覚醒と幕引き・2
マッキーバがドアをノックしても、部屋の中から応答はなかった。
ドアを開けると、横の壁際にベッドがあり、空だった。マッキーバは、正面奥の、夜の闇を映す窓に目を向けた。黒いドレスを着た少女が、こちらに背を向けて、ベランダの椅子に座っていた。
マッキーバは部屋を横ぎり、窓を開けた。アイザレンの帝都ケーメイにある、中枢卿団本部の敷地の、建物のひとつだった。そのベランダからは、小高い丘の下の、ケーメイの街並みが見わたせた。
少女は、背後で窓が開く音がしても振りかえらなかった。
「どうした、エンディ」マッキーバは少女の横に立っていった。
ううん、と少女は首を横に振り、やがて唐突にマッキーバを見あげていった。
「ねえマッキーバ。わたしたち、どうなるの?」
「どう、とは?」
「いつまで戦うの?」
「もうすぐ終わるよ」
「そのあとは? わたしはどうなるの?」
「おまえは自由になる」
「事情聴取っていうのは? やらないの?」
「もうそれどころじゃない。そういう次元の話じゃなくなったんだ」
少女は、わずかにもの問いたげな表情を見せてから、くるっと正面に向きなおった。
マッキーバはいまさらのように、この少女エンディウッケに、中枢卿団の団員を何人も殺した嫌疑がかかっていることを思いかえした。二か月ほど前のことだったが、遠い出来事のように感じられた。
マッキーバは自分がいった言葉どおり、エンディウッケの事情聴取をする時期はとうに過ぎてしまったと感じて、安堵した。エンディウッケは、もはやマッキーバになくてはならないパートナーだった。何度も共に戦い、何度も助けられてきた。エンディウッケが望むなら、彼女を育ててもいい、とマッキーバは思っていた。
「わたしメッツァって人、知ってる」
ふいにエンディウッケがいった。「前は団長さんに嘘ついたけど、ほんとは知ってる」
「もうその話はいい」マッキーバはやさしくいった。
「研究所にいたの、わたし」エンディウッケは話しつづけた。「メッツァって名前は、そこで何度か聴いたことある」
「そうか」とマッキーバは短く答えた。おおよそ察しがついていることだった。
マッキーバは、そのラジャ・メッツァがカイトレイナから脱出して、このケーメイに向かってきていることに意識をやった。アイザレン帝国の首相というメッツァの肩書は、もはやなんの意味もなさなかったが、その存在はあいかわらず自分や仲間たちに、重くのしかかっていて、容易に振りきれるものではないことを、マッキーバは理解していた。
「わたし、特別だったの」エンディウッケがいった。「すごい力があるっていわれてた」
「精神攻撃のことか?」マッキーバがたずねた。
「ちがう」エンディウッケは、顔を正面に向けたまま、首を横に振った。「もっとすごいの。怖いって思ったことが、かたちになっちゃうの」
「なに?」
「うまくいえないけど、怖いものが、人や物のかたちになって出てくるの」
エンディウッケは、またマッキーバを見あげた。
「『ワニ』と『ガクシャ』って、覚えてる?」
「ああ。前にカイトレイナで、おれたちを襲ってきたやつらだろう?」
「あれ、たぶんあたしが作ったの」
マッキーバの脳裏に、二か月前の、奇妙な二人組との戦闘の記憶がよぎった。そしてかれらが、エンディウッケが気絶するのと同時に、唐突にすがたを消したことを思い出した。
もし本当に思念が実体化されるならば、それはたしかに特別な力で、メッツァは彼女をなんとしても取り返そうとするかもしれない、とマッキーバは考えた。そしてそれはマッキーバにとっては、とうてい許されるものではなく、自分の命をなげうってでも阻止しなければならないことだった。マッキーバは、体内に重苦しくこもる、力のみなぎりを感じた。
「いまはどうだ、エンディ。怖いことはあるか?」
「ううん、ない」
エンディウッケは答えた。「だってマッキーバがいるから」
マッキーバはほほ笑むと、エンディウッケの肩にやわらかく手を置いた。そうしてふたりは黙ったまま、しばらくケーメイの夜景を見つめた。
*
早朝、日の出とともに、リターグは帝都ケーメイにすがたを現した。
それは、まだケーメイの手前二百キロほどのところにあって、艦影を空に小さく浮かべているだけだったが、異様な巨大さを凝縮したような艦影は、とりかえしのつかない切迫した事態の象徴のごとく目に焼きついた。
まだ避難していない、一部のケーメイの住民たちは、みな外に出てそれを見て、ある者は脱兎のごとく駆け出し、ある者はぼう然として立ちつくし、またある者は声を震わせて泣いた。
リターグの進撃とともに、陸上部隊もまた前進した。
カイトレイナでの損害で、かれらの数は半減していたが、かわりに、アイザレン軍が置き残していった戦車や武器で戦力を強化し、逆に手ごわくなっていた。
アイザレンの陸軍は、ケーメイの外周に防衛線を引き、総力をもって徹底抗戦をする構えだった。
だが、空のリターグの巨大さは、かれらにもひしひしと恐怖感をつのらせた。かれらは、陸の戦いの先に、どのような好意的な展望も見えないと判断し、戦意はくじかれた。
超戦艦リターグと百キロほど離れた正面には、中枢卿団とアイザレン軍の、全艦隊が集まっていた。
それらは、旗艦や飛行空母などを囲んだ輪形陣をいくつも作っていた。陸から目にするその様子は、迫りくる脅威になんらかのおだやかな対話を求める記号のように見えた。
中枢卿団・第二隊長ルキフォンスは、旗艦メサイアの戦闘指揮所の司令席に座り、奥の壁一面のディスプレイに、じっと目をこらしていた。
望遠のカメラが、リターグのすがたを大きくとらえていた。縦に長い台形の島のようなその艦からは、何十本という砲身が突き出ていて、無機質な凶悪さを圧倒的にさらけだしていた。
指揮所内は、重い静寂が立ちこめていた。その静寂には、もはや人間性というものが欠けていて、百人前後の通信士や士官たちは、静寂そのものに取りこまれ、存在感が希薄だった。
ルキフォンスは、もとより真正面からリターグと戦っても、勝ち目はないと理解していた。大陸最強とうたわれたルキフォンス艦隊も、カイトレイナでの戦いで主力艦を次々と失い、いまはこの旗艦メサイアと、数隻の戦艦と巡空艦、そして一隻の飛行空母を残すだけとなっていた。
卿団のほかの艦隊や、軍の艦隊と合わせると、それなりの数量だった。しかし、それは超戦艦リターグと対等に渡りあうにはあまりにも頼りなく、紙一枚程度の壁でしかないことを、ルキフォンスだけではなく、すべての人間が悟っていた。
と、にわかに指揮所内にざわめきが起こった。止まっていた時間がゆっくりと流れはじめるような、曲線的な調子で音が高まり、頂点に達すると、喧騒の中で時の流れという観念は消えうせた。
「主砲か?」ルキフォンスは隣の席の参謀にいった。
「はい。斉射です」
「避けろ」
「はい」参謀はくぐもった声で答え、正面を向いてヘッドセット越しに話をはじめた。
ほどなく、雷のような轟音とともに、指揮所内が重く揺れた。
「どうした」ルキフォンスは鋭い目だけを参謀に向けていった。
「被弾しました。でも大丈夫です。問題ありません」参謀はデスクのモニターを見ながら、あえぐようにいった。
味方の損害の報告が、次々とルキフォンスの耳に入ってきた。いまの斉射で、ルキフォンス隊の最後の飛行空母が沈没し、ほかの艦隊の戦艦も、何隻か沈没、あるいは大破していた。
ルキフォンスは、ため息をついた。本音を音で表したような、別世界の言葉じみた調子だった。彼女はすこしの間沈黙してから、携帯通信機を取りだすと、耳にあてた。
「ケンサブル、わたしだ」ルキフォンスはいった。
「やられたかい、いま?」中枢卿団・第四隊長イル・ケンサブルは、かれ独特のおぼろげな声でそうたずねた。
「まだ大丈夫だ」ルキフォンスは答えた。「いまのうちにメサイアを出てくれ。ロヴァを一機やる」
ケンサブルは、数秒黙りこんだあとでいった。「いいのかい、それで」
「わたしはわたしの役割を果たす」ルキフォンスはいった。「おまえはおまえの役割を果たせ」
「賛成できないねえ」ケンサブルが苦い声でいった。「もう十分じゃないのかなあ」
「オービットがまだ足りないと判断した。かれの指示にしたがうしかない」
「……これでうまくいかなかったら、わたしはオービットを殺すよ」
「いままで世話になった、ケンサブル」
「一緒に戦えてよかったよ、ルキフォンス」
ルキフォンスは、切った携帯通信機を手に握ったまま、正面を向き、遠い目をした。
「司令、射程距離に入りました」参謀が振り向いていった。
「撃ちまくれ。針路は維持」ルキフォンスの口からひとりでに声が出た。
「ロヴァはどうされます? 四機とも爆撃用に換装してありますが」
「一機はケンサブルが乗る。残りは出撃させろ」
ルキフォンスはそう命令した。しかし彼女は、リターグの火力の前では、目に見えない戦闘機といえども、どうすることもできないだろうと感じていた。
指揮所内の喧騒は、ほとんど悲痛なものに変わっていた。
ルキフォンスは、その騒音を静かな心で聴いた。やがて、彼女の耳の中で、言葉は言葉としての意味を持たなくなり、単に音として鳴った。高い音低い音、大きい音小さい音が、からみ合い、つむがれていく。ルキフォンスの規則正しい呼吸が、口元を覆うフェイスマスクを生暖かく濡らした。参謀がなにかを問いかけてきて、自分がなにかを答えたのを、彼女は第三者のように認識した。
また指揮所内が震動した。喧騒が叫びに変わった。高い叫びの合唱が一本の柱となってどこまでも伸びていく。ルキフォンスは、それをだれでもない耳で聴いた。彼女は虚空を見つめつづけた。
参謀の声がした。かれはなにかをこちらにうったえていた。だが、ルキフォンスにはかれがなにをいっているのか分からなかったし、分かろうという気も起こらなかった。
奥の壁の巨大ディスプレイに映るリターグは、彼女の空疎な視線の中で、遠近感がぼやけていた。ルキフォンスは、やがて自分を殺すだろう物体を直視することを拒んだが、目をそむけることは、どうしてもできなかった。
指揮所内には、無機質な警報がいつからか鳴っていて、いっこうに止む気配がなかった。




