レンの狂乱・3
──いったい、なんだというのだ、この女?
剣を構えたピットは、眉をきつく寄せて、心の中で毒づいた。
部下の団員たちの激しい動揺が背中に伝わってくる。
当然だ、とピットは思った。
『知事』の中でも名声の高い、あのコーデリア・ベリが、一閃の元に味方全員を斬り捨てたのだから。その乱心は、あまりにも不可解だ。
──しかし。
ピットは、無意識に剣の柄を握りなおした。
それ以上に問題なのは、おれでさえ、コーデリアの剣が見えなかったということだ。
あの糸のような気配が、コーデリアの剣技によるもので、彼女の仲間たちがわけもわからないうちに、その剣に断ち切られたのは、ここにいるだれの目にもあきらかだ。
さきほど対面した印象では、こんなとてつもない剣技を持っているとは思えなかった。せいぜい、おれと同格という程度のはずだったのに。
突然、ピットの背後で奇声がした。
卿団員の一人が、恐慌に駆られて、コーデリアに飛びかかっていく。しかしいくらも距離を詰めないうちに、腰から一刀両断された身体が、地面に落ちた。コーデリアはすこしも動いた様子もなく、うっすらとほほ笑んだまま、うつむいていた。
ピットは、恐怖を覚えた。
エルフマン隊の卿団員は、全員選びぬかれた猛者だ。錯乱などありえない。しかし現にこうして、一人は正気を失った。
それほどまで、いま、このコーデリアという女は怖ろしい。
ピットは、ほとんど死を覚悟していた。背後の部下たちは、恐怖で自制が効かず、無謀な突撃をかけようとしている。
それを止める声すら、おれには出せない。おれは自分の死を、ぼう然と待ち構える以外、なにもできない。
そのとき、足音がした。
だれかがゆっくりと、横から近づいてくる。
コーデリアは振り向かない。しかし足音を強く意識していることが、ピットにはわかった。そのピットもまた、予期せぬ闖入者の正体を気配で察して、さらなる混乱におちいった。
月明かりのもと、姿を現したのはひとりの男だった。
瞬間、また糸のような気配が場をつらぬいた。
しかしそのコーデリアの鮮烈な剣技は、男の身体を断ち切ることはなかった。
紅いローブに紅いケープをはおった、銀髪の若い男。
アイザレン中枢卿団・第三隊長ルケ・ルクスは、じっとコーデリアの横顔を見つめた。コーデリアも、なにかに取りつかれたような顔を、ルケに向けた。
「黒い黒い黒い塔」
ルケは手ですばやく印を結び、文言をとなえながら、コーデリアのほうに向かっていった。
コーデリアの見えない一閃が、そのルケに何度も浴びせられる。そのたびに、ルケの身体は煙のように揺らいだ。
「黒い黒い塔、黒い塔。火の目、火の口、火の刻に入り、汝、赤子となり、さなぎとなり、夢を見る」
コーデリアが、すさまじい形相でルケをにらみつけた。
「黒い黒いつづれ織りの奥に分け入り」ルケの声がつづく。
「さらにまた黒い奥に分け入り、汝は憩う。月の子供が十一人、汝のまわりを踊り、踊る。おどり、おどる。オドリ、オドル。オドリー、オドルー」
言葉の意味がとりはらわれる。あとはひたすら、オドリー、オドルーという声が繰りかえされた。
強烈な精神攻撃だった。ピットの視界も揺らいでいた。部下の何人かは、耐えきれずに昏倒していた。
やがて、コーデリアの身体も、ふっと前に倒れこんだ。
それを抱きとめたルケは声を止め、息をついた。
ピットは悪夢を払うように頭を横に振って、よろめく足取りでルケのもとまで歩いていった。
「いい女だなあ」と、ルケは腕の中のコーデリアに顔を近づけながら、軽い調子でいった。
「それに、縁もある。この女は、ぼくが預かるよ」
なぜここに、と口にしかけて、ピットはハッと目を見開いた。
「ルクス殿、血が!」
「ケイによろしくね」
なんでもないようにそういって、ピットを振り向いたルケの顔は、血まみれだった。目、鼻、口から血の筋が垂れ、さらにその筋を伝って、鮮血がとめどなく流れ落ち、あごの先からしたたっていた。
にもかかわらず、ルケの表情は不気味な喜色に満ちていた。その異様さに、ピットは声を失い、開いた口を閉じることもできなかった。
「ちょっと、本気を出しちゃったな」
ルケはそうつぶやきながら、コーデリアを抱きかかえて、ふたたび闇の中へと歩き去っていった。ピットは言葉を失い、その背中を見つめるしかなかった。
この日、リターグは国内の『知事』のエース級を全員失い、さらにまた、その全員を合わせても足りないほど貴重なコーデリア・ベリをも失うことになった。
コーデリアの数奇な運命は、ここから始まったのである。




