リターグの北上・1
「『サタナカン』大破、後退します!」と、通信士の声が飛んだとき、それまで表情を変えなかったルキフォンスのほほが、フェイス・マスク越しにぴくりとけいれんした。
断続的に、床がズンと震える。こちらの砲撃の衝撃だ。
サタナカンは、ルキフォンス艦隊の旗艦『メサイア』の僚艦で、二番艦だ。それが後退ということになると、陣の片側が大きく崩れる。実際、戦闘指揮所の高所にある、ルキフォンスの司令席の、デスクのディスプレイでは、左翼の味方の光点がたちまち心もとなくなった。
いま、ルキフォンス艦隊は、超戦艦リターグを相手に、熱気と混乱のうずまく砲戦をしかけていた。距離にして四十キロをへだてた砲戦だ。
時は夜。エアハルトがメイナードと話をして、二日後のことだった。
悠然と北上をはじめたリターグのすがたを、じっと待ちかまえていたルキフォンス艦隊がとらえたのは、今日の夕方のことだ。メサイアの指揮所は、壁一面のモニターに映されたそのリターグを見て、一瞬静まりかえった。
大陸最大といわれるメサイアが、まるで小型艇のように思えてくる。それほど巨大で、異様な様相。縦長の台形で、山のようなかたちの建築物がブリッジのように立っている。五十センチ以上はあろうかという砲門が、前方にも側面にも底部にも、無数に突き出ている。
そんな化け物が、北へ、おそらくはアイザレン本土に向けて、近づいてくるのだ。
最強を誇るルキフォンス艦隊は、総力を結集していた。四隻の戦艦、六隻の飛行空母、巡空艦、駆逐艦あわせて五十ほど。
まさに大艦隊だ。ルキフォンスは、この艦隊の勝利を、信じて疑わなかった。いくら巨大とはいえ、相手は一隻。それを護衛する小艦隊もいるが、物の数ではない。はずしようのない的に、砲弾を浴びせまくる。やがて起こる大火災、沈没するリターグ。そんなイメージが、ルキフォンスの頭にはあった。
だが実際は、戦闘開始からこの数時間で、損害を受けたのは自分たちだった。
敵の主砲群を警戒して、四十キロの距離を取ったはいいものの、このアウト・レンジでは、いかに優秀なルキフォンス艦隊とはいえ、弾着が整わない。数発命中したものの、敵はびくともしない。対してリターグからは、こちらとは比較にならないほど高威力の砲撃が襲ってくる。
退避行動をとる間もなく、巡空艦や駆逐艦が、次々と沈没していく。戦闘機群も出してはみたが、敵の猛烈な弾幕の前に、なすすべがなかった。
そしていまの、二番艦サタナカンの大破だ。
──わたしの艦隊が、崩れていく……
ルキフォンスは、ふいに、恐慌とも、恍惚とも知れない思いにとらわれた。
百人近い通信士の声が、呪詛のように耳に響いてくる。
わたしの楼閣。わたしの世界。わたしが、わたしである意味が、溶けていく。中枢卿団の第二隊長まで登りつめた自分。そう、このメサイアとわが艦隊の前に、敵などあってはならないのだ。栄光、不動の栄光。……まだ望みはある。まだやれることは、いくつか残っている。
「閣下、ロヴァを出すべきでは?」
ルキフォンスのとなりの、参謀席の男がいった。
──もちろん、それもある。だが。
「ケンサブルの報告を待つ」ルキフォンスは、鋭くいった。「どこまで内側を崩せるか。今後の判断は、それによる」
「信号では、ケンサブル卿のロヴァは、そろそろリターグに近づきますな」
「全部隊、砲撃を中断、後進しろ」
ルキフォンスはそういうと、切れるような目を、デスクの上のモニターに向けた。
*
広大な空間に、人がひしめいている。老若男女さまざまだが、着ている服は、みな一様に、灰色のぴっちりとした制服だ。モニターが何列も延々と立ち並び、人々は椅子に座って、そのモニターに向かいあい、キーボードを操作している。ヘッドセット越しの会話の喧騒が、ざわざわとあたりに響きわたっている。
左右と奥の壁には、巨大なディスプレイが設置されていて、点や線、三角、円形など、無数の光点が点灯している。
ここは、いまや空前絶後の大戦艦となったリターグの、戦闘指揮所の中だ。陸の町だったころは地下にあって、厳重に秘匿されていた場所だった。
「もとは『知事』だった者もいる」ジオ・レドムは、あっけにとられて見入っているサヴァンとリディアにいった。三人は吹き抜けの上階のへりから、下の様子をながめていた。
「いや、ほとんどが、もと『知事』といっていいな」とレドムはいい足した。
「かれらはこの日のために、長く訓練を積んできた。もしリターグが飛ぶ機会がなければ、まったく無駄な訓練だ。それでもかれらは、りっぱにやり遂げた。その結果がこれだ」
「つまりこうして飛ばなければ、地下のほかの施設も、使わずじまいになっていたということですか?」サヴァンがたずねた。
「そう、数万人を収容する居住施設、火器、飛行のための動力機関、その他もろもろは、この日のためだけにあった」
「ですが、なぜそのような準備を?」リディアが、下の階から目を引き離して、レドムを顔を向けていった。
「準備というよりは、もともとリターグは、飛行艦だった」レドムが答えた。「そして、いつかは飛ぶことになっていた。……いつかは、必ず」
サヴァンとリディアは、無言になったレドムに、しばらく目をやりつづけた。
──なにがなにやら、さっぱりだ。
サヴァンは、レドムから下の階に目を移し、通信士たちの整然とした喧噪をながめた。
こうして、レドムに連れられて指揮所に来てみたはいいものの、どうにも現実味がわかない。おれが生まれ育った町が、実は飛行艦だっただと? そして、いつともしれない飛行のために、準備を続けていたと? それは、この戦争と直接関係があるのだろうか。だとすれば、リターグだけじゃなくて、ひょっとすると『知事』も、戦争にそなえて育てられてきたのかもしれない。
「敵艦隊、砲撃止みました」と、通信士の大声がした。「敵艦隊、後退を開始」
参謀席の男が、レドムのほうを見あげた。レドムは、小さく首を縦に振った。
「砲撃やめ」参謀がすかさず声をあげた。
「レドムさんは、ここの司令も兼任なさっているのですか?」一連のやりとりを見ていたリディアが、目を丸くしていった。
「そうです」と、レドムは事もなげにいった。
サヴァンは、ふと眉をひそめた。
それは、レドムの超人的ともいえる激務に対してのものではなかった。リターグや『知事』への、思いにもならない思いからくるものでもない。
現実的な実感。気配だ。
砲撃が止んだという報告の直後から、じわじわと、いやな気配が広がってきている。無意識に身体が張りつめる。サヴァンは視線を宙にさまよわせ、意識を集中させた。
なにかが、近づいてきている、このリターグに。
「局長」サヴァンはけわしい顔で、いった。
「中枢卿か?」レドムはサヴァンのほうを見ずに、すばやくいった。
「はい、おそらく」
「ひとまず、エアハルトにまかせる。あとは状況次第だ」
突然の異変に、不安げな表情を浮かべ、ふたりの様子を見守るリディア。
指揮所内の喧騒から取り残されたような、重い静寂が、その場に立ちこめた。
「イサギを返して」部屋のドアの前に立って、メイナード・ファーは静かにいった。
視線の先には、手早く身支度を整えているエアハルトのうしろ姿がある。
「あとにしてくれ」エアハルトは跳ねのけるようにいった。ここは知事局の中にある、エアハルトの私室だ。いまエアハルトは、なたのような剣をおさめた大きめの鞘を二本、腰に差し直しているところだった。
「あなたではむり」メイナードは、口調を変えずに、おだやかな声でなおもいった。「特にいまのあなたでは、絶対にむり」
「きみなら勝てるとでもいうのか? この気配の敵に」
「わたしに会いにきた」メイナードは短く答えた。「だから、わたしがいく」
エアハルトは、メイナードのほうに振り向いた。口を引き結んだ、すずしい目の女がそこにはいた。
ふたりは、すこしの間、無言で視線をかわし合った。
「……いまのおれでは、とは、どういう意味だ?」やがて、エアハルトがいった。
メイナードは、わかりきったことを、という風に首を横に振ってから、かたくなな声でつづけた。
「イサギを、返して」




