帰郷
チャット会「なないろ・かれいど(http://www1.x-feeder.info/shiroenpitu/)」のラジオ企画で、リクエストを受けながら掌編を書いてみました。時々アドリブで大喜利が入っております。
谷を抜けると、車窓からかすかな潮の香りが入り込んできた。以前、一度だけ来たことがある。満香の生まれ育った町。
オーボエを辞めて故郷に戻った満香が、今、何をしているのか。私はオフシーズンを利用して、音信の途絶えた彼女を尋ねてみることにした。
電車は緩やかに曲がり始め、目の前に広がる、2月の海。煉瓦造りの街並みが現れたかと思うと、電車はゆっくりと減速を始め、やがて駅のホームに滑り込んだ。
そういえば、もう昼の1時を回っている。空腹だったこともあり、私は駅前の通りで丁度良い店を探した。数年前まで、仲間達と通った異国通り。気が付くと、自然に足はあの食堂に向かっていた。
「で、出た!」
扉を開けると、そこには2メートルを超えるツキノワグマが立ちはだかっていた。驚いて尻もちをついた私に、誰かが話しかけてきた。
「大丈夫……って、お前、宮内か?」
吹奏楽部の顧問をやっていた、叶先生だ。先生はあの頃のまま、少しも変わらない。私がそう言うと、先生は苦笑した。
「ああ、あの時から髪は薄かったからなぁ」
先生はコーヒーを一杯頼み、私の昼食に付き合ってくれた。ぽつぽつと近況報告をしているうちに、浮かび上がってくる当時の思い出。話は自然と、吹奏楽部の仲間達に向かった。
「そういえば、あのオーボエの……ああ、川辺はどうなったか知ってるか? あまり言い噂を聞かなくてな」
お前、仲が良かっただろ? 私が抱えていた疑問を先生から投げかけられ、私は首を振った。
「私と同じ音大に入ったんですが、就活が上手くいかなかったみたいで……こっちに戻ってきたたみたいなんだけど、その後のことは私も分からないんです」
私が打ち明けると、先生はコーヒーをすすって、
「それでか……実家にも戻っていないみたいでな。道端で寝ているところを、中野が見かけたそうなんだ」
と教えてくれた。
「先生、その場所って、どの辺りか分かりますか?」
野宿しているのか、酔って寝付いてしまったのか。満香が一体どんな暮らしをしているのか、少しも見当が付かない。私に尋ねられて、先生は苦笑した。
「お前みたいな優等生には縁がなかったろうな……」
そこは、この街の、いわゆるたまり場らしい。先生と別れた後、私が言われた場所に向かうと、そこは果たして、グラフィティだらけの路地裏だった。むき出しのコンクリート、ひびの内側から現れた赤煉瓦。黒くなったガムの散らばる広場に、汚らしい老婆が座り込んでいた。
この老婆は浮浪者なのだろうか。意識がはっきりしていないのか、うつろな目で空を見上げ、私にも気づいていないようだ。私が話しかけると、老婆はもぐもぐと口を動かした。
「あ……宮内……先……輩?」
まさか。私はぞっとして、老婆の顔を検めた。薄汚れ、襤褸をまとってはいるものの、その顔つきには、確かに見覚えがあった。
「満香!」
染みだらけになり、前歯を失い、変わり果てた満香の姿。戸惑う私を見て、満香はかすれた声で笑い出した。
「死に際になって、宮内先輩に会うなんて、ねぇ……」
満香は笑い終わると、小さな声で零した。私は勧められるままに彼女の隣に座り、そして尋ねた。
「どうしてこんなことに……」
満香の答えは、意外なものだった。
「何それ、人ごとみたいに……全部あんたのせいじゃない」
手をついて後ずさる私に、満香は吐き捨てるように言った。
「あの男よ……あんたは男を世話したつもりかもしれないけどね、アイツはあんたが思ってるような男じゃなかった……」
クスリの売人だったんだ。満香の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「最初は、ちょっと試してみただけだった。断り切れなくて、いい顔したくて……でも、気が付いたら体中ボロボロ。馬鹿みたい」
嘘だ。堂島君が、薬の売人だったなんて。私が堂島君を紹介しなければ、こんなことにはならなかったに違いない。けど、あの時の私に、どうやって気づけというのだ。堂島君は素直で、誠実で、信用できる男の子だったのだ。
「わ、私のせいじゃない!」
罪の重さに耐え兼ね、私は叫んでいた。
「……あ、なんだ。いつもの幻覚だったんだ。やっぱり先輩がくる筈ないよね。あははは……!!」
力なく笑いだす満香。その目に映った絶望と狂気から、そしてこの陰惨な結果から、気が付くと、私は逃げ出していた。