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レガン戦記  作者: 高井楼
第二部
76/142

テッサの陥落・2

 享楽の音が響きわたっている。

 無数の喜悦の吐息、叫び、息づかい。

 それは、とてもこの世のものとは思えない。

 反響する大広間の内は、灯籠のほかに照明はなく、うす暗い中で、声と、ひしめく人の熱気と、香のむせぶような強い芳香がある。

 ここはエントール皇国の聖都ラザレクの、皇帝の住まう宮殿の、奥の奥にある謁見の間だ。

 数日前、サヴァンとレダとリディアは、この異様な場所で皇帝に謁見し、レダを引き金に大騒動を起こした。

 いまはその名残もなく、あいかわらず無数の裸の男女が、床で身もだえし、からみあっている。だれもかれも、焚かれている香の怪しげな効力にあらがえないでいるのだった。ただ二人の者だけをのぞいて。

「また、早うに落とされたものじゃな、テッサもラメクも」

 広間の喧騒を縫うようにして、女帝リリィ・エントールの尊大な声が響いた。

 広間の奥には高い踏み段があり、その上に、堂々たる玉座が置かれていた。若き女帝はその玉座に座り、ひじ掛けにひじを当て、手でほほを支えながら、眼下にかしこまっている男を見やった。

 女帝の身にまとう黒衣の裾は、踏み段の下のほうにまで長く垂れ、肩をおおう金のケープも、マントのように床に伸びている。

 長い黒髪は色とりどりの髪飾りで飾られ、顔は黒いアイラインに虹色のアイシャドウ、豪華なつけまつ毛に、厚く暗色の口紅を引いている。

 時は夜。

 ラメクとテッサが陥落して、数時間後のことだった。

「いまはレイゼン公領のエトに、防衛線を敷いております、陛下」

 踏み段の下で片ひざをついている、近衛静導士団・団長リカルド・ジャケイが、おごそかにいった。

 礼装の灰色のローブは、初老の男にふさわしい落ち着いたものだが、白い貴石の付いた髪留めで後ろに引きつめた長髪は若々しい。髪留めからは、さらに白い石の額飾りが下がっていて、初老の顔に独特の威容を与えていた。

「エトから先の土は、踏ませません。陛下には、どうぞお心を安んじられますよう」

「所詮わらわには、よしなしごとじゃ」

 リリィ・エントールは軽い嘲笑をこめた声でいった。

「わらわはせいぜい生きて死ぬ、それだけのこと。戦のなりゆきなど、どうでもよい」

「恐れ入ります、陛下」

 リカルドは淡々と受け答えた。この間にも、性にふける狂乱の喧噪が、広間中に渦巻いていた。

「ときに、あのリディアとやらの一行は、その後どうしておる」

「リターグに戻りましてございます」

 そう答えたリカルドは、耳に入っているリターグの状況も、手短に説明した。

「さようか」

 こころなし遠い声になって、女帝はいった。

「無礼な者たちじゃったが、いまはもう一度、会うてみたいと思う。リディアという名の、あの『日に立つ者』にも、レダという『知事』にも。だが、それはどうやらかなわぬこと。……不思議なものじゃ、つい数日前のことが、なにか遠い昔の出来事のように思えてくる」

 そのとき、肉欲にふける無数の群れの中から、一人の男が、ふらふらと踏み段に近づいてきた。全裸の身体はてらてらと汗にまみれ、目は血走り、口は意味もなく開いたり閉じたりしている。

「やめよ」

 女帝は、リカルドがとっさに剣に手をかけたのを目にして、鋭く制止した。

 男は頼りない足取りで、踏み段をゆっくりと昇っていった。

 女帝は、男の足が、踏み段をおおう衣の長い裾を踏みつけるのも気にとめない様子で、じっと男に目をやっていた。

 やがて男が、手に届きそうな距離まで近づいてくると、女帝は、スッと片腕を男のほうに伸ばした。

 バン! と強烈な音と衝撃が起こり、男は広間のはるか向こうの床にまで吹き飛び、倒れたままピクリとも動かなくなった。

「不吉じゃなあ、リカルド」

 リリィ・エントールはこともなげにいった。

「この者たち、いかに錯乱しておるとはいえ、いままでわらわに近づこうとはしなかった。フフ、それがどうじゃ、この時勢に、まこと凶兆としかいいようがないではないか?」

 ハハハハハ! と、女帝は笑った。その高い笑い声は広間をつんざき、いつまでも止まなかった。しかし、口を大きく開いた女帝の顔は、むしろ苦悶に近い表情だった。

 いたたまれなくなったリカルドは、短く辞去の言葉を述べ、立ちあがると、眉をけわしく寄せたまま広間をあとにした。

 大扉が閉まると、狂乱の騒音はぴたりと止んだ。

 リカルドは首を横に振り、左右に赤いカーテンが揺れている長い廊下を歩いていった。

 ローブには香が染みつき、耳には女帝の、不吉じゃなあ、という声がついて離れなかった。

 歩きながら、リカルドは無意識に顔をしかめた。

 ──不吉か。

 不吉といえば、自分もここのところ、いやな夢ばかり見る。内容は忘れてしまうが、とにかくおぞましく、やけに現実味のある夢だということは覚えている。

 実際、いまエントールは思いもかけない凶事に見まわれている。

 ラメクでは、スーラ元帥、メキリ元帥以下、ラザレクの皇軍の枢軸をになう人材を一気に失った。それも戦いの中ではなく、聞く話では、中枢卿団による暗殺で。

 同じくテッサでも、トルゼン公アーシュラという、かけがえのない人物を失った。静導士団との関係が深い有力な領主は、彼女だけだった。のみならず、エントール諸侯で随一の人望と実力をそなえたアーシュラを欠くことは、この戦時に国内の基盤が大きく揺らぐことを意味する。

 ただでさえ、皇軍は致命的な損害をこうむり、われら静導士団にしても、エトに退いたメイナードは、アーシュラを失った衝撃から自我をなくしているとのことだ。

 ラメクのキュベルカもまた、エトに後退したが、あの元アイゼン公が、このままおとなしくいうことを聞くとは思えない。そう確信できるような人生を、キュベルカは歩いてきている。

 そうと知りながら、これまでその力をたのんで、あえて重用してきたが、そろそろ扱いを考え直さなければならないだろう。混乱に乗じて、コーエン公となにかをたくらんでいるという情報は、おれの耳にも届いている。

 リカルドは宮殿内の、宮廷とそれ以外の区画をへだてる扉を抜け、まるで真昼のように明かりの灯った大廊下を行きながら、皇帝について思いをはせた。

 そう、たしかに、不憫なお方にはちがいない。

 キュベルカ同様、不遇をかこった人生は、精神を犯した。

 陛下の強みは、おそるべき異能、ただひとつだ。人望も、皇帝としての才知もない。

 ただ、あの破壊的な異能は、国内をまとめる一助にはなっている。うわさがうわさを呼び、歴代皇帝で最強の力を有しているというのが、世間一般の認識だ。

 静導士団が中心となって、慎重に情報を操作した結果だ。そうでもしなければ、いまごろラザレクは、クーデターに次ぐクーデターで、他国との戦争どころではなかっただろう。

 事実、その力は底知れない。昨日、『日に立つ者』リディアの声をまともに受けて、気絶こそしたものの、記憶がしっかりと残っていることからも、それはうかがわれる。サヴァンという『知事』や、当のリディアですら記憶をなくしているというのに。

 大廊下を歩くリカルドとすれちがう人々は、みな頭を下げたり目礼をしたりと、あいさつを忘れなかったが、それでも一様に、なにか問いたげな目でかれを見た。

 そんな視線を浴びながら、リカルドはきぜんと前に進んだ。

 ──あるいは、おれ自身が、出なければならないか。

 ビューレンの動向は気になるが、エトを落とされては元も子もない。

「死ぬんじゃないぞ!」

 あのレダという『知事』の言葉が、どういうわけか耳に残って離れない。

 もとより、いまは死ぬつもりはない。

 リカルドはグッと目に力をこめ、歩く姿勢も正した。

 ──だが、死は恐れない。

 近衛として、最後まで陛下に忠義を尽くし、戦いの中で死ぬのであれば、それは本望だ。大陸最強とうたわれるおれの剣技は、伊達ではない。相応の者に討たれるならば、なおさら悔いはない。

 リカルドは、ローブの腰帯に差している一振りの剣の重みを、あらためて意識しながら、歩を進めた。


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