悪夢
私はそのまま来た道を引き返し、上りの電車に飛び乗った。まさか満香が、あんなことになっていたなんて。家まで帰る気力もわかず、駅のベンチに座り込んで、私は昼間の出来事を反芻していた。
しばらくして顔を上げると、駅には誰もおらず、静まり返っていた。気を持ち直した私は、家に帰ろうと立ち上がったが、そのときあることに気が付いた。
ホームの下、線路の上に、黒い服を着た人が倒れているのだ。私は恐る恐る前に出て、その人に近づいてみた。薬物中毒者だ。意識が混濁しているようで、うわごとを言いながらその場でもがいている。驚いて目をそらすが、すぐ目の前に人影は迫って来た。驚いて腕を振ると、それは落とし物のコートだった。
そうだ、薬中は私の方だった。大分前から、時折見える幻覚に、私は頭を悩ませていた。
その時私は、ポケットの中に何かが入っていることに気が付いた。カッターナイフだ。それも、赤黒い血がべったりとついた。私は自分の手首を確かめたが、そこに傷はない。この血は一体だれのものなのだろうか。私は自分の記憶を探ったが、ナイフの影はどこからも浮かび上がってこない。ざらざらとした掻痒感が体中に広がってゆく。ナイフだ。血塗られたナイフから、悍ましいものが腕を這い上がってくる。私はナイフを放り出し、穢れを払うように、焼けどを冷やすように、ナイフを持っていた手を振り回した。
「気持ち悪い、痒い。気持ち悪い、痒い。キモチワルイ……」
呪文のように繰り返し、地面に転がるカッターナイフを執拗に踏みつけた。何度も、何度も。何度も、何度も。暫くして、私は、しかし、あることに気が付いた。足に手ごたえがない。コンクリートの感触だけが靴の裏を叩き返す。恐る恐る足を上げると、そこにカッターナイフなどなかった。なかったのだ。初めから。
私は恐ろしくなり、その場から逃げ出そうとした。けれど、足は縫い付けられたかのように、地面から剥がれない。私の足に突きささった見えない杭は、無理矢理動かそうとすればするほど、深く、深く肉に食い込んだ。串刺しにされたような痛みに、私は思わず声を上げ、その場にうずくまった。
「大丈夫ですか?」
ホームの上を、誰かの足跡が駆けよって来る。ふと顔を上げ、私は凍り付いた。見間違えようもない。堂島君だ。嘘だ。こんなところに堂島君がいるはずがない。だが、堂島君はどんどん私に近づいてくる。私は強烈なめまいに襲われ、胃の中のものをホームに吐き出してしまった。コンクリートの上に広がった吐しゃ物はやけに赤く、口の中にはまだ泥の味と錆の匂いが残っている。私の意識は次第に遠のき、暗闇の中に沈んでいった。
私が目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。白い天井と、ベッドを囲うカーテン。気を失った後、どこかの病院に運び込まれたのだろうか。ただ、一つだけ分からないのは、私の体がシーツごと、ベルトで縛られているということだった。ベッドから抜け出そうと私がもがいていると、カーテンの向うから声が聞こえてきた。
「先生、503号室の患者さん、目を覚ましたみたいですよ」
遠くで分かった、という声がした後、女性は私に話しかけた。
「川辺さん、お気づきになりましたか? 川辺満香さん?」
なぜ彼女は、私を満香と呼ぶのだろう。
「違います。私は――」
と名乗ろうとすると、急に頭痛が襲い掛かって来た。痛い。頭にひびが入ったかのようだ。体の自由が利かないまま、私はベルトの下でもがいた。
「落ち着いてください、川辺さん!」
暴れる私を、看護婦が押さえつけた。
「ああ、また症状が出てますね。落ち着いてください。あなたの名前は川辺満香です。解離性同一障害と診断され、数か月前から外来に通院なさっていたのですが、症状が悪化して3日前に入院してこられたのですよ」
遅れて現れた医師は、のんびりと説明した。
「嘘だ。満香は……満香はあの路地裏で死んだ!」
私は頭を起こし、医師に訴えた。
「いえ、あなたは正真正銘川辺満香です……」
私の症状が悪化した原因は、ある交通事故だったそうだ。あの路地裏の近くで自動車に追突され、意識は回復したものの、解離性同一障害が急速に深刻化したのだという。話を聞くにつれ、私の記憶は、俄かに鮮明になっていった。雨を割くブレーキの音。焼けつくような痛みと、頭の上を通りすぎるアスファルト。地面に広がってゆく鮮血。遠くに響くサイレンの赤い音。あのとき私を庇ってくれたのは……
「堂島君?」
病室の隅に、堂島君が立っている。そんなはずがない。堂島君が、一体なぜここにいるのだ。そもそも彼はこの病院を知らないではないか。これも単なる幻覚なのだと、私は自分に言い聞かせたが、幻というには、彼の姿はあまりにも
はっきりし過ぎていた。
「俺が悪かった。やり直そう」
土下座する堂島君に、私は思わず聞き返した。
「何が?」
堂島君は体を起こし、思いを打ち明けた。
「ショックだったんだ……まさか、自分から車に飛び込むなんてさ」
私は、堂島君の言葉に震えあがった。
「俺の監視が甘かったばっかりに……次はちゃんと守ってやるからさ」
近くにいたはずなのに、なぜ堂島君は私を止められなかったのだろうか。いや、違う。止められなかったのではない。堂島君に突き飛ばされて、私は車にぶつかったのだ。
「殺す! 殺してやる! 堂島! よくも私を! 私を!」
このベルト、このベルトさえなければ、あの男は目の前にいるというのに。私は戒めを解こうともがいたが、革のベルトはびくともしなかった。
「和泉君、鎮静剤を」
医師が命じると、看護婦は注射器を取り出し、私の肩に針を突き刺した。
「殺してやる! 殺してやる! お前を! お前だけは!」
不意に舞い降りる、重たい帳。陰の向うへと、堂島が逃げていく。閉ざされてゆく視界の中、私が最後に見たものは私を嘲笑う堂島の薄ら笑いだった。