エトの夜・2
広大な劇場。
照明がギラギラと照りつける舞台に、キュベルカは立っている。
その手には、ナイフが握られている。
キュベルカは、刃先を、躊躇なく自分の胸に押し当てる。
胸にナイフが突き刺さっていく。含まれていく。吸いこまれていく。
おびただしい血液が、傷口からとめどなく流れていく。
無数の観衆がいる。
幾重にも幾重にも、先が見えないほど取り巻く大観衆が、割れんばかりの拍手をいつまでもいつまでもつづける。まるで業火が森を焼きつくすような音だ。
バチバチバチバチ、バチバチバチバチ。
わたしはなるべく美しく死ななくてはならない、と、キュベルカはなぜかそんなことを思う。
いつのまにか、キュベルカの背後には、何十人もの人々が立っている。
「ああ! ああ!」と、かれらはいっせいにあえぎ声をあげる。
キュベルカの目が見開かれる。口から自然と、ああ! ああ! とあえぎ声がもれる。
背後の人々はとたんに憤る。どこからか、おそろしげな声が鳴りひびく。
「われわれはひとつの蜂の巣! 泡をふく蟹はそこにはいない! 水もそこにはない! あるのは無数の目のそのまた無数の目! そして無数の針、そして甘い匂い」
ああ! ああ! と、人々が今度はむせび泣いていう。
「ああ! なんて甘い! でもわたしたちは、甘い匂いしか知らない。そしてわたしたちは、甘い匂いを知らないのだ!」
劇場の観客が総立ちになる。
キュベルカは恍惚として、両手を広げてかれらの拍手に応える。
するするする、と、一匹の猿が、垂れ下がった縄から降りてきて、キュベルカの首に、器用にその縄をくくりつける。
「レザーンの踊り子!」突然キュベルカが、ハッと思い出したように叫ぶ。「もう一度、そう、もう一度だけ、わたしは彼女が踊る姿を見たかった!」
クスクスクス、と肩に乗った猿が、キュベルカの耳元で笑っていう。
「いまだからいえること、いまだからいえること。レザーンの踊り子は、実はわたしでした!」
猿はキュベルカの前に立ち、華やかに舞を踊る。
しかしその黄金に輝く二つの目は、笑いながらも、はっきりと殺意に満ちているのが、キュベルカにはわかる。
そうか、わたしはあの踊り子を痛めつけたのだったな、とキュベルカは思いかえす。痛めつけられながら、彼女はなおも踊りつづけていたのだったな。たぶんあれが、この復讐のはじまりだったのだ。
キュベルカは、ハラハラと涙を流す。
猿は、もうキュベルカを意識することなく、ただ観客にむかって、取りつかれたように踊り狂っている。
足場が消える。
どこへ?
暗闇で巨大な猿の顔が浮かぶ。
どこへ? どこへ? どこへ? どこへ?
突如、せわしない声が耳元でささやく。
「石を瞳に、瞳を石に照らすのよ。クスクス、もう時間がないわ。わたしの遺言は絶望のすき間に、わたしの脚の向くままに、たえまざる波間に、消えゆく合間に。クスクスクス」
鐘が鳴る。壮大に狂った鐘の音だ。
キュベルカは耳をふさぎ、頭を振る。
──きたか?
キュベルカは、ゆっくりと目を開いた。
──なに?
レイゼン公イェゲダンは、驚愕して目を見張った。
そんなばかな! 虚を突いて放ったわたしの精神攻撃が、破られることなどありはしない。
実際キュベルカは、たしかにわたしの術に落ちた。精神は、崩れかけたのだ。
それなのに、いまこうして前に立つキュベルカは、一度は苦しげに頭を振り乱したのに、いまは正気の顔でこちらを見ている。
──いや、正気だろうか?
なにか雰囲気がちがう。顔からはいかめしさが消え、おどけるような表情で、わたしを上目づかいに覗きこんでいる。
精神攻撃の影響で、狂ったまま覚醒したか? ……いや、そうではない。
「きみは、だれだ?」レイゼン公は、鋭いまなざしをキュベルカにむけていった。
ウフフフ、とキュベルカは口に手を当てて、笑った。そして、すっと腰をかがめると、片腕を後ろに回し、もう片手の人さし指を唇に当て、シィー、といって、ウィンクをした。
「だめだめ、キュベルカはお休み中」
「すると、きみは影武者か?」
「あたし? あたしはレザーン」にこやかに、レザーンはあいさつをした。
キュベルカの身に宿る、もうひとつの人格レザーン。厳格なキュベルカとは正反対の、やんちゃで幼いレザーン。
キュベルカが二重の人格を持つことを、知る者はほとんどいない。まして、レザーンがいったい何者で、なにができるのかということになると、それはコーラ・アナイス以外は、だれも知らない。
知っているほかの者は、全員死んだ。それが、アイゼン公家の廃絶の原因でもあった。
しかしだれもが、その凄惨な事件の表面だけにとらわれ、裏を探るものはなかった。レイゼン公ですら、そうだった。
だからレイゼン公はいま、困惑していた。
レザーン? 影武者にしても、あまりに似すぎている。双子か? いや、やはりキュベルカ本人としか思えない。ならば演技か? しかし、いったいなにがどうなっている?
「それにしてもおじいさま、やることが若いのね、驚いちゃった」
レザーンは、フフッと口もとで笑っていった。「もちろん、いい意味でも悪い意味でもあるけど」
「この歳になると、怖いものもなくなってね、逆に行動が早くなるのだよ」と応じながら、レイゼン公はすぐに心を入れかえた。
レザーンだろうがキュベルカだろうが、同一ならば問題ない。もう精神攻撃の奇襲がかけられないとすると、残るは……
数瞬のあいだ、広間のうちに沈黙がおりた。
と、おもむろにレザーンが、あたりを見まわしていった。
「このお部屋、かわいくない」
──いまだ。
レイゼン公の右手が、すばやくローブに差しこまれた。拳銃の硬い感触が手のひらに伝わる。
頭の中では、これから起こることの後処理について、めまぐるしく考えがかけまわっていた。
──え?
そして、レイゼン公は、ぼう然とした。
頭の中と、現実との差異に、心が追いつかなかった。
「おじいさまも、かわいくない」
いたずらっぽい小声が、耳元に聴こえる。レザーンの顔が、いつのまにか自分の眼前にある。そして、自分の左胸に差しこまれている、痛烈な感触。もちろん、手に握る拳銃のものではない。
レイゼン公にぴったりと寄り添うように立つレザーンの両手は、太刀の柄を握り、その長い刃先は、まっすぐにレイゼン公の心臓をつらぬき、まがまがしい血をしたたらせて、背中から突き出ていた。
「かわいくないものは、嫌い」
そういうと、レザーンはスッと太刀を引き、落ち着いた物腰で数歩後退して、腰の赤鞘に刀をおさめた。
その間に、レイゼン公の身体は、ドッと地面にうつぶせに倒れた。
石の床に、見る間に血だまりが広がっていく。
「かわいくないものは、みーんな、消えちゃえばいい」
そしてレザーンは、くるっと身体を反転させて後ろを向いた。
「そう思わない、メイナード?」
いつのまにか開いている扉。
その扉を背にして、立ちつくすメイナード・ファー。
白い寝間着姿のまま、髪も整えずに立つ姿は、まるで亡者のようだ。
しかし、その顔には、はっきりと困惑の表情が張りついている。
目の前の光景が、なにか思い出したくない記憶を、呼び覚まそうとしている。
「なに、これは」
メイナードは、だれにともなく、無意識につぶやいた。
「ほう、ようやく正気に戻ったか」
その声は、すでにキュベルカのものに変わっていた。
「ならばいおう。レイゼン公は、このわたしを、殺そうとした。だからこうなった。しかし、それでは世間が納得しないだろう」
キュベルカは、まっすぐメイナードを見すえた。
「ラメクしかり、テッサしかり。中枢卿団のあるところ、謀殺あり、だ。この意味はわかるな?」
メイナードの目が、ハッと開かれた。
──テッサ……アーシュラ……アーシュラ?
「おまえは部屋に戻れ、メイナード。この件は、わたしが片づける」
メイナードは、ふいに両手で顔を覆い、頭を激しく振ると、小走りでその場をあとにした。
──殺気に引き寄せられて、ここまできたか、メイナード。
キュベルカは、皮肉な笑みを口の端に浮かべた。
あの凶槍イサギの持ち手として、ふさわしいありようだ。できれば、手元に置いておきたいものだが。
キュベルカは、しばらくメイナードの消えた先を見つめていたが、やがてひややかな目を、レイゼン公の骸の方に向けた。
広間の中には、息苦しいような静寂が立ちこめていた。




