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レガン戦記  作者: 高井楼
第二部
57/142

二つの戦線・6

 なまめかしい、とすらいえるかもしれない光景だった。

 狭い通路、無数の死体。

 灰色の床。倒れた者たちの黒い服、黒いマント。おびただしい血だまり。壁にも、赤い血しぶき。

 警戒警報は鳴りやまない。四方八方で、人々の喧騒が響きわたっている。

 その中で、屍を踏み越える、女の白い脚がある。

 病衣か寝巻かもわからない、ワンピースの白いすそが揺れる。

 片手には、血のしたたる剣。

 もう片手は、どこかもの憂いように、だらりと垂れ下がっている。

 男が怒声をあげて、女に斬りかかっていく。そしてあっという間に、男の胸がつらぬかれる。

 その女、コーデリア・ベリの目に、男の最期の苦悶の顔は映らない。彼女の目は遠い。

 前方にいる、中枢卿団の団員たちは、ひるんでいた。第三隊長ルケ・ルクス付きの、えりぬきの猛者たちだ。しかしかれらはもはや悟っていた。自分たちが、この女の前では、ただの壊れやすい物でしかないのだということを。

 コーデリアの心は澄んでいた。

 善も悪もない透明に、彼女は浸かっていた。そもそも、彼女はこれまで、善悪のせめぎ合いなど無縁だった。考える必要もないことだった。

 そして考えるひまもなく、コーデリアは、澄んでしまった。それがいまだけのことか、あるいはこれから先もそうなのか、だれにもわからなかった。

 ぶ厚い音を立てて、飛行艦は進んでいる。内部の狂乱などおかまいなしに、艦は進みつづける。

 ルケ飛行艦隊・旗艦「エイヨーン」。

 戦闘力ではルキフォンス隊の「メサイア」に劣るが、脚の速さは、戦艦級では大陸随一だった。

 その俊足のエイヨーンを真ん中にして、縦一列の単縦陣をとった艦隊は、ラメク戦線を目指して進んでいた。

 時は夜。

 しかしエイヨーン艦内は、夜の静けさを想う余裕すらない大事態におちいっていた。


 ルケ・ルクスが、砂漠の町レンからコーデリアを連れ帰ったのは、前日の夜のことだ。

 顔中から血を流すほど力を使ったルケも、昏倒したコーデリアも、その後こんこんと眠りつづけ、ラメク戦が勃発した今日も、ルケ隊は軍部や卿団とまともに連絡を取ることもなく、砂漠とエントールをへだてる山脈のふもとに駐留しつづけた。

 ラメクでキュベルカたちが軍議をしているとき、対するアイザレンの中央軍集団は、とうとうルケ隊に、強硬な合流要請をおこなった。

 アイザレン軍としては、今日の戦闘は上々だった。

 特に空戦は大勝利といってもよかった。だがエントール側の飛行艦隊は、まだメキリの本隊と、キュベルカ隊が無傷で残っている。今日は後方にいたキュベルカ隊も、明日は前線に来るだろう。

 皇軍最精鋭といわれるメキリ直卒の艦隊と、おそるべき主砲を持った「イサリオス」を擁するキュベルカ隊を相手に、こちらはすこしでも損害を軽減したい。これからさらに、エントールの奥深くへと入らなければならないのだから。

 そのためにはなにが必要か? 増援だ。しかしアイザレン本土は遠い。補給路も、糸のように細い。であれば、手はひとつだ。

 アイザレン軍が、ルケ艦隊に白羽の矢を立てたのは、当然のことだった。そのころには起きていたルケも、しぶしぶながら要請を受け入れ、進発した。

 そして現在。

 ラメクの城の一室で、コーラがレザーンの背中にやさしく手を触れているとき、コーデリアは、剣を振りかざす男たち女たちを、刺し貫き、切り刻んでいた。

 なにを思うでもない心で。


 ──不思議。

 コーデリアは、ドッと倒れて血を噴き出させる卿団員を、目の端にとらえ、おぼろげに思った。

 どうして、こんなに簡単に、死ぬのかしら。どうしてわたしたち、こんなに弱い生き物なのに、強がって、虚勢を張るのかしら。

 かすかなおかしみが、コーデリアの胸にせり上がる。

 変だわ。やっぱり、変よ。そうでしょう、ロー。

 わたしは、あなたの呼吸器の音なんて、聴きたくなかった。

 一度聴いてしまえば、決して耳から離れない。

 わたしは、あの呼吸器の立てる醜い音を、一生心で聴かなければならない。

 あなたが、たとえ回復して、またいつものように頼もしい姿を見せても、わたしの心からは、決して消えない。

 あなたの寝姿、呼吸器の音。嫌。嫌だ! わたしは……

 ああ、また懲りもせず、何人かが斬りかかってくる。……物が動く、それも、意識を持って。なんて不思議なことなんだろう。

 そんなことをぼんやりと思いながら、コーデリアは手にする剣を振った。

 ──この剣を、だれもかわしてくれない。みんな死んでいく。さびしい。この死体と血と、臭いと汚れと、音と悪意にまみれて、わたしはいま、どこまで孤独?

 だれか教えろ。わたしを、納得させろ。

 コーデリアの、うつむく目に力が帯びる。そして顔をあげる。

 そのとてつもない気迫とまがまがしさに、艦の通路を埋める卿団員たちは震撼し、実際に身体が震えている者も少なくなかった。


 数十分前、飛行中の艦内の医務室で目を覚ましたコーデリアが自然に求めたもの、それはロー・エアハルトの声であり、身体であり、顔だった。

 いままで、当然のようにそばにいた、ロー。

 寝起きのすがたが恥ずかしくて、自分はいつも視線をそらした。でもそんな恥ずかしさも楽しい。だからいつも、ほほえみながら目をふせた。

 ローは、そんなわたしの、心の奥の、さらに奥の、わたしにさえ手の届かないところも知り尽くしている。わたしの心が、そう確信している。

 煌々と照らす白光が、コーデリアの目覚めの瞳に、とげとげしく刺さった。とたんに、いいしれない不快な感情が、コーデリアの胸に広がった。

 なぜ不快なのか、その理由を少しでも探ることを、彼女の身体はかたくなに拒んでいた。

 コーデリアは顔をしかめ、ベッドから半身を起こした。

 殺風景な部屋。消毒液の臭い。そして医務室のドアの横には、ローには似ても似つかない、黒い服とマントをまとった、無骨な男の立ち姿。

 その男が、近づいてくる。わたしが目覚めたことに気づいて、近づいてくる、なにか醜悪なものが。

 コーデリアは顔をしかめ、無意識に手で制止するジェスチャーをして、ベッドから起き上がった。

 ぽかんとして、そばに立ちつくす男。屈強な卿団員であるかれはこのとき、警戒をおこたった。

 感情と肉体のつながり、のようなものを、なぜかかすかにいぶかしく感じながら、コーデリアは男の腰の剣をたちまち引き抜き、心臓をつらぬいた。

 自分が不快だから剣に手がいったのか、あるいは別のなにかがそうさせたのか、と、コーデリアは血だまりを広げる男を見おろし、問いにもならない問いにひたった。

 しかし、ここにローがいないということは、はっきりしている。そしてサヴァンも、レダも。

 そう思った瞬間、コーデリアは、わけもわからず憤怒した。まっすぐに目をカッと見開き、激しい怒りに身体が天まで伸びていくようだった。

 やがてとほうもない怒りがおさまると、コーデリアは、しとやかに澄んだ。


 殺した卿団員の剣を手にして医務室を出たコーデリアを止められるものは、なにもなかった。剣も銃も言葉も通用しなかった。艦の通路から通路へ、死体は散らばっていった。

 コーデリアは終始、口もとから笑みを絶やすことはなかった。


 ──不思議ね。

 白いような心で、再び、コーデリアは思った。

 わたしはいま、たぶんだれでもない。ここは、どこでもない。わたしのものだったはずの心が、身体を離れている。なのにこの身体は、剣を捨てない。

 たぶんなにか、業のようなものを、わたしの身体はかかえているんだろう。

 でもそんなことはどうでもいい。あなたたち、倒れるのはやめてよ。わたし、もうその音を聴きたくない。


 ゆっくりと近づいてくるブーツの音に、コーデリアの心は引き戻された。心が戻ったのが、良いことなのか悪いことなのか、コーデリアにはわからなかった。ただ、焼けるようないら立ちが、良いも悪いもなく駆けめぐるのを、コーデリアはいぶかしく感じた。そのいぶかしさと平行の線上に、ブーツの靴音があるような気がした。

「で、きみは、どうしたいんだい?」

 通路をふさぐ卿団員たちの前に出た、靴音の主、その若い男の声がする。「死にたいのかい?」

 コーデリアは、苛烈な視線をルケ・ルクスに向けた。もう声も音も聴きたくない。特に、この男のものは。

 とたんに激甚な殺気が、コーデリアの全身からほとばしった。

 ──死んでください。

 コーデリアの澄んだ心の中の、真水に落ちた熱い石は、騒いだ。

 ──死んでください、あなた。

 卿団員たちが、殺気にあてられて次々に倒れていく。その音が、コーデリアに、だれのものかもわからない狂気の光景を、おぼろげに湧き起こさせる。夜の大地。散らばる白い死体、黒い死体。

 もはやコーデリアには、前も後ろも、右も左もなかった。時も空間も、どこかへいった。ただ名づけようもない、理解できない激情の渦に、コーデリアはとらわれた。

「せいぜい生きるか、」ルケは、コーデリアの殺気にも平然としていった。「それとも、いま死ぬか、好きなほうを選べよ」

 コーデリアの脳裏に、遠く、かすかに、灯って消える顔があった。

 瞬間、ガクッと膝から力が抜け、瞳から色が消え、弱々しい音を立ててコーデリアは倒れた。

「こりゃすごい……」

 ルケは、部下たちのおののきや、無数の死体をものともせず、目を輝かせてコーデリアを見おろした。

「この女、ひょっとしたら、ケンサブルを超えるかもだな。……ハハ!」

 アハハハハハ!

 ルケの高い笑い声は、鳴り響く警報の間をくぐって、艦内を一線に通り抜けるようだった。


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