エトの夜・1
夜のとばりが、城内の大廊下に落としこまれている。
靴音はあちこちでするが、どれも夜にふさわしく、おごそかで、つつましい。
ただ、ひとつの足音だけが、夜も昼もない調子で、床を踏み鳴らしている。
カツカツカツ、というブーツの音。
肩まであるカールした黒髪を揺らしながら、キュベルカは歩いていた。
この城を、夜に歩くのは初めてだ。
ましてや、奥の間になど、近づいたこともない。
いや、近づきたくもない。レイゼン公のいるところになど。
それでもこうして、キュベルカは歩いていた。レイゼン公のいる、広間へと。
──なにを話すことがある? このわたしに、なんの用があるのいうのだ?
キュベルカの心は、猜疑心に揺れていた。その猜疑の奥から、一条の、直感めいたものが現われる。
──危険だ。用意もなく、のこのこと会いに行ってはならない。やはり、コーラを連れてくるべきだったか。しかしいまさら、戻る気にもならない。
キュベルカの歩調は変わらなかった。
歩くうちに、考えもまとまるだろう。レイゼン公に出しぬかれないように、対処する方法を、考えなければいけない。
キュベルカは、切れるような目をグッと前方に向け、口を結んで、歩きつづけた。
戦闘が一段落して、アイザレン軍が後退したのは、この日の夕刻だった。キュベルカの飛行艦隊は地上に降りたが、さまざまな雑務に追われ、結局キュベルカが都城に戻ったのは、夜も遅くのことだった。
コーラ、スペイオ、コーエン公、この三人をまじえて、早く明日からのことを話し合わなければならない。バラバラに動いてどうにかなる状況ではない。真意をさとられずに、自然に撤退するには、非常に緻密な計画が要求されるのだ。
だからキュベルカは、城に戻ると同時にレイゼン公からの伝言を受けて、とまどった。
話したいことがあるから、すぐに奥の間に来い。そういった内容だった。
一方では、コーラたちが部屋で待っている。
すこし考えたあと、キュベルカは城に戻ったその足で、先にレイゼン公のところに向かうことにしたのだった。
──まさかレイゼン公も、武力でわたしをおとしいれることはないだろう。
キュベルカは、歩きながらまた思った。
わたしは、静導士団の首席隊長だ。この腰の赤鞘の太刀は、伊達で差しているわけではない。わたしを負かせるものなど、ここにはいない。もっとも、いまは忘我のメイナードは別だが。
ともかくレイゼン公は、なにか、わたしの身体ではなく、心を突いてくるのだろう。あの老人は、わたしの野望に感づいているような気がしてならない。小さいが澄んだ目、あの闊達な口ぶり。そして全身からにじみ出る、独特な雰囲気。
やつは危険だ。だから、これまで避けてきた。だが、いまは二人だけで会わなければならない。なんの用意もなく、無防備に。
──無防備。……いや、そんなことはないか。
キュベルカは心の中で、ふいにほくそ笑んだ。
ふん、すこしだけ楽しくなってきた。
どうせ、話し合う余地などないのだ。
ならば、あのなんでも知っているといった風な、いけすかない老人を、からかってやるとしよう。
驚いて目を見開くその顔が浮かぶ。
キュベルカはふっと口の端を上げて、廊下を歩いていった。
左右に、白い円柱が立ち並んでいる、広間だった。
天井にあるシャンデリアは灯っていない。四方の壁の灯籠が、部屋の中をおぼろげに照らしているだけだ。
家具もなにもない、空き間だ。外の廊下にも広間にも、ひと気はない。
ただし、ひと気がないといっても、前に立っている老人は別だ。
いつもの平服ではなく、簡素でゆったりとした、暗い色のローブを着ている。
キュベルカは警戒しながら、広間に入った。扉を閉じると、中はシンと静まりかえった。
「夜分、すまないね」
軽い口調で、レイゼン公イェゲダンがいった。
「レイゼン公、わたしは疲れている」キュベルカは、レイゼン公の正面に立ち止まり、居丈高に応じた。「用件は手短に願いたい」
うんうん、とうなずいたレイゼン公は、腰の後ろに手を回し、少し下がってキュベルカと間合いを取った。
「どうかね、首尾は?」
「首尾?」
キュベルカは眉根を寄せた。
「司令部に詰めておられる貴公のほうが詳しかろうが、まあ、空に関しては一進一退だ。明日どうなるかは、わからんが」
「……わたしぐらいの老人になるとね」
ふと、レイゼン公がいった。
「この世界に対して、義務、のようなものを感じるのだよ。これまで生かしてくれたこの世に、すこしでも意義のあることをしたくなる。それが、自分にしかできないことなら、なおさらね」
「手短に、と申し上げたはずだ」キュベルカは不機嫌にいった。「レイゼン公、申されたいことがあるならば、はっきり申されるがよい」
「うむ、それでは」
ふいにレイゼン公の腕が、キュベルカに向けられた。
拳をにぎった手をつきつけられて、キュベルカはレイゼン公を不審げににらんだ。
そのキュベルカが声を出す間もなく、レイゼン公の拳が解かれ、なにか印を結ぶように、すばやく動かされる。
とたんに、ぐらりと、キュベルカの視界がゆがんだ。
「わたしはね、戦うしか能がない、きみたち静導士という連中が嫌いでね」
平静な声でレイゼン公がそういうのを、キュベルカはすでに遠い耳で聴いていた。
──これは精神攻撃! しかも、強烈だ。この老人、異能者だったのか!
キュベルカの頭が、本能的にブルッとけいれんした。
「というよりも、わたしは、戦争が嫌いでね」
レイゼン公の声が、なおも響く。
「わたしはね、絵空事ではなく、本気で停戦を望んでいるのだよ。きみを葬り、きみらの見えすいた思惑を阻止してから、わたしはラザレクに行き、陛下に直々に停戦か降伏かを、うったえるつもりだ」
──やはり、すべてお見通し、か。
強烈な精神攻撃の波動に、身を縛られながらも、キュベルカは思った。
──だが、まさかこんな強硬手段に出るとは、考えてもいなかった。
レイゼン公イェゲダン。諸侯の知性として、四十年以上も、このエトの領主でありつづけた男。さすがに、それにふさわしい力を持っている。
皮肉なものだ。戦いをうとみながら、自分が直接、こうして戦いを仕かけるとはな。
「キュベルカ卿。きみのここまでの生い立ちを考えれば、同情もしよう」
すこし威儀を正して、レイゼン公はいった。
「だが、きみひとりのために、何千何万という人が犠牲になるのを、見すごすわけにはいかない。……残念だがね」
レイゼン公の指が、妙なかたちでかたまり、キュベルカの前につきだされた。
「技法が抜ける」
レイゼン公の声が、キュベルカの耳に、かすかに届く。
「断片から断片へ、渡されるおまえの背に」
またすばやく印がつむがれる。
「おまえが知りながら知らない、訴状が貼られている」
キュベルカの意識は、漏斗をくぐるように、するっと闇に落ちこんでいった。




