誠実な悪魔と男の夢
嫌気が差していた。仕事ではことあるごとに上司に怒鳴りつけられ、自宅では両親にくどくどと嫌味を言われ、恋人なんかできるはずもなく、友人とも今では離れ離れだ。これといった趣味もなく、休日は大抵寝ているばかり。強いていうなら酒を飲むのは好きだが、いつも飲み過ぎて後悔する。
そんな自分を俯瞰して見ると、とても陰鬱な気分になる。俺はその程度の人間なのだと思い知らされる。負の感情はじわりじわりと広がって、いつしか心の中に染み付いた。それでも明日は常にあるのだ。
俺は今日も、酩酊するほど飲んだくれて、気を失うように眠りにつく。
「おまえが選べる道は、二つの内のどちらかだ。今ここで、契約を結べ」
突如、男が俺に向かってそう言い放った。
辺りは真っ暗で、何も見えない。それなのに、男の姿だけがぼんやりと前方に浮かんでいる。これは夢か。それにしては頭もはっきりしているが。
「一つは、長く険しく、命の危険さえもある茨の道。いくら注意して歩こうとも、無傷で済むことはない。だが、この道を歩ききったならば、それまでの経験や苦労に見合ったものを、おまえに与えてやろう」
肩から足元までを覆うマントを揺らめかせながら、男は言葉を続ける。
「もう一つは、一瞬で終わる道。痛みも、苦しみも、何もない。とても楽な道だ。ただし、こちらを選ぶならば、おまえに代価を支払ってもらう」
男の顔はよく見えないのだが、笑っているような気がした。
「さぁ、選ぶのだ」
どちらかを選ぶなら、楽な道の方がいいに決まっている。そう答えようとしたが、ふと思い留まる。男は、代価を支払えといった。それが何かを聞いていない。いや、そもそもこの男の正体はなんだ。
「あんたは何者なんだ。代価とは何なんだ」
「私が何者かなど、どうでもいいことだ。好きなように呼ぶがいい。代価は選択の後に教えよう。そんなことより、どちらを選ぶのだ」
男はただ選択を迫った。
俺は、この男を悪魔だと思った。この不気味な様相がそう思わせた。もしそれが正しいとしたなら、支払う代価は魂、命に違いない。俺は生きていたい。ちゃんと目を覚ましたい。それに、こいつの言うことが本当なら、生き抜いた後には、俺にも与えられるのだ。
「……俺は茨の道を選ぶ。確かにつらい道なのだろう。けれど、生きるとはそういうものなんだろう?」
希望があった。今の苦しみが報われる日がくるのだと、男が言ったのだから。
「ほう、おまえのような人間が、そちらを選ぶか。ならば、歩ききって見せよ。私は、契約を守ろう」
男がそういった途端に、視界は急に明るくなった。朝日がカーテンの隙間から零れ、俺は目を覚ましたのだ。
それから、一年が経ち、二年が経ち……するすると年月は過ぎていった。あの奇妙な夢を見てからもう二十年が経つ。だが、俺は相変わらずの生活を続けている。
何年か前までは、あの男が言うように、茨の道を歩ききれば幸せがあるのだと夢見ていた。だが、実際には俺の想像した幸せはそこにはなかった。やはりあの男は悪魔で、俺を騙したのかとも思った。
けれど、最近になって、そうじゃないと気付いたのだ。あの男は、契約を守っている。
これまでの俺の経験や苦労などに見合ったものは、もう与えられているのだ。つまり、俺の経験、苦労は、この程度でしかなかったのだ。俺のしてきた努力は、人のそれに遠く及ばなかったのだ。だから、この今がある。あの男と話したことが夢であるか、現実であるかはわからない。だが、確かに与えられていたのだ。
俺はまた、酩酊するほど飲んだくれて、気を失うように眠りにつく。
できるなら、このまま目が覚めないことを願って――。