第二十話
それから数時間後西村桜子は誰かに肩を揺さぶられ瞳を開けた。その瞳には血相を変えた同居人の大野達郎の姿があった。
「大丈夫ですか」
大野が心配そうに声を掛けると西村桜子は額に右手を置く。
「はい」
彼女が元気よく答えると大野は安心したような顔つきになる。
「それで何があったのですか。家に帰ったらリビングで君が倒れていたから心配しましたよ」
西村桜子は大野に心配をかけたことを反省する。それと共に彼女はこうなった経緯を思い出し一言だけ呟く。
「ラグエル」
同居人の質問の答えとは思えない言葉を聞き大野は首を傾げる。
「それはどういうことですか」
大野が聞き返すと彼女はこれまでの経緯を説明する。
「東京クラウドホテルの屋上から田中さんという人が転落死したというニュースを聞いたら突然頭が痛くなって。それで気を失ったら思い出したの」
「東京クラウドホテルは僕と君が初めてであった場所です。まさかそのことを思い出したのですか」
大野の質問に西村桜子は首を横に振る。
「違う。殺風景な部屋でラグエルっていう男性に拳銃を渡される。その男性は私のことをラジエルって呼んでいた。拳銃や暗殺計画というように物騒な事をラグエルは言っていました」
ラジエル。そのコードネームに大野は心当たりがあった。その名前を大野が聞いたのは東京クラウドホテルの廊下で彼女に出会った時だった。
「冥土の土産に自己紹介しましょうか。私は退屈な天使たちのメンバー。コードネームはラジエルです。こうやって自己紹介するときは、確実にあなたを殺す時だから」
あのホテルの廊下で彼女が発した言葉。その直後彼女は大野の銃弾に被弾する。死期を悟った彼女は拳銃自殺を図り、意識不明の重体に陥った。そして彼女は命を取り留めたが、テロ組織に関することや自分のことなど全ての記憶を失った。
西村桜子の正体。それはテロ組織『退屈な天使たち』のメンバーの一人。
その事実を大野は彼女に隠している。
あの時彼女は言った。
「本当は殺したくない。記憶が戻るならやってもいいと思ったけど、本当は殺したくない」
あの言葉は本心であると大野は思った。ラジエルはテロリストとして多くの人間を殺してきた。その事実を変えることはできないが、あの時彼女は急所を外すように拳銃を発砲した。それは彼女が元々優しい人間で、何かやむおえない事情でテロ活動に加担していることを意味している。
彼女は最終的には死刑判決を受けるはずである。どのような事情があったとしても彼女がやったことは許されないこと。
記憶が完全に戻れば彼女は死刑囚になる。それでもテロ活動に加担する過程を知らずに死刑判決を受けるのと、なぜテロリストになったのかという理由を知ってから死刑判決を受けるのとでは後者の方が救われる。
大野は彼女を救いたい。そして彼は信じたい。テロリストの中にもどこかに人間としての優しい心が眠っているということを。
大野が無言で過去を振り返っていると桜子はどこか哀しそうな表情を浮かべ微笑む。
「ラグエル。物騒な言葉を使っているけれど私のことを大切にしているようだった」
ラグエルというコードネームを大野が初めて聞いたのもあのホテルで彼女と初めて会った時だった。
あの時彼女が拳銃自殺を図ろうとした時ラジエルは辞世の句のつもりで呟いた。
「このままいけば私は死刑になる。逮捕はあの人への裏切り。だから私はここで……」
そして彼女が記憶を失う前の最後の言葉。
「さよなら。ラグエル」
察するにラグエルというのは彼女をテロ組織に参加させた張本人だろう。
ラグエルがどのような男なのか。大野は知らない。
公安の刑事に聞けばどのような男なのかが分かるかもしれないが、それは公安の刑事にラジエルの記憶が戻りかけていることを伝えることになる。
この状況で事実を伝えれば公安は彼女を拘束して尋問するだろう。
それでは彼女を救う手立てを失ってしまう。
大野は葛藤の最中口をつむる。




