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レガン戦記  作者: 高井楼
第三部
88/142

エトの夜・2

 広大な劇場。

 照明がギラギラと照りつける舞台に、キュベルカは立っている。

 その手には、ナイフが握られている。

 キュベルカは、刃先を、躊躇なく自分の胸に押し当てる。

 胸にナイフが突き刺さっていく。含まれていく。吸いこまれていく。

 おびただしい血液が、傷口からとめどなく流れていく。

 無数の観衆がいる。

 幾重にも幾重にも、先が見えないほど取り巻く大観衆が、割れんばかりの拍手をいつまでもいつまでもつづける。まるで業火が森を焼きつくすような音だ。

 バチバチバチバチ、バチバチバチバチ。

 わたしはなるべく美しく死ななくてはならない、と、キュベルカはなぜかそんなことを思う。

 いつのまにか、キュベルカの背後には、何十人もの人々が立っている。

「ああ! ああ!」と、かれらはいっせいにあえぎ声をあげる。

 キュベルカの目が見開かれる。口から自然と、ああ! ああ! とあえぎ声がもれる。

 背後の人々はとたんに憤る。どこからか、おそろしげな声が鳴りひびく。

「われわれはひとつの蜂の巣! 泡をふく蟹はそこにはいない! 水もそこにはない! あるのは無数の目のそのまた無数の目! そして無数の針、そして甘い匂い」

 ああ! ああ! と、人々が今度はむせび泣いていう。

「ああ! なんて甘い! でもわたしたちは、甘い匂いしか知らない。そしてわたしたちは、甘い匂いを知らないのだ!」

 劇場の観客が総立ちになる。

 キュベルカは恍惚として、両手を広げてかれらの拍手に応える。

 するするする、と、一匹の猿が、垂れ下がった縄から降りてきて、キュベルカの首に、器用にその縄をくくりつける。

「レザーンの踊り子!」突然キュベルカが、ハッと思い出したように叫ぶ。「もう一度、そう、もう一度だけ、わたしは彼女が踊る姿を見たかった!」

 クスクスクス、と肩に乗った猿が、キュベルカの耳元で笑っていう。

「いまだからいえること、いまだからいえること。レザーンの踊り子は、実はわたしでした!」

 猿はキュベルカの前に立ち、華やかに舞を踊る。

 しかしその黄金に輝く二つの目は、笑いながらも、はっきりと殺意に満ちているのが、キュベルカにはわかる。

 そうか、わたしはあの踊り子を痛めつけたのだったな、とキュベルカは思いかえす。痛めつけられながら、彼女はなおも踊りつづけていたのだったな。たぶんあれが、この復讐のはじまりだったのだ。

 キュベルカは、ハラハラと涙を流す。

 猿は、もうキュベルカを意識することなく、ただ観客にむかって、取りつかれたように踊り狂っている。

 足場が消える。

 どこへ?

 暗闇で巨大な猿の顔が浮かぶ。

 どこへ? どこへ? どこへ? どこへ?

 突如、せわしない声が耳元でささやく。

「石を瞳に、瞳を石に照らすのよ。クスクス、もう時間がないわ。わたしの遺言は絶望のすき間に、わたしの脚の向くままに、たえまざる波間に、消えゆく合間に。クスクスクス」

 鐘が鳴る。壮大に狂った鐘の音だ。

 キュベルカは耳をふさぎ、頭を振る。

 ──きたか?

 キュベルカは、ゆっくりと目を開いた。



 ──なに?

 レイゼン公イェゲダンは、驚愕して目を見張った。

 そんなばかな! 虚を突いて放ったわたしの精神攻撃が、破られることなどありはしない。

 実際キュベルカは、たしかにわたしの術に落ちた。精神は、崩れかけたのだ。

 それなのに、いまこうして前に立つキュベルカは、一度は苦しげに頭を振り乱したのに、いまは正気の顔でこちらを見ている。

 ──いや、正気だろうか?

 なにか雰囲気がちがう。顔からはいかめしさが消え、おどけるような表情で、わたしを上目づかいに覗きこんでいる。

 精神攻撃の影響で、狂ったまま覚醒したか? ……いや、そうではない。

「きみは、だれだ?」レイゼン公は、鋭いまなざしをキュベルカにむけていった。

 ウフフフ、とキュベルカは口に手を当てて、笑った。そして、すっと腰をかがめると、片腕を後ろに回し、もう片手の人さし指を唇に当て、シィー、といって、ウィンクをした。

「だめだめ、キュベルカはお休み中」

「すると、きみは影武者か?」

「あたし? あたしはレザーン」にこやかに、レザーンはあいさつをした。

 キュベルカの身に宿る、もうひとつの人格レザーン。厳格なキュベルカとは正反対の、やんちゃで幼いレザーン。

 キュベルカが二重の人格を持つことを、知る者はほとんどいない。まして、レザーンがいったい何者で、なにができるのかということになると、それはコーラ・アナイス以外は、だれも知らない。

 知っているほかの者は、全員死んだ。それが、アイゼン公家の廃絶の原因でもあった。

 しかしだれもが、その凄惨な事件の表面だけにとらわれ、裏を探るものはなかった。レイゼン公ですら、そうだった。

 だからレイゼン公はいま、困惑していた。

 レザーン? 影武者にしても、あまりに似すぎている。双子か? いや、やはりキュベルカ本人としか思えない。ならば演技か? しかし、いったいなにがどうなっている?

「それにしてもおじいさま、やることが若いのね、驚いちゃった」

 レザーンは、フフッと口もとで笑っていった。「もちろん、いい意味でも悪い意味でもあるけど」

「この歳になると、怖いものもなくなってね、逆に行動が早くなるのだよ」と応じながら、レイゼン公はすぐに心を入れかえた。

 レザーンだろうがキュベルカだろうが、同一ならば問題ない。もう精神攻撃の奇襲がかけられないとすると、残るは……

 数瞬のあいだ、広間のうちに沈黙がおりた。

 と、おもむろにレザーンが、あたりを見まわしていった。

「このお部屋、かわいくない」

 ──いまだ。

 レイゼン公の右手が、すばやくローブに差しこまれた。拳銃の硬い感触が手のひらに伝わる。

 頭の中では、これから起こることの後処理について、めまぐるしく考えがかけまわっていた。

 ──え?

 そして、レイゼン公は、ぼう然とした。

 頭の中と、現実との差異に、心が追いつかなかった。

「おじいさまも、かわいくない」

 いたずらっぽい小声が、耳元に聴こえる。レザーンの顔が、いつのまにか自分の眼前にある。そして、自分の左胸に差しこまれている、痛烈な感触。もちろん、手に握る拳銃のものではない。

 レイゼン公にぴったりと寄り添うように立つレザーンの両手は、太刀の柄を握り、その長い刃先は、まっすぐにレイゼン公の心臓をつらぬき、まがまがしい血をしたたらせて、背中から突き出ていた。

「かわいくないものは、嫌い」

 そういうと、レザーンはスッと太刀を引き、落ち着いた物腰で数歩後退して、腰の赤鞘に刀をおさめた。

 その間に、レイゼン公の身体は、ドッと地面にうつぶせに倒れた。

 石の床に、見る間に血だまりが広がっていく。

「かわいくないものは、みーんな、消えちゃえばいい」

 そしてレザーンは、くるっと身体を反転させて後ろを向いた。

「そう思わない、メイナード?」

 いつのまにか開いている扉。

 その扉を背にして、立ちつくすメイナード・ファー。

 白い寝間着姿のまま、髪も整えずに立つ姿は、まるで亡者のようだ。

 しかし、その顔には、はっきりと困惑の表情が張りついている。

 目の前の光景が、なにか思い出したくない記憶を、呼び覚まそうとしている。

「なに、これは」

 メイナードは、だれにともなく、無意識につぶやいた。

「ほう、ようやく正気に戻ったか」

 その声は、すでにキュベルカのものに変わっていた。

「ならばいおう。レイゼン公は、このわたしを、殺そうとした。だからこうなった。しかし、それでは世間が納得しないだろう」

 キュベルカは、まっすぐメイナードを見すえた。

「ラメクしかり、テッサしかり。中枢卿団のあるところ、謀殺あり、だ。この意味はわかるな?」

 メイナードの目が、ハッと開かれた。

 ──テッサ……アーシュラ……アーシュラ?

「おまえは部屋に戻れ、メイナード。この件は、わたしが片づける」

 メイナードは、ふいに両手で顔を覆い、頭を激しく振ると、小走りでその場をあとにした。

 ──殺気に引き寄せられて、ここまできたか、メイナード。

 キュベルカは、皮肉な笑みを口の端に浮かべた。

 あの凶槍イサギの持ち手として、ふさわしいありようだ。できれば、手元に置いておきたいものだが。

 キュベルカは、しばらくメイナードの消えた先を見つめていたが、やがてひややかな目を、レイゼン公の骸の方に向けた。

 広間の中には、息苦しいような静寂が立ちこめていた。


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