私本 武蔵兵乱記
私本 武蔵兵乱記
蘭香
草原の中に美少女がいる。
その美少女は、倒れ木に腰掛けて歌をうたっていた。
その歌声は、清らかに澄んでいて、聞く人の心を魅了してやまない。
犬若丸も、その歌声にひかれてやってきた一人である。
背の高い少女は、その名を麻梨といって、箱根権現の大氏子に名を連ねる豪農の娘で、いずれは権現に入って、別当職である北条長綱の侍女頭となる存在だと思われていた。
聡明で見目麗しく、将来を嘱望されていた。
犬若丸が近づくと、麻梨は歌うのをやめて、麻梨の方がほほ笑みかけてきた。
「犬若丸、今日はどうしたの?こんなに朝早くからぶらぶらして。宿直は終わったの?」
犬若丸は、身分は百姓牢人の倅だが、ただの浮浪者ではなく、平素は、箱根権現の雑役をしている。
昨夜は、ちょうど、宿直の日に当たっていたため、麻梨が「宿直は」と尋ねてきたのである。
「もう終わった。いつものごとく、何もなかったよ」
箱根権現は、小田原の北条氏の保護を受けているから、外敵の侵入など滅多になく、夜間の危険など心配することはなかったのである。
「犬若丸は気楽でいいわね。この山の中で何もすることがなくて。外は大変よ、いくさ続きで」
麻梨のいうとおり、戦国たけなわのこの頃、箱根を含む関東一円は恒常的な戦争状態にあった。
北条の先代・伊勢早雲の登場により、戦雲急であった相模も、三浦氏の滅亡によって戦乱は一段落し、戦争の重心は、上杉氏の内紛が続く武蔵の国へと移りつつあった。
風雲急告げる時代の中で、世間の動向に興味がないといえばウソになるが、いまだ年若い犬若丸には戦争自体が遠いおとぎ話のように思われ、自ら巧妙手柄して乱世に身を立てようなどとは思いもつかなかった。
「相模の国にもう戦はないよ。早雲様が戦の芽をつんでしまったからね」
犬若丸が断定的にいうと、麻梨は淋しそうな表情をした。
いくさの話というより、北条が絡む話をするといつもこれである。
北条というものに、何か悪い印象をいだいているのだろうか。
犬若丸は、ときどきいぶかしく思う。
「麻梨殿、話は変わるがわしらの事だが」
犬若丸の話が別の方向へ変わると、麻梨の表情が険しくなった。
「まわりの人々も気にしている。わしたちがどうするのか。そろそろ決めなければなるまい。わしとしては、身分違いだが、麻梨殿の事は真剣に考えてもいいと思っている。どうか、この辺りで考えてみてくれては」
犬若丸と麻梨が親しい間柄であることは皆が認めていた。
皆、恋仲であると思っていた。
「わしとそなたとは、幼きころより仲良くやってきた仲じゃ。この辺りではっきりさせた方がよいのではないか」
麻梨の表情が、見る見る険しくなってきた。
そこには悲しみすら見えていた。
麻梨は震える声でいった。
「わたしたちが夫婦になれるわけがないでしょう。私たちは絶対に一緒になれないのよ」
「どうしてなんだ。わしが百姓牢人の子で、麻梨殿が大百姓の娘だからか」
麻梨は、かぶりを振った。
「違うの。そうじゃないの。わたしはあなたのことが好き。でも、無理なの。絶対に」
「どうしてなんだ、その理由を聞かせてくれ」
「今は話せないの。今は。でも、もうすぐ分かるわ。もうすぐ。それまで待って」
麻梨の声は泣き声に変わっていた。
自分の追及が、麻梨の心を破壊してしまった事を悟った犬若丸は、口をつぐんだ。
(もう少し時間をおいて、麻梨から事の詳細を聞いてみよう)
少女のデリケートな心を知る犬若丸であった。
翌日、犬若丸は、箱根権現の別当職たる幻庵その人である。
この人物こそ北条幻庵その人である。
北条早雲の三男に生まれ、この後、激動の北条五代を生き抜き、豊臣秀吉の小田原攻略の前年に没したこの戦国最長寿の武将の生涯を中心にして、この小説は展開するのだが、お読みになられるうちに、この小説の主人公が北条幻庵その人でないことにお気づきになられるであろう。
北条幻庵は、このとき30歳。
幼き頃、身の安全を図るために箱根権現に預けられて以来、別当職の修行に明け暮れ、後の武将としての才能は、その片鱗すら現していない。
幻庵と犬若丸とは、この年若い衛士を大変気にいっており、いつもの気さくな表情で御座所へ招きいれてくれた。
「麻梨との間はどうかのう」
対座するなり、別当職は尋ねてきた。
「いえ、相変わらずでござるが」
核心をつかれて、犬若丸は戸惑いつつ答えた。
「麻梨も、いろいろ考えているようじゃ。そなたとのことも含めてのう」
次の言葉は、犬若丸の心を深く突き通した。
「今のうちにいうておくが、麻梨とは一緒になれぬぞ。あれは、わしが小田原へ連れていくことにしておるからのう」
犬若丸は驚いた。
「これは、以前から麻梨殿の父上殿とも約束していたことでのう。その時期が来たということだ」
「それはいつからでござりまするか」
「あの子が生まれたときからじゃ」
そんなに早くからの約束では、自分が入り込む余地がないように思われた」
「そなたは麻梨が好きか」
本心に切り込まれて、犬若丸は一瞬、言葉に出なかったが、表情がその心の内を現していた。
「あきらめろ。そなたと麻梨とでは所詮結ばれぬ運命じゃ」
「わしと麻梨殿とは身分違いといわれるか」
「違う。天には真理というものがある。そなたと麻梨が一緒になるということは、その真理に反することだ」
犬若丸の顔に慟哭が走った。
「わしはそなたを疎ましく思っていない。むしろ逆じゃ。それは、これまでのわしの心遣いで分かっておろう。そのあたり、よく分かってくれい」
次いで、別当職は言った。
「秋には、小田原より迎えが参る。もう、麻梨とは会わぬ方がよいな」
犬若丸の肩は震えていた。
犬若丸には分からなかった。
なぜ、別当職があのような冷たい態度をとるのか。これまで、自分と父に示してくれた旧誼から考えれば腑に落ちぬことばかりである。あれだけ仲の良かった麻梨も会ってくれようとはしない。
考えれば考えるほど、理解に苦しむ事態に、犬若丸は、もう一度、麻梨に会って真意を正してみようと思い、麻梨を芦ノ湖の畔へ呼び出した。
小田原の迎えが来るという前日、秋風が吹く湖畔に麻梨は一人で来た。
久々に見る麻梨の表情はどこか影がさしているように思われた。
「久しぶりであるのう。明日、小田原へ立たれるようであるが、その前にそなたの本心を知りたいと思っての、呼び立てた。はっきり、そなたの真意が知りたい。わしと別れてまで、小田原へ行きたいと思われるのか」
麻梨は、眼前の芦ノ湖を見渡していった。
「美しい湖ね。幼い日から見慣れてきたこの湖ともお別れ。そして、犬若丸とも」
麻梨の目は、明らかに遠いものを見ていた。
「麻梨殿は良いのか。わしと別れてまで、小田原へ行って。それでいいのか」
麻梨の表情がくしゃくしゃに崩れた。
涙がいっぱいに溢れた。
「わたしが小田原へ行って平気なわけないじゃないの。でも、仕方が決まっていたことだから」
「わしの事を好きではなかったのか」
「好きよ、小さいときから好きだったわ。でも、それとこれとは違うの。わたしたちは一緒になれないのよ」
「どうしてだ。好きあっていればなんとかなるのではないか」
犬若丸の追求に、麻梨は心を揺さぶられ、やがて、決心したように小袖の裾を開いた。
「麻梨殿、そなた」
「もし、犬若丸が、どうしてもわたしを欲しいといううのなら、今、あげる。でも、それで忘れてほしいの。わたしは、長綱様にお仕えする身の上。いずれは長綱様の奥に納まる女。あなたとは、どうしても結ばれないの。ごめんなさい」
麻梨は、涙を流していた。
裾から見える白い肌が冷たい風に晒されて寒々しかった。
犬若丸は、その裾をとじてやった。
「麻梨殿。わしは、そなたと一緒になりたい。たとえ、そなたが小田原へ行っても追いかけていくつもりだ」
犬若丸の目に真剣な心が宿っていた。
「いけない犬若丸。わたしのために、。そんな危険をして」
「わしは命を捨てられる。いつでも」
それからのふたりの会話は、言葉にならなかった。
麻梨は、ひとしきり泣いた後、湖の畔を去った。
別れの言葉を残して。
その夜、犬若丸は、山中の小屋に戻って、亡き夫百姓牢人の父が残した打ち刀を取り出した。
亡き父が、当時、流行していた太刀よりも使いやすいといっていたこの打ち刀で麻梨を奪還しようというのである。
早雲の子であれば、北条長綱という人物は、いずれ、一軍の将として戦場へ赴くであろう。
そのとき、長綱という人物が生き残るという絶対的保証はない。
たとえ、大名の子でも死んでしまえばおしまいである。
(そんな者のところへいくなら、わしの方が)
犬若丸は、正式な士分になろうとは思っていなかった。
ただ、ひとりの庶民として安穏な生活を送りたいと思っていた。
その生活に麻梨が必要だった。
たとえ、彼が、自分の旗を京都に立てるようなことがあっても、麻梨がいなければ、何にもならなかったであろう。
彼にとって、征夷大将軍・犬若丸の御台所は麻梨でなければならなかった。
犬若丸は、それを打ち刀をもって勝ち取ろうというのである。
彼が相手にしようとしているのは、小田原の北条氏である。
相模一国の国持ち大名に打ち刀一本で立ち向かおうとしたのは、この時期の日本には犬若丸をおいて他になかったであろう。
犬若丸は、眠ることにした。
しかし、眠れなかった。
眠ろうとしたすればあざやかな麻梨の姿が脳裏に映り、彼の心をさいなんだ。
悶々とした夜を過ごした後、犬若丸は飛び起き、気がつくと箱根山中をかけていた。
そのとき、麻梨は小田原からの迎えに守られて、箱根権現を出発しているころであった。
犬若丸は、走った。
彼は、山中で麻梨の行列に追いついた。
走ってくる犬若丸を最初に発見したのは、曽我丹後守であった。
彼は走ってくる犬若丸を見とがめるなり、「抑えよ」と命じた。
犬若丸の前に屈強の北条の付け人が十人立ちはだかった。
「小田原のご舎弟にもの申す。その輿の上のお方は、それがしの思い人。お返し願いたい」
犬若丸は、必死で打ち刀を振るい、輿へ近づこうとする。
輿の上の麻梨がいった。
「丹後守様、その人は、わたしの大切なお友達です。どうか、無体な真似はなさらぬようお願いいたします」
麻梨にいわれても曽我丹後守は防備の手を緩めない。
犬若丸に疲れが目立ってきた。
そのときである。
「丹後、やめよ」
馬上の幻庵が声をかけた。
「犬若丸。わしとともに来るか。来るならば、この場で家来にしてやろう。わしに仕えれば、いつでも麻梨と会えるぞ」
「それは、まことか」
「わしが、嘘、偽りをいったことがあるか」
犬若丸は、輿の上の麻梨を見た。
その目が何かを訴えていた。
犬若丸は、打ち刀をぱたっと地につけ、自らの体もそのようにした。
「長綱様。この千早犬若丸、お側に仕えとうございまする」
幻庵は、満足げに頷いた。
彼は、最初から、この若者を連れて行きたかったのだ。
輿の上から麻梨がいった。
「来てくれたのですね、犬若丸」
犬若丸と幻庵の本格的な生涯がはじまるのである。
小田原へ入った麻梨の一行は、北条氏綱に目通りを許さるため、本丸の御座の間へ進んだ。
余談ながらこの小田原、実は幻庵知行地である。
北条早雲が幻庵に宛てた文書には、彼の知行分として小田原の地名が記載されている。
早雲の時代、北条の本拠地は伊豆・韮山で、氏綱の時代に小田原へ転拠したものと思われる。
幻庵の知行地は5442貫で一門中最高であった。
廊下を進む一行は、途中、非公式ながら、重臣一同を引き連れた氏綱の出迎えを受けた。
氏綱とはちあうと、曽我丹後守たちは一斉にひれ伏した。
「丹後、大義であった」
温厚な氏綱は、片時も家来への心遣いを忘れない。
「長綱、遠路戻って参って嬉しいぞ」
わずか一日にも満たぬ行程でもそのようにいう。
本丸御座の間では、一通りの儀式が終わった後、氏綱が不意に犬若丸に声をかけた。
「そちが長綱最初の家来となりたる犬若丸であるか。聞けば幼少のみぎりより長綱と昵懇といううこと。これからも長綱の良き家来として仕えてくれい」
その次に氏綱がいった言葉は、幻庵の面目を施した。
「そちは未だ元服前と聞く。長綱をもって烏帽子親とすれば、わが名の一字をとりて、千早綱成人と名乗るがよい」
北条五代の歴史を知る読者は、もうお分かりであろう。
この犬若丸こそ、あの戦国末期の名外交官として知られる北条氏規の守役・千早綱正の父なのである。
氏綱の言葉により、犬若丸は北条氏綱の家臣として認知され、正式に士分になったことになる。
このことについては、長綱もお礼を言上した。
犬若丸の心中は穏やかではなかった。
正式に幻庵の家来になるということにより、麻梨との距離が離れてしまうことになると思った。
それは、麻梨も同じだった。
ただ、麻梨には少女の気持ちとして犬若丸の出世を喜ぶ心があった。
それは好きな人の出世を祝うという心であった。
この正式対面の後、同じ場所で重臣一同を交えたいくさ評定が開かれることになっていた。
犬若丸と麻梨はそそくさと御座の魔から立ち去ろうとしたが、幻庵が止めた。
「ふたりともいくさ評定を見ておけ」
いわれてふたりは、末座に連なって陪席することにした。
いったい、幻庵はどのような意図があってふたりを同席させたのか。
いくさ評定の議題は、対上杉作戦である。
先代早雲の時代、融和政策をとっていた山内・扇谷両上杉との関係が悪化していたのを受けての評定であった。
評定の冒頭。長老の山中才四郎が発言した。
「既に上杉との問題は外交の域を越え、軍事の段階に入っておる。ここは、開戦を決意し、速やかに江戸へ進撃致すのが肝要じゃがいかがか」
先代早雲が大志を抱いて、駿河へ下校したときの7人に同志のひとりである山中才四郎の言葉には寸鉄の重みがあった。
自然、いくさ評定の流れは、開戦論へと傾き、具体的な軍事作戦の検討へと移った。
この評定で、氏綱は、具体的な攻撃目標を示した。
「わしは江戸城をとりたい」
一同は驚いた。
太田道灌が築いた江戸城は難攻不落の要塞として知られている。
当時、扇谷上杉氏が武蔵に覇を唱えていられるのは江戸城あればこそといわれていた。
その江戸城を落とすのは至難の技と思われたのだ。
猛将として知られる多目六郎が異議を申し立てた。
「江戸城は、上杉朝興が総力を結集して守っておれば、われらが攻めても容易に落ちるものではござらん。上杉は江戸城あればこそもっておるのです。そのことをよくごろうじあれ」
猛将として知られる多目六郎が異議を唱えるのであれば成功はおぼつかない。誰もが評定の流れが変わると思ったとき、氏綱が毅然として発言した。
「上杉が死に物狂いで守ればこそ、われらが攻めるのだ。われらが江戸城をとれば、その城によってこそ存立する上杉は一挙に衰亡し、われらは武蔵の中元へ兵を進める事になるであろう。このいくさは、われらと上杉の力関係を逆転させる大きな転機となるはずだ」
氏綱のいうことは正論である。
扇谷上杉の当主・朝興は凡庸な人物であるが、その人物をして武蔵の覇者となさしめているのはひとえに江戸城の存在であるといわれていた。その江戸城をおとしめれば、上杉朝興は一挙に声望を失い、坂東の豪族はこぞって植えすぎをみかぎり、北条の許へ走ってくるのは確実と思えた。
氏綱の毅然とした発言によって江戸城攻撃を決定した御前会議は、具体的攻撃作戦の検討に移ったが妙案が出ない。誰もが、あの難攻不落の江戸城を落とす策を思いつかないのである。
このとき、麻梨は妙にそわそわしてきた。
いくさ評定を聞いている間に、頭の中が騒がしくなってきて落ち着かないのだ。
それは、たとえていえば、勝負中の棋士の頭脳にも似ていた。
その様子を見ていた幻庵がいった。
「麻梨。何か意見があればいってみなさい」
幻庵に促されて麻梨ははっとした。
「あっ、いえ、別に」
まごついて麻梨はこたえたが、幻庵は許さない。
「いいからいいなさい」
「幻庵に発言を求められていた麻梨は、自分でも思ってもいなかったようなことをいいだして一同を驚かせた。
それは、江戸城攻撃作戦の概要だった。
いくさ評定が終わって犬若丸と朝なしは、小田原郊外の久野に設けられた幻庵の館に入った。
ふたりは館の庭に立って暮れ行く景色を眺めた。
「ややこしいことになったわね」
麻梨がぽつりといった。
「わたし、どうしてあんなことをいったのかしら」
あのとき、麻梨がいった作戦が氏綱によって裁可されたのだ。
幻庵は、その作戦構想に実務的な要素を付加するため小田原城に残っている。
「わたしたち、もう、元に戻れないわね」
悲しげに麻梨がいううと犬若丸が声をかけた。
「そんなことないよ。きっと、いつか、あの日に帰れるよ」
かぶりを振るように麻梨がいった。
「犬若丸、出世して。そして、わたしを長綱様から取り戻して。そうでないと、わたし・・・・・」
うつむく麻梨の姿に沈む夕陽が重なった。
それが消えるとき、麻梨の涙も闇に消えるだろう。
深夜、幻庵が帰ってきた。
それを母屋で犬若丸が出迎えた。
「犬若丸。いくさの段取りが決まったぞ。おまえの初陣も一緒にやるつもりだ。来年は忙しくなるぞ」
犬若丸が不機嫌そうにいった。
「そして、麻梨と祝言ですか」
「憮然とした犬若丸に幻庵がいった。
「麻梨との祝言は延期した。それどころではないからな。それに」
幻庵が続けた言葉は、犬若丸にとって魅力的なものとなった。
「わしは、麻梨をあきらめてもいいと思う。だが、それには条件がある。それは、今度の江戸城攻撃に手柄をたてることだ。どんな危険な仕事もできるか」
犬若丸は毅然としていった。
「できます」
「わかった。兄上には、わしからいっておいてやる。手柄をたてやすい働き場にまわしてもらえるようにな」
幻庵は、そういってから一枚の大高檀紙を示した。
「綱」の一字で始まる、所謂、一字書き出しの文書である。
幻庵が示した文書には、犬若丸の名乗りである「綱成」の文字が読めた。
「明日は、そなたの元服だ。早く寝ろ。麻梨も喜ぶぞ」
そういわれて犬若丸は、寝室へと去った。
途中、彼が攻めるべき江戸城の未来を思った。
その城に自分と麻梨の未来がかかっている。
その城には、彼にとって生涯の宿敵となる人物が入るはずであった。
翌大永4年(1524)正月13日、北条氏綱の軍勢が小田原を進発したとの報に、江戸城内は浮き足立っていた。
当主の朝興は、北条なにするものぞと気勢をあげていたが、その弟の左近太夫朝成は違っていた。
慎重な氏綱が、大軍を擁して江戸城へ攻めかかってくるとすれば、何か策があると思い、事態の推移を見守るべしと上申した。
だが、朝興は、品川・小杉付近でこれを迎撃する策を立て、衆議一決してしまった。
しかも、その作戦は、兵力の全てを動員して、北条を迎撃するというもので、事実上、江戸城を空にするというものだった。
朝成は、江戸城を留守にすることは危険であると進言し、一部兵力を残すように主張したが、入れられなかった。
交渉の結果、朝興が江戸城に残り、替わって、朝成が指揮をとることになった。
朝成は庶腹であるゆえ、自分の意見が入れられなかったと思い、生母・さりなを伴い出陣した。
戦闘は正月13日に開始された。
このいくさに先立ち、北条の家中で一悶着あった。
品川・小杉付近で予想される野戦の指揮者・幻庵が、先陣に麻梨を伴いたいと申し出てきたのだ。
これには、さすがの氏綱も難色を示したが、幻庵は、この作戦を立案したのは麻梨であり、これを戦地に連れて行くのは当然であるとして押し切ってしまった。
犬若丸などは、女の子を戦地へ連れ出すことなどと騒いだが、どうにもならない。
戦闘の名目上の指揮権は幻庵にあるが、事実上の采配は麻梨がとることになろう。
無論、後見人として、曽我丹後守と山中才四郎をつけてのことである。
出陣に際して、幻庵はき金石斎の名を麻梨に与えた。
国府台合戦に従軍して大功をたてたことで史書に名が残るあの軍師である。
彼女は、その名をもらったとき嫌がった。
麻梨にいわせれば、今度のいくさは野戦に重点が置かれたものではない。
野戦に勝とうが負けようが、戦争全体の胎教には一切関係ないのである。
「この一戦で上杉の主力を殲滅してもらわなければ困る」
幻庵にいわせれば、江戸城を攻め落としても、上杉の主力が残っていればどうにもならない。
この勢力が絶望の勇を奮って小田原を越えなくとも関東各地を蹂躙できる巨大な遊軍と化すのが一番怖い。
幻庵としては、なんとしても今回の合戦で植えすぎの要塞と主力軍を撃滅しなければならないのである。
そのためには、戦場での戦況判断が重要になってくる。
その戦況判断をして、さらに、適切な用兵が必要となってくる。
それが、できる人物として麻梨が伴陣する必要が生じてきたのである。
出陣の直前、麻梨が犬若丸にいった。
「わたし、怖い。どんどん、物事がわたしたちの手を離れて長綱様によって動かされていく」
「そんなことないよ。きっと、わしが、そなたを救い出してみせる。それまでがまんぞ」
そういう犬若丸に笑うことなく麻梨は幻庵に帯同して出陣していった。
戦闘は、品川の高縄原で開始された。
上杉の先鋒・曽我神四郎と北条の先鋒・多目六郎が激しく衝突し、激烈な白兵戦が展開された。
麻梨は、本陣に日傘をさして、後世にいう腰巻姿で戦闘の経緯を見守っていた。
左近太夫朝成は、二陣三陣の兵を繰り出して一挙に勝利をおさめんと。ついには、本陣の旗本まで繰り出した。
このときである。
麻梨は、使い番を走らせて、二陣の大道寺八郎兵衛の軍勢を二手に分けて、一挙に手薄になった朝成の本陣をつかしめた。
朝成の本陣は総崩れとなり、彼は、生母・さりなの方とともに、本陣を落ちのびた。
このとき、北条と上杉を巡る歴史のバランスは崩れ、その地位は逆転した。
本陣は総崩れとなり、指揮系統の乱れた上杉軍は浮き足立ち、北条の視力と大道寺の部隊に挟撃されて、しだいに劣勢に追い込まれた。
麻梨の采配が功を奏したのである。
高縄原の戦場で、麻梨の采配によって、歴史的大逆転が行われたとき、江戸城二の丸では、風魔小太郎を頭とする上杉お抱え忍者の一党が反乱を起こしていた。
二の丸に風魔一党が立てこもったことを知らされた朝興は太田資高を派遣して事態の収拾に当たらせる一方で、高縄原で戦闘中の朝成へ使い番を走らせ、救援を乞うた。
この使い番は、朝成の許へは着かなかった。
途中、青山方面を進軍中の氏綱の別働隊に捕らえられたからである。
氏綱は、高縄原の戦場にはいなかった。
麻梨に主戦場の指揮をまかせると、自分は別働隊を率いて、麻梨の作戦に従って、江戸城攻略に向かったのである。
その別働隊の中に犬若丸もいた。
「事前の申し合わせどうり、風魔の一党は動いているようじゃ」
氏綱は、予定どうり、進軍を続け、江戸城の城門み着いた。
北条は旗差し物から馬印まで、上杉のものを使用している。
そのうえ、犬若丸が、
「われらは、左近太夫から遣わされた者。速やかに開門されたい」
と怒鳴ったから、門番は城門を開け、北条軍を入城させてしまった。
氏綱は別働隊を二の丸付近に待機させた後、百人ほど連れて、本丸御座所へと赴いた。
そこには、朝興が座っていた。
氏綱は、その前に来ると、
「北条氏綱でござる。江戸城受け取りに参った」
というなり、自分の家来に命じて朝興の家来を全て組み伏せてしまった。
「お身に危害は加えぬ。ご安心めされよ」
その頃には、風魔の一党と呼応した別働隊が江戸城全域を制圧してしまっていた。
犬若丸は、あざやかな氏綱の指揮に舌を巻いた。
氏綱の別働隊が江戸城を制圧していた頃、上杉朝成の主力軍は消滅していた。
左近太夫朝成は、強力無双の今板額の異名をとる生母・さりなの方に守られて、戦場を離脱した。
戦後、麻梨の主力は威風堂々と江戸城に入り、氏綱の別働隊と合流した。
江戸城本丸主殿の間には氏綱以下、別働隊の面々が待っていた。
その別働隊の中に犬若丸の姿を見つけた麻梨は、思わず、駆けいった。
そして、氏綱の手をつかんでいった。
「わたしたち、勝ったのよ」
それは、この勝利の代償に自分たちが自由になれるという期待が込められた言葉であった。
主殿の間をこどものようにはしゃぐふたり(事実、まだこどもだが)を見て、氏綱が幻庵にいった。
「いいのか」
「かまわん」
そういったきり、幻庵は奥へ去った。
氏綱は、朝興を処刑せず、川越城へ送らせた。
武士の情けではなく、敗軍の将である朝興を返すことによって、扇谷上杉家中の混乱を誘うためだった。
江戸城の陥落により、戦国関東のパワーバランスは逆転し、北条は歴史的地位を確立した。
決定的敗北をした上杉は、その事実を認めようとせず、この後も負け続け、上杉謙信の死まで、その事実を認めようとしなかった。
この直後、北条の家中で路線上の対立が生じた。
江戸城攻略で大功をたてた幻庵が、事もあろうに北条の本拠になったばかりの小田原を捨てて江戸に拠点を移す「遷都」を主張したのである。
幻庵の主張によれば、江戸城の確保により、今後の戦争の重心は武蔵一帯に移る。
この新事態に備えるためにも予想戦闘区域に近い江戸城に拠点を移すことにより迅速な作戦行動と大規模な情報収集が可能となるというものであった。
さらに、江戸城自体は比較的低い丘陵に築かれているものの広大な関東平野の只中に存在し海に面している。
城下町を発達させて経済力をつけるには、もってこいの土地で、しかも、この地へ移転することにより家中の人心を一新することができ、さらにいえば、新時代の到来を関東の人々に示すことができるというものであった。
この思想は、後年、織田信長が実現したことであり、彼は、本拠地を清洲から小牧、岐阜、そして、安土へと移転させることにより自分の運命を切り開いていった。
幻庵は、信長よりも半世紀も前にこの思想を提唱していた先駆者といえるであろう。
この思想は、しかし、頑迷な保守家によって潰されてしまった。
氏綱ですら同意しなかった。
彼は、この聡明な弟の意見がわかっていたが、韮山から小田原に移転したばかりの今では対処の仕様がなく黙殺する以外になかった。
幻庵は、氏綱の口から却下を申し渡されると、そのまま黙って城をさがった。
「犬若丸、坂東のいくさは、あと十年続くぞ」
久野の館で、幻庵は苦い口調でいった。
「やめだやめだ。わしには武将としての暮らしはむかん」
心配そうにやってきた麻梨を見て、幻庵がいった。
「麻梨。そなたは犬若丸の許へいけ。わしは、この地へ去る」
「どちらへいかれるのです」
麻梨が心配そうにきいた。
「京だ」
幻庵は、京都遊学の志しをもっている。
さいわい、彼が父の早雲から分知されたもので十分、その賄いは出る。
「わしが、媒酌人になってやる。祝言を挙げろ」
そういうなり小柄をとろだし、木の枝を削り出した。
工作一筋の幻庵が何も聞かないのをふたりは知っている。
邪魔しないように去った。
翌日、幻庵は登城して氏綱に会った。
そして、京都遊学の希望を述べた。
「麻梨はどうする」
氏綱がたずねると、
「あの子は犬若丸にくれてやるつもりである」
とさらりと幻庵がこたえた。
「くれてやるって、人はものとは違うぞ。あの子の気持ちを考えてやれ」
幻庵がいった。
「麻梨は、犬若丸にほれておる。添わせてやるのが、あの子のためじゃて」
「そなた、自分の齢がわかっているのか」
氏綱は、適齢期を逸しつつある弟の身を案じた。
「男三十過ぎればとうがたつ。それに、わしは、京へ行きたい。それがかなえあば妻などいらぬ」
氏綱は、弟の決意が変わらぬのを知った。
「わかった。だが、そなたが抜けた後の北条はどうなる」
「犬若丸がいる。あれは、磨けば光る玉ぞ。あれには、大将の器がある。いくさの駆け引きに才能がある。そばにつけて、引き立てておやりなされい」
江戸城攻略に帯同して、氏綱にも犬若丸の才能はわかっていた。
「そなたのいうとおりにしよう」
「かたじけない」
兄と弟に、これ以上の言葉はいらなかった。
幻庵は、黙って辞去した。
久野の館では、連日、麻梨への婚礼作法の特訓が続いていた。
麻梨の覚えは悪く、幻庵の叱咤の声に彼女の悲鳴が響いた。
「麻梨は、板間にうすべりを敷くだけの質素な婚礼で十分でございます。このような仰々しい作法がなぜに必要なのでござりまするのか」
「それはのう、後戻り出来ぬようにするためじゃ。政略結婚よりも色恋のほうが別れる率が高いと申すからのう」
「麻梨は、犬若丸と別れたりはしません」
「それは、わからんぞ。いくさと同じで、何が起きるかわからぬのが、夫婦というものじゃからのう。さあ、稽古、稽古」
その夜、幻庵、犬若丸、麻梨の三人は、机を並べて寝物語をした。
箱根にいた頃、何度も行ったことである。
「長綱様は、最初からわしと麻梨を添わせるつもりで」
犬若丸は尋ねた。
「昨日、今日の仲ではあるまい。わしのことを少しは信用しろ。それにのう」
と幻庵は語り始めた。
「わしは、どうも自分が大切でのう。他人のために何かしてやろうとは思わないのだ。我が父・早雲は、領民のために何事かしてやるという政事をおこされた」
それまで、土地争いなどを調停する裁判所の機能しか持たなかった日本の政府というものに行政機能を持たせたのが、北条早雲であった。
彼は、病人に医療と薬剤を提供し四公六民の低い税率を適用し民政の安定に努めた。
このような「領国制」は、北条早雲が最初で以後の江戸幕府もこれを見習った。
北条ほど手厚い民間政策を施した例は、戦国にあって珍しい。
北条五代が百年に渡って関東に君臨したのは、この優れた統治システムがあったためであり、その最末期、豊臣秀吉の大軍を迎え撃つために大量の農民を強制徴用したとき、その体制は崩れた。
「北条に必要なのは、他人に自分の一身なんぞくれてやるという人間だ。そういう人間であればこそ、はじめて北条の一門・家臣として参画することができるということだ。わしは風流三昧に生きたいと思っている。とてもじゃないが、いくさや政事に全てを賭ける気にはなれん。それが」
犬若丸と麻梨には出来るという。
「犬若丸は麻梨のために、麻梨は犬若丸のために。それぞれ命を捨てられるであろう。そういう人間が北条には必要だ。だから、わしは、そなたたちふたりに北条の未来を託そうと思ったのだ」
幻庵の立場というものは、幕末の勝海舟に似ている。海舟は、西郷隆盛と坂本龍馬を会わせることにより維新の大業を実現した。それと同じことを幻庵はしようとしている。
「何事もしない国ではなく何事かをする国をつくるのだ」
その言葉に戦国大名とはなんであるかを示唆する意味が含まれていた。
旧暦の3月。
犬若丸と麻梨の婚礼が久野の館で行われた。
杯事が終わった後、婚礼報告のため、新婚の夫婦は小田原城に入り、氏綱に謁見した。
それが終わって城の大手門を出たとき、幻庵が石垣山を指差した。
「麻梨、あれを見てごらん」
いわれて、麻梨が見ると石垣山の稜線に白壁が延々と連なっている。
十日程前から並べられているもので小田原の背後を守る砦をつくっているという噂であった。
幻庵がさっと旗を振った。
一斉に白壁が倒れ、見るもあざやかな満開の桜が目に入った。
「わしよりの引き出物じゃ」
麻梨は笑ってうなずいた。
「きれい・・・・・いってみたい」
麻梨がぽつりというと、
「いくがよい。祝言の後の花見もまたよいぞ」
といって石垣山へ向かわせた。
その花見に向かう行列を見ながら、かたわらに立つ氏綱が幻庵にいった。
「かわいいだろう」
「うん」
「あんな子がほしいんだろう」
「バカをいうな。他人の花だ」
「なんだったら、わしが紹介してやってもよいが」
「政略結婚はごめんだ」
そういうなり幻庵は、行列を追いかけた。
今宵は、夜桜を楽しむことになろう。
それから間もなく、幻庵は京へ旅立った。
犬若丸と麻梨はもう少しいてほしいと頼んだが、幻庵ははやる心を抑えられなかった。
やむなくこの新婚の夫婦は途中まで幻庵を送って行くこととした。
箱根の山を越えるとき、幻庵はひどく述懐的なことをいった。
「父・早雲がこの山を越えたとき戦国の世がはじまった」
北条早雲が小田原を奪取すべくこの大岩塊を越えたとき戦国時代が開幕した。
「北条はこの山を越えた。そして、戻ることはない」
ということは、北条には西進して天下を望むつもりはないということになる。
「ただひたすらに坂東の平野をおしすすみ、何事かをする国をつくるべし」
北条には関東平野を驀進して「領国制」を広げる以外に道はないというのである。
駿河に入り、黄瀬川に至った。
ここはもう今川の勢力圏である。
そろそろ三人は別れねばならない。
黄瀬川の手前で横笛をひとつ、幻庵は麻梨に手渡した。
「これは」
「吹きこなしてみよ。風流もひとつのたしなみじゃて」
この横笛は、幻庵が久野の館で削っていた工作物であった。
渡した後、幻庵はひしと犬若丸と麻梨をだきしめた。
「あっ・・・・・」
「長綱様」
どちらからともなく声を漏らした。
「さらばじゃ、わが弟と妹よ。小田原のこと、よしなに頼む」
そういって、幻庵は黄瀬川の向こうへ去った。
幻庵は去り、麻梨と犬若丸は残った。
幻庵が残した何事かの意志を描こうとするのが、本稿の目的である。
この後もこのふたりをとおして戦国関東に何事かに体制が確立されるのを見届けねばなるまい。
そのような意図もあって、その後のふたりについて触れ続ける。
幻庵は、京へ去るにあたって、ひとつの作戦を遺した。
それは、岩付・毛呂の二城を確保せよという作戦案であり、この二城をもって川越に対する拠点とし、さらには、情報を収集する触覚の役割も果たさせようとするものであった。
氏綱は、作戦行動を開始、毛呂は外交交渉によってその掌中に入り、岩付は、大永5年の2月6日、総攻撃を加えて、これを攻略した。
上杉朝興は、山内上杉と同盟し、その当主・憲房は鉢形城に入り、毛呂と対峙する態勢をとった。
そして、全面的大攻勢を行おうとした矢先、急逝した。
すんでのところで上杉の主力との決戦を回避できた氏綱は、犬若丸の部隊を先鋒に葛西城を攻略し房総方面へも拠点を確保した。
江戸城攻略の論功行賞の結果、幻庵は、小田原と交換するかたちで、小机城を得た。
城代には、笠原信為が、侍大将には、千早綱成(犬若丸)、曽我丹後守が、それぞれ任命されたが、犬若丸は、氏綱の側近として、常時、久野の館に控えることになっていた。
戦後の北条家中では、江戸城を掌中にしたこともあり、ファナティックな気分が充満していた。
高縄原の一戦で扇谷上杉の主力を壊滅したのだから、この気を逃さず、殲滅すべしという意見である。
氏綱は、一大決戦を敢行した直後でもあり、占領地の整備に心砕かなければならなかったので、内心、川越遠征には反対であった。
ところが、譜代の家臣が上杉征討をさけび、外様の豪族たちが、氏綱に自分たちの忠誠心を見せたいがために、ついに、川越遠征を決定しなければならなかった。
川越遠征決定の報を受け、麻梨は遠征を中止するように氏綱に進言したが、長老の山中才四郎までもが主戦派に同調している以上、家中を抑えることができないといって、容易に翻意しようとはいわなかった。
麻梨は事前の評定で氏綱が何度も主戦論を強硬な態度で退け、その度に、非戦論を主張したことを聞いており、氏綱が戦争反対の態度を貫き、領主の非常大権をもってすれば家中を抑えられると説いたが、聞き入れられなかった。
かくて、大永5年(1525)8月、氏綱は川越遠征作戦を開始、先鋒として麻梨の部隊を先行させた。
川越城では、朝成が情報収集を急いだ。
その情報の中に、北条進発の報を聞いた朝成は、その先鋒が、金石斎の部隊一千であることを知り、全力でこれを撃滅すべく、精兵二千を集めて出陣した。
麻梨は、朝霧のただよう白子原の陣中で粥をすすっていた。
麻梨は、熱い粥をすすりながら、なぜ、氏綱がこのような無謀な作戦を裁可したのか考えていた。
北条は、一万の大軍を擁するようになったとはいえ、その大半は新参者の寄せ集めで、意志の疎通が図られていない。そして、指揮系統も確立されておらず、いざ、いくさのとき、遊軍をつくり、せっかくの大軍を意味のないものにしかねない。そのことは百も承知の氏綱が、なぜ、このような無謀ないくさを決行したのか、麻梨には理解できなかった。
そんなことを考えながら、麻梨はふと周囲を見渡した。
この雑木林に布陣する兵の大半が、にわかに麻梨につけられた者たちである。
満足に訓練を受けていない者たちが、不意に敵の襲撃を受けたらどうなるのか。
考えただけで空おそろしかった。
(犬若丸がいてくれたら)
この陣中に犬若丸はいなかった。
先の江戸城攻略のとき、犬若丸の働きに感じ入った氏綱が自分の手元に置きたがり、今は、氏綱の使い番として、はるか後方にいるはずであった。
(犬若丸がいてくれたら、こんな心細い思いはしなくてすんだのに)
いまさらながら、無二の人を思う麻梨であった。
と、そのときである。
不意に霧の中から、馬のいななく声がして、馬蹄が天幕を引き倒す音がした。
(敵襲!)
麻梨は、咄嗟に、気づいたが、とき既に遅かった。
朝成の軍勢は、麻梨の本陣近くまで押し入り、一方的な殺戮を開始したのである。
北条方は、濃い霧のため、上杉方の来襲を察知できなかった。
しかも、早朝であったため、炊煙を上げている者が多く、不意の襲撃に対応できなかったのである。
北条は逃げ惑い、あげくの果て、同士討ちを始めた。
濃い霧のため、敵味方の区別がつかなかったのである。
戦闘は長引き、その間、上杉方は二倍の戦力で押しまくった。
戦局は圧倒的に上杉方が有利だったが、さしもの彼らも、この戦闘を容易に終結せしめることはできなかった。
北条方の混乱が収拾できぬほどにひどかったからである。
この間、霧が晴れた。
視界が開かれた一面の野原に、北条の陣中を蹂躙している上杉の軍勢が見えた。
朝成の生母・さりなの方は、自ら甲冑をつけ、薙刀を持ち、戦場を疾駆したが、本陣の近くで、天幕に隠れている人影を見つけた。
すわ,総大将かと薙刀で天幕を払ってみると、ひとりの少女がいた。
それが、この本陣の総大将たる軍師・金石斎その人だったが、さりなは、よもや、敵の総大将が少女であるとは思わず、見逃した。
さりなは、目の前の少女が、北条方の伴われた遊女であると思い、かつて、朝成の父に側室にされた自分の身の上と重なるものがあると感じたのか、この少女を見逃すことにしたのである。
このとき麻梨は失禁していた。
悠然と立ち去るさりなを見ながら、股間から流れるもの熱いものが止まらなかった。
犬若丸は、先鋒の異変を昼ごろまで知らなかった。
小休止後、赤塚城を進発した北条氏綱の本隊は、ほどなく白子原から落ちてくる自軍の落人と出会い、先鋒部隊が壊滅したことを知ったのである。
麻梨の部隊が壊滅したことを知らされたときの氏綱と曽我丹後守のうなづきあう表情を犬若丸は見逃さなかった。
(こいつら図りやがった)
咄嗟に犬若丸は気づいた。
考えてみれば先鋒に一千の部隊しか預けないこと自体おかしかった。
長禄以来、戦争が続く関東の戦術は、上方のそれと比べて発達しているはずである。
先鋒というものは、緒戦に際して、敵に強力な打撃を与えて駆逐し、合わせて心理的打撃も与えて、以後の戦局を有利にするというもので、そのためには、かなりの兵数を与えるのがふつであった。だが、今回の戦闘に際しては、1千しか与えていあにのである。
これはどう見ても異常であった。
犬若丸は手綱をとった。
「何処へ行く」
氏綱がいうと、
「大物見でござる」
とこたえて北へ駆けた。
犬若丸は、麻梨を探した。
事前の打ち合わせて、万一の場合、徳丸原へ落ちのびるようにしてある。
徳丸原の雑木林を駆け巡っていると、ほどなく麻梨を見つけた。
麻梨は憔悴しきった表情で雑木林の中に隠れていた。
彼女は白子原の敗戦後、風魔の忍者たちに助け出されて、この徳丸原まで逃走してきたのである。
雑木林の中で震えきっていた麻梨は、犬若丸の姿を見たとたん、思わず、立ち上がり、駆けて、その胸へ飛び込んだ。
「犬若丸、わたし、すごくこわかったの、ほんとうに・・・・・・」
天才軍師だ何だといわれても、まだ18歳の少女なのである。
最愛の妻をだきしめて、その頭をなでつつ、犬若丸はいいしれぬ怒りにつつまれていた。
(わしは麻梨を追いかけて、ここまで来た。もし、ここで麻梨を失えばどうなる。麻梨をこれ以上、辛い目にあわせたくない)
そのために必要なおのれの身の処し方について、ひとつの結論を得た。
(御家を退転する)
麻梨は、激しく泣きじゃくっていた。
徳丸原に、麻梨のすすり泣く声が響いていた。
白子原からの敗兵はとめどもなかった。
曽我丹後守などは、その余りの無秩序ぶりとだらしなさに抜刀して、
「退くものは切る」
と恫喝したが、その勢いを止めることはできなかった。
丹後守は、やむをえず、敗兵たちを一旦、赤塚城に収容することにしたが、至近の白子原で負かされてきた兵士たちは、見えない影に脅えて、ひたすらに江戸城をめざして駆けて行く。
敗兵と進撃部隊が錯綜する混乱の路上で、ひとり氏綱だけは平静で、後軍が進発をためらっている中で、本隊を手際よくまとめて、単独で、白子原へと急行した。
が、すでに、朝成の奇襲部隊は撤収した後であった。
朝成の見事さは、戦勝の果実のみさらって、それ以上の戦果拡大を求めず潔く撤収したことにあった。
「川越方面へ進撃致し、上杉が大将の首級を挙げてくれん」
氏綱は、軍配をかざして、進撃を主張したが、重臣一同がおしとどめる。
「その方どもは、わしが、こたびのいくさに反対したとき、強引に、この出兵を決めたではないか。それを、今更ダメでは、わしの沽券が許さなんぞ」
なおも氏綱が主張すると、
「兵は疲れに疲れ、そのまとまりすでになく、徒士働きなど思いもよりませぬ」
と重臣一同は困惑した口調で主張した。
彼らは戦意喪失していたのである。
後方の豪族たちは浮き足立ち、戦意を失っていた。
彼らの全てが撤収を願っていた。
幾多の押し問答があった末、氏綱が重臣の意見を入れる形で撤収を決めた。
このときの氏綱の様子が古典「武蔵兵乱記」に描かれている。
撤収を決めたとき、氏綱はおもむろに軍配を地にたたきつけて、次のようにいった。
「よに不甲斐なきやつらよ。坂東武者一万騎ありといえども、おのこは、ひとりもあらじか」
この間、氏綱はひとことも撤収するとはいっていない。
北条軍は、自分たちよりも少ない敵を目の前にして退却した。
もし、このとき、氏綱が本隊のみでも追撃していたら、朝成の軍勢を捕捉殲滅することができたかもしれない。
だが、賢明な氏綱は、そのような手段をとらなかった。
彼は、この一戦で敗軍の将でありながら、家中における絶対的地位を確立した。
その意見を退けてまで、重臣以下、譜代・外様を含めた家臣一同が、今回の愚行を強行したのである。
そのため、彼らは面目を失い、家中における発言権を失ったのである。
氏綱は、開戦前、徹底して反対したことが評価され、先見の明ありとして、家中の声望を集めた。
氏綱は、譜代はおろか外様の豪族まで完全に服属せしめたのである。
一方、左近太夫朝成は、北条の先鋒部隊を壊滅させた功績により、家中の人望を集め、本人が好むと好まざるとに関わらず、扇谷上杉の実験を掌握した。
翻って、麻梨の処遇を見ると、白子原の敗戦の責任をとらされて、久野の館に蟄居を命じられている。
白子原の一戦は、北条氏綱と上杉朝成という、二人の英傑の台頭を示すものとなった。
とはいっても、この二人が直接、雌雄を決するまでには時間がかかった。
二人だけの対決をするためには、この両名、余りにも多忙すぎたのである。
大永5年から同6年にかけて、北条と扇谷上杉は小競り合いを続け、北条は家中に絶対的優位を確立した氏綱の下、よくまとまって戦い、枢要な地点を確実にとっていった。
この間、北条の家中では驚愕すべき事件が起きていた。
犬若丸が突如として、
「御家退転」
を願い出て、小田原城下を退去する支度をはじめたのである。
先の白子原の戦い以降、上層部と距離をおいてきた犬若丸だったが、麻梨の精神の衰弱ぶりが激しくなったのを見てとって、「女房見舞い」と称して伊豆の温泉地に籠もるといいだしたのである。
このことにもっとも動揺したのが、氏綱である。
犬若丸の辞意を聞いた氏綱は、単身、この臣下の館を訪ねて慰留した。
だが、犬若丸はその申し出を断った。
「女、子どもをいくさに借り出して領地・城を得るやり方に、それがし、承服できませぬ」
麻梨をむりやり軍師におしたて、いくさ場へつれだした事をいっているのであろうと氏綱は思った。
「北条は、譜代と外様の寄り合い所帯。これからのいくさを勝ち抜くためには家中の結束が大切。そのためには、わしを頂点とする北条の接待体制を確立しなければならなかったのだ」
「だからといって、わざと負けるいくさを仕込んでいいといわれるのですか」
「譜代といっても、大道寺の先代など、わしが童の頃まで、大道寺のおじ様などと呼んでいたものだ。そういう、かつての父・早雲の京都時代からの盟友を家臣として扱わねばならぬ、わしの立場もわかってくれい」
「殿のお気持ちも分からぬではありませんが、わし自身も麻梨が大切。所詮は山の土人形に過ぎぬわしがかように、この小田原へ参ったのも、麻梨を思うが故でござる。麻梨を危うい目に合わせるのが、それがしの望みではありませぬ」
氏綱は、嘆息した。
この若者に何をいっても無駄だと気づいたのである。
氏綱は懐中より一通の書状をとりだした。
「長綱よりの頼りだ。京都のことをよう書いている。そなたたちのことも案じていたぞ」
氏綱は、ゆっくりと立ち上がった。
そして去り際にいった。
「大道寺も山中も、皆、寂しがっているぞ。皆、そなたと一緒にやりたいのじゃよ。その手紙を読んで気が変わったら、明日、笑って城へ来い」
そういいのこして、氏綱は、久野の館を去った。
犬若丸は、幻庵よりの手紙を読んだ。
そこには、兄とも思う人の懐かしい筆跡があった。
そして、京都の近況―勃興する細川高国の権勢と家内制手工業を中心とする京都の賑わいなどが書いてあった。
(ずるいよ・・・・・長綱様)
精神が動揺している今の自分に手紙を送りつけてくる幻庵がうらめしかった。
(長綱様は、自分の夢を我々に託そうとしている。坂東に庶民のために何事かする国をつくろうと。その国をつくるために、わしと麻梨は戦おうとしているのだ)
そのとき、後ろの襖が開いた。
寝巻姿の白小袖の麻梨が立っていた。
麻梨は、犬若丸によりそって、ささやいた。
「犬若丸。わたしのことは気にしなくていいから、自分が思うことをやりたいようにやって」
「麻梨・・・・・それでは、また、このあいだのような目にあうぞ」
「長綱様が夢見る国をつくりたいのでしょう。そのためには、犬若丸が必要だって殿様がおっしゃっていたわ」
犬若丸は、さきほどまで目の前に対座していた氏綱を思った。
(そうだ。あの人は、長綱様の兄上なのだ)
そう思うと妙に氏綱に親近感がわいた。
「この国の行く末を見届けてみようか」
麻梨は、微笑をうかべてうなづいてくれた。
心の迷いがふっきれた犬若丸は、勇躍して出陣。
各地を転戦した。
この間、麻梨には何の沙汰もなく、氏綱から一向に声がかからなかった。
麻梨は退屈な日々を侍女たちを相手に貝合わせや歌の会を催したりして、気を紛らしていた。
そんな麻梨を不憫に思ったのか、氏綱は、この美貌の軍師に対して、玉縄城視察という役目を命令した。
麻梨は、喜び勇んで、玉縄城へ向かい、途中、鎌倉を視察して、大永6年(1526)12月、玉縄城へ入った。
玉縄城攻防戦
玉縄城は、早雲の次男・氏時が城主をつとめており、麻梨は、この幻庵のすぐ上の兄と会うのは、この日が初めてのことであった。
氏時も、この美貌の天才軍師・藤田金石斎と会うのは、このときが初めてだった。
玉縄城を置いた丘陵の頂上付近に設けられた本丸の小さな庭園で、このふたりは会談した。
氏時は、江戸城攻略の功労者が、色白の肌をした長い黒髪の美少女であることに驚いた。
麻梨は、はにかんだような笑顔で話し始めた。
「千早宮内少輔の妻でござりまする」
ちいさな唇から漏れる声も、少女らしいかわいらしいものだったので、氏時は驚いた。
「遠路、大義でござった。金石斎殿には、江戸城のご活躍など伺わせていただこう」
この後、ふたりは並んで歩き出した。
ふたりは、庭園の中の四阿に腰掛けて話を始めた。
まわりを氏時の家来たちがかこんでいたので、当然、彼らからも質問があり、その大半が江戸城陥落に関するものだった。麻梨は、それらの質問に対して懇切丁寧に答えた。白子原の敗戦に関する質問がなかったことが救いだった。
ひととおり話が終わって、氏時がいった。
「長綱が利発なおなごが箱根におるといっていたが、なるほど、そのとおりだったわい。それに、三国一の器量善しときている」
まわりが笑いにつつまれた。
その頃、異変は、海の向こうより訪れた。
安房・館山の里見実堯の水軍が、にわかに江戸湾を押し渡り、三浦半島へと上陸したのである。
里見水軍は、鎌倉市中へ侵入し、玉縄城の麓。柏尾川へ到達した。
氏時と麻梨が、里見水軍の来襲を知ったのはこのときのことであり、氏時は急ぎ甲冑をつけ、戸部川方面へと出陣したが、鎌倉市中を焼く炎と暴行略奪が横行する市中の混乱のため、ひと合戦したのみで撤収せざるをえなかった。
麻梨は、氏時の部隊を収容すると、全ての城門を固く閉じさせて、篭城の構えをとった。
里見左近太夫に指揮された軍勢は七曲口へ殺到し、堀にかかった算盤橋を突破しようとした。
それを見た麻梨は、堤からの釣るべ討ちを続けて、里見勢の渡河を一時、押さえている間に、城内に備蓄された油を煮立たせて可燃性を高め、それを堀へ注いで火を放った。
堀の上の戸板の里見勢は燃え上がり、業火の中にその姿を消した。
里見水軍の攻勢は、一挙に衰え、膠着状態となった。
鎌倉の異変を知った氏綱は、犬若丸以下、七千余騎を率いて、小田原を進発。
鎌倉へ急行した。途中、犬若丸の表情は冴えなかった。麻梨が玉縄城にいることを知っていたからである。その犬若丸を見て、氏綱がいった。
「玉縄には氏時がいる。むざむざとやられはしまい」
鎌倉へ入る切通しから見えたのは、天を焦がすほどの鶴ヶ岡八幡宮を焼く炎だった。
伝統の社を焼かれて、北条軍の怒りは頂点に達した。
「里見討つべし」
の声が、陣中に溢れ、今にも暴発しそうな雰囲気だった。
氏綱は、それらの家臣を一喝した。
「われらには、麻梨がおらんのだぞ。軽はずみなことをいたすな」
その一声に、家臣一同が意義を正した。
江戸城攻略の立て役者・藤田金石斎の声望は、まだ生きていたのである。
曽我丹後守の進言により、以下の作戦が裁可された。
鎌倉の出入り口を全て閉鎖し、北条の主力を投入、市中で乱暴狼藉を図る里見水軍を個別に撃破するというものだった。
作戦は決行され、犬若丸の部隊が市中へ突入し、敵本陣を目指した。
略奪暴行に熱中していた里見水軍は、不意打ちをくらい、本陣は手薄になっていた。
犬若丸は、本陣へ矢を射かけさせて、左近太夫の護衛の者たちを打ち倒し、単身、左近太夫へ肉薄した。
犬若丸は、左近太夫の馬へ射かけて、落馬させ、自らも馬を降りて、左近太夫と組み討ちした。
激闘四半刻後、、犬若丸は左近太夫の首をかき切った。
敵の大将を討ち取ったとき、犬若丸の脳裏に、麻梨の笑顔が映った。
玉縄城の戦いは一進一退を続けていた。
鎌倉市中の掃討戦で、北条が優勢になりつつあるとはいっても、残敵の掃討に手間どり、とても玉縄城を救援するどころではなかった。
氏時は、自ら兵を率いて出陣。
くるわの杉林に布陣する里見の小部隊を攻撃し、その家紋入りの天幕を奪い、七曲口に掲げた。
これを見て、怒り狂った里見軍は、総力を挙げて七曲口へと殺到。
その間隙を縫って、氏時の少数部隊が出撃。
里見軍・攻城部隊の本陣に猛薄した。
結果的に、氏時の部隊は、里見軍の支隊を潰せなかった。
時を同じくして、犬若丸の部隊が行動を起こし、切り込み部隊を派遣。
あっというまに、里見軍の支隊を壊滅させたのである。
動揺した里見軍は、にわかに崩れだし、われ先に、海辺の舟へと落ちていった。
犬若丸の緑備えの軍勢が見えたとき、麻梨は、安堵した。
里見軍の攻撃により、北条は、房総半島にも敵をもつことになった。
二正面作戦を強いられる可能性が出てきたのと同時に、鎌倉が焦土と化し、この古都の再興が課題となった。
氏綱は、犬若丸と麻梨を連れて、若宮大路を視察した。
その余りの惨状を見て、氏綱がいった。
「わしは、北条の威信にかけても、この鎌倉を立て直すぞ」
鎌倉を復興する事が、関東に新秩序の到来を知らしめる事になるのである。
幻庵が主張した江戸遷都の意義が、氏綱の鎌倉再興によって実現されたのである。
十年後、鶴が岡八幡宮は再興され、氏綱は、死の直前、それを見る事ができた。
関東に新秩序が生まれようとしている。
そのためには、ひとりの英雄が必要である。
その英雄を、我々は迎えねばなるまい。
北条氏康である。
初陣!小沢原
氏康の登場の前に、我々は、千早綱正の誕生について、触れねばなるまい。
この小説は、当初、この千早綱正―即ち、犬若丸と麻梨の子供が主人公になるはずだった。
だが、筆者の筆力不足から断念せざるをえなかった。
この千早綱正について語るためには、その母・麻梨の懐妊について触れねばなるまい。
熱海に、幻庵の生母・葛山殿が、その老後の身を憩っている。
麻梨は、ときに箱根の大岩塊を越えて、この葛山殿のご機嫌を伺う。
熱海の海に面した温暖な場所に、オゾンに満ち溢れた大気の中を葛山殿は生きていた。
麻梨は、板敷に座り、葛山殿と歓談していたが、突如として嘔吐感に襲われて、簀の子のわきに吐いた。
これを見た葛山殿が、
「懐妊に違いない」
と思い、安定期に入るまでの間、熱海に滞在する事を勧めた。
麻梨も大事をとるために、その好意に甘えて、つわりに苦しみながらも、熱海に滞在した。
暫くして目覚めたとき、すっきりとした爽快感につつまれていた。
安定期を迎えたのである。
さすがに葛山殿のもとで出産することを遠慮したのか、麻梨は久野の館へ戻ることにした。
その途次、箱根の実家・藤田家により、居心地がよくなったせいか、父母のもとで出産することにした。
そして、享禄二年(1529)初夏、男児を出産した。
後の千早綱正である。
北条氏康の五男・氏規の守役として、今川の人質となった氏規に従って駿河に入り、三国同盟の締結に奔走。
観戦武官として桶狭間・川中島の二大合戦に遭遇し、小田原城攻防戦では、氏規とともに韮山城の戦いに活躍。
北条滅亡後は、その再興に奔走し、氏規の子・氏盛をして河内狭山一万石として再興せしめ、現地に帰農した。
その子孫は、現在も大阪府枚方市に健在であられる。
犬若丸と麻梨の血は、大坂の地に遺った。
麻梨の出産を、犬若丸は、出張先の岩付城で知った。
(我が子が生まれたのか)
それも男子である。
いずれ、新興の千早家を継ぐ武将となるであろう。
この子が継ぐまでの間、自分が武功をたてて、基礎を築かねばなるまい。
今、犬若丸は、岩付城のつえ突きをしている。
利根川と荒川に挟まれた天然の要害の岩付城に「総構え」と称される一大防塞を築くという、後に小田原城も採用した独創的な建築を行った。
この方式は、遥か後年、豊臣秀吉も真似して大坂城に採用した。
その築城法を教えたのは、幻庵である。
その幻庵は、京都にいる。
京都の幻庵は、ある寺院の宿坊を借り切って、和歌や書画などの風流三昧の日々を過ごしている。
関東の大地で、血の汗を流して戦っている犬若丸と麻梨に後ろめたさを覚えつつ、好きな事をして過ごしている。
その幻庵のもとへ麻梨出産の知らせが届いた。
(あの犬若丸と麻梨に子が生まれたか)
ふたりの子であれば、自分にとっては甥と同様である。
彼は、大高檀紙をとりよせた。
(名をつけてやらねばなるまい)
が、いざとなると思いつかない。
暫くして、思い出されたのが、自分の幼名であった。
(菊寿丸・・・・・菊寿丸・・・・・)
北条草創期の懐かしい思い出に彩られた名前。
早雲と、六人の同志たちの伝説に満ち溢れた時代。
(菊寿丸。ありきたりの名前ではないか)
そう、思いつつ、幻庵は、筆を走らせていた。
犬若丸は岩付城を改修した。
彼にとって、自信作のこの城が、あろうことか、享禄三年(1530)9月、扇谷上杉の攻撃により陥落してしまったのである。
犬若丸の落胆は大きかった。
このときの彼の苦衷を述べた手紙が、「北条家文書」に所収されている。
それを筆者が意訳すると、次のようになる。
「岩付城の落ちるる件、よに返す返すも無念なり。ついては、この身に変えてもこの一城取り戻す所存なり。ご本城様(氏綱の事)のお力お借りしたく候」
犬若丸が歴史に遺す最後の文書が、これである。
この文書をもって、犬若丸は、公式の歴史から姿を消すが、その後の戦闘にも千早軍の記述が見えるので、断片的な資料を拾いつつ、筆者が犬若丸の即席を辿ってみたいと思う。
さて、いよいよ、氏康の登場である。
享禄三年に十六歳になっている、この戦国きっての名君について触れるのは、いささか筆者には力量不足である。
よって、挿話を列記する形式で、彼の人となりに触れていきたいと思う。
麻の酒について。
氏康に飲酒を教えたのは、犬若丸である。
犬若丸も幻庵に酒を覚えさせられたので、相当飲む。
麻梨は、基本的に酒は嫌いである。
ある日の夜、わずかな肴をつまみに犬若丸と氏康が浴びるほどに飲んでいた。
それを見ていた麻梨が注意した。
「もう、子の刻を回っているんですよ。いいかげんにしなさい。それに」
酒の肴が梅干しと塩だけでは体に悪かろうというのである。
しかし、ふたりとも辛口である。
やむなく大根の味噌煮と鶏の贓物焼きを食べさせた。
寅の刻にが酔っ払って寝てしまった。
麻梨は、あわてて注意した。
すると、氏康は次のようにいった。
「どうも夜の酒は深くなりすぎていけない。それにくらべると麻の酒は仕事始めに謹んで飲むから、相応に抑制がきいてよろしい」
これが、氏康の朝酒として有名な挿話である。
亀の挿話。
ある年、小田原の海に一匹の大亀が浮いていた。
それが、海辺に上がってくると地元の子供たちが棒でつついたりして、いたずらをした。
これを見かねた氏康が、大亀を引っ張って城下の神社の池に放した。
神社の池は放生と呼ばれ、殺生禁止となっている。
そのため、この大亀は十分憩うことができた。
大亀が、また大きくなったために海へ戻した。
この大亀は暫く小田原の海に浮かんでいた。
「物好きな」
と犬若丸がいうと、
「古来、大亀は吉事の兆しと聞く。漢書にも玄武は南の守りと聞く。その玄武が小田原の南の海を守っておるのだ。北条安泰の証拠ではないか」
氏康のいうとうり、それからまもなくおこったこの小説の最後を飾るべき決戦に北条軍は大勝利を収めた。
剣の挿話。
氏康の剣の師匠は犬若丸である。
ある日、小田原城下で犬若丸が家中の若侍たちに剣を教えていた。
それを見て氏康は、びっくりしたような顔をした。
「こわいの」
と聞いたが、氏康は何も答えなかった。
氏康の様子を見た犬若丸が、
「御曹司、おやりにならぬか」
と木刀を差し出したが、氏康は、
「わしが、ここにいる者たちとはりあっても勝てる訳がない」
といって、母屋に入ってしまった。
「あの場は、稽古であったから、例え、真剣であっても、命永らえたであろうが、これが戦場であれば、刀傷を負うくらいでは済まなかったであろう。いくさには見切りというものが肝要で、自分よりも強いと思う相手には手を出さず、一歩引いて、策を立ててから出直すのが最良の策である。稽古の試合であれば、自分一人の怪我で済むが、これが戦場であれば、多くの家来を死に追いやる恐れがある。このことを思えば、いっとき臆病と思われることは、何ほどの事もない」
氏康の考え方をなるほどと、麻梨は思った。
氏康は平素から、兵を率いる将の条件というものを考え、自分の力量の程度を推し量り、その範囲内で自分がなすべき事を最良の方法を模索している。
その思慮の深さに、麻梨は内心、感心していあ。
翌日、氏康は、木刀で犬若丸と立ち会い、三本中、一本をとった。
里見水軍の鎌倉侵攻から、三年の歳月が流れた。
この間、上杉と北条の間に大規模な会戦は行われなかった。
扇谷上杉の実権を握っていた、左近太夫朝成が、大規模な戦闘を控えていたからである。
このため、氏綱は、房総半島へ出兵。
里見実堯を久留里城に攻めて、鎌倉消亡の意趣返しをするなど、余裕のある行動をとる事ができた。
こうした情勢下、氏康に初陣のときがきた。
上杉朝興が関東管領・上杉憲寛の助けを受けて、府中へ進出してきたのである。
氏綱は、麻梨に迎撃を命じ、同時に氏康の初陣を許した。
朝興が、長躯、相模への侵攻を策したとき、朝成は、その実現を危ぶんだ。
今回、朝興が率いる軍勢の大半は、上杉憲寛からの借り物であるし、府中周辺を押さえているとはいっても、その治安こころもとなく、満足な後方支援が受けられそうにない。
朝成は、朝興と密かに会い、出兵に反対したが、朝興は軽い威力偵察だといって聞かず、、やむなく、朝成が副将軍格で出陣することで折り合い、両者が和解した。
朝成は、家中の人望が自分に集まっている事を知っていたが、朝興をおしのけてまで、自分が当主の座につこうとは思わず、あくまでも補佐役に徹していた。
ひとつには、庶腹であるため、表に出にくいという立場もあったが、朝成自身の人柄が野心とは無縁であった事もって、舎弟の地位に甘んじている。
朝成は幼少期、生母・さりなの方とともに、朝興たちに遠慮して、さりなの方の生まれ在所に住み、さりなの方が農民の出身であったため、農民の子として育てられた。
彼が十八のとき、一族の結束を固めるため川越城に迎え入れられ、初めて武士の姿となった。
このとき、既に農業に従事していた彼は、武士になる事を嫌がったが、本家からの圧力に汲々として、やむなく、さりなの方のためにも、上杉家に復帰したのである。
それ以来、当初、名目上の大将であった朝成は、その器量によって、家中での信望を増し、今では、朝興を越える権力を手にしている。
その朝成が、いつも考えることは、荒川の辺りに住んでいた幼少期の日々のことであり、さりなと井戸くりをした懐かしい日々のことであった。
朝成は、いつもあの日々に戻りたいと思っているが、自分が扇谷上杉の屋台骨を支えていることを考えると、そうもいかず、やむなく、今の立場にとどまらざるを得なかった。
情報によると、北条は嫡子・氏康が今回のいくさで初陣を果たすという。
家中を挙げて、この若武者の初陣を飾るべく、一丸となって、阿修羅のごとく戦うであろう。
朝成は、自分が矢面に立つ決心をした。
自ら、先鋒として、北条の陣へ切り込むことにした。
自ら犠牲になることで、北条のたけりくるうエネルギーをかく乱・分散し、朝興以下の本隊の突撃によって勝利を得ようとする苦肉の策であった。
そうした悲愴な決意をした朝成の許へ衝撃的な知らせが入った。
初陣の北条氏康の後見人として、藤田金石斎が付されたというのである。
氏康の後見人となった麻梨は、この若殿の初陣を勝利で飾らせるために、必勝の作戦を立て、あわせていくさの心得を説いた。
氏康は、あらかじめ、父・氏綱から麻梨の命に従うようにいわれていたので、麻梨のいうことに従っていた。
6月12日の早暁。
小沢原に布陣した上杉朝成の軍勢に対する形で、北条軍も布陣。
両軍の戦闘準備が整った。
麻梨は、氏康に自分の指示があるまで、決して動いてはならないといい含め、その氏康の側に清水小太郎ら腕利きの若者をつけ戦機がくるのを待った。
戦闘は、上杉の先鋒・左近太夫朝成の突撃によって開始。
朝成の先鋒は、きりをもみこむようにして、北条の陣へ殺到した。
北条の陣はたちまち崩れるかに見えたが、氏康の初陣を勝ちいくさで飾らせたい一心の北条軍は、よく支え、持ちこたえた。
朝成は後続の支援を仰ぎ、一挙に北条の第一陣を突破、第二陣へ迫った。
そのときである。
麻梨は、第二陣をして、速やかに朝成の先鋒を包囲し、自軍の円の中にとじこめてしまったのである。
朝成は円の中心で、円の弧から伸びる無数の放射線の攻撃にさらされ、その勢力を減じていった。
麻梨は、このとき、氏綱に出撃を許し、北条の全軍を突撃させた。
初陣にはやる氏康以下の北条軍は、たちまち上杉の第二陣以下を突き崩し、朝興の本陣を蹴散らした。
朝興は馬の鞍にくくりつけられるようにして去り、包囲網の中に孤立した朝成はさりなに助けられ、単騎、脱出。
その後を、犬若丸と氏康が追撃し、多摩川で凄絶なデッドヒートが展開された。
犬若丸がさりなと戦い、氏康が朝成を追った。
扇谷上杉の事実上の総帥・左近太夫朝成を討ち取れば、上杉の命運は尽きる。
それあH、北条の関東制覇を意味する。
いわば、この一戦で、対上杉戦争に終止符が打てるのであるから、初陣に熱くなる氏康が講を焦ったとしても無理はなかった。
氏康が執拗に追いかけてくるので、朝成も応戦せざるをえず、刀の打ち合いが始まった。
巧みな剣術で、氏康の剣を交わしていた朝成も、最後には、氏康の若さの持つ気迫に押され、ついに、馬から叩き落とされてしまった。
このとき、さりなは犬若丸と格闘中であったが、朝成が落馬したのを見ると、薙刀で犬若丸を叩き落とし、朝成の許へ駆けつけ、更に、さりなは薙刀で氏康を馬上に叩き伏せ、朝成を楽々と背負って多摩川を越えた。
その光景を見て、氏康は唇をかんだ。
戦闘終結後、麻梨は氏康を叱った。
いくさの終末、本隊を離れ、なぜ、朝成を追ったのか。
あのとき、氏康は、はるかに本陣を離れ、犬若丸と二人で朝成を追いかけていた。
麻梨はいう。
「こたびの総大将は、氏康殿そなたです。総大将たるあなたが、隊列を離れてなんといたします。もし、総大将たるそなたに変事あらば、配下の将兵は動くことさえままならず、やがては命を守ることすらおぼつかないでしょう。あなたの命は、あなたのものだけでなく、みんなのものです。そのことをよくわきまえられるように」
麻梨の諌めに、氏康は、ただ、氏康は、ただ、頭をたれて聞いていた。
麻梨の言葉には威厳があったのである。
次いで、麻梨は、犬若丸を叱った。
「あなたは、氏康殿をいさめる身でありながら、よい年をして、ともに左近太夫を追いかけ回して、恥ずかしいとは思わぬのですか。あなたのしたことは侍大将にふさわしくないことです。反省しなさい」
犬若丸も、麻梨のいうことを神妙に聞くだけであった。
麻梨のいうことには、いちいちもっともの理があった。
要点をおさえていて、聞く人に反論の余地を与えない。
麻梨が、北条の家中に重要な立場を占めることができた理由のひとつには、このような核心を押さえたしゃべりかたができるというものがった。
氏康は、藤田金石斎を生涯の兵法の師として仰ぎ、その意見を重要視した。
麻梨が、北条五代の歴史に伝説的な輝きを残すに至ったのは、ここに理由がある。
氏康が初陣を果たしたことにより、戦国関東の争乱は、歴史的段階に入ることになる。
我々は、扇谷上杉と北条の最終決戦を見ることになるだろう。
穏やかなる日々の終わりに
この時期、ひとりの梟雄が犬若丸について論評を下している。
越後の守護代・長尾為景である。
北条の家中では、この頃、扇谷上杉を援助する山内上杉を背後から牽制するために、越後との同盟を模索する動きがあった。
越後の実力者は長尾為景である。
氏綱は、この人物を説得するために犬若丸を春日山へ派遣した
このときの交渉は、結果的に不調に終わった。
長尾為景が巧妙にも同盟するともしないとも言質を与えなかったのである。
同盟は成立しなかったが、為景は、犬若丸という青年武将の出来のよさをに感心したらしい。
「北越軍談」に次のような為景の言葉が遺されている。
「あの小冠者の目を見よ!あの目は鷲の目ぞ!関八州を切り従える鷲の目ぞ」
為景は、この若者に春日山への長期滞在を許した。
ある日、犬若丸は、為景の勧めもあって、林泉寺に参禅した。
参禅後、境内を見学していると十二歳ぐらいの少女が弟とおぼしき五歳ぐらいの男の子が手をつないで歩いているのを見た。
住職の天室光育に訪ねると、
「長尾弾正殿(為景)のお子たちでござる」
四男が出家するため、その下見に姉と訪れているという。
犬若丸は、気にもとめなかったが、このとき見た少年こそ、後年、関東に遠征して、犬若丸の息子・菊寿丸を苦しめることになる上杉謙信その人である。
後年、幻庵と上杉謙信が交戦したとき、平井城を確保できないと判断した幻庵が潔く撤収。
その殿を菊寿間丸こと千早綱正が担当したが、追撃してくる謙信軍を逆に包囲殲滅しつつ撤退した。
その見事さに舌を巻いた上杉謙信が春日山へ凱旋後、このことを姉の仙桃院へ話すと、
「千早とやらは、あの林泉寺で会った、あの若武者ではないか」
といわれたが、謙信は覚えていなかった。
天文五年の雪に越後が閉ざされる前に、犬若丸は小田原へ戻った。
現地では、引付評定衆としての役目が待っている。
読者諸兄は、鎌倉・室町幕府に問注所という機構があったのをご存知であろう。
これと同じ名前と内容の役所が北条にもある。
この問注所に提訴された訴訟についての判決原案が小田原城へ提出されてくる。
これを審議して最終判決を下すのが引付評定衆である。
この引付評定衆のひとりに、先日、犬若丸が選ばれた。
引付評定衆は、番方や奉行衆から選ばれるが、この一員になったという事は、重臣の末席に連なったということになる。
もし、犬若丸が、もう少し存命していれば御由緒家に準じる家格として千早家を遺す事も可能だったはずである。
犬若丸は、その武功によって、武門への極みへ駆け上がろうとしていた。
久野の館へ戻ると菊寿丸を馬場へ連れ出した。
暇があれば、日に一度は、菊寿丸を馬に乗せ、犬若丸自ら手綱をとって馬場を回る。
麻梨が駆け寄ってきて、いった。
「菊寿丸、後でかいもちひをつくってあげましょうね」
犬若丸がいう。
「よかったな。母がかいもちひをつくってくれるとはな」
馬場を三度回って、親子三人、馬場のはずれの芝にすわった。
犬若丸は、膝の上に菊寿丸をのせた。
「次の一戦で、扇谷上杉の命運は尽きるであろう。さすれば、わしの役割も終わる。そうしたら」
伊豆に引きこもるという。
修善寺あたりの湯につかり、天城の山道を歩いて、ときには狩野川で釣りをしたいという。
「そのときは、ともにきてくれるな」
麻梨はうなずいた。
「北条が坂東を統一すれば、百姓・町人が潤う安らかな国が生まれるだろう。そうすれば、たとえ、一介の百姓となりても事安らかなる人生が送れるだろう。この菊寿丸は、千早の家がここまで大きくなった以上、家来たちの事もある故、武将にならねばならぬが、わしらは自由に生きられる。世を捨てる事も可能だて」
すべては、菊寿丸が元服後のことになるが、といいつつ、犬若丸の思いは、あの麻梨とともに芦ノ湖を眺めた、草原に恋を語らう少年・少女の日々に帰っているようだった。
犬若丸は、すっくと立ち上がり、菊寿丸の手をひいて、久野の館へ向かった。
穏やかな日常が、この三人を待っているだろう。
この間、北条の少壮官僚段がある答申案を氏綱に提出した。
先に氏綱が諮問した税制改革案に対する答えである。
この答申では、百貫について六貫の反銭をとるという六%の税率を定めたもので、これを採用するかわりに鶏や餅などの雑公事を廃止して農民の負担を軽減するというものだった。
さらに、各地の代官が不正をして、規定以外の税を取り立てた場合、それを小田原の当主に提訴できる手段も認めた。
この答申案は、その後定めた四%の縣銭と併用して氏康の時代に、北条の税制の基本として運用される事になる。
この税制案により、北条は低税を基本とした領民に優しい政治を指向する事になり、それは、氏康の時代に確立されることになる。
北条による関東新秩序の基本理念が誕生したのである。
そのために必要な最終決戦が始まろうとしている。
上杉朝興が死んだのである。
決戦!川越城
天文六年(1537)四月二十七日。
上杉朝興は臨終に望んで、朝成以下を枕辺に呼び、遺言を残した。
「我、氏綱と戦うこと、十四度におよべど、一度も勝つことなし。このこと、生涯の恥辱と思えば忘れ難し。わが死後は、葬式などいたさず、氏綱を倒して、わが墓前に供えるべし」
朝興の死後、家督は、その子朝定が相続。
左近太夫朝成を後見人として、扇谷上杉の事実上の総帥となった。
朝成は、朝興の弔い合戦にいきりたつ家中の動向を見て、戦機来ると思い、一大決戦を策した。
彼は、五千の兵を動員して、相模へ派遣。
北相模の村を焼き払い、各地の駐屯部隊を出撃させねばならず、兵力分散の具を犯す事になった。
同時に、上杉も虎の子の五千の大群を相模への撹乱戦術に投入しているため、川越城の防備が薄くなっている事が分かった。
このとき、麻梨は、川越城攻撃を主張。
早期出兵を促した。
麻梨は、これを自分に対する挑戦状であると心得ていた。
相模北部へ五千の大軍を投入したのは、手薄となった川越城へ誘い出す罠であると思ったのである。
事実、朝成は、麻梨の部隊を誘い出すために、五千の兵を派遣。
精鋭を用意して、麻梨の部隊を殲滅せんとの意図をもっていた。
朝成は、麻梨の部隊こそ、北条の精鋭であると心得、北条の事実上の作戦立案機関というべき麻梨を戦場に討ち果たす事こそ、北条に一大痛撃を与える好機であり、この一戦をもって、北条の戦力を武蔵中原より駆逐せんとの腹をもっていた。
これまで上杉との決戦を手控えていた氏綱は、北条の戦備も十分に整ったと思い、この一戦で雌雄を決すべく、麻梨に二千の精鋭を与えて出陣を命じた。
このとき、犬若丸は同行を許されなかった。
相模北部を蹂躙する上杉軍の掃討の指揮を命じられたからである。
ふたりが箱根の山中を出てから、十四年の歳月が流れていた。
犬若丸は、年相応に相貌を変えたが、麻梨は一向に変わらない。
箱根の湖の畔にいたあの少女時代のままである。
ふたりは、作戦について語り合った後、昔を懐かしがった。
ふたりで過ごした幼少の日々。
あの頃の思い出を共有できるのは、自分たちだけなのだ。
そのことを思うと、ふたりの心ははちきれんばかりであった。
ふたりで苦労して、築き上げてきた北条の礎も、この一戦で磐石のものとなる。
そう思うとふたりの感慨は深かった。
犬若丸は、川越での再会を約して、小田原を進発。
相模北部への掃討戦に取り掛かった。
別れ際にいった犬若丸の言葉を麻梨は、後世まで忘れなかった。
「麻梨、生きて、また、会おう。このいくさが終われば、わしと麻梨と菊寿丸の素晴らしい明日が待っているぞ」
大軍に進発を見送った麻梨の許へ、今度は氏康が訪れ、今回の川越遠征に連れて行ってほしいと懇願した。
「御曹司は、なぜ、いくさに行きたいのです?」
麻梨が聞くと、氏康は次のようにいった。
「北条の当主は常に陣頭に立って、自ら戦いまする。城の本丸にあって指揮致すなど許されませぬ」
(ああっ、これが北条の軍訓なのね)
麻梨は、感嘆の思いをもった。
北条は、家祖・早雲以来、常に党首が、ここぞは、と思えるいくさに参加した。
氏康もそうであり、その子・氏政も、その資質については後世の史家から疑問視されたが、合戦では有能な実戦指揮官として働いた。
北条は五代で滅びたが、あるいは、その家訓を継承したのは徳川家康であったのかもしれない。
彼は、徳川の歴代将軍に常に陣頭指揮する事を課した。
大坂の陣のとき、側近が後方―たとえば二条城にあって督戦するように進言したとき、
「わしが出向かずして、参陣の諸将に申し訳がたとうか」
と一蹴したという。
この言葉を、後年の徳川将軍の大半が守った。
十四代家茂が長州再征の本営たる大坂城で病没したのも、この家訓に忠実であろおうとした故であろう。
麻梨は、この言葉に感動したが、婉曲な物言いで断る事にした。
「こたびのいくさは、有無の一戦。両者死にもの狂いのいくさとなりまする。こたびのいくさでは、大将といえども、その命おとすやもしれませぬ。それゆえ、こたびのいくさには、あなたを連れてゆけないのです。あなたは、北条の総帥になられる方。お命を大切になさって下さい」
麻梨の優しい言葉に。氏康は翻意した。
このときの麻梨には、悲愴な覚悟があったようである。
彼女は、出陣の前夜、菊寿丸をだきしめた。
言葉はなく、ただ、だきしめた。
「あのときの母上は尋常ではありませんでした」
と菊寿丸は千早綱正となったとき述懐した。
麻梨は、侍女頭である美菜に、くれぐれも菊寿丸の事を頼んだ。
美菜は、箱根時代からの麻梨の友人であり、後年、京から戻った幻庵の正室となる人物である。
氏康は、この一戦に出陣する麻梨に対して、絶好の引き出物を送った。
それは、かねてより整備中であった相模から北武蔵へつうじる軍用道路であり、その道路を使って、麻梨の軍は川越へ急行することができたのである。
北条来るの報に、朝成は二千の精兵をよりすぐって、自ら出陣。
入間郡三木に布陣。
北条軍を待ち構える態勢をとった。
その陣は鶴翼。
正面一列に楯を並べ、陣立ての少ない兵ながらも五手として、北条軍を迎え撃つ事にした。
麻梨の軍勢が三木に着いたのは七月十四日の事であった。
麻梨は、上杉の陣立てを見るなり、容易に破れぬものであることを見抜き、この堅陣を破るためには、味方の増援が必要であると思い、相模で作戦中の犬若丸へ使者を走らせ、作戦を中止して、すぐ駆けつけるように連絡した。
相模北部から犬若丸の軍団が消えても、氏綱・氏康父子は小田原に籠城し、川越の戦闘が決着するのを待ち、川越城が落ちてから、味方の兵を返して貰って、相模一円を解放するという手筈を整えていた。
翌十五日を決戦の人定めて、麻梨は眠った。
明日には、全ての決着がつくのである。
翌十五日、早暁。
戦闘は、橋本・多目の軍勢の突撃から開始。
彼らは、上杉の前備えに突入し、激しい戦いを演じた。
朝成は、二陣・三陣を前備えに回し、北条軍の勢いを減殺した。
朝成は、少しでも長く持ちこたえる事にした。
少しでも長く持ちこたえれば、松山城の難波田弾正の軍勢が助けにくると判断したのである。
麻梨は、荒川・井浪の兵を投入したが、上杉の防備が固いので、思ったよりも手こずり、戦局に進展がないのに鑑み、ある決意をした。
それは、北条の全軍を投入し、上杉の前備えに当たらせる一方、自ら別働隊を率いて、上杉の右翼を突いて、これを突破、上杉の背後に回って、朝成の本陣を衝かしむという方法をとったのである。
麻梨は、前備え指揮権を曽我丹後守に委譲し、自ら五百の兵を率いて、上杉の右翼へ回った。
この日の麻梨の装束は、橙色の狩衣に紫の袴といういで立ちで、自らが削った樫の指揮棒をもって馬に乗り、戦場を疾駆した。
上杉の右翼には、竹本源三の部隊が配されていた。
麻梨は、その竹本の軍勢に猛攻をかけ、近くを流れていた入間川の支流にたたき落とした。
麻梨の軍勢が去った後、竹本の将兵の多くが川へ流され、溺死したという。
麻梨の軍勢に右翼を突破された事を知った朝成は、篠窪出羽入道の部隊を補強に回す一方、後ろ備えの強化を進めた。
曽我丹後守は、全軍を投入して、前備えの切り崩しを図ったが、上杉は新手を増強して容易に崩させない。
丹後守は、松田・志水の部隊を右翼へ回した。
態勢の整わぬ篠窪の部隊が襲われると思った上杉方は、我先にと篠窪の応援に回った。
そこに前備えの隙が現れた。
丹後守は、朝倉・。石巻の兵を投入、前備えの間へ割り込ませた。
前備えは大きく割れ、全面に朝成の本陣が遠く見えた。
(勝った)
そう思った瞬間、幾筋もの矢が丹後守の体を貫き、その命を奪った。
麻梨の軍勢は、朝成の背後へ回り、後ろ備えへ迫った。
後ろ備えは、重田木之助が守り、一歩も通さぬ構えを見せた。
麻梨は、後ろ備えへ突入。
激しい戦闘を演じた。
激闘一刻、重田の後ろ備えは完全に崩れ去り、麻梨の兵もその五分の四を失っていたが、目前に朝成の本陣をとらえた。
麻梨が、指示を出す以前に、平岩隼人正が突撃、朝成狙った。
平岩が天幕を突破して、本陣へ入ると、朝成とさりなの姿が見えた。
太刀持ちが平岩に打ってかかったが、あっという間に切り伏せられ、床机に腰掛けた朝成に迫った。
馬上のさりなが、平岩の前に立ちはだかり、太刀打ちを始めた。
ひと太刀、ふた太刀打ち合う間、激しい音が鳴り響き、さりなが優勢であるかのように思われたそのときである。
平岩が太刀を捨て、鎧とおしを抜いて、さりなの喉を突いた。
「母上!」
朝成が叫んだときには、さりなは落馬していた。
平岩は、軍配でかろうじて押さえ、平岩の太刀攻勢を受け流していたが、それにも限界があり、ついに、平岩の鋭い太刀をその右肩に受けてしまった。
さすがの朝成も危うしと思われたそのとき、地に伏していたさりなが、最後の力を振り絞って立ち上がり、太刀で平岩の乗馬を突いた。
平岩の乗馬は、あわてて、本陣の外へと飛び出し、朝成は再々の危機を脱した。
朝成は、右肩の傷をかばいつつ、さりなの許へとおもむいた。
さりなは虫の息でいった。
「もう一度、新河岸川の畔で、一緒に土を耕したかった。お松様に武士をやめてもらって」
朝成の幼名は、松千代である。
さりなは、それをもじって「お松様」と朝成の事を呼んでいた。
朝成は、それが、まるで女の子のようなで気恥ずかしかった。
が、さりなにとって、それが精一杯の愛情表現だったのであろう。
堂上家の姫君にもまけぬ美貌を持ちながら、その一方で古今無双の怪力を有するさりなは、そのい生涯の最後に、遠き日々の事を思い出しているようだった。
新河岸川の畔で、母と水入らずで過ごしたあの日々、朝成が武士にならなければ、今頃は。妻を迎え、孫をさりなに抱かせているはずであった。
「お松様、武士をおやめ。そして、百姓に戻って、女房を迎えて、そして、わたしの分まで」
そこまでいったとき、さりなは息絶えた。
朝成は、自分と同じ原体験をもち、そこへの回帰を願った母の死で、全ての戦意を失った。
朝成はさりなの遺骸の前にたんざし、一夜、亡き明かした。
平岩が本陣の外へ出たとき、眼前には、前備えを突破した北条の軍勢が展開していた。
上杉軍は、朝成の本陣を残して、消滅していたのである。
北条も全兵力の半分を失い、残った将兵も疲れきっていたため、麻梨はその日の戦闘を終了し、後続の来援を待った。
翌十六日早朝、途中で伝令から詳しい報告を聞いた犬若丸が殆ど単騎で到着し、麻梨に面会を乞うた。
ちょうど、このとき、麻梨は、朝成の本陣へたいして、最後の総攻撃を命令するところだった。
本陣の朝成は、天幕の外の動きがあわただしくなったので、最期のときがきたと観念し、さりなの遺骸に合掌した後、短刀を抜き、自決の用意をした。
麻梨が、樫の指揮棒を大きく振りかざしたときである。
犬若丸が、にわかに陣中に入ってきた。
「あっ、犬若丸。これから、左近太夫に本陣を攻めるの。一緒に見ていて」
麻梨が、うれしい悲鳴を上げていうと、
「いいんだ、麻梨。それ以上攻撃しなくていいんだ」
と犬若丸は制していった。
「どうしてなの?わたしたち、もうすぐ勝てるのよ。勝利は、すぐそこまできているのよ」
麻梨がいうと、犬若丸が説明した。
「途中で、戦況報告を聞いて、これだけの勝ちをしめれば、これ以上、無益な戦闘をする必要はないという判断に至った。氏綱様も、川越城外の戦闘で上杉軍を壊滅させたときには、無理な城攻めはせず、無血開城させるのが上策といっておられた。
ここは、こらえて、左近太夫の一命を助け、その命とひきかえに、川越城を手にいれるのだ」
麻梨は、犬若丸に反論したが、氏綱の再興方針である以上、従わざるをえなかった。
犬若丸は、朝成を捕虜にする事を指示した。
犬若丸は、その任に自らが当たるといったが、麻梨は決然といった。
「わたしがいきます」
朝成は、その命を絶つべく、短刀の切っ先を自分の喉元に向けていた。
全てを観念し、短刀を喉へ突き刺そうとしたとき、背後から人影が現れた。
左近太夫殿、ご生害なさる必要はありません。いくさは終わったのです」
「そなたは」
朝成の背後にたっていたのは、麻梨であった。
「藤田金石斎です」
麻梨が名乗ると、朝成はあっけにとられた。
姫姿をした目の前の人物と昨日までの果敢な戦闘指揮をした武将との格差が、あまりにも大きすぎたのである。
「あなたは、よく戦いました。もはや、命を粗末にする事はないのです。わたしとともに参りましょう」
麻梨の美貌はさりなに似ていた。
亡き母に、生きて土を耕せといわれているような気がして、朝成は急速に自害する気力を失った。
(自分は生きて土を耕すのだ。新河岸川の暮らしを取り戻すのだ)
そう思うと、急激に生きる気持ちが沸いてきた。
朝成は、ゆっくりと立ち上がった。
死ぬための短刀を捨てて、生きるための鍬を拾うために。
その日のうちに、川越城側と開城に関する交渉が行われる事になり、犬若丸がその交渉の任に当たる事になった。
犬若丸を麻梨は優しい言葉で送り出す事ができなかった。
パーフェクト・ゲームを寸前でご破算にされた恨みが残っていたのである。
犬若丸が川越城へ向かうとき、つい皮肉が麻梨の口をついて出てしまった。
「犬若丸は、さぞうれしいでしょうね。最後の土壇場で手柄を独り占めにできて」
麻梨の言葉に、
「何をいうんだ。わしの鉱石はみな麻梨のものだ。わしの働きなど、とるに足りないものだ」
と気にもとめぬ様子でこたえてくれた。
「坂東一の城を土産に戻ってくるぞ」
それは、箱根で過ごしたあの懐かしい日々以来の犬若丸ふぁ示した愛情表現だった。
このとき多少の嫌々をした事が麻梨の生涯に悔いとして残った。
川越城の交渉の席では、意外なことに朝成の身柄についての話は何もなく、幼君・朝定を無事、川越城の外へ落去させる事が条件として話し合われた。
その結果、川越城を無事明け渡す事を条件に、朝定の退去を認めたために交渉は成立。
川越城側の配慮で昼食が出されることになり、犬若丸たちは本丸の主殿に待たされた。
犬若丸は、帰ったら麻梨と何を話そうかと思ったが、不機嫌な麻梨の事を思うといい話題がうかばなかった。
そんなことを犬若丸が考えていたとき、突如として、川越城の者たちが切り込んできた。
犬若丸は、このとき、杉箱の弁当に箸をつけたところだったが、とっさに打刀をとって、柄ごと敵の太刀を受け止めた。
そして、打刀の先で、相手の喉を突き横転させた。
このとき、不覚だったのは、和平交渉の使者であったため、全員が素襖姿だったことである。
敵は、ことごとく武装し、しかも長柄の武器を携行している。
犬若丸は、打刀で立ち向かったが、太ももをぐさりと刺されて、がっくりとひざまずいた。
そこへ一撃をくらったが、かろうじて打刀で止めた。
が、敵に加勢する者あって、しだいに押され、ついには、頭を切られた。
犬若丸は、板床に仰向けに倒れた。
「千早宮内小輔討ちとったり」
の大音響が、その耳に聞こえた。
その直後、どかどかと主殿の間を出て行く足取りが聞こえた。
「みんな・・・・・・やられたのか」
返事がない。
北条の全権団は、すべて切られてしまったらしい。
意識がもうろうとする中で、麻梨を思った。
いつまでたっても、犬若丸たち一行が出て来ないので、業を煮やした北条軍は川越城内へ突入。
既に、朝定以下が落去した後の川越城内で犬若丸以下の遭難者を見つけた。
麻梨は、声を挙げて、犬若丸たちの許へ向かった。
麻梨が犬若丸の頭をその膝にのせると、まだ、息があった。
「麻梨、生きているうちには合えぬと思ったよ」
犬若丸の命の灯が消えるのは時間の問題だと思われた。
「バカねえ、わたしたちが会えないわけないでしょう、これからだって、ずっと」
「麻梨。わしはそなたと出会えて幸せだった。そなたを追いかけて、ここまできて、そして、男として、おもしろい絵が描けた。もはや、何も悔いる事はない」
「ごめんなさい。わたしについてきたばかりに、こんなめにあわせて」
「いいんだ。そなたは、わしが幼少の頃よりいだきつづけた美しいその姿をいつまでも、大切に保ち続けた。それだけで、わしは満足だった」
「あのころのわたしの姿に、あなたの人生を縛り付けてごめんなさい。もし、わたしと出会わなければ、今頃は、もっと違う人生を送れたでしょうに」
「わしは北条長綱様というお方に仕えて、余人には出来ぬ働きをさせて頂いた。それだけでよき人生であったように思う」
麻梨は泣いた。
自分は、この人のために何ができたであろうか。
そのことを思うと麻梨の心はしめつけられた。
犬若丸が最後の力を引き絞っていった。
「さらばだ。藤田金石斎殿。わしが尊敬した不世出の軍師よ。この坂東の大地を地の続く限りとれ」
それが、犬若丸の最後の言葉だった。
犬若丸は、満足そうな笑顔を浮かべて、麻梨の腕の中で、その生涯を終えた。
麻梨は犬若丸に別れの口づけをした。
生前、何度もしなかった口づけであった。
犬若丸を主殿に安置すると、麻梨の中で何かが終わったような気がした。
犬若丸は、自分が、自分が歴史に何事をしたのか知らないまま、この世を去った。
犬若丸が、関東平野を驀進し去った後に、民衆が憩える新秩序が、累々たる屍とともに遺されていた。
犬若丸は、その手で、戦国関東の闇を払いのけ、民衆を平和の光渦巻く「近世」へと誘った。
青年は、歴史を創り、歴史に大きな希みを託して天へ飛翔した。
犬若丸が死んだ事により、このさほど長くない物語も終局を迎えるであろう。
が、幻庵をはじめとする麻梨や菊寿丸などの人々は、まだ生きている。
その人々のその後について、少し触れねば、読者諸兄も不満であろうし、筆者も、やや物足りない。
筆者の中に残る余韻を散じるためにも、エピリーグという形で、この後のことについて、多少、記述したい。
そのためには、今少し、本稿を続けるべきであろう。
麻梨は、川越城外に葬られた犬若丸の墓にお参りして、その菩提を弔った。
麻梨の脳裡に、犬若丸との懐かしい日々がよみがえってきた。
自分は、あの懐かしい日々の大切さに気づかず、犬若丸との日々を無為に過ごしてきた。
自分は、犬若丸の思いにどれほどこたえられたのか。
ふと、気づくと、背後に人が立っていた。
虚無僧姿の朝成が、麻梨を見ていた。
「左近太夫殿」
変わり果てた朝成の姿に、麻梨は驚いた。
「金石斎殿。それがし、以後、武士を捨て、百姓に戻る所存。いくさはあきもうした」
「百姓に戻るって」
「それがしの母は百姓でござる。それゆえ、それがでぃは百姓に戻るのでござる」
朝成の方から骨箱が下げられていた。
「それは」
「母のでござる。どこかの土地に落ち着きましたら、そこに葬ろうかと思いまして」
そうですか。それで、いずこへ」
「分かりませぬ。ただ、北条も上杉もない遠いところへ参ろうかと考えております」
「北条も上杉もないところへ」
それは、麻梨にとって魅力的な響きだった。
「左近太夫殿。どうか、小机の城へもお寄り下さい。いつめでも歓迎いたしますから」
「かたじけのうござる。そのときは、ひとりの百姓としてお会いしとうござる。よろしいかな」
「よろしいですとも。楽しみにしていますわ」
麻梨の目が明るく輝いた。
ふたりの間を秋風が吹き、その背後を北条の大軍が通過してゆく。
松山城へ逃げた上杉朝定を追う氏綱の本隊である。
「それでは、それがしはこれで」
朝成は別れの挨拶をした。
「左近太夫殿もお元気で」
朝成の後ろ姿に悲壮感はなかった。
ただ、開放感のみが感じられた。
その後ろ姿を見ていて、麻梨の心の中で、ある決意が生まれていた。
旧暦の八月、麻梨は菊寿丸をつれて、小机城の側を流れる鶴見川の畔にきていた。
あたり一面、秋の黄色い花が咲き誇り、その風景が小机城のある丘まで広がっていた。
麻梨は、菊寿丸に語りかけた。
「母上はね、その昔、父上にお花を貰った事があるの。あそこに広がる黄色い花をね」
そう、あれは、ふたりが十五歳のときだった。
犬若丸が、突然、黄色い花を山ほどもってきて、麻梨に手渡した。
今思えば、あれが犬若丸の告白だったのかもしれない。
菊寿丸がきょとんとした顔をしていた。
「わからないみたいね。男の子と女の子には行事が必要なの。ふたりにとって思い出になるような。あなたも、きっとわかるようになるわ」
菊寿丸が千早綱正になったとき、その妻となったお夏に黄色い花を渡した。
お夏は、丹沢山中の娘だったが、近親憎悪から家族と不和となり、出奔して、慈悲深いとされた麻梨を訪ねた。
麻梨は、当初、この娘を家へ帰すことにしたが、綱正が、今帰っても、家族とうまくいくわけがないという言葉に促されて家に置き、そのまま綱正と恋愛関係が生じて、その正室に納まった。
このお夏は、綱正とともに河内に帰農する事になる。
「さあ、お城へ行きましょう。あなたを立派な武将に育てないとね。母上は、一応、軍師様ですから」
そういって、麻梨は、菊寿丸の小さな手をひいて、小机の城へと続く細くて長い坂道を歩いた。
これからの未亡人としての人生を噛み締めるように。
その魂は、1560年(永禄三年)桶狭間合戦の年まで生きる。
犬若丸が去り、麻梨が歴史の表舞台から遠ざかりつつあるとき、幻庵は東海道を東へ下りつつある。
京で、犬若丸の訃報にふれた幻庵は、急ぎ小田原へ向かった。
今回の東下りが、京都の永遠の別れになろう。
小田原へ戻れば、犬若丸亡き後の北条の差配に関わらなければならない事になろう。
モラトリアム期間は終わり、夢想の歳月は、実世界への旅立ちへと変わる。
麻梨には、何といえばよいのであろうか。
元はといえば、本来、自分が果たすべき役割を犬若丸におしつけ、自分は風流三昧の日々を過ごしていた。
その罪は重いといわねばならない。
あのとき、犬若丸と麻梨を箱根へ戻しておけば、このような事にはならなかったと幻庵は思った。
途中、尾張にさしかかった。
あたり一面の草原の中を歩いていると、少し盛り上がっ高台から石つぶてが飛んでくる。
ぴしっぴしっと容赦なく、石が飛んできて、幻庵の体をたたく。
何事かと思って見ると、二歳くらいの男の子が石を投げてくる。
あわてて、初老の武士が、石をとりあげて、幻庵の許へやってきた。
「いやはや申し訳ござらん。当方の若があのような事をして」
「若、といわれると」
「あの若は、織田信秀様のお子で吉法師様と申されての。いや、利かん気で参り申した」
そういって、初老の武士は平謝りに謝って、吉法師の下へとかけていった。
初老の武士は平手政秀といった。
幻庵は、さして、この吉法師の名を気にとめなかった。
それから、暫く歩くと日が暮れた。
近くの農家の戸をたたき、一夜の宿を乞うた。
この農家では、夫人が出産するという事で大騒ぎだった。
この家は、このあたりから村長をつとめているそうで、当主は、当世はやりの武家道楽とやらで、織田信秀の許へ足軽奉公に出ているという。
村中総出で湯を沸かすやら、さらしを整えるやらで大騒ぎだった。
悪いときにきた、と思いつつ、邪魔しないように幻庵は、奥の一室に入って、早々と寝た。
が、夜明け近くになって、だんだんち屋内があわただしくなり寝ていられなくなった。
七歳ぐらいの女の子が入ってきて、なにやら、落ち着かぬ様子だった。
とも、といった。
「おじさん、どう思う。もうすぎうまれそうだって」
自分の弟か妹がうまれそうなので、そわそわしているのであろう。
そんなともを笑って見ながら、幻庵も、なかという、この家の夫人が出産するのを待った。
日が昇る頃、男の子が生まれた。
産声を聞きつつ、幻庵は、すがすがしい気持ちで屋外へ出た。
眼前に、今のぼらんとする旭日が見えた。
ともがやってきた。
「ねえ、おじさん。わたし、ややにつける名前考えたの」
「どんな名前かな」
「お天道様が出てきたときにうまれたから、日吉丸。いい名前でしょう」
ともが楽しげにいうと、
「うん、それはいい」
と、そのセンスに感心してつつ頷いた。
幻庵は、よもや、このとき生まれた子が、後年、小田原城を攻めて、犬若丸が心血をそそいでつくった北条を滅ぼしてしまうことになろうとは思いもよらなかった。
朝のすんだ空気が心地よかった。
天空には、新時代の到来を告げる太陽が燦燦と輝いていた。
エピローグ
天文十五年(1546)、3月。
北条氏康は、最大の危機を迎えていた。
犬猿の仲だった扇谷・山内両上杉と古河公方がにわかに同盟し、北条綱成が守る川越城を八万の大軍で包囲したのである。
このとき、氏康は、駿河の今川義元と対陣中で、救援に駆けつけることができなかった。
やむなく、幻庵に一千人預けて急行させたが、川越城を重包囲しる同盟軍に成す術はなかった。
幻庵としては、今川と講和して、氏康の本隊七千と合流して、何らかの戦闘をしたかったが、同盟軍と気脈を通じている今川は、北条の足元を見て、容易に退こうとはしない。
しかも、武田晴信の率いる五千の軍勢が南下し、今川軍と合流するという。
今川の一万七千の大軍と合わせて二万二千の軍となれば、北条に勝ち目はない。
幻庵は、氏康に講和を進言した。
幻庵には、手があった。
武田の家中に駒井高白斎という人物がいる。
学識豊かな人で、かねてより幻庵と文通があった。
幻庵は、高白斎に手紙を書き、晴信へのとりなしを頼んだ。
父・信虎を追放して間もない晴信は、戦国政界に自分の存在を誇示する千載一遇の好機であると思い、講和の仲立ちをする事にした。
その条件として、富士川以東の領地を全て今川に返還する事が要求された。
祖父・早雲が、今川の内紛を調停して得た領地を失うのは辛かったが、涙を飲んで受諾した。
氏康は、直ちに全軍を川越へ回し、同盟軍と対峙したが、十倍の大軍を前に手の施しようがなかった。
幻庵の部隊に、菊寿丸がいる。
すでに元服を済ませ、千早綱正となっているが、本稿では、犬若丸の余韻を残すために幼名で呼びたい。
この菊寿丸を慰問するため、麻梨が川越の陣所を訪れた。
この時期の麻梨は、すでに、かつての参謀としての冴えをなくしていた。
参謀としての活躍は、氏康・幻庵・今は亡き氏綱と連携して行った国府台の合戦で記録的大勝利を得たのが、最後の功績となった。
以後、表舞台から遠ざかり、菊寿丸の育成に専念した。
その麻梨の許へ、今は農民となっった上杉朝成がたずねてきた。
妻と息子をつれてきていた。
同盟軍の陣中へときどき野菜など売りにいくという。
あれから、完全に武士と決別した朝成は、新河岸川の畔で農民となり、妻を迎えて、一般人の生活をしている。
いろいろ懐かしい話がでたが、その最中、麻梨は、朝成の妻の顔を見た。
さりなに似ているのではないかと思ったのである。
が、妻は、土臭い風体で、とても、あの公家の姫君もかくや、といわれたさりなには及びもつかない。
少し失望した瞬間、けたたましい妻の笑い声が辺りに響いた。
その笑い方が噂に聞くさりなのそれに似ていた。
(ああっ、男の人って、やっぱり)
麻梨は、ほほえましく思った。
やがて、ひととおり話終えると、朝成は座を立って帰ろうとした。
その去り際、ひとこと言い残した。
「砂窪の辺りが手薄なようでござる」
同盟軍の情報が少ない北条にとって、これおどありがたい情報はなかった。
「左近太夫殿、かたじけのうござる」
麻梨は、思わず礼をいった。
陣の外まで、菊寿丸が送った。
送られながら、この父のかつての宿敵は、犬若丸について、あれこれ語ってくれた。
「若君の父上とは幾度か戦い、その度に負け申した。わしは、いつの日か必ず勝ちたいと念じましたが、ついに果たせませなんだ。今でも、瞼とじれば、父上の勇姿が目に浮かびまする。まこと坂東一のつわものでござった」
朝成は、妻と息子を連れて、幸せそうに陣外へ去った。
菊寿丸は、この犬若丸について、よく語ってくれた、かつての名将を忘れなかった。
上杉朝成の家は、江戸期に入ってから庄屋になったらしいが、その詳細は分からない。
もしかすると、埼玉県狭山市に現存する鈴木家がそうなのかもしれないが定かではない。
北条の本陣では、氏康が、幻庵に策を問うていた。
「叔父上」と問いかける氏康に対して、幻庵は毅然としてこたえた。
「おそれながら、殿、お死にあそばせ。殿が死ぬと決めれば、配下のものたちの覚悟もおのずから定まりする。さすれば、後は一丸となって、攻撃するのみ。それ以外、策はありませぬ」
幻庵は秘策を明かした。
幻庵は、麻梨から、同盟軍の手薄な部分を聞かされており、そこに賭けようとしたのである。
氏康は、それを採用し、軍議にかけた。
が、圧倒的な大軍に対して危険が大きいという理由で、重臣のことごとくが反対した。
皆、川越城を同盟軍に明け渡して撤退せよという。
氏康は、それを一括した。
「あれを見よ」
氏康は、川越城を指差した。
「まだ、綱成以下、五千の兵は戦っているではないか。その方たちは、それを見捨てて逃げるというのか。わしは引かぬぞ。ここで退けば、北条の全ては失われるのだ。坂東の夢多き国は費え去るのだぞ」
氏康の毅然たる態度に一同は承服せざるを得なかった。
氏康は巧妙であった。
彼は、古河公方に使いを送り降伏を申し出た。
北条綱成以下の城兵の命を助ける事を条件に川越城を進呈するといったのである。
古河公方は、それを真に受けた。
同盟軍の士気は見る見る落ち、その防備は緩んだ。
氏康は、撤退を信じ込ませるために、実際に傷病兵と荷駄隊を赤塚城へ戻した。
その撤収部隊の中に麻梨がいた。
「菊寿丸のことは心配するな。わしが必ず生きて、そなたのもとへ帰す」
幻庵は、そのようにいってくれたが、麻梨は、今度の戦闘が万にひとつも勝ち目がない絶望的なものであることをしっていた。
今回のいくさが初陣となる菊寿丸にとって、あるいは、これが母との最後の別れになるかもしれない。
陣の外に立つ菊寿丸を麻梨は、何度も何度も振り返って見つめた。
(仕方ないわね。男の子を生んでしまったんだもの。諦めなくてはいけないんだけど。やっぱり・・・・・)
麻梨の目から涙が溢れた。
運命の四月二十日がきた。
この日、未明。
にわかに氏康は、陣触れをして全軍を武装させた。
夜襲にあたって、氏康は、全軍を四隊に分け、三隊をもって攻撃部隊として、残り一隊を予備隊とした。
その予備隊を幻庵が率いる事になった。
出撃直前、氏康は、この叔父をその陣中に訪ねた。
「叔父上、このいくさ勝ちましたならば、われら、どのように致しまする」
幻庵は莞爾としていった。
「大途におなりあそばせ」
大途とは、大樹(公方)になる途上の君主をいう。
古河公方を圧倒して、関東の新しい公方になれという。
「もはや、彼のものたちの時代は終わりました。これよりは、坂東の民に至福をもたらす殿こそ将軍におなりあそばせ」
幻庵の言葉に、氏康は意気軒高と出陣に臨んだ。
氏康は、全軍の将兵に次の事を命じた。
「大将から足軽に至るまで甲冑の草摺りを縛れ。馬には枚を噛ませ、決していななかせるな」
氏康は、砂窪の上杉朝定の本陣を目指した。
目前の上杉の陣は寝静まっていた。
氏康はきらりと打刀を抜いた。
「よいか、敵は皆で踏みにじれ。首をとろうと思うな。目印の白布をつけていない者は敵ぞ。見つければ切れ。坂東のよりよき暮らしを守り、これを永大に伝える葉、この一戦ぞ。皆の者、奮えや!」
北条軍は一斉に声も挙げずに突撃した。
見事な無声攻撃であった。
上杉の将兵は甲冑もつけず寝ている者が多く、北条軍に刺されるまで気づかぬ者が多かった。
味方の悲鳴で起き上がる者多く、それらもことごとくが切られた。
陣の比較的奥の兵たちは、かろうじて刀をもつことができたが、すでに、かなりのところまで北条軍に侵入されていた。
氏康は、第二軍に攻撃を命じた。
第二軍は、上杉の陣中深く進み、戦果を拡大した。
そうこうしているうちに、異変に気づいた山内上杉の軍勢がかけつけてきた。
これには、第三軍を回して駆逐した。
味方の軍の攻勢に、初陣の菊寿丸の気持ちははやった。
「長綱様、われらも早く切り込みましょう」
菊寿丸のせかしに、
「待て。殿の命があるまで動いてはならん」
と制した。
やがて、使い番がきて予備隊に出撃命令が下った。
菊寿丸が白鉢巻をして、打刀を構えた。
「いいか、菊寿丸。わしのそばを離れるな。そなたは麻梨の許へ帰るのだ。わしは、そなたを犬若丸のように失いたくない」
幻庵は、菊寿丸をつれて突撃した。
が、すでに混戦であった。
芋の子を洗うような戦闘の中で、ついにはぐれてしまった。
気がつくと、胴丸のあちこちに刀傷を受けた自分が上杉の本陣にきていた。
そこは御座所だった。
天幕の中にひとりの青年がうずくまっていた。
上杉朝定であった。
すでに幾太刀か受け、首筋からいびただしい血を流していた。
菊寿丸を見て、朝定がいった。
「そなたは・・・・」
「千早綱正」
「千早・・・・あの綱成の子か」
菊寿丸がうなずいた。
「わしが憎いであろう。わしの家来が、そなたの父を討ち取ったのだからな。が、そなたの父もまた、わが父の仇であった。そのことを思えば因果応報であろうて」
彼は、菊寿丸の方に向き直した。
「わしを討つがよい。そして、綱成の墓前に供えるがよい」
朝定は瞑目した。
その潔い態度に、菊寿丸は感銘をうけた。
菊寿丸は、打刀を抜いて、朝定の背後に立った。
「介錯!」
菊寿丸は、短くいった。
「そうか、介錯してくれるのか。千早の家系とはまさしく義の者が多いのう。先代もそうであったわ。綱成なる者、まことによく戦ったわ。そなたのような息子を残すとは、まことに果報な。わしの首を打って、手柄にせよ」
そういってから、朝定は短く息を吸っていった。
「今度生まれ変わったら友垣になろう」
菊寿丸は打刀を大きく振るった。
陣の外へ出ると戦いは終わっていた。
朝の燦燦たる陽の光を浴びていると、幻庵が近寄ってきた。
「勝ったぞ。扇谷上杉は滅び、山内上杉の憲政も上州飛来へ逃げ戻った。これから、川越城の北条綱成殿が古河公方を攻撃される。それで、全て終わりだ」
幻庵の勝利説明に菊寿丸は茫然として、ただ聞くだけだった。
「少し疲れました。休ませて下さい」
そういって、彼は。麻梨ゆずりの美貌の顔面に返り血をつけながら、自軍の本陣へと向かった。
二、三歩進んで、彼は、白鉢巻をといて立ち止まり、振り向いた。
「長綱様」
「うん」
「これで、父上が望んだ世の中がきたのですね。父上が希求してやまなかった万人安らかなる世の中が」
幻庵は、その言葉で、今回のいくさで菊寿丸が何を悟ったのか知った。
「ああっ、そうだよ。犬若丸が夢見た国が生まれたのだ」
「そう、それはよかった」
菊寿丸は、抜けるような白い肌の顔を空に向けて、そう静かにいった。
雲の上で、父の犬若丸が笑っているような気がした。
「歩いていきます。父上と長綱様が約束した理想郷へ・・・・・母上が願った穏やかなる日々へ・・・・」
そういって、菊寿丸は、また歩き出した。
神話の時代に決別して、歴史の時代へおもむくために。
本武蔵兵乱記 完