最後の思い出話
「おっちゃんはなぁ、ホンマに幸せな人生を送ったんよ」
麦わら帽子の老人が人懐っこい笑みを浮かべる。
おっちゃんと呼べる時期はとうに過ぎているだろう。歯は殆どが抜けていて、顔中には深いしわが刻まれているが、口に出しても得するわけじゃないので黙っておいた。
蝉が鳴いている。川の流れる音がする。
魚が引っかかる様子はなくて、でも釣り中にスマホをいじるのは絵面が間抜けで嫌だ。
つまり暇で、だから、近づいてきた知らない老人の身の上話に耳を傾けようという気になったのだった。
「ワシにゃあ、孫がおるんよ。五人も。一人娘が頑張ってなぁ、先月なんか、ひ孫が産まれたんよ」
「へえ、そうなんですか」
我ながら適当な相槌を打ってしまったが、老人は気にしていないようで、ニコニコと笑ったままだった。
「もう、十分生きた。十分、幸せになったんや」
ははは、と笑い声が夏の日差しに溶ける。
俺は、幼い頃に死んだ祖母ちゃんを思い出していた。
祖母ちゃんは俺のことをとにかくかわいがってくれた。俺という存在自体が、幸せの塊かのように。
そして、いつからか「ああ、もう死んだっていいわ。こんなに幸せなんだもの」と口にするようになって、そして……それからひと月もせず、本当に亡くなってしまった。
だから、俺は隣の老人のその言葉に、嫌なものを感じ取った。
「なにを言ってるんですか。ひ孫さんが産まれたんでしょう。まだまだこれからですよ」
そう言ってから、少しだけ後悔する。さっき会ったばかりの赤の他人に、どれだけ入れ込んでんだ俺は。
「優しいんやなぁ、兄ちゃんは」
ふぅ、とため息の声がする。
「実はな、おっちゃんは末期がんでな、どのみち永くないんや。病院の中で抗がん剤くらいながら生き続けんのも癪やから、こうしてのんびり散歩とかしよるんよ」
えっ、と素っ頓狂な声が出た。
俺は謝ろうとした。だが、それを見透かしたかのように、皺だらけのごつごつした手のひらが俺の顔に向けられている。いいんだ。という言葉の代わりに。
「謝るんはこっちよ。急に変な話聞かせてもうて、悪かった」
ジーワ、ジーワ。蝉が呑気に鳴いている。一週間程度の命と知ってか知らずか。
「なあ、もし兄ちゃんがよければ、ワシの思い出話を聞いてもらってもええやろか。そんな長くないからさ」
老人は身をよじり、目線を流れる川に向けた。枯れ枝のような細い体に、真夏の光が注いでいる。
俺は、いまだ動かない釣り針に向き直る。イエスの代わりに。
そして老人は、ぽつりぽつりと語り始めた。
今は道路も通って、お店なんかもぽつぽつできとるがな、ワシが若い頃は、ここは本当に自然だけしかない、一個の山だったんよ。
あの日、ワシはマタギだった。野山に入ってイノシシを狩ったり、罠にかかった狐を捕まえたりして暮らしていた。
そんな山には、ルールがあったんや。ワシはこの山しか知らんが、もしかしたら他の山でも同じかもしれんな。そのルールっちゅうんは、冬は絶対に山に入っちゃいかんっちゅうことや。
今でも、屋根が潰れたりとか車がスリップしたりとか、雪はまだ怖いもんじゃがな、あの頃、山に振る雪は、今よりももっと怖ろしくて遊びがなくて、命を奪うものだった。
でもな、ワシはその雪が好きだったんや。一面が真っ白に染め上げられて、キラキラ光って見えてな。じさま(爺様)が止めるのも聞かず、何度も雪の山に踏み入って、別世界を楽しんでいたんや。
そんなある日のことじゃった。雪解けで地盤が緩んでいたんやろな、小さな地滑りに巻き込まれて、気が付いたときには、見たことのない場所におったんや。まあ、遭難しちまったってぇことやな。
見知らぬ冬の山。おまけに全身を打ってもうて、体中が痛くてかなわん。歩くのもつらかった。ああ、ワシはこのまま死ぬんや。って思ったそのとき、雪景色ン中に一軒の小さな山小屋を見つけたんや。
フラフラとな、そこにたどり着いて中に入ってみたらな、おったんよ。女が。
小屋の中なんに、まるで外のように寒かった。囲炉裏は形だけで薪が焚かれた形跡もなくて、そん横にちょこんと座っていた。
それでな、びっくりしたみたいな顔でこっちを見つめる顔にな、ワシは……惚れてもうたんや。
美人で、そんで雪みたいに真っ白でな。
同時にわかってもうたんや。この人は、ワシが小さい頃にじさまがなんども話してくれた、雪女やって。
それからの生活は、本当に幸せやった。
最初のうちは心を開いてくれんで、火ぃつけてもええけど、その間は私はおりません。回復したらとっとと帰れ。ってな。
それでもな、ワシは帰らんかった。
なんでやろな、ただ惚れたってだけで村にも帰らず、山ン中で過ごすことを選んだんや。
その女は火ぃを怖がるからな。体力が回復したら、獣を狩ったんや。たくさんな。
そんで、毛皮を剥いで、何枚も何枚も、外套のように身にまとった。肉を料理して、わざわざ雪で冷やしてから食べてもらおうと頑張ったりもした。
そんな風にやってたら、次第に心を許してくれるようになってな、笑い合う時間が増えていった。
銃の弾が切れてもうてからは、彼女がどこからか、獣を調達してきて小屋の前に置くんや。触ってみると、氷のようにカチカチになって死んでるんや。
ああ、やっぱり雪女なんだ。と、その段階になってようやく確信したんよ。でもな、怖いとは思わなかった。むしろ惹かれた。無慈悲で遊びがなくて、それ故美しい、ワシの好きな雪が、目の前で人の形をしとるわけだからな。
男女の仲になるまで、時間はかからんかった。
そんで、玉のような赤子が……ワシの娘が産まれてな、ほんまに幸せだった。
だけどな、妻が言うんや。
「ごめんなさいあなた。もう、私は限界です」ってな。
娘をあやしているときにそんなこと言われて、動揺した。いったい何を言っているのか、と問い詰めてみても、涙を浮かべるばかりだった。
「こんなに楽しい日々は初めてだった」「だけど、もうこれ以上一緒にいることはできない」「本当はずっと一緒に暮らしたい」
なぁ、別れの挨拶ってわけや。ワシは嫌やった。当たり前だけどな。
でも、どうしようもないことは、声色とな、涙で顔中が濡れた妻の表情から痛いほど読み取れてしまったんや。
すると、小屋中が急に冷たくなった。外套だけではどうしても防ぎきれないくらいに、体の芯まで凍らされてしまいそうなくらいに。
寒くなると眠くなるってのは本当やな。泣きながら佇む妻の姿がどんどん暗くなっていって、ついには意識が途切れてもうたんや。
次に気が付いたとき、ワシは、元居た村の家の中で寝かせられていた。看病の村人が心配そうに覗き込んでてな。
「娘は……娘はおるんか」
って、そいたら葦の籠で呑気に寝息をたてててなぁ。ワシも娘も、無事助かって、そんで今に至るわけや。
その後しばらく村で過ごした。その間、誰もワシに何があったのかを聞かなかった。本当はみんなわかってたんや。娘は、赤子のうちからでもわかるくらいに白い肌をしてて、そんで美人だったからや。
じさまが聞かせてくれた雪女の物語は、どれも結末が同じやった。
それはな、男の方が雪女と過ごしたことを誰かに話すと、そのことに怒った雪女が男を凍らせて殺しちまうってことだった。
だからワシは誰にも言わなかったし、誰も聞かなかった。
その生活も長くは続かなかった。
戦争で、兵隊にとられてもうたんや。娘を連れて、山の外にある訓練所に連れてかれて、なんとか生き延びた後も山には帰れず、村人とも離れ離れになってもうて、真実を知るのは、ワシだけになってもうたんや。
思い出話を終えた老人の横顔は、やり遂げたような、優しい笑みが張り付いていた。
そして、その真意も。
「すまんなぁ、こんな話聞かせてもうて。でもな、家族に聞かせられるわけない。友人もダメや。お前たちは、物の怪の子だと言われたら、それがどんなに美しくて優しい、人間らしい物の怪でも、嫌に決まってる。だから、会ったばかりの君に話をしたかったんよ」
枯れ枝のような手が、小さなジャリを拾って川に投げる。ドボンと音がした。
「でも、雪女の話をしたら……」
「そうや。安心してくれ。この話で死ぬんは、話をした奴だけ。聞かされただけの人は、死なん。あいつは、そんなことをする女やないんよ」
晴れ晴れとした表情で、すっくと立ち上がった。がん患者とは思えないほどに、その動きによどみはなかった。全ての迷いを捨て、死ぬだけになった魂の動き。
「会いに行けなかった。大好きな雪だったのに、二度と見られなかった。だから、せめて最後に、あいつに殺されるかもしれなくとも、最後にもう一度会えるのなら、それは……それは、本望なんよ」
すまんかったなぁ。と会釈をして、老人はゆっくりと歩き去っていった。俺は、その背中から目をそらすことができなかった。
河原の向こうに、小さな体が完全に消えて、ふと、一つの風が吹いた。
夏とは思えないほどに冷たい風だった。感じたのは一瞬だけで、まるであの老人を追いかけるように、すぐに消えていった。
ただ一瞬その身をさらしただけだったのだが、俺にはあの冷たい風が、まるで喜んでいるような、そんな感覚を覚えたのだった。