるが、心から鑑賞出来るほど風流人じゃないなぁ、俺は」
「奇麗だとは思わない?」
「おいおい、そう簡単にチャンスを与えていいの?簡単過ぎるだろう」
「え?チャンス?どういう事?」
「そんな事聞かれて俺は『海のほうが断然に奇麗だぞ』みたいな返事をするしかないじゃん。これ男のルールだ。ここで決めないと男が廃るってもんだ」
「な、何よそれ?お世辞は私に通用しないよ。ってか知らないよ、男ルールなんて」
海は突っ張ったが、恐らく単なるお世辞じゃなかったせいか、ちょっとだけ頬が赤くなった。
「もうそろそろ日が暮れるから宿に行こう」
そう言って海は立ち上がって町の方へ向った。才機は海を見ていなかったのでその恥じらう姿も、海がそれを隠そうとするのも気付かなかった。
•••
二人は宿に着いて自分の部屋に入った。昨日と違う部屋だったけど中身と大きさはまったく同じだ。
「疲れた〜」
海は椅に子ドスンと座る。
「一日中歩いてるとさすがに足に来る。今日は汗もかいたし、やっぱシャワー浴びてくる」
「そうだね。じゃ、終わったら俺も」
三十分後に水気でぴかぴか光っていた髪の海は部屋に戻ってきた。
「終わったよ。浴室にタオルは置いてある」
「そっか」
才機はポケットからお金を全部出してテーブルの上に置いた。
「じゃ、行ってくる」
シャワーを済ませて部屋に戻ると海はテーブルで座り、コインを使って塔を築き上げていた。
「ね、この二十七枚の銅貨は何?」
「ああ、あれは部屋台を払った時とサンドイッチを買った時にもらった。お釣りってとこだな。ルピスというらしい。サンドイッチをトレイキで払ったらその銅貨が十九枚戻ってきた」
「二十ルピスは一トレイクの価値があるとすれば···宿代の十二分の一ぐらいだったね。高級ホテルじゃないし、悪くないか。明日行く町でちゃんと仕事にありつくといいんだけど。今のところ稼いでるのは才機だけだから私も頑張らないと」
「少なくともこの町で探すより他で探した方が可能性は高いだろう。仕事を見つけたとしても俺達の力をずっと隠さないといけないのは気がかりだけど。メトハインで会ったあの男の二の舞だけは演じたくない」
「それはまずいなぁ」
「もし意表を突かれて何かがいきなり飛んできたらその場で変身しかねない」
二人そろって最悪の事態を想像していた。
「ま、今くよくよしても仕方ない。前向きに考えよう」
才機は気持ちを切り替えようとする。
「そうね」
海は窓の外を見た。
「それにしても日が沈むと暗くなるのが早いな」
海は窓まで歩いて窓台に手を付けた。
「うわぁぁ。ね、ね、見てよ、これ」
才機も窓に近づいて外を見た。
「へ〜。これは素直に奇麗だと言える」
「こんなに星が沢山きらきらするのを初めて見た。しかも大きい。夜間とは言え星がこれほどまでに出てると夜は暗い方が不思議のように思えてくる」
その満天の星空を見て才機は提案する。
「天体観測なんてやった事ないが、屋上に行こうか?」
「暇だし、ちょっとだけ行ってみるか」
二人は屋上に出て、頭上で輝いている無数の星を見上げた。その白い点々が見渡す限り続けていた。
「ちょっと寒いね。大丈夫?」と才機が聞いた。
「うん、平気」
少し縮こまっていた海がうなづいた。
二人はそこで空を見上げたままじっと立っていた。
「昨夜もこうだったっけ?」
才機は首を傾げた。
「さあ、全然見てなかったかも。でもルヴィアもいいところあるんだね。地球の星空もいつかまた見られるんでしょうか」
海は少し悲しそうに誰にともなく聞いた。
「きっとまた見られるよ、地球の星空も夕焼けも。どんなに時間かかっても、お前を地球に返す方法を見つけるまで俺は諦めないから」
「あんたも一緒に帰るんでしょう?」
笑顔になって海はちょっとしたツッコミを入れた。
「ああ、そうだったな」
才機は指で頬をなでた。
短い間の沈黙を海が破った。
「帰る方法を探すのにそんなに苦悩しなくてもいいからね。私は大丈夫だから。才機も一緒にいるし」
それほど強がっているようには見えなかった。才機はちょっとほっとしていた。
「さ、戻ろうっか。これ以上星を眺めていると首が足と同じくらい疲れちゃう」
海が戻ろうとしたらいきなり才機の早口を聞いて立ち止まった。
「地球に帰れますように、地球に帰れますように、ちき···」
振り返ると才機は頭を掻いて少し悔しい表情で海の方を向いた。
「ちぇっ、あと一回で間に合ったのに」
室内に戻り、二人は昨夜と同じ状態であの小さい部屋で寝た。
•••
翌朝は昨日と同じ朝飯だったが安くて美味しいから大歓迎。
「目的地までは長丁場だから出発前に必需品を揃えたほうがいいよね。食べ終わったらちょっと買い物に行こう」
才機はフォークに突き立てられたソーセージの端っこをかじり取った。
マスタが食器を片付けに来たら才機は尋ねる。
「食料などを仕入れたいんだけど、この町でその手の店はどこですか?」
「町の最も東北の辺りに二階建ての赤いビルがある。一階では色んな食品を売っている。まぁ、色んなと言っても選択の余地は他の町と比べたら少ないが、俺もそこで材料を買っている」
「そうか。ありがとう」
あまり苦労せずにその店を見つけ、飲食物とそれを入れる為のぼろっちい雑嚢を購入した。合計十二ルピス。これで準備万端。旅支度が出来たところでここはぜひバス料金も払いたいところなんだが、バスが現れる可能性はゼロに等しい。町のはずれに近づくと何だか騒々しい。道路で駐車中の荷馬車を見たらその原因が分かる。鶏だ。間近で見ると鶏を十五羽ほど積んでいる荷馬車だった。
「どうだ?育ちのいいやつばかりだろう?」
後ろから呼び掛けられた。
口にパイプをくわえた男だった。
「一羽二トレイキだ。二羽買ってくれたら一割おまけするぞ。こいつらなら直ぐに利益をもたらすはず」
「ああ···いや、特にいらいないかな」と才機は答える。
「そうか。残念。ま、気が変わったら来月もまた来るから」
男が運転席に上がり始めた。
「遠くから来たんですか?」と海は聞く。
「それほど遠くはないかな。メトハインだ」
二人の反応を見て、彼は更につ付け加える。
「あんた達を別に嫌ちゃいないよ。私にとってお客さんはお客さんだ。皆さんの能力よりも財布に興味があるんだ」
男はウインクして荷馬車に腰を下ろした。
「迷惑じゃなかったら俺達もメトハインまで乗せてくれないか?」
才機はポケットからコインを取り出して数え始めたが、男が上げた手に制止された。
「こいつらと一緒に乗るのが嫌でなければいいぞ。お安い御用だ」
男は後ろで歩き回っている鶏を親指で指した。
「ありがとうごうざいます」
才機はお辞儀してから海を馬車に上がるのを手伝った。
二人が腰を据えたところで男は言う。
「しかし···」
彼はパイプを座席の縁にはたいて灰を地面に落とした。
「本当にメトハインに行きたいのか?」
「メトハインは目的地への中間点なんで街の周辺まででいい」と才機が答える。
「そっか。そんじゃ、出発だ」
男は手綱で馬の尻を叩いた。
ペースは歩くのと比べて本のちょっとしか速くならないけど、これで少しは体力を温存出来る。
「この鶏は籠に入れなくて大丈夫ですか?」
海は自由に歩き回る鶏を見て男に聞いた。
「大丈夫、大丈夫。こいつらはひよこの頃から私がずっと育ててきた。逃げたりしないさ」
海は用心深い目で自分の周りをコッコッと鳴いて歩いている鶏を見ていた。
「なんか、テレビで見る時はこうやって人が馬車でヒッチハイクする時はいつも藁が積んであるのになんで鶏···」
海は独り言のようにぼやいた。
「嫌か?」と才機が聞いく。
「ちょっと臭い。そっちのが何か私を睨んでるし」
才機は海を睨んでいるという鶏を両手に取った。
「俺は可愛いだと思うけどな。触ってみ。こいつら結構おとなしいぞ。ほら、持ち上げられても全然暴れない」
「いいです」
「動物は嫌いなん?」
「猫とか犬なら分かるけど、鶏?足もなんか怖い」
海は鶏と遊んでいる才機を見て、ああやって一時でものうのうとした気分でいられるのを羨ましく感じた。才機は鶏を解放してあげた。
「俺はどっちかと言うと動物好きだから今は結構楽しい。鶏なんて滅多に見られないしね」
才機は隣に歩いてきた鶏をなでた。海は引き続き鶏を監視した。
こんな風に二時間が経った。海は結局見張りを怠って眠りの誘いに乗ってしまい、才機は未だに鶏の相手をしていた。海は荷馬車を運転している男の声で目が覚めた。
「着いたぞ、二人とも。この辺でいいか?」
才機は立って体を前方の方へ回した。メトハインの黒い尖塔がもうこんなに近くなってきていた。
「そうだね。ここで降りるよ」
馬車は停車され、才機は先に降り立って海が降りるのを手伝った。
「ありがとう、ここまで連れてきてくれて」
「ありがとうございました」と海も礼を言った。
「じゃ、ね。道中ご無事で」
手綱をピシリといわせて、男はメトハインへ続けた。
「羽毛だらけだよ」
海は才機に付いていた羽を払い落としてやった。
「お前も無事では済まなかったぞ」
才機は海の髪にくっついていた一本の羽を取ってから次の行動を宣言する。
「さて、これからは徒歩で行くんだな」
「でも、どこに行けばいいか分かる?」
「昨日メトハインで会った人はあの道を使って民宿で止まるって言った。とりあえずそこに向って西方にある町のことをもっと詳しく聞かせてもらおう」
その泥道を辿って二人は着々と進んだ。正午に今朝買った物を二人で分けて歩きながら昼飯を食べた。やがて木が生い茂ってきた。四時間近く経ったら、道に沿ったぽつんと立っている大きくて野趣あふれる丸太小屋が見えてきた。二階まであって周りに色とりどりの花が咲いていた。窓も鉢植えで奇麗に飾られていた。ドアの上でぶら下がっていた看板に金色のススキが描かれていた。丸太小屋の横に馬が三頭ぐらい入れる馬小屋に馬が一頭立っていた。何だか落ち着く雰囲気だ。
「これがあの民宿かな?」と海が聞いた。
「多分そうだ。入ってみよう」
才機はドアを開けて丸太小屋に入った。
「ごめんください」
中を見ると広い居間と上へ上る階段が部屋の中央の右にあった。何だか可愛らしい感じがした。階段の左に白いレースのテーブルクロスをかぶせられた長方形のテーブルとそれを囲む椅子が六つあった。薔薇が一本入ったか細い花瓶がぴったりテーブルの真ん中に置いてあった。戸棚や箪笥も三つ壁に沿っていて、上には色んな写真が入った額縁が立ち並んでいた。壁にも写真が飾ってあった。古風で趣のある、人より大きな柱時計まであった。部屋の右側に階段に背が寄せてあるソファーは暖炉に面していた。ソファーと暖炉の間に緑色のクッションが置いてある木造の揺り椅子が二つ向き合っていた。そしてそれらの物の中心にぎざぎざ模様の絨毯が敷いてあった。
返事がなかったので今度は才機がもっと大きいな声でもう一度呼び掛けた。
「ごめんください!」
「はい、ただいま!」と部屋の真向かいの扉から女性の声がした。
その扉が開くと四十代後半のおばさんが出てきた。
「いらっしゃい!黄金原オアシスへようこそ」
「あのー、すみません。俺達は西に向っているんですけど、西にある町にはどうやって行けばいいか教えてもらえないだろうか」と才機が尋ねた。
「西ですか?ここから一番近いのは北西にあるドリックと南西にあるアラニアですね。そのまま道を進めば二つに分けるからどっちかを辿れば簡単に見つけられるはずですよ。旅人かい?」
「あー、そうですね。その町に辿り着くのにどれくらいかかるの?」
「歩いて行くんでしたら日暮れになる前に辿り着けませんよ。三時間はかかりますから。アラニアならもっとです」
「そうか」
「今日はここで止まってはいかがですか?一泊十八ルピスになります。」
「どうする?ここで止まる?」
才機は海の意思を確かめた。
「夜道を歩いて迷子になったら大変だからそうしたほうがいいかな」
才機はポケットに入ったコインを手の平に集めて、必要な金額を探し当てた。おばさんは二人のを経済状況を悟って聞いた。
「もしかして、持っているお金はそれが全部かい?」
「ええ、まぁ、さっき言ってた町のどっちかで仕事を探すつもりなんだ」
「そうでしたか?では、これでどうかしら。ここでの仕事を少しばかり手伝えば半額で九ルピスに負けてあげます」
「いいんですか?」と海が聞いた。
「いいのよ。定職なしで旅をするのは大変なことです。もう休みたいんでしょう?今日はどちらからいらっしゃったんですか?」
「ガ」
才機はガルドルを言いかけたが海が急に割り込んできた。
「メトハインです」
「メトハインですか。立派な都市ですね。うちはあそこにあるようなホテルには及びませんが、のんびりした気持ちにはなれると思いますよ。しかし、メトハインで仕事を見つけられませんでしたか?あそこならあなた達みたいな若い者の需要がいくらでもあると思いますがね」
「私達には少し賑わいすぎる所です。出来ればもうちょっと静かな町で暮らしたいと思っています」
「そうですか。それもいいですね。では、少々お待ちください。今、うちの旦那を呼んで来ますので」
そう言っておばさんは入ってきた扉から出て行きました。
「別に嘘をつかなくてもいいんじゃない?ゲンはここの経営者は優しいって言ってた。実際そうだし」と才機が言った。
「それは普通の人に対してそうかもしれないけど異能者は分からない。ゲンの正体を知っているとは限らないでしょう?とにかく用心に越したことはない」
そう言われて才機は海と同意見を持った。二人を長く待たせずに主人を連れて女将は戻ってきた。
「おお、今回は若いカップルが来ましたね。黄金原オアシスへようこそ。私はこの人の夫で一緒にここの管理人をしています」
ドアから入ってきたおじさんが二人を歓迎した。
「お世話になります。カップル、じゃないんだけど」と才機が訂正した。
「あら、そうだったのかい?てっきりそうだと思いました。すみませんね」
女将が謝ってハッとなった。
「あ、という事は二つの部屋を用意しないといけませんね」
「いいえ、大丈夫です。部屋代は出来るだけ安くしたいので」と海が言った。
「そうですか。んーー。それでは、今日は他にお客さんがあまりいっらしゃらなかったらおまけ付きで二人それぞれの部屋を貸しましょう。ここは四つの部屋しかありませんので」
海は才機を見た。
「同じ部屋だと絶対に私を床に寝かせないからたまには彼もベッドに寝てほしいのは確かなんですけどね。割引して下さった上ですうずうしくも二つ目の部屋をただで貸して頂いて、本当に何から何まですみません 」
おじさんは女将の肩に腕を回した。
「まぁ、私達は半分趣味でこれをやっているから気にせんでいいよ。お客さんはそうしばしば来ないんだ。うちの女将は接客するのが大好きだし、せっかく来たんだから是非泊まって安らいでもらいたい。で、来た早々悪いんだけど暗くなる前にさっそく手伝って欲しい事があるんだ」
「はい、何でしょう?」と才機が聞いた。
「外までついて来て」
おじさんは手招きして才機を裏口まで案内した。残るは海と女将。
「さて、うちは洗い物をしていたところでしたが、手伝ってくれますか?」
「あ、はい」
「では、皿のほうをお願いね。うちはそろそろ洗濯物を済まして外で干します」
海は台所のシンクに置いてあった食器に取りかかり、女将はシーツなど満載の大きな籠を持って外へ出た。
外では才機とおじさんは二つの切り株の近くで立っていた。
「さっき、そこの薪を集めてきた。全部四等分にしたいんだ」
おじさんは木材の山を指差しながらそう言ってから刃が地面に埋められた木こり斧を持ち上げて、薪を一本切り株の上に立てた。そして斧を振り下ろすと薪を奇麗に真っ二つに割った。片方を立てて、さらに二つに割った。
「こんな感じでね。馬小屋の後ろにもう一つの斧があるはず。それを持ってきて」
才機はその指示に従い、直ぐに戻った。
「綺麗な馬を持っているね」
手に斧を持った才機が感想を言った。
「ああ、ネリーの事か。よく働いてくれるよ、彼女。馬が好きなのか?」
「ええ、まぁ、馬というより動物全般が好きですね」
「ふうん。馬に直接餌をやった事あるの?」
「いいえ」
「じゃ、私より薪を多く割れたらこの後やらせてあげる」
「いいですね」
「私の事をおじさんと思って悠長にやってりゃ負けちゃうよ?」
薪割り勝負開始。
そうこうしているうちに女将の方は二つ目の籠を物干し場に持ってきて作業を続けていいた。純白のシーツを洗濯ばさみで挟んで物干し綱に吊るすところで海が出てきた。
「洗い物が終わったからこちらもお手伝いします」
海は籠からタオルを取り出した。
「すみませんね」
「あの二人は薪割りをやってますか?才機に出来るかな。多分やった事はないと思います」
「でしたらうちの旦那は今さぞ楽しんでいるでしょうね。好きなんですよ。人に薪割り勝負を挑んで勝つのが。相手が素人なら腕を見せつけられるから弥が上にも嬉しいんですよね」
一方では才機が思いの外、手こずっていた。中々一発できれいに割るのが難しいものだ。なのに隣でやっているおじさんは訳無くばたばた割っていた。
「見た目より難しいだね、これ。一振りで割ろうとしたら、どうしてもずれちゃうし」
「まぁ、こつがあるんだ。私は何年もやっているから慣なれているだけだ」
言いながらおじさんはまた一本を完璧に真っ二つに割った。
「それにしてもあっちのあなたの連れは結構可愛いね。もしかして妻が別室をあてがって、いらぬ気を遣ったのかな?」
おじさんは意味ありげに才機に微笑を投げ掛けた。
「いや、そんな事は」
才機は平然と答えた。でも直ぐにその質問の本当の意味を理解して少しだけ恥ずかしがる様子を見せた。
「あぁ、俺達の間には何もないよ」
「そうか?あの子は一緒の部屋でもあまり嫌がっていなかったみたいけど。ずっと同じ部屋で寝てきたんじゃないの?」
「二回だけだ。それにそれはただ節約の為だった」
「ふうん。でもたとえ本当に何もなくても、同じ部屋を共用しているうちに何かが芽生えたりしても可笑しくない」
「いや、それはありえないと思う」
「でもやっぱり···芽生えて欲しいか?」
「え?あ、いや、だから、その···」
「ははは、冗談だよ、冗談。あなたの気を散らす策略だった。そして効果は抜群みたい。最後の一本頂き」
おじさんはさっきまで薪の山があった場所から最後に残っていた一本の薪を自分の物にして四つに割った。
二人は互いの労働の成果を見比べた。どっちの積み重ねが大きいかは一目瞭然。
「この勝負は私がもらったみたいだな」
「完敗だ」
「あそこにあるのは薪小屋。これを全部あそこに入れてくれ。」
おじさんはそう頼んで 丸太小屋に入った。
才機が薪を全部薪小屋に運ぶのに六往復かかったが、幸いにその薪小屋はそんなに遠くない場所にあったから速やかに片付ける事が出来た。薪小屋のドアを閉めたら、丸太小屋からおじさんがまた出てきた。おじさんは持っていたオレンジ色の細い物を才機に投げ、才機はそれを両手で受け取ってその正体が分かった。ニンジンだった。
「ネリーの好物だ。最後のほうでちょっとこすいなまねをしちゃったからあれをネリーに食わせてやって」
「そうか。じゃ、ちょっと行って来ます」
才機は急ぎ足で馬小屋へ向った。
「ここで待っているから、それが終わったら戻ってきて。次もある」
「はい!」
女達は干し物を全部出して、また台所に戻っている。
「それでは、次は絨毯ですね。階上の四枚を持ってくるから、居間の暖炉の前の一枚をポーチの柵に掛けて待っててくれますか?」
「はい」
女将は二階へ、海はぎざぎざ模様の絨毯をまとめて表口から出た。外に出ると才機であろう人が馬小屋の後ろに消えて行くのに気付いた。
《馬とでも遊んでいたのかな》
海は持っていた絨毯をきれいに柵に掛けて、女将は右手に四枚の小さな絨毯を、左手に絨毯叩きを二本持って出てきた。海はその負担を軽減しようと三枚の絨毯を手に取って柵に掛けた。すると女将は一本の絨毯叩きを海に渡して、二人が埃を容赦なく叩き出したが、普段から清潔にしておいている絨毯からはそんなに埃が落ちない。
「さて、後は中の家具の埃を払うだけです。この絨毯を元に戻していいですよ」
海は言われた通りにし、他の絨毯を階上に戻しに行った女将の帰りを待った。今度女将は雑巾を手にしていた。
「さ、この部屋から始めましょう。適当にやればいいのよ」
女将は椅子を踏み台にして食卓の上に天井からぶらさがっているランプに手を伸ばした。四方に広がる四本の蝋燭を囲む先っちょが切り取った蕪の形をしたガラスのカバーを一つずつ取り外し、丁寧に拭き始めた。海は隣で戸棚を拭き込んでいた。戸棚の上に載っていた色んな写真を見て海は言った。
「写真が沢山出されてますね。この大きい丸太を担いでいる六人の男は誰ですか?一人は旦那さんに見えるけど」
「旦那ですよ。他の人は皆友人。持っている丸太はのこの民宿を建てるのに最初に使った丸太。その六人の男の力でここは建てられたんだ」
「ふうん」
「いや、ちょっと違うかしら。七人目はいたけどあの写真には写っていません。右にある写真なら写っていますよ」
「これ?」
「そう」
「さっきの六人に比べて若いですね」
「ええ、あれはうちらの息子ですから」
「そうだったんですか?息子さんがいるのね」
「時間がある時、折に触れて彼も手伝いに来ました。今はアラニアに住んでいます」
その多くの額縁の間を拭くのを怠らずに海は他の写真にも目を通した。次は戸棚にかかろうとしたその時、女将は驚きの声を上げた。海は彼女がガラスのカバーを落とすのをちらっと目にした。雑巾を投げ捨てて海の反応は電光石火のごとく。テーブルにぶつかる直前に間一髪のところで無事に両手で受け止めた。でも安心するどころか、むしろ歯をくいしばって前より遥かに焦り出した。間に合わなきゃって思って手を思い切り伸ばしたら、思わず能力が発生したからだ。結果としてテーブルの花瓶と向こうの戸棚
の上にあった写真がいくつか倒れた。それに続いた静寂の中で、花瓶に入っていた水が床に流れ落ちる音しかなくて、海は動かずにランプのカバーをしがみついたまま。床に立派な水溜りが出来き、完全に静かになって初めてその沈黙が破られた。
「すみません!本当にすみません!そのつもりはありませんでした!ガラスが割る前に受け取ろうと思っただけで、こんな···わざとじゃないんです!本当!すみまさん!」と重々謝罪する海は上半身がほぼ水平になるほど頭を下げた。
女将は椅子から降りた。
「何をそう必死に謝っているの。事故だったんでしょう?」
「え?」
女将はガラスのカバーを優しく海の手から取った。
「このランプはね、凄く気に入っています。旦那からのプレゼントでした。水をこぼすぐらいで壊れずに済むなら安いもんですよ」
「お、こってないんですか?」
「怒っている?感謝こそすれ怒る道理なんてありません。さ、この水を何とかしましょう」
二人が水をふき取ったらテーブルクロスも取り替えた。最後に女将は倒れた額縁を立て直した。
「嫌ってないんですね、異能者」
海は新鮮な水を入れ直された花瓶の薔薇を特に意味なく弄って言った。
「ま、少なくともあなたの事は嫌いではありません。あなたのお友達も異能者でしたら彼もです。でもこの事は私の旦那に内緒にしましょう。彼は異能者を嫌っ
てはいませんが警戒はします」
外は少し暗くなってきた。男達の登場を知らせるように柱時計は三回鳴った。
「今日は大漁だ。大物を三匹釣ってきた」
おじさんは誇らしげな笑顔でそう告げた。
「三匹とも彼が釣ったんだけどね。俺が捕ったのはこれぐらいの雑魚二匹」
才機は親指と人差し指で八センチの長さを示した。
「まぁ、初めてにしちゃ上出来じゃない」
おじさんは才機の背中をポンと叩いた。
「では、うちらは下ごしらえをするから二人はここで休んでいて」
女将は海と一緒に台所に入って行った。
例の魚は台所のテーブルの上に置いてあったバケツに入っていた。海は才機が釣った二匹の魚を見て少し笑わざるを得なかった。
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