聖都動乱・9
ラザレクの宮殿の、最奥にある謁見用の大広間は、まだ静かだった。
砲声も、銃声も聴こえない。人の声もない。
ただ無数の死体が、広間の床一面に、敷きつめられるように倒れている。
老若男女さまざまだが、みな裸だ。かつてかれらの性の嬌声は、この広間にたえまなくさんざめき、かれらのうごめきは、生をなまなましく浮き彫りにさせていた。
女帝リリィ・エントールは、踏み段の上の玉座に座り、うつろな顔で、たたずんでいた。
──死、か。
女帝の心に浮かぶ、死という言葉。
それは現実的な力感をもって、身の内に迫ってくる。
近侍の者たちは、ラザレク陥落が目の前に迫っていることを口早に告げ、ろくに別れもいわず、女帝に付き添おうともせず、みなどこかへ去っていった。
広間の無数の男女を、女帝が自分の異能でことごとく殺したのは、それからほどなくしてのことだ。
──こうして、たわむれに死体の群れを作ってみても、やはり死は理解できぬ。
虚脱感が、女帝を襲う。
宮殿の周辺にも、死体の群れが築かれていることを、女帝は知らなかったが、察することはできた。
アイザレンの中央軍集団の三個軍は、すでにこの、ラザレク最後の砦である宮殿を包囲していた。
抵抗は少なかった。宮殿を護る兵士も、近衛の静導士も、圧倒的な兵力差のもとでは、なすすべはなかった。
銃弾の雨に消える、エントール軍の兵士たち。多勢に無勢の中、中枢卿の部隊に果敢に挑み、散っていく士団員たち。
町の中にある町、といえる広さを持つこの宮殿内に、残された兵士や士団員たちは立てこもり、最後の抵抗を試みていたが、そこに希望といえるものは、なにひとつなかった。
──物心もつかないうちに、こうしてまつりあげられ、宮殿に閉じ込められ、その日その日を、おもしろくもおかしくもなく、生きてきたが……
いいようのない思いが、女帝の胸の内に広がる。
このうえ、みじめな生き恥をさらすつもりは、毛頭ない。……だが、死とは、なんなのか。
不思議と、恐怖は感じない。ただ理解できないだけだ。ならばせいぜい、理解するもしないもない状況の中で、死ねればいいと思う。そう、たとえば、ここになだれこんでくる兵士や中枢卿たちを相手に、思う存分暴れまわり、戦いの内に爆ぜるように死に果てる、というような。
リリィ・エントールは、自分の白い片手を握りしめ、おぼろげにそれをながめた。
そのとき、広間の大扉が開く、ぶ厚い音が響きわたった。
女帝は自然と威儀を正し、あごをこころもち上げて、そちらを見やった。
女帝の脳裏には、何人もの、敵意をあらわにした者たちの姿が思い描かれた。
だが現われたのは、一人の、奇妙な容姿の男だった。
白い長衣、白い長髪。だが顔は若い。見たことのない者だ。穏やかな風貌のその男は、臆することなく、ゆっくりと近づいてくる。流れるように、死体の群れを避けながら。
やがて男は、踏み段の下で立ちどまった。
「何者じゃ」リリィ・エントールはいった。
「わたしの名前はイド。いまはそう呼ばれています」イドは女帝を見上げ、ゆったりとした口調で答えた。
「して、イドとやら、何用じゃ」
「まず、あなたは〝日に立つ者〟のことをご存じのはず。これに間違いはありませんか?」
「リディアという娘か。たしかに、リカルドから聞き知った。もっとも、その異名と、このレガン大陸に災厄をもたらす、ということしか聞いてはおらぬが」
「災厄。そういういいかたも、あるいはできるでしょう」イドは、うっすらとほほえんだ。
「はよう、大元の用件を申すがよい」
「定めが、わたしをここに導きました」イドは答えた。「そして定めの元に、あなたもここにおられる」
リリィ・エントールの、イドを見おろす目が光り、ふと細められた。
「……わらわと、戦う心づもりか」
「あなたは不憫なお方だ。せめて、最期はわたしが看取りましょう」
フッと、女帝は、楽しげに笑った。そして突如、目を見開くと、腕をイドにむけて伸ばした。
バン! と轟音が鳴りひびく。
女帝の手から放たれた強烈な衝撃波が、イドの身体を襲う。
だがイドは、なにごともない風に、立っていた。
女帝の顔が、まがまがしくゆがめられる。長い黒髪が、ブワッと逆立った。
女帝は、なにかにとりつかれたように、玉座から立ち上がった。
そしてふたたび、片腕をイドに突きつける。
ズバン! と、今度はさらに強い衝撃波が、イドに浴びせられる。それでもなお、イドは平然と、女帝を見あげていた。
女帝は、荒い息を鼻から吐いた。壮絶な殺気が、その身体から立ちのぼる。
女帝は両腕を振り上げると、喉を振り絞り、両手をイドに向けた。
ドゴン! と、激烈な衝撃の波動が、広間全体に渡った。すでに死んで床にある男女の身体が、ことごとく肉片となって飛び散る。
イドの白い衣服にも、死体の血や肉片が付着する。だがイドは、片手で顔をおおっただけで、無傷のまま立ちつくしていた。
「いいでしょう」
イドは姿勢を直すと、いった。
「仕儀は成った。それゆえ、あなたには、わたしの真の姿をお目にかけよう。心するがよい、薄暮の女帝よ。わが本体、そうそう見せるものではない」
ザワ、と、広間の空気が一変した。リリィ・エントールは、これまでに感じたことのない戦慄に、鳥肌が立った。
イドの身体が、幻影のように揺らぐ。そして徐々に、変貌していく。
──!
女帝は、顔を引きつらせ、その様に目をくぎ付けにした。
「な、なんじゃ! そなたは、それは!」
わなわなと震える女帝。立っていることもままならず、玉座に腰が落ちる。
──死ぬ、か……
それが、女帝リリィ・エントールの、最期の思いだった。
数刻が過ぎた。
女帝は、玉座に座り、うなだれたまま、口から血を流し、死んでいた。
前と変わりのない姿のイドが、その前に立っている。
見開かれたままの女帝の目を、イドはジッと見すえた。
やがて、イドは踏み段をゆっくりと降りると、そのままの歩調で脚を進め、大扉を開き、開け放しのまま、去っていった。
アイザレン兵や中枢卿の部隊が、この広間に押し寄せてきたのは、それからほどなくしてのことだった。
*
噛みしめる唇が痛い。それにもまして、痛む心。
メイナード・ファーは、大槍を片手に握りしめ、眼下の光景に、苦悶の目をやっていた。
虫のように群れ、宮殿になだれこんでいく者たち。
ラザレクのあちこちで立ちのぼる、黒煙。
この飛行艦のブリッジの窓からは、音は聞こえない。だがメイナードには、銃声や、剣を交える音、足音、怒号、そういった渾然一体の喧騒が、耳についてくる気がした。
包帯が巻かれた腹の傷は、不思議と痛まない。自分の心の、いや、この聖都ラザレクそのものの痛みが、全身に突き刺さってくる。
エントールは、滅びた。
その現実を、まざまざと見せつけられている。
そして、もうひとつの現実。
リカルドの気配が、絶えたこと。
それは自分をかばい、命を救ってくれたリカルドが、死んだことを意味している。
部下の士団員たちも、ひとりとして生き残った者はいない。エントールの壊滅とともに、静導士団も、壊滅した。
頭に浮かぶのは、キュベルカの顔。
士団の首席隊長の大任を受けながら、アイゼン公家の呪わしい血に駆り立てられ、いまはどこでどうして、この現状を見ているのか。
怒り、苦しみ、悲しみ。それらを超えた無常が、すこしづつメイナードの全身をひたしてゆく。
「メイナード卿、敵の飛行艦隊が近づいております」後ろの艦長が、口を開いた。「いかがなされますか」
「リターグに、針路を取りなさい」メイナードは、静かな中にも力をこめた声で、そういった。「……亡命します」
とたんに騒がしくなったブリッジ内で、メイナードは、なおも唇をかみしめ、いつまでもはるか下方の宮殿を見つめつづけた。
これより数時間後、ラザレクは、完全に占領された。
南方をすべる大国エントール皇国は、こうして滅亡したのだった。




