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レガン戦記  作者: 高井楼
第二部
56/142

二つの戦線・5

 鼻歌が明るく部屋に響く。

 同時に、石の床を踏み鳴らす軽快な靴音がする。

 窓の外からは、軍用機のくぐもった飛行音がひっきりなしに聴こえてくる。

 白い調度類に囲まれた、豪華な部屋だ。

 高い天井に届きそうな巨大な窓は、ぶ厚い花柄のカーテンが引かれ、シャンデリアやその他の照明がまぶしく灯り、上品な花の香がたちこめている。

「レザーン」

 母親が子を、あるいは姉が妹をたしなめるように、コーラが声をあげる。

 彼女の目の先には、丸テーブルから無造作にクッキーを手にして口に運び、わけもなく部屋を歩きまわるキュベルカの姿がある。

 鼻歌をうたいながらクッキーを食べ、ここちよくブーツを鳴らすキュベルカは、まるであふれる生気を発散させる愛らしい子供のようだ。少なくとも、コーラにはそう感じられた。いまも、いままでも。

「お行儀が悪いわよ」

 と、たしなめる声も、自然と丸みを帯びてしまう。もっと厳しく、と心ではわかっていても、とっさに出てくる声はどうしようもない。

 でもそんなもどかしさも、楽しい。母親の気持ちとは、きっとこれに近いものなのだろう、と、こんなときコーラはいつも思った。

 そしていつも、ふと遠い目になりかける。でも、いまは心を遠くに泳がせるひまはない。

 ──ああ、レザーン。

 コーラは心で嘆いた。

 教えてちょうだい。キュベルカ様は、本当に、これでいいの?

「ねえ、コーラ」

 キュベルカが、いやレザーンが、口を開いた。男か女かはっきりしない声音は、キュベルカそのものだ。でも口調は少女だった。

「このお部屋、すてきね。昔のあたしの部屋を思い出しちゃう。ここはほーんとにつまんないとこだけど、このお部屋は好き。ここだけ持って帰りたい」

「レザーン」

 コーラがすこし強い口調でたしなめる。だが、レザーンはいっこうに気にしない様子で、あいかわらずクッキーを口にやりながら、部屋の中をうろうろと歩きまわっている。

 ここはラメクのコーエン公の居城の、貴賓室の一つだ。キュベルカの宿泊用にしつらえられたもので、ついさきほどまで軍議をしていた広間からそう遠くないところにある。

 軍議が終わると、二人はまっすぐこの部屋に戻り、ドアを閉めたとたん、キュベルカはレザーンになった。

 栄光ある静導士団の首席隊長の身に、ふたつの人格が同居していることを知る者は、ほとんどいない。

 もちろん、コーラはその数少ないうちの一人だ。

 アイゼン公家の分家筋だったコーラは、キュベルカと幼馴染で、コーラのほうがいくつか年上だ。だから子供のころは、いつも姉のようにふるまっていた。

 キュベルカに対しても、レザーンに対しても。

 公家廃絶につながったおそろしい事件が起こり、数多くの者の血が流され、キュベルカのまわりから人がいなくなっても、コーラだけは、かたくなに味方でありつづけたのだった。

「あたしが皇帝になったらねぇ、」

 と、レザーンが唐突に口にした。

「このお城、あたしの離宮にする。それで、全部このお部屋みたいに変えちゃう」

「レザーン」コーラは、今度は真剣にたしなめる声でいった。「口が過ぎますよ」

 レザーンはチラッとコーラに機嫌をうかがうような目をやって、手にしていたクッキーを一気に口に入れると、勢いよくそれを噛み砕き、飲みこんだ。そして、すっとコーラのもとに歩いていった。

「ねえ、コーラ」

 レザーンはコーラの目を、まるで取り込むかのように強く見つめた。

「明日は、コーラにまかせて大丈夫だよね?」

 クッキーの甘い香りがする。

 コーラは、薄くほほ笑んだ。

「まかせなさい、レザーン。全部うまくいくわ」

 レザーンは笑顔をはじけさせ、ひらりとコーラに背を向けると、新しいクッキーを取りにテーブルに駆けていった。

 コーラはそのレザーンの華奢な肩を見ながら、とたんに後悔の念にとらわれた。

 またとっさに言葉が、出てしまった。

 愛するレザーン。キュベルカ。

 わたしはもう、あなたの涙を、あなたの苦しみにゆがんだ顔を、決して見たくはない。でも、あなたの狂気は、受け入れる。あなたの狂気は、あなたが死ぬまで、わたしが受け入れる。

 コーラの強いまなざしが、レザーンに向けられた。レザーンの背中は、コーラの視線を浴びて、なお軽やかだった。

 ──コーエン公、か。

 ふいに、コーラの胸によぎるものがあった。

 このラメクに来るまでは、かれの武勇は、ただの伝聞でしかなかった。でもさきほどのメキリへの殺気を見るまでもなく、並の剣士ではないことは、対面して一目でわかった。副団長メイナードと匹敵するというトルゼン公アーシュラと、ならんで称されるだけのことはある。

 ──でも、あとには引けない。

 コーラの目には、強い決意の色があった。

 後退はありえない。地獄から生きのびて、ここまできたわたしたちに、あるのは新しい道だけ。汚物にまみれた後ろへ、下がることは許されない。たとえこの道の先に、さらなる汚物があろうとも、それを越え、またさらに越えて、わたしたちは前進する。それが、わたしたちだ。

 コーラは、足を踏みだした。前方では、レザーンが紅茶を飲み、クッキーでもやもやする胸をさすっている。

 コーラはレザーンの背中にたどりつくと、ほっと安堵感をおぼえた。そしてせつない目をレザーンの首元にやりながら、その背中に、あたたかい手を触れた。


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