聖都動乱・1
「あまり、気持ちのいいものではありませんな」
通信機越しに、男の声がする。
「こちらは交戦らしい交戦もなく、順調にラザレクに向けて進んでおります。ですが、このまま、なにごともなく済むとは思えません」
「その心がまえでいいのよ、ピット」携帯通信機を耳にあてたエルフマンが、すずしげな声でいった。「用心にこしたことはなくてよ。軍はどうあれ、士団は、確実に牙をむいてくるんですから」
ここは、エルフマン飛行艦隊・旗艦オステアの、広い戦闘指揮所の中だ。淡々と仕事をする何十人もの通信士たち。高所の司令席に座るエルフマンの、隣の席の参謀長は、じっとデスクのモニターを見入っている。
「士団もそうですが、例の機械兵も気がかりです」ピットはいった。「あれはどうも、軍の正規部隊とは思えません。今回の示し合せに、加わっているのかどうか」
「そちらの監視はおこたりなくてよ」エルフマンは答えた。「だから、もうリターグのときのような、奇襲はあり得ません。空に来れば、撃ち落とすまで。地上では、別にたいした脅威ではないでしょう」
「……なにか、引っかかりますな」ピットは考えにふける声でいった。「どうも、ピリピリと、いやな感覚がします」
「あなたもさすが、中枢卿だけあるわね」ふっと笑みを含んだ調子で、エルフマンはいった。「そう、その感覚を大事になさい。いつ敵が現われてもいいようにね」
「では、ひとまずこれで」ピットはそういうと、通信機を切った。
──いやな感覚。
通信機をしまったエルフマンは、ピットの言葉を心でくりかえした。
わたしも感じるわ、ピット。このざわざわとした気配。これは静導士のものではない。なにか別のもの。でもいいじゃない、ピット。結局、あたしたちは戦うためにここにいるんだもの。卿団がしずしずとラザレクに乗りこむなんて、性に合わないわ。斬って、斬って、敵の屍と血を置き残して、そうして突き進んでいくのよ。それが、わたしたち中枢卿の定め。
「状況は、変わりなくて?」エルフマンは、横の参謀長に声をかけた。
「は、後方の敵軍に、動きはありません」参謀長は、エルフマンの顔をちらっと見ていった。「前方にも脅威は確認されません。現在、陸上部隊は、ブレト付近を通過中です」
「マッキーバの賭けは、いまのところ成功ね」ひとりごとのようにエルフマンはいった。「……エントールも、落ちたものね」
時は朝。
ちょうど、マッキーバとキュベルカの会話から、三日が経過したころのことだった。
「ねえねえマッキーバ」少女の声がする。「なんで、敵は攻めてこないの?」
マッキーバの飛行艦隊の、旗艦のブリッジでのことだ。
いつもの灰色のマント姿のマッキーバと、黒いドレスのエンディウッケは、見晴らしのいい一面の窓のそばに立っていた。
「そういう取り決めなんだよ、エンディ」エンディウッケを見おろしながら、マッキーバはおだやかな声でいった。「大人の約束事だ。無駄に戦うことはない。血を流さずに済めば、それに越したことはないんだ」
ふうん、といって、エンディウッケは窓の外に顔を移した。
「でも、すごく変な気分。ねえマッキーバ、わたし、なんか胸がドキドキする」
マッキーバはほほえむと、エンディウッケの肩にそっと手を置いた。
「エンディが心配することはない。なんにしても、ここは戦場なんだから、緊張するのはあたりまえさ」
「ううん、そういうんじゃない」エンディウッケは首を横に振った。「なんか、予感がするの。前の、テッサのときみたいに。迫ってくるの、怖いものが」
「大丈夫だ」マッキーバは、エンディウッケの頭をなでた。「エンディは強い子だ。そうだろう?」
マッキーバを見あげるエンディウッケの顔が、パッと明るくなった。
「あたし、倒せるよ!」エンディウッケが、嬉々とした声でいった。「またあの子たちが来たら、あたし、戦うよ!」
かすかなかげりが、マッキーバの顔にかかった。
──こんな小さな子に、一体おれは、何度助けられた?
後悔とも、羞恥ともつかない思いに、マッキーバはとらわれた。
この子は、カイトレイナでの、卿団員暗殺の犯人かもしれない。アイザレン本国の、卿団の敵と通じているかもしれない。でも、おれにはどうしても、いまさらこの子に、暗殺の件を問いただす気にはなれない。そんな機会もないまま、おれはこのエンディを、愛してしまった。
この子が髪を振り乱して戦う姿など、二度と見たくない。悲しい顔も、さびしげな様子も、見たくない。この子に火の粉がかかるなら、今度こそ、おれの身体がふせぐ。エンディの幸せをさまたげるものは、おれが殺す。
──そのときは、かならずやってくる。……そう、エンディが肌で感じ取っているように、このおれにも感じるぞ、脈動する戦意を。胸を突き刺すような気配を。
マッキーバはけわしい顔を、窓の外に向けた。はるか眼下の大地が、ゆっくりと流れていく。
「マッキーバ卿、陸上部隊がブレトを通過しました。これより全軍、ラザレクに進軍します」艦長の声が飛ぶ。
マッキーバとエンディウッケは、無言のまま、しばらく窓のそばに立ちつくしていた。
「まいったね、どうも」
ルケ・ルクスは、ため息まじりにそういった。
ルケ艦隊の旗艦エイヨーンの、執務室の中だ。
ルケは机の前の椅子に深々と背を持たせかけて座り、机をへだてた正面には、コーデリア・ベリが立っている。コーデリアは、もう『知事』の制服姿ではなく、中枢卿団の制服に、黒いマントをはおっていた。
「マッキーバも、団長も、本国の連中も、なにを考えてんのかね。戦乱の中で、軍も卿団も士団も入りまじれば、それだけぼくたちが静導士と戦う確率も、減るはずだったのに」
コーデリアはなに思うでもない目で、ルケをじっと見つめた。
「つまり、これはもう、戦争じゃないんだ。士団と卿団の戦う場を、わざわざ仕立てあげたにすぎないのさ。いってみりゃ、ぼくたち、生贄だよ」
「儀式めいている、とでもいいたいの?」コーデリアがいった。
「それさ」人さし指をコーデリアに向けて、ルケは答えた。「うざいね、エントールもアイザレンも」
「でもあなたは、静導士と戦いたいんじゃなかったのかしら?」
「ケツを押されるのが嫌だってんだよ」ルケの口調が、がらりと変わった。「ぼくはぼくの好きにする。じゃなきゃ、おまえ、とっくに死んでたぜ。愛するエアハルト君にも会えずに」
「わたしに当たるのは、やめて」コーデリアの全身から、にわかに敵意がたちのぼった。「あなたに、わたしのなにがわかるの?」
「おまえがどうだろうと、知ったこっちゃねえよ」あざわらうように、ルケはいった。「ぼくが知りたいのは、おまえの剣技だけだ。まあ、たっぷりこの船で、ぼくの部下を殺してくれたけど、静導士相手はどうかな? それも、リカルドやメイナードが相手となれば?」
「なら、この状況はあなたにとって、格好の機会じゃないかしら。わたし、たぶん剣を抜くことになりそうだから」
「やっぱり感じる? おまえにも」
「とても強い気。避けようにも、避けられないわね」
「リカルドか、メイナードか。それとも、正体不明の連中か」手を頭の後ろに組んで、ルケはいった。「ま、せいぜい生き残るんだね。それがおまえの願いなら」
「あなた、ずいぶん余裕なのね」コーデリアはいった。「自分が死ぬことは、考えないの?」
「おいおい、ぼくは『卿団の凶器』といわれる男だよ?」おどけるようにルケはいった。「凶器としての役割は、理解しているつもりさ。生きるも死ぬもない。〝ぼく〟はここにはいないのさ」
ハハハハハ! とルケはかん高い声で笑った。その笑いは、いつまでも止むことはなかった。コーデリアはすこしの間その笑い声に耳を傾けていたが、やがてふっと目を伏せて、無言で執務室を出ていった。




