エンディウッケ・1
まぶたにあたる日の光に、少女は顔をしかめて目を覚ました。
──カーテンを開けたのはだれ?
ああ、きっと、あいつらだ。また勝手に入ってきたんだ。もうゆるさない。殺してやる、絶対に。
少女は不機嫌な顔で、身体を起こした。
……ここ、どこ?
なんであたし、知らない部屋で寝てるの? それに、服も着たままで。
少女は口をぽかんと開けて、あたりをきょろきょろと眺めまわした。
殺風景な、狭い部屋。ここは寝室? ドアが開いてる。むこうには、ソファーと、テーブルと、家具が少し。どこなの、ここ。
少女はベッドからおりると、床に置かれている自分の靴を履いた。
窓の外は、よごれた灰色の建物が立ち並んでいる。
嗅ぎなれた、薄いたき火のようなスモッグの臭いがする。
──じゃあここは、カイトレイナではあるんだ。
少女は寝室を出て、おそるおそる居間に入った。コツコツと響く、自分の靴音にビクビクする。
そのとき、こちらに背を向けたソファーから、むっくりとクマのようなものが起き上がり、少女はびっくりして、口を両手でおおって立ち止まった。
「ああ、起きたか」
と、だるそうにいったその男を見て、とたんに少女は記憶をよみがえらせ、叫び声をあげそうになった。
「あたし、エンディウッケ!」
深夜の遊歩道で、エンディウッケはうれしそうにそういった。
自分の名前をいうのは、すごく楽しい、とエンディウッケは思っていた。だってあたしの名前を呼んでくれる人なんか、だれもいないもの。だからあたしは、自分の名前をいえるときが大好き。聴いてくれる人は、いつもすぐ死んじゃうけど。
せっかく名前を教えた人を、殺しちゃうのは、なんだか悲しい。でも、しょうがない。
しかしエンディウッケはいま、自分の名前を聴いてもなお、こうして生きている人間と向かいあっていた。それが彼女には新鮮で、なんだかワクワクした。もちろん、怖くもあった。
「ああ、えーと、……気分はどうだ?」男が話しにくそうに声をかけた。
きっと、子供と話すのに慣れてないんだ、とエンディウッケは感じ取って、すこし警戒心を解き、両手を口もとから離して、うん、とうなずいた。
「あー、……なにか食べるか?」頭をかきながら、男がまたいった。
エンディウッケは、男をじっと上目づかいで見ながら、首を横に振った。
──へんな人。
エンディウッケはおかしくなった。本当にクマみたい。怖そうだけど、でもなんか怖くない。
「……昨日のこと、覚えてるか?」
「少し」エンディウッケは短く答えた。
実際、覚えてることは少しだ。この人にあいさつして、いつもみたいにやっつけようとして、……それから、どうなったんだっけ。
──まあいいや。なんでもいい。昨日のことなんか、もうどうでもいい。
「おじさん、名前は?」唐突にエンディウッケがたずねた。
「おれは、マッキーバだ」マッキーバは、口ごもるように答えた。
「マッキーバ……」
エンディウッケは、その名前を心に刻みつけるように、そうひとりでつぶやいてから、「あたしの名前、おぼえてる?」といった。
「エンディウッケ、だったか?」
その瞬間、エンディウッケは、いままでに感じたことのない、ふわっとした気持ちになった。それはとてもここちよい、幸せな気分だった。
ウフフ、とエンディウッケは、こらえきれずに笑い出した。そしてしばらく、楽しげな笑い声をあげた。
マッキーバはそんなエンディウッケを、不思議そうにながめていた。
ありあわせの朝食を豪快にかきこむエンディウッケを、テーブルの向かいに座って見守りながら、マッキーバはぼんやりと考え事をしていた。
昨日はいろいろなことがあった。ハイドスメイはようやく落としたが、エルフマンは深手を負って撤退した。海側でも戦闘がはじまり、静導士団はとうとう腰を上げた。
自分はといえば、カイトレイナ駐在の卿団員を次々と闇に葬った、犯人と思われる者を捕らえた。
いま、目の前でナイフとフォークをガチャガチャいわせて、こげすぎたソーセージと格闘している、このエンディウッケという少女を。
切るのが面倒くさくなったのか、エンディウッケはソーセージをフォークで刺して一気にほおばり、もぐもぐと口を動かしながら、マッキーバに目をむけた。それを機に、マッキーバはたずねた。
「きみは、いまいくつだ?」
エンディウッケはマッキーバを見つめて、首を横に振り、「知らない」と食べながら答えた。
「知らない?」
うん、とエンディウッケは大きくうなずいた。
マッキーバは少女を観察した。長い黒髪は前髪を切りそろえているが、切り方がいびつだ。自分で切っているのだろうか。顔は、大きな瞳がよく動いてかわいらしい。でも昨夜のことを考えれば、そんなのんきなことはいっていられない。いまは機嫌がよさそうでも、いつ気分を害して、たちまち死闘になるかわからない。
──やれやれ、だ。
マッキーバは、なかば途方にくれていた。……ともあれ、見た感じでは、十歳くらいだろう。
「それで、きみはどこに住んでるの?」マッキーバは質問を変えた。
エンディウッケは、うーん、と首をかしげて考えこんだあと、元気よく答えた。
「いろいろ!」
「いろいろ?」
マッキーバは、相手の言葉をくりかえすだけの自分に、苦笑しかけた。でも笑いごとじゃない。年齢不詳、住所不定の少女。本当にこんな子が、われら中枢卿団の団員を、何人も殺したのだろうか? いや、まだはっきりしてはいない。しかし昨日は、あきらかにおれをねらって待ち伏せていた様子だった……
マッキーバが次の質問を考えている間に、エンディウッケは朝食を食べ終え、小さく息をついて、もうさんざん目を走らせた部屋の中を、また見まわした。
「ねえマッキーバ。ここ、マッキーバの隠れ家なんでしょ?」
「ああ、まあそうだ」マッキーバはあいまいに答えた。
朝食前に、この部屋についてたずねられ、簡単な説明はしていた。ここはマッキーバが個人で所有している隠れ家だった。貧民街にある、数階建ての廃屋のワンフロアを改装したものだ。こういった隠れ家を、マッキーバはほかにもいくつか持っていた。
アイザレン帝国の第二都市カイトレイナ。
そこは、行政機関や軍の本部が集まる、帝国の心臓部だ。
ここで開かれる国民議会は、帝都ケーメイの帝国議会と同じくらいの力を持っている。
帝国議会の議長が皇帝ならば、国民議会の議長は首相と呼ばれ、現在の首相ラジャ・メッツァは、軍を掌握し、皇帝をしのぐほどの権勢をふるっていた。
つまり帝都は、皇帝と、皇帝直轄の中枢卿団の本拠地で、カイトレイナは、首相と軍の本拠地だった。
そうしてアイザレン国内は、皇帝派と首相派にわかれ、長年にわたって権力争いをつづけているのだった。
マッキーバは、戦争がはじまるまでは、そんなカイトレイナの見張り役をしていた。
この町に住み、首相派の動向をうかがい、ときには歯止めにもなった。
中枢卿団・筆頭隊長マッキーバ。
その名のもとでは、いかに首相といえども、簡単に事をかまえることはしなかった。
少なくとも、これまでは。
「本当のお家は、持ってないの?」
と、エンディウッケはさきほどの続きでたずねた。
「本当の家と呼べるようなものは、ないな」とマッキーバは答えた。「いろいろなところを転々としているんだ」
「あたしと同じだ!」
と、エンディウッケは目を輝かせて、うれしそうにいった。
「あたしも、気に入ったところがあったらそこに住んで、飽きたら、ほかのとこに行くの」
「気にいったところに住む?」
「あのね、あ、ここいいな、ってお家があるとするでしょ? そしたら、そこの人をいなくして、あたしが住むの」
「いなくするって?」
「みんな死んじゃうの」エンディウッケはなんでもないことのようにいった。「それで、変な人たちが、それを片づけてくれるの」
……なに?
マッキーバはわけがわからなかった。住人をいなくして、この子がそこに住んで、だれかが死んだ住人を片づける? そんなむちゃくちゃな話があるか。
「その変な人たちって、どんな人たち?」
マッキーバがそうたずねると、エンディウッケはうつむいて、急に沈んだ顔になった。
「すごく、変な人たち」エンディウッケは小さく答えた。「どこに行っても、絶対見つかっちゃうの」
「なんていう名前の人たち?」
「知らない」
とエンディウッケは不機嫌そうに答えた。
「でも、いつもふたりで来るの。あたしは、『ワニ』と『ガクシャ』って呼んでるけど」
「ワニと学者?」
マッキーバはそう聞きかえしたが、エンディウッケは暗い顔のまま答えなかった。
とりあえず、ここまでにしておこう、とマッキーバは思った。エンディウッケはこれ以上話したくないようだし、自分は団長と話す必要がある。昨日の夜に連絡したときは、この子をケーメイに連れてこいといわれたが、いまの話が本当ならば、どうも簡単にカイトレイナから出られない気がする。どこに行っても、絶対に見つかる? じゃあ、もうその『ワニ』と『学者』とやらは、この場所も見つけていることになる。
やっかいな連中にちがいない。なんといっても、エンディウッケに嫌われても、まだ生きているようなやつらなのだから。
マッキーバはエンディウッケに目をやった。口をとがらせたその顔は、単にふてくされているように見える。しかしマッキーバは、その瞳にはりついている怖れを、たしかに感じ取っていた。
マッキーバは席を立つと、懐から携帯通信機を取りだし、寝室にむかった。
寝室に入ると、マッキーバは通信機を操作し、耳に当てた。
サンド・ノイズのような音がする。
マッキーバはまゆをひそめた。
この音は、通信機が電波圏外ということだ。でもそんなはずはない。昨日はこの通信機で団長と話をしたのだし、そもそもこの隠れ家には、独立した通信アンテナを設置している。
だとすると、通信機の故障か? ……いや、そうじゃない。
即座に電波妨害を確信したそのとき、マッキーバは、強い気配を感じた。
チリチリと身体に電気が走るここちがする。
外だ。この廃屋の、下の路地。
気配は、強烈だが、どこか妙だ。なんの感情も読みとれない。淡々と、待ち受けている。おれとエンディウッケが、下に降りてくるのを。おれたちが姿を見せるまで、いつまでもそうしていそうだ。どうも気味が悪い。
マッキーバは通信機をしまい、急いで寝室を出た。
エンディウッケが、テーブル席から立ちあがっている。片手で口をおおい、見開いた目は、曇った窓のほうに向けられている。口にあてた手は震えていた。
「この気配は、きみのいっていた二人組か?」
マッキーバは椅子の背にかけていたマントを取りにいきながら、たずねた。
エンディウッケは無言のまま、小さくうなずいた。
「そいつらは、どんな力を使う?」
マッキーバは、できるだけおさえた口調で、またたずねた。
しかしエンディウッケは窓を見つめたまま、首を横に振るだけだった。
──裏口から出ることもできる。あるいは屋上に行くか、それともここに籠城するか。
マッキーバは、エンディウッケから話を聞くことをあきらめ、すばやくマントを羽織って、ぼさぼさの長髪を無造作にかきあげた。
──いや、そんな小手先の通用する相手じゃない。
ゆっくりと息をはいて、マッキーバは決断した。道はひとつだ。正面きって迎え撃つ。いくしかない。
「外に出るぞ」
マッキーバはいった。「もしその気があるなら、きみも戦ってくれると助かる」
なんといっても、エンディウッケの精神攻撃のすさまじさは身をもって知っている。へたな卿団員よりは、よっぽど役に立つのだ。
しかしエンディウッケは、驚愕して、首をブンブンと横に振った。
「エンディウッケ」
と、マッキーバは、それまでにないきびしい声でいった。
「おれの仕事は、おまえを、ケーメイに連れていくことだ。そして、おまえにはふたつの選択肢がある。おれと一緒に来るか、来ないか。来ないという選択の意味をよく考えて、どちらにするか、いますぐ答えろ」
エンディウッケは、おびえと反感がまざった目をマッキーバにむけて、すこしのあいだ黙っていた。が、やがて降ろした拳を握って、いじらしく立ったまま、ぽつりと短く答えた。
「……一緒にいく」




