三章 ライツ・オブ・ザ・ケース その④
三人が立ち去ると、たちまち重苦しい、それでいて気まずい空気が執務室をつつみこんだ。
そりゃそうだろう。なにしろ部屋には二人だけ。
しかも一方は、愛人に命じられて愛人のフリをしていた女官と、もう一方はそうとも知らずにそんな女官にいれあげて、幸せな再婚生活を夢見ていた哀れな三枚目の国王。これで場の空気が気まずいものにならなかったら奇跡である。
それでも重苦しい沈黙に耐えきれず、意を決してまず僕が口を開いた。
「それで、これからどうするんだい、エフェミア?」
「さて、どうしましょうか」
というエフェミアの声は、どこか他人事のようにのんびりとしたものだった。
「私からも陛下にお訊きしたいことがございます」
「訊きたいこと?」
「はい。私は陛下が王妃様を害したことを知る生き証人です。あのフォロスがそうであったように、後日、私もまた王家に仇をなす存在になるやもしれない身です。そんな私をどうされるおつもりですか?」
「どうされるって言われても……」
僕は返答に窮した。どうされますかといきなり訊かれても正直困る。
どう見ても寝所に誘って「オトナの体話」をする雰囲気でもないし……。
「口封じのために私を殺しますか、陛下?」
思いがけないエフェミアの言葉に、僕は仰天して目玉をむいた。
「と、とんでもない。そんなことするわけないじゃないか!」
「でしたら、私は私の人生を歩むだけにございます」
「というと?」
「しばらくは諸国をめぐる旅にでも出ようと思います。思えば、私はこの国から一歩も外に出たことがありません。いい機会だと思います」
「すると、予の妃になってこの国に残ってくれと言っても無理かな?」
僕は遠まわしに求婚してみたのだが、エフェミアは微笑しながら首を振った。
「陛下のことはお嫌いではありませんが、もう権力というものには近寄りたくはありません。生命がいくつあっても足りませんわ。王妃様やエドモンド卿の末路を見ていますと、つくづくそう思えます」
権力は怖いか……。そう言われちゃ返す言葉もないな。
僕は僕で国王という立場にありながら、愛人(と信じていた)の女官と一緒になりたいというそれだけの理由で、王妃のエリーゼをあっさり手にかけた。
そのエリーゼは王妃という立場にありながら宰相エドモンドと密通し、国王である僕をエドモンドと共謀して殺害しようと企てたものの、結局、自分のほうが先に殺された。
そのエリーゼの姦夫ともいうべきエドモンドは、宰相でありながら王妃と共謀し、僕を害してこの国を乗っ取ろうと企んだものの、自らが刺客として雇った盗賊によって無惨な最期を遂げた。権力者たちが自己の欲望と打算に目がくらみ、結果、悲惨な末路を迎えているのだ。
唯一、無事にすんだ僕だって、ミランダたちが陰で動いてくれていなかったら、今頃どうなっていたかわからない。
下手すりゃエリーゼとエドモンドに謀殺されていたか、もしくは王妃殺害の罪で王家開闢以来の罪人になっていたかもしれないのだ。
それらのことを考えれば、エフェミアが権力から身を遠ざけたいと思う気持ちはよくわかるし、翻意を迫る気にもなれなかった。
「それでは陛下。私たちの新たな門出を祝うために祝杯をあげませんか?」
「う、うん。そうだね」
正直、エフェミアに未練があったが、しかたがない。
せめて最後くらい、女々しいところなんか見せずに男らしく振る舞おう。
そう思った僕は明るく笑ってみせた。
「じゃあ、倉庫からワインを取ってこよう。とびっきり上物のやつをさ」
「陛下。ワインならあちらにございますわ」
そう言ってエフェミアが指さした先には、一本のワインがキャビネットの上に置かれてあった。
あれ、待てよ。あのワインはたしか……。
「あら、すごい。八十年産のロマネ・コマネチですわ。これにしましょう、陛下」
「い、いや、そのワインはちょっと……」
「自分を裏切った女なんかには、もったいないですか?」
「いや、別にそういうわけではないんだけどね」
「でしたら、これで乾杯いたしましょう。陛下と私。二人の新たな門出を祝って」
「う、うん……」
まあ、いいか。彼女が飲みたいと言っているんだからな。
エフェミアが慣れた手つきでコルク栓を開け、グラスにワイン注ぐ。
たちまち果蜜のような芳醇な甘い匂いが室内の宙空にひろがっていく。
さすがは赤ワインの王様と言われるロマネ・コマネチである。たとえ「不純物」が混じっていても……。
「それでは陛下、乾杯!」
僕とエフェミアは軽くグラスをあわせると、ワインの一杯をゆっくりと干した……。
†
「国史に残る事件になりましたわね」
というミランダのしみじみとした声に、僕は小さくうなずいてみせた。
「ああ、本当にな。よく死んだもんだ」
「不謹慎ですよ、陛下」
「ああ、すまない」
ここは僕の執務室である。
その一角に佇立する僕とミランダの前には、白い布がかけられたふたつの死体が横たわっていた。
フォロス憲兵とエフェミアの死体である。
誤解のないように先に言っておくが、僕がエフェミアを殺したわけではない。
――あのとき。エフェミアが祝杯のためにと手にしたあのワイン。
あれは僕が当初、エリーゼを殺すために用意した毒入りワインの一本であった。
エリーゼが別のワインを選択したので使うことなく、執務室に持ちこんだままそれっきりだったのだ。
そのことに気づいたのはワインを飲む前で、エフェミアが飲むのを止める気になればできたのが、僕はあえて止めなかった。で、毒入りワインを飲んだエフェミアはそのまま死んでしまったのである。
どうして止めなかったのか。正直、僕にも理由はわからない。ただ憎しみや怒りがその理由ではないと思う。
自分を愛しているものと信じていたエフェミアが、その実、僕に対して愛情を持っていなかったことを知ったとき、悲しくはあったが不思議と憎しみはおぼえなかったからだ。
ただあのワインの正体に気付いたとき。神の導きを受けたような気がしたのだ。
このまま黙って飲ませてやれ。そんな天の声を聞いた気がしたのだ。
僕が死を強要したわけではない。エフェミアが自分から飲むことを提案し、自分でワインを選び、自分でグラスに空け、自分の意思で干し、そして死んだのだ。
「彼女は自らの罪を悔い、自らを裁いたのです。それだけのことです、陛下」
そうミランダは言う。僕もそう思う。いや、そう思いたい。
正直、わりきれない部分も心の隅っこに感じてはいたが、僕はミランダの言葉を受け入れることにした。
「ところでミランダ。この死体はどうしようか?」
「憲兵のほうはジアドスに殺されていたということにすればよいでしょう。今さら一体二体増えたところで一緒です」
「それもそうだな。で、エフェミアのほうは?」
「そうですね。ジアドスの犯行にするのは時間的に見て不可能ですので、後追い自殺ということにしてはいかがでしょうか?」
「後追い自殺?」
「さようです。愛する人間が非道にも盗賊の手にかかり、非業の死を遂げた。その現実が受け入れられず自ら生命を絶った。世間によくある話でございます」
「愛する人間って、まさかこの憲兵?」
「それでもよろしいですが、しかし、この女官にはもっとふさわしい相手がいると、陛下は思われませんか?」
その一語で僕はすべてを察した。
「なるほど、エドモンドか」
「はい。陛下もすでにご承知のように、エドモンド卿とこの女官は愛人関係にありました。愛する宰相の死に悲観し、後を追った愛人の女官。無理のない人選かと思いますが」
「まあ、たしかにな」
そう口では応じたものの、エドモンドとエフェミアの関係については、いまだ僕の中ではわりきれないものがある。これだけ陰で裏切られていたのに、まだエフェミアへの愛情は残っているのだ。
まったく、僕のこの純真さはどうだろう。将来、僕の伝記を書く人間には、ぜひとも記してもらいたい部分である。
「それでは陛下。二人の死は表向きその方向で処理いたします」
「うむ、よろしく頼む」
ミランダが手をあげて合図をすると、部屋の隅で待機していたミックとキースがそれぞれ死体を抱えあげ、そのまま執務室から運び出していった。
 




