予兆・3
──こうして、おだやかな寝顔を見ていると、ますますわからなくなる。
椅子に座る一人の男が、傍のベッドで寝ている幼い少女の顔をながめながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
アイザレンの第二都市カイトレイナから、首都ケーメイに向かう、飛行艦の医務室だ。
大柄な中年の男で、ぼっさりとした長髪にうす汚れたマント。
うだつのあがらない剣闘士という印象だが、中枢卿団の、団長、副団長に次ぐ筆頭隊長と知れば、だれもが一目置く。名前をマッキーバといった。
カイトレイナでの卿団員暗殺事件を調査していたマッキーバは、昨日の晩、その犯人と思われる者、いま目の前にしている、このエンディウッケという少女をつかまえたのだ。
しかし今朝になって話をしてみれば、彼女はすこし風変わりではあっても、なんとも無邪気な子供だった。
もちろんその実力は、前夜に身をもって知っているが、むしろこのエンディウッケを取り戻そうとやってきた、『ワニ』と『学者』の二人組のほうが、よっぽど暗殺犯らしい。
マッキーバは、今日の午前中の、その二人組との戦闘を思い起こして、苦い顔になった。
二人の強烈な精神攻撃をうけたマッキーバを、救ったのはエンディウッケだった。それでも、かれらは執拗だった。もしあのとき、副団長が助けに入らなければ、いまごろは自分もエンディウッケも、生きていなかったにちがいない。
マッキーバは壁の時計に目をやった。もうすぐ夜の六時。
二人組との戦いで昏倒したエンディウッケは、飛行艦が離陸してからここまで、眠りつづけている。
ケーメイに着いたら、起きてくれるといいが、とマッキーバは、数分前の団長オービットとの会話を思いかえした。
「ルキフォンスの復帰は、しばらくかかる」オービットはいった。「彼女の艦隊が退くのは痛いが、当面は、ケンサブルのほうが問題だ。さっき念を押しておいたが、どうも素直に聞くとは思えん」
「まあ、そうでしょうね」とマッキーバは気のない返事をした。
「そこでマッキーバ、おまえにはルキフォンスに替わって、西部戦線に行ってもらう」
「それは、かまいませんが」
と、マッキーバは答えてから、
「……団長、もしいまから連れていく子が、暗殺犯だとわかったら、あんた、どうするつもりだ?」
「おれは、そのエンディウッケという子を、見てみたい」オービットは質問には答えずにいった。「おまえが、そこまで入れこむくらいだからな」
通信機のディスプレイに映るオービットの、「赤目」といわれる紅色の瞳からは、なんの感情もうかがえなかった。
そんなことを思いかえす間にも、マッキーバの視線はエンディウッケの寝顔にむけられていた。
いびつに切りそろえた前髪、長いまつ毛。
今朝の、豪快に朝食を食べるしぐさ、表情。
二人組と対峙したときの、おれのマントにしがみついて身体を震わせていた、その様子。
おれが初めて名前を呼んだときの、本当にうれしそうな笑顔、笑い声……
マッキーバは思わずうつむくと、憂いをはらいのけるように、首を横に振った。
中枢卿団本部のシャトル・ポートに降り立ったときには、エンディウッケは目を覚ましていた。
ケーメイの地に着いたその足で、エンディウッケはマッキーバに連れられて、団長の執務室にむかうことになった。
卿団本部は、ケーメイ郊外の山を均したところにあり、広大な敷地を堅固な壁で囲んで、内部にさまざまな施設を置いていた。中央には迎賓館をかねた大屋敷があり、団長の執務室はその中にあった。
エンディウッケは、マッキーバの後ろをとぼとぼとついていきながら、ほとんど口を開かなかった。マッキーバは、何度かその暗い面持ちに目をやり、それでも声をかけずに歩きつづけた。
実際、どう声をかけていいかわからない。
卿団の裁量は、すべて団長の手にゆだねられている。団長がエンディウッケになにを見て、どう裁定するか、おれには知るよしもない。
──おれは、どうしたらいいんだ?
そんな思いがわいてくること自体が不思議だが、でもこうして、気が抜けたように後ろをついてくる、エンディウッケがいるのだ。
髪はぼさぼさで、昨日の晩から着ているドレス服も、すっかりくたびれている。もちろん、身も心も疲れきっている。そんなひとりの少女。おれは、どうしたらいい?
大屋敷の二階に上がり、奥まった執務室のドアを開けて中に入っても、エンディウッケのうつろな表情は変わらなかった。
──まだ夢を見ているみたい。
と、エンディウッケは思っていた。
だって、目を覚ましたらケーメイにいるなんて、とても信じられない。一生出られないと思っていたあのカイトレイナから、こんなに簡単に出られたなんて。
エンディウッケは、マッキーバにうながされて、前に進んだ。
正面のデスクにいる、白い顔の男の、強い視線を感じる。それでも、エンディウッケの心は遠かった。
カイトレイナでの嫌な毎日。ひとりぼっちの生活。たまにくる『ワニ』と『学者』のいうとおりにしていれば、なんでも好きなことができたけど、あの二人は大嫌い。
あたしは、友だちがほしかった。あたしの名前を呼んでくれて、あたしもその子の名前を呼びかえして、そうしていろいろなお話ができる友だち。
街を歩いていると、そんな楽しそうな友だち同士ばっかり目に入ってくる。仲間に入れてもらいたくて、なんども近寄っていこうとして、いつもできなかった。
だからせめて、だれかに名前を呼んでもらいたかった。
友だちじゃなくていい。だれでもいいから、エンディウッケ、って呼びかけてほしかった。
マッキーバがデスクの前で立ちどまり、エンディウッケもそれにならって、横に立ってうつむいた。
すこし怖い。
エンディウッケは思わずマッキーバのマントに手を伸ばしかけて、それをぐっと押しとどめた。
〝おれの仕事は、おまえを、ケーメイに連れていくことだ〟
と、朝に冷たい声でいったマッキーバのことを思い出す。
そう、あたしはマッキーバの仲間をいっぱい殺した。だからマッキーバは、あたしをつかまえたんだ。マッキーバはなにもいわないけど、あたしにはわかってる。だって、あたしは……
「顔をあげろ、小娘」
突然男の声がして、エンディウッケはハッとなった。そして、にわかに怒りがこみ上げた。
──小娘?
胸に燃えあがるものがある。みぞおちに自然と力が入る。
エンディウッケはキッと顔をあげ、目の前の男をにらみつけた。それが中枢卿団の団長だということは、マッキーバに聞かされていた。
──だからなに?
エンディウッケは、オービットの紅い目を堂々と見返した。
その「小娘」に、あんたの部下は、何人やられた?
そっと肩に手を置かれ、エンディウッケはふと我にかえった。
マッキーバのぶ厚い手。
自分をかかえて逃げてくれた人の手が、いま肩の上であたたかい。
すっと怒りがやわらぎ、エンディウッケはマッキーバを見あげた。上からにらむようなマッキーバの視線は、冷たいようだけど、そうじゃない。あたしを心配してくれている。
エンディウッケは正面に向きなおり、またうつむいた。
「カイトレイナで、わが団員たちを殺したのは、きさまか、小娘?」
オービットの厳しい声が響く。エンディウッケはうつむいたまま、唇をかみしめ、こくりとうなずいた。マッキーバの手が、まだ肩の上に置かれている。
「だれにいわれた?」
エンディウッケは弱々しく首を横に振った。
「ラジャ・メッツァ、という名前を、知っているか、小娘?」
エンディウッケはまた首を横に振った。
「まこと、ノラ犬同然よ」
オービットがいい放った。「こんなまぬけの、薄汚い犬に討たれたとあっては、卿団の名折れもはなはだしい」
「……あたしは、」
ふと、エンディウッケがふりしぼるようにいった。
「なんだ、小娘?」
「あたしは、小娘じゃない」怒りの息を漏らすと、エンディウッケは顔をあげ、またオービットをにらみつけた。
「あたしは、小娘じゃない! ノラ犬じゃない! あたしはエンディウッケ。あたしの名前は、エンディウッケだ!」
エンディウッケの長い黒髪が、ふわっと逆立った。同時に、まがまがしい気があたりに広がっていく。常人ならば卒倒するほどの、強烈な殺気だった。
エンディウッケ、落ち着け、落ち着くんだ、エンディウッケ! マッキーバの声が聴こえる。その手が自分の両肩をおさえている。白い顔の男は、じっとあたしを見つめている。別にどうなったっていい。ただあたしはこいつを殺したい。……でも、マッキーバはなんて思うかな。やっぱりやだな、マッキーバに嫌われるのは。
両手の拳を握りしめ、オービットをにらんだまま、エンディウッケは殺気をおさめた。マッキーバの手が肩から離れる。エンディウッケはなにかせつないような気持ちにとらわれた。手を離さないで、マッキーバ。肩に置いてよ。
数瞬の沈黙。
エンディウッケは意地でもオービットから目をそむけず、オービットもまた、そんなエンディウッケに紅い目をじっとやっていた。
「いいだろう」
と、やがてオービットが口を開いた。
「マッキーバ、この子はおまえにあずける。西部戦線に連れていけ」
「なに?」マッキーバが驚きの声をあげた。
「嫌なら、監禁して尋問という手もあるが?」
マッキーバの目がけわしくなった。
「エンディウッケは子供だぞ? 子供を、戦場に連れていけというのか?」
「うちの隊長クラスを、簡単に討ち取れる子だ。そうでなくても、必ず、おまえの役に立つ」
「メッツァとの関係どころか、まだなんの素性もわかっていないんだぞ?」マッキーバはなおも詰め寄った。「団長、あんたエンディウッケに、なにを見た?」
オービットの口もとに、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。が、すぐに元の厳しい表情になると、上官らしい口調でいった。
「これ以上の問答は無用。マッキーバ飛行艦隊は、明朝までにベアトリスにむけて進発。ケンサブルと合流し、軍部とともにテッサを落とせ。エンディウッケの尋問はおまえにまかせる。もちろん、こちらでも調査をする」
きょとんとして自分を見あげるエンディウッケを、マッキーバは横目にしながら、なおしばらくオービットにけわしい顔をむけた。やがて、マッキーバは無言できびすを返すと、エンディウッケに声をかけて、出口に歩いていった。
エンディウッケはマッキーバの背中にぴったりと寄り添い、部屋を出る前に、ちらっとオービットを振りかえった。
二人が出ていくと、オービットはすこしの間、その出口のドアを見るともなく見つめた。そして、ふっとやるせないような笑みを浮かべ、短く息を吐いた。




