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レガン戦記  作者: 高井楼
第二部
74/142

ラメクの渦・3

 足音はしない。

 だがその女は歩いている。長い石の廊下を。

 黒いローブにサンダル。腰帯には刀が差さっている。

 短い黒髪、浅黒い肌、細身の身体。

 憂えたような特徴的な瞳は、まっすぐ行く先を見すえている。まだ遠い前方には、ひとつの大扉があった。

 足音がしないのは、その女、キュベルカ隊副長コーラ・アナイスが、平らなサンダルを履いているからというだけではない。

 石柱のそそり立つ大廊下は、エントール軍の兵士たちの喧騒に包まれているのだった。

 すでにアイザレン軍は、こちらに近づきつつある。あとはこのエントール一の堅牢さを誇る都城を中心に、万全に要塞化されたラメクでの防衛戦となるだろう。

 ここで数日持ちこたえれば、聖都ラザレクからの増援が到着する予定だった。

 コーラは歩きながら、かれら兵士たちの様子を横目にし、その士気の高さを認めた。

 しかし、認めただけで、なにも感じなかった。

 男たちのブーツが床を打ち鳴らし、大声が飛び、時には野太い笑い声まで聴こえるような、意気軒昂な廊下を、コーラは静かに歩いていった。


 大扉の両脇に立っている二人の警備兵は、コーラが来ると目礼をして、ぶ厚い扉を開けた。

 以前から、皇軍が司令部にしていた広間だ。いまではここが、コーエン公率いる諸侯連合軍との合同司令部になっていた。

 『白虎』と呼ばれるスーラ元帥の鋭い目、小太りしたメキリ元帥の不遜な目、コーエン公ドゥノの、けげんそうな目。そのほかの将軍、参謀たちも合わせて、二十人ほどの顔が、いっせいにコーラに向けられた。

「ごきげんよう」

 コーラはしとやかにあいさつし、中に入った。

 大扉が重い音を立てて閉められ、密閉されたような圧迫感が、部屋にこもった。

「どうされた、コーラ殿」

 声をかけたのはコーエン公ドゥノだった。かれは純粋に驚いていた。コーラは当然、キュベルカとともに「イサリオス」にいると思っていたからだ。

 キュベルカは普段、代言人など使わない。いいたいことは直接いいにくる。すると、これはコーラ個人の用向きか? それとも、なにかキュベルカと隔意でもあったのか?

「本題に入る前に、」

 コーラは自然に進み出ながら、口を開いた。「将軍ご一同への、キュベルカ卿の伝言を申しあげます」

 地図が広がる、作戦用のロング・テーブルを取り囲む将軍たちのもとで、コーラは立ちどまり、つづけた。

「スーラ元帥、ならびにここにおられる皇軍将領におかれては、長きにわたる皇国への忠義、まことの大義と心得る。また、メキリ元帥」

 その場の皆があっけにとられているうちに、コーラは言葉を継いだ。

「卑賤の豚であるきさまには、万死がふさわしい」

 ヒュッ、と、かすかに音がした。

 次の瞬間には、もうコーラは刀を鞘に戻していた。

 コーエン公の目の前で、スーラ、メキリ、ほかの者たち全員の、首や胴から鮮血がほとばしり、両断された身体が次々と床に落ちていった。

 一閃のあと、瞬時に身を退いたコーラのローブには、一滴の返り血も付いていなかった。

「さて、本題に入りましょう」

 コーラは、剣を抜いて構えたコーエン公ドゥノにむかって、おだやかな声で話しかけた。

「血迷ったか、コーラ殿」

 ドゥノはコーラをにらみつけ、なんとか冷静さをたもった声でいった。

「血は、迷いません」コーラは悠然と答えた。「血は、流れるか、めぐるか、それだけです」

 ドゥノは答えずに、コーラをまっすぐ観察した。

 たしかに、乱心という様子ではない。これは、キュベルカの謀ったことなのだろう。しかしなぜだ? これで、もうラメクの防衛は機能しない。前線にいるキュベルカは、むざむざ自分の首を絞めるだけだ。しかも、スーラ以下すぐれた将軍、参謀が一気に失われたことで、エントール自体がさらなる危機に瀕する。

 キュベルカは、国を売るつもりか?

 広間は不気味な静寂に包まれていたが、大きなアーチ窓を通して、わずかに飛行艦や戦闘機の空を行く音が伝わっていた。

「トルゼン公アーシュラが討たれたいま、」コーラの声が響いた。「コーエン公、あなたと張りあえる貴族は、ほとんどいません。キュベルカ卿は、あなたが諸侯をまとめることを期待しております」

「ばかな」ドゥノは思わずせせら笑った。「まとめるもなにも、きさまもおれも、キュベルカも、ここで果てることになる」

「ラメクは放棄します」すかさずコーラがいった。「エトに退き、戦力を立て直します」

「エト?」ドゥノの眉が寄った。「それは、レイゼン公領のエトのことか?」

「この戦争は好機です」

 ドゥノの問いには答えず、コーラはきぜんといった。

「腐敗したラザレクの中央集権に甘んじている、われら貴族が、エントールを取り戻す好機。そうキュベルカ卿はとらえています」

「……澄みすぎれば、血は迷うものだ」

 ドゥノは眼光鋭くいい放った。「それは、きさまにもよくわかっていることではないか?」

「キュベルカ卿は、ふたつの選択肢をあなたに与えます」

 有無をいわせない口調で、コーラがかえした。

「ここで死ぬか、われわれとともに来るか」

 ──コーラ・アナイス。

 ドゥノは、スッとした立ち姿のコーラを見すえ、心でつぶやいた。

 さすがに、化け物ぞろいの静導士団で、早々にのし上がっただけのことはある。いまの剣技を見るかぎり、ただで勝てる相手ではなさそうだ。……それに、勝ったところでどうなる。この血まみれの司令部。コーエン領は終わりだ。アイザレン軍にじゅうりんされ、一兵卒の靴がおれの血を踏むだろう。ようやく東方一の大公になったというのに、冗談ではない。

「たしかに、いまならまだ、撤退は可能かもしれない」ドゥノは口を開いた。「だが、この惨状をどう説明するつもりだ? それに、アイザレンとラザレクを敵にまわして、どう立ちまわるというのだ?」

「それは、あなたが考えることではありません」コーラは答えた。「アイゼン公キュベルカに、したがうか、したがわないか、それだけです。いますぐ決めてください」

 広間に数瞬の沈黙が降りた。

「……したがおう」

 ドゥノはそういうと、剣をおさめた。

「いいでしょう」コーラは即座にいった。「この場のことは、中枢卿団の手の者が入りこんだ、ということにします。口裏を合わせましょう」

「信じるとは思えんが」ドゥノは苦い顔で、首を横に振った。

「トルゼン公アーシュラは、テッサの屋敷で暗殺されました」

 コーラは答えた。

「それも、メイナード卿が付いていながら。この信じがたい事実が、後押ししてくれます。卿団の手にかかれば、起こりえることです」

「たしかに」そういって、ドゥノは鼻から息を吐くと、目を伏せた。

 そのとき、床に散乱する死体の中から、携帯通信機の着信音がした。

「すぐ段取りを決めましょう」

 コーラは早口でいった。

「そのあと、あなたは、わたしの肩を刺してください」

「なに?」

「賊は窓から侵入し、わたしは手傷を負い、あなたが撃退した」念を押すように、コーラはいった。

「それで、あなたの名声はたもたれます。諸侯をまとめるのに必要なことです」

「だが、皇軍筋の諸侯は納得しないぞ」なおもドゥノは躊躇した。「エトに退くのはいいが、レイゼン公はどう思うか」

「怖いのですか、レイゼン公が?」かすかに嘲笑をまじえる風に、コーラがたずねた。

「まさか」ドゥノは少しあごを上げ、威厳をただして答えた。

「では」と、コーラは収拾をつけるように淡い笑みを浮かべていった。「賊の姿格好の、示し合わせを」

 コーエン公ドゥノは、そんなコーラから視線をそらすと、渋々といった具合に、何度かうなずいた。

 その間にも、すでに広間中の通信機という通信機が、着信音を鳴り響かせてやまなかった。


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