ラザレクの動静・1
甘ったるい香りがたちこめている。
灯籠がところどころに置かれているだけの広間に、その妖しげな香の煙が、ゆらりと揺れている。
肉欲の声が聴こえる。
無数の、裸の男女のあえぎ。
快楽をむさぼるかれらの声は、ときに雄々しく、ときに物悲しくもある。
──ここだけは、いつまでも変わらんな。
静導士団・団長リカルド・ジャケイは、このラザレクの宮殿の、謁見の間に入るたびにそう思う。
とりわけラザレクが、いや、エントール皇国そのものが興廃の揺らぎのなかにあるいまは、香の揺らぎの、人のあえぎの、取りとめのない不変の情景が、なおさら異質に思えてくる。
前方の踏み段まで伸びている、金色に縁どられた赤い絨毯を、灰色のローブに身を包んだリカルドは重々しい足取りで歩きながら、一瞬、この異界ともいえるような場の只中にあることに、いいようのないおぼろげな感慨をおぼえた。だがすぐに気を取り直し、あとはまっすぐ、踏み段の下まで歩を進めた。
何十人もの男女がもつれる間を通り、リカルドは踏み段の下にたどり着くと、片ひざを折ってかしこまった。
──いや、やはりこの場所にも、異変はある。
リカルドは無言で頭を垂れたまま、思った。
いままでは、ここも、混沌の中に秩序があった。香にあてられ、淫欲に駆られたものたちは、決して踏み段のまわりには近づかなかったのだ。それが、いまはもうそんな秩序はない。リカルドのすぐそばで、からみあう男女がいる。高い踏み段の途中にも、男たち女たちの、あらわな姿がある。
──わずかにあった帝の威光も、消えたということか……。そういえば、前にも、踏み段を上がっていった者がいたな。
一抹のむなしさで、頭を横に振りたくなる衝動を、リカルドはおさえ、神妙に、踏み段の頂上の玉座におわす女帝から、声がかかるのを待った。
「また、相も変わらず、不景気な顔じゃなあ」
エントール皇国・女帝リリィ・エントールは、尊大にそういった。しかしその声の中には、どこかゆるみが感じられた。
「どのみち、またつまらぬ戦況の報告であろう? もう飽いた。わらわは、自由じゃ。生きるも死ぬも、自由じゃ。戦など、どうでもよい。好きにせよ」
「……陛下。アイザレン軍は、エトの南、百五十キロの地点にあるメズの周辺に駐留し、動く気配はありません」
リカルドは頭を下げたまま、淡々と報告をした。
「おそらく、近々補給を終え、この聖都に進軍してくるものと思われます」
はぁー、と、弛緩した女帝のため息が、リカルドの耳にかすかに届いた。
「皇軍は、聖都より百キロ北のブレトを中心に、堅固な防衛線を敷き、徹底抗戦のかまえでおります」
「さようか」女帝はそっけなく応じた。
「まずは敵の戦線を突破し、補給路を断ち、しかるのち敵を包囲し、せん滅する所存にございます」
ふぅー、と、女帝は長い息を吐いた。
踏み段の下まで伸びる、壮麗な黒いドレスの裾は、いまは段上に寝そべる裸の男女の身体の下敷きになっている。肩からうららかに垂れる金色のケープは、どことなく色あせて見える。長い黒髪を飾る色とりどりの髪飾りは、乱雑に散り広がり、黒いアイラインと虹色のアイシャドウ、そして豪奢なつけまつ毛の若い顔には、うつろな表情が張りついている。
女帝の片手には細いキセルがあり、さきほどからそれを口に持っていっては、煙を吐くことを繰りかえしていた。
「……そうじゃ、例の、空に浮かんだという町。あれは、なんという名であったかのお」弛緩した声で、女帝がいった。
「リターグでございます、陛下」
「そう、リターグじゃ。して、どうなっておる、そのリターグは?」
「あれから一週間が経過しましたが、空にあったまま、動く気配はありません」
「町が、飛ぶか。……おもしろかろうのお。見たいものじゃ」
リカルドは答えず、かしこまったままでいた。
ふふっと、女帝は力なく笑ってつづけた。
「わらわも、いずれただようことになろうのお。この煙のように」
女帝の瞳は、キセルから立ちのぼる白い煙を、じっと見据えていた。
やがて女帝は、おもむろにそのキセルを口もとに寄せると、深く吸い、また煙を吐いた。そしてすっと、女帝は組んでいた脚を降ろし、腕を伸ばした。手のひらが、段上の、自分の服の裾の上に寝ている男女に向けられている。
バン!
強烈な音が響きわたった。
段上にいた男女の身体は、もうそこにはなかった。広間の隅に吹き飛び、血にまみれて倒れていた。
「幼少より、望まれず宮に入ったこの身。せめて、ひと花咲かせたいものじゃ」
女帝リリィ・エントールは、伸ばしていた腕を玉座の肘掛けに置いて、いった。
「わらわのこの力、役に立つ時は、ないものかのお」
「……陛下にはなにとぞ、お心を安んじられますよう」
「もうよい! 消えよ!」女帝の鋭い声が飛んだ。「なにもかも、消えてしまうがいいわ。そなたも、この国も、なにもかも!」
リカルドは一礼すると、身体を起こして、ふたたび淫蕩の肉の群れをかき分けながら、出口に向かった。
ぶ厚い扉が閉まると、広間の狂乱の音はぴたりと止んだ。しいん、と不気味な静けさが、大廊下に降りている。左右に赤いカーテンが延々と引かれている、窓のない長い廊下だった。いまいた謁見の間と同じく、ぼんやりとした灯籠だけがあたりを照らしている。
身体中に染みついた香にへきえきしながら、リカルドは前方に立つ者に目をやった。
「ごくろうさま」
と、静導士団・副団長メイナード・ファーが、きづかわしげな目でリカルドを見やっていった。
その顔には、もうエトにいたころのような、忘我の色はない。はっきりと理性を取り戻した、凛々しい風貌だった。長い黒髪にはつやが戻り、服装も、いつもの丈の短い、赤い縁取りのローブをしっかりと身にまとっている。
リカルドは無言で廊下を行き、メイナードも、黙ってあとにしたがった。
「身体の具合はどうだ? いつでも出られるか?」やがてリカルドがいった。
「ええ、もう大丈夫。ラザレクに戻ってきてよかったわ。そうじゃなければ、いまごろ、まだキュベルカと一緒だったと思うから」
メイナードの脳裏に、去来する光景がある。
エトの領主、レイゼン公イェゲダンの死体のそばに立つキュベルカ。その冷たい目。
〝死から死へ、わたしは、渡っている〟
そんな思いが、そのとき、メイナードの心に流れたのだった。
なかば無意識にキュベルカに背を向け、その場をあとにしながらも、ベアトリスでのアントラン・ユルトの姿、倒れ伏したルキフォンスの姿、そしてテッサでの、アーシュラの姿が身に迫ってきた。
死、死、死。
この因業の道を、この、どうしようもなく汚れきった身を、わたしは受け入れなければならない。
そう、わたしは、静導士だから。
でも、キュベルカとはちがう。キュベルカは、わたしとはかけ離れた、なにか対極の狂熱に憑かれている気がする。……どこへ行くのかしら、かれは。そして、あたしは、どこへ行くのかしら。
エトの城の自室に向かう間中、何日も洗っていなかった自分の身体の、臭いが薄く鼻をかすめた。意固地な生の臭い。それを嗅ぎながら、正気とも狂気ともいえない目覚めの感覚を、メイナードは覚えた。
──ここにいてはいけない。キュベルカとは、もう接したくない。あの狂熱を、宿したくない。
そして翌日の朝、メイナードは部隊ともども、ラザレクに引きかえしたのだった。
「戦況に変化はあったか、メイナード?」
前を行くリカルドの声で、メイナードは我にかえった。
「ないわ」メイナードは答えた。「アイザレン軍も中枢卿も、メズにとどまったまま。やっぱり、リターグが効いているのかしら」
「それもあるだろう」リカルドはいった。「かつては聖地というだけの小国が、いまは規格外の脅威として空にある。あの最強といわれるルキフォンス艦隊も、リターグへのけん制に追われて、こちらには来られずにいる。まあこれは、われわれにとっては朗報だが」
「でも、まだ信じられないわ。町が、空を飛ぶなんて」
「ハハ、陛下も同じことをおっしゃっていたよ」
「それで、陛下のご様子は、どう?」
リカルドはすこし間を置いてから、おもむろに答えた。
「……不憫なお方だと、いまは、それしかいえん」
二人はしばらく、それ以上言葉をかわさずに長い廊下を行き、やがて大扉にたどり着くと、リカルドがそれを開いた。とたんにざわざわと、宮殿の人々の喧騒が立ちのぼってきた。謁見の間までの廊下とは比べものにならない、明るく広い大廊下に出ると、二人はそこを進んでいった。
「皇軍は、もはやスペイオ頼みだ」
リカルドが、口を開いた。
「あれの指揮する三個軍が、防衛のかなめだ。ラメクで、スーラやメキリなどを一気に失った混乱が、まだ尾を引いている。……スペイオに頼るということは、つまりキュベルカがからんでくるということだ。そのキュベルカにしても、メキリが育てた最精鋭の飛行艦隊を吸収して、力を得た」
「やっぱり、キュベルカとスペイオは、つながりがあるのね」
「かれらが通じているのは、もとからわかっていた。あとは現状、ここにコーエン公が加わっている」
「諸侯連合軍ね」
「その戦力自体は、問題ではない」リカルドはいった。「肝心なのは、エントール諸侯が、大公のコーエンの下に集まることだ。そして、この一連の流れが、すべてキュベルカを中心にまわっているとすれば」
「アイゼン公キュベルカの復権、かしら」メイナードは、憂いをおびた声でいった。
「エイゼンとユーゼンを、ラザレクに吸収できなかったのは、痛い」
リカルドは重い口調でいった。
「あれが成功していれば、早くにコーエンを抑えこめたかもしれない。……皮肉だな」
リカルドは短く息を吐いた。
「われらの思惑は、リターグの『知事』にはばまれた。そして危急のこの折になって、そのリターグが、助けになっているとは」
ふたりは大廊下を歩き、宮殿の出口を抜けると、庭園の広がる、昼の外に出た。
「トルゼン公アーシュラ、レイゼン公イェゲダン。どちらかでも生きてさえいれば、コーエン、いや、キュベルカも、好きに事は運べなかったはずだが……」
「士団は、どう動かすの、リカルド?」
アーシュラという名前に、ズキリと胸の痛みを感じながら、メイナードは聞いた。
「おれが出る」リカルドは答えた。「もちろん、おまえもだ、メイナード」
空は厚い雲に覆われ、一面灰色だった。あたりの人々の行きかう足取りは、どこかしら不穏をただよわせる、浮足立ったもののように、二人には感じられた。
「ビューレンの方は、大丈夫?」メイナードがいった。
「ブレトの防衛線を抜かれれば、ビューレンどころではない」
ゆるい風に灰色の長髪を揺らしながら、リカルドは答えた。
「そもそも、われら静導士団の本分は、中枢卿の駆逐だ。まず卿団部隊をせん滅して、戦局を見ながら、キュベルカやビューレンに対処する」
「むずかしい役回りになりそうね」
「そうだな」リカルドは空を見上げていった。「だが、やるしかない……」
ヒュウ、と、生ぬるい風が吹いた。
メイナードはリカルドの、ローブのはためく背中を、不安げに見つめた。




