ラメクの渦・3
足音はしない。
だがその女は歩いている。長い石の廊下を。
黒いローブにサンダル。腰帯には刀が差さっている。
短い黒髪、浅黒い肌、細身の身体。
憂えたような特徴的な瞳は、まっすぐ行く先を見すえている。まだ遠い前方には、ひとつの大扉があった。
足音がしないのは、その女、キュベルカ隊副長コーラ・アナイスが、平らなサンダルを履いているからというだけではない。
石柱のそそり立つ大廊下は、エントール軍の兵士たちの喧騒に包まれているのだった。
すでにアイザレン軍は、こちらに近づきつつある。あとはこのエントール一の堅牢さを誇る都城を中心に、万全に要塞化されたラメクでの防衛戦となるだろう。
ここで数日持ちこたえれば、聖都ラザレクからの増援が到着する予定だった。
コーラは歩きながら、かれら兵士たちの様子を横目にし、その士気の高さを認めた。
しかし、認めただけで、なにも感じなかった。
男たちのブーツが床を打ち鳴らし、大声が飛び、時には野太い笑い声まで聴こえるような、意気軒昂な廊下を、コーラは静かに歩いていった。
大扉の両脇に立っている二人の警備兵は、コーラが来ると目礼をして、ぶ厚い扉を開けた。
以前から、皇軍が司令部にしていた広間だ。いまではここが、コーエン公率いる諸侯連合軍との合同司令部になっていた。
『白虎』と呼ばれるスーラ元帥の鋭い目、小太りしたメキリ元帥の不遜な目、コーエン公ドゥノの、けげんそうな目。そのほかの将軍、参謀たちも合わせて、二十人ほどの顔が、いっせいにコーラに向けられた。
「ごきげんよう」
コーラはしとやかにあいさつし、中に入った。
大扉が重い音を立てて閉められ、密閉されたような圧迫感が、部屋にこもった。
「どうされた、コーラ殿」
声をかけたのはコーエン公ドゥノだった。かれは純粋に驚いていた。コーラは当然、キュベルカとともに「イサリオス」にいると思っていたからだ。
キュベルカは普段、代言人など使わない。いいたいことは直接いいにくる。すると、これはコーラ個人の用向きか? それとも、なにかキュベルカと隔意でもあったのか?
「本題に入る前に、」
コーラは自然に進み出ながら、口を開いた。「将軍ご一同への、キュベルカ卿の伝言を申しあげます」
地図が広がる、作戦用のロング・テーブルを取り囲む将軍たちのもとで、コーラは立ちどまり、つづけた。
「スーラ元帥、ならびにここにおられる皇軍将領におかれては、長きにわたる皇国への忠義、まことの大義と心得る。また、メキリ元帥」
その場の皆があっけにとられているうちに、コーラは言葉を継いだ。
「卑賤の豚であるきさまには、万死がふさわしい」
ヒュッ、と、かすかに音がした。
次の瞬間には、もうコーラは刀を鞘に戻していた。
コーエン公の目の前で、スーラ、メキリ、ほかの者たち全員の、首や胴から鮮血がほとばしり、両断された身体が次々と床に落ちていった。
一閃のあと、瞬時に身を退いたコーラのローブには、一滴の返り血も付いていなかった。
「さて、本題に入りましょう」
コーラは、剣を抜いて構えたコーエン公ドゥノにむかって、おだやかな声で話しかけた。
「血迷ったか、コーラ殿」
ドゥノはコーラをにらみつけ、なんとか冷静さをたもった声でいった。
「血は、迷いません」コーラは悠然と答えた。「血は、流れるか、めぐるか、それだけです」
ドゥノは答えずに、コーラをまっすぐ観察した。
たしかに、乱心という様子ではない。これは、キュベルカの謀ったことなのだろう。しかしなぜだ? これで、もうラメクの防衛は機能しない。前線にいるキュベルカは、むざむざ自分の首を絞めるだけだ。しかも、スーラ以下すぐれた将軍、参謀が一気に失われたことで、エントール自体がさらなる危機に瀕する。
キュベルカは、国を売るつもりか?
広間は不気味な静寂に包まれていたが、大きなアーチ窓を通して、わずかに飛行艦や戦闘機の空を行く音が伝わっていた。
「トルゼン公アーシュラが討たれたいま、」コーラの声が響いた。「コーエン公、あなたと張りあえる貴族は、ほとんどいません。キュベルカ卿は、あなたが諸侯をまとめることを期待しております」
「ばかな」ドゥノは思わずせせら笑った。「まとめるもなにも、きさまもおれも、キュベルカも、ここで果てることになる」
「ラメクは放棄します」すかさずコーラがいった。「エトに退き、戦力を立て直します」
「エト?」ドゥノの眉が寄った。「それは、レイゼン公領のエトのことか?」
「この戦争は好機です」
ドゥノの問いには答えず、コーラはきぜんといった。
「腐敗したラザレクの中央集権に甘んじている、われら貴族が、エントールを取り戻す好機。そうキュベルカ卿はとらえています」
「……澄みすぎれば、血は迷うものだ」
ドゥノは眼光鋭くいい放った。「それは、きさまにもよくわかっていることではないか?」
「キュベルカ卿は、ふたつの選択肢をあなたに与えます」
有無をいわせない口調で、コーラがかえした。
「ここで死ぬか、われわれとともに来るか」
──コーラ・アナイス。
ドゥノは、スッとした立ち姿のコーラを見すえ、心でつぶやいた。
さすがに、化け物ぞろいの静導士団で、早々にのし上がっただけのことはある。いまの剣技を見るかぎり、ただで勝てる相手ではなさそうだ。……それに、勝ったところでどうなる。この血まみれの司令部。コーエン領は終わりだ。アイザレン軍にじゅうりんされ、一兵卒の靴がおれの血を踏むだろう。ようやく東方一の大公になったというのに、冗談ではない。
「たしかに、いまならまだ、撤退は可能かもしれない」ドゥノは口を開いた。「だが、この惨状をどう説明するつもりだ? それに、アイザレンとラザレクを敵にまわして、どう立ちまわるというのだ?」
「それは、あなたが考えることではありません」コーラは答えた。「アイゼン公キュベルカに、したがうか、したがわないか、それだけです。いますぐ決めてください」
広間に数瞬の沈黙が降りた。
「……したがおう」
ドゥノはそういうと、剣をおさめた。
「いいでしょう」コーラは即座にいった。「この場のことは、中枢卿団の手の者が入りこんだ、ということにします。口裏を合わせましょう」
「信じるとは思えんが」ドゥノは苦い顔で、首を横に振った。
「トルゼン公アーシュラは、テッサの屋敷で暗殺されました」
コーラは答えた。
「それも、メイナード卿が付いていながら。この信じがたい事実が、後押ししてくれます。卿団の手にかかれば、起こりえることです」
「たしかに」そういって、ドゥノは鼻から息を吐くと、目を伏せた。
そのとき、床に散乱する死体の中から、携帯通信機の着信音がした。
「すぐ段取りを決めましょう」
コーラは早口でいった。
「そのあと、あなたは、わたしの肩を刺してください」
「なに?」
「賊は窓から侵入し、わたしは手傷を負い、あなたが撃退した」念を押すように、コーラはいった。
「それで、あなたの名声はたもたれます。諸侯をまとめるのに必要なことです」
「だが、皇軍筋の諸侯は納得しないぞ」なおもドゥノは躊躇した。「エトに退くのはいいが、レイゼン公はどう思うか」
「怖いのですか、レイゼン公が?」かすかに嘲笑をまじえる風に、コーラがたずねた。
「まさか」ドゥノは少しあごを上げ、威厳をただして答えた。
「では」と、コーラは収拾をつけるように淡い笑みを浮かべていった。「賊の姿格好の、示し合わせを」
コーエン公ドゥノは、そんなコーラから視線をそらすと、渋々といった具合に、何度かうなずいた。
その間にも、すでに広間中の通信機という通信機が、着信音を鳴り響かせてやまなかった。




