51 その反対側では(後)
補助魔法の呪文を唱えつつ、オークまで100メートルをきったところだろうか。
突然、オークが揃って崩れ落ちるように転倒した。
「馬鹿野郎! 死ぬ気か!? って、なんだあれ」
立ち止まったアルンドーに追いついてきたパストゥスと数人の兵士が倒れたオークを見て言葉を失う。が、やはり近寄ることはできない。ただ見ていると、オークの頭を何かが覆ってもがき苦しんでいるように見えた。たまらずアルンドーが走り出し、他の者も追いかける。
「え?」
水である。水が生き物のようにオークの頭部を覆っている。
そして突然、それは凍った。何が起こったのかわからないままに、目を見開いたオークの口や鼻の穴から氷が噴出してくる。
「げ~っ なんだよこれ」
誰かが唸り声を上げた。確かに叫びたくもなる光景だ。だが、オーク五頭はもう動かない。
そのまま随分と時間が経ったあと、パストゥスが言った。
「死んでるかどうか、念のために確認しよう」
全員で、武器を構えたまま、おそるおそるオークに近づいてゆく。後ろからも兵士達が駆け寄ってきている。誰も、何がどうなったのかわからないまま、オークが死んでいることを確かめた。鑑定により氷はただの水だと判った。
しばらく経って、ぼそりと、誰かが言った。
「これ、食えるよな?」
もう、みんな長いことまともに肉を食っていないことを思い出す。狩場の肉は魔物にやられ、魔物は強すぎて手が出せない。たまに入る肉は、到底庶民の口には入ることがなかった。庶民は毎日毎日豆と芋ばかりである。
「毒見をしようぜ! でかいし、ここで解体したいのはヤマヤマだけど他の魔物を呼び寄せちまうから何とか一頭宿舎に運ぼう」
ここにいる兵士たちの半数は、もともとギルドに所属していた若手の冒険者だった。しかし魔物が凶暴化し、ベテランの冒険者達が次々と倒れ、引退してゆき、命を懸けて狩をすることもできない者が増え、皆が困窮しかけていたところを、国が週給制で兵士として雇い入れたのだ。結局は今回のように魔物と戦うことにもなるのだが、倒せなくとも給料は貰えるし、武器も食料も支給される。
そして賃金からわずかな金額を積み立てておくと、勤務中に怪我をすれば保障される。固定給は渡りに船であったので、みな飛びついてここにいるのだ。
「じゃ、何か運ぶのによさげなのを持ってきます」
アルンドーが宿舎を振り返ったとき、丘の上にいた兵士達が何やら叫びながら、黒い森の方向を指差しているのが見えた。またオークが来たのかと思い、慌てて振り返ると他の者達も、声もなく、ただ見ていた。
黒の森が舞い落ちる光の欠片に覆われていく。
きらきらと光る欠片に覆いつくされた黒い森は、静かにその姿を消していった。残るのは青い空と地平線のみだ。
そしてその地平線の彼方から波のように緑色の光が押し寄せてきた。逃げようにも逃げられない速さだ。
それは、オークの周りにいたアルンドー達を飲み込み、追い越し、丘の上の兵士達も、兵舎も厩舎も全て覆いつくして遥か彼方へと流れていった。
心地よい、柔らかな光に包まれてぼうっとしていると、それがふいに個々の体の中に吸い込まれ、足元から、ぐっと押し上げられるような感覚で我に返った。
「なに……?」
足元を確かめると、青々とした草が10cmほど伸びている。
周りを見渡し、またしても言葉を失った。
消えた黒の森が、青々と木が生い茂る本当の森になっている。
はるか遠くにも別の森ができていた。
「──い! おーい!」
誰かの声と馬の嘶きで振り返ると、昨日のオーク襲撃後に、報告と救援依頼に出た兵士が、馬に乗ったまま、こちらに向かっている。
「あいつ、元気だな」
「そうっすね」
「あの馬、ツヤがよくね? 確かあいつで向かったよな?」
「乗り継ぎ所で一晩休ませたのに乗り換えて来たにしても……」
ここまで走ったとは思えない力強い走りである。
「どうなってんの? これ」
こっちが訊きたいわ!と思いつつも横たわるオークの脇で、投げかけられた質問に答えられるものはいなかった。
しばしの沈黙のあと、パストゥスが背後を振り返り、指差して言った。
「黒の森が、ああなってるんだけど」
馬に乗ったエキーヌスは、それこそ目が飛び出そうなほどに驚き、ぱくぱくと口を動かしながら、森とパストゥスとアルンドーと指差したあと、馬を下りた。エキーヌスは頭ひとつほど皆より低く、体も細い。
「……とりあえず、話を聞こうか。俺、また行かなきゃなんねーかな」
「そうだな。でもたぶん、おまえじゃ信じてもらえないだろうから、上の人間が行くんじゃないのか?」
「あぁ、そうなるんじゃないか? とりあえず、こいつを運ぼうぜ。ほら、援軍だ……って?!」
丘の上から昨日大怪我をしていた兵士達がぞろぞろとこちらに歩いてくる。荷車を押している者もいたが、あれにこのオークが載るとは思えない……。アルンドーをかばってくれた兵士も混じっていて、目が合うと笑みを浮かべて小さく手を上げた。しかもあの右手は、確かに踏み潰されていた。
「どうなってるんだ? 怪我は……?」
もう、何から驚けばいいのかすらわからない。
見上げた空には小鳥が囀りながら羽ばたいている。鳥の声など、もうずっと聞いていなかった。
これからはいつでも聞くことができるのだろうか。




