おばけがおしえてくれた
「ままー」
洋子が保育園にお迎えへいくと、息子の弘樹がすぐに飛び出してきた。
「おかえりー」
「ただいま」
足にしがみついてくる弘樹を抱きしめると、担任の先生が迎えてくれた。
「お母さん、おかえりなさい。弘ちゃんは、いつもお母さんが来たって、いちばんにおしえてくれるんですよ。まだお母さんの姿が全然見えないのに、何か感じているみたい」
担任は笑顔で教えてくれる。洋子たち親子のことを、微笑ましいと感じているようだ。
洋子は弘樹を抱きしめまま、笑顔をみせる。
「そうなんですか?わたしの気配でも感じているのかしら」
弘樹は屈託のない笑顔で洋子を見ていた。
「ままは、かへおーれがすき」
仕事が休みの日、洋子がカフェオレを飲んでいると、弘樹が嬉しそうに、マグカップを指さす。
「そうだよー。ママはカフェオレが大好き。よく知ってるね、弘ちゃんは」
「うん。ひろちゃんは、にゅうにゅうがすき。にゅうにゅうのみたい」
「はいはい」
洋子は小さなコップに牛乳を入れながら、あれ?と弘樹を振り返る。
(わたし、弘ちゃんにカフェオレなんて、言ったことあったっけ?)
まだ三歳になったばかりの弘樹に話すとき、洋子いつもコーヒーと言っていた。
弘樹が舌足らずに「こーしー」というのを、いつも可愛らしいなと思っているのだ。
「弘ちゃん。カフェオレなんて、よく知っていたね。保育園で教えてもらったの?」
今までにも、洋子が聞きなれない言葉を、突然しゃべることがあった。そんな時はいつも保育園で誰かの影響を受けている。
「ううん、ほいくえんとちがうもん」
弘樹は、牛乳で口の周りを白くしながら洋子を見た。
「おばけだよ」
「え?」
「おばけがおしえてくれた」
「ええー?」
洋子は大げさに驚いて見せた。きっと保育園でおばけごっこがはやっていると思ったのだ。
「弘ちゃんは、おばけとおはなしができるの?」
「うん」
「すごいねー。でも、ママ、おばけはちょっと怖いかも」
「おばけはこわくないもん」
このときは、洋子はただ弘樹の無邪気さをかわいいと思っただけだった。
「おばけがおしえてくれた」
弘樹がそんな風に言うことが、度々あった。
洋子が保育園にお迎えにくるのも、どうやら「おばけがおしえてくれる」らしい。
弘樹が知っているはずのない、洋子の好きな物や場所、あるいは嫌いな食べ物などを、突然教えてくれるときがある。
そんなときも「おばけがおしえてくれた」というのだ。
はじめは保育園の影響だと感じていた洋子も、だんだんと本当に「おばけ」がいるのではないかと思うようになってきた。
怖くないといえば嘘になるが、弘樹には怖がっている様子もない。
「ママはおばけ、こわいなー」
「おばけはこわくないもん」
洋子が怖がると、弘樹は拗ねてしまう。
「弘ちゃんは、おばけがすき?」
「うん。だいすき」
「そっかー。じゃあ、いいおばけなんだ」
「うん」
たしかに弘樹の話すおばけから悪意を感じたことはなかった。
何より、おばけの話をするとき弘樹が嬉しそうなのだ。
ある夜、弘樹が泣きそうな顔をしながら、洋子に駆け寄ってきた。
「おばけが、さよならだって」
「え?どういうこと?」
「みつかったから、もう、ひろちゃんと、いっしょにいられないって」
突然やってきたおばけとの別れに、弘樹はわんわん泣き出した。
「おばけがいなくなるよぅ。いやだよぅ」
「弘ちゃん、泣かないで」
なんと言葉をかけて良いのかわからず、洋子が戸惑っていると、ふいに電話が鳴り出した。
泣きじゃくる弘樹をうまくなだめることができないまま、洋子は受話器をとった。
通話を終えて振り返った洋子の顔からは、血の気がひいていた。
「弘ちゃん。もしかして、おばけはあの写真にうつっているの?」
洋子が棚の上に飾ってある写真を示すと、弘樹はしゃくりあげながら「うん」と頷いた。
まだ零歳だった頃の弘樹を抱いた洋子と、夫が寄り添っている写真。
「おばけは、なんて言ってるの?」
「えっと、えっとね。ひろちゃんは、いいこだよって。ままも、がんばって、くれてるねって。・・・いっしょに、いられなくて、ごめんって。・・・う。ひろちゃんと、ままのこと、だいすきだよって」
洋子はおばけの正体を悟った。弘樹と一緒になって、声をあげて泣いた。
ある日突然、家に帰ってこなくなった夫。警察にも行方不明の届けを出して、三年以上が過ぎていた。いつか必ず帰ってくると信じていたが、それは叶わなくなった。
「弘ちゃん。おばけに教えてあげて。ママも弘ちゃんも、おばけがだいすきだよって」
「うん。おばけ、だいすき!」
弘樹が叫ぶように、大きな声を出した。
「やだっ!いっちゃやだぁ」と、またわんわん泣いた。
父親が亡骸となって発見された日。
それは、おばけとのさよならの日になった。
弘樹の前から、おばけはいなくなった。