魔都ラザレク・1
サヴァンたちが、砂漠の要衝ハイドスメイの陥落を知ったのは、空の上だった。
ユーゼン公領から飛び立って、数時間後の夕方のことだ。
飛行艇の乗組員からしらせを受けたサヴァンには、予期していたこととはいえ、やはりショックだった。
──もうこれでエントールは、防衛線を国内に後退するしかなくなった。よりによって、そのエントールの首都に向かおうとしている自分たちには一大事だ。
とても、自分の頭だけで考えられる話じゃない。そう思ったサヴァンは、すぐに知事局の局長ジオ・レドムに連絡を取った。
「ほんと、こまったもんだね」
と、通信機越しにレドムは、のんきにいってのけた。
「はあ。それで、指示をあおげればと思いまして」
サヴァンは、レドムの口ぶりにあきれながらいった。
「特にない」レドムは即答した。「だが、忠告はしておく」
「はい」
「うまくやれ」
「……え?」
「おまえたちは、ユーゼン領で、エントールという国に、深く立ち入った。おまえたちはいま、エントールの複雑な歯車の上に乗っている」
なんとも答えようのないサヴァンに、レドムはつづけていった。
「皇都ラザレクは、魔窟だ。生半可なところじゃない。だから、よく情勢を見きわめて、適切に対処しろ」
「それは、ユーゼン公爵夫人の背後の連中に、注意しろということですか?」
「おまえたち三人で判断して、行動しろ」
と、レドムはサヴァンの質問には直接答えず、そういった。
「力を合わせて、うまくやれ。ユーゼン領でもできたことだ。これからもできる」
「これから、といいますけど」
と、サヴァンは反論した。
「リディア殿下をラザレクに送り届けたら、ぼくとレダは帰還するんですよね?」
「どうやって?」
とレドムはいった。
「アイザレン軍は、もうエントールの国境の山脈に達しつつあるんだぞ? おまえたち、敵の正面に突っこむつもりか?」
サヴァンは通信を終えると、ぼう然とした。
故郷のリターグを出たのは、五日前。たったの五日だ。それがいまでは、そのリターグに帰ることもできず、魔窟とまでいわれるラザレクで、立ち往生するはめになってしまった。
たしかに、心ではわかっていた。ハイドスメイの陥落は、エントールだけの問題じゃない。同盟しているリターグにとっても危機なのだ。
アイザレン軍は、リターグにも迫るだろう。そうなると、戻れるのはいつのことか。いや、戻る場所が、はたして残っているのだろうか。
自分だって、レダじゃないけど、リターグを出ることにはワクワクしていた。それがなんでいまは、こんなに、無性に帰りたいのか。ホームシック? いやちがう。まあホームシックがどんなものか、自分は知らないけど、そういうものじゃない、という直感はある。
「バカだなあ、サヴァン」
飛行艇の談話室で、局長との話を伝えるついでに、サヴァンがありのままの気持ちをうちあけると、テーブル席でふんぞりかえっているレダは、平然とそういった。
「ようするに、おまえはリターグを守りたいんだろ。なんたって、故郷の危機なんだからな」
「まあ、そういうことなのかな」
むかいの席に座るサヴァンは、まだ釈然としない気持ちで答えた。
「なーに、リターグは心配ないぞ!」
レダは元気よくいった。「エアハルトやコーデリアや、ほかのやつらがついてる」
このときはまだ、ふたりは、エアハルトとコーデリアのことを知らされてはいなかったのだ。
「でもな、」とレダはつづけた。「リディアには、だれがついてる? あいつを守ってやれるのは、あたしらしかいないんだぞ?」
「それは、そうだな」
とサヴァンは、今度はわだかまりなく答えた。
心労のせいで、個室のベッドに横になっている、リディアの姿が目に浮かぶ。
ずっとふさぎっぱなしだった。
ユーゼン公とリーン、ふたりの死は、リディアの心に重くのしかかっている。
寝室にひきとるまで、この談話室でうなだれたまま、涙を流していたのだ。
「そういえばおまえ、いつのまにか、リディアを名前で呼ぶようになったな」
サヴァンは、小さく笑っていった。「『編み毛』じゃなかったのか?」
ふん、とレダは顔をそむけ、背中をそらして大きく伸びをした。
お姫さまのお守りだと! と局長につめ寄っていたときとは、ずいぶんな変わりようだ。
──力をあわせて、うまくやれ、か。
サヴァンは局長の言葉を思いかえして、短く息を吐いた。
わかりましたよ。どうせ、ほかに選択肢はないんだ。おれたち三人、せいぜいその魔窟とやらで、魔物に食われないようにがんばります。局長、リターグのことは、お願いしますよ。
「ま、とにかく」
と、レダがいった。
「あたしの手にかかれば、エントール軍だろうが静導士だろうが、どうってことはないからな! なにかあったら、国ごと吹っ飛ばしてやるぞ!」
前にも聞いたようなセリフだが、冗談ともいいきれないところがおそろしい、とサヴァンは思った。レダはいま、国ごと吹っ飛ばす空想でもしているらしく、ニヤニヤしながらあらぬ方向を見ている。
こいつの力なら、本当に国を支配できるかもしれない。
本気になったレダには、だれもかなわない。予備学校のころからそうだった。ヴァンゼッティも、エアハルトも、そのほかのエースたちも、だれもレダに近づくことすらできなかった。
本気を出しすぎたレダを止めるのは、いつもおれの役目だった。『知事』になったいまでも、それは変わらない。
まあとりあえず、ラザレクではそんな事態にならないことを祈るしかない。
そのとき、飛行艇のアナウンスが、四時間後にラザレク到着の予定、と告げた。すでに日が傾きはじめていた。
そして夜。
三人を乗せた飛行艇は、ラザレク郊外のシャトル・ポートに到着した。
激動の一日だ。
昼にはハイドスメイが陥落し、エアハルトら四人がぶつかり合い、海の戦線ではベアトリス攻防戦が勃発し、大陸中が注目していた静導士団の参戦が決定した。
三人が到着したころ、はるかな海の向こうでは、人知れずルキフォンスが闘志を燃やしていた。
シャトル・ポートの遠い先には、オレンジの灯に照らされた、豪壮な大屋敷が見える。
着陸した飛行艇の油や、ほこりっぽいにおいが、いまはラザレクの、町の匂いをまぎらしていた。
飛行艇から地面に伸びるタラップの、最後の一段に来て、リディアはそこからどうしても足を踏み出せない自分に気づき、ふいに放心した。
少し行ったところには、先に降りたサヴァンとレダが、自分のことを待っている。
あと一歩、足を踏み出せば、わたしはこのエントール皇国の皇都に立つ。いったい、どれだけの人がわたしとかかわって、そして……死んでいくのか。
リディアはとたんに胸をぎゅっと締めつけられ、息苦しくなった。
あの庭園での、リーンさんの笑顔。晩餐のときの、シャブロウさんのおだやかな顔。思い出すのは、そればかり。
わたしを助けてヴァンゼッティさんが死に、わたしを逃がした父が死に、わたしをエントールに避難させようとした巡空艦マスチスでも、突然の攻撃と不時着で、何人も死傷者が出たらしい。
でも、わたしの目には、あの公爵夫妻のなごやかな姿が、はりついて離れない。
リディアは、タラップの手すりに寄りかかるようにして、小さくつばを飲みこんだ。
わたしは、もう二度と、二度とこんな思いはしたくない。
いっそのこと、アイザレン軍につかまったほうが、いいのかもしれない。なんの信念もなく、それどころか、この理不尽な戦争に怒りをおぼえるひますらなく、こうして逃げることに、なんの意味があるというの?
胸苦しさに耐えきれず、リディアは手すりをぐっとつかみ、両膝をすこし折った。うしろから、船の乗組員が心配そうに声をかけてくる。リディアは無意識に、よわよわしい視線を、前方にやった。
サヴァンとレダが、ならんで立ち、こちらを見ている。近づいてはこない。ただ立って、自分を見守っている。
きびしいような、やさしいような、その二人の目は、まるで父の目のようだ。
「あたしは、長ったらしい話は大きらいだ」
何時間か前に、船内の部屋にやってきたレダの、ぶっきらぼうな声が思い出される。
「だから、くどくどいわないぞ。あたしは、おまえを友だちにしてやる。感謝しろ。感謝のしるしに、元気を出せ。わかったな!」
それだけいって、レダがさっさと部屋を去ってから、わたしはすこし笑って、胸がスッとしたんだった。
「あの、これを」
といいながら、ランの花束を差し出したサヴァンの姿が、今度は浮かぶ。
「あの執事が、別れ際にくれたんです」
サヴァンはいった。「とりあえずあずかったんですけど、やっぱりこれは、あなたが持つべきだと思います」
そうして花束を手渡したときの目は、いまわたしを見ている目と同じ、深い色をたたえていた。
わたしは部屋で一人になってから、その真っ白いリーン・オーキッドの花束をかかえて、口を結んで、ひたすら、なにかをこらえた。それがなんなのかはわからない。でも、たしかになにかを、こらえることはできたのだ。
ふっ、とひとつ息をつくと、リディアは立ちあがった。そして、タラップの最後の一段をおりた。サヴァンとレダは動かない。けれどその目は、わたしを見守りつづけてくれている。船の部屋に置いてきたランが、やがて色あせて朽ちるように、わたしの心も朽ち果てるときがくるかもしれない。でもいまは、このふたりに導かれていこう。わたしの、たったふたりだけの、この大事な友だちに。
リディアは決然とした顔で、サヴァンとレダのもとに歩いていった。その足音は、飛行艇のエンジン音に負けない力強さをもって、あたりに響いた。
*
「どうするどうする?」
楽しげな女の声がする。
「ゴ、ゴ、ゴーサインは出ている。お、おまえの、す、好きなタイミングでやれ」
吃音の男の答える声がする。
ひゅう、とするどい風が吹きぬける。
ここは、目もくらむほど高い建物の屋上だ。
女はその屋上のへりに寝そべって、三脚で固定した巨大なスナイパー・ライフルのスコープをのぞきこみ、興奮で顔をひきつらせている。
まだ少女といっていい年頃だ。無造作に両側にたばねた髪に、化粧っ気のない、あどけない顔。その唇からは、キャンディ・スティックの細い棒が突き出ている。短パンに、平たい胸とそのまわりだけをおおうミニのTシャツ、そして履きつぶしたよれよれのブーツという格好だ。
「やっちゃうよやっちゃうよ?」
また楽しそうに少女がいった。
「い、い、いや、く、車がきた。す、すこし待て」
そういった男は、寝そべる少女の横に立っている。少女よりはあきらかに年長だが、こちらも若い。がっしりとした体格にぴったり合わせたようなコートを着ている。髪は短く、逆立っていて、顔はとても端整だ。
「了解了解♪」
少女はキャンディ・スティックを歯でくわえて、ニヤッと笑った。




