リターグの再起・1
無数の砲弾によって、灰色の壁のいたるところがえぐられ、厚い窓は割られ、まだ細い煙はいくつか上がってはいたが、リターグの知事局はしっかりと立っていた。
中もひっくりかえったような散らかりようだったが、ちゃんと機能はしていて、深夜にもかかわらず『知事』や局員たちは、アイザレンとの一戦の事後処理に追われていた。
最上階にある、局長ジオ・レドムのオフィスには、レドムを含めて六人の者がいた。
遠いラザレクで、リカルドが女帝に謁見してから、数時間後のことだ。
昼間の激戦は、リターグに大きな爪跡を残し、町全体がさまざまな復旧作業に必死に取りかかっている。
それというのも、アイザレンは当然また攻めてくるからだ。しかも、今度はさらに大規模な部隊で。
アイザレンとしても、昼間のような失態は二度と許されない。少数の増援に蹴散らされて後退するなど、本来ならば指揮官の首が飛ぶ。
しかしそうならなかったのは、指揮していたのが軍部ではなく、中枢卿団の、それも副団長だったからだ。
「ケイ・エルフマン」と、レドムはデスクの椅子に深く腰かけ、しゃがれた声でつぶやいた。「あれがいなくなってくれたのは、実にありがたい。といっても、リターグからエントールに移っただけだから、状況は変わらんが」
エルフマンとその部隊が、リターグ戦線を離れてエントールにむかったという情報は、たしかに明るい話なのか暗い話なのかわからなかった。肝心のエントールがそれによって苦境に立たされれば、本末転倒といってもいい事態だ。
それはオフィスにいる、レドム以外の五人にもわかっていた。
デスクの前に立っているサヴァンとエアハルトにも、真ん中のソファーに座っているリディアとレダにも、そして共に座っているクイラ・クーチにさえも。
「卿団の部隊がいなくても、残っている北のアイザレン軍は強力です」
エアハルトが口を開いた。「とてもまともに戦える規模ではありません」
「そうだねえ」
レドムはいつものようにとぼけた口調でいった。
「ともあれ、最悪の場合のことは考えているよ。そのために、わたしは昼間、地下にいたんだからね」
その言葉の意味をとらえた顔をしたのは、エアハルトとレダだけだった。リディアやクイラはもちろん、サヴァンも、なんのことかわからないという表情をしていた。
サヴァンがレドムの言葉の意味を知るのは、まだ先のことだ。
なんにしても、昼にエアハルトがレドムと連絡を取れなかったのは、レドムが通信機のつながらない地下にいたからだった。さらに、こうして少し前にオフィスに呼び出されるまで音信不通で、しかたなく、まだ撃たれた肩が痛むエアハルトが局内をとりしきって、どうにか混乱をおさめていたのだ。
そしてようやくレドムと再会しても、無事を喜びあう余裕はなかった。
昼間の戦闘での損害状況や、エントールのラメクとテッサが落ちたこと、さらにコーデリア以下エースたちの失踪の件と、協議すべき問題は山積みだった。
満身創痍のエアハルトはもちろん、レダもリディアもクイラも、さすがに疲労の色を隠せず、レダはオフィスに入るとレドムにあいさつもしないで、よろよろとソファーにむかい、リディアとクイラの顔色を見たレドムは、二人もソファーに座らせた。
ということで、気丈なエアハルトと、できればソファーのほうにいたいサヴァンの二人が、デスクの前に立つことになったのだ。
レダたちと同様に疲れきっているサヴァンとしては、いますぐベッドに横になりたい心境だったが、もちろんそうもいっていられない。リターグからラザレクへ、そしてまたリターグへと戻ったこの九日間の出来事を、報告する義務があった。
レドムがエルフマンのことを口にしたのは、そういったあれこれをひととおり話し終えたあとのことだった。
「例の機械兵については、エントール側はなんと?」
エアハルトがたずねた。
「調査中の一点張りだ」レドムは答えた。「おおかた、新造部隊の実力調査といったところだろう。残骸を調べれば、こっちでもなにかわかるかもしれない。ま、正体がなんであれ、助けられたのは事実だな」
「とにかく、エントールには増援を要請すべきです。今度は一時しのぎではなく、しっかりとした部隊を」
「どうかな」レドムは手を頭の後ろに組んで答えた。「エントールは、皇都での決戦も現実味を帯びてきている。支援している余裕はないだろう。しっかりした部隊ならなおさらね」
「北からくるアイザレン軍は、八個師団規模と聞いてます」エアハルトが、我慢強く説得するようにいった。「こちらは一個連隊にも満たないのでは、はじめから勝ち目はありません」
「それで、どうしたい?」レドムはギョロッとした目でエアハルトを見た。
「降伏か、もしくは……」
いわんとするところがわからないサヴァンは、けげんそうにエアハルトに顔を向けた。
レドムは、エアハルトの無言の答えをくみ取った顔で、じっとエアハルトを見つめていたが、やがて鼻から一つ息をはいた。
「ま、それは上の判断にゆだねよう」レドムはいった。「上の判断といえば、わたしの処遇も、通達待ちだ」
その言葉に、部外者のクイラを除いた全員がハッとした。
かれらの様子を見て、レドムはきまずい顔になって、目をそらした。
「レンに『知事』のエース級を全員送りこんだのは、わたしのミスだ。局長の役は解かれるだろう。わたしもつづけるつもりはない」
「逃げるのか?」ソファーにいるレダの声が飛んだ。からかいをこめた調子だったが、目は鋭く光っていた。
──局長も本来なら、いつものお手上げのジェスチャーをしたいところだろう。
とサヴァンは思った。
でも、事が事だ。そうはいかない。リターグの市街地戦も、エース級がそろっていれば、被害は少なかったかもしれない。
だれの指示も得られず、自分の判断で外に飛び出して、死んでいった『知事』の数は少なくなかった。そもそも、陣頭指揮に立つべき局長が地下にいた、ということ自体が、いうまでもなく大問題だ。
そしてなにより、コーデリアの失踪。それは自分とレダとエアハルトに、ほかのだれとも比べられないような特別な思い、苦渋、そして憤りを与えた。
いまもそうだ。局長の言葉を聞いて、エアハルトは歯を噛みしめてうつむいている。レダは、怒っている。おれだって、壁の一つでも殴りたい気分だ。でもみんな、その怒りのやり場がどこにもないことは、わかっているんだ。
オフィスの中は、重苦しい沈黙に包まれた。
「あの、」
と、口を開いたのはリディアだった。
リディアは、スッと立ち上がった。きれいなブラウスは埃にまみれ、髪は無造作に上にまとめられ、顔は青白い。
昼からの、いや、このひと月の激務は、リディアから生気を奪っていたが、そのたたずまいがかえって、どこかいっそう彼女の高貴をあらわにさせるようだった。
「わたくしには、このようなときだからこそ、リーダーシップが必要だと思えます。レドムさんは、『知事』のみなさんから、とても信頼されていらっしゃいます。もちろん、わたくしも信頼しております。ですから、その、どうかお辞めにならないで」
リディアのいったことは、単純なとりなしの言葉だった。それ以上でも以下でもない。しかし不思議と、彼女の声には、どこかしら人にそうさせるような、重みがあった。
それに、リディアのいっていることはまちがいではなかった。まちがいどころか、正しい意見だった。なぜなら、進んで知事局の局長になりたい者など、レドム以外にはだれもいなかったからだ。
「ありがとう、リディア殿下」
レドムは姿勢を正して、親しみをこめていった。
「上は上、わたしはわたし。いまはそういうことにしておきましょう。リーダーシップ、おっしゃるとおりだ。わたしのことはともかく、このままでは知事局は解体も同然だ。……エアハルト」
レドムは前に立つエアハルトに、じっと目をやった。
「困難は承知だ。それでも、おまえに頼む。トップ・エースとして、『知事』をまとめろ。おまえにしかできない」
「頼まれるまでもありません」エアハルトはきぜんと答えた。「わたしはコーデリアと、胸を張って再会したい。わたしは、そのために生きます」
「いい返事だぞ、ロー」レダがまたソファーから茶々を入れた。だがその声も顔も、決してからかってなどいなかった。
「さて、クイラといったかな、きみは」
レドムは一呼吸置いてから、大きな目を今度はクイラに向けた。
いままでの話をまったく理解できなかったクイラは、自分が場違いなような、いや、実際あまりに場違いなところにいるという実感で、ソファーに縮こまっていた。
ここは知事局。いままで仰ぎ見るしかなかった、建物の中だ。それにこのオフィス。あたしみたいなみすぼらしい人間がいていい場所じゃない。
助けてくれたエアハルトの背中に隠れるように、ここまで手伝いをしてきたけど、あたしとこの人たちとは、住むところがちがう。
すごく、恥ずかしい。このぶかぶかの服も、汚れた靴も、ぼさぼさの髪も、あざだらけのがりがりの身体も、なにからなにまで嫌。もう外に行きたい。ここにいると、恥ずかしさで溶けてしまいそう。
レドムに声をかけられたクイラは、そんな気持ちにとらわれていたので、思わず肩をビクッと震わせた。その肩に、優しく手が置かれた。リディアだった。彼女の顔は、やわらかくほほえんでいた。クイラは、ふいにこそばゆいような心地になった。
レドムは、なおもジィッと、クイラを見つめた。
クイラのことは、エアハルトから聞かされていた。そのエアハルトはクイラから、彼女の境遇や、昼間の市街地での戦闘のことなどを聞いていた。
エアハルトが、クイラをこのオフィスに連れてきた理由はひとつだった。『知事』に推挙する。
たしかに猫の手も借りたい。鋭い爪を持つ猫ならなおさらだ。とレドムは考えた。だが、おれはこの子を知らない。本当に、『知事』になれるだけの実力があるのか?
「こいつは使えるぞ」レダの声がした。鷹揚な口調だったが、目は笑っていなかった。「あたしが保証する」
「いいだろう」
と、レダの言葉を聞いて、レドムは即答した。
「『知事』の見習いとしてむかえよう。もちろん、きみにその気があればの話だが」
ほとんど無意識に、クイラはこくんと首を縦に振った。
『知事』。リターグの、いや大陸中の尊敬を集める偉い人。
あたしがそうなるの? そんなの無理。でも、この人たちは、みんな優しい。
別に、『知事』になりたいわけじゃない。あたしは、この人たちと一緒にいたい。
クイラの視線は、自然とエアハルトに向いた。ほっとした表情で、元気づけるようにほほ笑んでいるエアハルトの顔を見て、クイラは急に力がみなぎってきた。
「レドムさん」
真剣な面持ちになったリディアが、話題を変えた。
「わたくしは、砂漠の部族を、一つにまとめたいと思います」
全員の驚きの目が、リディアに向けられた。リディアは覚悟を決めたまなざしを、自分の足元に落とした。
「これまで砂漠の部族は、交易以外は独立していました。それが砂漠の決まりでした。砂は砂。集まったところで、所詮は散る定めだと。でも、」
リディアは顔をあげ、まっすぐレドムに目をやった。
「砂も、血が落ちれば、固まります。いま、無数の血が大陸で流れています。わたくしは、このリターグやほかの国では無力ですが、砂漠では、多少のことができると思います。ナザン王家最後の王女として、わたくしは、わたくしのできることをしたい。そのために、わたくしは帰ってきました」
すこしの間、オフィスは沈黙に包まれた。だが、それは決して気まずい沈黙ではなかった。どこかしっとりと、納得のいく静寂。あるいはそれも、リディアの声の力によるのかもしれなかった。
「砂漠をまとめる、か」レドムは一人になった顔で、リディアの言葉を反芻した。「願ってもないことですが、可能ですか?」
「必ず」リディアは重く、凛とした声で答えた。
レドムはリディアを、あけっぴろげな、自分の部下を見るような目で、長い間見つめた。リディアも、ほかの者も微動だにしないで、レドムの言葉を待った。
「わかりました」
レドムはいった。
「ならば、できれば北のスレドラハムと、その近郊の部族に、まずは呼びかけていただきたい。スレドラハムに駐屯していたアイザレン軍は、いまここに向かっています。これを挟撃できれば、勝算も高まります」
「では、すぐに準備を」
「その前に」と、レドムはサヴァンを見た。「おまえはどうしたい、サヴァン?」
そんな気もなかったはずが、サヴァンはフッと苦笑いをした。わかりきったことじゃないか、と、まるでそんな風にいいたげな微笑だった。
「局長さえよければ、三人で決めます」
レドムは口もとにいたずらっぽい笑みを浮かべ、ソファーのレダに目を向けた。
少しおどけるような表情をしたレダも、また最後には、いつもの不敵な笑みを見せ、サヴァンに視線を送った。
リディアにとっては、自分が答える必要もなく、そしてあらためて二人の考えを聞くまでもないことだった。胸が震え、目に涙が浮かびそうになるのを、リディアは必死でこらえた。
ありがとう、サヴァンさん、レダさん。本当に、ありがとう。わたしは、すこしでも命を救いたい。だから、わたしの命は、あなたたちに預けます。
「アイザレン軍は、数日でここに到達する」レドムがひきしまった声でいった。「できれば殿下には、明日にもお発ち願いたい」
リディアがうなずき、サヴァンとレダは、目で意志を確認し合った。
その様子を見るエアハルトの目は、優しくもあり、どこか寂しげでもあった。
翌日の明朝、リディアとサヴァンとレダは、アイザレン軍の進行ルートを迂回しつつ、北の町スレドラハムに向けて出発した。
対してエアハルトは、知事局、いやリターグそのものの再起をはかるべく奔走し、クイラはその見習い、そして忠実なパートナーとしてつきしたがった。
三人と二人の分離。それは、運命の亀裂のはじまり、とでもいえるようなものかもしれなかった。




