二章 パニック・イン・キャッスル その④
朝起きると寝台にエフェミアの姿はなかった。
かわりに「仕事があるため先に出ます」と書かれた置き手紙があった。
とりあえず僕は着替えをすませると、寝所を出て謁見の間に向かった。
その広間ではあいかわらず女官たちがせっせと憲兵たちの世話を焼いていたが、しかし、どういうわけかその中にエフェミアの姿が見えなかった。
どこにいるのだろうとキョロキョロ周囲を見まわしていると、
「どうかされましたか、陛下?」
と、背後からいきなり声をかけられたので、僕は驚いて振り返った。
視線の先にいたのはブルーク隊長だった。
「なんだ、ブルーク隊長か」
「失礼ですが、陛下。そのお顔はどうされたのですか?」
「えっ、顔?」
「はい。なんだか妙におやつれになられているので……いや、それは当然ですね。王妃様の御身をご心配されてろくにお休みになれなかったのでしょう。わかりきったことを聞いて申しわけありませんでした」
「う、うむ……」
隊長の言うとおり、たしかに疲れはかなりある。
なにしろ昨夜は、エフェミアとの「オトナの体話」で体力を消耗したところに、休むまもなくフォロス憲兵の死体を寝所まで運ぶという、ウルトラ重労働に挑んだのである。とてもひと晩寝たくらいじゃ疲労がとれるわけもなかった。
「そういえば隊長。あの男はどうしている?」
「は、あの男とは?」
「ほら、地下牢に投獄した盗賊のことだ。ジアドスとかいったかな。今日も尋問するのだろう」
「そうでした、奴を地下牢に入れていたのですな。すっかり忘れていました。ハハハ」
ハハハじゃないだろう、まったく! 僕は心の中で噛みついた。
やっぱりこの隊長。自分たちがなんのために城にいるのか忘れてやがるな。
「あの男を、今日にも憲兵隊の屯所に移送するのだろう?」
「いえ、このまま城で尋問を続けることにします」
「城で? それはまたなぜ?」
「奴を自白させるためです」
そう言ってブルーク隊長はふんぞり返るように胸を張った。
「お前はほかの罪人とはちがう! あの種の悪党はこのフレーズに弱いのです。王城での尋問という特別扱いをしてやることで、悪辣な極悪人の冷たく凍った心は氷解し、感動のあまりその場に泣きくずれ、洗いざらい罪を白状し……」
「わ、わかった。とにかく卿らにまかせる。頼んだぞ」
僕は強引にブルーク隊長の話をさえぎると、足早に広間から出ていった。
タダ飯にありつくために屁理屈こねているだけなのがあきらかだったので、相手にするだけバカらしいと思ったのだ。
「どうされました、陛下。そのように怖いお顔をされて?」
その声に僕が振り向くと、廊下の先にミランダが立っていた。
「ああ、ミランダか。おはよう」
「おはようございます。で、どうかされましたか?」
「どうもこうもないよ。あの憲兵たち、事件を理由に当分この城に居座る腹づもりだぞ。お前が甘い顔するから、連中、すっかり味をしめたじゃないか」
「国王たる者がそのくらいのことでヘソを曲げてどうされるのですか。それとも陛下には、彼らに城の中にいられると何か不都合なことがございますので?」
「い、いや、別にそんなことはないけどさ……」
僕はおもわず声をくぐもらせた。
本音を言えば連中にはさっさと城から消えてもらわないと、こっちもフォロス憲兵の死体を処分できなくて困るのだが、そんなことミランダに言えるわけもない。
「それよりも陛下。今日は陛下に会わせたい者たちがおります」
「予に会わせたい者?」
「はい。二人とも、こちらに来なさい」
ミランダが声を投げると、廊下の角からきらびやかな甲冑をまとった二人の騎士があらわれて、僕たちのもとに歩いてきた。
背中に白いマントを着け、腰には長大な剣を吊している。僕はその二人の騎士をよく知っていた。
「おおっ、ミックにキースじゃないか。二人とも、帰っていたのか?」
「はっ、お久しゅうございます、陛下」
そう言って、あらわれた二人の騎士はうやうやしく低頭した。
ミランダには息子が二人いて、それがこの二人の騎士のミックとキースである。
兄のミックは三十歳、弟のキースは二十七歳。ともに長身で厚みと幅のある身体もつ精強な風貌の男たちで、実際、その武勇はわが国で五指に入ると言われている。ともに次代の王国騎士団を担う有望株だ。
わがオ・ワーリ王国は、一昨年から東にある山間の国カイン王国と友好を深めるべく使節団を送っていたのだが、二人は警護隊長と副隊長としてその一団に加わり、かの国に赴いていた。
そのため、こうして僕が二人と会うのは二年ぶりである。
「われら兄弟、王国の土を踏みましたのは一昨日のことにございますが、さまざまな雑務が重なり、今日まで帰国のご挨拶が遅れてしまいました。なにとぞお許しください」
そう言って、ミックとキースは深々と頭をさげた。
「そんなこと気にするな。旅の疲れもあるだろう。しばらくは静養し、頃合いを見て登城するがいい」
「はっ、ありがとうございます」
二人が僕とミランダの前から去ったのと前後して、僕のお腹が「ぐぅ〜」という情けない悲鳴をあげた。思えば、昨夜から満足に食事を取っていないのだ。
「さてと、予も朝食を取るか……ああ、そこの女官」
食器類をのせた盆を抱えて広間から出てきた女官に、僕は声をかけた。
「はい、陛下。お呼びでございましょうか」
「うむ、予の執務室に朝食を運んでおいてくれ。飲み物は……そうだな、ミルク紅茶がいいな」
「かしこまりました。ただちにお持ちいたします」
うやうやしい一礼を残して、女官は廊下の角に消えていった。
僕はミランダに向き直り、
「じゃあ、ミランダ。予は執務室にいるから、エドモンドが登城したら教えてくれ。使節団が戻ってきたのなら、そのことでいろいろと話したいことがあるからな」
「エドモンド卿でしたら、すでに城に参られていますが」
「えっ、こんな朝から?」
「はい。城内の馬車庫に宰相殿の馬車がおかれてありましたゆえ」
「ふーん……」
それにしては広間にエドモンドの姿がなかったような気もするが、まあいい。
おそらく城内にある自分の執務室にでもいるのだろう。何をしているかは知らんが。
とにかく食事だ。腹が減っては仕事もできん。と言っても、これといってするべき仕事などないんだけどね。みんなエドモンドまかせなので。
執務室に戻って待つことしばし。数人の女官たちが朝食を運んできた。僕の見ている前で、手慣れた動作でテーブルの上に料理を並べる。
レーズンの入ったライ麦のパン。カリカリに焼いたベーコンエッグ。野菜オムレツ。オニオンスープ。ミルクたっぷりの紅茶。ごく型どおりのメニューだが、朝食としてはこれで十分である。
僕がライ麦のパンにバターを塗っている横で、女官の一人がティーカップに紅茶を注いぎいれた。ほのかな湯気と茶葉の薫りが、部屋の宙空にひろがっていく。
くつろぎの時間とは、まさにこのことであろう。これでエフェミアと一緒なら言うことなしなんだが。
「陛下、お紅茶のおかわりはいかがですか?」
「うむ。じゃあ、もらおうかな」
空になったティーカップを女官に渡し、ライ麦のパンを口にした次の瞬間――。
「陛下、一大事にございますぞ。陛下ぁぁーっ!」
と、吼えるような声をあげながら、マッサーロの奴がいきなり部屋に入ってきた。
おかげでこっちはびっくりして、おもわず口にしていたパンを喉に詰まらせてしまい、目を白黒させながら女官の一人があわてて差しだしたコップの水をがぶ飲みした。
「陛下、大丈夫でございますか!」
「う、うむ、なんともない」
正直、あやうく窒息死しかけたのだが、国王たる者が女官たちの前で情けないところを見せるわけにもいかないので、僕は超人的忍耐力を発揮してそう強がってみせた。
「これは陛下。お食事中でございましたか。失礼いたしました」
そう言って、マッサーロは恐縮したように低頭した。
白々しい奴! 僕を窒息死させるためにタイミングをはかって来たくせに!
「それより、なんだ。朝から騒々しい奴だな」
「それが大変なのです。なにが大変かって、とにかく大変なのです!」
「だから、なにが大変なんだ」
「はい、じつはジアドスがいなくなったのです」
「ほう、そうか。それはたしかに大変だな」
そう応じて僕はミルク紅茶をひと口すすり、「なんだって?」
「ですから、ジアドスがいなくなったのです」
「いなくなったとは、どういうことだ?」
「はい。じつは今朝、憲兵の方が地下牢のジアドスに食事を持っていたところ、牢内にかの者の姿が見えなくなっていたとのことです」
「それって……つまり地下牢から逃げたってことか?」
「はあ、どうやらそのようです」
マッサーロの返答に、まわりの女官たちから低い悲鳴があがった。
「し、しかし、牢には見張りの憲兵がいたんじゃないのか?」
「それが、全員、居眠りをしていたらしく……で、交代の人間が地下に降りていったときには、もうジアドスの姿はどこにもなかったとかで……」
「おいおい……」
僕はマッサーロたちをともなって執務室を飛びだした。
†
僕たちが広間に駆けつけると、そこには憲兵連中をはじめ城の衛兵、侍従官、女官、料理人に清掃員と、とにかく城に勤めるすべての人間が集まっていて、一様に不安顔をならべて群をつくっていた。
今度はエフェミアの姿もあった。
ほかの女官たちと一緒に広間の隅に立ちならび、なんだか血の気を失った表情を浮かべている。
そりゃそうだろう。凶悪な盗賊が地下牢を抜け出し、しかもまだ城内にいるかもしれないのだ。怖がるなというほうが無理な話だ。
「……おや?」
広間内にエドモンドの姿だけがないことに僕は気付き、不審に思って近くにいたミランダに訊いた。
「おい、ミランダ。エドモンドの姿がないぞ。彼はどうした?」
「そういえばいませんね。もうお帰りになられたのではありませんか」
「帰った?」
「ええ。さすがにこの状況で、ご自身の執務室でのんびり仕事をされていることはないでしょうから」
「それもそうだな」
しかし、それじゃ朝早くから何をしに登城したのだろうと、僕は疑問に思わないでもなかったが、宰相の不可解な行動を詮索するよりも、まず先にやらなければならないことを思いだした。
そう、朝っぱらからこんな騒動を招いた連中を、糾問してやらねばならないのだ。
さっそく僕はブルーク隊長をつかまえて、ここぞとばかりになじってやった。
「おい、ブルーク隊長。これはどういうことだ? どうしてジアドスに逃げられてしまったのだ。いくらなんでもたるみすぎじゃないのか!」
すると、ブルーク隊長は神妙な表情で低頭したものの、
「してやられました、陛下。まったく敵ながらあっぱれと言わないわけにはいきません」
などと、臆面もなくジアドスを褒めだす始末。
居眠りこいて逃げられたくせに、なにがあっぱれだ! 僕はブルーク隊長を絞め殺してやりたい衝動と必死に戦った。
「隊長!」
そのとき、一人の憲兵が息せききって広間に駆けこんできた。
「おう、どうだった?」
「はい。城門を警備する門番の兵士たちは、誰も奴の姿を見ていないとのことです」
「まちがいないな? 居眠りしていたり、交代の者が来る前に勝手に持ち場を離れるなどして、奴に逃走する隙をあたえていないだろうな?」
自分たちのドジを棚にあげてえらそうなことを言う。
「それも確認しましたが、居眠りをしていた者はおらず、また交代もきちんとおこない、逃走の隙など絶対にあたえていないとのことです」
それを聞いて僕は、門番の兵士たちの俸給を上げることを決意した。
なあに、この役立たずの憲兵どもの俸給を下げれば財源はまかなえるさ。
「ようし、ならば、奴はまだこの城のどこかに隠れているぞ。捜せぇーっ!」
ブルーク隊長が拳を振りあげて叫んだ。たちまち広間内が騒然となる。
「いいか、城の部屋という部屋をしらみつぶしに捜索して、かならず奴を見つけだすんだ。われら憲兵隊の威信と名誉がかかっていることを忘れるな!」
「おおーっ!」
ブルーク隊長の檄に呼応する部下たちの声には、さすがに憲兵としての矜恃のようなものが感じられた。
「奴を捕り逃がしたら、末代まで笑われるということも忘れるな!」
「おおーっ!」
と、憲兵たちがさらに気勢をあげて呼応する。
「私のクビがかかっていることも忘れるなよ!」
「…………」
返答はなかった。
ともかく臨時の捜索隊が結成され、五人前後でひとつの隊をつくり、ぞろぞろと憲兵たちが広間から出ていく。広間には僕を含め、城の人間と護衛の憲兵が数人だけ残った。
「へ、陛下、賊は本当にまだ城の中にいるのでしょうか?」
傍らにいるマッサーロが、震え声で僕に訊いてきた。
一瞬、なんらかの思惑があって、こいつが地下牢からジアドスを逃走させたのではないかと疑ったが、どう見てもこの顔はガチで怯えている顔だ。
「うーん、門兵が見ていないと言っているからな。城から出るには門を通るしかないし、それを考えると、やはり奴はまだ城内にいるとしか思えないな」
「ですが、どこぞの窓から壕に飛びこんだということも考えられます。ここ一ヶ月ばかり雨が降っていないので、壕の水位も下がり、泳ぎのうまい人間なら渡りきれると思いますが」
「いや、それも考えられないな」
城を囲むように広がる壕は、たしかにマッサーロの言うとおり、水位じたいはそれほど深くはないが、それだけに水面から地表までの高さはかなりある。
壕に飛びこんで泳ぎきったとしても、イモリかヤモリでもなければあの壕の内壁は登りきることはできないだろう。
そうである以上、城門を警備する門兵がジアドスの姿を見ていないということからも、やはり城の中に潜んでいると考えるべきだろう。
そんなことを考えていると、ふいにあがった悲鳴が僕の鼓膜を刺激した。
「ど、どうした!?」
「へ、陛下。あれを……」
と、数人の女官たちが広間の扉に向かって指を指しむける。
僕も視線を転じると広間の扉がわずかに開いていて、そこから何者かが顔だけを入れて広間内を覗きこんでいた。
すぐにはわからなかったが、ややあってその正体を知ったとき。僕の背中になにか冷たいものがすべり落ちた。
それも当然だろう。なにしろ扉から顔を覗かせていたのは、地下牢から逃げたあのジアドスだったのだから……。