ユーゼン公領の殺人・6
「リーン殿下、あなたにとって、あの秘密協定の文書は、ダメ押しのようなものです」
とサヴァンはいった。
「あれがなくても、嫌疑は十分エイゼンにかかるはずです。でも殿下は、万全を期すために、あのでっちあげの文書を金庫に入れた。あんなものは、エイゼン側にはありません。特使と殿下が共謀していたのならわかりませんが、例の文書のお粗末さを考えれば、どうもそれはなさそうですね」
「そこまでおっしゃるのなら、覚悟はできていますね?」
「覚悟?」
サヴァンの語気がふいに強まった。「覚悟が必要なのは、あなたのほうです、リーン殿下」
ひと呼吸おいて、サヴァンはつづけた。
「あの文書の内容は、だれが見てもばかげたものです。あとつぎがいなければ領地をゆずる、しかも代々有効など、正気とは思えません。でも先代おふたりのサインがあるかぎり、本物と言い張ることができる。
サインの偽造は、おそらく完璧なんでしょう。ここでつまづくようなら、こんな大がかりな暗殺計画なんて立てられませんからね。
でも、あなたはミスをした。あの書面を作ったのは、あなたでしょう? もし特使なら、署名に〝一世〟とつけたり、世間がそう呼んだりするのは、二世が即位してからのことだという常識を、忘れるはずがありませんからね」
リーンはかすかに眉をよせただけで、なにも答えなかった。
「それとあなたは、もうひとつミスをした。
日付けを見ると、あれが作成されたのは、第一次二公戦争の末期です。それで、例の要項には、たしかこうありましたね。
『以上は第一次二公戦争終結と同時に適用され、両公領が存続する間、代々有効である』
殿下、第一次二公戦争中に、「第一次」などと、いうわけがないじゃないですか。第二次の戦争があって、はじめて「第一次」となるんです。エイゼンに潜入して特使になり、ユーゼン公を暗殺するような優秀な人間が、こんな平凡なミスをするはずがないでしょう」
リーンは口元を引きしめ、きぜんとした顔で、あらたまってサヴァンに目をやった。
「もっとも、文書のミスに気づいたのは、わたしではなく、リディア殿下です」
と、サヴァンはいった。「えらそうなことをいいましたが、リディア殿下の指摘がなければ、見落としていました」
リディアは悲しげに目を伏せて、リーンと同じく口を引き結び、黙ったままでいた。
「先代がどちらも没していることは、あなたにとって都合がよかった」
サヴァンはつづけた。
「でも、たとえ先代のエイゼン公が存命でも、わたしはあなたが、この一連の事件を強行しただろうと考えています。もちろんこんなことを、あなた個人がおこなう理由はない。
あなたの、いや、あなたがたの狙いは、エイゼン領とユーゼン領の両取りでしょう? エイゼンはユーゼン公暗殺の嫌疑がはれるまで領地を没収され、ユーゼンはたとえあの文書がなくても、あとつぎがなければエントールが管理する。ちがいますか?
あなたの背後には、なにか強力な保守勢力がついている、わたしはそう思っています。あなたはユーゼン公を殺害する前に、その組織に連絡を取ったはずです。そして、組織はほかの者を使って、邪魔な特使を葬り去る。いまごろは、骨も残っていないんじゃないでしょうか」
リーンはすずしげな顔で、しばらくサヴァンを見つめていたが、やがて視線をそらした。そしてその目からは、急に色が失せたように、サヴァンには思われた。
「シャブロウ殿下は穏健な改革派で、戦争や、いまのエントールの皇国主義に批判的だったらしいですね」
とサヴァンはいった。
「そして、現在のエイゼン公も、同じ立場だそうですね。そのエイゼン公が、われわれの逗留しているときに、タイミングよく特使を送ってきた。めずらしい、とあのとき、あなたはおっしゃいましたね。
わたしは、エイゼン公もシャブロウ殿下も、同じ思惑を持っていたと思います。つまり、なぜか執拗に追われているリディア殿下を、アイザレンに引き渡すかどうか、ということです。交換条件で、アイザレンには領地を素通りしてもらう。それでひとまず戦争を回避する。
でもそのあとは、アイザレンにつくのか、中立を保つのか、非常に悩ましいところです。あるいはそんなことが人道的に許されるのか、といったことも。いま思えば、昨日の公爵の話しぶりから、それとなく察することができたはずでした。
……リーン殿下。あなたはいままで、事を起こすチャンスをうかがっていた。そして昨日、その絶好のチャンスがやってきた。ここに逗留することになったわれわれが、それを与えてしまったと思っています。しかし結果的に、そのわれわれが、あなたのチャンスをつぶすことになった。なんとも皮肉な話ですね」
リーンは、サヴァンたちに背を向け、窓の外を見る格好になった。
「それで、これから、どうなさるおつもりかしら」と、リーンはぼんやりとした声でいった。
「リターグに報告します」
サヴァンは答えた。
「そのあとのことは、上にまかせます。まあ、先代からつかえる執事の証言もあれば、エントールとしても、ないがしろにはできないでしょう」
それまでじっとうつむいていた執事は、固い決意をこめた目で、リーンの背中を見つめた。
リーンは顔を半分振り向いて、執事の様子をうかがうようにしてから、また窓に向きなおった。
「お聞きしたいことがあります」
ふいに、リディアが口を開いた。
「リーンさん、あなたは、シャブロウさんを愛してはいらっしゃらなかったのですか?」
長い間、リーンはレース越しに窓の外をながめるままでいた。そしてようやく振り返ったその顔は、どこか謎めいたほほえみを浮かべていた。リーンは、リディアをじっとみつめたまま、なにもいわなかった。
「殿下のお身柄は、われわれが一時拘束いたします」とサヴァンはいった。「本国の指示があるまで、この屋敷から出ないでいただきます」
サヴァンのほうを向いたリーンの顔に、ふっと不敵な笑みが浮かんだ。瞬間、リーンは口を動かし、なにかを噛んで、飲みこんだ。
サヴァンが駆け寄り、くずれ落ちるその身体をかかえて地面に寝かせたときには、もう口から血を流して死んでいた。
「……あのときだ」
サヴァンは、苦渋に満ちた声を絞りあげた。
「さっき、手で口もとを隠して笑ったとき、毒のカプセルかなにかを口に入れたんだろう」
「ばかなやつだ」そばに立ったレダが、苦い顔でいった。「まだいい逃れる道は、いくらでもあったぞ!」
「組織に知れたら、どのみち命はないと、観念したのかもしれないな」
そうつぶやいて、サヴァンはリーンの見開かれた目を、手のひらで閉じた。
執事は立ちつくして、ぼう然としたまま首を横に振りつづけていた。
リディアはすこし離れたところに立ち、顔を両手でおおって、肩を震わせていた。
香水の花の香りが、そんな部屋の中を、深々と包みこんでいた。
*
サヴァンがドアを開けると、テーブル席に座るレダが、ちらっと目を向けた。壁際の椅子に座っているリディアは、うつむいたままでいた。
「マスチスの修理は、まだかかるらしい」
レダの向かいに座って、サヴァンはいった。「艦長も、疲れきった声をしてたよ」
「で、あたしらはどうするんだ?」
レダがテーブルの上に目をやったままたずねた。
「あと一、二時間で出航する」
とサヴァンは答えた。
「ハイドスメイは、どうやらもたないみたいだ」
「もう空路はいやだ」と、うんざりした声でレダがいった。「しかもこんなちっこい船。もっとましなのはないのか?」
ここは、ユーゼンの所有する飛行艇の、談話室の中だった。
リーンが自殺したその日は、一日事後処理に追われた。
そして一夜が明けた現在、こうして人員ともども飛行艇を借り受けて、シャトル・ポートで、エントールの首都ラザレクへの出航を待っているのだった。
「アイザレン軍が山脈を越える前に、できるだけ遠くに離れたい」
サヴァンは重い口調でいった。「だから、軽くて速い船を選んだんだよ」
昨日のうちに、サヴァンは知事局の局長ジオ・レドムに、連絡をしていた。一連のいきさつを説明し、今後の指示をあおぐためだった。
そのレドムの対応は、サヴァンには、ある程度予想がついていた。
「では、この件は見なかったことにしろ、と」
「いや、ちがう。直視しろ」
エントールとの軍事同盟、アイザレン軍の攻勢、内政干渉、ラザレクでのリディアの立場。
リターグがこの事件にかかわりたくない理由は、あげればきりがない。
逆にかかわって得をすることは、ゼロだ。
「覚悟はできていますね?」と、あのときリーンはいった。たしかに、自分は覚悟ができているのか? レドムと話をしながら、サヴァンはそんな疑念をもった。ラザレクで、リーンの背後の連中と、渡りあう覚悟が?
「──おまえたちは、よくやった」
レドムは最後にそうねぎらった。
まあ本心からの言葉だろう、と、それを聞いてサヴァンは思った。でも、なんの意味もない。エイゼン領もユーゼン領も、エントールの直轄になるだろう。戦線は山脈を越えて後退し、公爵邸も戦火をまぬがれないかもしれない。
執事は、そんな屋敷に残るといい張った。ほかの使用人は、全員避難させるとのことだ。
そしておれたちも、逃げるようにこの地を後にする。公爵の恩義にむくいる? 冗談じゃない。おれたちはただ、ひっかきまわしてそのまま、さようならと去っていくだけじゃないか。
「結局、ここは戦地になるのか」
レダは、またちらっと正面のサヴァンに目をやった。
「……おまえ、おれを責めているのか?」
サヴァンは、思わずきつい声をあげた。「なら、おまえが局長と話せ。ここが戦地にならないように、説得してみろよ!」
「責めてなんかないぞ」
レダはおだやかにいった。「おまえは、かっこよかったぞ。なあ?」
レダはリディアに顔を向けた。
「だれの責任でもない。おまえもだぞ、リディア。公爵は、おまえを売りとばそうとしてたかもしれないんだ。……それでも、サヴァンはちゃんとかたきをとってやったんだ」
「わたくしが……」
と、リディアは声を震わせた。「わたくしがここに来なければ、リーンさんもシャブロウさんも、死なずに済んだんです」
「でも、おまえはこれからも生きていかなければならない、そうだろ?」
リディアのほほにひとすじ、涙が流れた。
それからすこしの間、重い静寂が部屋の中に立ちこめた。
「……その香水」
やがて、サヴァンが口を開いた。レダはテーブルに、リーンからもらった香水の小瓶を、なぜか置いていたのだった。
「持ってこないかと思った」
「ああ」と、レダは目の前のそれをおもむろに手に取って、小さくいった。「香水に、罪はないもんな」
二時間後、サヴァンたちを乗せた飛行艇は、ラザレクに向けて出航した。
おだやかな昼下がりだった。
遠ざかる飛行艇を見送るように、公爵邸の庭園の花々は、やわらかい風にその身を揺らしつづけていた。