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レガン戦記  作者: 高井楼
第四部
139/142

覚醒と幕引き・13

 リディアは歌っていた。

 歌いながら、深い感慨が全身に染み渡っていた。

 自分が、リディア・メロディ・ハイメゾンであることが、なによりも重要だった。彼女は、自分が歌う目的、自分が果たすべき役割を、あざやかに思い出していた。そして過去を思い、現在を思い、未来を思った。

 リディア・ナザンだったころの自分の、戦争がはじまってからの受難の日々に思いをはせると、一抹のせつなさを感じた。さまざまな戦いや死が横切っていった日々だった。それは決して、自分が望んだことではなかった。しかしその責任は自分にあり、自分はそのあがないのためにも、歌わなければならない、とリディアは思った。

 リディアは、頭上にゆるやかに降りてくる球体の存在を感知して、両腕を伸ばし、なにかを抱くような姿勢をとった。子供を抱くようなここちだった。リディアは歌いながら、すこしずつ顔を上に向けていった。両手で抱えられる大きさのその球体は、もう跳躍すれば手が届くところまできていた。そしてまっすぐ、リディアの手のひらに向かっていた。

 リディアは、自分の役割がもうすぐ終わるということを自覚し、あがないの気持ちをよりいっそうこめて、歌をうたった。


 ふいに、マレイがゆっくりと、巨大な顔をサヴァンに向けた。

「サヴァン」

 マレイはいった。それは聴く者の身を震わせるような、どこか深遠な低音だった。

 サヴァンは戦闘をつづけていた。機械兵の波はおさまらなかった。

「サワレ」

 マレイはいった。「ウシロダ。サワレ」

 そういうと、マレイはサヴァンに向いていた顔を、勢いよく戻した。とたんにサヴァンの前にいる機械兵たちにまでマレイの気がおよんで、サヴァンと機械兵との間に、見えない壁を作った。

 反対側にいるカザンも中央に寄りはじめ、両手を横に振って、広範囲に攻撃を渡らせた。

 レダは片手の剣を捨て、両腕を振りあげて、いままでよりも数倍大きい白い壁を、空中に浮かばせた。


 マレイの声は、不思議な強制力をもって、サヴァンの耳に届いた。

 サヴァンは戦闘を止め、マレイの力で前方の敵が散っていくのを見てから、マレイに顔を向けた。その巨大な白い獣を目にしても、茫漠としたサヴァンの心には、なんの感情も生まれなかった。サヴァンは、白い獣をまったく当然なすがたとしてとらえ、その声の強制力も、自然に受け入れた。

 サヴァンは剣を捨て、ふっと身体を反転させた。

 銀色の球体は、リディアの顔の高さにあり、歌う彼女の顔を隠していた。

 サヴァンは歩き出した。球体はそれ以上降下しないようだった。


 ヴァンゼッティと戦っていたメッツァが、ふとリディアのほうを向いたとき、サヴァンはまさに、両手で球体に触れようとしていた。

 メッツァとヴァンゼッティは機械兵の波の中にいて、ふたりの戦闘の巻き添えになった機械兵の残骸が、あちこちに散らばっていた。

「ビューレン!」

 メッツァは、死にもの狂いというような叫び声をあげた。

 遠くにいるビューレンは、オービットと戦いながら、チラッとリディアのほうを見た。

 そしてメッツァとビューレンは、ほとんど同時に、矢のごとくリディアに突進した。オービットとヴァンゼッティがその後を追った。

 メッツァはとてつもない速さで機械兵の間をぬい、カザンの攻撃を避けて進んだ。

 ビューレンも同じように疾駆し、マレイの気の壁を、憤怒の形相で突き破って進んだ。

 ふたりはサヴァンの背後に瞬時に迫った。

 ビューレンが片腕を伸ばしていた。

 メッツァもわれを忘れて腕を伸ばしていた。

 ふたりは目を見開き、顔をこわばらせ、全身全霊をかけて、球体に触れようとした。


 球体に触れる前に、サヴァンの心の空無は極まった。

 その、身の内の透明な平野に、リディアの歌は満ち満ちた。

 球体は、まるで意味を持たない物体として、そこにいた。「球体」という概念すら通用しないような、ある絶対的な「物」として、サヴァンはそれを見た。

 それに触れるのは、容易なようでもあり、絶望的に困難なことのようでもあった。だが不可能ではないと、サヴァンは悟っていた。その「物」は、完璧に赤裸に身をさらけ出している物体で、サヴァンはいま、それに触れるための機能と機会を持った物体として、そこに存在していた。

 サヴァンは、その「物」を触れるというよりは、すでに触れていることを確認するような思いで、両手のひらを球体に当てた。

 触れる瞬間のサヴァンは、だれでもなかった。人ですらなく、「物体」とかかわりを持つ、もうひとつの「物体」だった。この世のなにもかもすべてがそこに含まれるような、とほうもないかかわりを表すものとして、二つの物体は存在し、また存在しえた。

 光が起こった。

 その光は、想像すらできないなにかとほうもないものを、いまから生み出す、前ぶれそのものとしての存在だった。

 すぐに超越的なエネルギーが、光の中の無から湧き出ることを、サヴァンは感知した。

 そのエネルギーは無限で、短く触れても長く触れても、無限は無限だということを、サヴァンに自覚させた。そのときは、もう湧き出たエネルギーはサヴァンに通じていた。サヴァンは迷わず瞬時に手を離した。そして、すっと両腕を下げた。

「しまった!」

 とビューレンがいった。メッツァとビューレンは、とっさに腕を交差させて前に出し、本能的に頭部を守りながら下がった。

 直後サヴァンが両腕を振り上げた。それは、なにかを払いのけるしぐさにも、翼の羽ばたきの一瞬にも見えた。

 すぐにサヴァンの中の見えないエネルギーが膨張していった。サヴァンはもう、自分がなにものなのかということを、はっきりと思い出していた。サヴァンは自身の無限のエネルギーをコントロールした。サヴァンの中で、エネルギーは無限よりは安全な、有限のものとしてたちまち存在していた。しかし有限とはいえ、そのエネルギーは自分の意思に関係なく、一瞬のうちに広がりわたることをサヴァンは理解していた。まさにその一瞬のうちの、さらに一瞬前に、サヴァンは全能となり、最低限の願いを全能としての力で世界に通用させた。

 バッ、と広大な空間が音を立てた。

 サヴァンたちの周囲のあらゆる物体が、またたく間に消滅した音だった。

 霞のようなもやが立ちこめた。それは機械兵たちや、遠くに見える宮殿、さらに反対側の市街地の建物群などが、微小な粒子となってただよっていることを示していた。

 石の平地は無事だった。だが機械兵の集団や、死体や、機械の残骸や武器などは、きれいさっぱり消えていた。銀色の球体も、消えていた。

 その平地には、異能者も含めて、先ほどまでいた人間たちのほとんどが立っていた。いないのは二人だけだった。

 歌は止んでいた。

 染み入るような静寂が流れた。

 サヴァンは、正面のリディアを見た。リディアは涙を流しながら、ほほ笑んでいた。

「おはようございます、サヴァン様」リディア・メロディ・ハイメゾンは、声を震わせていった。

「おはよう」レイ=ロード・サヴァンは、淡い笑みを浮かべていった。

 リディアの奥には、レダにいた。サヴァンはレダを見た。ふたりはつかの間、強烈に見つめあった。

 そしてサヴァンは、右側にいるカザンを見て、反対側のマレイを見た。それから視線を下げて、静かに身体を振り向かせた。そして視線を上げた。

 オービットとヴァンゼッティが、すこし離れた前方に並び、片ひざを付いて頭を垂れ、かしこまっていた。

 生き残った、数少ない部下の卿団員たちはぼう然としていたが、オービットとヴァンゼッティの様子を見て、わけがわからないまま、あちらこちらでとりあえず片膝を付き、頭を下げた。

 これも数少ない異能者たちは、戦意を完全に失っていて、どのくらいの時間で正気に戻れるのかと計算しているような顔つきで、立ちつくしていた。

 遠くの向こうでは、マッキーバも片膝を付いていて、となりに立つエンディウッケは、ぽかんとした顔で、マッキーバと前方の光景を交互に見ていた。


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