予兆・1
そこは豪華な応接間だった。
ぶ厚い絨毯が一面に敷かれ、壁には見事な額に入った絵がいくつも飾られ、夕暮れの陽が大窓から差しこんでいる。
部屋の中央には、ゆったりとした一人掛けの椅子がふたつと、丸テーブル。
そしていま、その椅子はふたつとも使用されていて、テーブルには冷めかけた紅茶のカップが置かれていた。
「それはつまり、」
と、片方の椅子に座る、白い詰襟の制服を着た若い男が、驚きの声をあげた。
「リディア殿下を、おとりにするということですか?」
「陽動、だ」
もう片方の椅子に座る、たっぷりとしたローブをまとった、長髪の初老の男が、訂正をうながすように答えた。「この作戦で襲撃犯を一網打尽にできれば、そちらとしても、後顧の憂いが断てると思うが?」
「リカルド閣下」制服の男があわてていった。「わたしは、リディア殿下をお守りするために、ここにいるんです。その殿下をおとりに使うなど、論外です」
「レダ殿は承知された」リカルドと呼ばれた男は、平然と答えた。
「レダがどういおうと」
と、レイ=ロード・サヴァンは、語気を強めた。「殿下を危険にはさらせません」
リカルドは言葉をかえさず、じっとサヴァンを見つめた。その目を見かえしながら、サヴァンは開いた口がふさがらない思いだった。
──よりによって、リディアを餌にして敵を釣るだと? それが、エントール皇国の枢軸をになう男のいうことか?
「閣下、第一あのシャトル・ポートの襲撃は、本当にリディア殿下を狙ったものなんですか? 閣下ではなく?」
とサヴァンは切り出しながら、ふと妙な感慨にふけった。
そう、このリカルド閣下とはじめて会ったのは、つい昨日のことなのだ。それが、もう長年言い争いをしてきたような気がする。
故郷のリターグの知事局で、なんの任務も与えられず、『知事』の落ちこぼれと周囲からさげすまれていた二年の日々がすでに懐かしい。
北のアイザレン帝国の侵攻をうけた、ナザン国王女リディアの亡命の護衛として、南のエントール皇国に向かわせられたのは、一週間前のことだ。
ところが空路で早々にアイザレンの襲撃を受け、なんとかエントール領内に入ってみれば、今度は公爵の殺人事件に巻きこまれるしまつだ。
そして昨日は、夜にようやくこのエントールの首都ラザレクに着いたと思えば、シャトル・ポートで、リカルド閣下と対面した直後に爆発騒動。
本当に怒涛の一週間だった。しかも、今日の昼は昼で……
「シャトル・ポートの襲撃は、まちがいなく、リディア殿下を狙ったものだよ、サヴァン殿」
サヴァンの問いをうけて、リカルドがおごそかに答えた。
「なぜなら、わたしを暗殺することなど不可能だというのは、敵もよくわかっているからね」
「ですが、」とサヴァンはさらにいった。「閣下はリディア殿下に、〝安心して過ごされるように〟と、つい数時間前にいわれたのですよ?」
女帝との謁見、という思ってもみなかった話を、今日の朝にもってきたのも、宮殿に自分たちを連れていったのも、リカルド閣下だ。
エントール皇国近衛静導士団・団長、リカルド・ジャケイ。おれからすれば、雲の上の人だ。リターグにいたころは、まさかそんな人とこんな言い争いをするはめになるとは、考えもしなかった。でも、どれだけ大人物でも、正さなければいけないことはある。宮殿に向かう車中で、リカルドはリディアに、安心するように、とたしかにいったのだ。それをどう転がせば、おとり作戦なんて話になるんだ。
「知ってのとおり」
リカルドは、サヴァンの批判を無視していった。
「ベアトリスが陥落したいま、戦況は、危急の様相を呈している。簡単にいえば、国内の問題に手をまわす余裕がない。つまり、この作戦をご承知いただけないのなら、殿下のお身の安全は保障できかねる状況になった、ということだ」
──そうきたか。
サヴァンは思わず顔をしかめそうになった。
すべての元凶は、レガン大陸の北を統べる大国、アイザレンだ。
東方のヴァキ砂漠に突如侵攻し、砂漠民の小国ナザンを攻め落とし、王女リディアはリターグへ、そしてエントールへと、亡命を余儀なくされた。
エントール皇国はリターグと軍事同盟を結び、アイザレンに宣戦布告したものの、リカルドのいうとおり、ここまでは劣勢を強いられている。砂漠の防衛拠点ハイドスメイと、西の海上要塞ベアトリスを相次いで落とされ、本土決戦は目の前に迫っている。
でも、それとこれとは話が別だ。こんな無茶な作戦を押しとおす理由にはならない。
「いまの閣下のお言葉は、」サヴァンは硬い声でいった。「わたしには、なにか脅しのように聞こえましたが」
「脅し?」
リカルドはわざとらしく首をかしげていった。
「いや、これでも譲歩しているのだよ、サヴァン殿。というのも、本日の帝との会談の際の、レダ殿の無礼、帝には痛くご不興だ。リディア殿下をふくめ、全員即刻ラザレクから退去させよ、ときびしいお言葉があった。サヴァン殿はおぼえておられないようだが、そのお怒りもごもっともなこと。どうにか取り成しはしたものの、いつお気持ちが変わられるか、わかったものではないぞ」
──しまったな。
サヴァンは自分が急に弱気になっていくのを感じた。
つい数時間前のできごとが走馬灯のように駆けめぐる、はずが、リカルドのいったとおり、おぼえていない。
宮殿に到着して、謁見の間に入ったところまではおぼえているのに、そこから先は、なぜかすっかり記憶が抜けているのだ。
今いるこの離宮の、自分が泊まっている二階の貴賓室で目を覚ましたのが、つい三十分前のことだ。
ベッドの脇には、おれのパートナーにして、生粋のトラブル・メーカー、レダ・リュッケがいた。そのレダがいうには、どうやら自分は謁見の広間に立ちこめていた香にあたったという話だが、なんのことやらさっぱりだ。
しかし、その謁見の際に、レダがエントールの女帝を怒らせたのはたしからしい。レダはけろっとした顔でそれを告げたが、こちらがどう問いつめても、くわしい経緯は話そうとしなかった。
そのかわりにレダは、ベアトリスが陥落したことをおれに知らせ、それについて話し合おうとしていたところに、やってきたのがリカルド閣下だった。
そしておれは、頭の混乱さめやらないまま、こうして一階の応接室に連れていかれ、現在、閣下からとんでもない計画を持ちかけられているというわけだ。
でも、と、サヴァンは、ある心の引っかかりに、ふと意識を向けた。それは、判明したシャトル・ポートの襲撃犯の名前だ。
ヴァン・ビューレン。
襲撃したのはかれの部下らしいが、それよりも、なぜかおれは、この名前が気になる。会ったこともないのに、自分と深くかかわっている感じがする。妙な気分だ。
「サヴァン殿」
リカルドに呼びかけられて、サヴァンは我にかえった。
「どうされるおつもりかな?」
レダ殿の無礼、というリカルドの言葉が、頭に重く響く。とてもその内容をたずねる気にはなれない。サヴァンはリカルドから視線をそらし、考えこんだ。
「……では、リディア殿下に、お聞きすることにします」
少しして、サヴァンはしぶしぶながらそう答えた。
「作戦の内容をお伝えして、承諾されるもされないも、殿下のお心のままに」
「結構」
リカルドは即座に立ちあがった。「わたしは失礼する。どちらにされるか決まり次第、すぐに連絡してほしい。通信機の番号は、レダ殿がご存じだ」
壁にかかった時計が、五時三十分の針を打った。




