リターグの再起・2
その白い部屋には窓がなかった。
広いとも狭いともいえない中は、実際はひんやりしていたが、異常なほど暑苦しく感じられた。
なぜなら、真っ白い壁には、無数の血しぶきが飛び、床はこれも赤黒い血にまみれ、肉塊、骨、毛髪などが、辺り一面に散乱していたからだ。
このおそろしい部屋に、立ちつくす少女の姿があった。
裸足で、胸と下半身をわずかに布でおおっているだけの全身に、血を浴びている。
黒く長いポニーテールが揺れている。
少女はそうして、床の血だまりをじっと見下ろしていた。こころなし肩を怒らせているが、呼吸は静かだった。
少女の後ろに、変哲のないテーブルがあった。それは、この奇怪で凄惨な部屋に、どこかそぐわない印象だった。
テーブルの椅子に座っている少年も、この場には似つかわしくない姿をしていた。
きっちりとした紺のブレザーにスラックス、きれいな革靴。
髪は短くていねいに整えられ、顔立ちはとても品があり、女性的だ。
そんな少年が、椅子に座って、テーブルにひじをつき、手のひらにあごを乗せて、ぼんやりと血まみれの少女の背中を見つめているのだった。
ヒュウ、と、突然少女が口笛を吹いた。それは奇妙な抑揚だった。
ヒュウ、ヒュウイ、ヒュウ。
ただの音というよりは、意思をこめた言葉のような調子だ。
ヒュウ、と、少年も口笛を返した。小さく、少し投げやりな調子で。
それを聴いて、少女が身体ごと振りかえった。その顔は、驚くほど少年に似ていた。ただ、少年の目がどこか鬱々としているのに対して、少女の目はらんらんと燃えていた。
「嫌なら出てけば、シド?」きつい声で少女がいった。
「ここにいるようにいわれたんだ」シドと呼ばれた少年は、つまらなそうに答えた。「だからここにいなくちゃいけない。いくら嫌でもね、ミド」
ミドは、ヒュ、とかん高い口笛を吹いた。
シドはため息をついて、テーブルに目を落とすと首を横に振った。
二人は、双子だった。
そして二人には、二人にしかわからない意思伝達手段があった。それが口笛だ。
二人にとって、口笛はただの音ではなかった。抑揚のつけ方や長短、そのほかさまざまな要素が複雑にからみ合った言語、いわば口笛語だった。
このおかげで、二人は人前でも、だれにも内容を知られずに会話ができた。
といっても、いつもたいした会話があるわけではない。
なにかにつけてミドがいきりたち、シドは沈着冷静、というよりも無関心を決めこむだけだ。
いまも、つきあっていられない、という様子のシドに、ミドはいらだち、片足でドンと床を打ち鳴らした。足は正確に、床にあった眼球をふみつぶした。ギラギラした目でミドはシドをにらみ、シドはうつろな目をテーブルに向け、なんの興味もないという顔をしていた。
そのとき、シュッと空気の抜けるような音がして、部屋のドアが開いた。
「あーら」と、ミドが軽蔑しきったような声をあげた。
姿を見せたのは、ナードだった。ナードは部屋の様子に驚くそぶりもなく、喜びにパッと顔を輝かせた。
「ミドミド!」ナードはうれしそうにいった。
「聞いたわよ」ミドは憎々しげにいった。「あんた、リターグでへまやったんだってね?」
そういいながら、ミドは赤い足跡を付けて、ゆっくりとナードに近づいていった。ナードの顔から笑顔が消え、彼女は悲しげにうつむいた。
「ミドミド」
立ちふさがるように前に立ったミドに、ナードはおどおどと呼びかけると、片腕を前に差し出した。
「あげるあげる」
それはスティック・キャンディだった。ナードがいつもなめている、白いスティックのキャンディだ。
「あら、ありがと」ミドは高慢にそういい、キャンディを無造作に取ると、うしろに放り投げた。ビチャ、と嫌な音を立てて、キャンディは床に落ちた。
ナードはなにもいわず、部屋の入り口に立ちつくし、うつむいたままでいた。だがその目には涙がにじみ、いまにも泣きだしそうなところを、なんとか耐えている様子だった。
そんな二人に、シドは一度も顔を向けなかった。組んだ脚の上に両手を乗せ、テーブルの上をじっと見つめているだけだった。
「出てってくれない?」ミドがいった。「知ってるでしょ? あたし、あんたのこと嫌いなの」
「だめだよ、そんなことをいっては」
ふいに、新しい声がした。とてもおだやかな、男の声だった。
「ナードは、きみたちが出ることを聞いて、こうして見送りに来てくれたんだから」
ナードの後ろに、一人の男が姿を現した。
白い長衣に、豊かな白い長髪。
一見すると老人のようだが、三十くらいの若者だ。しかし不思議と、見る人によってそれよりずっと若くも、年上にも感じられる。
その容姿といい雰囲気といい、どこか強く人を惹きつけるものがあった。
「マレイ!」
ミドが、それまでとはうってかわった声をあげ、ナードを押しのけて男に抱きついた。
ヒュ、と、短く鋭い口笛がした。ミドが吹いたものだった。かれはあいかわらずテーブルに顔をやったままだったが、マレイと呼ばれた男の出現には、興味をそそられたようだった。
「あ、……イド!」ミドはシドの口笛を受けて、男を見上げて名前をいい直した。
イド、またはマレイと呼ばれた男は、にっこりとほほ笑み、ミドに、そしてむこうのシドに目をやった。
「準備はいいかな?」
「もちろん!」
イドから身体を離し、ミドは勢いよく答えた。
「もう、はじめからあたしたちが出てれば、このバカみたいなへましなかったのに」
そういいながら、ミドは背後にいるナードに、見くだすような流し目を送った。
「ナードは、よくやっているよ」イドは微笑した。「とても、よくやってくれている。それに、きみたちのことも応援している。だから、いけないよ、そんなことをいっては」
イドは微笑したまま、じっとミドの目を見つめた。ミドはイドの視線に捕らわれたような表情で、声もなくイドを見あげた。
静寂が、部屋を包みこんだ。
突然、ヒュ、と吐き出すような、それでもきれいな口笛が響いた。
その音に我にかえったミドは、色を戻した目をしばたたかせてから、無意識に口笛の主に顔をやった。
シドは先ほどと同じ格好で、テーブルの椅子にいた。あいかわらず、振りかえって三人を見ることもしない。ただじっと座っているだけだ。
しかし、なにかがちがった。その、言葉にならない不穏ななにかを、ミドは敏感に感じ取った。
……嫉妬? ちがう。孤独? そうじゃない。
ミドはかすかに眉を寄せた。
なにが気に入らないの、あんた。いつもいつも、あんた、なにがそんなに不満なの?
「行こう、イド!」
ミドは意識的に明るい声を出した。そしてイドの腕を取ると、強引に引いて廊下に出た。イドは引かれるままにまかせた。淡い微笑をたたえ、その目は、だれにも向けられていなかった。白い長衣は、ミドの触れたあちこちに、血の跡がついていた。
二人が去ると、部屋の中は、また先ほどとはちがった沈黙に包まれた。
ナードは立ちつくしてうつむき、シドは座って前を見ていた。
やがて、シドが椅子を引く音がした。同時に、ナードがすすり泣きをはじめた。
シドはゆっくりと、ミドが投げたキャンディのもとに歩いていった。
肉片と血にまみれて、それは白いスティックの大半を赤く染めて、たたずんでいた。
シドは腰をかがめて、キャンディを拾った。
そのキャンディを見つめるシドの目には、いつくしむような光が鈍く灯っていた。
シドはそれを手に、出口に向かった。
すすり泣くナードの横を通りすぎるとき、かれは短く、しかし感情をこめた声で、「すまない」といった。
より高まったナードの泣き声を背に、シドは部屋をあとにした。
歩を進めるシドの靴音は、静かだった。
しかし全身からは、常人であれば近づいただけで昏倒するような、すさまじい気が湧き立っていた。
ナードは泣きつづけた。
ひとりになっても、床に涙をぽたぽたと落としながら、いつまでも泣いていた。




