76 森の中のふたり 前編
「……これは……」
鬱蒼とした森の中に足を踏み入れたとき、腕の中のこゆみが小さな声で呟いて、細く白い手を空に向けて伸ばした。茂る木々を見上げると、木漏れ日と一緒に無数の白い光の粒が降ってくる。イークレスがその光を見るのは、三度目だ。
「ミユキ様……」
唇を噛んだとき、その背後から緑色の光が押し寄せてきて、イークレス達を包み、森を覆い尽くして過ぎていく。ものすごい早さで足下の草が増え、明るくなった天を仰ぎ見ると色が褪せていたはずの木々の緑から、鮮やかな若葉が芽吹き葉色がぬりかえられる。そして枯れていたはずの近くの沢から流れる水の音が聞こえてきた。
ありえない──。
この巨大な森はここに住み着くエルフと共に世界樹を守ると同時に世界樹に護られてきた。しかし、いつしか世界樹の成長が止まり、同時にこの森も死にはしないが、何も生まれてこない、年老いていくだけの森となってしまっていたのだ。
「イークレスさん…… 私、もう大丈夫です」
だから下ろしてください、と赤くなりながら訴えるこゆみにやっと気づいたイークレスは、彼女を丁寧に下ろした。こゆみは頭を下げて礼を言い、そして周りを見渡して大きく息を吸い込んだ。
「気持ちいいですね。いい匂いがする。あ!」
こゆみのまわりに、淡い黄色や水色、緑などの小さな光がふよふよと集まってきた。
「きれい……。蛍みたいですね。この光は何なんですか? ……イークレスさん?」
名を呼ばれ、愕然と飛び交う光を凝視していたイークレスが、ハッとして声を絞り出した。
「せ……精霊です。でも、もう、彼らはこの地にはいない……。この世界からは200年ほど前から姿を消していたはずです……」
世界樹が蝕まれ、成長を止めた頃にいつしか精霊は姿を消してしまった。辛うじて精霊魔法を使えてはいるが、この二百年でかなり力が衰えてきている。通常の魔法も使えるイークレスには支障はないが、精霊魔法のみのエルフ達は己の力が衰えていくことに絶望していたのだ。
色とりどりの光が舞う中、呆然と佇むイークレスの手にこゆみはおそるおそる、指先で触れた。
「……っ、こゆみさま?」
こゆみの指が慌てて離れていく。そして真っ赤になった顔でイークレスの目を一瞬だけ見つめたあとに視線を落とし、意を決したように口を開いた。
「イークレスさん、教えてください」
こゆみからこのように質問されるのは、初めてだった。ここはもう、正面から見つめ倒すしかない。
「あの……」
(あぁ、黒々とした柔らかそうな髪が上気した頬にかかっているのをこの指で払って差し上げたい。
いやいや、しかしなぜこんなにこゆみさまの肌は美しいのだろうか。どこまでも滑らかそうだ。
ああ、瞳がこぼれ落ちそうだ。もしこぼれ落ちたら其れを口に含んでみたい。きっと甘いのだろうな……)
思い切って顔を上げたこゆみには、うっとりと自分を見つめてくるイークレスからそんな些か猟奇的な部分が感じられないため、再び俯いてただただ赤くなるばかりであった。
「わたしにはまだ、ちょっとの間でしか感覚がないんですけど、その、もう、二百年も経っているんですよね? あれから……」
(あれからとは、どれからなのだろうか)
「その、あの、夜……」
下を向き、消え入れそうな声で続けるこゆみにイークレスは息をのんだ。あの夜とは、自分が想いを伝え、こゆみの未来を乞うた夜のことだろう。
「こゆみさまの時が止まっている間、私の時も、止まっておりましたので──私の気持ちはあの時のまま、いえ、それ以上になっております」
静かなイークレスの答えに、顔を上げたこゆみの目から涙がぽたぽたとこぼれ落ちている。イークレスは先ほど触れたこゆみの指をそっと掴み、そのまま手を包み込んで微笑んだ。こぼれ落ちる涙を嘗めとりたいのをぐっとこらえる。この手は絶対に放してはいけないと本能が叫んでいる。このままたたみ込むのだ。
「こゆみさまのお心は、変わってしまわれましたか──?」
少々芝居がかっているかとは思ったが、そんなことにこだわってはいけない。本当はこゆみから目を逸らしたくはなかったが、しぶしぶと目を伏せてみせた。少しでも悲しげに、しおらしく、同情を誘えれば幸いだと思ったからだ。自分はここで持てうるすべての力を使わなければいけないのだ。
彼女はあの時小さく頷いてくれた。それだけがこの長い二百年の心の支えだったのだ。まぁ、例え頷いてくれていなくてもイークレスの行動に変わりはなかったのだが……。
とにかく何でもいいからこゆみの心をつなぎ止め、あわよくば掴めればとイークレスは思った。
しかし──。
「やはり、ご自分の世界のほうがお幸せなのでしょうね」
こゆみたちは元の世界でこちらとは全く違う文明のなか、かなり便利で快適な生活をしていたと聞いた。家族も知り合いもいるだろう。その全てよりも自分を選んでもらわなくてはならない。だが、時間がなさすぎる。ここはやはり、泣いて縋るのが一番な気もしてきたイークレスであった。
「私は、その、私も変わってません。あの時のままです」
「え?」
真っ赤になったこゆみは、しかしイークレスから目を逸らすことなく、続けた。
「あの、イークレスさんのこと、好きです」
う、とイークレスは己の心臓を押さえたかったが、こゆみの手を包み込んでいるので離せない。
「もしも私がこちらに……住みたい、生きていきたいと言ったら、イークレスさんは困り……ご迷惑でしょうか?」
こゆみの言葉に踊り出したい気持ちを抑え、イークレスは考えた。ここで踊り出してはいけないのだ。踊り出すよりも囲い込まねばならないのだった。




