二章 パニック・イン・キャッスル その③
いやはや「慣れ」というのは恐ろしいものである。
フォロス憲兵の死体を見て、僕はあらためてそう思った。
本来、まっとうな生き方をしている人間であれば、血まみれの死体なんかを目の当たりすればすくなからずショックを覚え、吐き気をもよおしたり、めまいがしたり、心臓の弱い人間ならそれだけで心臓麻痺を起こして死んでしまうかもしれない。
ひるがえって僕である。
吐き気などなければ、めまいもしていない。鼓動はわずかに乱れていたが、これはエフェミアとの「オトナの体話」の余韻であって、死体は関係ない。ようするにすこしも動揺していないのだ。
ひとつには、フォロス憲兵が死んで当然の悪党だったということもある。なにしろ役人の分際で、こともあろうに国王たる僕を恐喝してきたのだ。
オ・ワーリ王国とウォダー王家の未来のために泣く泣く(すこしも泣いちゃいないが)あのビッチ王妃を殺した僕をである。そんな正義の使徒ともいうべき善良(?)な人間を脅迫するような外道は、殺されて当然なのである。
とはいえ、殺したのがエフェミアということを察したときは、さすがに動揺せずにはいられなかったが。
「こ、これ、君が?」
「はい。でも、殺す気なんかありませんでした」
そう言うとエフェミアは椅子に腰をおろし、さらに語をつないだ。
「さしあたって口をつぐませるため、この男と交渉しました」
「う、うん、そうだったね」
「それで、どこで交渉すればいいかと考えて、私はこの部屋にフォロスを誘いました。先ほども言いましたように両隣の女官たちは帰省して不在ですから、ここなら他人の耳や目を気にせずに話ができると考えて」
「うん、それで?」
「ともかく、この男を連れて私は部屋に入りました。そして、陛下よりお預かりした貴金属を出して交渉をはじめようとした、その矢先……」
「その矢先?」
「この男は突然、私を床に押し倒して、無理やり犯そうとしたのです」
「な、なんだってぇ!?」
一瞬、僕は驚きのあまりアゴがはずれそうになった。
エフェミアが悲しげにうなずく。
「はい、抵抗したらお前の過去を城中に言いふらしてやると言って……」
「そ、それで、君はどうしたの!?」
「私は必死に抵抗しました。でも相手は男です。腕力ではとてもかないません。必死にもがいていたとき偶然、いつも使っている果物ナイフが目に入り、それをつかみました。それからのことは記憶がなくて、はっとわれを取り戻したときはフォロスを刺し殺していたのです……」
言い終えるのと同時にエフェミアがすすり泣きだしたので、感極まった僕はあわてて傍に駆けより、その身体を強く抱きしめた。
「君は悪くない。悪いのはこのド腐れ憲兵だよ。裁判所だって、いや、天上の神々だってきっと君は無罪だと言ってくれるよ」
「ありがとうございます。陛下ならそうおっしゃってくれると思っていましたわ」
僕たちはさらにひしっと抱きあった。う〜ん、愛を感じるなぁ……。
それにしても国王をゆすろうとしたばかりか、その愛人まで犯そうとするとは、とことん性根の腐った奴である。
絶対に許さん! 王の権力で死刑にしてやるぞ! 誓ってギロチンにかけて首チョンパにしてやるからな!
温厚な僕もさすがに激しい殺意に駆られたが、考えてみればもう死んでるのか。
「ともかく、まずはこの死体をなんとかしなければならないな」
「はい。ひと晩ならともかく、死体が異臭を発したら大騒ぎになってしまいますわ。どこかに隠しませんと……」
「そうだ、ワイン倉庫に隠そう」
あそこにはエリーゼの死体がすでにあるが、ほかの人間に見つかりにくく、なおかつ臭気を漏らさない場所といえばあそこくらいしかない。
上物のワインたちには申しわけないが、ここはひとつ我慢してもらおう。
だが、別の問題がある。倉庫のある僕の寝所は城の五階。ここは三階である。
つまり、倉庫まで行くにはフォロス憲兵の死体を担ぐなりして、五階にまであがらなければならないのだ。
しかも当然というべきか、力仕事は男の僕の担当になる。エフェミアにやらせるわけにはいかないから仕方がないが、考えただけで息切れしそうだ。
どうやって担げば楽かな、などと考えていると、エフェミアが部屋に戻ってきた。
同じ三階にある謁見の間に陣取る憲兵たちの様子を、確認しにいってもらったのだ。
「どうだった、連中は?」
「心配いりません。皆さん、広間でいびきをかいて眠っています」
「全員? 交代で起きている者とかいないの?」
「はい、全員です」
「たるんでるな、まったく!」
僕は苦々しげに吐き捨てた。あの連中、何のために城にいるのかわかっているのか?
飲んで食べて高いびき。まったく、一人残らずクビにしてやろうかと思ったが、考えてみればこの場合、むしろそのほうが好都合か。下手に城の中をうろちょろされてはこちらも動きがとれない。
僕はフォロス憲兵の死体を背負い、エフェミアの部屋を出た。
重いことは重いのだが、硬直しているのか思ったほどぐらぐらと動かないので、意外と背負いやすい。とはいえ、死体を背負いながら階段をあがるのはかなりの重労働だ。
一段上がるごとに膝がガクガクと震え、肩や腰に痛みが走る。呼吸は乱れ、めまいが起こる。
もとより肉体労働とは無縁の人間なので当然といえば当然なのだが、愛しいエフェミアのためならえんやこらと、僕は気力体力を総動員して寝所をめざした。
やがて寝所にたどりついたとき。僕は八割がた死んでいて、それこそ心臓が止まっておかしくない状態だったが、だからといって寝台に横になってお休みなさいするわけにはいかない。
はやくこのド腐れ憲兵の死体を倉庫に運び入れなければならないのだ。
エフェミアが鍵を差しこみ、倉庫の扉を開ける。
「開きましたわ、陛下。さあ、はやく中へ」
と、先にエフェミアが倉庫内に入る。
すこし遅れて僕も室内に足を踏み入れたのだが、先に入ったエフェミアがなぜかその場に佇立したまま、なんとも不思議そうな顔つきで僕を見ている。
「どうした、エフェミア?」
「あの、陛下。ひとつお訊きしてもよろしいでしょうか?」
「なんだい?」
「王妃様のご遺体というのはどこにあるのでしょうか?」
「エリーゼの? それならほら、そっちの棚の陰に……」
だが棚の陰を覗きこんだ次の瞬間。僕は底知れない驚愕に心身を凝固させた。
当然だろう。あるべきはずのエリーゼの死体がどこにもなかったのだから……。
†
エリーゼを殺したあの夜から今日にいたるまで、「訳がわからない」というものに僕はかなり耐性がついていたはずなのだが、それにしたってこれは、その最上級のものと言えるだろう。
なにしろエリーゼの死体が、ワイン倉庫から跡形もなく消えてしまったのだ。これを訳がわからないと言わずしてなんと言うのだろうか。
「それにしても、王妃様のご遺体はどこに……?」
さすがの聡明なエフェミアも困惑を隠せないようだ。眉間にしわを寄せたその困り顔というのが、これまた可愛いのである。
おっと、今はそんな呑気なこと言っている場合ではない。
とりあえずフォロス憲兵の死体を床に置くと、僕らは倉庫を出て寝台に戻ってきた。
そして、ともにその端に腰をおろし、消えた王妃の死体について考えはじめる。
「おかしいですわね」
そうつぶやいてエフェミアは小首をかしげた。
その仕草がまた愛情をそそる……いや、もうやめておこう。
「ともかく屍生人ではないのですから、死体が勝手に動くということはありえませんわ」
「うん。たしかに君の言うとおりだ」
エフェミアの言葉に僕は感心してうなずいた。
えっ、当たり前だろうって? ちがうんだな、それが。
どんな当たり前すぎる意見でもエフェミアが言うと、それは万人をも感嘆させるありがたみと深みを持つのである。
「そうなりますと、この場合、考えられることはふたつですわ」
「それは?」
「まず考えられることは、王妃様はじつは死んだフリをしていただけで、まだ生きておられたということです」
「ま、まさか!」
エフェミアの言葉に、僕は驚きのあまり目玉をむいた。
「それなら死体がない理由がわかります」
「でも、予はたしかに毒入りワインを飲ませて王妃を殺したんだ。君も死体を見ただろう?」
「はい、たしかに。ですが、脈を確かめたわけではありません」
「脈……?」
しまった、こいつはうかつだった!
たしかにあのとき、僕はエリーゼの脈を確認していない。毒の入ったワインを飲み、苦しさのあまり暴れだしたエリーゼの口を押さえている最中に動かなくなったので、まちがいなく死んだものと思ったのだ。
だが、もしあれが演技で、じつはまだ生きていたとしたら……。
不吉すぎる可能性が脳裏をよぎり、僕はたちまち震えだした。
「も、もしそうなら、エフェミア。い、今頃、王妃は……!?」
「陛下、どうか落ちついてくださいまし」
「お、落ちつけって言われても……」
「陛下、私はふたつの可能性があると申しあげました。先に申しました王妃様生存の可能性は、おそらくないものと思われます」
「どうしてそう言いきれるんだ?」
「考えてもみてください。もし王妃様が生きておいでで、ワイン倉庫から自力で脱出したとしたら、いくら広いお城の中とはいえ、今頃、誰かが見つけて城中大騒ぎになっているはずではありませんか?」
「う、うん。たしかに……」
「しかしながら、王妃様を害してから二日近くが経っているのに騒ぎが起きていないということは、やはり王妃様はたしかに死んだものと思ってまちがいないでしょう」
「そ、そうか。よかった……」
僕は安堵の息を漏らしたが、疑念を完全に払拭できたわけではない。
「すると、死体がないというのは、どういうことになるんだろう?」
「私の見たところ、ふたつめの可能性が大かと思われます」
「それは?」
「あの脅迫状です。あれを送ってきた人間が王妃様のご遺体を密かに運び出したとしたら、指輪や毛髪が同封されていた謎も解けます」
「そ、そうか!」
正直、偽脅迫状のことなどすっかり忘れていたが、たしかにエフェミアの言うとおり、王妃の死体を運び出した人間と脅迫してきた人間が同一人物ならば、指輪や髪の毛が同封されていたのも納得できる。
「おそらくあの脅迫状の送り主は、理由はわかりませんが、ともかく早い段階から陛下が王妃様を害したこと、誘拐が狂言であることを看破したのではないでしょうか。そこで城中のどこかに王妃様のご遺体があると考えて密かに探しまわり、そして、ワイン倉庫に隠してあることを突きとめたのです。それならすべて納得できますわ」
「うん、予も納得できる」
と、僕はうなずいてみせたが、じつを言うとおおいに疑問がある。
「でも、倉庫の扉はどうやって開けたんだ? 鍵は予と王妃しか持っていないんだよ」
「たしかに扉の鍵はお閉めになられましたか? 閉め忘れはしていないと断言できますか?」
「そ、それは……」
面と向かって問われると、正直、自信はない。閉めた記憶もあるし、一方で、閉めていないような気もする。ようするに記憶があいまいなのだ。
まったく僕って人間は、殺人というリスキーなことをやらかしたくせに、どうしてこうやることなすこと詰めがあまいんだろう。ほんと、自己嫌悪におちいるよ。
「もし、そうであれば、あの脅迫状の送り主は愉快犯の類ではなく、フォロスのように確固たる目的をもった脅迫犯となります。だからこそ、見つけた王妃様のご遺体を明らかにすることなく逆に利用し、大金を要求してきたものと思われます」
「それにしても、畜生、いったいどこの誰なんだ?」
「残念ながら私にもそこまでは……ただ、陛下の身近な人間のようにも思われます」
「予の身近な人間?」
「ええ。ふだんの陛下とは微妙にちがう態度や仕草、表情や言葉から不審なものを感じとって真相に気づき、なおかつワイン倉庫という隠し場所まで探しあてました。これらのことを考えても、やはり陛下をよく知る身近な人間のように思えるのです」
「なるほど」
エフェミアの推察に、僕は心底から感心せざるをえなかった。
まったくエフェミアの指摘は、どれひとつとっても論理的で整合性がとれて――いや、それはともかく、僕という人間をよく知る人物。ふだんから僕の傍にいて、僕の微妙な態度の変化を見抜くことができる人間か。
はて、そんな人物が城勤めの人間の中にいたかな……いや、一人だけいる!
「ま、まさか、マッサーロが……!?」
僕はごく低声でつぶやいたのだが、エフェミアには聞こえたようだ。
「マッサーロ? たしか侍従官の方でしたわね」
「う、うん。予とは王立学院から一緒の奴でね。気が利くし、学友ということもあって予の専属の侍従官に取り立ててやったんだが……」
しかし、あのマッサーロが僕を裏切る? そんなことがあるのだろうか。
でも、たしかにマッサーロならその役目上、僕が不在のときでも寝所や執務室にも自由に出入りできる。
なにより彼とは、王立学院中等部の頃からかれこれ八年の付き合いになる。僕の微妙な態度の変化に気づくことがあっても不思議ではない。
しかし、どうにも釈然としない。どう考えてもあのマッサーロに、僕を脅迫するなんてだいそれたことができるとはとても思えないのだ。
「いや、エフェミア。やっぱりマッサーロの奴が犯人だとは……」
「さすがは陛下ですわ」
「えっ、さすが?」
いきなり誉められたので、僕はつい面食らってしまった。
「はい。このように早く真犯人を特定されるとは、さすがは陛下。おみごとです」
「そ、そうかい? いや、それほどたいしたことでもないけどね。ハハハ……」
エフェミアのような聡明な女性に面と向かって賞されると、正直、照れくさいが、しかし、僕が優秀な人間であることは否定できないからな、うん。
それにしても、謎の脅迫状の送り主がマッサーロだったとは予想外である。まさに盲点というしかない。
ま、正直なところ、マッサーロの奴を犯人とするには、いろいろと無理な部分もあるような気もしないではないが、それでもとにかくマッサーロが犯人なのである。
なにしろエフェミアが僕を誉めてくれたのだ。あいつが犯人でないと困るのだ!
そう考えると、途端にマッサーロへの怒りがふつふつとこみあがってきた。
「おのれ、マッサーロめ。学友のよしみで登用してやった恩を忘れて予を脅迫するとは、性根の腐れはてた奴。どうしてくれようか!」
「どうされるおつもりなのですか?」
「もちろんクビにしてやるさ!」
僕がそう吐き捨てると、エフェミアは首を振った。
「無意味ですわ、陛下。脅迫という一線を越えたマッサーロ殿に、もはや君臣の理屈は通じません。かの者を城から追放したところで事態は解決いたしませんわ」
なるほど。言われてみれば、たしかにそのとおりかもしれない。
「でも、だったらどうすればいいんだ?」
「陛下専属の侍従官ともあろう者が、なぜこのような行動にでたのか。それを考える必要があります。もっとも、その目的はお金。これは疑いないでしょうが」
「じゃあ、俸給を上げてやろうか」
と、またも君臣の理屈にこだわる僕に、エフェミアが再度頭を振る。
「一万枚もの金貨を要求している人間に、俸給を二倍三倍にすると言ったところで納得するとはとても思えませんわ」
「おのれ、強欲な奴め。こうなりゃ手討ちにしてくれる!」
と、またまた君主思考全開の僕をエフェミアがいさめる。
「いけません。今は気づかないふりをするのが一番です。かの者の出方を見て行動にでなければ、か
えって墓穴を掘ることもあります」
「でもな……」
裏切り者とわかっている人間に、今までどおり接することができるだろうか。
自信はない。なにしろ僕ほど心情が態度にあらわれる人間はいないのだ。人間的に純粋な証しである。声に出してはさすがに恥ずかしくて言えないが。
「あわてる必要はございませんわ。なにしろ私たちは彼の正体と狙いに気づいておりますが、向こうは気づいておりません。それだけでも私たちは有利なのですから」
「なるほど、それもそうだな」
こちらはマッサーロが裏切り者ということに気づいているが、向こうはこちらが気づいているとは知らない。うん、たしかに状況的には僕たちの方が有利だ。
ともかく、真犯人がマッサーロとわかった以上はあわてる必要はない。
問題はどのあたりで奴に真相を突きつけ、捕まえて、事件の幕引きをはかるかである。
要はカードの切り方なのだが、ま、そのあたりはエフェミアにまかせるとしよう。
正直、男してどうなんだという意見はあるかもしれないが、なにぶん「修羅場」というものとは無縁の、平々凡々な人生を歩んできた人間なので、この種の駆け引きはてんで苦手なのである。
ならば、外見からは想像もできないほどの「修羅場」を経験してきたエフェミアにまかせるのが賢明というものである。
人間には得手不得手というものがあり、無理して不得意なことに手を出すのは愚者のすることである。
僕のような賢者は、得意とすること以外のことにはけっして手を出さなければ、首も突っこまないのである。そのくせ「殺人」という超不得手なジャンルに手を出して、あれこれ散々な目にあっているのだが……。
ともかく夜もふけた。
当面はマッサーロの動きを静観する、という一応の結論を出した僕とエフェミアは、とりあえず色気ぬきの眠りについたのである。