海上要塞ベアトリスの死闘・5
振り下ろされた槍を、自然と受けるようなやわらかさで、その黒い棍棒は差し出された。そして、イサギの刃を受けながら棍棒は、時間を超越したようにゆるやかに、それでいてたしかに、ルキフォンスの首に触れる手前で、刃を止めた。
「すまんなあ」
ケンサブルは、強く悔いる声でいった。「遅れてしまったなあ」
ルキフォンスの身体が前に倒れかかるのを、ケンサブルは抱きとめ、そっと背中を上にしたまま寝かせると、鷹揚に立ちあがり、メイナードに顔を向けた。
「死んでもらうよ」
ケンサブルのその声は、異様なほど厳しく、抗いがたい響きをもっていた。
メイナードはピクリと顔をしかめると、瞬時にうしろに退いた。
目の前の地面に、さきほどの黒い棍棒が突き刺さった。
──考えるまでもない。
メイナードはケンサブルをにらみながら思った。
ユルトは死んだ。当然だ。わたしのせいで、このケンサブルと一騎打ちにさせてしまったのだから。
でも、もう後悔はない。怒りも、悲しみも、苦しみもない。あるのは、恐怖。このイサギを持つ手が、震える? そこまでわたしは、今この男を恐れている? かれの剣技、いや、かれの「在るところ」を、わたしは理解しているはずだ。十分に戦える。いつもなら。でも今は……今は?
メイナードは、イサギを下段にかまえ、万全の態勢で、目を閉じた。
空や海の砲声、戦闘機の飛行音、潮騒。機銃の乾いた音がかすかにする。遠い海鳥の鳴き声は、幻か。匂い。身体にこびりついた血の臭い。潮の、地面の石の、硝煙の、自分の汗の、匂い。重い海風。髪のそよぎ。体温。闇。光。メイナードの中で、ふいにすべてが渾然一体となる。
無意識に、メイナードの腕が上がった。槍の柄に、刃が当たる音。だが、たしかにケンサブルの刀を受けたはずが、まるで力が抜けるように、イサギがどんどん下げられていく。抵抗感が、まったくない。
メイナードは目を開けてうしろに跳びすさると、渾身の力で、身体ごとイサギを一回転させた。
強烈な衝撃波が、爆音とともに、一帯の地面を吹き飛ばした。
──これは、駄目だ。
メイナードは逃げながら唇をかみしめた。
いまは勝てない。わたしとあの男は、同質だ。だから、わたしはためらわずに、逃げるという決断ができる。逆の立場なら、あの男もきっとそうしている。
──痛み分けとも、いえない。
と、メイナードは、旗艦に戻る飛行艇の中で考えた。
ユルトは死んだ。でもルキフォンスは、そう簡単には死なない。あのくらいの傷なら、たぶん復帰してくるだろう。
そしてベアトリスが陥落したいま、エントールは本土での全面戦争が現実味を帯び、そうでなくても国内は、ことに肝心の聖都ラザレクは、混迷をきわめている。
リカルドひとりでは、もう制御しきれないのではないだろうか。ひしめく政敵も、皇帝陛下も。
ぐったりと座席にもたれかかったメイナードは、疲労に耐えきれずに目を閉じた。そのまま底深いめまいをおぼえるメイナードを乗せて、飛行艇は敵の砲撃をくぐりぬけ、旗艦に収容されていった。
がれきの山から起き上がったケンサブルは、後ろのルキフォンスのほうを振り向いた。
とっさにかがみこんで壁となったおかげで、ルキフォンスはメイナードの最後の攻撃にさらされず、なんとかその場に倒れたままでいる。
といっても、危険な状態にはちがいない。
上空から味方の飛行艇が近づいてくる音がする。
──死にはしないが、復帰にはしばらくかかるだろう。
ケンサブルはけわしい顔で、ルキフォンスの、無数の剣先が突き刺さった背中を見下ろした。
自分や、ほかの隊長たちと違い、ルキフォンスの身体は、あまりタフではない。ここにきてルキフォンスの艦隊を長く欠くのは、エントールへの進攻に大きく影響するだろう。
──だがいまのおれには、国と国の争いなど、どうでもいい。
飛行艇が着陸し、卿団員たちが飛びだしてくる。
ケンサブルは、メイナードが逃げた方向に顔を向けた。
「仇は必ず取るよ、ルキフォンス」
口を切ったのか、血の味がする。
それを勢いよく吐き出すと、ケンサブルは急ぎ足で飛行艇に向かっていった。
すでにアイザレン海軍の艦隊が、沿岸にせまっていた。ベアトリス上空の制空権も、アイザレン軍が掌握していた。
二日に渡ったベアトリス攻防戦は、こうして終わりをむかえたのだった。
*
歌がうたわれている。
言葉がつむがれている。
歌も言葉も、わたしの口が発している。
これは、わたしたちの世界を超えた、なにものかに向けた歌、そして言葉。
わたしはそれを理解している。
わたしを守り、取り巻く戦士たちも、理解している。
勇ましく気高い戦士たちの、剣と剣のまじわる音や怒号、叫びが、見晴るかす大地に広がりわたっている。
その間にも、わたしは歌い、言葉をつむぎ、かれらは声を張り上げ、斬りあい、ある者は倒れ、ある者は立ちつづける。
戦うべくして戦い、流れるべくして流れる血。
それは、わたしもかれらもわかっている。
もう長い長い間、わたしたちはこうして、この身を捧げつづけてきたのだから。
なのに、この胸の痛みは、とめどない涙は、なぜ?
だれか教えて。だれか、それを……
目を覚ましたリディアのほほからは、ひとすじの涙が伝っていた。いま観た、騒がしくも静かだった夢の名残が、全身に広がり、リディアはしばらくぼんやりと天井を見つめた。
わけのわからない夢。でも、ただの夢とは思えない。
はるかな未来と、はるかな過去がひとつに連なる、そんな重苦しい円環のような、この感覚。
リディアはふいに、なにか閉じこめられているような息苦しさを感じ、ベッドから半身を起こした。
ここは、離宮の貴賓室の寝室だ。夕暮れの、赤い陽が窓辺に降りかかっている。
──わたしは、なんで寝ていたのかしら。
リディアは記憶をたどった。
そう、謁見だ。皇帝との謁見。あのおぞましい広間の光景は、まざまざとこの目に焼き付いている。わたしはサヴァンやリカルドさんと、ひざをついて、拝謁した。そして、そう、レダさんが皇帝のお怒りをかって、リカルドさんが止めに入って、それから……それから、どうなった?
リディアは目をきつくつむった。
だめだ、覚えていない。そこから先は、いくら頭をふりしぼっても、思い出せない。このところ、わたしは記憶をなくしてばかりだ。ナザンからリターグまでのことも、リターグからユーゼン公領についたときも。
リディアは悲しげに目を開けた。
──でも、逆に思い出したこともある。
リディアは気を取りなおすと、ベッドの端に腰かけて、閉じたひざに両手をつき、うつむいた。
『日に立つ者』。
皇帝は、わたしのことをそう呼んだ。わたしはどこかで、その言葉を聞いたことがある気がした。
いまは、はっきり思い出せる。あのマッキーバという人だ。ナザンの駐機場で、あの人は、たしかにわたしをそう呼んだ。どういうこと? なぜエントールの皇帝と、アイザレンの中枢卿が、わたしをそんな呼び方で呼んだのだろう?
リディアは、思案にもならない思案に暮れかけた。
そのとき、寝室のドアが開いて、顔をあげたリディアの目に、見なれた者の姿が映った。
「ベアトリスが落ちたぞ」
レダ・リュッケは開口一番、あっけらかんとそういった。
「いまから、えーと、三時間くらい前だ。あと、シャトル・ポートであたしたちを襲った奴の正体がわかった。で、今後について、いまサヴァンとリカルドが協議してる」
「そ、そうですか」
リディアはレダの早口にとまどいながら答え、いいにくそうな調子でつづけた。「あ、あの、レダさん。謁見のことなんですけれど……」
「楽しかったな!」レダがすぐさまいった。
「いえ、あの」リディアは恥ずかしげにうつむいた。「わたくし、途中から記憶がなくて……」
「ああなんだ、気にすることないぞ」レダはニヤッと笑っていった。「あの変な香にあてられたんだ。サヴァンなんか、謁見したこと自体忘れてるぞ。あいつの今後が心配だな!」
「あの、わたくしたち、皇帝になにか大変な無礼をしてしまったのでは?」
リディアは記憶を頼りに、おそるおそるレダにたずねた。
「どこまで覚えてるんだ?」
「その、リカルドさんがレダさんをかばったところまでは」
「ほお、そこまで覚えてるか。さすがだな」レダはじっとリディアを見つめてそういってから、「まあ、その話はあとだ」と片手を振った。
「それより、あたしは腹が減った。はやく着替えろ。食堂に行くぞ!」
「わたくしは、あまり物を食べる気分ではないのですが……」遠慮がちにリディアはいった。
「食べられるときに食べたほうがいいぞ」
と、レダはいつもの不敵な笑みを浮かべていった。
「おまえも、ナザンの戦士の本領を、発揮することになるかもだからな」
「それは、どういうことでしょう?」リディアは目を丸くした。
「あたしは見てみたいけどな。ナザン王に仕込まれた、おまえの剣技を」
レダは軽く答えをはぐらかすと、リディアに再度着がえをうながし、部屋を出ていった。
勢いよくドアが閉められ、リディアはすこしの間、ぽかんとそちらを見つめていたが、やがて、無意識に窓のほうに顔を向けた。
窓の外は、塗りこめられたような、見事な赤い夕焼けが、空一面に広がっていた。
リディアは恍惚として、その赤い空を、いつまでも見つめつづけた。
(第一部・了)




