連鎖・3
エアハルトは、自分に残された時間は少ないと、はっきり感じた。おまえはここで死ぬ、といったルケのことを思い出した。そのとおりになりそうだ、とエアハルトは納得した。
血でかすむ視界の中で、エアハルトはコーデリアをとらえていた。顔はよく見えなかった。ただ頭の中にはあった。かつてのコーデリアのさまざまな表情の美しい顔が、次々に立ち現われて消えた。
エアハルトは、いまのコーデリアは空っぽだと思った。身体はあるが、中身はなかった。不憫だと感じ、いとおしさがこみ上げてきた。行動するべきだ。なんでもいい、とにかくなにかを行動するべきだ。いまは行動しかない。
エアハルトは、血でぬめった制服の内ポケットに手を入れた。ごく自然な動作だった。
取り出したのは、手のひらに収まる大きさの、小型の拳銃のようなものだった。乳白色のプラスチック製で、取り出したときに付着した血の色が際立った。指はトリガーにかけられていた。
「これ、なんだかわかるか?」エアハルトはそれを横にして、コーデリアにかざしていった。「覚えてるか、これ」
「覚えてる」コーデリアはうつろな表情でいった。「あなたの薬の道具」
「そう、禁じられている薬の道具だ」
エアハルトは訴えかけるようにコーデリアにいった。「おれはこれを打つ」
コーデリアは口をつぐんだ。まだおぼろげな表情だったが、なにかが目に灯った。それは完全に純粋な生気の出現、とでもいえるようなものだった。
「おれは豹変する」
エアハルトがいった。
「おれはおまえに、耐えられないような醜態をさらす。そして剣を振りまわす。おまえに飛びかかる」
「なぜ?」コーデリアがいった。
「そうしたいからだ」エアハルトは冷静な声でいった。
「わからない」
コーデリアの首が、ひとりでにかすかに横に振られた。「それはあなたじゃない。いまもあなたはあなたじゃない。だれでもないのは、好き」
エアハルトは銃口に似た噴出孔を、首にあてた。首に流れる血でそれがすべりそうになり、エアハルトはぐっと押しつけた。
その姿勢で五秒ほど間を取ってから、トリガーを引いた。プシュッと音がした。エアハルトは床にそれを落とし、ナタに似た剣のもう片方を、鞘から引き出した。
微妙なズレのようなものを、コーデリアは感じていた。それは、いま自分がしっくりきている空間に侵入するなにものかだった。コーデリアは、すぐにそのズレを失望ととらえた。そんな感情が、なにもないところから生まれることが不可解だった。強引に、どこかに引き戻されるここちがした。そのどこかはとても込み入っていて、うるさいところだと感じた。
エアハルトが飛びかかってくるのを見ても、それはだれでもなく、ただ敵という存在としか、コーデリアの目には映らなかった。敵は両手に持つ剣を振りあげて、まっすぐこちらに向かってきた。コーデリアは、その敵の息の根を確実にとめるのを実感したい、という衝動に駆られた。彼女は迫る敵の胸に狙いを定めた。
ガッ、と、苦悶の声がした。
両剣が床に落ち、大きな音を立てた。
エアハルトは、コーデリアに覆いかぶさるように、身体をあずけて背中を丸めていた。その背中から、剣先が突き出ていた。
コーデリアは、敵の全体重がのしかかってくるのを受けとめた。それはとても重かった。その重みを身体全体で感じ、コーデリアの目から、わけもわからず涙が出た。やがてこの重みを持つ者は、信じられないほど軽くなるだろう。そして軽さすらなく消えてゆくだろうと思い、彼女は無意識に、エアハルトの名前を呼んだ。
「使ってない」エアハルトは喉にたまった血をあふれ出させながらいった。「薬は、使ってない」
コーデリアはかれの名前を呼びつづけた。まるでそうすることによってなにかとつながる祈祷師のようだった。
エアハルトの身体がひざからくずれ落ち、横に倒れ、あおむけになった。胸元に、剣が柄を向けて突き出ていた。
コーデリアは恍惚とした顔でエアハルトを見おろし、すぐにガクンとひざを付き、そのままの姿勢で、エアハルトの顔のほうににじり寄り、もうすぐ二度と言葉をかわせなくなるその者のほほに手をあて、その者の中からあふれ出した血のぬめりを肌で感じ、世界が瞬時に切り替わった。
「ロー、どうして?」コーデリアはいった。
「これでいい」
エアハルトの、か細い声がもれた。「また会えた。十分だ。あとは、おまえの……」
口を開いたまま、エアハルトは事切れた。
コーデリアは、絶望という名の置き物となって固まり、その絶望の絶対的な力に驚愕した。
「ふーん、どうなのかな」ルケの声がした。
ルケは立ちあがると、エアハルトの死体には目もくれず、落ちている薬の道具のもとに行った。そしてそれを無造作に取り上げ、眺めたり振ったりして、最後に噴出孔を宙に向けて、トリガーを引いた。
「ああ、なるほど。これ空だ」
ルケは軽い調子でいった。「ほんとに薬使ってないよ」
──どうして。
答えのない疑問に、コーデリアはおぼれた。どうして死んでしまったの? どうして死のうとしたの? なんでこんなことに、なってしまったの?
コーデリアはうなだれて、ぼう然とした。
「これでいいのか、ルケ?」キュベルカの、事務的で冷徹な声が響いた。
「ああ、まあいいよ」ルケはそういって、薬の道具を置き捨てると、椅子に戻って座り、脚を組んだ。
「では、後始末はおまえにまかせる」
キュベルカが厳然といった。
「おまえが仕組んだことだからな。そこの残りの『知事』やコーデリアの始末は、おまえがつけろ」
その瞬間、クイラ・クーチのすがたが消えた。
と思う間に、コーデリアの首から鮮血が走り、頭部がごとりと床に落ちた。身体は倒れなかった。まるで余計なものが取れたかのように、首のないコーデリアのひざまずいた身体は、バランスをたもって微動だにせず、鋭い切断面から血液が一定のリズムで噴き出した。
クイラは、そのコーデリアの背後に立っていた。
目には、さまざまな感情が凝縮された、異常な集中力が宿っていた。
その場にいるだれもが、あっけにとられた。キュベルカやルケのような、常人を超越した視力を持つ者たちでさえ、クイラの動きはまったく見えなかった。
コーラが瞬時にクイラに向けて剣を構えた。
「ルケ!」キュベルカが叫んだ。立ちあがって赤鞘から太刀を抜いていた。
ルケはすばやく腕を伸ばして、人差し指をクイラに向けた。そして腕を横に走らせようとした。精神攻撃の前触れだった。だが横に移動した腕に手首はなかった。小さな音を立てて、手首はルケの両ひざの間の床に落ちた。
「え?」
ルケはぽかんとした顔で、うつむくと、落ちている自分の手首を見おろした。その首の上に、クイラは剣の刃を当てて立っていた。
クイラの極限の感情のうねりは、彼女を冷静にさせた。
それは感情を押しこめるための平静さではなく、完全に実際的なことがらを秩序立てて遂行するためのものだった。
かつて自分の命を救い、路地裏の浮浪者だった自分の身を『知事』にしてくれたエアハルトは、命の恩人であり、同時に、生まれて初めて会った善い男であり、全身を投げ出さんばかりに思い慕った人だった。ほとんど、無際限の愛情をもっていた。
そのエアハルトが、目の前で、殺された。
クイラは、エアハルトのいうとおりにさがって見守る間、盲目的にかれを信じていた。一瞬も、そんな結果になるとは思わなかった。まったく予期しないことだった。クイラの悲しみと怒りは、追えない速度で一本の棒となって突きあがり霧散し、次に疑問があふれかえり、張りつまって爆発した。どういうこと? なんでエアハルトは死んだの? あ、そこにいまエアハルトを殺した女がいる。殺さなきゃ。
こいつも殺さなきゃ。
クイラは、ルケの首に当てた剣の、柄を握る両腕に力をこめた。
あああああ、とルケの口から声がもれた。それは低い音階から高い音階に上がっていく調子で、自分の死を示す短い歌のようだった。ルケの首は、許容できる範囲を越えた長い時間をかけて断ち切られた。その反動でルケの身体は大きく前にのめり、首の切断面からもぐりこむように地面に倒れた。
うん、完了。
全身血にまみれたクイラは胸の内でいった。おそろしく澄んだここちがした。




