聖都動乱・6
飛行艦の執務室のデスクで、静導士団・団長リカルド・ジャケイは、腕組みをし、じっと目を虚空にやっていた。
ブリッジでも、戦闘指揮所でも、聴こえてくるのは悲痛な報告ばかり。
アイザレン軍がラザレク内に侵攻。裏を取ったはずの皇軍本隊は、動かない。キュベルカも通信に応じない。
ラザレクで応戦しているエントール軍の戦力は、貧弱だ。とても敵の三個軍を相手に、まともな戦いはできない。われらの艦隊も、敵の飛行艦隊を前に、やみくもに砲弾を打つしかない。
時間の問題。
ラザレクが、エントールが、敗れる時が、近づいている。
──おれの、力不足だ。キュベルカを野放しにして、皇軍のスペイオとの関係を問いただすこともせず、ここまで、皇国守護の静導士として、なにひとつ役目をはたしていない。
元アイゼン公キュベルカの画策、それを薄々感じていながら、おれは、あまりに軽率だった。
だが、それをいったところで、どうなる。事は成ってしまったのだ。この大局を、この押し寄せる波を、跳ねかえす力は、もうない。
──剣に聞け、などと、よくそんなことがいわれるが。
リカルドはふいに、腰の剣に、思いをやった。
この剣の無言は、おれの絶望の、反映なのだろうか。
それでも、やらなければならないことがある。いや、やるべきことがある。
うつろな全身をなぶるような、まがまがしい気。それは遠くない。
湧き立つか、おれの身体が。一個の人間として、まだおれは、戦いの場に、立てるか。
デスクの通信機が鳴った。リカルドは、おもむろにボタンを押した。
「近いわね、この気。どうする?」メイナードの顔が通信機のモニターに映される。
「おれとおまえで出る」リカルドは、おごそかにいった。「いずれ名のある者だろう。ぬかるなよ、メイナード」
「そちらに合わせて、わたしも飛行艇を出すわ」通信機越しに、メイナードはいった。「わたしは大丈夫。もう、大丈夫だから」
うなずくと、リカルドは通信機を切った。虚空を見つめる目に、けわしさが宿る。
──静導士。静けさを導く者、か。
リカルドは、なおも虚空を見つめつづけた。無骨な剣に、思いをやりながら。
メイナード・ファーは立っていた。ひとり、自分の乗る飛行艦の部屋に。
片手には黒光りする、長柄の槍。
──アーシュラ……
メイナードは槍を持つ手に、力をこめた。
ラザレクの中心地。そこには、緑地が広がっていた。
葉の茂る大木が、見晴るかす広がりわたり、細い木漏れ日を、舗道に射しこませている。
ひと気はない。だが、人の立てる音はする。砲声、銃声、飛行艦や戦闘機のエンジン音。
だがその音も、木々の葉の茂りにさえぎられ、どこかこもるように聴こえてくる。
ルケ・ルクスとコーデリア・ベリ、そして部下の団員たちは、緑地の長い舗道を、ゆっくりと進んでいた。
「どうだい、コーデリア。戦火の中での散策というのも、結構おつなもんだろ」のんきな口調でルケがいった。
コーデリアは口を開かず、ルケの後ろを歩きつづけた。
鳥や虫の声はない。木々のざわめきも落ちついている。路上の葉や枝を踏みしだく音が、耳につく。
ルケたちが乗る飛行艇が、ここに降り立ったのは、少し前のことだ。敵の砲撃に悩まされることもなく、すんなりと緑地の入り口に降り立つことができた。
そして、このしつらえたような状況が、そのまま、先に待つ戦いの予兆を思わせる。
ただの戦いではない。鋭いコーデリアの感覚がとらえているものは、下腹を締めつけるような、ふたつの気配。
〝いってみりゃ、ぼくたち、生贄だよ〟ルケの言葉が、コーデリアの頭に去来する。
〝せいぜい生き残るんだね。それがおまえの願いなら〟
わたしの、願い。
なにかしら。わたしの願いとは。こんな姿で、こんな境遇の中で、ロー・エアハルト、あなたに会うことが、わたしの願いなのかしら。
まゆをひそめ、口を引き結ぶコーデリア。前を行くルケは、いまにも歌い出しそうなほど軽やかだ。まわりを取り囲む卿団員たちは、隊形をたもって、黙々とつき従う。
──中枢卿、静導士、そして『知事』。気配から気配へと、引きあう定め。
コーデリアは、前へ前へと足を踏みだしながら、さらに思った。
引きあう。つまり戦うということ。それを生贄と呼ぶならば、いったいだれが、なにを望んで、だれに、わたしたちをささげるのかしら。
緑地が、ふいに開けた。
一本の巨木が、まるでほかの木々を寄せ付けないように、屹立している。
──舞台のようね、まるで。いいえ、舞台そのもの。だって……
巨木の前に、立つ者たちの姿がある。
ひとりは灰色のローブをまとった、初老の長髪の男。
隣には、赤い飾り模様が入った、白いローブの女。
二人の背後には、さまざまな服装をした、静導士団の団員たち。
「おーやまあ」ルケがすっとんきょうな声をあげた。「団長さまと、イサギの持ち手か。こりゃあまた、面倒なこった。まあ、予想はしてたけどね」
ざわり、と、巨木の葉が風に鳴った。
「ルケ・ルクス殿とお見受けする」リカルドが、おごそかに口を開いた。
「うん、お見受けされる」ルケがおどけて答えた。
士団員や卿団員たちの、剣や、その他の武器が抜きはらわれる音がする。
「この場におよんで、もはや問答は無用であろう、ルクス卿」リカルドが、腰の剣をしなやかに抜いた。「貴公の血が、貴公の衣をさらに紅く染める。安心されよ、死出の装飾は、われらが万事つとめよう」
「遠い祝祭」ルケがすばやく片手を伸ばし、指を折り曲げ、印を結ぶ。「耳を震わす、祝祭の回旋」
ルケの人さし指が、すっと横一線に引かれる。
ギャアアア! いくつもの叫び声が響く。
うずくまる士団員たち。口や鼻から血を噴き出す者もいる。狂気に見開かれる眼。もだえ苦しむ人の群れ。耐えきれず、自分の首に、刃を突き立てようとする者の姿もある。
それぞれが、それぞれの悪夢にさいなまれる。おそるべき、ルケの精神攻撃だった。仲間の卿団員ですら、それにあてられ、顔をおおったり、あとずさったりと、混乱している。
その叫喚のただなかで、リカルドは剣を片手に、微動だにせずルケをにらみつけていた。メイナードもまた、こころもち顔をしかめながらも、両手でしっかりとイサギをかまえている。
コーデリアは、ふっと意識が遠のきかけた。ハイドスメイで浴びせられたルケの攻撃。それが見せた幻影の名残。地面にうずくまり、身体が震えるまま、早鐘のような鼓動に恐慌をきたした、あのときの自分。生まれて初めて感じた、死の予感。
その刹那、槍の穂先が、目に飛びこんできた。
コーデリアは一瞬の判断で、横に避けた。
槍はコーデリアの後ろにいた卿団員の胸を貫き、その団員の身体は、地に倒れることもなく、飛散する。
間合いをとって、コーデリアは剣を抜いた。その顔にはすでに、過去を思う動揺の色はなかった。そして、どのような色も、その顔には帯びていなかった。両目は、うつろに濁っているともいえ、また、澄んでいるともいえた。
──だれだろう、だれだったかしら、この、槍の女。そう、知っているはずだ。……でも、そんなこと、どうでもいい。他人を知ることに、いったい、なんの意味があるというの。
少し先の横では、ルケがリカルドに、挑戦を示すように指を伸ばしている。
ルケの部下が数人、メイナードに斬りかかる。常人の目には留まらない速さ。しかしそれよりも早く、メイナードの槍が横になぎはらわれる。
肉片も、血すらも残らない衝撃。かれらは、まるで幻影ででもあったかのように、武器を残して蒸発した。
それをまのあたりにしても、コーデリアの心は動かなかった。
空無、とでもいうような、感情の喪失。
槍が迫る。
コーデリアが、剣で受け流す。
メイナード・ファーは、ピクッとまぶたをけいれんさせると、すぐさま後退し、間合いを取った。
横のリカルドとルケは、対峙したまま、微動だにしない。二人の、ジリジリとした闘気の内燃が感じられる。
メイナードは前方の、剣を片手にだらりと下げたままのメイナードに、きつい視線を向けた。
──わたしのイサギを、止めた? 相手はルケ・ルクスでも、ケンサブルでもない。だれ、この女。卿団の新しい隊長?
メイナードは、ブン、と槍を頭上で一回転させ、構えなおした。
ルケの精神攻撃で錯乱した者たちのうめき声、叫び声が、まだあたりにさんざめいている。
ふたたび、突きだされる槍。
なにを思うでもない顔で、それを受けるコーデリア。
「そう、思い出したわ」剣と槍がギリギリと交わる中で、コーデリアは、メイナードにつぶやいた。
「『士団の切先』。……そうよね、あなた。メイナード、だったわね」
──だから、なに?
コーデリアは、ふいに怒りを感じた。
──この女の名前を思い出して、それがどうだというの?
メイナードの全身に、戦慄が駆けぬけた。
交えた槍を解き、メイナードは、広く間合いを取った。
直後、糸を引くような細い気配が、ピンと張りつめた。
……!
メイナードは、なにが起こったのかわからなかった。腹に痛みが走る。太ももから足元へと、したたり落ちる血。
「あら、きれいなお腹」ぼんやりとした声で、コーデリアがいった。
メイナードのローブは、腹から切り裂かれ、あらわになった個所に、深い切り傷がある。
「ねえ、教えてよ」ぼんやりとした立ち姿で、コーデリアはいった。「なんで人って、動くの?」
苦痛に顔をゆがませながら、メイナードは、震える手で槍をかまえた。
──イサギを持つこの手が、震える。ベアトリスで、ケンサブルと戦ったときと、同じだ。
スーッと、また糸を引くような気配が起こる。
見開かれるメイナードの目。
──死ぬ。
ふっ、と、気配が断ち切れた。
メイナードは、ハッとして、目の前に現れた背中を、ぼう然と見やった。
「退け、メイナード」
間に入ったリカルド・ジャケイの剣が、まっすぐにコーデリアにさしむけられている。
苦悶、苦渋、苦痛。視界がかすむ。このままでは、リカルドの足手まといになってしまう。
とっさの判断だった。メイナードは血しぶきを飛ばしながら、駆けた。
まただ。またわたしは……
逃げ去るメイナードの目に、涙がにじむ。口を噛みしめる。身体の痛みよりも、胸の内の痛みにかきむしられる。
メイナードは叫びたい衝動を一心にこらえて、戦いの場から、姿を消した。




