静寂のエト・1
大廊下を行く靴音がある。
規則正しく、いかめしいブーツの音だ。
聴きなれた者にはことさら意識する音ではないが、今日はいつもとは様子がちがう。
いつもならば複数の靴音だが、いまはひとつしか響いていない。
だから行きかう者の顔も、おや、という表情でその音のほうに向けられる。
時は昼。
しかし延々と並ぶ大窓から陽は差しこまず、灰色の単色が窓にはりついている。
このレイゼン公領のエトでは、めずらしいことではない。
昼でも夜のように薄暗く、夜もまた、昼のように薄暗い灰色の空がしばらくつづく。それがエトの日常の風景だった。
近衛静導士団・首席隊長リミヤン・キュベルカは、そんな曇りの日中の、簡素ながら豪壮な大廊下を、一人で進んでいた。
いつもの貴人らしい黒い上着に白いシャツ、すそをしまいこんだ黒いブーツという格好。
肩まである黒髪もふんわりとカールがかかっている。
服装からも目鼻立ちからも、あるいは声からさえも、男か女かわからない。
しかし性別がどうあっても、栄光ある士団のナンバー3だと知れるのは、腰に下げた独特の赤鞘の太刀によるところだ。
通常は部下の団員を引き連れているキュベルカが、こうしてひとりで歩いているのにはわけがあった。
これから行くところに、いや、これから会う者に、ほかの団員を引きあわせたくなかったのだ。
あるいは外に待たせておくこともできるが、中の声がもれないともかぎらない。
ただでさえ非常に繊細な時期だ。むだに部下の不安をあおりたくはない。
キュベルカはさっそうと髪を揺らし、口を結んだ厳しい顔で廊下を歩きつづけた。
ここは、レイゼン公の、巨大な居城の一区画だった。
ラメク陥落の、翌日のことになる。
奥へ奥へと進み、木製のぶ厚いドアの前に立ち止まると、キュベルカは躊躇なくノックをし、返答を待たずにドアを開けた。
小奇麗な居間で、ここにも大窓がある。
灯りはなく、部屋は陰気な灰色に包まれている。
正面の大窓の前に、一人掛けの椅子が置かれ、そこにしんなりと座る者の横顔が、入り口からも見えた。
キュベルカは無言で部屋に入り、ドアを閉めると、まっすぐその椅子に近づいていった。
「見られたものではないな、メイナード」
と、そばで立ちどまったキュベルカが強い口調でいった。「副団長の威儀は、どこへいったのだ?」
メイナード・ファーは、椅子に座り窓に目をやったまま、身じろぎ一つしなかった。
呼吸をしているのか、とあやしむほど、その顔には生気がなかった。
肌も髪も唇も乾き、もともと青白い顔色は、窓外の灰色にさらされ、土気色にすら見える。
半分つむったような目は黄色くにごり、着ている寝巻はうす汚れている。部屋にはうっすらと人の臭いがたちこめていた。
二日前の深夜、アーシュラ邸でのケンサブルとの果たし合いのあとで気絶したメイナードは、数時間後に部下に見つけられ、メイナード隊は、静導士団の本部の指示で、夜が明けないうちにテッサからエトに退いた。
もちろん、アーシュラ邸の惨劇の現場は片づけたが、どうしたところで、いずれトルゼン公アーシュラが討たれたことは知れてしまう。
士団の本部はすぐに状況を軍部に告げたが、まさかそれが予想以上の動揺を生み、テッサ陥落の要因になるとは思ってもみなかった。
メイナードの意識が戻ったのは、昨日の午前中だった。テッサでは、まだ戦闘がつづいていた。
敗色の気配がただよう戦況を、部下は逐一ベッドにいるメイナードに報告したが、まったく耳に入っていないのは、表情を見れば明らかだった。メイナード隊の部下はやがて報告をやめ、隊長の安静につとめることにした。
外傷はまったくなかった。しかし心の傷は、はたして回復するのかどうか、部下はもちろん、医者にもわからなかった。なにも見ず、聞かず、話さず、昨日の夕方にようやく起きあがっても、自分がどこにいるのか知ろうともしないで、物も食べずにぼんやりとしていた。
テッサでの惨劇。それは当然のように、メイナードの精神を崩壊させた。
アーシュラをケンサブルとの果たし合いに巻きこんだだけで、苦渋の思いがしたのに、あろうことか、自分はこの手で、アーシュラを粉砕した。
「討てぇ!」というアーシュラの最期の声が、呪詛のようにこだまして止まない。
涙すら出なかった。絶望すらできなかった。
メイナードは、ただ心を虚空にさまよわせ、自分の犯した取り返しのつかない罪から、逃避するしかなかった。
自分の問いかけに応じないメイナードを、キュベルカはけわしい目で見下ろした。
テッサでのことは、ラメクが陥落する前に、すでに聞いていた。
昏倒して倒れているメイナード、衣服の切れ端でだけ、それとわかる、原形をとどめないアーシュラの死体。
現場には、ほかの足跡と、立ち合いの痕跡も見つかったらしい。
中枢卿団の、それもおそるべき手練れによるものであることは、まちがいないだろう。
それは憶測の域を出ないことだったが、だれもその結論に疑いをはさまなかった。キュベルカでさえそう信じた。メイナードの槍が、アーシュラの命を奪ったなど、想像もしなかった。
──トルゼン公は中枢卿の手にかかり、メイナードはそれを止められなかった。なんにせよ、自業自得だ。
キュベルカはそう考えていた。
同情の余地などない。近衛静導士団の副団長が、そのていたらくに、いまのこのありさまか。
キュベルカは小さく鼻から息を吐いて、別れのあいさつもせずに、メイナードの部屋をあとにした。
大廊下を戻りながら、キュベルカはいらだちをおさえきれずにいた。
メキリ元帥の飛行艦隊の本隊とともに、安全に、そして正当にラメクを撤退するのに、どれだけ神経を使ったことか。
それが翌日には、また面倒事だ。
キュベルカのブーツの音は、いつしかけたたましく響いていた。
──メイナードには、必ず復帰してもらわなければならない。
キュベルカは歯噛みをし、眉を寄せて歩きながら思った。
あの女が使い物にならなければ、リカルドがやってくる。それはだめだ。あの男は、はじめからわたしを信用していない。それに、さすがにいまは、あの男にはかなわない。ただでさえ、レイゼン公をおさえこむのに手いっぱいだというのに。
──レイゼン公イェゲダン。
キュベルカはその名前を、心の中で苦々しくつぶやいた。
コーラの話では、あの自尊心の強いコーエン公ですら恐れているということだったが、たしかに、ほかの諸侯の凡愚どもとはちがう。
しかし、ここまできたからには、あとには引けない。わたしはなるべく顔を合わせず、「やつ」にまかせよう。スーラ元帥の後任としてやってきたあの男なら、話も通じるだろう。なんといっても、ここは、皇軍の庭なのだから。
少しだけ溜飲を下げたキュベルカは、歩調を戻し、うす暗い大廊下を進んだ。
ゴウン、と重々しい音が窓外に聴こえる。
キュベルカは、無意識に大窓に顔を向けた。
眼下に、昼間でも黒々とした建物群が果てしなく広がっている。
いくつも伸びる煙突からは、たえず煙が吐き出されている。
無粋な町だ、と、キュベルカはそれらの光景に、冷ややかな目をやった。




