政略離婚のお話を
お政は乳飲み子を腕に抱き、御簾をそっと上げた。
それほど広くない部屋の中央で、殿があぐらをかいて脇息に肘をつき、思案げな表情をしていた。
すでに漆黒の帳がおりた外の空気は冷たく澄み、しんと張りつめている。虫の音も絶え、人々の夢が踊る丑三つ時。静寂の中に低い声が落ちる。
「お政」
「殿」
殿は「こんな時刻に何用だ」とは問わず、お政もまた用を告げることなく、二人はしばし黙って見つめ合った。
ややあって、殿はいつものように無駄な動きひとつなく立ち、その拍子に擦れた畳の香りがふわとたちのぼる。
「お政、近う」
お政が側に侍ると、殿は腕の中のややに静かに顔を寄せた。お政の体と殿の体はどこも触れ合ってなどいないというのに、殿の体温を感じる。それほどに近い距離のせいか、殿の着物に焚き染められた香の匂いが鼻梁をくすぐり、お政の身が震えた。
「よう眠っておるな」
耳元を殿の低い声がそっと撫でる。
きつく結われた髷からは髪結いの油が柔らかに香る。
殿の香りだ。それはお政がここへ嫁いで来たときから変わらず、常にお政を包み込んできた。どうしてか、こんなときに限って、匂いばかりが気になるものだ。
「ほんに」
ややは母の腕の中で本当に気持ち良さそうに眠っていた。
すやすやと眠る姿はこの世の理不尽も穢れも知らぬ、清らかさそのもの。
こうして暖かな腕のなかで大切に大切に育まれてゆくはずの命だ。
「どう、なるのでございましょうか」
思わず不安が口からこぼれ落ちた。
口にはすまいと決めてここへ来たというのに。殿の側にいると、どうしてかいつもお政の最奥の、もっとも弱い部分ばかりが姿を見せる。
殿はややの頬を指の背でそっと撫ぜた。赤子ならではのもちりとした頬が殿の指で柔らかに波打つ。
ややを起こさぬようにという心遣いにお政までもが嬉しくなった。
「晃平殿とて自らの妹の命を危険には晒すまい。心配いらぬ」
お政は己の身を案じているのではなかった。
「この子は」
お政はそう呟いた。
殿はその黒い瞳でただただ、いとおしげに子を見つめた。
「せめて女子であったならな」
待望のお世継ぎだとあれほど喜んだ日からまだひと月もたたぬというのに、二人の胸には別の願いが生まれている。
せめて女子であったなら、命までは奪われぬであろうに、と。
『でかしたぞ、お政』
――あの日の殿は、いつになく顔をほころばせておられたのに。
「甲斐なきことよの」
殿のお言葉に頷くことしかできぬ非力な己を呪うてみても、何ひとつ変わらぬこの世のなんと非情なことか。
「そちは子を連れ、峠を抜けて行け。友貞殿がおる。道中のことはあの男に任せておればよい」
「殿は」
「小倉の城へ」
わかりきったことを聞きたもうな、とその黒い瞳が言う。
「今生の別れとなろう」
わかっていた。
わかっていたが、その言葉を殿の口から聞くのは。
お政の「泣かぬ」という覚悟など簡単に打ち砕かれてしまう。
胸がひどく痛い。
お政は帯に手を軽く差し入れ、低く喘いだ。
「お政。苦しいのか。待て、帯を緩めてやる」
殿がややをお政の腕からそっと抱えあげ、片手で帯を緩めにかかる。その動作は幾度となく味わった甘美な夜のそれとは異なって、ただひたすらに、お政の呼吸を楽にするためだけのものだ。
ふたりは政略結婚であった。
当時殿は二十六、お政が十五。
お政は実家の当主であった兄の命で送り込まれた小娘だった。
しかし殿はお政を丁重に扱った。
北の方として、それはそれは大切に。
その睦まじさは城下で人の口にのぼるほど。
しかしそれも今日まで。
兄が殿と所縁の深い彼の地に攻めこむことを決めたから。そしてその知らせがもたらされたのはたった半刻ほど前のこと。
すでに彼の地は兄の軍勢に囲まれ、数日のうちには落ちるだろう。
――蛇のような人。
お政は兄をそう評価していた。
執念深く這うように動き、敵を絡めとって丸呑みにする。
その権力の下で守られていたときから、圧倒的な強さと才は狂気と背中合わせなのだと思い知らされてきた。
だがこの情況にあってなお殿は旧友を見捨てず、命運を共にする決断をなされた。それは同時に、お政を糧とする兄と殿との同盟が破られることを意味する。
兄は殿のそんな決断を予測していた。その上でお政のもとに友貞という自身の腹心を送り込んだ。
『即刻宗善と離縁し、国へ戻れ』
お政はただ、受け入れねばならぬ。
同盟の道具は、その同盟が崩れたときには引かねばならぬ。
お政に否やを唱える権利など、もとより与えられてはいないのだ。
「容易いことと思うていた」
殿の声は静かだった。
左肘を脇息にのせ、右膝だけを立てて、その膝の上に右肘をおく。殿のいつもの姿。そうして髷を撫でる仕草が、お政は好きだった。目を閉じるだけで瞼の裏にはその姿がありありと浮かぶほどに。
だが今はお政のすぐそばでややを腕に抱え込み、いとおしそうに小さな寝顔をのぞきこむ。
「手放すことがかくも難しいとはな」
まるで朝餉の話でもしているような、穏やかな声だ。
「そなたはまこと、よき妻であった」
その静けさが心を穿つ。
「もったいなきお言葉にござります」
「よき母でもあった」
「もったいのう……」
言葉が続かぬ。
この戦国の世に武家に生まれた女。同盟の道具となる覚悟は、幼い頃よりできていた。望まぬ婚姻を結ぶこともわかっていた。
だが、誰が知っていただろう。
同盟の糧がその相手に恋をするなど。
誰が知っていただろう。
その同盟は、いずれ散るのだと。
――泣いてはならぬ。泣いては。
双眸にあふれた涙を何とかして身の内に押し止めようと、お政はその眼に力をこめた。
その瞬間、香りが強くなった。ややを抱いているのとは反対の手で、殿がお政の頬を撫でたせいだった。
赤子より随分と弾力の劣る肌を、殿の大きな手が包み込む。ややとは違いお政は脆くはないし眠ってもいない。だからもう少し強く触れてもよいというのに、殿は先程ややの頬を撫でたのと同じように、慈しむようなやわらかさでお政に触れた。
決して忘れぬようにその手の温もりを胸に刻んでおこうと、お政は目を閉じた。
「『強くあらねばならぬ』と言っておったな」
殿の声が響く。
それはお政がかつて口にした言葉だ。
『かまわぬ。我が腕のなかに有る限り、そなたを守るのはこの宗善の役目。強くあらずともよい。幼き子よ』
婚姻の儀が終わり、内心の恐れを押し殺して閨に上がったお政を、殿はそう言ってただ優しく抱き締めた。
その後時間をかけて夫婦になった。
お政は三人の子を宿し、先般ようやく後継ぎが成ったところであった。
――殿のお側に。
頭の奥で声が響く。
だが、さすれば誰が子を守るのだと、別の声が囁く。
幼きふたりの娘と生まれたばかりの息子、三人の子らの運命は己にかかっている。
さきほど送られてきた使者の言葉どおり兄のもとに身を寄せれば、娘の命は守られよう。
――しかし、末の子は。
殿の腕のなかですやすやと眠るややは、おそらく生き長らえることは許されまい。あの兄が赦すとは思えない。
きっと奪われるのだ。
腹に宿ったときから、どれほどの思いで誕生を待ちわびたか。
――まだ名もつけておらぬのに。
拾いの儀まで名はつけぬ習わしだった。
乳母は使わず自分の乳で育ててきた。
子が夜中に咳をひとつ落とせば、お政は飛び起きた。
それなのに、この御子を奪われるのか。
ただの子ではない。
愛する人の子で、家をつぐ大切な跡取りで、そして何より、腹を痛めて自らが体より産み落とした宝だというのに。
――奪われてなるものか。奪われるくらいなら、いっそこの手で。
「殿のお側に」
堪えきれなかった涙が一筋頬を伝った。
「世迷い言を」
「いいえ、わたしは迷うてなどおりません」
「どのみちそなたは連れ戻されるのだ。最期まで行動を共にすれば、追求も厳しくなろう」
「しかし、わたくしは殿のお側にありとうございます。わたくしとて武家の娘。殿の御身に何かあれば、私も兄より与えられたこの懐刀にて追い腹を掻き切って……」
「ならぬっ!」
殿が声を荒らげ、どんと足を打ちならした。
しかしすぐにそれを悔いたように声を落とす。
「お政よ。遠からずこの狂った戦乱のときは終わり、泰平の世がやって来る。そなたと娘たちには、その新しき時代をしかと見届けてほしい。私がこの生涯をかけ目指した世界を生きるのだ」
――殿のいない世など。
だが、殿と同じ目をした娘がいる。
殿と同じ唇をした娘もいる。
その娘たちに父のことを語ってやれるのは己だけ。この血を次の世代に継ぐことが、己にできる唯一のことではないのか。たとえ殿と息子を失ったとしても。
心が揺れる。
「お政。そちはほんによき娘じゃ。見目もよく、まだ若い。良縁もあろう」
「おぞましきこと。望まぬ縁など」
「しかし我らの婚姻とて、もとはといえば政略。それでも子をなし穏やかな日を過ごしてきたではないか。同じことよ」
「それは、殿が――」
殿がひたすらにお政を慈しんでくれたから。
殿が。
殿だったから。
殿でなければ。
「心からお慕いしておりました」
頬を熱い涙が幾筋もたどる。
「ここへきた、あの日から」
――命が消える、そのときまで。
この先、殿以外の人を愛することはないだろう。
「『今宵の友は明日の敵』と言われる戦国の世にあって、心から信の置ける者がそばにあったことは、何よりの果報であった。知っておったか。そちの傍でしか眠れぬことを」
このときになって、なんと惨いことをおっしゃるのか。
なんと……
心が熱く、裂けそうに痛い。
『引き裂かれたら、張り裂けまする』
そんな文句から始まる絵巻を読んだことがあった。城下で流行っているらしいと、殿が持ち帰ってくれたものの中にあった。
道ならぬ恋に身を焦がし、引き裂かれそうになって自ら命を断つ恋人たち。
――いまならその気持ち、わからいでか。
お政のこれは道ならぬ恋ではない。身分のそぐわぬ恋でもない。だが、ままならぬのは彼らと同じ。己の運命すべてを他人に握られる心地の悪さは、「武家に生まれた者のさだめ」というひと言で片付けられるようなものではなかった。
「よいな、お政。峠を行け。子らを頼んだぞ」
お政は黙ってうなずいた。
お政に残された道はただひとつ。
ややを背負い、娘の手を引いて山を登る。
『我が腕のなかに有る限り、そなたを守るのはこの宗善の役目。強くあらずともよい。幼き子よ』
――もう、殿の腕の中にはおらぬ。己を守るのは己のみ。強くあらねばならぬ。
やがて開けた場所に出ると、お政は懐刀を取り出した。そして兄から使者として送られた男友貞に渡す。友貞は「心得た」と頷き、黙ってお政の首元に刃を当て、それをゆっくりと後ろに引いた。
友貞は永くお政に惚れていた。
お政はそれに気づかぬふりをしていた。
友貞がその思いを口にすることは終ぞなかった。
「お政殿は御子を道連れにご自害なされました」
国へ戻った友貞は戦の勝利に酔いしれる兄に告げた。
「なにっお政が自害をっ」
「は。こちら遺髪にござります」
男はそう言って黒々とした髪を差し出し、三指をついた。
「ご自害をお止めすることができず」
友貞の手にはお政の懐刀が握られていた。
「そうか。先ほど宗善討ち死にの報を受けたところだ。お政も逝ったか」
「お政殿より、辞世の句をお預かりして御座います」
友貞は兄を見つめ言う。
『散りぬべき
花のほつ枝を
手折りつつ
胸にたぐへて
香たたへゆかむ』
「散る運命にある花の枝を自ら手折り、胸にしかと抱えて、その香りに包まれながら逝くのだ」と、たしかにそれは去りゆく者の歌だった。
だが兄は眉を寄せた。
――これは本当に辞世の句か? 「ままならぬ自分の運命を、この先は自分で決める。さらば」という訣別の歌にも聞こえるが。
友貞の差し出す懐刀を取り、鞘から抜いて光に透かした。刃こぼれはなく、血の染みは見当たらず、まるで新品のように輝いている。
――さては、あやつ生きておるな。
くく、と、口髭の下から笑いがこぼれる。
――生まれてこの方、口ごたえのひとつもしなかったお政がのう。宗善との生活があれを変えたか。
無理に探し出して連れ戻したとて、従順ならざる後家など国の役には立たぬだろう。
――仕方あるまい、捨て置いてやろう。その代わり、決してこの乱世に戻るでないぞ。この目と手の届かぬところで生きてゆけ。人を殺めた者と嘘を吐いた者、いずれ地獄の門で再会できるだろう。さらば、そのときまで。
兄は友貞にその懐刀をやった。
兄もまた、友貞の想いを知る一人であった。
「離縁させ、そちにやろうと思っていたのだが」
友貞は黙って懐刀を受け取り、それを後生大事に胸元にしまいこんだ。
その後、遠く離れた小さな村に子連れの天女が舞い降り、羽衣をはずして田畑を耕して生きたとか。
そしてその傍らに、後れて姿を現した香り高き男がいたとか、いなかったとか。
討ち死にをした武将の遺体が敵兵とすり替えられたものだったという噂の真偽も、もはや確かめる術はない。




