聖都動乱・5
斧を持ち、狂気の喜悦を顔に張りつけたミド。その背後で、けわしい表情で、口を引き結ぶシド。一歩一歩、近づいていくエンディウッケ。エンディウッケは、前に伸ばした片手で、すばやく印を結ぶ。シドの眉根が寄る。ミドの身体はいまにも躍動し、エンディウッケに打ちかかろうとしている。
シドの脳裏に、テッサでの戦いがよみがえる。壮絶な精神攻撃。身体が溶けるような、おそろしい体験。
「ミド、距離を取ろう!」
シドがそう叫んだときだった。
エンディウッケが、片足のつま先を地に着け、トントン、とたたいた。
そして、バッ、と両腕を開いた。
ミドとシドの視界が揺らぐ。
……クッ、しまった!
シドの視界が逆巻く。全身が空気に四散するような、弛緩の感覚。
取りこまれる!
そう思った直後、シドとミドの目は、同時に白んだ。
白い部屋。
まばゆいばかりの白い部屋に、シドはうずくまっていた。
「ああ、白い!」
シドは、なぜかむせび泣きそうになる。
その白い部屋の床が、徐々にひだを作っていく。やがて、ひだの間から、長い毛におおわれた白い猫が無数に湧き出てくる。
「風景ガ行クヨ」猫たちは、口々に金切り声でそう叫ぶ。
シドは絶望する。
「置いていかないで!」シドは懇願する。
すると無数の猫たちが、たちまち床のひだに吸いこまれる。
「他ノ者ハ消エロ」しわがれ声で、ひだがいう。
ぼくは、他の者なのか?
にわかに疲労を感じたシドは、立ちあがると、ひだを踏みつける。そして部屋の窓の外を見る。
海が広がっている。遠くの海岸で、白い衣服に身を包んだ少女が、地に倒れている老婆に斧を振り下ろしている。何度も何度も、少女は腕を大きく振り上げ、その動作を繰りかえす。
帰らなきゃ。シドは思う。でも、どこへ?
シドはふと振りかえる。そこには、天井にまで届く、巨大な白いコオロギがいる。
「あなたの猫は元気ですか?」コオロギが、澄みわたるような声でいう。「わたしの猫は元気です。あなたの猫は元気ですか?」
シドはとっさに窓の方を向く。
遠くの少女が、斧を何度も空中に振り下ろしながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
ああ!
シドはたちまちひざまずき、両手を合わす。
コンコン、と窓をたたく音がする。シドは起きあがると、窓を開ける。少女は流れるように大きくまたいで部屋の中に入ってくる。
「耕さなきゃ、耕さなきゃ。あなたの身体を耕さなきゃ」少女が早口でいう。「わたしはお医者さんです。わたしはお医者さんです」
そして突然はじかれたように笑い出し、「お医者さん! お医者さん!」と連呼する。
ギャアアアアア! とコオロギが叫ぶ。いつのまにか、少女がコオロギに火をつけている。
巨大なコオロギは、その真っ白い身体を、見る見るうちにどす黒く焦がされていく。
「名前がないのよ!」突然少女がカッと目を見開き、憤怒の形相でシドをにらみつける。「名前を返して! 名前を返して! 返して! 返してよ! 返せ! かえせ! カエセ!」
少女が怖ろしい顔つきで、斧を振り下ろしながら近づいてくる。
シドは泣き笑いを浮かべる。
カエセ! カエセ! カエセ! カエセ!
少女は狂ったようにわめきながら、シドの頭上に斧を振り上げる。
「そうだ、ミド! きみの名前は、ミド!」
「ミド?」少女は斧を地に降ろし、不思議そうな顔で問いかける。
「わたしの名前は、ミド?」
「ミド、ミドだよ。きみの名前は、ミド」
「ああ、うれしい」少女は感涙にむせび、口をおおいながら声を震わせていう。
「そうだわ、そうだわ、わたしの名前、わたしの名前」
そして気を取り直したように少女は姿勢を正し、ひざを軽く曲げておじぎをすると、「はじめまして、わたしの名前は、ミドです」
シドはとたんに恐慌におちいり、失禁する。身体の震えが止まらない。
クスクスクス、と少女がいたずらっぽく笑う。はじかれたように、シドも笑いをもらす。
笑い声。ふたりの笑い声は徐々に高まっていき、それはけたたましく重なりあう。シドは目にも止まらない速さで、頭を上下させる。少女もそれに負けじと、斧を何度も何度も床に振り下ろす。
ひだが苦痛の叫び声をあげる。
ミドはハッと気を取り直す。
目の前に、少女が立ちつくしている。彼女は泣いている。
シドはおもむろに、少女のもとに足を踏みだす……
両手両ひざを地に着け、恐慌から眼球が震えるミドとシド。
ミドがたまらず、胃の中のものを吐く音がする。
エンディウッケは二人の前に、すっくと立ちつくしている。
やがて訪れるかれらの精神の崩壊。それを淡々と見守る、そんな表情だ。
が、そのとき、シドがふらりと立ちあがる。ブレザーは土に汚れ、綺麗な髪は汗にまみれている。
「グウアァァ!」
シドは呪縛を解き放つように叫び、頭を激しく振る。そして、おもむろに肩をいからせる。
ズン! という音さえ聴こえそうな、強烈な波動が沸き起こる。
──は!
エンディウッケが驚く間に、波動はエンディウッケの身体を取りこむ。
強烈な圧力。地面に押しつぶされそうな、とてつもない力。
エンディウッケの身体がよろけ、後ずさる。
──あたしの精神攻撃を、抜けた?
重圧が身体を襲う。すでにミドも気力を取り戻して、口についた汚れを無造作に手の甲で拭いてから、狂気をおびたような目で、エンディウッケをにらんでいる。
「てめえ、まじ殺すから」
ミドの口から、声が漏れる。
瞬間、ミドの身体が、すこし前にいるエンディウッケに突進した。片手の斧が、エンディウッケの頭部に向けられている。
ギィン、と、刃と刃の交わる音が鳴り響いた。
我を忘れたように立ちつくすエンディウッケ。その頭ギリギリのところで、斧と剣が、せめぎ合う。
「へえ、おっさん、やるじゃん」
ミドは、ゴドーとリクドーの死体にちらっと目をやって、ニタリと笑った。
──テッサではこの少女に押されたが、さすがにエンディの精神攻撃を受けた直後では、思うように力を出せないようだな。
間一髪で止めにはいったマッキーバは、すばやく考えた。
問題は、あの少年だ。奇妙な力。これもエンディの攻撃のおかげで、弱まってはいるが、それにしても、この重圧はどうだ。気を抜くと、ひざが地に折れる。
「ウラアァァ!」
ミドの斧が、今度はマッキーバを襲う。受けるごとに、マッキーバの体勢が崩れる。
──くそ、怒りのせいか、あるいは恐怖の反動か。徐々にこの少女の攻撃が、重く、鋭くなってきている。
早めに決着をつけないと。……だが。
──討てるか、おれは、こんな年端もいかない子どもを?
躊躇、動揺、そして重圧による苦痛。
マッキーバはミドと何度も刃をまじえながら、自分がいまどうすればいいのか、判断がつかないでいた。
と、ふいに、すっと身体が軽くなった。
どさ、と倒れこむシド。
──いまだ。
マッキーバは、あらんかぎりの力をこめて、目の前のミドに突きを見舞おうとした。
スキをつかれ、目を見開くミドの顔が、マッキーバの目に飛びこんでくる。
そして同時に、同じ年頃のエンディウッケの、無邪気な喜怒哀楽の模様が、脳裏を過ぎ去る
ミドの喉元にあてられた剣先が、止まった。
それを見て、ミドがすばやく後ろに引いた。ミドは昏倒しているシドを片腕で軽々と持ち上げ、エンディウッケとマッキーバに、交互に斧を向けてけん制した。
「また遊んでやるよ、おまえら」
不敵に歯を見せて笑ったミドは、シドをかついだまま、フッと姿を消した。
風が渡る。遠い砲声が、静寂の広場に届く。
エンディウッケの身体がかたむいた。マッキーバがそれを受けとめると、エンディウッケは、すでに気を失っていた。
マッキーバは周囲を警戒しながら、元からの疑問を呼びおこした。
──何者なんだ、この死んだ二人も、さっきの子どもたちも。
乗ってきた黒い飛行艇が近づいてくる。
マッキーバは、無意識に、その音のする上空に顔を向けた。




