第十六話
二人の刑事に正対するように戸谷信助が座り足を組む。そして彼は淡々と供述した。
「殺人ね。僕は殺人なんてしたつもりはありません」
戸谷の堂々として発言に大野は冷徹に尋ねる。
「それはどういうことですか」
「殺意なんてない。イタズラです。水を地下道の階段にばら撒いたら誰かが転ぶでしょう。その姿を想像すると楽しくなるんですよ」
戸谷が笑顔を見せると大野は冷静に尋ねる。
「イタズラで済むと思っているのですか。そのイタズラで人が死ぬとは思わなかったのですか。あなたのやったことは傷害過失致死罪という立派な犯罪ですよ」
「あれは事故でしょう。偶然水で滑って人が死んだだけの話。滑って転んだのが五十代の裁判官だと聞いた時は面白くないと感じました。高齢者が転ぶ姿を期待して水を撒いたのにね」
沖矢は戸谷の供述を聞き彼に一歩歩み寄る。その沖矢の目は怒っているように充血している。
だが戸谷は沖矢のことを気にも留めず興奮いした口ぶりで供述を続ける。
「一週間前にも地下道で同じように水を撒いたんですよ。その時は通勤通学時間を狙いました。あの時は面白かった。ドジな女子高生が滑って転んだからね」
この供述に沖矢が怒り、戸谷に殴りかかろうとする。だが沖矢の拳は取調室の席から立ち上がった大野が受け止める。
そして再び大野は取調室の椅子に座り、戸谷の言動に対して激怒する。
「あなたは世界で活躍するご両親の顔に泥を塗ったんです。そのことが分かっているのですか」
大野の言葉は戸谷に届かず、彼は怒号を挙げる。
「世界で活躍するご両親の顔に泥を塗った。それは間違っていませんが、私は嫌だったんですよ。世界で活躍する両親と比較されるのが」
専門学校卒業を目前にした三年前の一月。戸谷信助がマンションの郵便受けを開けると茶色い封筒に入っていた。
その宛名は大手のゲーム制作会社の物。戸谷は待つことができず、郵便受けの前で封を開ける。その中に入っていた手紙を広げると、戸谷の目に想定外な言葉が飛び込んできた。
『厳正なる選考の結果、残念ながら採用を見送りましたことをご通知いたします』
それは紛れもなく不採用通知である。
戸谷はその手紙を落とす。その瞬間戸谷の前を冷たい風が通り抜け、地面に落ちた通知書が冷風に乗り空中を舞う。
その晩このことを戸谷は電話で父親に告白する。電話口から聞こえた父親の言葉は戸谷信助が予想した物と同じだった。
『言っただろう。世界で活躍する人間になるのが家族の全て。お前が大手のゲーム会社に就職するなら良いと思ってゲームの専門学校に通わせてやったのに、なぜお前は大手のゲーム会社の就職試験に落ちる。こんなことなら由依のように公務員になればよかったんじゃないか。くだらない夢なんて諦めて』
また姉の由依と比較された。それだけではなく家族全てが比較対象。比較が戸谷信助を苦しめる。
結局戸谷は就職できず自分でスマートフォン向けのゲームを開発する会社を設立する。自分が作った会社で大手ゲーム会社を脅かすかのようなゲームを開発するならと、家族は彼の我儘を許可した。
だが大手のゲーム会社に就職できなかったという事実は十字架のように戸谷の周りを付き纏う。
ゲーム開発も甘くない。売れるようなゲームを開発できない。
そのストレスが戸谷信助をイタズラに走らせた。
いつしか戸谷は階段に水をばら撒き、誰かが転ぶ姿を想像することが快感に変わった。
「そのストレスから犯行に至ったということですか」
大野が確認すると戸谷は首を縦に振る。
「そうですよ。イタズラでストレスを発散しなければ、自我をコントロールできなかった。だから私は水を撒いたんです。滑って転ぶ姿を想像すると楽しい気分になれるから」
戸谷が理不尽な犯行動機を語ると大野は右手を挙げる。
「質問です。あなたは郷里忠吾さんの胸倉を掴みましたか」
その大野からの質問に戸谷は首を横に振る。
「やっていませんよ。地下道の階段から少し離れた位置に立っているのを見ただけです。その位置から階段の様子は死角になっているので、郷里忠吾さんは目撃者にはなりません。これでイタズラを目撃したからという犯行動機は成立しません。信じてください」
一連の取り調べの様子を合田警部がマジックミラー越しに見ている。
その個室に木原と神津が駆け付けたのは取り調べが終盤に差し掛かろうとした時だった。
木原は手帳を広げ、合田警部に報告する。
「合田警部。裏付け捜査の結果、容疑者全員のアリバイが証明されました。あの地下道を通過した四人の男女と佐藤高久、瀬戸内検事と菅野弁護士。計七名のアリバイは正しいことが証明されたんです。即ち戸谷が郷里を殺害したとみて間違いないでしょう」
木原の報告を聞き、合田が彼の顔を見る。
「木原。本当に戸谷が殺したと思うか。戸谷は郷里の胸倉を掴んでいないと供述している。その供述が正しいとしたら、真犯人は別にいるということになるな」
「そうですね。戸谷の前に地下道を通過した田中冨喜子には犯行が不可能。田中が殺したとしたら、被害者の靴底に水が付着することがあり得ないから。だとした真犯人は戸谷の次に地下道を通過した柳楽新太郎と北川律のどちらかということになりますね」
木原の推理を聞いた神津は取調室の方向に目を向け呟く。
「事件は解決していないということか」