第一章
第一章 被害者の始点とフィールドワーク
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリ!
朝、いつも通り喧しい目覚まし時計がなっている。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリ!
ああ、五月蝿いし眠いし気だるいし足が痛い。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリ!
敵は容赦なく波動攻撃を続けている。
ジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリジリ!
「……」
ジリジリジリジリジリジリガン!……
ベッドから腕を伸ばして八つ当たり気味にベッド脇の小さな本棚の上にある黒い時計の脳天を叩く。一転して俺の部屋に静寂が訪れた。窓の外から聞こえる鳥の鳴き声が眠気を誘う。平和だ。ヌクヌクと、甘美な二度眠りの誘惑が体を痺れさせる。
「あークソ」今日は学校がある、眠る訳にはいかない。硬い関節をギシギシ言わせながら、まずは四つん這いになりベッドから身を下ろした。俺の部屋はさして広くない、もっともこのマンションの間取りは4LDKだから高校生の一人暮らしには広すぎる。家族を亡くしてから2年、もう寂しさを感じなくなったものの、部屋はいつも寂寞としていた。洗面所で適当に身支度を整え、簡単な朝食を用意する。テレビのスイッチを入れると、いつもの情報番組が始まっていた。芸能人が離婚した、トッラク事故があった、薄っぺらでどうでもいい情報ばかりを垂れ流しメインキャスターが的外れで偏見に満ちたコメントしか返せない番組である。俺はいつも通り軽く聞き流しながら朝食を胃袋に納めた。つまらなければチャンネルを変えれば良いのだが、どうしても変える気になれない。去年の同じ日、同じ番組で彼女の自殺を知った時からずっとチャンネルを変えていない。あの時、俺は大してショックを受けなかった。彼女とはたまに話をするくらいで、友達ですらなかったからだ。しかし、普通に学校に行って全校集会で『命を大切にしましょう』という趣旨のマスコミ対策につき合わされ、適当に授業を受けて帰ってきた俺は、なぜか玄関に入った途端、涙が流れた。感情のうねりが心の中で荒れ狂いどうしても涙を止められない。多分俺は彼女に恋をしていたのだろう。
学生鞄を持ち家から出る。空は青より白の方が多いどんよりした天気だ。エレベータに乗って一階に下り、マンションからでる。家から学校まではそんなに遠くない。マンションの前は通学路に指定されているので俺と同じ制服を着た学生が数人単位で群れて歩いている。中には見覚えのある学生もいた。向こうもこちらに気づいて軽く手を上げるが、そのまま俺の前を通り過ぎて行く。彼女が自殺する前から俺はあまり人付き合いをしない人間でクラスでは浮いた存在だったのだが、彼女が自殺してからは、まったく人付き合いをしていない。だが、俺と同じく変わった奴もいて授業でグループを作る時に必ず声をかけてくる奴が三人いる。
「ダーリーン、お・待・た・せ」
学校に向かっていた俺の背中にやたら軽いものが衝突する。さらに首に何かが絡み付いてきて締め付られた。
「……ぐ! こら! 急にしがみ付くな!」
「えーだって予告すると避けるんだもん」
甘えた声が耳をくすぐる。全身に鳥肌が立ち、反射的に腕を振りほどいた。
「あっいたぁーい。もう、いつも乱暴なんだから」
勢いよく振り向くと予想通りクラスメイトの東園慈ゆうきが無意味に堂々と立っていた。
「ユキ、ダーリンと呼ぶな。大体お前は男だろうが!」
東園慈ゆうき。彼はれっきとした男である。もっとも見た目はほとんど女なのだ。髪は長く艶やかで全体的に線が細く顔は正統派美少女。
「言っても無駄やでテイリ」
ユキの後ろにもう一人学生が立っている、睦月小海だ。彼女の見た目はほとんど美少年である。川原学園では女子生徒もスラックスをはいているので、二人を知らない人は確実に性別を間違える。実際、彼らは同性から告白された経験がある。中には同性でも構わないから付き合ってくれという奴もいて、苦労しているらしい。
「そいつしつこいんやから」
その科白が聞こえる前に俺は早足で逃げ出していた。あまり人と関わりたくないのだ。二人には少しだけ感謝しているが付き合いきれない。しばらくの間、二人の言葉だけは俺を追いかけてくる。
「もう、怒りっぽいんだから」
「ユキ、そんな言い方やからテイリが怒るんやで」
「あれ? 創司郎君、どうしたの?」机に座るなり声をかけてきたのは隣の席に座っている佐川真羅だ。真羅はひょいっと首を傾げている。ユキ程美形ではないのだが仕草が妙に少女っぽい。ユキは意識的に少女のふりをしているのでよく観察すれば違和感が見え隠れする。しかし、真羅の場合ごく自然な動作の中に少女っぽさが見え隠れするので違和感がない。俺はどちらかといえばユキや小海より真羅に親近感を抱いている。
「別にどうもしてないけど」
「そう? なんか顔色が悪いけど」
そういえばなんだか気分が悪いような。少し熱もあるかな。自覚を持つと急にフラフラしてきた。
「保健室行って来たら」
「いや、でもそんなに体調悪いわけじゃないし」
「行った方がいいよ。授業さぼれるし」
確かに一時限目くらいはさぼれるな。たまにはサボタージュも悪くない。
「……そうだな、行ってくる」
「ん、先生には言っておくよ。いってらっしゃい」
もうすぐHRが始まる時間だとゆうのに廊下にはまだ生徒達がたむろしていた。中にはこちらを指差して笑う奴もいたが無視して通り過ぎる。通りすぎ様に『気取りやがって』『へんなやつ』『むかつく』などなど、聞きなれた罵詈雑言が聞こえた。もちろん無視して一階に下りる
踊り場に見慣れた人影が二つあった。小海とユキだ。また飛びつかれるかと体に力が入った
「テイリ、忘れ物か?」と小海がユキの首根っこを掴みながら言った。
「いや、保健室に行ってくる」
「ちょっと! なんで掴むのよ!」ジタバタ足掻きつつユキが不平を叫ぶ。
「掴まんとテイリに抱きつくやろ」おもしろくなさそうに小海が言う。
「もしかして」ユキは手を組んで頬に当てた。
「やきもち?」
「違う!」悲鳴に近い声をだす小海。俺は二人の横をすり抜けた。二人に付き合っていたら日が暮れる。
一階には教室がないおかげで誰もいなかった。一階にあるのは用務員室、今は使われていない調理室、倉庫、視聴覚室そして保健室である。保健室は廊下の突き当たりより少し前にあり突き当たりを右手に曲がると用務員室がある。どちらも階段からは死角になっていて生徒には保健室があるのを知らない者も少なくない。校医もあまり保健室に寄り付かないので保健室は大抵無人だ。つまり、勝手に入って勝手にベッドを使っても見咎められる心配はないのだ。逢引に使う兵もいるらしいが、俺には縁の無い話である。
俺は保健室の横開きのドアを開けて一歩踏み込んだ。その瞬間、誰かの慌てた足音が聞こえたような気がする。俺はふりかえろうとしたが無理だった。背中から冷たい感触がせり上がり膝は震え力が入らない、足が滑る。意識が遠のく。
(何だ? これは)背中からトクトク熱い液体が流れていく。
(そうか)強烈な喪失感に苛まれながら俺は理解した。
(これが死か)彼女もこんなふうに死んで逝ったのだろか。俺は意識が途切れるまで彼女のことを考え続けた。
「こんな所かな」朝からの経緯をレミアに説明し終わり、閉じていた目を開く。目の前にいた筈のレミアがいない。視線を横に飛ばす予想通りレミアが木製の長椅子に座り、つまらなそうに唇を尖らせていた。
「レミア、俺の話聞いてた?」
「えっあっ、ごめんなさい。独り言だと思ってまし……ぷぎゃ!」
レミアは慌てて立ち上がろうとして前のめりに倒れた。
「いったぁーい」
自然にため息がでた。こいつは本当に死に神なのか。
「まず問題はこのナイフだな」
蹲ったまま、額を撫でるレミアをあえて無視して死体から生えたナイフを仔細に観察する。柄は黒いプラスチック、刃は体の中にめり込んでいて確認できない。
ごく普通のナイフだ。手掛かりになりそうもない。
「少なくとも俺の知る限りでは俺が死ぬことで得をする人間はいない」
「でも殺されていますし……あれ? それじゃあ、そもそも殺される理由が無いですね。だったら創ちゃんを殺さなかった筈で……うーん」
「誰も物理的な意味で得をしないのなら、精神的に得をする奴が犯人だ」
「えっと、精神的ですか? 誰かに恨まれているとか?」
「そう、可能性は大きいだろうね」特に俺の場合、覚えの無い恨みをよく買ってしまう。身から出た錆びだから文句は言えないが。
「あと、犯人はここの生徒だろうね。部外者は簡単に入れないし、計画制があるのに行動が稚拙だ」保健室の扉は開いたまま、凶器すら持ち返っていない。これでは警察に捕まえて下さいと言っているようなものだ。
「行動が稚拙なのは分かりますけど、だからといって生徒が犯人だとは限らないと思いますけど」
「じゃあ、少しまとめてみようか。犯人は俺に恨みがあり、子供で部外者ではない可能性が高いから、おそらく生徒」
「あっ成るほど」レミアはパチパチ拍手した。問題はこれからである。なにせ容疑者は三百人余り、一人一人確認している暇は無い。まずは的を絞ろう。いやまて、犯人はまだ学校にいるのか? 違うそれは些末な疑問だ。何が引っ掛かる。重要なのは的を絞ることだ。フィールドワークが必要なんだ。
「そうか」死体だ。俺の死体を発見されたら警察が来て調査をし難くなる。校医も日に一度は保健室に来るからこのままでは確実に発見されるだろう。
「レミア、死体をどうにか出来ないか」
レミアは俺の隣にしゃがみこんで俺と死体を交互に観察した。
「どうにか?」
「しばらく隠して置きたいんだ。警察に通報されたら都合が悪いから」
「ああ、可能ですよ」何のことは無いというようにレミアはあっさり返答した。
「ほんとに? いいのか?」
流石にやばいのではないだろうか。死体の発見が遅れれば警察の捜査に支障がでるかもしれない。警察の捜査がどうなろうと俺の知ったことではないが、死に神はどうなのだろう。
俺の心配をよそにレミアは妙に溌剌と答えた。
「はい、問題ありません。死体はこちらで処分しておきます」
レミアはどこからともなく携帯電話のような物を取り出して何処かにかけた。
「あっ部長ですか? レミアですぅ。はいはい、死体の処理をお願いしたいんですけどぉ……えーまだ帰れないんですよぉー……だってえ、創ちゃんがまだ駄目だって……創ちゃん意外と奥手で、もう少し時間を……もう、イジワル、知らない」
レミアの科白と部長の科白はかみ合っていない。盗み聞きするつもりは無いのに部長のどなり声がもれ聞こえてくる。やはり、レミアには相当迷惑をかけてしまっているようだ。
「許可が取れましたよ。少し時間が掛かりますけど」
「ありがとう」
今はレミアの心配をしてもしょうがない。犯人を見つけて彼女の好意に応えよう。
「次は職員室かな」これ以上ここに居ても必要な情報は得られない。職員室にいけば生徒名簿も見られるし犯人の特定をしやすくなるだろう。職員室は二階にある。レミアは当たり前のように俺と腕を組んで歩いた。職員室の前までくると、扉を開けずに職員室に入る、変な気分だまだ一時限目の最中だからだろう、職員室には三人しかいない。二人は俺の学年を担当している先生でもう一人は校医である。俺が入った扉から見て正面の窓際に座っているのが保健の先生の平見彩加。髪は俺やレミアと同じ黒髪の長髪、女性にしては背が高くて俺と同じくらい。
「あの先生が気になるんですか?」
「別に」平見から視線をはずして他の二人を観察する。平見の正面に座っているのは数学教師高田善郎だ。唇の厚い典型的な親父顔なのに性格はクールな紳士で女子からは伯爵先生などと呼ばれ信頼されている。その高田の右側にいるのが坂下吾郎。見かけは青年実業家風なのだが性格に問題があるおかげで、生徒からはエロ爺と呼ばれていた。本人はこの渾名に憤慨していたが、女子ばかりか美少年にさえ粘っこい視線でじろじろ眺める癖を治さないかぎり不名誉な渾名で呼ばれ続けるだろう。
「あれ? この人達教師なんですよね」
「そうだけど」
「どうしてみなさん創ちゃんと同じ制服なんですか」
「この学校じゃあ教師も学生と同じ制服を着ているんだ」何年か前、女性の生徒会長と校長が制服について激しく議論して殴り合いにまで発展した。生徒会長と校長の剣幕に辟易した当時の生徒会役員と教師は勝手に解決策を発案し、なだめすかして無理やり両者を納得させた。その時どうゆう経緯をたどったのか知らないが女子も男子もさらに教師も同じ制服を着ている。だからこの学校では女子もスラックスをはいていて大半の男子は涙を飲んでいるのだ。
「へー、変な学校ですね」
「自由な校風と言ってほしいな」
「ああ、物は言いようですね」的確な表現だ。顔に似合わず口が悪いな。いや、顔と性格が合致している人間の方が珍しいのかもしれない。高田などはその典型例だろう。
「今日はあの子の命日ですね」高田が窓の外を眺めながら感慨深く呟いた。
「はた迷惑な生徒のね」応じたのは坂下だ。
「はは、坂下先生は災難でしたね」
「災難なんてものじゃありませんよ」
彼女が自殺した当時、どこからか教師のセクハラが原因だと囁かれた。根も葉もないセンセーショナルな噂に狂喜乱舞したマスコミはすぐさま人の迷惑を省みない取材攻勢をかけて生徒から評判の悪い教師をあぶり出し、自殺の元凶と報じた。その教師が坂下だ。俺から言わせれば坂下にそんな度胸は無い。そもそも自殺したあの子はかなりのはねっ返りだから坂下ごときにセクハラされたぐらいで自殺するはずがない。案の定、マスコミの商魂逞しい取材は実を結ばず。坂下はマスコミから放逐された。
「まったく、あれは天災だ。わたしがセクハラなんてするわけないのに、毎日家に押しかけて来て、近所からはあれ以来白い目で見られて……」
「白い目で見られたのは、坂下さんの日頃の行いが悪いからでは」坂下の留まるところを知らない口舌を遮ったのは平見だ。彼女は女性特有の冷たい目で坂下を睨んでいる。
「なっ! わたしは常日頃から規則正しい生活を」まくしたててはいるが、坂下は完全に鼻白み、戦う前から敗残兵を思わせる悲壮な表情を顔に張り付かせていた。かなり痛々しい。
「生徒の体を視線で嘗め回すのが規則正しい生活ですか?」
「なっなんて破廉恥な! わたしはただ成長期の子供たちが発育不良になっていないか心配だから暖かい目で見守っているだけだ!」
「では男子生徒の成長も見守って下さい」平見は鼻で笑い飛ばした。
俺は坂下の目に危険な濁りを見た。底光りする眼光は坂下の嫌らしい性質をよく現している。
「ふん、あなたに言われたくありませんよ。自殺したあなたの妹は女と付き合っていたじゃないですか。あなただって昔は……」
「不謹慎ですね。坂下先生」
穏やかな声が職員室に響いた。声の主、高田はまだぼんやりと窓越しの空を見上げている。
「白鳥や悲しからずや空の青、海の青にも染まず漂う。白鳥のように染まらない白さがあれば誰も白い目で見ませんよ」高田は穏やかな表情のまま辛辣な科白を浴びせかけた。彼は毒舌家なのだ。大学時代には川原のコブラと異名を誇っていたらしい。
坂下はしばらく何かを言おうと口をパクパクさせてから、あきらめたのか書類仕事に戻った無理も無い、高田の毒舌は教育委員長ですらひれ伏すのだから。
「なんかピリピリしてません?」
「いつものことだよ」 特にこの三人はね。口には出さずにぼやく。あの自殺事件以来、教師はみんなギスギスしていたが、この三人は事件が起こる前から犬猿の仲だ。互いが互いの過去を毛嫌いしている。正確には過去の噂を嫌いあっているのだが噂の真偽は定かではない。
「嘘か本当か分からない噂でお互い嫌いあってるんですか?」
「まあね、思い込みの激しい人達だし……って俺喋っていたか?」
「うふふ、秘密です」
レミアは唇に右手の人指し指をあてた。子供っぽい仕草なのに違和感はない。
「まあいいけど、次にいこう」
「もういいんですか?」
先生たちが喧嘩している間に調べ物は終わった。収穫はない、長居は無用だ。
一時限目の終わりを告げるチャイムが夏の高すぎる空をどこまでも駆け上る。屋上には誰も居ない。立ち入り禁止なのだから当たり前である。うら寂しい風が冷たいコンクリートを撫でて枯れ葉を舞い上がらせた。シルフィの気まぐれか、枯れ葉はくるくる回りながら高く上る。俺ももうすぐ高く上るのだろう、沈む可能性もあるが。
「手がかり、ありませんねぇ」
「しかたないさ」小説の世界であればヒントが用意されているけれど、現実に起こる事件では都合の良いヒントなど無い。明智小五郎や犀川創平は存在出来ないのだ。
「ぼちぼちやるしかない」俺は貯水槽に背中を預けて正面に視線を投げた。視線の先には無駄に広いグラウンド、正門の向こうには大学部の研究棟が肩を寄せ合うように無言で立っていた川原学園は巷で有名なエレベータ式の学校で、幼稚園から大学まで一貫した教育を売りにしている。俺も順調にいけば大学部に通っていたはずだ。
「寂しいですか?」甘え声が耳をくすぐった。レミアは必要以上に体を寄せてきて肩に頭を置いた。照れくさい、邪険に振り払うのも悪いし、しかたないので好きにさせておこう。経験上こうゆう時は女性に逆らっても無駄だとよく知っている。
「どうかな」俺には寂しいなんて感情は理解できない。優しい両親と掛け替えのない妹を亡くしたあの日ですら寂しいとは感じなかった。
「友達はいないし親戚には縁を切られたし、寂しいなんて感じる理由がないな」
「え? 友達はいるじゃないですか」
「ユキ達がか? 友達じゃないよ」
「でも、仲良いでしょ」レミアは肩から頭を上げて目をこちらに向けた。我ながら情けないことに動揺してしまう。彼女の瞳は濡れていた。
「君が泣く必要は無いんじゃないかな」
「わたし、泣いてますか?」彼女の瞳から一滴だけ涙がこぼれた。涙の理由が理解できない。このタイミングで泣く理由は無いはずだ。しかも今のレミアには強烈な違和感がある。
「泣いてるよ」レミアの頬を伝う涙を人差し指ですくう。
「あ、泣いてますね」
再びの違和感はなかなか消えない。彼女の目に吸い取られるような錯覚。
「どうかしましたか?」
レミアのはにかむ笑顔が目の前にあった。慌てて視線を外す。顔が赤いのを自覚して、出来るだけレミアから顔を反らした。
「別に、次はどうするか考えてだけだよ」
誤魔化しつつ、レミアから離れて屋上の端へゆっくり歩く。高鳴る心臓を無理やり落ち着かせて思索に集中する。手掛かりがあるとすれば何処にあるだろう。
「創ちゃんは考え過ぎです」声はすぐ近くから聞こえた。振り向くとレミアがくるくる回っている。独特のステップを踏んでいて、踊っているように見えた。二回、三回、四回、廻り続けて目を回し、ぺたんと、尻餅をつく。間抜けだ。
「酷いなー笑わないで下さい」
知らず知らず口元が緩んでいた。悪いと思いつつ笑いの衝動が口元から漏れてしまう。レミアはごく自然に手を差し出した。ほおっておく訳にもいかないので手を握る。ドキリとした。手がすごく小さく華奢で強く握ると壊れそうなのだ。
そういえば妹が小さかった頃はよく手を繋いでいた。妹の手も同じような感触だった。女の子はいつまでも、こんな頼りない手のままなのだろうか。
「もう、見つめないで下さい。惚れちゃいますよ」
「誰が誰に?」と冷たい声で応じる。
「創ちゃんが、わたしに」
立ち上りかけていたレミアの手を離す。バランスを崩したレミアは再び派手な尻餅をついた
「いったぁーい! ちょっと今のは酷すぎます!」
俺は抗議の声を上げるレミアを完璧に黙殺して屋上の非常階段へ足を向けた。
「あっ! 創ちゃん置いてかないで下さい」
後ろでガサコソ音がしたかとおもうと鈍い音が鼓膜を揺さぶった悲鳴も聞こえたような気がしたが無視しておこう。
「ああ! 創ちゃん待って! あっでも、もしかして、これは放置プレイ? 困っちゃうなーわたし特殊な趣味はないし、でも創ちゃんがどうしてもって言うなら……ああ! ごめんなさい! 冗談です! 待って下さい!」
レミアの戯言を無視して非常階段をおりる。ほんの一時とはいえレミアにドキリとさせられた事を情けなく思いながら。
非常階段を下りた所は校舎と体育館を結ぶ渡り廊下だ。渡り廊下の左右には一定の間隔で楓が何本も植えられていた。秋になると一斉に真紅に染まるので生徒の間ではひそかにクリムゾンロードと呼ばれている。体育館では授業が行われているのだろう床を打つ規則的な音が聞こえてきた。突然、左半身が重くなる。
「もう、せっかちなんだから、ちょっとくらい待っていてくれても良いじゃないですか」
見やるとレミアが唇を尖らせて腕に絡み付いていた。ワザと体重をかけているのだろうが、もともと大して体重がないのでさほど重くはない。じゃれつくレミアをほとんど引きずりながら、体育館の扉を文字通り通り過ぎる。
川原学園の体育館はとてつもなくでかい。バスケットコートがフルコートで六つあるうえに控え室、更衣室、シャワー室、アスレチックジムなど、多種多様な施設が収められている。この学校は名門校とはいえ毎年定員割れを起しているはずなのに、財力だけは有り余っているらしく必要な設備には金を惜しまない。なんでも有力なスポンサーがついているらしい。ユキの話では理事長がスポンサーの弱みを握り、無理やり寄付させているのだそうだ。
「あのーなんだか雰囲気悪くありませんか?」
レミアが指差した方向では女子が二人、対峙して睨み合っていたいちようバスケットの試合中である様だが二人の雰囲気を察知して場の空気が凍り付き、試合が中断されている。
「バスケ部の道乃と朔雅だな」
短髪で気の強そうなのが道乃氷見だ。そしてもう一方、お淑やかお嬢様風の女子が朔雅舞である。二人はお世辞にも中がいいとは言えない間柄で、なにかと理由を見つけては衝突している。俺と学年は同じで二年女子は例外なく道乃派か朔雅派だ。どうして女は群れたがるのだろう。男の俺には理解し難い。
「女の子にはいろいろあるんですよ」とレミアが苦笑い混じりに答えてくれた。
「今のはなんなのかしら朔雅さん」
道乃が低い声で呻くように言った。声が震えているのは武者ぶるいだろうか。
「何の事かしら?」朔雅も笑顔の中に、猛禽類の獰猛さをちらつかせながら答えた。
「わたくしの気のせいだと良いのだけれど、耳元で何か囁かれましたか?」
「ええ、囁きましたわ。あなたの小さすぎるお耳に」
「なんと囁かれました?」
道乃の拳が震えていた。声は地獄の亡者並みに低いが、口調はあくまで丁寧だ。
「今日はあなたの彼女の命日ですわね」
「……」
「……」
二人の間で空気が悲鳴を上げていた。心なしかピシピシと音がする。コートの隅で若い体育教師が天を見上げていた。二人を止めるつもりはないのだろう。賢明な判断である、彼女達に口で勝てる大人はこの学校にはいない。下手に手をだせば火傷する。
「何度説明すればあなたのスポンジ頭は理解してくれるのかしら。わたしには今も昔も彼女なんておりませんわ」
「あら、謙遜しなくてよろしいのよ。愛は性別を超えるのですから歴史上、同性愛は珍しいものではありませんし」
そうゆう問題か? ギャラリーの顔に疑問符が浮かぶ。
「けんそん? はっ! 謙遜されているのはあなたの方でしょうに」
「何のことかしら」
相変わらず道乃の声は墓穴から這い上がるゾンビの如く低いものの頬に赤みが差していた。
「ちゃあんと知ってるのよわたしは。朔雅さん、あなた、野坂先生と付き合ってるんでしょ」
わざとらしい丁寧な言葉はこのへんで限度なのだろう。急に道乃の言葉使いが荒っぽくなった。
「だっ誰があんなの……」
おおっ。案外純情なんだな。朔雅は耳まで赤く染めて言いよどむ
「あの人、教師と付き合ってるんですか?」レミアがパチパチ瞬きしながら聞いてくる。
「まあね」知らぬは本人達だけ。朔雅と野坂の交際は周知の事実だ。
「PTAとか教育委員会は何も言わないんですか?」レミアは心底不思議そうに小首を傾げた
「言われてはいるらしいけど、馬耳東風で誰も気にしてないんだ」
理事長から教師まで、一部の例外を除き人の恋愛沙汰に口出しする野暮な奴はいない。
「ほんとに変わった学校ですねぇー」
レミアはコクコク頷いている。おそらく納得したというジェスチャーなのだろう。
「照れなくてもいいのよ。みんな知ってるんだから」
「なっ……なっ……」朔雅は手を戦慄かせた。
「舞だって、知ってるのよ、わたしは。大学部の準教授と付き合ってるそうじゃない」
「ええ、そうよ。何が悪いの」せせら笑う道乃。大した度胸である。
「世間知らずの準教授を誑かして、何を企んでんだか」
道乃はあらあらと呟き、蔑みを込めた眼差しで朔雅を睨みつけた
「わたしは純粋に恋をしているの。邪推しないでくれる」
「純粋な恋? 三十過ぎのおっさんと? ふざけないで!」
二人の口喧嘩は止まる所を知らない。まあ、ほおっておいても殴り合いには発展しないから高みの見物をしていれば良いのだ。
「行くよレミア。時間ないし」
「あっ、はーい」
今日は見物している時間などない。俺は体育館内を一通りチェックした。
「駄目だな、なにもない」二時限目の終わりを告げるチャイムが壁に反響して大きく響き渡る二階の控え室にある窓からコートを見下ろすとさすがに抗論は終結していた。ぞろぞろ体育館から退場していく。さてどうしたものか、これ以上闇雲に手掛かりを探しても無駄だろうか。
「レミア」
「はい? 何ですか?」疲れたのだろう。レミアは安っぽいパイプ椅子に座り、縦長の机に上半身を乗せて伸びていた。俺の声に反応して突っ伏していた顔を上げる。額に赤い跡がついていて見事な間抜け顔だ。女の子としてのプライドはないのだろうか。
「どうかな? 意見はない?」
「うーん、難しいですね」レミアの眉間に皺がよる。
「地獄研修の時に聞いたアドバイスなんですけど、迷った時には最初から考え直せって。だから一度保健室に戻ってみるとか」
アドバイスより冒頭の四文字が頭に引っ掛かる。
「地獄研修?」
「はい、死に神正規課程のプログラムです。大変なんですよ。地獄の最下層から自力で脱出して、門を塞ぐ閻魔大王とさしで勝負をするんです。あの時は死ぬかと思いましたよ」
「ああ、そう」
レミアは笑いながら話していたが、目が笑っていない。深く追求するのはやめておこう。
「じゃあ保健室に戻ってみるか」
「はい」
三時限目のチャイムが心なし不満げに鳴る。
「だからぁ、創ちゃんは考えすぎなんですよ」
保健室に向かい廊下を歩いていると何人かサボタージュ中の生徒とすれ違った。みんな授業を受けているときより生き生きしている
「同僚のシャオちゃんなんて考える前に動くんですよ?」
学生の本分は勉強だ。それは俺の信念でもある。
「でも困っちゃうんですよね。シャオちゃん。行動派なのは好感もてるんですけどぉ」
でも高校に進学してから信念が揺らぎ始めた。勉強して俺はいったい何をするのだ? 目標もなく勉強してどうなるのだ?
「この前なんてオフィスで『秘技乱れ判子打ちー!』なんて叫んでたから、なにしてるのかなーてっ覗きにいったんですよ」
ありがちな悩みだと自覚していた。自らをあざ笑いもした。しかし、虚無感を振り払えなかった。
「なにしてたと思います? 始末書に判子押してたんです。二百枚ぐらいタタタタタって」
そんな時、立て続けに事件が起きて、もう何もかもがどうでもよくなった。
「鬼気迫る迫力でした。なにしたのか聞けなかったんですよー怖くて。きっと、前もって始末書を用意してたんでしょうねー。今日あたり何をしでかしたのか判明すると思うんですけど」
考え事をしていたせいで保健室を通り過ぎていた。
「きっと帰ったら、わたしも後始末に協力させられますよ」
用務員室の前に何かが落ちている。しゃがんで拾う。
「なんですか? それ」
群青色で長方形の物体。俺も同じ物を持っている。二年生専用の生徒手帳だ。レミアが肩越しに覗きこんできた。背中に垂れている髪に手を置いたので髪が引っ張られて痛い。
「ふーん、誰が落としたんでしょうね」
用務員室に用のある生徒はいないはずだ。ならこれは、もしかして。
「犯人かな」待ち伏せされていたのか? どうして保健室に来ると予想出来た? 違うな予想したんじゃない。知っていたんだ。
「犯人が落としたと仮定しよう。その場合、犯人は俺を待ち伏せしていたんだろう。どうして待ち伏せできたのか? 答えは一つだね。俺のクラスにいた奴なら先回りして待ち伏せ出来ただろ」
「じゃあ、犯人は創ちゃんのクラスメイトなんですか?」
「おそらくね」正直、自信がない。他のクラスから遊びに来ていた生徒も居ただろうから可能性は半々くらいか。
「一歩前進ですね」と嬉しそうにレミアが言う。
「五里霧中だよ」手掛かりが無いよりはましだけど、手帳が犯人の物だと確定したわけではないから前進しているとは限らないのだ。
「まあしかたないさ」
「ぼちぼちやるしかないですね」レミアが胸を張って言う。
「あれ?」保健室のドアが閉まっていた。出る時に閉めた覚えはない。
「誰かいるんでしょうか?」
「さあね」逢引かサボりか、今の時間帯なら平見先生ではないだろう。中から物音は聞こえてこない。レミアはさっさと保健室に入ってしまった。
「あー!」レミアの間延びした悲鳴が上がる。俺は反射的に保健室に飛び込んだ。
「もうまだ回収局きてない。いつも仕事が遅いんだから」
保健室の中にはまだ死体があった。
「レミア」
「はい?」
「死体を動かしたのか?」
「え? あれ? そういえば」
レミアは改めて死体を見た。死体は椅子に座っていた。上半身をデスクに乗せている。背中から生えたナイフが蛍光灯の光を浴びて無機質に光っている。ここからでは背中しか見えないが、嫌な予感がした。空気が違う。肌がザワザワする。俺は早足で死体に近づいた。
「……平見先生」
予想はしていた。死体は俺ではないと。しかし、頭にジワジワ冷たい液体が広がるような錯覚を感じる。
「あれ? ほんとだ。さっきの先生ですね」
どうゆうことだ? 先生も殺されたのか? 脳裏にある考えが閃いた。さっと周囲に視線を飛ばす。やっぱりね。ベッドの陰に隠れて震える人影。
「先生?」
人影はビクリと震えた。恐る恐るとゆう感じでこちらに顔を向ける。
「わたしが……見えるの?」
「見えますよ。お仲間ですから」俺の科白に戸惑って彼女の視線がたゆたう。いつもの冷たい雰囲気は消えていて、ただの弱い女にしか見えなかった。
「じゃあ、君達も?」
俺はこくりと頷く。
「平見先生と同じ幽霊です」




