ユーゼン公領の殺人・4
晴れわたった午前の外は陽気にあふれていたが、応接室は凍えるような沈黙に包まれていた。
そこにいるのは、サヴァン、レダ、リディア。そして執事と、ユーゼン公爵夫人リーンだ。
かれらはソファーに座って、テーブルの上の紙面を、ぼう然と見下ろしていた。
「……で?」
と、やがてレダが、リーンと執事に目をやりながら、口を開いた。
「まさかこれ、まだ有効なのか?」
リーンも執事も黙ったままだった。そしてその無言が、答えを示していた。
呼び出しを受けるまで、サヴァンたち三人は、リディアの部屋にいた。
体調が万全ではないリディアはベッドに横になり、レダも仮眠を取り、サヴァンは修理中のマスチスと連絡を取ったり、事件のことや今後のことをあれこれ考えていた。
ともあれ、公爵夫人と話したい。結局、行き着くところはそこだった。
そしてその願いは、予想外に早くかなえられた。
二時間ほどして、三人は執事に呼ばれて、応接室に行くことになった。
そこに、簡素なドレスを着た公爵夫人リーンが待っていたのだった。
「本当に、このようなことになってしまって、申し訳ありません」
そういったリーンの顔は青白く、いかにもやつれた様子だった。
「……さきほど、主人の部屋の金庫を開けましたの」
ほどなく、リーンがいった。
「物取りということも考えられますから。……そうしたら、こんなものが」と、リーンは一通の封書を見せた。
「これは主人のものではなくて、封蝋からすると、先代のものなんです」
話がつかめないサヴァンは、あいまいに相槌をうった。
「封は開いているんですが、まだ中は見ておりませんの」とリーンは続けた。
「もしこれが遺書の場合、しきたりでは、第三者のかたのお立ち会いが必要と、執事に聞かされたものですから」
証人ということか、とサヴァンは納得した。
それなら、自分たちはうってつけだ。王女と、二人の『知事』。いうことなしだろう。
そうして、一同はソファーに座り、執事が封筒から書面を取りだした。
「これは、遺書ではありませんな」
と、執事は目を通しながらいった。「なにかの、協定の……」
そこまでいって、執事は突然驚愕した表情になって、絶句した。
リーンにうながされ、執事はどうにか読み進めたが、声はかすかに震えていた。
内容を聞き終えて、執事と同様にがく然としたリーンが直接それを読み、つづいて、これもにわかには信じられないサヴァンが目を通した。
それは、第一次二公戦争末期に、ユーゼン公とエイゼン公との間にかわされた、密約の書面のようだった。
細かく要項がならんでいたが、もっとも驚くべきは、次の一文だった。
『今後、ユーゼン公、エイゼン公のいずれかが、爵位継承者、すなわち息子を持たずに死去した場合、その領土の統治は、二公のうち存命の公に委任する。もし二公がともに爵位継承者を持たずに死去した場合、両公領の統治は、皇国にゆだねる。以上は第一次二公戦争終結と同時に適用され、両公領が存続する間、代々有効である』
そして現在、リーンと執事の無言から、この秘密協定がどうやら法的に有効らしい、とさとったサヴァンは、他国のことながら開いた口がふさがらなかった。
──シャブロウ二世に子供はいない。じゃあなにか? このユーゼン領は、エイゼン領に併合されるっていうのか?
「この書面は、まちがいなく本物なんですか?」
とサヴァンはたずねた。
「……そうですね、」と考えこみながら執事が答えた。
「はっきりとは申せませんが、わたくしが見たかぎりでは、先代のサインのように思われます」
サヴァンはなにげなくテーブルの書面に目を向け、下のほうをながめた。
二つのサインがならんでいるが、くずした筆記体なので、まったく読み取れない。
かろうじてわかるのは、どちらのサインにも、右側に「一世」をあらわす「Ⅰ」の文字があることだけだ。
書面の日付を見ると、第一次二公戦争が終わるひと月前。いまから五十年前だ。紙の質感には、それらしい古さは感じられる。
「しかし……」
と、またサヴァンが口を開いた。
「あとつぎがいなければ、領地をほかの公爵にゆずるなんて、ちょっと考えられない取り決めですね」
「たしかに」と執事はうなずいて、物思いにふける様子でいった。「ただ、あのころは先代の両公とも二十歳におなりになったばかりで、ちょうど後見人の執政官が退任しておりますので」
すこし間を取ってから、執事は苦い顔をしてつづけた。
「……若気のいきおいで、とでもいうほかはないでしょうか。まさか三年後にまた戦争になるとは、おふたりともお考えにはならなかったでしょうし」
「ですが、亡くなられたシャブロウ二世殿下は、これについてなにもおっしゃっていなかったのですか?」
「わたくしは、お聞きしておりません」と執事が答えた。「このような文書があることも、いまはじめて知りましたので」
「わたくしも、知りませんでした」
リーンはそういうと、目を伏せてさびしげにつづけた。「わたくしには、なにも話してくださいませんでしたから」
「金庫から盗られたものは?」サヴァンがたずねた。
「それも、わかりませんの」と、リーンは答えた。
「もちろん、空になっていればあやしいと思いますけれど、そうではなかったもので。なにぶん、主人の金庫ですから、わたくしは中身は把握しておりませんのよ」
そういって、リーンは短くため息をついて、
「あの金庫は、万が一のとき、執事の立ち会いのもとでだけ、わたくしも開けられますの。でも、そんな機会もありませんでしたので」
「ほかに、開けられるかたは?」
「いえ、主人と、わたくしだけです」
それと、もしかすれば例の特使も、とサヴァンは思った。
慎重な公爵をあざむいて、屋敷にあがりこみ、暗殺するくらいの腕があるのなら、金庫の一つや二つ開けることはできるだろう。
なんにしても、これでますます、エイゼンは無視できなくなった。ユーゼン公が死んで得をするのは、公爵夫人ではなくて、エイゼンだ。エイゼン側が同じ文書を盾にすれば、取り決めではユーゼン公領はエイゼンのものになる。そうなれば公爵夫人の遺産も、向こうのさじ加減一つになるんじゃないか?
そのとき、ドアがノックされた。入ってきた使用人に、侍医が書斎で待っていると告げられ、一同は席を立って、書斎に向かった。
リディアだけが最後まで、なにか考えこむように、じっとテーブルの書面を見つめていた。
*
「毒殺ですな。死亡時刻は、昨夜の十時から零時の間と思われます」
と、侍医がいった。
死因も死亡時刻も、ある程度予想がついていたので、皆は冷静に聞いた。
「簡単な検査器具を持ってまいりましたので、一応それで調べましたところ、」と侍医はうしろを指さして、「片方のグラスのワインから、毒が検出されました」
「それは、どういうたぐいの?」と執事が聞いた。
「無味無臭で、即効性の劇薬です」と侍医は答えた。「ほんの数滴なめただけで、一分もかからず死に至ります」
「毒が出たのは、そのグラスのワインだけですか?」とサヴァンがたずねた。
「ええ、テーブルのものはすべて調べましたが、他からはなにも」
と、侍医はサヴァンに好奇の目をむけていった。
サヴァンたちを公爵夫人から紹介されたこの医者は、『知事』と話すことがよほど興味深いようだった。たしかに、ふつうはそんな機会は一生おとずれないのだ。
「警察か、もしくはエイゼンと、話をしなければなりませんな」
侍医を帰してから、書斎に戻ってきた執事が、リーンにいった。
「こうなりますと、内々に、というわけにもいかないと存じます。このままでは、当地が乗っ取られるかもしれませんぞ」
「そうですわね……」と沈んだ声でリーンがつぶやいたとき、また使用人がやってきて、来客を告げた。
「エイゼンより、使者のかたがお越しです」
一同は思わず、顔を見合わせた。
執事が応対のために退室し、書斎には沈黙がおりた。
サヴァンは腕組みをして考えにふけり、レダはかがんでユーゼン公の死体を観察している。窓際に歩いていったリディアは、差しこむ日差しの中で、なにか思わしげにたたずんでいた。
「……あのチーズですけど」
と、やがてサヴァンが、ふいにリーンに顔を向けていった。
「いつも、まるごと持っていかれていたんですか? チーズのことはよく知りませんけど、なにかめずらしい気がして」
「ええ、かならずああして、ご自分でお切りになってましたわ」
とリーンが答えた。
「大好物でしたけど、切ってあるものは毒が塗られていると怖い、とおっしゃって」
「それは、とても……お気をつけてらっしゃったんですね」サヴァンは言葉を選んでいった。
「もう、本当に神経質で」
リーンは力なく笑った。
「先代が、ワインに入っていた毒で亡くなられたので、特にワインは、ボトルもグラスも厳重にご自分で管理されて、わたくしがそそいだものでも、お飲みになりませんでしたのよ」
「なあ」
と、そこへレダが、しゃがんだまま口をはさんだ。
「このコーヒー、いったいなんなんだ? ワインとコーヒーを一緒に飲むなんて、聞いたことないぞ」
「さあ、それは、わたくしにはなんとも」と、リーンは困ったように答えた。「あるいは、特使が望まれたのではないでしょうか」
レダは、リーンの顔を無言でながめてから、またユーゼン公の死体に向きなおった。
「それにしても、この部屋も、このままというわけにはまいりませんわね」
リーンは書斎を見まわしていった。
「主人の遺体のこともありますし。……あの、わたくし少々失礼いたします」
そういうと、リーンは書斎を出ていった。
少しして、執事が戻ってきた。そして困惑を隠しきれない様子で、執事はいった。
「昨日の特使がまだ戻ってこない、とのことで、エイゼン側も探しているらしいのです」
「え?」と、サヴァンは驚いた。
「じゃあ、エイゼン側は、特使をここに送ったことを認めているんですか?」
「はあ、使者の話では、あちらでも騒ぎになっているようで」
と、執事はサヴァンの反応をいぶかるように答えた。
サヴァンはまた腕組みをして考えこみ、執事も公爵夫人を探しに、ふたたび書斎を後にした。
それを見はからったように、リディアが静かに窓際を離れ、サヴァンのもとに歩いていった。
「あの、お話があります」
リディアはサヴァンに、小声ながら決然とした調子でそういった。
「奇遇だな」と、レダもゆっくり立ちあがった。「あたしも話がある」
「うん」とサヴァンも答えた。
「おれも、話がある」
*
「いくつか、おたずねしたいことがあります」
サヴァンは、廊下を急いでいた執事をつかまえて、断固とした口調でいった。
ちょうど公爵夫人が書斎を使用人と片づけはじめたところで、サヴァンはそれを見て、執事に話しかけたのだった。
実際、たずねたいことは本当にいくつかだ。そしてそのタイミングは、いましかない。
「はあ、なんでしょうか」と、執事はやや気おされたように応じた。
「昨日、特使が帰ったあと、妙な物音や、変わったものを見た人はいませんか?」
「さあ……十時半すぎに、シャブロウ殿下が詰所に内線をかけてこられて、もう休んでよいとのことでしたので、わたくしも使用人も部屋に戻りましたから」
「じゃあ、仮に特使がシャブロウ殿下を暗殺したとすれば、勝手に屋敷を出て、帰っていけたと?」
「そうなりますな。使用人の話では、今朝玄関の鍵が開いていたそうですし」
「シャブロウ殿下が執務や会談をしているところに、リーン殿下が差し入れを持っていくことはありましたか?」
執事は一瞬ぽかんとして、「はあ、それはもちろん、ご夫妻ですから」と答えて、ようやく不審そうな顔つきになった。
「次で最後です」とサヴァンはいった。
「亡くなられたシャブロウ殿下と、現在のエイゼン公の、政治的な立場は、どのようなものですか?」
サヴァンの厳しい目を、執事はまっすぐ見かえした。しばらくにらみ合うような間があり、やがて執事が口を開いた。
「どういうことですかな?」