エンディウッケ・4
マッキーバは走っていた。
ふつうの者から見れば、風のようなスピードだ。しかしマッキーバからすれば、ほとんど歩いているも同然だった。
それは、片腕に、エンディウッケをかかえているためではない。
『ワニ』と『学者』の精神攻撃を受けて、力が入らないせいだった。
カイトレイナの貧民街の角という角を曲がり、屋根という屋根を渡り、なんとかここまで逃げ延びてはきたが、それももう限界だった。
二人組の気配は、まちがいなく近づいていた。
強力な精神攻撃で、自我が崩壊しかけたところを、救ったのはエンディウッケだった。
『ワニ』と『学者』は、おびえきっていたエンディウッケに、油断していた。
エンディウッケは、もだえ苦しむマッキーバの前に、勇気をふりしぼって割り込み、二人組にむけて全力の精神攻撃をお見舞いした。
虚を突かれた二人は頭をかかえてうずくまり、その間に、なんとか正気にもどったマッキーバが、とっさにエンディウッケをかかえて逃げたのだった。
──あれからどれだけの時間、こうして不毛な逃走を続けているんだ。十分か? それとも一時間か?
時間の感覚だけではなく、方向感覚や判断力も低下している。しかし立ち止まるわけにはいかない。とにかく、走りつづけなくては。
エンディウッケも息を詰めて、かかえられたままになっている。そしてそのうつろな目が、明白な事実を物語っている。
奇襲はもう通用しない。捕まれば、やられるのだ。
ひとつ屋根を飛び越えると、急にひらけた場所に出た。なにかの工場跡地のような、荒れはてた広場だった。その先は、旧式の動輪型の鉄道線路が見える。
線路に沿っていけば、方向も定まる。ひとごみにまぎれることもできるだろう。
──でも、そうはいかない。
マッキーバは、エンディウッケをそっと地面に降ろした。
エンディウッケはよろけて倒れそうになりながらも、なんとかマッキーバのマントをつかんでこらえた。マッキーバは肩で息をしながら、剣を抜いた。
前方に、『ワニ』と『学者』が立っていた。あたりにひと気はなく、鉄筋の廃屋に吹きすさぶ風の音が耳についた。
「おたがい、追いかけっこという歳でもないだろうに」
と、『学者』がおだやかにたしなめる声でいった。その横で、『ワニ』がガコンガコンと口を鳴らしている。前とはちがい、合いの手をいれるようにではなく、耳障りなほど一人勝手に打ち鳴らしている。
「きみも、おいたが過ぎたな」
『学者』がエンディウッケにいった。
当のエンディウッケは、唇をかみしめてなんとかふんばってはいるが、腰が抜けかけているようだ。
これでは、逃げろとも、戦えともいえない。マッキーバは思い悩んだ。同時に、自分がこの一件を甘く見ていたことへの後悔もにじんだ。
単独行動はおれの十八番だが、今回ばかりは、部下を連れてくるんだった。
『学者』がなにかの文言をつぶやきながら、片手の指をすらすらと動かした。そして、『ワニ』の口が不気味に閉じきった。
マッキーバは荒い息のまま、覚悟を決めて、剣を構え直した。
すぐに、『ワニ』の口が勢いよく開いた。
エンディウッケはこらえきれず、地面にくずれ落ちた。
マッキーバの精神は、ふたたび『ワニ』の口の闇に、なすすべなく捕らえられようとしていた。
そのときだった。
ゴウ! とすさまじい烈風が広場に吹きつけた。そして風で飛ばされた無数の砂利が、マッキーバの身体に弾丸のように当たり、かれは我にかえった。
「とってもユニークな集会ですこと」
細身の剣を手にしたケイ・エルフマンが、いつのまにか、四人の前に立っていた。
「わたくしも、入れていただけて?」
見れば、周囲はすでに卿団員たちが取り囲んでいる。
「ケイ、どうしてここに!」
マッキーバはあっけにとられながらいった。「怪我は、大丈夫なのか?」
「わたくしより、自分の心配をなさったら?」
高飛車にエルフマンが応じた。「あなた、見られた顔ではなくてよ」
「……なんだ、きみは?」
派手な闖入者に驚き、『学者』は目を丸くした。豪快なパフ・スリーブの白いローブ、白いマント、長い金髪、居丈高な態度。
「……だれだ、きみは?」
『学者』は再度、不審げにいった。
「見世物の打ち合わせだったのかしら?」
エルフマンは問いかけに答えず、頭ごなしにそう返すと、見くだすような目を『ワニ』と『学者』にむけた。
「なら、この『白蛇』も、お役に立ててよ?」
「気をつけろ、ケイ」マッキーバがいった。「そいつら、実体がないかもしれん」
「あら、そうね」エルフマンは平然と答えた。「だって、透けてるもの」
──なに?
マッキーバは二人組に目をむけた。たしかに、二人の身体を通して、向こう側がうっすらと透けて見える。どういうことだ? さっきまでは、こんなことはなかったぞ?
マッキーバが眉を寄せる間にも、『ワニ』と『学者』の姿は、さらに薄くなっていった。
「あら、お帰りかしら?」
そうエルフマンが口にした直後、二人は、跡形もなく消えた。
まわりを囲む卿団員たちが、あたりを警戒する。
しかしマッキーバとエルフマンは、警戒しなかった。反撃はない。かれらは、この場から完全に消え去った。二人の胸の内は、そう一致していた。
「わたくしのことを知らないような下っ端に手こずるなんて、ふがいなくてよ、マッキーバ」
エルフマンはマッキーバに流し目を送って、そういった。
──妙だ。
マッキーバは首をひねりかけた。
あいつらは、まちがいなく、おれを中枢卿と知っていた。それなのに、大陸に知れわたるケイ・エルフマンを、知らないなんてことがあるか? 『ワニ』はともかく、『学者』のほうは、確実に知っていそうな雰囲気だったのに。
──いや、それよりも……
「……なぜ消えた?」
マッキーバは、思わず声に出していった。
「逃げたのでしょう」
ふん、と鼻を鳴らして、エルフマンが答えた。「どう見たって、勝ち目はありませんもの」
──そうだろうか?
マッキーバの心は、もやもやしたままだった。
おれには、なにか予期しない中断、という感じがした。映像が突然乱れて、とぎれるような。
「さあ、聞きたいことは山ほどあってよ、マッキーバ」
というエルフマンの声で、マッキーバはひとまず、目の前の問題に取りかかることにした。
「まず、この子はなんなのかしら?」
エルフマンはマッキーバを見たまま、エンディウッケをあごで示した
エンディウッケは地面に倒れて動かない。どうやら気絶しているようだった。
マッキーバは深く息をついて、苦い顔をした。
さて、なにから話したものやら。
そんな二人のまわりに、警戒を解いた卿団員たちが集まってきていた。
 




