嵐の前・3
エンディウッケは震えていた。
なぜかわからない。
でも、震えは止まなかった。
──なんだか、寒気がする。悪寒、っていうのかな。
エンディウッケは、ひざや肩をさすり、なんとか暖かさを取り戻そうとした。
でも、全然効き目がない。
なんだろう、この感じ。これ、カイトレイナで、あの『ワニ』と『ガクシャ』がやってきたときみたい。
いまエンディウッケがいるところは、そのアイザレンのカイトレイナからはるかに離れた、エントールの港湾都市、テッサの邸宅だ。
丘の上の、元公爵邸。
テッサをおさめていた、トルゼン公アーシュラの屋敷だったところだ。
アーシュラが討たれ、アイザレンがテッサを占領してから、ここは中枢卿団の基地として使用されていた。
その邸内の一室で、エンディウッケはいいようのない寒気に、おののいているのだった。
──なにかいやなものが、近づいてくるみたい。でも、それがなんだか、わからない。
どうしよう。マッキーバに会いたい。マッキーバに、なぐさめてもらいたい。
でもマッキーバは、とっても忙しい。
迷惑かけたくないな。だってもうたくさん、迷惑かけてるから……。
エンディウッケは椅子に座り、自分の肩を抱いて、震えが止まるを、じっと待ちつづけた。
*
ヒュウ、と、風を切るような音がする。
それに応じるように、ヒュッと別の音が聴こえる。
あたりは、ゴウン、と重い機械の動作音が響いている。
ここは、エントールの中央にある大都市エトにほど近い、空の上の、飛行艦の一室だ。
中には、ふたりの者がいる。
一人は、紺のブレザーを着た、さっぱりとした風貌の少年。かれは窓辺の椅子に脚を組んで座り、つまらなそうに窓の外に目をやっている。
もう一人は、白い布を胸と下半身に巻きつけただけの少女だ。彼女はせわしなく部屋を歩きまわり、一足ごとに、長いポニーテールが揺れる。
ヒュウ、と、少年が音を立てた。短い口笛だった。
「ああもう!」こらえきれないように少女は大声をあげ、その少年のほうに仁王立ちになった。
「あたしが部屋を歩くのが気に入らないなら、出てってよ、シド」
「そんなに歩きたいんなら、艦内を歩いてきなよ、ミド」
「とっくに歩いた。どこいっても退屈。ああ、つまんない!」
ヒュウ、と、シドと呼ばれた少年がまた口笛を吹いた。
ヒュ! と強い調子で、ミドと呼ばれた少女が応じた。
口笛言語。
ミドとシド、この双子の不思議な感応力が創りあげた、特殊なコミュニケーション手段だ。ほかのだれにも理解できない、ふたりだけの言葉だった。
シドはあいかわらず倦怠の表情を浮かべ、ミドは口をとがらせている。
「ミド、見なよ」シドが窓に目を向けたまま、静かにいった。「エトだ」
ミドはフンと顔をそむけると、ソファーにドカッと腰を下ろし、イライラと親指の爪を噛みはじめた。
「エトに入ったら、退屈するひまなんかないよ」シドがいった。
ミドは、窓辺のシドに目をやった。そして、とがった八重歯で爪を噛むのを止め、ニヤッと笑みを浮かべた。
*
立派な部屋だ。
紅いカーペットが敷かれた床。
部屋の中央には重厚なソファーとテーブル。
奥にはどっしりとした執務用の机と、赤い生地の背もたれの椅子。
大窓から、真昼の陽光が、さんさんと射しこんでいる。
ふたりの男がいる。
一人は執務机にいて、組んだ両手を机に乗せ、前方に立つ男を凝視している。
立っている男は、くたびれたジャケット姿で、一見すると小間使いのようだ。
だがここは、アイザレン帝国の首都ケーメイにある、中枢卿団本部の、団長の執務室だ。
中枢卿団・団長エーヌ・オービットの前に立つということは、ただの小間使いではない。
中枢卿団・第四隊長イル・ケンサブル。
それが、いま団長の前にいる男の名だった。
オービットとケンサブルは、ともに四十代だが、容貌はまるでちがう。
オービットは二十代といっても通じるような、美しく白い顔。ケンサブルは髪をうしろになでつけた、いかにも風采のあがらない中年という印象だ。
しかし、このケンサブルこそ、『卿団の刃』と称され、大陸に名をとどろかす、恐るべき剣士だった。
実際、今度の戦争がはじまってからも、エントールの静導士団のトップ・エース、アントラン・ユルトを葬り、さらに『士団の切先』と呼ばれる、副団長メイナード・ファーをも敗走させた。
そして、そのメイナードに匹敵するといわれていた、テッサの領主トルゼン公アーシュラも討ち、テッサ攻略の足がかりとなり、この戦争で最大の功績をあげている。
にもかかわらず、ケンサブルはいま、エントールの戦線ではなく、このアイザレンのケーメイに帰還し、団長の叱責を受けているのだった。
「独断は許さん、といったはずだな、ケンサブル」オービットがいった。
「そうだねえ。でも、なってしまったことは、しかたがないだろう?」
ケンサブルはいつもの、どこか浮世離れしたような口調でそう答えた。
「おまえらしい言葉だな、ケンサブル」オービットは皮肉な微笑を浮かべた。
「で、どうするね?」ケンサブルがいった。「おれを、罷免するかい?」
「そうしたいのは、やまやまだがね」
オービットはため息まじりに答えた。
「見すごせない功績があるのも、事実だ。……ということで、」
オービットがそこまでいったとき、執務室のドアがノックされた。
「入れ」
オービットの声に応じて、姿を現したのは、一人の女だった。
白銀のローブにマント。そして白銀のフェイス・マスクが、首から口もとまでおおっている。
細身の顔に、長い黒髪。切れるような、鋭い眼光。
「ルキフォンス……」
マッキーバが、感慨深げにつぶやいた。
アイザレンとエントールをへだてるアトリ海の、海上要塞ベアトリスで、ケンサブルと、中枢卿団・第二隊長ルキフォンスは、静導士メイナード・ファーとアントラン・ユルトを迎え撃った。
そのとき、ルキフォンスはメイナードに重傷を負わせられ、このケーメイに帰還していたのだった。
それからわずか数日。
無数の刃が突き刺さった、痛々しいルキフォンスの背中を、ケンサブルは思い起こした。
だが、いまは元気そうだ。
中枢卿団の隊長ともなれば、その治癒力は、並の人間とは比べものにならない。
しかし、ルキフォンスは中枢卿団の隊長の中では、武技も体力も劣っている。実際、同じように大けがを負ったエルフマンは、一日で回復し、戦線に復帰した。
それでも、ルキフォンスが隊長を任されているのは、レガン大陸最強といわれる飛行艦隊を率いているからだ。
超級の戦艦「メサイア」を擁するルキフォンス隊は、本来であれば、現在はエントールのエト攻略の主力になっているはずだった。
「変わりないな、ケンサブル」
凛とした声で、ルキフォンスがいった。
ケンサブルは満足げに、ニッと笑った。
この二人の奇妙な信頼関係は、隊長クラスしか知らないことだ。
「そろったところで、指示を出す」
オービットがいった。
「おまえたち二人には、リターグに向かってもらう」
ケンサブルとルキフォンスが、一瞬、思わしげに視線を交わした。
「だが、リターグの攻略が目的ではない」
「リディア・ナザン、か」ルキフォンスがいった。
「そのとおりだ」
オービットが答えた。「まもなく軍部がリターグを攻める。それに乗じて、リディア・ナザンを生け捕れ」
「わたしのリハビリには、ちょうどよさそうだな」ルキフォンスが、フェイス・マスク越しに不敵に笑った。
「マッキーバやエルフマンが取り逃がした娘だ」
オービットがぴしゃりといった。
「あの娘の護衛には、『知事』もついている。あなどるなよ」
「それはいいけど、こっちは大丈夫なのかい?」のんきなような声で、ケンサブルがいった。
「それは、メッツァのことか?」
オービットは、特徴的な赤い瞳を、ケンサブルに向けた。
オービットのことを、〝赤目〟と揶揄するのは、おもに政敵だ。
その中心にいるのが、アイザレン帝国の首相ラジャ・メッツァだった。
皇帝と中枢卿団の本拠地が首都ケーメイなら、メッツァや、メッツァとつながりのある軍部は、第二都市のカイトレイナを拠点としていた。
「例の、エンディウッケという少女を捕らえてから、カイトレイナはおとなしい」
オービットはつづけた。
「もっとも、その静けさが不気味といえなくもないが、いまは無駄な勘ぐりをしているひまはない」
「では、今日にでもリターグに発てばよいのだな?」ルキフォンスがいった。
「そうだ。だがおまえの艦隊は温存しておきたい。二人とも、小部隊で行ってくれ」
「なに?」ルキフォンスが眉をひそめた。
「エトの次は、皇都ラザレクでの戦いがひかえている。おまえの艦隊は、ラザレクで使う」
「娘ひとりに、メサイアが必要かね、ルキフォンス?」
ケンサブルが、軽い調子でルキフォンスにいった。「逆に目立ってしかたないさ」
──リターグの攻略を、軍部のゴミどもに、まかせるのか……
ルキフォンスの胸に、にわかに怒りがわき起こった。
「『知事』か。いや楽しみだなあ」
と、ケンサブルがぼんやりとした声でいった。「強いんだろうねえ、きっと」
ルキフォンスはそんなケンサブルに、ちらっと目をやった。
──たしかに、あの娘と『知事』が相手では、リターグ攻略までは、手がまわらぬか。
「夕刻までには、出られるようにしておけ」
オービットが、話を締める口調でいった。
そうして二人が退室すると、オービットはひとつ息を吐いた。
──準備は整った。あとは機を待つだけだ。しかし、それにしても……
オービットは、机の上の紙面を、おもむろに手に取った。
エトの領主レイゼン公が、停戦を持ちかけている。そういった内容の、戦線の卿団部隊からの報告書だった。
ばかばかしい。破竹の勢いのアイザレンが、そんな戯言に乗るはずがない。子供でもわかりそうなことだ。
にもかかわらず、実際にレイゼン公は、正式に停戦を申し入れたという。
レイゼン公イェゲダンといえば、エントール一の見識を持つ候として通っている。思いつきや、その場しのぎとは考えられない。
いったい、なにを考えているのか。
オービットは無意識に目を横にそらし、思いにもならない思いに、心をさまよわせた。
*
「諸侯の知性、などと呼ばれたあの男も、とうとうもうろくしたようだぞ」
声が響く。
飾り気のない、がらんとした部屋だ。
「まさか、本当に停戦を呼びかけるとはな」
同じ声がする。男のものか女のものか、わからないような声音だ。
「だが戦闘は、明日にでも始まる。これは、おまえにとっても朗報のはずだな、メイナード」
静寂。
大窓の外の空は、昼間でも灰色によどんでいる。
部屋の中は薄暗く、陰気だ。
静導士団・副団長メイナード・ファーは、うつろな目で、寝間着のまま、窓際の椅子に座っていた。
──処置なし、か。
椅子の横に立つ、静導士団・首席隊長リミヤン・キュベルカは、内心で舌打ちをした。
ここは、エントール皇国の中央に位置する、大都市エトの、都城の一室だ。
意識を失ったメイナードが、テッサからこの城に運びこまれたのは、いまから二日前のことだった。
メイナードの親友、トルゼン公アーシュラが討たれたことが、よほどのショックだったのだろう、と、メイナードの現状を知る者は、だれもがそう思っていた。それはキュベルカも同じだった。
しかし、実際はちがった。
あろうことか、メイナードの槍が、アーシュラの身体を粉砕し、それが、彼女の心をも砕いたのだ。
これは、果たし合いに来た中枢卿ケンサブルが、戦いの最中、とっさの判断を働かせたことによるもので、もちろんメイナードが望んだことではない。だが、事実としてメイナードはアーシュラの血を浴び、それを見届けたケンサブルは、闇夜に消えた。
あまりのことに、その場で失神したメイナードは、エトの城で目を覚ましても、忘我の境地にあった。
口も開かず、物も食べず、身づくろいもせず、ただこうして窓辺の椅子で、灰色の空をおぼろげにながめる時間を過ごしていたのだった。
「いずれにせよ、おまえは士団の副団長だ」
キュベルカが厳しい声でいった。
「このまま放心されていては困る。せめて着がえるなり、湯につかるなりしてはどうだ。これでは、士団全体の士気にかかわる」
そう口にしても、なんの反応も示さないメイナードを、キュベルカはひややかに見下ろした。そしてきびすを返すと、キュベルカはいらだたしげに部屋を出ていった。
荒々しく扉が閉められても、メイナードはみじろぎひとつしなかった。
彼女の薄く開いた目は、まるで凍りついたように、窓の外の灰色の風景に向けられ、離れることはなかった。




