女帝リリィ・エントール・5
──皇帝リリィ・エントールは、異能者だったのか。
それも、生半可な力ではない。攻撃を受けたら、あんな風に、と、サヴァンはリカルドに目をやった。
剣聖リカルド・ジャケイですら、ローブは焼かれ、口の端から、血の糸を垂らす。
「陛下にはなにとぞ」と、その無残な姿のリカルドが、頭を下げていった。「なにとぞ、ご恩情たまわりますよう、お願い申しあげます」
リカルドは強烈な衝撃波を、まともに浴びたにちがいない、とサヴァンは考えた。離れたところにいる自分の身体が、チリチリ痛むくらいだ。その威力はとてつもない。
サヴァンはリディアに顔を向けた。リディアはなんとか体勢をたもっているが、こみ上げる吐き気を必死で耐えるような表情をしている。
まいったな、と顔を戻して、サヴァンはかすかに眉を寄せた。
皇帝その人が、こんな力を持っているとは、夢にも思わなかった。そしてその皇帝はいま、まちがいなく、とてもお怒りだ。もしまたリカルドが攻撃を受けて、かれが昏倒でもしたら、おれはいったい、どうすればいいんだ?
「リカルド、下がりおれ」
腕をおろした女帝が、ひややかにいった。
リカルドはすこしの間ためらったが、やがて頭を下げた格好で横に移動し、片膝をついた姿勢に戻った。
いまや女帝とレダの間には、なんの障壁もない。
見下ろし、見上げる、切れるような緊張が、サヴァンの胸を突いた。
とたんに、さっと女帝の腕がレダにむけられ、ドン! という轟音と爆風があがった。
今度はリカルドもかばう間がなかった。
あまりにことに、サヴァンは息が止まりそうになった。
まずい、全力で守らなければ。だれを? もちろん、いまは皇帝のほうを、だ。
仁王立ちのレダの顔からは、いつもの笑みが消えていた。皇帝の攻撃をまともに受けたにもかかわらず、表情以外はまったく変わらない。スカートと詰襟の礼服も、汚れひとつない。皇帝が力を加減したこともあるだろう。でもそれ以上に、レダの力によるところが大きい。
「レダ・リュッケとやら」
やがて、女帝の声が響いた。
「そなた、ただの道化ではないな。なぜ、わらわを挑発する」
「道化とはよくいった」
そのレダの声に、サヴァンは驚いて、思わず目を見開いた。ふだんとはまったくちがう、圧倒的な気迫と威厳が、そこにはこめられていた。リカルドもハッとした顔をレダにむけている。
「化けるは、わが筋道。われはその途上にあり」
レダの声がつづく。
「しこうしてわれ、下人の息かかるをいさぎよしとせず。されば卑賤の汝、とこしえの安らぎとなりて、わが門をくぐるがよい」
なにが起ころうとしているのか、サヴァンにはわからなかった。ただ、なにかとんでもないことが起ころうとしているのははっきりしていた。
すでに、レダは髪を逆立て、その気迫は真空のようにとぎすまされ、広がりつつあり、周囲の淫蕩にふける男女たちの気を失わせている。
女帝はさすがになおも威厳をたもっていたが、顔に細かいけいれんが走っている。
サヴァンはもちろん、リカルドすら、身体を動かせない。
それほど、レダ・リュッケの気迫は圧倒的だった。
サヴァンは驚愕を越えて、どこか遠い心で、レダの、肩を怒らせた立ち姿を見つめるしかなかった。
──音の破裂を聞く
サヴァンの横で、声がした。
──止むことのない、解放の旋律
そこには、立ちあがったリディアのすがたがあった。その顔は、どこかうつろだった。
リディアの腕が前に伸び、スッと横に動かされた。
「ゴスペル」
バアン! と、壮絶な衝撃が広間全体に渡り、ひしめいていた裸の者たちが、全員押しつぶされるように昏倒した。
その場で気を失わないでいるのは、サヴァン、リディア、レダ、リカルド、そしてかろうじて女帝リリィ・エントールの五人だけとなった。
「断罪するものは、あなたではない。今という、この時です」
まるで取りつかれたように、なかば白目をむいたリディアの口から、レダにむけて言葉が発せられる。
「断罪されるは、われではない。今という、この時だ」
目をおそろしいほどに光らせたレダが応じた。
「あなたの罪は、あなたであること」
「われの幸は、われであること」レダの手のひらがリディアにむけられた。
「だからわれは薄笑う。千の夜が千の日に返る、この酷薄な傾斜のただなかで」
そして手のひらがすばやく印を結ぶ。
「薄笑うわれの舌は、今も不断の明日を嘗め取っている」
ガクッと、リディアの身体が崩れた。あわてて抱きとめたサヴァンも、急速に意識を失いかけていた。
「なんということだ!」
リカルドが、絞り上げるような声でいった。
「リディア殿に、もしものことがあったら、どうするつもりだ!」
「ほお、ご主人様より、うら若いリディアが心配か? やだな、中年は」
そうからかうようにいったレダの声は、もういつもの調子に戻っていた。
リカルドが皇帝のほうを振り向くと、玉座からなだれ落ちそうな姿勢で、リリィ・エントールは気を失っていた。リカルドは、裸の男女が床一面に倒れている広間の様子も見渡し、またレダに顔を戻した。
「これが『知事』のやりかたか?」
けわしい目で、リカルドはいった。
「『知事』は関係ないぞ」と、レダは平然と答えた。
「あたしは、あたしのしたいようにするだけだ。おまえの主と同じようにな」
「ならば都合がよい」
リカルドの声に、不穏なものが帯びた。
「きさま個人の乱心とあれば、心おきなく、手打ちにしてくれる」
リカルドの身体から、たちまち、おぞましいほどの気が湧き立った。それはもうろうとしているサヴァンの背中に、ぞっと寒気をおぼえさせた。リディアを床に寝かせてから、なんとか片ひざをついてこらえていたサヴァンだったが、かれもまた、とうとう床に倒れこんだ。
「……ビューレンは、手ごわいぞ?」
と、レダがリカルドにいった。リカルドの気迫など、まったく問題にしていないようだった。
「メイナードもいないし、キュベルカもいない。おまえだけで、あいつと、『レトー』を相手にするのか?」
そう問われたリカルドは、眉をひそめてレダを見すえ、しばらく無言でいた。
「……手を貸す、というのか?」
やがてリカルドは口を開いた。もう強烈な気は、おさめつつあった。
サヴァンは意識が消え入る前に、〝ビューレン〟という名前に、かすかに引っかかりを感じた。
──ビューレン……聞き覚えがある。忘れてはいけない名前のはずだ。でも思い出せない。なぜだ? なぜ、思い出せない……
「わたしに協力して、きさまになんの得がある」リカルドはいった。「ビューレンに、なにか遺恨でもあるのか?」
「さっきもいったろ?」
レダはニヤッと笑った。「あたしは、あたしのしたいようにするだけだ」
ふん、と鼻を鳴らすと、リカルドは、気を失ったサヴァンとリディアに目をやり、玉座に倒れている皇帝にも顔を向け、ぽつりとつぶやいた。
「おまえたち『知事』の考えは、よくわからん」
「いずれ、わかるようになるぞ。いやでもな」レダはいった。「それまで生きていればの話だけどな」
重苦しい静寂が、広間に降りた。
「……さて、後片づけをしなければな」
やがてため息まじりにリカルドはそういうと、出口にむかって歩き出したが、ふと立ち止まると、レダのほうを振り向いた。
「ビューレンはともかく、」
と、リカルドはいぶかしげにいった。
「『レトー』のことを、よく知っているな。ラザレクでも、その名前を知っている者は少ないというのに」
「そりゃあもう」
レダはいたずらっぽく答えた。「あたしは、『知事』だからな!」
リカルドはすこしの間、なにかいいたげな顔でレダを見ていたが、結局なにもいわずに、きびすを返して広間を出ていった。
レダは立ちつくしたまま、その離れていく背中をしばらく見送り、やがて倒れているサヴァンとリディアに顔をむけると、どこかいつくしむような目で、ふたりを見下ろした。




