テッサの死闘
テッサの夜は、満天の星空だった。
見晴るかす港町の光に呼応するように、星々は白い光を放ち輝いている。
しかし、テッサの丘の上の、本来ならばもっともよく星空をあおげそうなこの場所では、その輝きを目にすることはできない。なぜなら、屋根があるからだ。
屋根は人工のものではない。もっとも、樹木の自然の成長を阻害したという意味では、人工といえるのかもしれない。
港湾都市テッサを見おろす公爵邸の前庭にある、アーチを作る長い並木道は有名だ。
左右のうっそうとした木々の、向かいあっておじぎをするような屋根が、延々とつづいている。
季節ごとに、また一日の時間ごとに表情を変える、その美しい道。
公爵邸を訪れた者は、かならずその道を歩く。そして思い思いの場所で、ふとたたずむ。ある者は木の幹を、ある者は屋根の緑を、ある者はうっすらと差しこむ木漏れ日を、興味深そうに、うれしそうに、ながめるのだ。
しかしいま、その夜の並木道にいる三人の者たちは、景観に心を泳がせてはいない。
小柄な男と、背の高い二人の女。
男はくたびれたジャケット姿で、髪をオールバックにした、細身の中年。
その前方に立つ女は、ひとりは紅い飾り模様の入った、丈の短い白いローブ姿で、もうひとりは、立ち襟のシャツにキリッとした上着、下はズボンにロング・ブーツという、貴族然とした格好をしている。
屋敷の女主人とその友人が、名前も覚えていない使用人と、並木道でばったり顔を合わせた、そんな風景だ。
だが、かれらの手には、深い因業ともいえるようなものが握られている。
男は、片手に抜身の刀を下げ、ローブの女は黒い大槍を両手で持ち、もうひとりは、見事な意匠の鞘におさまった、腰の長剣に手をあてている。
ケンサブルの気配が、ついに公爵邸内に現われたのは、サヴァンの一行やナードたちが出航して数時間後の深夜のことだった。
着替えを済ませて待っていたアーシュラは、意気揚々と先導し、後ろをついていくメイナードは、浮かない表情をしていた。そしてほどなく、三人は木々のアーチの中で、こうして向かいあうことになったのだった。
「なんとも、申し訳ないなあ」と、ふいにケンサブルが、並木をしみじみと見上げていった。「ここは、なんだか、人の血で汚したくない場所だがなあ」
「それをかたづけるわたしの身にもなることだな」
凛々しい声でアーシュラが受け答えた。
「ここは、このトルゼンの敷地である。客人、愉快な迷子だ。わが屋敷の門は、この道の入り口よりも、はるかに広いぞ」
「トルゼン公か」
ケンサブルはそちらに顔を向けて、笑みを浮かべた。
いかにも楽しげな表情。しかし、目は笑わない。鬼気迫るような顔だった。
しかし、アーシュラはしり込みをしなかった。こちらは、口の両端をわずかに上げた笑みに、鋭い眼光。堂々たる威風だ。
アーシュラは、ふつふつと、身の内をわきたたせていた。
──『卿団の刃』と称されるイル・ケンサブル。わたしは、かれと戦う力がある。大義名分もある。
メイナードと共に、卿団最強の剣士と戦う。わたしにとって、これほどすばらしいことはない。
わたしは、猛っている。潮風と緑と土のにおいが、いまはことさらに、わたしを取り巻く。わたしにはそれが、祝いのように感じられる。
ハハ!
アーシュラは、心で高く笑った。ケンサブルをにらみつけたまま、微笑を顔に張りつかせ、彼女はスラッと剣を抜いた。この瞬間から、アーシュラは公爵ではなく、剣士になった。
そして剣士アーシュラは、強い衝動に駆られて、ケンサブルに猛然と斬りかかっていった。
そのアーシュラの、風のような突進をまのあたりにしても、メイナードは動かず、うつむいていた。
ベアトリスでのルキフォンスとの戦いが、頭から離れなかった。
背に無数の刃が突き刺さり、ひざまずいたルキフォンスを、わたしは、容赦なくあやめようとした。この報いは、いつか受けることになるのだろう。それはいまか、それとも、もっと先なのか。
──もういや。争いは、もうたくさん。
メイナードは、イサギという名の、その黒い大槍を手に、小さく首を横に振った。
──よりによって、こんなときに、力が入らない。
アーシュラの振り下ろした剣を、ケンサブルの刀が受ける。
強烈な気がはじけ、周囲の空気が轟音をたてて揺らいだ。
メイナードは、なおも立ちつくしていた。
さらに刃と刃がぶつかる音が響く。木々が、三人を取り巻くように、風に鳴っている。
〝ここもすぐ、戦場になる〟
公爵邸での、アーシュラの声が、ふいにメイナードの頭をかすめる。ここは守らなければいけない、絶対に。そう答えた自分の声も聴こえる。
──だめだな、わたしは。
メイナードは、また小さく首を横に振った。
いつもいつも、口ばかりだ。なにかを守ったことなんか、一度もない。ベアトリスは守れなかった。ユルトも死んでしまった。きれいごとなんか、いえる立場じゃない。
──ごめんなさいアーシュラ、出遅れてしまって。
メイナードの身体に、ふいに力が湧きあがった。
このうえ、あなたを死なせたりはしない。わたしは、絶対に、あなただけは守ってみせる。
にわかに激甚な気迫が、メイナードの全身から立ちのぼった。イサギを持つ両手が、ギリギリと締まる。
メイナードの、うつむいていた顔が、キッと上がった。
すさまじい気の広がりに、ケンサブルもアーシュラも驚き、ふたりは無意識に間合いを取って離れると、メイナードに目を向けた。
『士団の切先』と称されるメイナードの、圧倒的な立ち姿が、そこにはあった。
黒槍イサギを横に、細い身体を縦に、あたかも十字を形作るように、メイナードは屹立していた。
ケンサブルは思わず目元をピクッとひきつらせ、数歩うしろに退いた。
アーシュラは、その場を動くこともできず、ぼう然としていた。
──これが、おまえとわたしの差か。
アーシュラはメイナードの姿に目をうばわれながら思った。尊敬と、嫉妬と、あきらめの入り混じった、複雑な気持ちだった。だが不思議と、やるせなくはなかった。むしろすがすがしいここちだった。
──わたしは、自分が剣技の秀才だと、自負している。だからこそ、おまえのその姿を目にして、しみじみ悟るのだ。天才と秀才の間には、決して越えられない壁があるということをな。
ああ、おまえと剣術談義に明け暮れたころがなつかしい。そしていまでは、恥ずかしい。おまえはいつでも、わたしの得意げな戯言をやさしく受けとめて、真摯に言葉を返してくれた。
わたしにとって、おまえは唯一の友であり、また、好もしい敵でもあった。そんなおまえの背中を追いかけることが、わたしの生きる支えとなっていた。女公としてここまでやってこられたのも、おまえのおかげだ。
──決めたぞ、メイナード。わたしは、おまえへの長年の恩義に、いま報いる。
スッと、アーシュラはケンサブルに向かっていった。そして剣を振りかざし、渾身の力で斬りかかった。
ケンサブルは、アーシュラのほうを見なかった。一瞬でもメイナードから目を離せば、討たれるという予感がしていたのだ。
それに、遠くアイザレンにも聴こえるトルゼン公アーシュラの剣技も、自分には遠くおよばないと、ケンサブルは確信していた。ベアトリスで立ち合ったユルトとかいう若造よりはましなようだが、この女も、ただ剣を振りまわすだけだ。それでは、わたしには勝てないよ。
ケンサブルは、正面のメイナードの立ち姿に目をやったまま、右手に持っていた刀を、なにげないように左に突きつけた。
ケンサブルの真横には、まるで吸い寄せられたように、その刀で腹を刺し貫かれたアーシュラがいた。
ガラッと、アーシュラの剣が地面に落ちた。
ケンサブルはなんの感慨もなく、刀を引きぬこうとした。
その瞬間。
「討てぇ!」
アーシュラの声が響いた。
ケンサブルは刀を持つ右腕の感触に驚き、アーシュラに目を向けた。
アーシュラの顔には、不敵な笑みがあった。腹を貫かれ、口の端から血を流し、しかし両手は、ケンサブルの右の手首をしっかりと握っているのだ。
女の手が、こんなにも力強くなるのか、とケンサブルは瞬間に思った。おれの腕が、びくともしない。本当に、岩にでもはさまれたようだ。
その機を逃がさず、メイナードは突進した。アーシュラは大丈夫、と自分にいい聞かせながら。
ケンサブルの刀は、心臓を突いていない。すぐに治療すれば、致命傷にはならない。ありがとう、アーシュラ。ケンサブル、あなたはもう、終わりです。
メイナードはケンサブルの胸をめがけて、壮烈な突きを見舞った。いかにケンサブルといえども、アーシュラに腕を取られて動けず、しかも目を離したすきにイサギに突かれれば、避けられるはずもないのだ。すべては、まばたき一つの間に終わっていた。
──え?
突きを浴びせたメイナードの目に、光景が凍りついた。
なにがおこったのか、まったくわからなかった。
……なぜ? なぜケンサブルは、立っているの? それに、アーシュラはどこ? このイサギや、わたしの身体や、地面に飛び散っている血は、なに?
「そうだなあ」
ケンサブルが、息を吐くようにそういいながら、ゆらりと後退していく。
「これで、おあいこということに、しておこうかなあ」
そのケンサブルの左手に、アーシュラの剣があるのを目にして、メイナードは直感した。
そして、虚脱した。
見えなかった光景が、脳裏にイメージとして迫る。
自分が突く一瞬前に、アーシュラの脚を払って、刀ごと彼女の身体を前にかざし、横に避けるケンサブル。飛散する、肉片、血。避けると同時に、あいている左手でアーシュラの剣を拾ったケンサブルは、間合いを取る。
メイナードは絶句し、目を見開き、イサギを持ったまま地面に両ひざをついた。
ケンサブルは、並木道の奥の闇に、徐々に遠ざかっていった。
やがてその姿が見えなくなると、メイナードの手から、イサギが落ちた。
「ああ、あああ……」
あえぐようなうめき声が、メイナードの口から漏れた。
視界は白みがかっていた。
木々の葉のざわざわと鳴る音が、とてつもない重力となって、身体を押しつぶすように感じられた。
涙を流す余裕もなく、メイナードは気絶した。